マンガの楽しみ方。

 「マンガをもっと楽しもう!」という主旨の記事をよくチェックする。いやいや、「マンガを楽しもう!」って、お前、どの立場なんだ?という解釈もあるし、マラソン選手に向かって「頑張れ!」みたいな言葉は応援としては成立しているが、沿道で立っている人よりもすでにマラソン選手はMAX頑張っている。自分より頑張っている人に対して「頑張れ!」は違和感がある。じゃあ、応援はしないほうがいいのか?いや、そうではない、必死の形相でフィールドに立ってMAXのプレイをしているプレイヤーを観ているだけで、たくさんのエネルギーを貰えるし、そんな姿勢を見て高揚し鼓舞されてしまっているのだから、何かその気持ちを言葉にしたい。正確には「ありがとう!」なんだけれど、それも状況的におかしい。だから、僕はただエールを送る姿勢で手を叩いたり、こぶしを高く突き上げて「ありがとう!」という気持ちと熱いまなざしで無言で見守っていることが多い。

 同様に「マンガ」も楽しんでいるだけの立場の人間がとりたてて「楽しみ方」など言葉に文章にする必要はない。楽しんでいるのならただただ楽しめばいい。「楽しみ方」を言葉にしているということは実は別の意味があり、姿勢の中に「楽しみ方」を啓蒙しながら、自分の意図を連動させようとする姿勢が感じられる。結局、自社のイベントの紹介に連動させていたり、「楽しみ方」を呼び水にして本題は別みたいなことがとても残念だ。

 大阪芸大の頃、社会心理学という講義を受け、期末に論文提出がの機会あった。僕は「漫画表現技術について」という主旨のタイトルで原稿用紙100枚ほどまとめて提出した。同じ講義を受けていた友達は「論文を書く」という意識が強く構え過ぎて、資料を集めに疲労し結果、結論が曖昧になってしまうなどと悩んでいた。が、僕は論文を書くために資料を集めるという手順は踏まず(いや、そんな基本的な手順を知らず)、ただ、「漫画表現技術について」自分の中にある知識や感情や解釈をまとめて提出した。ま、努力賞として「優」はいただいたが、その論文を書きながら、「僕にとって漫画は特別な存在なんだ」と強く実感した。締め切りがなければ、200枚でも300枚でも描き続けることができたからだ。今、振り返って思うと、「僕の楽しみ方」というアプローチではなく、単に漫画の紙面構成や描画テクニックやコマ割りを自分なりに整理して淡々と書き出していただけだった。恐らく拙い駄文だったのだうが、採点してくださった教授に「ああ、こいつは漫画が好きなんだ」という姿勢だけは伝わったと思っている。

 つまり、漫画でも映画でも小説でも「楽しみ方」は十人十色、千差万別でいい。ただ、どんな世界でも同じだが、それを「つくる人」になった瞬間、状況が一変する。観客席で気楽な野次を飛ばしている立場から離れ、フィールドに立った瞬間に感じる「恐怖とプレッシャー」である。フィールドに立つという感覚は限られた人にだけ与えられる機会で、普通は観客席で観ているのが一番楽しい。高校野球時代、初めて代打で試合に出させていただき、そこそこ数の観客の応援する状況で僕はボテボテのショートゴロを打った。僕はがむしゃらにファーストベースにヘッドスライディング。ショートは恐らくジャッグルしたのだろう、送球が送れ僕はセーフ。どろどろのユニフォームをベースの上ではたきながら、ふと観客席を見ると応援している人の楽しそうな笑顔がいっぱい見えた。

 だから、どんな漫画を見ても読んでも、僕は描いている方、つくっている方の顔が浮かんでくる(ほぼ顔は知らないので想像するだけ)。ここがなんとも無償に楽しい。