2020年05月 アーカイブ

モックアップ制作。

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 これはあるディスプレイ案件の試作品です。今回の案件は比較的大物(幅90cm×高さ3m)であることと、そして、初めてのモチーフであることなどを考慮して、成果物をクラアントさんにシュミレーションしご検討いただくために、本格的な制作に入る前段階、つまり仕事案件として契約していただくための試作制作です。試作なので、3バリエーションつくります。モチーフの質感や色合いなどをサンプル写真、そして、実物を入手して仕上げるためには1点では足りません。ちょっとしたモデリング(形状)の違いや色彩や仕上げ表面加工などのマテリアルの違いでモチーフのイメージから離れる可能性を潰したいからです。実際、自然物と画材の着色では微妙に色素が異なる場合もあるため、しっかり、サンプルの段階で色の配合を感覚として踏んでおきたいという目的もあります。こればかりは頭でいろいろ考えていても何も始まりません。とにかく、部材を用意してつくることのみ。100%、感覚とテクニックの問題なのです。

長浜の空撮。

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 昨日、長浜市内にて空撮の仕事をしてきました。曇天、風速は3m。明日以降は雨になるのでで、もう少し太陽が欲しかったところですが、致し方なし。伊吹山がとてもキレイでした。早く登りたい!6月中旬頃には世間一般、登れる空気になってほしいと期待しています。

湖畔にて。

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 この絵画は黒田清輝氏の「湖畔」。中学生の頃、美術の教科書で初めてこの絵を観て、とても印象的だった記憶がある。日本人が描いた絵でここまで強い印象が残った絵画は他にない。西洋時代の古典的な絵画やアメリカンアートからはたくさんのインスピレーションを頂戴したが、江戸時代の有名な画家や竹久夢二などと比べてもこの「湖畔」という一枚の絵は別格。とてもたくさんの感情・情動を想起させていただいた。この絵画のロケは箱根の芦ノ湖。一回だけ東京へ行く途中に寄ったがしばし心を奪われた。僕は長浜に住んでいるので毎日琵琶湖を観ているが、観る度に違う表情がある。恐らく、黒田清輝もこの女性を湖畔で描く構図をひらめき、描いている際、欲しい芦ノ湖の表情があったはず。モチーフの浴衣の女性の表情と湖面の表情のマッチングの瞬間を実際の現場で選択したのだろう。そういう瞬間っていったい画家の中にはどんな感情があったのだろう?その事をずっとずっと考え続けている。単に浴衣を纏った美しい女性を琵琶湖湖畔で描いただけではこの絵の情感は生まれないのだ。この湖畔と比較してワイエスの「クリスティーン」が頭の中に浮かぶことが多い。何故、画家は女性を描くのか?いつかその答が分かった時、僕は心の底から絵を描く技術を習得していたことに大きな価値や意味を感じるのだろう。

How emotions are made?

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 「感情(情動)」はどのようにどこからどんなプロセスで生まれるのだろう?などとぼんやり考えながら、いろいろなキーワードで書籍を検索していたらこちらがヒットした。検索エンジンのアルゴリズムがどの程度「頼り」になるかを知るためにも、僕の好奇心とキーワードの選択手順がどれだけリアリティーがあるのかを感じるためにも、この一冊は手元に置いておきたい。書籍とは著者の分身だと考えているので、ただ、受け取るだけではあるが著者の意図を手の中で実在させるという観点で。今、とても気になっている一冊です。

つくり手の心得#006「水平と直角」

 私達は日頃から水平・垂直・直角を重んじる世界に生きているので、少しでも、例え僅か1度でも傾いたり、歪んでいると違和感を感じる。感覚的に不安定さを感じるのだ。しかし、この作用を利用して意図的に際立てたい場合は少しだけ紙面の上のパーツを傾けるという手法がある。必ずしも安定した構図や画画が良質なデザイン表現とは限らないのである。

 例えば、ポスターのロゴ。大抵、吟味するのは位置とサイズ感であり、時計廻りに15度傾けることはよほどの意図や狙いがなければしない。水平と垂直を徹底的にキープすることをセオリーと捉え、傾けることはある意味、タブーなのだ。

 以前、伊勢志摩にある観光ホテルのパンフレットを制作した時、その頃はまだ制作会社にMACが導入され、アナログ作業で版下を制作していた時代。文字の印画紙を台紙に水平・垂直に貼る技術はグラフィックデザイナーが仕事の完成度を上げるためにマスト(真骨頂)だった。少しでも狂っていれば徹底的に水平・垂直を出していた。パンフレットのデザインに限らず、新聞広告でもポスターでも同じ。この基本ルールについて東京でグラフィックデザインを始めた頃にもディレクターの上司から徹底的に注意され叩き込まれたので、僕は完全に水平・垂直があたまりまえで、傾いていることはデザインの仕事において最大の蛮行だと神経質になり過ぎていた。むしろ、水平・垂直さえキープできれば、文字のサイズと配置については感覚的な部分の吟味になるので、簡単と言えば簡単で安易に捉え始めていた頃だった。

 ある日、制作途中のパンフレットデザインをクライアントに見せたとき、
「う~ん、なんかイマイチですね」と言われた。
 紙面的の中に配置した、キャッチコピー、リードコピー、本文、そして、写真やイラストやロゴなど。僕の中では要望を100%反映できているという自信があったし、どこにもスキはないという確信があったのだが。この「なんかイマイチ」という反応について、僕は極力、強く抵抗しない主義をとっている。いくらつくり手が完璧だと一方的に思い込んでいても、クライアントが「イマイチ」だと評価した場合、そのデザインは「イマイチ」なのだ。アイディア、工夫、オリジナリティー、意図、時代性、テクニックなどなど、何か足りないか何か余計な要素が画面の中に必ずあるのだ。

 で、僕はひらめいた。クライアントを会議室で待たせて、自分のデスクに戻り、制作途中の版下のキャッチコピーを時計廻りに15度程度傾けた。上下左右のスペーシングを吟味した位置にキャッチコピーを貼り込み、その版下をコピーしてクライアントに見せた。そのコピーを見た瞬間、モヤモヤしてたクライアントさんは
「よし!これでいきましょう!」と満足してくださった。

 結果、そのパンフレットは次の年のデザイン年鑑に紹介して頂き、僕の中でひとつの大きなグラフィックデザインの考え方や表現力の幅が少しだけ広くなれた経験になった。この経験が当然、DTP作業、イラストレーターのグラフィックデザイン制作にも有効に作用して、水平・垂直で一旦、レイアウトを完成させてから、自己分析後、イマイチ感が生まれたら、いろいなパーツを意図的に傾けたり、歪ませたり、変形させたりしてチューニングをしています。

プログラムの誤作動!?

 映画「AI崩壊」をDVDで観ました。正確には「AI崩壊」ではなく、「プログラム誤作動」である。それも人為的な誤作動。それを「崩壊」とするには無理がある。そもそも「AIが崩壊する」という捉え方に違和感がある。正確にはAIは崩壊する対象・存在ではない。

 僕が感じた話の展開案は、まず、医療プログラムが誤作動を起こして医療システムがパニックになる。ペースメーカーや延命機器が影響を受けてトラブルが発生する。しかも、近未来。ここが物語りのスタートである。主人公の家族関係を描くのは後半でいいと思う。で、開発者である主人公が海外から呼び戻され、国家の危機として総理大臣や警察機関の幹部が説明をもとめるシーン(取調べ)あたりが冒頭にあり、少しずつAIの存在が明らかにされる。つまり、AIという中核的な存在は別に存在し、なんらかのAIの意志で医療プログラムが誤動作を起こす。権力者はその状況を保身や予算確保に利用とするところはアリだが、ここの部分にあまり重い大きな罪を負わせるのは可哀想。というか、国家公務員の人間達にそんな知見はないという設定の方がリアリティーがある。つまり、AIであれ高度なプログラムであれ、政治家や公務員が精通(理解)しているはずがない、という前提・設定の方がリアルだ。

