2019年10月 アーカイブ

読書のメリット

 読書の特徴は能動的に著者の意図を読み解く経験と訓練を手軽に積むことができる利点だと思います。人と対面する状況やテレビやインターネットなどのメディアと比較し、自分で「読もう」としなければ情報や知識は入ってきません。その上で、文章の背景を推測する視点を持つことによって書籍の内容と著者の意図を推測しながら、自分の解釈と想像力で抽象化させつつ理解・反芻を繰り返すためのツールであると思うのです。なんか、文字ずらにするとややこしい言い方になってしまいましたが、気軽に整理された情報を知ることができる便利な成果物だということです。僕にとって「作曲」の世界は未知の世界で、踏み込みたくとも踏み込めない、踏み込む入口が分からないと、ただ、楽曲を聴くことを楽しんできました。エレキベースやエレキギターを習得して演奏することはそこそこ楽しんできましたが、「作曲」となれば巨大で分厚い壁がそそり立ち、いくら興味があろうとも好奇心を奮い立たせても、その壁の向こうには行けないのだろうと思い込んでいました。ま、それも勝手な思い込みであり、正確にはそれほど自分で習得して独自の楽曲をつくろうという必要性がなかったのです。やろうと思えばいつだったできたことなのに。だからと言って今からこの年齢(55歳)でトライアスロンに挑戦しようとか、役者にタレントになろうなどとは考えない。つまり、どこかで自分に都合の良い壁をつくり言い訳をしてジャッジをしていたわけです。その壁を打破してくださったのが「作りながら覚える3日で作曲入門」の著者「monaca:factoryさん」です。ありがとうございます。

 さて、まだ本格的な「作曲」についての記事は整理できておりませんが、この「作曲への道」というブログのカテゴリーテーマでしばらく記事を書いていこうと思っています。と、断言しながら、今後、作曲の記事が書かれていなければ増えていかなければ、そういうことだと思ってください。ただ、今回の作曲への挑戦は目的が明確で強い必要性を感じていますし、何よりも入口が見えたので、しっかりと掘り下げていこうと思っています。「絵を描く」と「曲をつくる」という行動(行為)はとても似ていると誰かのブログで読みました。まだ、その実感はありませんが、いずれ「絵を描く」ように「自分の曲」がつくれたらこれまで観てきた聴いてきた世界が少しだけ変化するのではないだろうかと期待しています。

 まずは、「C」「F」「G」「Am」「Dm」「Em」をレスポールと鍵盤で鳴らしてコード(和音)の展開を実感していこうと思っています。当然、「C」KEYのスケールをつなげ自分の感覚でメロディーをつくるところから始めてみようと思っています。

人気のYouTuberさん達は

 最近、人気のユーチューバーさん達がテレビに登場する機会が多い。そんな皆様とすでにテレビで登場している人気の著名人・有名人とは何が違うのだろうと考えてみた。これらのユーチューバの皆様は独自のYTチャンネルをつくり、自分で企画を構想して映像を撮影し編集し公開したからテレビに登場するような人気が生まれた。もし、こうしたいああしたいと考えているだけじゃ独自のユーチューブチャンネルも生まれず、ビジネスとしても成立せず、広く多くの認知も生まれなかった。しかし、それはテレビの世界でも同じで、現在、有名になってタレントとか俳優とかアナウンサーとして最前線の仕事をしている人達も「たまたま」「偶然」ではないのだ。そうなるに値する何か「知識」「技能」「経験値」があったのだ。ということは、例えば小学生の将来の夢が、将来なりたい仕事が「ユーチューバー」だったとしても、野球選手や飛行機のパイロットや女優や大企業の社長だったとしても、アプローチは同じことになる。そもそも、「知識」「技能」「経験値」などの特別なポテンシャルがあり、誠実に確実に努力を重ねた人に、何かしらの「幸運」が連鎖し、好機が巡り本人がそれをモノにした結果のひとつが「人気」という「成果」なのだ。ただ、この皆様は何かを始めた頃から「人気」が欲しかったわけではなく、それはあくまでも結果なのだ。そんな皆様がそうでない皆様(自分も含む)と何が違うのだろうか?諦めず努力さえすれば「そんな皆様」と「そうでない皆様」の間の境界腺を越えられるのだろうか?努力が足りない、幸運が足りない、ポテンシャルが足りないなどと、自己弁護している暇があれば、きっと、たぶん、何かをつくるらねばならないのだ。

