確信はあるのか?

 人にお願い事をする際、中途半端な気持ちでは相手を納得させることはできない。いかに強い決意と覚悟があるのか?相手に対してその提案は有益なのか?このタイミングがベストなのか?いろいろな迷いを抱えたままお願いをしても決して納得はしてはいただけない。曖昧で軽率なお願いではないのだと、たくさん言い訳を用意しても、結果、確信がなければ言葉は相手の心から逸れていく。当然、その場面で相手に生まれるのは不安や警戒心であり、信頼を勝ち取ることは絶対にできない。いくら誠意・誠実を言葉にしても無駄である。まして勢いでなどとは言語道断。

 では、確信はどうして生まれるのだろう?まず、自分の中でモノゴトがしっかりと整理できている状態をつくり、腑に落ちていなければならない。さらに、相手のことを理解しようと可能な限り徹底的に相手を知ろうとする姿勢が必要だ。この部分を疎かにして自分本位の言葉や理屈を並べても相手の心には響かない。そして、それ以上に重要なことは社会的通念や常識と照合・比較した場合、その思考は適正なのかという社会的な公平性の問題である。公明正大に揺るがない軸を自分の中に実装しておく必要がある。

 例えば、自分本位に生きてきた中で探求し蓄積した知見や知識がいくら豊富でも、それが相手に対して有益でなければ信頼関係は築けない。どれだけ「一生懸命さ」を言葉で重ねても、むしろ、そんな不用意な言葉を重ねれば重ねるほど綻びは大きくなる。つまり、相手との関係性の中でスタートラインが捻れていたのだ。僕の場合、それはいつも小さな嘘から始まる。悪意から生まれた嘘では決してないのだが、自分本位でつい口からこぼれてしまった嘘だ。それが基軸で始まった流れをなんとかして適正にしようとしても、時間の経過と捻れは比例し嘘の上に嘘を上塗りしてしまうのだ。それに気づき修復しようとしても遅い。何故、嘘がこぼれるのか?それは確信がないからである。時間の経過と共に忘却に焼失してほしいと願うが焦るばかりで、そんな嘘に限って決して灰になることはなく、いつまでも頑強に心の中に残り、悪腫瘍のように肥大していくのだ。例え善意からこぼれてしまった嘘であれ、嘘は嘘なんだ。小手先で関係性を修復しようとしても徒労に終わり、いつまでも癒えない傷として残ってしまう。言葉にするということはそれほどに緊張感と覚悟が必要なんだと後悔することが多い。結果、年齢を重ねていくと、大意のない嘘の後始末ばかりしているような状況になり、新しい変化をしようにも枷だらけ、がんじがらめで身動きがとれない状況を自分自身でつくっている葛藤に陥る。どこかで抜本的な変化を引き寄せるしかない。長年蓄積した膿や身体に沁みこんだ悪しき癖が習慣化してしまっているのだ。やはり、しっかり丁寧に自分の中にある確信を確認しなれば生産的で創造的な思考など生まれない。

 この「令和元年」は絶対にそういう一年にしなければならない。