 で、犯人像はもっと根底的・本質的な悪でなければならいし、別の観点では思考的・哲学的・宗教的・科学的に賢者であったり、無類の人類愛を持った数奇な存在でなければならない。何故なら、AIがその存在とシンクロすることで、致命的なダメージを受けるほど、犯人は常識や社会通念から対極にいなければならないからだ。ただ、それを日本映画で描くことはできないだろうし、そんな物語にスポンサーが付くはずもない。医療プログラムが大儀の元、人為的に操作された「人災」だったというライトな結末をベースに家族愛や国民の平和を描く方にお金が出た結果の映画製作だったのだろうと思っています。ひさびさにほぼ6ヶ月ぶりに日本映画を観たが、なんでしょう、パイの小ささだけが際立ってしまったという率直な感想でした。

S.W.E.9の評価。

 映画「スターウォーズ・エピソード9」がいろいろな評価をネットに書いておられるレビューページを読んだのですが、なかなか厳しい評価が多かった。さすが熱狂的なスターウォーズファンは愛のある酷評を綴っておられます。僕の場合、そんなディープなファンの方と比べると7から映画館で観始めたパターンなので、とてもそこまでの深い分析や洞察・考察はできません。ただただ、それほど皆様の期待値が大きかったのだと改めて感じながら読んでいました。

 しかしながら、厳しいなぁ~、そこまで映画に期待しているのか、と、ちょっとネット記事として文章にするには厳し過ぎる印象を受けました。そもそも僕はS.W.のファンではなかった。1~6までは全くのスルー。熱くS.W.を語る知人のS.W.ファンとも共感ができませんでした。なぜ、7から映画館に行くようになったと言えば、主演の女優さん、D.リドリーさんをスクリーンで観たかった。ただ、それだけ。実際、9も物語についてはずっと単純な展開だから、集中しようがない(集中する部分、感情移入する部分が正直分からない)。視覚効果は?という観点でもそれほどテンションは上がらない。登場キャラクターデザインは?という観点でも、さほど練りこまれている印象はトータルで受けていないので、心が震えるまでには至りません。これが、ブレランやエイリアンともなれば、心は震えるのですが。

 で、結局、映画館にはD.リドリーさんだけを観に行っていることになり、ただただ、スクリーンで彼女が泣いたり笑ったりフォースを使ったりするシーンを観て満足しています。だから、確かにこれだけの壮大な映画の完結編としては…という感想もありましたが、リドリーファンとしてはもう充分に満足しているので、あとは「それなりに」扱いになってしまっていたので、やはり、改めてS.W.ファンの皆様の期待値の大きさに震撼です。

エレキベース。

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 僕が一番最初にかじった楽器はエレキベースだった。ジャズベースをある方から譲っていただき、毎日練習していた。それが高校時代。大阪芸大にはミュージシャンを目指している連中が多かったが、なかなかエレキベースをやっているヒトが少なかったので、よくライブをする時は誘われて弾いていた。ボーカルやエレキギターのように派手じゃないし、ドラムのようにアクションや技術を披露するよりも比較的圧倒的に地味なエレキベース。バンドをやりたい連中はやはり自己主張が強い連中が多かったのでこの楽器はあまり選ばれなかったのだろう。社会人になってもそれは同じで、アコギやキーボードをやるヒトはよく聞くが、「エレキベースをやっています」というヒトに出会ったことはない。ギターと比べて弦圧が非常に強いので、左手の握力が必要ですし、フレット間もギターと比べて広く、しかも、ギターのようにコードやリフを弾いているだけではなく、リズムを正確に刻まなければ演奏がバラバラになるという、なかなかの扱いにくい問題児なのです。でも、バンドをやろうと思えば、絶対にベースが必要なのです。最終的に僕はウッドベースをやりたかったのでエレキベースはその過程で練習のつもりで入手したのだが、結果、あんなデカイ楽器が部屋にあったら邪魔だということに気づき、時間があればエレキベースをボンボン弾いています。レスポールも好きな楽器ではありますが、やはり、僕が一番好きな楽器はとなれば、エレキベースです。

 で、最近、2本目が欲しくなってこちらのベースを検討しています。なんか凄く渋くて存在感のあるエレキベースです。

もふもふ!?

 AIが一番柔らさを表現しているオノマトペをある実験で絞り込んだらしい。それは「もふもふ」だったとのこと。確かに「ふわふわ」より「フカフカ」よりも柔らかい印象がある。僕は「プニョプニョ」だと思ったのだが、この最新鋭のAIはどんなアルゴリズムで「もふもふ」を結論付けたのだろう?それがとても気になった。今後、教育の現場でもビジネスの現場でもAIが必ず関連してくるだろうし、戦略上のコア的な存在になっていくだろう。ま、「ターミネーター」のような「2001年宇宙の旅」のようなことにはならないだろうが、アシモフ先生がこの「もふもふ」というAIの解答を知ったらなんてコメントするのだろう?もし、手塚先生が生きておられたらなんておっしゃるのだろう?人間とAIの関係がパンデミックに陥らないことだけを祈るしかない。

 すでに回転寿司屋さんに行けば、エントリー作業をAIロボットがしているわけですから、今後、リモートで仕事をしていく上で相手が本当に人間なのか、それとも独自の戦略を実装したAIプログラムなのか見極めていかなければならないとしたら、ちょとメンドクサイ。WEBサイトに実装する「よくある質問AIプログラム」も通り一辺倒な解答はしてくれるし、膨大なマニュアルの中から疑問点をリサーチする手間が省けるから効率的と言えば効率的だが、便利だ優れている最新鋭だという前提でAIからの解答を鵜呑みにするのはちょっとイエローカードではないだろうかと疑問視しているし違和感があります。

 しかし、「もふもふ」と言われると、確かに「もふもふ」に寄せていってしまいますが。

僕のブログのお手本。

 僕は2007年5月からこのブログ「スギノのノギズ」を書いているが、振り返ると、いろいろな事件がありました。ある映画の個人評価を書いたら「勝手なことを言うな!」とコメントが入り、あるデジタル機材の紹介をしたら「嘘つき」というコメントが入った。確かに言われる通り、勝手なことを言っているし、マニュアル通りに使っていないからそういう評価・分析になってしまったという後悔もある。しかし、ブログは基本的に「WEB LOG」である。言い換えるとWEB上に書く個人的な日記(記録)である。最近でこそSNSは相互の交流が活性化しているものの、そもそもHTML言語というのは端末間で情報を視覚化するための技術。正確な情報発信を心がけなければならないが、ま、個人的な映画ファンのたわいもない感想にイチイチコメントされても、僕はプロの評論家ではないので映画の歴史や実際映画製作の裏に精通しているわけではないので、そんな確固たる総論など書けるはずもない。気に入らない方にしてみれば「ならば、中途半端な感想は書くな」とおっしゃるだろうが、こうなるともうイタチごっこ。僕は顔写真も所在も自社のホームページも公開した上で日記を記録していますと公言してこのブログに取り組んでいる。それが匿名でどこのだれだか属性も人格も素養も分からない人間に「勝手に!」とか「嘘つき」と言われる利害関係はないし、縁もゆかりも、当然、因果関係もない。勝手で嘘つきなのはどちらかと言えば、そちらなんですが、それをそのヒトに向けて直接言ってしまうと「メクソハナクソ」になる。だから、長年、ブログの書き方みたいな部分で姿勢とか意識とか教養とか感情のコントロールについてガチで試行錯誤してきました。未だ、納得できる記事は書けませんが、そんな中、ブログを書く上でお手本にしているヒトがいます。それはコピーライターの糸井重里さん。ほぼ毎朝、このページをしっかり落ち着いて読み、心を整えています。ほんとに素敵な文章を書かれます。糸井さんの書籍(一番好きな書籍はバスフィッシングの本)はほぼ持っているし、人間的にもとても尊敬しています。そのブログ(WEBサイト)がこちらです。

→「ほぼ日刊イトイ新聞」https://www.1101.com/home.html

誹謗中傷か…。

 ただの独り言ですが、コロナの状況が一旦終息し、テレビの情報も一旦、終息ムードに同期してきているような印象を受けています。総理の力強いあの終息宣言はボトムまで下がった内閣支持率を少しは上げる作用があるんじゃないかな、などと少し平穏な気持ちになっています。