 ただ、この「ねばらならい」という意識も厄介で、「ねばらならい」でつくったモノに世の中の不特定多数の方が反応はしてくれない。見事に反応してくれはしない。心の底からこみ上げてくる衝動のようなエネルギーに正対し素直に純粋に何かを生み出してこそ、なのだろう。うん、邪念からは何も生まれないのだ。毎日、いろいろなYouTuberさん達のチャンネルを観ながら、そんなことを感じています。勿論、テレビで活躍している皆様も基本姿勢は同じなんだろうけれどYouTuberさん達は独特独自の世界観を感じます。一方、テレビの映像にはどこか「仕込み感」を感じてしまいます。恐らく、それは微妙な違いであり、とても小さな違いなんだろうけれど、実は、とても重要な根本的な違いなのではないだろうかと。

プロとアマ(素人)。

 最近テレビを観て感じることがある。それはプロのタレントや俳優やアナウンサーのコメントよりも、一般人のコメントにリアリティーがあるように感じることだ。ただ双方を比較してそう感じるだけであって、良質なプロの仕事をしている人達は特定の目的を達成することにはとても長けているので、リアリティーというよりも上質・良質に情報を加工しているという印象だ。

 言葉のチョイスや表情のつくり方、テンポや情報伝達手法の組み立て方、その構成力が秀逸なのだ。これはコンテンツの完成度の問題でありテクニックの問題だから、そうなってあたりまえの世界。つまり、そう計画して設計した結果を披露しているだけなので、情報が変化したり鈍化するこはない。アナウンサーやタレントが理解した通りに限られた時間の中でプロの仕事をしているだけなのだ。と、このような少し醒めた観方をしてしまうと、「プロっぽい」という利点が効率や形の整然さだけに気持ちを奪われて、本来のリアリティーを感覚で感じることをどこかに放置してしまいがちになってしまう。「確かに楽しませてもらっているが、本当に心から楽しんでいるのか?僕は?」という疑念である。

 インターネットやSNSがメディア化する以前、四大メディアで情報を発信する人はすべてプロ達で然るべきフォーマットとテクニックで情報を整理し発信していた。受け手もそれが当然、それ以外に選択肢はなかったので100%信じて受け入れていた。しかし、YouTubeなどの映像メディアが世の中に浸透し氾濫することで情報のディテールを根底から変えてしまったのだ。そして、受け手の意識の中には「プロでなくともリアリティーがある魅力的な人」をインターネットの中で発見してしまい、共感してしまった以上、もう、やむをえずプロの仕事と比較できる状況が生まれたのだ。

 例えば、専門的な知識がある人が独自の技術や経験値を映像や文章で丁寧に紹介しているブログがある。姿勢も意識も高く、魅力的でとても理解しやすい言葉を使う。その上でそのブログに記載されている公開されている情報が有益であると個人的に評価できれば、何もテレビに同じ情報を求めなくなる。テレビは公共のツールであることや、必ず資金を提供しているスポンサー企業があるので、いろいろな制約が多い(想定以上に多い)。実際、それが番組映像やその構成にどの程度作用しているかは一般的なテレビユーザーは分別できない。何故ならそれを確かめる術(経験値)がないからだ。しかも、テレビ番組やCMをつくっている人はその意識を充分に想定して、情報の角を上手く取ることに長けている。突っ込みどころや違和感がないように情報を整理・精査して、本来、伝えたい狙いや意図のみに上手く情報を加工アレンジしているのだ。言ってしまえば、「可もなく不可もない一見美しい情報」「どうとでも解釈できる中庸な文章表現」を然るべき著名人効果と高い映像技術で仕上げられた情報なだけなのだ。これが間違っているとか歪んでいるという捉え方ではなく、リアリティーがあるかないかの是非である。つくり手の純粋な想いや成果物に対するディテールは、制約上、「無駄なモノ」と排除される傾向があるのだ。だから、「アタリ」は一見、スマートでソフトなのだが、実態が軽い(個人的につまらない)。もしくは取り繕われた結果、顕在化された「情報らしきモノ」がモニターから流れているだけになってしまう。

