不特定多数というターゲット設定。

 デザインの仕事に取り組んでいく上でこの「不特定多数」というターゲットゾーンの搾り方に非常に苦労してきました。

 当然、仕事はクライアントさんありきなので、ご要望や企画主旨・意図・狙いがデザインを設計する上で最優先されるべき基準なのですが、それでもデザイン表現が最終的に固まるまでに「不特定多数はどう感じるのか?考えるのか?」という課題が発生します。さて、この「不特定多数」を別の言葉に置き換えると「通念」「常識」「世間一般」になるのですが、そもそも、つくり手という人間(僕だけ!?)は着想する際、差別化させる前提でモノゴトを考えているため、不特定多数を視野に入れなければ、思考や着想がどんどんマノリティー(少数派)になっていく傾向が強い(考えやすい)。むしろ、希少価値であったり独創性などをデザインに実装する場合、「普遍」「普通」は「手抜き工事」と解釈される場合が多く、確かに自分自身もデザインを外注する場合、クリエイターから出されたデザインを見て、「どこかイマイチ」「何か足りないけど」「あとひと捻り」と感じる場合、センスの有無で評価基準を決めてしまうが、実は、何か足りないのだ。それは「不特定多数」を意識できていないことで生まれる、微妙なニュアンスの「不足感」なのだ。ただ、クリエイターに対してセンスのお話はあまりしたくないですし、というリミッターが作用してしまうのです。

 これは何もクリエイター同士だからという訳ではなく、クライアントさんに対しても同じ状況で、プロのクリエイターにデザインの仕事を発注しているんだから、「素人が口出す場面ではないけれど」、という違和感を感じさせてはいけないのだ。しかし、つくり手も、いや、僕もこの「不特定多数」というターゲット設定が未だに明確ではなく、絞り込むノウハウが確定・確立・完成していない。できれば特筆した秀逸な孤高のデザインをつくりたいと取り組んでいるので、どちらかと言えば「不特定多数など視野から外してもいいかな」とも考えてしまうケースも多い。となれば、客観的に公明に普遍的な節度で「これぞ名実共に優れたデザインです!」というデザインをつくればいいのだが、そこのゾーンも実はよくよく考えてみると曖昧なゾーンなのです。

 例えば、「グッドデザイン賞」。結論から言えば、僕は「デザイン」と「グッド」を組み合わせるのはナンセンスだと考えている。が、世の中は何がなんでも「グッドデザイン賞」ありきの風潮が徹底的にとことん浸透している。むしろ「グッドデザイン」でなければデザイン的には論外だ、ぐらいの空気をヒリヒリ感じながらデザインを構想している状態があまり健全ではないと捉えている。つまり、デザインに絶対的な基準は存在しないという結論である。逆にチープでプアで安直なビギナーチックなデザインは本当に価値がないのか?という自問が生まれる。実際、日本の雑誌と海外の雑誌を「デザイン」という視点で比較してみると、理屈的も感覚的にも僕は日本のエディトリアルデザインが優れていると感じているが、それは日本生まれだからに過ぎず、実際、アメリカ人はアメリカのマガジンこそホンモノだと捉えているかもしれないのだ。何が双方の誤差を相違点を生むかと言えば、「相対性・相関性による選択」としか言及できない、という結論になる(少し乱暴な結論の出し方ではあるが)。

 うん、「不特定多数」という相手は、いやはや、タダモノではないのだ。