 そして、黒川問題も燻り続けてどこかの段階で話題の机上からゆっくりとフェードアウトしていくのでしょう。ま、然るべき立場の方の賭博は致命的なミスなのかもしれませんが、このテーマについてテレビでコメントしていたある弁護士さんが「賭博の定義は曖昧だ」と言っておられましたし、確かにすべてに白黒つけるにはこの世界は複雑怪奇なんだろと思います。

 で、次の話題はSNSの誹謗中傷問題で、若者が匿名の誹謗中傷を苦に自殺するというショッキングな事件。確かにこの苦悩はテレビやネットで顔が売れている人だけの苦悩と言えば苦悩ですし、一般人でも誹謗中傷を受けたり「いじめ問題」などもあるわけですが、SNSの仕組み・構造で言えば、それらを規制する規範がないため水面下では決して消えない悪しき腫瘍なんだと思います。恐らく、僕なら迷わずアカウントを消してSNSから存在を消すだろうけれど(カイザーのように)、タレントさんや事務所に所属し大きなメディアの仕事を通じてクライアント様の顔をつぶさないようにという配慮がそんな安直な解決策を選択できない故の苦悩なのでしょう。しかも、22歳の若い女性となれば、もっと、両親や親友達がなんとか痛みや苦悩を緩和させることができなかったものかと個人的に考えてしまいました。

 しかし、この「誹謗中傷」について、よくよく考えてみると、目的が曖昧です。感情的な思考や行動はすべて根拠は曖昧だとしても、なぜ、他人の発言にそこまで真剣になれるのだろう?「真剣」という言葉は不適切かもしれないが、もし、自分が同じことをされたら、ということはシュミレーションしないのだろうか?匿名であったとしても、専門家であればIPアドレスや投稿したスレッドのメタ情報で大概のことは判明する。端末をから送信されたデータである以上、ほぼ発信元は特定できているし、映画の観過ぎかもしれませんが、GPSで所在を特定し、行動パターンを国家機関にログられていたら、もう、その人の人生はロックオン状態です。その上でブラックリストに記録が残り、飼い殺し状態となれば、もう、何を弁明したろころで、そのIDは黒になるはず。それぐらいの知識は一般的にあるはずなのに、上を向いて唾を吐いてしまうんですね。地球の上に存在している以上、万人公平に重力はかかりますから、いくら仮想空間とは言え、無重力(言いたい放題)ではいけないんだ程度の最低レベルの教養を持ち、SNSの世界にダイブしたいものです。

 フォースと共にあらんこと。

 一晩中、隣の独房のレクターに詰られ、興奮して自分の舌を飲み込んで窒息死したミグス。もし、トマス・ハリスにその気があるのなら、「ミグス」で一本小説を書いてほしい。そのことについては原作でも映画でも一切触れられていないが、どんな言葉で詰られたら人は言葉だけで自らの命を絶つのだろう。トマス・ハリスならその答を知っていそうです。恐らく、その主人公は「死ね」などという安易な言葉は選択しないだろう。

5Gが何を変えるのか?

どうやら、5G時代は回線速度やデータ容量が約3.5倍に大きく(増える)なるらしい。で、何がどうなるのだろう?仕事で言えば同じ容量のデータが早く送れるとか、映像データを発信する時にノロノロ感がなくなるのだろうと期待しています。しかし、それが便利になると言われれば便利だし、革新的だといわれれば革新的という捉え方でもいいのだが、具体的に回線の太さが3.5倍になって、仕事の進め方とか映像コンテンツの発信力が飛躍的に高くなりそうな感じでもない。回線の歴史は以前から、「ISDN」、「ADSL」、「光」と回線は確かに太くなり大容量のデジタルデータを安定して快速に使うことができたわけですが、それが「5G」と呼ばれ、回線の太さが約3.5になるだけかなと、さほどテンションは上がっていません。しかし、コロナでリモートワークや映像配信コンテンツがテレビやネットメディアの主流になりつつある状況では、この5Gはベストタイミングなのかもしれません。回線業者にしてみれば、完全な追い風が吹いている状況なんだろうと思います。僕もこの風に乗って新しい航海を始め、どこかの大陸に辿り着きたいものです。

13歳からのアート思考。

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 2020年2月19日初版、発行はダイヤモンド社。著者は末永幸歩さん。「「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考(定価:1,800(税別))」です。著者は美術教師です。内容には触れませんが、確かに中学校に入学した段階で「美術」という授業が楽しくなくなった人は多い。小学校の頃、あんなに素敵な写生や立体作品をつくっていたライバル達が次々にテスト勉強に勤しむようになり、いろんな会話が成立しなくなった経験がある。つまり、僕はそのまま、高校時代の美術まで一定のテンションをキープし続けてしまったからだ。その延長上に大阪芸術大学美術学部があり、そのまま、少しシフトしてグラフィックデザインを仕事にした。この間、美術がつまらないと思った日は一日もない。だから、この著者にはとても共感しましたし、改めて社会人になっても「アート思考」が大切ですという意見はとても理解できる。ただ、著者がこの本で展開している内容はひとつの流れとして有効だとは思いますが、実際、アート思考をデザインの仕事に展開・変換・応用するにはとてつもない複雑多様、摩訶不思議、七転八倒の試行錯誤が必要だ。それは実際にこの仕事をしている人でなければ、絶対に共有はできないディープなゾーンです。「アート思考」なんてクリーンで清清しい語感とは裏腹に実態はもっと、「…」なのです。すでに2回読みましたが、とても、美しい練りこまれた「アート」の王道について語っておられます。もし、僕が同じように「アート思考」について何か文章化したとしたら、とことんドロドロした内容になるんだろうなぁ~などと考えながら、楽しく読みました。

主役のタイプが違う。

 日本映画と海外の映画について、特にハリウッド映画の主人公を演じる俳優さんのタイプと日本映画の主人公のタイプが少し違うように感じる。映画産業はそれぞれの国のファンがつくるモノ。当然、主人公選びもファンのニーズを十分に考慮して配役が決まるのだろう。日本映画の主人公は人間味よりもルックス重視のような印象を受けるし、海外はルックスも当然良いのですが、プラス、人間臭さというか個性的というか演技力の部分も含めた人間性に厚みがあるような印象を受けた。むしろ、海外映画の場合、モデルのようなルックスとスタイルの俳優さんはサブで、脇を固める配役が多く、しかも、イケメンでスタイル抜群だけれど癖が強い演技をされている場合が多い。一方、日本映画の主人公は人間的には勿論魅力的なんだけれど、人間臭さという点でも演技力という観点でもイマイチでも成立している。その分、脇を固める人達が主人公を光らせる物語脚本になっているような構造。これは、それぞれのファンが求めているニーズを反映させているとしたら、日本人はちょっと中身が足りないぐらいが感情移入しがちで、あまり人間臭さというかキャラが立ち過ぎたり演技力がディープだと共感しにくいニーズ(国民性)なのかもしれない。一方、海外の映画は主人公の人間性が深ければ深いほど感情移入するファンが多いのかもしれない。確かにたった2時間程度の映像に登場する人物像だから、分かりにくい人間性よりもちょっと足りないぐらいが程良いのかもしれません。それが物足りないという方は海外の映画を観るわけですから、映画製作現場でも興業収益のことを考えれば、少数派よりも王道で映画作品の方向性や内容を決めるのだろうし。

 ま、テーマへのぶっこみ加減も同様で、心をえぐるような掘り下げ方はせず、表面をサラリと撫でる程度のテーマの扱い方が、実は興業成績に直結するのだろう。

 当然、「ボーダー」のような映画が日本でバズる可能性はないのだ。

「ヒトテマ」という熱意。

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 いろいろなWEBページやSNSページ(YT動画など)を観て感じることですが、心が動かされるコンテンツってどこかなんとなく「ヒトテマ」を感じます。ネット情報だから当然、デジタルデータ。どこかからコピーした写真に表面的な文章をさくっと、たくさん文字があると誰も読まないからというテイで、それらしい短めな文章を添えただけだと、どれだけ発信者が本気で真剣で熱意があったとしてもその熱意は伝わりにくい。ネットで伝えられる情報は「視覚情報80%、聴覚情報20%のみ」と制限されている。皆さんが言語情報と非言語情報を同じ条件で発信している以上、できることならなんとか工夫してアイディアをひねり出し、共感してもらいたい。これは意識というか姿勢の問題だと思います。ま、それがちょっと過剰になりダラダラと(僕のように)長文を書いてしまうと、その共感も獲得できない危険性もあるのですが。でも、それは分かっているのですが、どうも気持ちが入り過ぎて書いてしまいます。それでも、なんとか共感してほしいので僕は掲載する写真や映像には「ヒトテマ」を心がけています。

