手に負えないモノ。

 東京で長年メディア関連で最前線の仕事を経験してこられた方と「最近のビジネス」についてお話する機会があった。ご自身では「大したことしてないですが」と、いたって謙虚な姿勢を崩されません。しかし、大した経験値を持っておられる方に限り、とことん謙虚で冷静で聡明である。決して利己的にはならず発言のひとつひとつが深い。表面的な一般論について短い会話ではあったが、明らかに言葉の選択が秀逸である。幾重にも積み重なったご経験がある上で人間が強く捻れていない人の言葉は総じてそんな印象を受ける(羨ましい)。一方で利己的な方の言葉の選択は焦燥を含み、どこかネガティブで厭世的な印象を受けてしまい、結論の出し方が暴論寄りになる傾向が強い。ま、この捉え方は自分自身にも言えることであり、常々、適正なリミッターを意識するよう努力しています。

 で、その方曰く、最近いろいろな情報を分析しているとどうやら価値の高いモノに限り人間の「手に負えないモノ」に集約されているような印象を受けますねとのこと。う~ん、深い言葉・分析・知見。それは「自然」であったり、理論理屈で解釈できないモノだったり、数値化できない価値、非言語でしか表現できない存在・対象、予測不可能なモノだとのこと。ネットの情報は言語情報と非言語情報に分かれているが、言語情報とて信憑性や信頼性の観点で曖昧模糊であり、根拠や背景を確かめる術を、実はユーザーはもっておらず、ランキングの上位やオーソリティーの解釈にほぼ依存しているという状態。実際、映像情報を五感で捉えていると言われているが、平面的な2次元の情報でしかなく、視覚と聴覚の情報だけでほぼリアリティーはない。今後、モニターの解像度が飛躍的に進化したところで、ハイレゾが聴覚を立体的に刺激したとしても、ホログラムが進化してもだ。つまり、私達が現在、「有力な情報」だと解釈しているモノのほぼすべてが非常に断片的な現実の一片に過ぎないということ。そして、それ以外の情報を取得する術がない以上、それは「手に負えないモノ」のゾーンに入る。

 で、「手に負えないモノ」とは具体的に何か?自分の技能ではどうすることもできないゾーンを言う。例えば「デッサン」。よくYouTubeで色鉛筆でリアルな果物とか野菜を描いて視聴率が高騰するあれ。何故、色鉛筆でリアルなトマトを描くことがそれほどの興味の対象になるのか?恐らくその映像に集まっているのは色鉛筆でリアルなトマトを描けない人達であろう。私はピアノが弾けないので、作曲をしているユーチューバーさんの映像をよく観るが、まったくなんのことやらである。手に負えなさ過ぎて呆然と映像を追うことしかできない。正にお手上げ状態。でも、映像の中に何かピアノで作曲するためのテクニックのステップ1(入口)を盗めないかなとか、その感じそのテイストで鍵盤を叩きながらメロディーを着想しているのか!などと血眼で釘付けになって観ている。この状態こそが時間を割く価値のあるモノなのだ。つまり、ネットの情報は視覚と聴覚のみなので、この2つの感覚で伝えられる魅力的な情報であり、しかも、非言語、非理論、数値化できないという条件で価値のクラスが決まるようだ。この構造をビジネスに置き換えて着想すればいい。数値を決めた瞬間に、理論理屈で伝えようとした瞬間に、権威や統計データで何かを伝えようとした瞬間に、モニターの前の皆様は実はドンビキしているのかもしれない。もう、そこじゃないんですね。

 だから、日々、手に負えないモノに挑んでいる人は皮膚感覚でこのゾーンの価値を体感しているわけだから、当然、雄弁ではないし自己弁護も拙い。フィーリングやテイストやタッチでバリューを決めている(生み出している)人を相手にするためには、自分自身もそういうゾーンに長けている必要がある。致命的にメンドクサイ人にならぬよう、さりとて、どこかの部分で手に負えない(未知数の)ヒトであることもこの時代、必要な素養・姿勢・ポテンシャルなのかもしれませんね。