2019年04月 アーカイブ

マイチャンネルです。

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 これがYouTubeのマイチャネルです。紹介動画やデモ動画などを少しずつアップしていますが、ドローン映像やCGアニメなどもアップしていく予定ですし、アートやデザインに関する「テクニック動画」や「レクチャー動画」なども制作していきます。また、オリジナルの脚本をいろいろ構想しているので、短いショートストリーモノの映像作品などもつくります。まだまだ、いろいろ欲しい機材はあるんですが、なかなか次から次へと欲しい機材は買えません。でも、コツコツ溜めてきたソフトウエアもいろいろあります。何よりアドビCCはやはりメリットが大きい。ただ、3DCGやDTMとなると弱い部分がありますが、それは、SHADEやCUBASEで補完していますし、ナレーション音声なども都度ナレーターに発注していたら予算が足りなくなる現実もありますので、EDIUSのプラグイン「声職人」などを活用しながら、テキストデータを女性の音声データベースで変換し、ピッチやトーンを変えて制作しています。音声はとても大切なので、あとの整音作業はAUDITIONが活躍してくれます。また、VRコンテンツなどもデモをこのチャンネルにアップしていますが、PCで閲覧する場合はドラッグになりますが、タブレットやスマホで観ると360度動画になります。これの活用術はこれから探求していきますし、テクニックも上げていかねばなりません。結果、360度カメラで撮影した映像データはMP4になっているので、AEとPRで加工してサーバにアップロードするだけ。音声・BGMをCUBASEやガレージバンドで制作したり、鍵盤やエレキギターで入力すればどのようにでも編集可能になります。ま、現状、この環境で可能性を掘っていきたいと思っています。

ま、まだまだ、チャンネル登録をお願いするには程遠い情報量ですが、いずれは、良質な動画コンテンツをたくさんアップロードしてチャンネル登録1,000人を達成したいです。よろしくお願いいたします。

→こちらがYouTubeのチャンネル(https://www.youtube.com/user/actkhuz)です。

センスとテクニック。

 大阪芸術大学美術学部を卒業し東京でデザインに挑戦した。約30年前の話である。デザイナーとして一人前になることが目的だったので、まずは「テクニック」を習得しなければならないことが分かった。その頃はデザイン会社にパソコンはなかったのですべてアナログツールで仕事をする。やっと、レイアウトの基本やアイディアの出し方が分かってきた頃、デザインの技術を習得することが楽しくなった。しかし、どうも「センス」が分からない。デザインの素人がいくら「センスの良いデザイン」を見ても何がどういいのか分からない。東京にはセンスの塊のような人がいっぱいいて、その人の姿勢というか気質というか本質を盗んでやろうと試行錯誤したが、どうも「センス」はどうにもこうにも身体の内側に入ってこない。ただ、仕事を進める上で、必要な「営業力」や「コミュニケーション力」など「ディレクション」という業務は自分と相性が良く、たくさんの人に助けてもらった。この部分も非常に楽しかった。

 さて、このような経緯で先日、晴れて!?55歳になった僕はいまだに「センス」のことが分からない。こればかりはどうもとても根が深く、ちょっとやそっとじゃ良質にならないのだ。恐らく、このまま僕の「デザインのセンス」は三流以下を低空飛行し続けるだろう。ただ、楽しいことは徹底的に掘り下げるという代償を得た、というか、これにしがみ付くしか道が無かったのだ。良くも悪くも「センス」を放置・放棄してしまっているのだけれど、一旦、諦めてしまうと僕のセンスはどこかに逃げ去ってしまったような感覚で、どこを探しても顔を出してくれない。ま、「センス」なんて青い鳥のようなモノで、気まぐれにいつか気がついたら視界に入ってくる。そして、いつか僕の方にちょこんと乗って、まるでテトのように愛らしくしてくれるだろう、と、やはり、30年、青い鳥はやってこない。