 それが結果、モニターで観ている視覚情報の裏側でひっそりと機能している熱意の実態なのではないでしょうか。というか、作用してほしい、機能してほしいと願っています。

 「「描き込み」は必ず伝わる」これはワンピースの尾田さんの名言です。

輪郭を入れると。

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 で、面相筆で輪郭線を入れるとこうなります。結局、肌の色って、属性や性格などを表現するベースになりますし、一見、白人なのか黒人なのかという差別ではなく、それぞれ観た人の心の中には常識的な解釈がありますから、自分の中のそれとその一般的な解釈が大きくずれていないかなども色付きのラフスケッチで判断しながら、キャラをつくっています。当然、物語の原作は別で文字原稿でつくっていますが、文字だけだとどうしても物語に厚みが出せない。ので、わざわざこうして色付きのラフスケッチを描いています。このイメージを作品が完成するまでひっぱっていく、ひっぱられていく作用を逆に利用・活用しているという手順です。

 これだけだとどんな物語になるかは全然想像できないですが、これだけの登場人物をカラーで描いておくことで、製作中に大きくぶれることがなくなります。タイトルは「SIGN」としていますが、これは仮設定なので、どこかに発表する時は作品が仕上がってから改めて検討します。でも、ほぼほぼ、カラーラフスケッチを描いた段階で「SIGN」でぶれていないような実感はあります。

チャンネル文字制作中。

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 これは9月1日にオープンする「CUBE」というECサイトのロゴをチャンネル文字で制作しています。これをどのように使うかというプランはまだ固まってはいませんが、黒色タイプと白色タイプの2タイプを制作して、床の上や道路の上、芝生の上や岩の上などにこのロゴを並べて、「CUBE」のPR動画のオープニングに使おうと思っています。ま、3DCGソフトやA.E.を使って立体的なロゴは作れるのですが、なんか重量感とか存在感が無くて映像が薄っぺらくなる感覚があり、わざわざ、立体文字をつくっています。さてさて、どうなることやら。これもひとつの試行錯誤です。

肌の色合わせ。

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 ある物語をつくっている。その登場人物の肌の色イメージを決めるためのラフ着色。それぞれのキャラクター(人格)を固めるためにメモだけではなく、ラフスケッチに色を付けています。なかなか、肌の色は難しい。なかなかイメージとマッチしません。もう一ひねり必要です。

マクロレンズテスト#003

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 で、これは普通の画用紙に鉛筆で描いた下絵を斜め45度あたりのアングルで、少し右からのマクロレンズテスト撮影です。自然光なのでSSとISOの設定はまだまだ調整する必要がありますが、ほぼほぼ、平面を撮影するとこんな仕上がりになります。ここまで画用紙の質感が出るとは驚きです。さすが、短焦点レンズ!

マクロレンズテスト#002

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 アクトの入口をバックにクッキングモンスターのシェフフィギュアを撮影。これでF値が1.7、シャッタースピードが1/125、ISOが6400だったと思います。まず、フォーカスリングでピントを一番手前にして、ほぼ説明書通り、被写体までの距離は250mmぐらいで撮影しています。ファインダーではいいかなと思っていましたが、ココイチの場合は7インチモニターを使ってビシっといろいろな設定を合わせる必要があります。ま、欲しい位置にピントだけ合わせておけば、色調は最悪、PHOTOSHOPでなんとでもなりますから、ココイチは手持ちではなく三脚を立てようと思っています。

マクロレンズテスト#001

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 マクロレンズが本日到着しましたのでテスト撮影をしました。このレンズに関してはまだまだテスト撮影を繰り返していきたいと思っていますが、以前にマクロレンズは2本使っていたので、レンズの特性や知識はあるのですが、GH5と組み合わせるのは初めてです。ピントの位置を決めるためにフォーカスリングを使うマニュアル撮影が基本になるので、いろいろなモチーフをいろいろな状況で撮影して慣れていこうと思っています。

 近々に、このめだかちゃんが餌を食べている映像をYTにアップしたいと思っています。

写真撮影術と加工テクニック。

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 僕はSNSは自社ホームページへのサテライトだと思っているので、SNSでの交流にあまり積極的ではない。過去にひとつひとつ丁寧にレスを返していた時期もあったが、確かに楽しい実感はありましたが、結果、続きませんでした。それは情報発信の最終的な目的は単に楽しむことではなく、自分の仕事や技術を多くの皆様に知って頂き、仕事を増やし売り上げに繋げることだったからです。興味本位、好奇心でYouTubeにも取り組んでいますが、目的は同じです。だから、SNSでいろいろなレスポンスがあったとしても、ちょっと仕事に発展しそうにないなという情報に対しては反応しなくなりました。決して、情報を頂くことに対して否定的な意識はまったくないのですが、自分自身の目的にマッチする反応にのみレスを返すようになりました。これは協調性のない一方的な利己的な意識・姿勢かもしれませんが、長く続けていると自然と自分寄りのスタイルになってしまうものなのだと捉えています。レスを頂けるだけで非常にありがたいのですが。

 で、SNSや個人ブログで情報を発信する際、何が一番好印象を与える手法なのだろうといろいろ考えてみると、「文字<写真<映像」だと捉えています。しかし、「映像表現」は手間が意外とかかります。そして、センスや機材なども品質を左右するので、しっかり凝りたいところですが、あとは時間との兼ね合いで、比較的、スピード感があってイメージで情報を訴求する手法としては、やはり、「写真」なのだと思います。

 写真という手法、これはこれで凝り出したらエンドレスなのですが、サクっとGOODな写真仕上げ、しかも、伝えたいことをしっかり実装できている写真。これさえつくれる知識とテクニックがあれば、ある程度、訴求力・印象度・発信力のある情報が定期的に発信可能なのではないでしょうか。それは撮影術+加工テクニックの組み合わせだと思います。カメラのプログラムやオート機能に頼らない撮影テクとPHOTOSHOPを駆使した「いい感じ」のチューニングテクニック(カラグレ)があれば、伝達効率は格段に上がると思います。

お笑いテクニック。

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 このブログで以前(7年前)、「お笑い研究会」というカテゴリーで記事を書いていたことがあった。それは単に昔からテレビが好きで、特にお笑い芸人さんたちのネタやパフォーマンスが大好きだったから。しかし、ここ7年間、このカテゴリーでブログを書いていないことに今日気がついた。単にこのカテゴリーでブログを書くことを忘れていただけで、大した理由はないのだが、何故か、今日、ふと、「お笑い研究会」というカテゴリーが、まるで、初めてひらめいたような気分になり、ひょこりともぐらが記憶の穴から頭を出してきた。

 最近、ある方から「どうしたらSNSで「いいね!」が増えるのでしょう?」という相談を受けた時からずっと頭のどこかにその答を探していたかだろう。確かにSNSをやっている以上、「いいね!」は獲得したいリアクションのひとつだから、できるだけ数多く稼ぎたいという気持ちは誰にでもある。でも、炎上とか誹謗中傷を警戒しつつ、ビビリながら記事や写真をアップするのはなかなかメンドクサイから、「いいね!」は欲しいが「メンドクサイ」は要らないというスタンスです。で、いつしか「いいね!」はどうでもよくなってしまった。僕の場合。

 でも、漠然と曖昧に感覚としてどんな記事には「いいね!」が付くのか?そして、どんな記事には「いいね!」が付かないのか?という、あくまでも個人的な分析と洞察で方程式のようなモノがあり、それを確認するために「お笑い」について記事を書いてみようと7年ぶりにひらめいたのだ。その結果、そのままのテンションで本屋に行き、必然的にこのタイプの本に心がロックオンしてしまったという展開です。