 一方、YouTuberにはテレビと比較していろいろな制約が少ない分、リアリティーが実装できるのだ。この違いを実感している人達が今後、増加していくとしたら、マスメディアの方法論はいつか「蚊帳の外」になってしまうだろう。その時、プロとアマ(素人)の相違点(境界腺)は消え、リアリティーを情報として発信できる知識と技術と姿勢を持った人のみが、本当の認知と共感と信頼を獲得するようになるのだろうと思います。

なんか素敵です。

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 左からレベッカ・ファーガソンさん、アナ・デ・アルマスさん、アン・ハサウェイさん。なんか皆さん素敵ですね。映画ってほんとに良いです。

マンガの楽しみ方。

 「マンガをもっと楽しもう!」という主旨の記事をよくチェックする。いやいや、「マンガを楽しもう!」って、お前、どの立場なんだ?という解釈もあるし、マラソン選手に向かって「頑張れ!」みたいな言葉は応援としては成立しているが、沿道で立っている人よりもすでにマラソン選手はMAX頑張っている。自分より頑張っている人に対して「頑張れ!」は違和感がある。じゃあ、応援はしないほうがいいのか?いや、そうではない、必死の形相でフィールドに立ってMAXのプレイをしているプレイヤーを観ているだけで、たくさんのエネルギーを貰えるし、そんな姿勢を見て高揚し鼓舞されてしまっているのだから、何かその気持ちを言葉にしたい。正確には「ありがとう!」なんだけれど、それも状況的におかしい。だから、僕はただエールを送る姿勢で手を叩いたり、こぶしを高く突き上げて「ありがとう!」という気持ちと熱いまなざしで無言で見守っていることが多い。

 同様に「マンガ」も楽しんでいるだけの立場の人間がとりたてて「楽しみ方」など言葉に文章にする必要はない。楽しんでいるのならただただ楽しめばいい。「楽しみ方」を言葉にしているということは実は別の意味があり、姿勢の中に「楽しみ方」を啓蒙しながら、自分の意図を連動させようとする姿勢が感じられる。結局、自社のイベントの紹介に連動させていたり、「楽しみ方」を呼び水にして本題は別みたいなことがとても残念だ。

 大阪芸大の頃、社会心理学という講義を受け、期末に論文提出がの機会あった。僕は「漫画表現技術について」という主旨のタイトルで原稿用紙100枚ほどまとめて提出した。同じ講義を受けていた友達は「論文を書く」という意識が強く構え過ぎて、資料を集めに疲労し結果、結論が曖昧になってしまうなどと悩んでいた。が、僕は論文を書くために資料を集めるという手順は踏まず(いや、そんな基本的な手順を知らず)、ただ、「漫画表現技術について」自分の中にある知識や感情や解釈をまとめて提出した。ま、努力賞として「優」はいただいたが、その論文を書きながら、「僕にとって漫画は特別な存在なんだ」と強く実感した。締め切りがなければ、200枚でも300枚でも描き続けることができたからだ。今、振り返って思うと、「僕の楽しみ方」というアプローチではなく、単に漫画の紙面構成や描画テクニックやコマ割りを自分なりに整理して淡々と書き出していただけだった。恐らく拙い駄文だったのだうが、採点してくださった教授に「ああ、こいつは漫画が好きなんだ」という姿勢だけは伝わったと思っている。