 ではどうする?徹底的にと言ったが、こればかりはかなり常道を逸している「テクニック」への渇望が年々加速している。「テクニック=ツール」でもあると捉えている僕の手元には多くのツールが見事にコレクションできた。まるで、500色の色鉛筆である。しかし、そんな状況でも美術人の本質がここでもささやく(天使なのか?悪魔なのか?)、「弘法筆を選ばす」だろと。そう、ツールは入手して使えば誰でもある程度、使いこなせるが、一本の筆を巧みに操るテクニックこそが真骨頂なのだという逃げ道である。確かにそれはそれで真理なのだが、どうも「センス」に見放された僕はその捉え方を逃げ道として利用していることに最近気がついた。「テクニックさえあれば飯が食える」「テクニック>センスで何が悪い!」と究極の開き直りである。本当は「センス」のある人が羨ましくて羨ましくて仕方がないのだ。ああ、僕の「センス」はどこへ?

 昔、小学校から高校まで野球をしていた。思い返せばどうやらここが「センス」と決別(無視された!?)した時期だったようで、当然、野球のセンスが皆無だった。「野球のセンス」って脚力や肩力とは関係なく、練習では身につかないが僕の結論。センスのない人間はがいくらがむしゃらに「フィジカル面」を鍛えてもセンスがなければ、試合で結果が出せないのだ。ティーバッティングで練習台のボールはいくら強打できても、ピッチャーが投げるボールをいくら適打できても、試合でヒットは打てないのだ。それが野球である。結果、練習の鬼となり、足の故障で戦線を離脱した。だから、僕は「センス」が憎い。こんな経験を重ねてしまうと、根の深い部分でどこか捻れてしまい、素直に「センス」と向き合うことができなくなり55歳になってしまったのだ。

 一方で「テクニック」の話なら永遠に説明することができる。デザインの仕事には専門的なテクニックがいろいろあるのだけれど、市販されているデザイン関連のソフトウエアはほぼ100%使える。それもそのはず、30年間もそのゾーンだけを掘り下げてきたので当然である。同様にそのソフトを使いこなすためには連携して様々な特殊なソフトやプラグインが存在する。これらもほぼ、すべていつでも使える状態にセットアップできているし、ソフトさえ起動すれば、制作手順はすぐに分かり、マウスを握れば忘れていた機能も自然と思い出す。手が覚えているのだ。ツールも同様で周辺機器やカメラ機材などデジタルツールも筆などのアナログツールも仕事場にはあふれている。鉛筆一本あればどんな仕事でも手順が見えてくるし、白い紙に向かえば手がオートマチックに目的の成果を生み出せる。

 下の写真のようなスタジオも完成したことだし、そのあたりをユーチューバーになって紹介していこうと思っています。「センス」に見放された55歳のおっさんの類稀なる「テクニックコレクション」である。そんなライフスタイルではあったが、ひとつだけ嬉しいことがある。そう、この偏った本質が娘に遺伝しなかったことだ。良質な「センスとテクニック」をバランスよく使いこなして仕事をしているようなので、ひと安心である。

アクトスタジオ完成!

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 なんとかアクトのスタジオが完成しました。まだまだ、欲しい機材(カメラやマイクやライトなど)やソフトはいっぱいあるのですが、年頭からマイクやライトのテスト映像を撮影を繰り返してようやく80点の仕上がりです。ここで何を撮影して発信するのかについては構想プランがあり過ぎて、只今、整理中です。とにかく数本のTV番組をここで撮影するので、シナリオ台本を制作しています。あとはロケ映像を組み合わせて編集作業と整音作業。この作業の中心になるのがAFTER EFFECTSとPREMIEREとAUDITIONの3本になるわけですが、こちらのテクニックについては誰も教えてくれないので、インターネットとYouTubeを徹底的にリサーチして試作を繰り返しています。同時に只今、ACTのWEBサイトもリニューアルをしていますし、別企画で「タマテバコ」というWEBサイトにカートプログラムを実装し、クレジット決済も連動させます。必然的に「古物商免許」「酒造販売免許」「ISBN/JANコード」の取得を進めているわけです。この制作環境で何がつくれるかはまだ構想段階ですが、ひとつひとつ丁寧に実現させていこうと思っています。ECサイトが稼動し始めたら、商品開発のステージに上がりたいと思っていますし、何かレクチャー企画などもコンテンツとして制作していきます。新しい挑戦は失敗の連続ですが、少しずつカタチにしていくのはとても楽しい作業です。