 まだ、「はじめに」しか読んではいませんが、なかなか冷静なロジックです。INDEXを読むと事例も豊富そうだし、さすが、お笑いスクールの講師などをしておられる放送作家さんだから鮮度の高い良質なお笑いのロジックについて素人の好奇心を満たしてくれそうです。

 で、実際にこのロジックを生かした記事投稿に挑戦してみたいと思っています。

 が、何事にもくどくど無意味な粘り気がある僕が書く文章だからどうなることやら。

 ま、ディープに捉えずライトな気持ちで楽しめれば、誰かが共感してくださるかな。

 と、勝手に思い込んで、自分自身の好奇心を満たす目的で「お笑い」に挑戦してみたいと思っています。小学生の頃、言葉遊びが過ぎふざけた発表を繰り返し、「真面目にしなさい!」と先生に怒られたケース意外、そこそこ「お笑い」の空気は長けているつもりなので、この本を読んでその感覚が強化されることを願っています。

 恐らく、恐らくですが、この本を買う人間は2種類。
 それは、「行き詰った売れないプロ」か僕のような「能天気な思い込みの激しい素人」だろう。普通の常識な人達は「「笑わせる技術」より他にたくさん必要な技術があるだろう!」と、小学校の先生のようなタイプが多いのだろう。きっと。たぶん。

「蛍」の撮影

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 過去に何度も挑戦して成果が上がっていない「蛍撮影」。そろそろ蛍シーズンです。今年こそ!

マクロレンズ。

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 「パナソニック 単焦点レンズ マイクロフォーサーズ用 ルミックス G 25mm/ F1.7 ASPH. ブラック H-H025-K」をアマゾンで購入しました。レンズと保護フィルターで2万円は良い買い物だったと思っています。マクロレンズはピンキリなので10万円台以上のレンズもあるのですが、アマゾンのレビューやメーカーの記事を読むと、短焦点レンズだから安価でも優れているという評価も多かったので、迷わずこれに決めました。焦点距離25mm、F1.7の世界はかなり写真撮影でも動画撮影でも威力が大きいと思います。

オフィスの価値がなくなる!?

 確かにリモートワークが普及して改めていろいろな「無駄」がはっきりしました。その中でも「オフィス」の価値はなくなりつつあるそうです。何故なら、オフィスからは何も価値が生まれないからです。価値を生み出すのハコやモノではなくヒトだからです。

 テレビ番組を観ているとそのことがより明確です。必要なのは誰が登場しているかであって、巨大なスタジオや高額・高機能なカメラ機材や編集室はあまり必要ない。

 で、つくり手であれば、集中できる環境(場所)に投資したほうが適正となります。そして、机、コピー機、紙、はんこ、固定電話、通勤、会議室、対面営業、出張業務なども検討する余地が大きい。ま、デザイン制作業務に取り組む上で、パソコンは必要なので、机や紙も必需品ですが、確かに会議室や出張業務などはぎゅっと圧縮・割愛できそう。だから、業務のオンライン化が必要ではなく、何をオンライン化するかが重要なのです。

 組織でチームで時間と歩調を合わせて意見を出し合うことは個々の生産性を落とすサイクルを作り出してしまいます。みんなで足並みを揃える空気は個の創造に価値がつく時代と相性が悪くなるということでしょう。

 それぞれの状況や条件がありますから、極論は避けなければなりませんが、「無駄かな?」と思えることをすべて排除すると心が晴れるのも事実。僕の個人的な意見ですが、リモートワークは仕事に集中できるメリットが大きいです。集中できる理由として、結果、無駄を排除できるからだと思います。今回の非常事態でいろいろな常識や慣習が変化しようとしています。1年前は常識だったことが今では非常識ということもたくさん起きています。

 「時代に適応する」とは、そんな常識や固定観念を一旦リセットして、変化に合わせて環境から再構築していくことではないでしょうか。その上で新しい必要なマストアイテムがあれば、追加していくことで、より戦略的に効率的に進化することができると思います。

 だから、僕の場合まず「マクロレンズ」がマストかなと最近メラメラしています。こんな時代になっちゃた以上、ムダな出費・コストは検討し、自分への投資にフォーカスした方が聡明・賢明なのだと思います。

マザーレス・ブルックリン。

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 最近、DVDで観た映画「マザーレス・ブルックリン」。良質な映画には種類あって、観ている間の興奮度が高い映画と見終わってからジワジワ効いてくる、心に沁み込んでくる映画がある。言わば、フロータイプとストックタイプ。これは僕の場合、ストックタイプで見終わってからもノートンが登場したシーンが何回も何回もフラッシュバックされます。で、なんでそんな風にそのシーンが心に焼き付いたのかを考えてみるのですが、その理由は分かりません。この強さというか特質っていったい何が作用しているのか?と。物語・脚本はそれほど特異・特筆するような流れではなかったのですが、そのディテールが記憶に刻み込まれてしまいました。恐らくそれがノートンの狙いなのだろうと捉えています。さすがの手腕と姿勢、ノートン。

ラスト・ランボー

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 いろいろネットで検索していてこの映画の情報にたどり着いた。そうかそうか「ラスト・ランボー」なのかと。「ファーストブラッド」からの「ラストブラッド」だから、言わばランボー(スタローン)の歴史の締めでもあったりする映画なのです。「ファーストブラッド」の時代から「ラストブラッド」へ世界の状況も大きく変化しましたし、映画産業の変化も著しい中、スタローンのエンタメスピリッツはこれで閉幕となるのだろう。「ランボー」シリーズはすべて観ているのでとても楽しみな一本です。

直感はいつも正しい。

 仕事や人生のいろいろな局面で重要な選択や状況判断をする場面があります。で、その結果を振り返ると、一番最初に感じたことがだいたい正解(適正)だったケースが非常に多い。

 例えば、新しいお客様からの案件を相談された時、企画内容の条件や仕様は魅力的なんだけれど「なんとなく…」と違和感を感じる時があります。理由は明確に分からないけれども、「なんとなく???」なのです。で、そういう仕事を引き受けてしまうと大抵うまくいかない。結果、いろいろなことがグダグダになります。

 理論・理屈にに引っぱられてズルズルとその状況が続ければ、自身が嫌な気持ちになるだけでなく、相手にも迷惑をかけてしまうという散々な結果を引き寄せてしまいます。

 つまり、何かしらの打算や先入観が介入するほど、自分が生み出したいデザイン(仕事)と離れていく感覚です。人間関係も同じです。

 結局、答えは最初から出ているんです。実は感覚って最初から正しい方向を見せているんですね。理論理屈を抜きにしてとてつもなく正確な方向性を指し示しているんですね。「感覚」は本当に大切です。

 自分の「感覚」が信じられなくなったら、一旦、深呼吸して熱くなった思考をクールダウンさせなければ、どんどん深みに沈んでいきます。

フィギアづくりのお手本。

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 これはとてもお手本になります。2次元を立体にする能力って何と何だろう?当然、デッサン力とかも必要なんだろうけれど、恐らくそれだけじゃないだろう。粘土に向かう際の器用さってどのようにして習得するのだろう?とにかく粘土に向かうしかないのだろう。絵を上手く描くのに理屈がないように、良質なデザインをつくるのに近道がないように。

イラストレーターとフォトショップを極める。

 この時期、生きていくためにデジタルスキルをアップしようという方が多いような印象を受ける。滋賀県長浜市でデザインの仕事をしていてそう感じるのだから、東京や大阪ではもっとリアルな現状があるだろう。

 リモートワークというスタイルが定着し、スマホさえあればテレビ番組が成立することを私達はもう知ってしまった以上、もう、元の仕組みの優位性は完全に消えたと言える。

 ならば、このタイミングでつくり手はどんなスキルやテクニックを磨き成果物(作品や商材など)を完成させる方法を習得しなければならないのか?

 「デジタルツール」×「インターネット」×「リモートワークスタイル」=つくり手という
方程式が今後、大きなバリューを生み出していくことになるのだろう。

 で、つくり手は何から始めればいいのだろう?