 つまり、漫画でも映画でも小説でも「楽しみ方」は十人十色、千差万別でいい。ただ、どんな世界でも同じだが、それを「つくる人」になった瞬間、状況が一変する。観客席で気楽な野次を飛ばしている立場から離れ、フィールドに立った瞬間に感じる「恐怖とプレッシャー」である。フィールドに立つという感覚は限られた人にだけ与えられる機会で、普通は観客席で観ているのが一番楽しい。高校野球時代、初めて代打で試合に出させていただき、そこそこ数の観客の応援する状況で僕はボテボテのショートゴロを打った。僕はがむしゃらにファーストベースにヘッドスライディング。ショートは恐らくジャッグルしたのだろう、送球が送れ僕はセーフ。どろどろのユニフォームをベースの上ではたきながら、ふと観客席を見ると応援している人の楽しそうな笑顔がいっぱい見えた。

 だから、どんな漫画を見ても読んでも、僕は描いている方、つくっている方の顔が浮かんでくる(ほぼ顔は知らないので想像するだけ)。ここがなんとも無償に楽しい。

ドミナント。

 さて、「ドミナント戦略」というテーマのメルマガが届いた。「ドミナント」!この言葉を知ったのは最近で、「作りながら覚える 3日で作曲入門」という本に何回も登場してきていた言葉で、もう10回以上読んでいるので頭に刻印されていたようだ。そのメルマガはある経営コンサルタントからのメルマガで「ドミナント戦略」についての記事なのだが、その内容よりも「ドミナント」という言葉にのみ反応してしまった。

 ウィキペディアでリサーチすると、「属和音 - 英語では「ドミナント」(Dominant)といい、属音または属和音を意味し、ある調の主音に対する第五度(v度音)の音、またはその音を根音として三度音程の音を積み重ねた和音(V度の和音)を指す音楽用語。」という説明が掲載されている。この本を読むまではこの内容はチンプンカンプン。しかし、音楽について無知な人間でも、構造が理解できていなくとも何回も何回も読むという粘りは、わずかだが効果があったようだ。好奇心って大切です。「主音に対する第五度」って普通なら何?ってなるところ、僕もこの本を読むまでは「主音」さえ知らなかった。つまり、「Cに対してGがドミナント」って今の段階では実感していて、C/E/Gで「Cメジャーコード」なので、第五度というのはキーになる主音を補強する属音なのです(なのですって、にわかド印音楽家が偉そうに!)。

 僕は10代の後半、エレキベースを始めて、その流れで大学でエレキギターを覚えた。ま、小さなライブハウス程度、学園祭レベルではステージに立てる程度だが、音楽をエンジョイするためにはどしてもコードを習得しなければならない。しかし、理屈や理論はチンプンカンプンで、こことここを押せば「C」、こことここで「F#m」程度だった。でも、それじゃ、コピーバンドはできても、0から曲はつくれない。だから、長年、いろいろな音楽関係者、バンドマンに素朴な素人質問を繰り返してきたが、やはり壁は高い。想像以上に高い!そんな、ド素人を相手に詳しい話はしてもらえないのが現実。確かに「この映像はどうつくっていますか?」とか「このスクリプトはどこを改造すれば?」などと質問をされても、その前にもっとやることがあるでしょう?となってしまう。つまり、正しいグリップをできない人に、5番アイアンのインテンショナルフックは教えられない。だって、ゴルフの話題を切り出しても「僕はいつもスライスに悩んでいて~」という返答が来たら、「はい、早く治しましょうね」としか返せない。話しは終り。つまり、会話を成立させようとするには、なんでもレベルがあるのですね。

