ピンタレスト。

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 この画像は「ピンタレスト」というサイトで発見したイラスト画像。結構、本格的で良質な画像が揃っているので、アカウントをつくり、たまに閲覧しています。

 インターネットページにコンテンツを掲載する場合、「視覚」と「聴覚」のみで勝負しなければなりません。例えばデザイナーがココイチのロゴマークを制作してSNSで発信しても、そのロゴマークの品質を評価する基準がクライアントであったり、その分野ゾーンだけに絞り込まれ、一般ユーザーにしてみれば、「で?」となる確率が高い。一方、一般ユーザーを意識し過ぎて「風景」や「料理」を掲載しても、心を引き寄せる「引力」が強いのかとなれば疑問です。このゾーン設定やユーザーを意識して何か画像なり音源を発信するのであれば、そういう観点で、意味でコンテンツが「良質」である必要があります。このゾーンが一番難しいのですが、結果、そのゾーンはつくり手が備えているセンスやテクニック、また、情報の鮮度の高さや数奇なタイミングなどで良質さを上げることができます。「平凡」から「非凡」への変換は結果、つくり手のポテンシャルに深く関連しているというシクミです。

 では、その割合を考えてみると、中学・高校で絵が上手かった奴が必ず一人か二人いたはずです。また、理由はよく分からないが人気者で目立つ存在の奴がいたはず。その存在の割合いは恐らくそのままこの社会構造にも当てはまり、当然、その割合は世界にも当てはまる。仮に1学年が300人だったとして絵が上手い奴が一人か二人、人気者が一人という割合がずっと維持されているはずなんです。多少のムラはあるでしょうが。その割合を意識すると、世の中の「非凡」なタイプの割合もだいたい想定できます。

 また、これは僕がよく感じることなのですが、「非凡」は「より非凡」に引かれ、「平凡」は「より平凡」に引き寄せれられる傾向が強く、仮に「非凡」を「こちら側」として、「平凡」を「あちら側」としてみると、見事に互いの溝(谷)は年齢を重ねる毎に深くなるのです。僕はずっと絵を描いてきた人間なのですが、自分ではこの「非凡」「平凡」が適正に分析できませんし、自己評価も曖昧です。それは絵の世界での公募展や数多のアワードに作品を出していないから。出したところで「平凡」な評価になるからと諦めているの節もありますが、本質的に絵を描く人って公募展のために絵を描いたり、グランプリ目的で絵は描いていない。それはあくまでも結果だから、気にせず出せばいいだけだと助言をよくいただくのですが、その「だけ」さえ納得できないのです。この余計な自意識を抑制してもっと素直に作品を描くことができたら評価を得る機会やチャンスも増えるのでしょうが、そこへは踏み込めないのです。この意固地で頑固な性質をセルフコントロールして作品をつくり、仮に高い評価を得たところでそれは本意ではないような気がするのです。悩ましさと潔さを共存させなければならないという大きな課題なのです。

 まだ、見えていないが、恐らくどこかに僕の「騎士団長」がいるのかもしれません。