 今から最新のイラストレーターの専門書やチュートリアルに挑戦するよりも、それらの知識はソフトを買ってパソコンにインストールすれば誰でもできることだから、その前段階の準備をしっかり整えておくことのように思える。それはつくり手としての良質なコンディションづくりだと。結局、デジタルツールでできることの幅や可能性って、つくり手次第なんだから、僕はあまりイラストレーターの「テクニック集100選」みたいな書籍は買いません。実際、仕事に使えるテクニックは100個の中の2~3個だから。本屋で3分間ほど立ち読みすればこれとこれは使えるけど、あとは必要なし。という専門書が非常に多い。でも、逆に書籍や専門書などを企画して編集する立場になれば、書籍を売るためにはあれもこれもと100個は入れておく必要があるのだとは思いますが、実際、現場でそのテクニックはないですね、というパターンが非常に多い。

 だから、一回基本に立ち返り、そもそもイラストレーターというソフトは何をしているのかという根本の部分をしっかり理解・実感することだと思います。

 ジョブスが言っています。ドットとドットを繋げよう!という意味の言葉「Connecting the dots」はそういうことだと思います。正にイラストレーターのポストスクリプト構造に合致します。

 そして、次にピクセルの存在を再確認・再発見してPHOTOSHOPを起動すればいいのだと。

金属製のパレット。

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 金属製パレットの調子をアクリルガッシュで確認しています。絵の具の生塗りの場合と薄める場合などでもこの形状と金属表面の質感がどの程度使いやすいかについてです。ずっと、カラーインクもアクリル絵具もポスカラも白い陶器の絵皿を使ってきたので、金属製には何かメリットがあるかもしれないと期待して買いました。

 で、少しずつ陶器との違いを感じています。それは、陶器は上薬を塗って比較的つるつるに仕上がっていますから、絵具、特にアクリルガッシュの生練りならば問題ないのですが、水を多く使うとやはり表面張力で弾きます。それが微妙な色作りの際にちょっと困ります。長年使っているので慣れてはいますが、この金属製パレットは表面が陶器と比べて適度に粗く、絵具を混ぜやすく、しかも、乾燥し始めてから皮膜ができにくい。これはどういうメリットかと言うと、陶器の場合、表面がつるつるなので、絵具が硬化し始めた際、表面の皮膜が細い面相筆の先に付着して、気がつかないと画面にその皮膜が付いてしまう。それが、金属製パレットの場合は皮膜が硬化しにくいような感覚があり、微妙な色あいをある程度、パレット上でキープしてくれます。これは一回練った色がパレットの上で一定時間残りますので、作業効率が上ががります。単に単色をパレットの上に出して、画面に着色するわけではないので、どうしてもパレット上の混色加減で色を決めたいからです。ちなみに油絵ならば筆で画面にイメージしている色をのせてから混色しながら描き、イメージと異なれば拭うという繰り返して色を決めていけるのですが、水彩、特にアクリル系の絵具はパレットで色を決めたい。それがこの金属製のパレットではかなり効率的にできます。それに、ステンレスの銀色が意外とそれぞれの色を客観的に公平に見せてくれるという効果もあります。使っていくといろいろ発見できます。

つくり手の心得#005「資料探し」について。

 デザインの仕事はつくり手の知識・技能・経験値が売りなのですが、それだけでは多様な仕事を効率良く成立させることはできません。

 それは「資料」です。

 例えば、図鑑のリアルイラストレーションを描くという案件が発生した時はインターネットのなかった時代だったので、図鑑を探す、専門書を探す、そして、実際、描く実物が入手できるなら入手するか、写真撮影をする。実際、図鑑で同じモチーフが探せたとしても、専門家の見方はイラストレーションのクオリティーではなく、モチーフを徹底的に正確に描くことです。色や質感や構図は勿論のこと、どういう構造になっていて、それぞれの描くパーツの比率を指摘されます。思い込みや予備知識は全く参考にならないので、資料通りに描くという手順でした。

 今の時代、ネットで画像検索するば簡単にたくさんの写真が入手できます。20年前とは比較にならないぐらい恵まれた環境です。資料探しの時間効率はネットがなかった時と比較すると1/10ぐらいの感覚です。しかし、案件のモチーフが決まっている状況ならこれで資料探しは成立するのですが、ざっくりした提案型の企画案件の場合、どんな資料が適正なのを自分なりの知識と経験値から想定したアイディアをベースに資料を探す場合はネット時代だとしても苦労します。それは、資料を探す前段階である程度の「予想」「推測」をしなければなりません。この状況でまだ制作するデザインについて正解が見えていない状況ですから、広めの「予想」をしなければなりません。つまり、つくりたいデザインの参考になることが必須条件なのですが、参考になるだけでも足りないのです。

 構想している段階ではかなりイメージが大きいので、どの部分の資料なのか、もしくは新しいアイディアを得るためなのかを広く多めに探す必要があります。ここでポイントになるのが、検索キーワードの選択です。まだ、構想の段階で明確な言葉が選択できていない、曖昧なイメージがある段階ですから、当然、キーワードも手探りになります。その上、どれぐらいの量の資料を集めたら充分なのかも正解はありませんしマニュアルもありません。これはつくり手のテクニックでもあり、ひとつの仕事を完成させるためにとても大切な手順なのです。

 仕事の効率をより上げるために、イメージと言葉を連携・相関する日頃からの意識が大切ですし、時間があれば、どんな仕事に使えるか分からないが、とりあえずこのチラシは何気に良いのでもって帰ろうということの繰り返し、積み重ねが習慣となります。

 知識・技能・経験値と合わせて「資料」はほんとに大切です。

ヒル君を捕獲。

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 今朝、めだかに餌をやっていたら、水槽の内側でニョロニョロする黒い生物を発見。かねてよりカミさんが発見したと言っていたヒル君である。ちょうど3匹がタニシのまわりをクニョクニョしたいので捕獲して、いちごジャムの瓶の中に水草とミニタニシを2匹入れて会社で鑑賞しています。

 けっこう、子どもの頃から野外で遊んできたので大抵の生物は図鑑を見なくても分かる。しかし、意外にも「ヒル」に野外で遭遇した記憶は3回ぐらいしかない。しかも、自分の身体にひっついていたという状況ではなく、沼や湿地の上でなんとなくウネウネしたのを一瞬見た程度。どうも薀蓄の方が先に頭に入ってくるので、野外に行き「ヒルがいるかもしれない」という情報や季節の状況を判断して、そういう場所には徹底的に行かない人間なのである(基本ビビリ)。だから、こうして透明の瓶に入れて、まじまじとヒル君を見るのは生まれて初めてぐらいのことなので、なんか、今朝からテンションが変です。

 タニシにひっついたり、水草にひっついたり、プニプニしています。決して、どう捉えてもカワイイ生き物ではありませんが、今の気持ちを言葉にするとしたら、非常に悔しいことですが「カワイイ」となってしまいます。

「休み」について。

 デザインの仕事を長く続けてきた結果、僕は「休み」という状況がよく分からない。「寝る」なら分かるだが、起きている状態、意識のある状態の中で、どうも「休む」という状態との違いが分からない。これは完全に仕事中毒かもしれない。

 具体的な仕事(業務)内容はお客様のところへ出向き打ち合わせしたり、制作中のデザインを確認してもらうことや写真・動画撮影など。それ以外は基本、会社の中でパソコンでデザインを制作したり、写真(映像)撮影したり、企画書を制作している。

 で、営業時間が終わっても飯を食ったり、テレビやDVDを観ているかなのですが、仕事場にいない時でもデザインやアートのことをほぼ考えている。つまり、朝起きてから夜寝るまでほぼ頭の中はデザインやアートのことばかり。テレビで芸人さん達のネタを観てていても新しい言葉の発見はできないかとか、ニュースキャスターの話を聞いていても台本(内容)の組み立て方が気になり、企業CMの映像やBGMでも、常にアイディアを物色してしまう。これは完全に仕事中毒なんだけれど、ストレスやプレッシャーは感じていないし、むしろ、頭の中がいつも軽いハイ状態で心地良い。

 また、趣味の時間が「休み」だとしたら、芝生の上で友人達とゴルフに興じている時、ボートの上でバスフィッシングをしている時、山を登っている時、ボルダリングの壁にしがみついている時は集中しているが思考はOFFじゃないので遊びだが「休み」ともちょっと違うような感覚があります。

