良質なアイディア。

 「絵に描いたモチは食えない」。これはよく企画会議で僕自身が言われ続けてきた言葉です。

 「そんなアイディアは実現性が低いからやめよう」
 「言いたいことはわかるが誰も共感を得られない」
 「一旦、そのアイディアは保留してもっと現実的な…」などなど。

 いくら自分が良いアイディアだと感じていても共感を得られなければ意味や価値がないということだ。確かに逆の立場なら同じことを言っていただろう。アイディアを出す立場になるとそれが見えなくなり客観的に大局的にモノゴトを見極める・絞り込む能力がスルーされるのだ。「良質なアイディア」とは実現性と比例するのだ。

 しかし、本当にそうなのだろうか?そんな理論理屈や道理や通念・常識で支離滅裂で破天荒なひらめきを忘れてもいいのだろうか?突拍子もないことでも形にして実在させることができれば、机の上やモニターや紙面を見ながら固定観念と先入観をまるで錬金術のように振り回している人達にヒトタチ浴びせることはできるんじゃないだろうか。

 そう、アイディアは実現させれることができれば見え方が変化するんだ。言葉と感覚で堂々巡りを繰り返しているうちに「セオリー」「定石」「古典」「基本マニュアル」が作用して、良質なアイディアを排除していることもあるんじゃないだろうか。これらにドップリ依存している人達に共通していること。それは「知識と技能と感覚」を習得していない。一時が万事「つくれないからつくらない」という結論の上にあぐらをかいているように見える。

 一方、つくり手は日々、新しい知識、新しい技能、新しい感覚をもとめて試行錯誤しているのに、その苦労を知らず、平気で「やめましょう!」と断言してしまう。確かに実現性が極端に低いクリエティブだとしても、実現させることができれば、ひとりやふたり共感を持ってもらえる人が見つかるかもしれない。数多の偉業はひとりのつくり手が生み出したモノがたった一人の共感を生み、それが万人にインフルエンスして金字塔を築いたのだから。それを、つくらない人がどうのこうのと言うのは伸び代を見切り蓋をするようなことでもあるんじゃないだろうか。つくり手は失敗を恐れてはいない。だが、そういう人達は極端に過敏に失敗を恐れる。これは議論・協議の余地のないゾーンだから仕方ない。ポテンシャルの問題だからこちらもそちら側へ歩み寄るつもりはない。ならば、別の共感者を探せばいいだけだから。

 ただ、知識と技能と感覚を探求していない人の言葉に共感する価値は少ない。世の中の不特定多数の人の中に「良質なアイディア」を発見した時、僕は全力でそのアイディアを実現させてあげたいと感じるだろう。その時、自分の中の「知識と技能と感覚」が良質であるようにコンディションを徹底的に365日整えるだけ。つくり手にできることは、ただ、これだけだと思っています。