便利だけれど、お手軽だけれど。

 インターネットは「群れる」「つるむ」という目的で日々の不安を打ち消すにはとても便利な道具なんです。「群れる相手」「つるむ相手」の数が増えるほど、「自分にそれだけ価値がある」となんとなく根拠なき自信を持てるようになる。それを「共感」「信頼」「絆」と呼ぶこともできるし、確かにインターネットをきっかけに確信を持てる出会いの機会は増えたように感じる。それは、どこか「政治」の仕組みと似ている。選挙に行く。投票をした方が当選する。投票用紙に名前を書いただけなのにその方が自分の願いを代弁してくれているような錯覚に陥る。そして、不適切な言動や行動を起こしゴシップになると、根拠なく「裏切られた」と誤解する。そもそもが誤解から始まっている関係なのに、結果、「誤解」としてではなく、「裏切られた」と認識してしまうシクミ。

 確かにインターネットで世界は小さくなったように感じる。会ったこともないNewYorkの人とチャットしていればそんな感覚も生まれるだろう。でも、これも誤解である。物理的に世界が小さくなるはずがない。インターネットが個人の想像力に作用してそう感じさせているに過ぎないのだ。しかし、例えそうであったとしても現実的にノーリスクだから、たったそれだけで不安が消えたり、心地よい気持ちになれるんだったら「アリじゃん!」となる。これがインターネットの中に存在する「楽しさ」の本性なのだ。確かにSNSはドキドキするし、次々に更新されていく様々な情報をモニターやSPで観ていれば、この世界は自分中心に動いているような錯覚に陥る。そして、その感覚が何よりも心地よく、時間を忘れることができる。

 でも、ふと、「大切な時間を忘れてはいけない!」「もっと他に大切なことがあるんじゃない?」「ほんとに僕は皆さんと共感しているのか?」という不安が生まれる。この不安、相手がインターネットだけに今までように簡単に消えてくれない。むしろ、観ない、使っていない時間がストレスになって禁断症状が出てしまう。あれ?これはやはり中毒なのか?とドキリ。

 便利だけれど、お手軽だけれど、インターネットはただの道具なんだから、主体的に「使う人」「活用する人」「応用する人」になろうと気持ちを切り替えた。僕がデザインの仕事を始めた頃はインターネットもパソコンも無かった時代だったから、その時と比較して仕事の進め方や発想手順を整理したりしながら。もう、「インターネットなし」「パソコンなし」ではデザインの仕事は成立しない時代になってしまった以上、放棄することはできないが、そこは試行錯誤しながら「55歳のおっさん」らしい使い方を見つけたいと思っています。

アウトプット

 僕の仕事は「デザイン」なので、お客様の意図や狙いをアウトプットすることが目的です。「アウトプット」が苦手、何かしらの理由で難しい、メンドクサイと考えている人の代わりに「アウトプット」を代行することです。

 「アウトプット」が苦手な人にはいろいろな特長があり、「アウトプットが習慣化されていない」「考えすぎてしまう」「他人の考えを吸収できない」「他人の目を気にしすぎる」「インプットしていない」などが上げられるのですが、実は僕も同じ悩みがあります。つまり、長年、デザインの仕事に取り組んできたが、未だにこの苦手意識があるのです。しかし、それでは仕事が成立しませんし、成果を生み出すことはできませんから、なんとかしてこの苦手意識を克服し、曖昧で優柔不断なつくり手としての自分をコントロールしなければなりません。

 結局、「アウトプット不良」の正体とは「感情」なのです。日々変化する状況に感覚が翻弄されて、ひとつの場所に思考が固定できない、定まらないのです。これを解決して上手く作り手である自分に方向づけをして前進させなければなりません。まるでそれは乗馬の騎手と馬のような関係なのです。馬がイライラしていたら宥めて、機嫌を損なわぬように進みたい方向に誘うテクニックが必要なのです。