 ま、一年に数回、風邪で高熱になってダウンしている時でさえ、仕事のことが気になっているし、思考がOFFにはならない。

 本来、「休み」というのは身も心も頭もOFFの状態だとしたら、僕は365日、起きている時間は常にONの状態なのかなと「休んでねぇな…」と気づいたのです。

 コロナで「自粛」を強いられてストレスによるいろいろな障害を回避する方法がテレビや新聞で報じられて、改めて仕事中毒の僕は「休み」についてちゃんと考えようと思っています。しっかり「休み」をとらないと「貧乏なんとか」となり、当然、成長も進化もないマンネリに陥っているかもしれないので。

つくり手の心得#004「作業スピード」

 僕は「せっかち」なのでいろいろ仕事がタイトになってくると、すぐに仕事が「雑」になる。どんな仕事も公平に集中することが基本だと頭で分かっていても、いろいろな条件(優先順位など)を勝手に振り分けて、丁寧さや慎重さの割合に格差が生じる。生じるなどと、他人事のような言い草になってしまうが、実際の仕事現場って多かれ少なかれそんな感じで優先順位を決めてしまうことってクリエティブワークの「あるある」だと思うのです。

 なんせ、手は2本、時間は一定の速度で進んでいるので、1時間に仕上げなければならないデザインワークが1本の場合と10本の場合では当然、ひとつにかける時間が1/10になる。で、つくり手(クリエイター)に求められるスキルが「作業スピード」なんです。

 昔、広告代理店の制作会社で仕事をしてた時、代理店のディレクターさんに「遅い仕事は学生でもやりよるで!」と仕事している裏でガミガミ言われながらデザインをつくっていた。
「そんなガミガミ言うならお前がやれよ!」という言葉を飲み込みながら、必死に手を動かしていました。当然、間違いやケアレスミスが多くなるし、デザインの完成度は上がらない。吟味してチューニング(微調整)する時間が貰えないからだ。1年中そんな仕事のペースだったから、同時に鍛えられたとも言えなくないが、僕は「せっかち(雑)」になってしまった。

 この姿勢、一時が万事なので、いつか師匠のように物静かにゆっくりと腕を組み、デザインの熟考に浸るような佇まいが醸し出せないものかと感じつつ56歳になってしまった。

 さて、そんな経験の末、僕は「せっかち」が身体に沁み込んでしまい、「雑」になることが多いと自己分析するようになってから、無理矢理、仕事の作業スピードにブレーキをかけ、シフトダウンするよう努力しています。当然、そうすることでたくさんの発見もあるし、ケアレスミスも激減。そして、デザインのチューニングポイントも良く見えるようになったし、根本が捻れていたり方向性がスタートラインからぶれている場合なども発見できるようになった。

 しかも、「せっかち」なので、そこそこの作業スピードなので、1ギアシフトダウンしても速度は一般的な速度よりも落ちていません。それを自覚した事例としては、以前、テレビ局の映像用ボードの制作をしていたディレクターさんの仕事をさせていただいていた際、毎週、数十分単位のスケジュールでデザイン制作に取り組んでいた。ディレクターさんからのご要望案件には必ず仕上げ時間の目途が記載されていて、それ以上時間が経過していまうと、「もっと早くできないですか?」と警告を受けた。さすが、民放のテレビ局の番組制作の現場で、テレビ画面の制作オペレーションを次から次へと仕上げ、放映するとなれば、「トップスピード」と「完璧完全な仕上げ」を両立しなければならなったそうです。そんなエキスパートの方と長浜にいながら仕事を出来たのはとても幸運だった。最初の数ヶ月はまったくスピードも完成度も上がらず、苦労したが、半年ぐらいから、なんとなくポイントが分かり、警告を受けなくなった。たまに慣れてきてケアレスミスを連発した時は激怒されたが、それでも、良質な経験だったと捉えている。

 つまり、デザインのプロなんだから良質な「知識・技術・経験値・感覚・人格」はあたりまえ。その上で、作業の「スピード&品質」もとことんまで追求しなければならないのです。「これでいいじゃん」ってなってしまったら、そこで「成長」も「進化」も、さらに「デザイン力」も止まります。

「下町ロケット」タッチのシチュエーション。

 こういう時期だからかもれいないが、テレビでは危機的な状況に陥っても復活を目指して諦めず、仕事に立ち向かう経営者を描き、諦めないことや挑戦し続けることの大切さを熱く実例に沿って脚本を入れ物語化してくる。どんな成功事例にも必ず「苦節」という時期があり、成功まで辿り着くにはそれ相当の探求心や研究心が必要であると同時に、向かい風に対して耐える精神的な強さや同じ成功を目指す仲間同士の絆が大切だと説いている。

 また、有名タレントの苦節時代の話からの輝かしい経歴や実績までの流れはただの視聴者として観ている分には冷静に見ることができるものの、じゃあ、この物語のような状況に自分がなった場合、自分はどんな思考でどんな行動をとるのだろうと飛躍していつもテレビコンテンツ(物語)を意外と真剣に楽しんでいる。ま、実際はテレビで描く「苦節」より苦しかったのだが。

 映画「12モンキース」についても同じで、
「ウイルスが世界中に蔓延して人口の90%が死滅した世界」を映画として、ただ気楽に楽しんでいられた状況は大きく変化し、「事実は小説より~」状態になった今、僕はこれからの時代をブルース・ウイルスのようにタフに生きることができるのだうか?などと妄想しています。

 そこで危機的状況から復活話の鉄板「下町ロケット」タッチの物語には5種類の人間が登場しているように感じた。それは、

危機的な状況に陥る経営者(社長)タイプ、
その経営者を支えるタイプ、
その経営者を徹底的に否定するタイプ、
状況を冷静に理論的に判断しようとするタイプ、
そして、圧倒的な財力で圧力をかけてくる大企業。

 このシチュエーションならば大抵の人達は経営者タイプに感情移入する場合が多いだろうし、それは設定的に主人公だから当然のこと。物語が展開していく上で、どうせ、成功するだろうという予測が立つので、そのポジションに感情移入しておけば、最後はハッピーエンドで心地良くなれると誰もが推測するだろう。でも、僕は物語が始まり、気がつくと「経営者を徹底的に否定するタイプ」の人に感情移入していることが非常に多い。明確な理由は未だ分からないが、直感的に本能的なポジティブ人間ではなく、根の部分がとことんネガティブ人間のようだ。仮になんらかの経営者との利害関係や大企業との相関性の中で自分のポジションが攻撃されると風見鶏のようにカメレオンのように変化するタイプで、一番深い根の部分はかなりネガティブなんだといつも変なテンションで観ている。

 さて、実際、現実に同じシチュエーションになったらどうなるのだろうと心配し警戒していたが、ほぼ、今はほぼそういう状況だ。自分の中のネガティブな思考が塊になってカチンと氷結・圧縮されて、ゴルフボール大に固まりコロンと口から出てきそうな状況だ。

 しかし、その塊が実はこの状況を乗り越えるためのアイディアだったり、ノウハウだったりテクニックだったり知恵だったりするのではないだろうかと考えたりもする。結局、そういう状況になって自分の中から何かを生み出さない限り小手先テクニックでの作品づくりでは、例え、オーソリティーから高い評価を得ようが、最後の最後で僕自身(この僕は)は納得できないはず。ほんと、他人の評価(言葉)って実際、ガチで多様過ぎて、迷うことが多い。

SNSについて。

 僕はSNSについてこう考えている。

 SNSの中にも、信頼関係がありその信頼関係を構築できる部分は人間性の部分であり、それは個性(人間臭さ)です。その個性の種類や数量・物量の大小で発言(情報)の重みが変わってしまい、どんなに主張が正しくとも誰でも情報を発信できる社会において、正しいことはもとより、それに付随して自分が発信した情報に対して何らかの信頼性を獲得しなければならないのでは?と考えているわけです。

