望むモノ。

 ことごとく「望むモノ」は手に入らない。

 その理由はいくつか思い当たるものの、どのように考えても納得いかない。具体的にはあり過ぎて整理できず、いつしかそれが悪い思考パターンとなり習慣化してしまう。例えば、足が速くなりたいと望み続けた子どもの頃、誰よりも早くなるためには練習しかなかった。素質の有無に関係なく努力すれば、練習すれば今よりも早くなるだろうという期待だ。小学校や中学校レベルならたまに1番になったりすることもあったが、ずっと1番でいることはできなかった。だから、練習をする。練習が終わってフラフラになって更衣室で倒れることもあったし、両足が痙攣してまともに歩けないこともあった。それでも練習するために針治療やマッサージを繰り返し練習した。その結果、ココイチの大会で足が痙攣しリタイア。つまり、望むモノは手に入らなかった。

 また、毛筆の公募展。小学生高学年から毛筆の塾に通っていたから子どもなりに筆の使い方は長けていた。県の公募展の作品課題を半紙に書く。結果は知事賞だった。教師や友人からはいろいろな好評価や激励の言葉を頂いた。しかし、僕の中には違和感があった。この作品はそんな評価を頂けるような作品ではない。自分で書いたからそれはよく分かっている。改めて自分の作品を見れば一目瞭然である。知事賞など頂くような作品ではない。あそこもここも納得いかない痕跡だらけの作品だったから。結果、他人の評価と自己評価はこれほどに違うのだということを実感し、それ以来、毛筆に興味がなくなった。僕の感覚ではお手本を穴が開くほど見て、それを自分なりのアレンジを加え、完璧に複製しただけだったからだ。書の心などあろうはずがない。

 そして、仕事を始めると新しい好奇心が生まれる。当然、目標が生まれ望むモノが矢継ぎ早に次から次へと目の前に現れた。視野が広くなり当然のように欲望も肥大していく。しかし、やはり、「望むモノ」は手に入らない。手が届いたモノと言えば自らが望んだモノではなく、視野・視界の外からふとした瞬間に、こちらが望んでいないタイミングで向こうからやってきたモノばかり。しかし、それらを確実に獲得するためには自分自身のコンディションが整っている、受け取る準備ができている必要があることを知り、「望むモノ」とは自ら追いかけても逃げていく、むしろ、コンディションづくりさえしっかり整えて、受け取る姿勢や準備を整えることが重要なのだとその経験から学習する。デザインの仕事は正にその連続で、準備を怠ると取り逃がしてしまうのだ。それから徹底的に準備運動を整える、装備をツールを来るべきそのタイミングのために整えることが仕事の核となる。その代償として「望むモノ」が希薄になっていった。短距離走の経験で素質以上の目標を立てると身体が壊れる。例え高い評価を得ても自己分析とは一致しないという経験が悪循環を生んだのだ。

 そして、いつしか「望むモノ」を額に入れて鑑賞することが楽しくなってしまった。正に「絵に描いた餅」である。それは食べることができない。ただ、諦めの悪い捻れたこの頑固者は「望む」ことをやめない。最近、ある方から「あなたの夢はなんですか?」という質問を頂いた。これは凄まじい衝撃だった。3秒ほど言葉に詰まったが、適当にお茶を濁すことはやめて「本」と「映画」と「漫画」をつくることですと返答した。素直な気持ちの内側を言葉にすることができてとても心地良かった。改めて、僕が「望むモノ」はこの三つなんだと再認識した瞬間だった。