 そのテクニックとしていろいろ試行錯誤して挑戦を繰り返しています。それは「アウトプットする前提でインプットする」「自分の思考を紙に書き出す」「誰かとブレインストーミングする」「アウトプットを習慣化する」などです。つまり、まずは考えずに手を動かせ!ということ。ああだのこうだのとゴニョゴニョ考えてしまう自分自身を上手く前進させるための工夫が「アウトプット」なのです。と同時にデザインの仕事自体が「アウトプット」なので、一石二鳥というわけです。別に自分のことを仕事熱心でまじめな働き者だとは思っていませんが、「仕事している状態」が実は自分にとって良い状態なんです。これを「天職」と呼ぶのかもしれませんが、もし、「デザインの仕事」をしていなかったら、今でもゴニョゴニョと考え続け迷い続け自分を見失い、停滞、もしくは、後退し続けていたことでしょう。

 このブログもそういう捉え方で「アウトプット」のひとつなので、必然性と幸福が表裏一体となれる習慣のひとつでもあるのです。

望むモノ。

 ことごとく「望むモノ」は手に入らない。

 その理由はいくつか思い当たるものの、どのように考えても納得いかない。具体的にはあり過ぎて整理できず、いつしかそれが悪い思考パターンとなり習慣化してしまう。例えば、足が速くなりたいと望み続けた子どもの頃、誰よりも早くなるためには練習しかなかった。素質の有無に関係なく努力すれば、練習すれば今よりも早くなるだろうという期待だ。小学校や中学校レベルならたまに1番になったりすることもあったが、ずっと1番でいることはできなかった。だから、練習をする。練習が終わってフラフラになって更衣室で倒れることもあったし、両足が痙攣してまともに歩けないこともあった。それでも練習するために針治療やマッサージを繰り返し練習した。その結果、ココイチの大会で足が痙攣しリタイア。つまり、望むモノは手に入らなかった。

 また、毛筆の公募展。小学生高学年から毛筆の塾に通っていたから子どもなりに筆の使い方は長けていた。県の公募展の作品課題を半紙に書く。結果は知事賞だった。教師や友人からはいろいろな好評価や激励の言葉を頂いた。しかし、僕の中には違和感があった。この作品はそんな評価を頂けるような作品ではない。自分で書いたからそれはよく分かっている。改めて自分の作品を見れば一目瞭然である。知事賞など頂くような作品ではない。あそこもここも納得いかない痕跡だらけの作品だったから。結果、他人の評価と自己評価はこれほどに違うのだということを実感し、それ以来、毛筆に興味がなくなった。僕の感覚ではお手本を穴が開くほど見て、それを自分なりのアレンジを加え、完璧に複製しただけだったからだ。書の心などあろうはずがない。

 そして、仕事を始めると新しい好奇心が生まれる。当然、目標が生まれ望むモノが矢継ぎ早に次から次へと目の前に現れた。視野が広くなり当然のように欲望も肥大していく。しかし、やはり、「望むモノ」は手に入らない。手が届いたモノと言えば自らが望んだモノではなく、視野・視界の外からふとした瞬間に、こちらが望んでいないタイミングで向こうからやってきたモノばかり。しかし、それらを確実に獲得するためには自分自身のコンディションが整っている、受け取る準備ができている必要があることを知り、「望むモノ」とは自ら追いかけても逃げていく、むしろ、コンディションづくりさえしっかり整えて、受け取る姿勢や準備を整えることが重要なのだとその経験から学習する。デザインの仕事は正にその連続で、準備を怠ると取り逃がしてしまうのだ。それから徹底的に準備運動を整える、装備をツールを来るべきそのタイミングのために整えることが仕事の核となる。その代償として「望むモノ」が希薄になっていった。短距離走の経験で素質以上の目標を立てると身体が壊れる。例え高い評価を得ても自己分析とは一致しないという経験が悪循環を生んだのだ。

 そして、いつしか「望むモノ」を額に入れて鑑賞することが楽しくなってしまった。正に「絵に描いた餅」である。それは食べることができない。ただ、諦めの悪い捻れたこの頑固者は「望む」ことをやめない。最近、ある方から「あなたの夢はなんですか?」という質問を頂いた。これは凄まじい衝撃だった。3秒ほど言葉に詰まったが、適当にお茶を濁すことはやめて「本」と「映画」と「漫画」をつくることですと返答した。素直な気持ちの内側を言葉にすることができてとても心地良かった。改めて、僕が「望むモノ」はこの三つなんだと再認識した瞬間だった。

確信はあるのか?