 で、ドミナント。鍵盤の経験がなく、これまでパソコンのソフトをPCのキーボードを代用してつくってきたが、やはり、基礎を実感するためには鍵盤が必要だろうと、3年前に鍵盤を買いました。鍵盤なんて到底、自分には無理だと思っていたが、手元(PCの上の棚)にいつもあると、ボォ~っと和音や運指の練習をできる。そんな程度のスタートラインだとしても、コードの仕組みや構造をいろいろリサーチしながら、実際に鍵盤を押さえて和音を出してみると、これがなかなか、その気になれるんです。確かにネットで「美しいコード進行」って調べるのもやらなきゃなんですが、それはちゃんとグリップが完成してからのお話なんですね。

 新しい言葉をひとつ覚えると少しだけ頭脳が若くなるらしい。なかなか記憶力も鈍化して厳しい今日この頃ではありますが、好奇心があるうちに諦めずなんでも取り組んでいこうと思っています。

 で、次に気になっている言葉は「三体問題」です。

DTPとWEBの仕事について#001。

 僕がグラフィックデザインの仕事を東京で始めた頃、机の上にパソコンはなかった。印刷物の原版となる「版下」を手作業でつくることがグラフィックデザイナーに必要な技術であり仕事だった。数年後、MACを知りデザインの仕事に活用するために基礎知識からほぼ独学で取り組んで現在に至る。これが僕のDTPとの出会いだった。それが約30年前の話。そして、その後、約20年前にインターネットが普及し、グラフィックデザインをベースにWEBデザインに取り組んだ。この段階でも専門学校やHTML言語の知識の習得はほぼ独学で、市販の専門書を読み、すでにWEBデザインとコーディングの仕事に取り組んでいるいろいろなエキスパートの皆様に助けられて、なんとか仕事として成立させることができた。アナログツールからデザインの世界に入っている人間にしてみれば、「DTP」・「WEB」という3文字はデザインを仕事として成立させるためにどうしても受け入れなければならないゾーンだったのだ。今、思うと素直にこの状況を受け入れた自分を褒めてあげたい。同じデザインの仕事に取り組んでいた仕事仲間の中にはこの3文字に対して拒否反応を示して、受け入れることを放棄し変化を受け入れなった仲間もいる。確かに従来のツールを使えば仕事は成立するわけだし、何もグラフィックデザインからWEBデザインに展開せずとも収入が安定している状況で、無理をして変化を受け入れる必要はなかったと言えばなかった。でも、僕はただ好奇心と危機感から生まれる貪欲さで変化を望んだ。同様に写真撮影についても興味を持ち、「カメラ」というツールを活用することにも独学で挑戦した。少ない収入の中から無理(かなり)をして一眼レフカメラを買った。決して、プロのカメラマンや写真家のような撮影技術と比べればほど遠い知識と技術ではあったが、デザインの仕事として成立できるレベルになり、クリエイターの武器としての「カメラ」には多くの仕事の場面で助けられている。また、MACからWINにプラットフォームを変えたが、多くのソフトウエアには助けられている。特にDTPとWEBの仕事にはマストツールである「Ai」「Ps」「Dw」は30年以上使っているが、ほんとに秀逸な完成度の高いツールだ。

 これらの「パソコン(ソフトウエア)」と「カメラ(写真・映像・ドローンなど)」はもうデザインの仕事を展開する上で必須アイテムなのだ。今後も様々な進化が起こるだろうし、予期せぬ想定外の革新的な仕事が発生するかもしれないが、基本は初志貫徹、最初の頃の好奇心と貪欲さで探求して挑戦していきたいと思っている。55歳、まだまだ、楽しくなりそうな気がしています。

強い日本人。

 ラグビー、ワールドカップの快進撃は感動した。強い日本ラグビー。そして、昨日、終了したバレーボール。対カナダと最終セットまでもつれこみ、最後の最後でどうなるんだろうと心配したが、そんな心配は無用だった。西田君のあの弾丸サーブは何?まるでそういうシナリオの映画のワンシーンを観ているようだった。ゴルフも松山君、渋野さん、テニスも錦織さん、大阪さん、皆、世界ランキングシングルでワクワクして応援しています。陸上、男子リレーもどんどん進化している。

 さて、男子サッカーはどうなんだろう?テレビを使ってメディアを使って煽るのはいいが、どうも、結果がついてきていない。空回りのような印象を受ける。これじゃスポンサーも離れていくのではないかな。で、世界ランキングをネットでリサーチしたらなんと「31位」。ビミョ~ウ!

手に負えないモノ。

 東京で長年メディア関連で最前線の仕事を経験してこられた方と「最近のビジネス」についてお話する機会があった。ご自身では「大したことしてないですが」と、いたって謙虚な姿勢を崩されません。しかし、大した経験値を持っておられる方に限り、とことん謙虚で冷静で聡明である。決して利己的にはならず発言のひとつひとつが深い。表面的な一般論について短い会話ではあったが、明らかに言葉の選択が秀逸である。幾重にも積み重なったご経験がある上で人間が強く捻れていない人の言葉は総じてそんな印象を受ける(羨ましい)。一方で利己的な方の言葉の選択は焦燥を含み、どこかネガティブで厭世的な印象を受けてしまい、結論の出し方が暴論寄りになる傾向が強い。ま、この捉え方は自分自身にも言えることであり、常々、適正なリミッターを意識するよう努力しています。

 で、その方曰く、最近いろいろな情報を分析しているとどうやら価値の高いモノに限り人間の「手に負えないモノ」に集約されているような印象を受けますねとのこと。う~ん、深い言葉・分析・知見。それは「自然」であったり、理論理屈で解釈できないモノだったり、数値化できない価値、非言語でしか表現できない存在・対象、予測不可能なモノだとのこと。ネットの情報は言語情報と非言語情報に分かれているが、言語情報とて信憑性や信頼性の観点で曖昧模糊であり、根拠や背景を確かめる術を、実はユーザーはもっておらず、ランキングの上位やオーソリティーの解釈にほぼ依存しているという状態。実際、映像情報を五感で捉えていると言われているが、平面的な2次元の情報でしかなく、視覚と聴覚の情報だけでほぼリアリティーはない。今後、モニターの解像度が飛躍的に進化したところで、ハイレゾが聴覚を立体的に刺激したとしても、ホログラムが進化してもだ。つまり、私達が現在、「有力な情報」だと解釈しているモノのほぼすべてが非常に断片的な現実の一片に過ぎないということ。そして、それ以外の情報を取得する術がない以上、それは「手に負えないモノ」のゾーンに入る。

 で、「手に負えないモノ」とは具体的に何か?自分の技能ではどうすることもできないゾーンを言う。例えば「デッサン」。よくYouTubeで色鉛筆でリアルな果物とか野菜を描いて視聴率が高騰するあれ。何故、色鉛筆でリアルなトマトを描くことがそれほどの興味の対象になるのか?恐らくその映像に集まっているのは色鉛筆でリアルなトマトを描けない人達であろう。私はピアノが弾けないので、作曲をしているユーチューバーさんの映像をよく観るが、まったくなんのことやらである。手に負えなさ過ぎて呆然と映像を追うことしかできない。正にお手上げ状態。でも、映像の中に何かピアノで作曲するためのテクニックのステップ1(入口)を盗めないかなとか、その感じそのテイストで鍵盤を叩きながらメロディーを着想しているのか!などと血眼で釘付けになって観ている。この状態こそが時間を割く価値のあるモノなのだ。つまり、ネットの情報は視覚と聴覚のみなので、この2つの感覚で伝えられる魅力的な情報であり、しかも、非言語、非理論、数値化できないという条件で価値のクラスが決まるようだ。この構造をビジネスに置き換えて着想すればいい。数値を決めた瞬間に、理論理屈で伝えようとした瞬間に、権威や統計データで何かを伝えようとした瞬間に、モニターの前の皆様は実はドンビキしているのかもしれない。もう、そこじゃないんですね。