 人にお願い事をする際、中途半端な気持ちでは相手を納得させることはできない。いかに強い決意と覚悟があるのか?相手に対してその提案は有益なのか?このタイミングがベストなのか?いろいろな迷いを抱えたままお願いをしても決して納得はしてはいただけない。曖昧で軽率なお願いではないのだと、たくさん言い訳を用意しても、結果、確信がなければ言葉は相手の心から逸れていく。当然、その場面で相手に生まれるのは不安や警戒心であり、信頼を勝ち取ることは絶対にできない。いくら誠意・誠実を言葉にしても無駄である。まして勢いでなどとは言語道断。

 では、確信はどうして生まれるのだろう?まず、自分の中でモノゴトがしっかりと整理できている状態をつくり、腑に落ちていなければならない。さらに、相手のことを理解しようと可能な限り徹底的に相手を知ろうとする姿勢が必要だ。この部分を疎かにして自分本位の言葉や理屈を並べても相手の心には響かない。そして、それ以上に重要なことは社会的通念や常識と照合・比較した場合、その思考は適正なのかという社会的な公平性の問題である。公明正大に揺るがない軸を自分の中に実装しておく必要がある。

 例えば、自分本位に生きてきた中で探求し蓄積した知見や知識がいくら豊富でも、それが相手に対して有益でなければ信頼関係は築けない。どれだけ「一生懸命さ」を言葉で重ねても、むしろ、そんな不用意な言葉を重ねれば重ねるほど綻びは大きくなる。つまり、相手との関係性の中でスタートラインが捻れていたのだ。僕の場合、それはいつも小さな嘘から始まる。悪意から生まれた嘘では決してないのだが、自分本位でつい口からこぼれてしまった嘘だ。それが基軸で始まった流れをなんとかして適正にしようとしても、時間の経過と捻れは比例し嘘の上に嘘を上塗りしてしまうのだ。それに気づき修復しようとしても遅い。何故、嘘がこぼれるのか?それは確信がないからである。時間の経過と共に忘却に焼失してほしいと願うが焦るばかりで、そんな嘘に限って決して灰になることはなく、いつまでも頑強に心の中に残り、悪腫瘍のように肥大していくのだ。例え善意からこぼれてしまった嘘であれ、嘘は嘘なんだ。小手先で関係性を修復しようとしても徒労に終わり、いつまでも癒えない傷として残ってしまう。言葉にするということはそれほどに緊張感と覚悟が必要なんだと後悔することが多い。結果、年齢を重ねていくと、大意のない嘘の後始末ばかりしているような状況になり、新しい変化をしようにも枷だらけ、がんじがらめで身動きがとれない状況を自分自身でつくっている葛藤に陥る。どこかで抜本的な変化を引き寄せるしかない。長年蓄積した膿や身体に沁みこんだ悪しき癖が習慣化してしまっているのだ。やはり、しっかり丁寧に自分の中にある確信を確認しなれば生産的で創造的な思考など生まれない。

 この「令和元年」は絶対にそういう一年にしなければならない。

令和元年。

 「令和」を英語で説明する際は「Beautiful Harmony=美しい調和」という趣旨らしい。「平成」から「令和」に年号が変わることで日本人ひとり一人の心の中にある「平和」や「調和」の意識が再確認されて、世界との調律が様々なシーンで成立することを期待したい。海外の投資家達が「美意識」とビジネスの関係を掘り下げようとしている。古典に記された古人の「美意識」が日本という存在を本来のあるべき美しい姿に変化させること期待したい。