 だから、日々、手に負えないモノに挑んでいる人は皮膚感覚でこのゾーンの価値を体感しているわけだから、当然、雄弁ではないし自己弁護も拙い。フィーリングやテイストやタッチでバリューを決めている(生み出している)人を相手にするためには、自分自身もそういうゾーンに長けている必要がある。致命的にメンドクサイ人にならぬよう、さりとて、どこかの部分で手に負えない(未知数の)ヒトであることもこの時代、必要な素養・姿勢・ポテンシャルなのかもしれませんね。

外部モニター。

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 GH5に付ける外部モニターですが、いろいろリサーチしたのですが、これかなと思っています。あとは、しっかりアマゾンでレビューを読んで判断しようと思っています。

何がしたいのか?

 最近、若い大学生の方から「何をしたいのか分からない」というご相談を受けた。自分自身が20歳の頃を想い出しながら、この相談についてしっかりと考えた。20歳の頃、自分が何をしたい、つまり、どんな仕事をして生計を立てたいと考えていたかという部分のお話。正直、その頃、僕は何も考えていなかった。漠然と頭の中にあったのは「絵を描いて飯を食う」、絵画(美術)に関連した仕事に就き生活をしていきたという程度だった。しかしながら、その頃はインターネットもなく、自分の好きなことをして生計を立てるという選択肢が極端に少なかった。「絵」を描く技術があってもそれだけで飯を食える時代ではなかった。現代のようにユーチューブがあって、自分の好きな映像を撮影し編集し公開するだけで認知度が上がり、人気が出てビジネスモデルが成立する時代ではなかったのだ。だから、「何をしたいのか分からない」という状況も僕が芸大生の頃よりも格段に選択肢が広がっているので、焦らずじっくりひとつひとつ確実に前進する意識を持ってくださいと、偉そうにアドバイスした。

 正直、普通の人間は「焦らずじっくりひとつひとつ確実に前進する」ことしかできないのが現実だという意識が僕の中に強くあったからだ。とにかく、焦っても成果は生まれないし、近道もなければ、錬金術も存在しないのだ。この世は。

 さらに言えば、「何がしたいか」は「何ができるか」と同列・同位であり、自分自身にどんな技術があるのか把握していない状況、テクニックのレベルを知らない状況で、あまりも高いレベルの目標を立てても意味がない非現実的なのだからだ。そして、「何ができるか」を明確に意識するためには「道具(ツール)」を使って自分は何がつくれる(生み出せる)のかを分かっている必要がある。例えば、鉛筆1本であなたは何ができるのか?最新のミラーレスカメラが手元にあるがそのツールであなたなどんな成果(作品)を撮影できるのか?アドビのソフトウエアがPCにすべてある状況で、それらであなたな何がつくれるのか?ということである。何ができるのか?を分かってから、「何がしたい」を考えればいい。つまり、スキルがない状態で高すぎるフラッグは立てることが難しいのである。シンプルな「辻褄」「因果」「利害」のお話である。

高浜町。

 連日新聞でテレビで取り上げられている町、高浜町。僕は17歳までこの町で生きていた。38年前の話だが、そんな蛮行があったとは知らず、今まで生きてきた。いつかこの話題もなんらかの結論が出て、メディアも取り上げなくなるだろう。しかし、生まれ育った町の汚点は死ぬまで消えない。ある意味、放射能が漏れるより問題の根が深い。関係者の皆様はそのことは考えなかったのだろう。悲しい事実です。

死ぬまで未完成。

 ここ最近、一番心が震えた言葉「人間、死ぬまで未完成」。

 ある著者の言葉だが、まだ、その本は買ってはいない。その本は買わないかもしれないが、この言葉は、当分、心の中の結構目立つ場所に留まるだろう。

MILLENIUM6

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 娘がフランスで買ってきてくれた本「ミレニアム6」。検索しても日本語の情報がほぼありません。さて、フランス語を読むのか、英語版を待つのか?日本語版の出版はいつなのか?早く、読みたい。その前に「ドクター・スリープ」を購入しなければならないし、うん、読書の秋ですから。