 それは「鮮度」だったり、「リアリティー」だったり、「信頼関係」だったりしますが、そもそもそういう関係性の薄い相手からレスポンスがあったとしても、「誰?」となってしまいますし、逆に名前の売れている有名人からレスポンスがあれば、それだけで嬉しくなります。この違い、意外と谷が深いような気がしています。「友達申請」って言われても、「友達」関係って申請したら成立するの?って感じ。そうじゃないですよね。

 いやいや、常識的に良質でお得な情報を正直に発信すれば、不特定多数からの指示や高い評価が得られるという常識・通念も少し違和感があります。この「常識・良質・お得・正直」というマジックに翻弄されてはいけないのかなと。たぶん、そのマジックには意外なタネがあって、それらはそんなに単純な構造ではないんじゃない?という疑問です。

 ビジネス書で「良好な人間関係を築きましょう!」って感じで具体的な基本的な手法がたくさん書かれていますが、確かにそれはその通り、恐らく、その意識でその姿勢でその行動を起こせば、常識的に相手は常識的な反応をするだろう…ぐらいは誰でも想定できますが、世の中で起こっているネット炎上や些細なイザコザはその先にというか、その裏で何かしらの理由・原因でスルー(無視)して起こっているような状況があるはず。

 だって、高学歴の官僚が次から次へと言葉の選択を誤っているリアリティーを毎日テレビで観て、それを揶揄したり否定する人達も含めて、こんな状況だから皆様の軸もぶれ気味だとしても、すべて個性的(人間臭さ)だと解釈すれば角は立たないような気がするのです。

 義務教育では「読むこと」「書くこと」を強化し、「話すこと」「聞くこと」は重きを置いてこない仕組みだったという情報を本で読むと、なんとなくぼんやりと曖昧にですが、現在のネットやメディアで起こっているいろいろな状況の構造が少しだけ分かるような気がします。

 で、SNSはどうか?

 なんとか、僕は個人レベルで「個性(人間臭さ)」を発信しようと試行錯誤していますが、まだまだ、正解は分かりません。しかし、それはもしかすると、分かるモノじゃなくて、最後の最後まで試行錯誤でいいんじゃないかなと、少し諦めもあります。

 そもそも「個性」って何かしっくり言葉にできていないので、当然ですよね。でも、本当の真意とか真理って、言葉にできない、してはいけないモノじゃないかとも思うのです。

 だから、SNSってとても難しいけれど、もしかしたらなんか素敵なツールなんじゃないかと期待はしています。ただ、自分の個性や能力がこの素敵な仕組みをしっかり使いこなせていないんじゃないかという消化不良感も抱いています。

ブログの書き方。

 海外でオフィスワークをする際、一般的なデスクワークは椅子に座っているが、ココイチに集中して文章を考えたり、企画・アイディアを出す時はデスクよりも少し高い場所を探して、立った状態で書類づくりやノートパソコンを移動させて仕事をすると、集中力が高まるらしい。僕自身、長時間パソコンの前で仕事を続けるのは90分ぐらいが限界で、椅子を離れコーヒーを飲んだり、書庫に行って資料を探したり、タブレットかスマホで調べ物をしたり、一服しに行くことが多い。リラックスも大切だが、椅子に座ってパソコン相手に仕事に取り組むのは基本あまり好きではない。このブログも以前ならキーボードに直接文字入力して書いていたが、考えながら書くという作業は意外と効率が悪い。どんな些細なネタでも一旦メモ用紙かブログ専用のノートに書き出してから、改めてそれを草案として書いています。この手順は東京の友人(編集者)からのアドバイスで、一旦、思考は紙に書いてからキーボードで入力することを薦められてから素直に実行しています。また、入力後もそのまま保存(投稿)ボタンを押すのではなく、最低でも3回は読み直せというアドバイス。できれば最後の1回は声に出して読むようにと徹底してブログの書き方についてアドバイスを頂いた。ま、僕のように文章力のない人間がいきなりキーボードでそれらしい記事を書こうとしてもダメなのです。単に何かの事実を情報として書く場合は、数値的な情報や状況説明や根拠を正確に記述する必要があるが、記事として書くのであれば、その情報をさらに誰かに伝えようという意図・ニュアンスも実装しなければならず、それが一番難しい。この部分、編集者のアドバイスとしては目の前に一番この情報を伝えたいという人の顔を思い浮かべて書くというテクニックも頂き、今回もそのアドバイスを実行しながら書いています。

 それは当然、大阪で同じデザインの仕事をしている娘です。

Shopify(ショッピファイ)とは?

 「Shopify」とは、個人ショップから大企業まであらゆるビジネスの成長をサポートするECサイトを起動するためのプラットフォーム。ついにここまで来ましたかという印象です。

→公式WEBサイトはこちらです。

 いやはや、なんとも、人間はただ商品を用意してその気になるだけでいいみたいです。

今からテイクオフ!

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 本日は長浜市内でドローンを飛ばしてきました。新しい分譲地の空撮です。この写真は離陸前に誤って撮影ボタンを押してしまった時の写真。普段はこんな写真は撮影しないのですが、なんとなく不思議な写真です。水平なポイントで2m以内に障害物がない状態からのテイクオフが基本なので、この写真を確認するとちゃんと初期の段階で写真の水平はキープできていることが分かります。ただ、地上で風速3mぐらいだったので高度120mまで上げましたが、センサーは「強風注意」の警告サインを出していました。上空の風速は12m~15mでしたので、写真の水平は少し狂っていたはず。ま、アングルが斜め下だったので構図的に気にする程ではありませんでした。

卓上ルーペが到着。

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 これは卓上ルーペ。最近、購入した眼鏡タイプのルーペが大満足で、他の拡大レンズアイテムをネットでリサーチしていて発見しました。確かに眼鏡タイプは大満足なのですが、パレットで色を溶く時にルーペ部分意外の視野で見なければならないという状況が少しやりにくい。実際、色を塗っている際はまったく問題ないのですが、パレットで色を合わせる時は拡大する必要がない。ということは描いている対象(イラストボードなど)に対してルーペが固定でもいいんじゃないのか?という実感です。ま、立体作品はデスクの上に置いて着色しないので、手で持ちながら着色する場合は眼鏡タイプの方がやりやすのかもしれません。老眼の人間だから、いろいろアイテムを探して試行錯誤しなければなりません。

金属パレット到着。

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 これはアメリカのフィギュア職人がYT動画の中で使っていて気になった金属製のパレット。実際、ステンレスかなと思っていたが意外とチープ。でも、金属製のパレットで絵具の色を合わせる何か利点があるように思えて、購入しました。実際、まだ使い込んでいませんが、たぶん、何かあるはず。ずっと、白い陶器の溶き皿を使ってきて特に問題はないのですが、興味本位で買ってしまいました。白色の陶器よりもこの金属製で絵具を調合することの利点が何かあるのでしょう。実感できたら、また、このブログで紹介します。

 しかし、海外の船便で送られたのでしょう、到着した際はベコベコでしたが、普通に手で力を入れて調整できたので、クレームはしないでおこうと思っています。ま、¥707でしたし。

恐竜の化石。

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 これは少しずつ石粉粘土を部分的に盛りながら仕上げている恐竜の化石レリーフ。成形行程はこのあとのサンディング行程や着色行程を想定しながら、写真を見て立体感を決める大切な工程です。粘土を盛って削っての繰り返しが一般的なつくる行程のようで、確かにこの段階でも「盛ると削る」という作業を3回ほど繰り返してきましたが、やはり、気になる部分が多い。実際の化石を見ながら成形しているわけではなく、あくまでも想像との検証なので、「こうじゃないかな?」「ここが足りないな?」「ここが少し写真とニュアンスが違うな?」などと次から次へ改良点が見えてきてしまいます。つまり、この行程はエンドレス。なんとなくデッサンと似ているような気がしています。

よく分からない。

 何事も「よく読めば」分かり、「よく読まない」から分からない。

 もっと、慎重に冷静にじっくり読めば理解できることを「邪魔くさい」「どうせ理解できない」「時間がない」という言い訳を添えて、ただ単に「分かる」ことを放棄している。これが僕の場合、とても多い。

 裏を返すと、「本当に分かりたい」とは思っていないのかもしれないという葛藤がある。これは言葉にすると固定観念なのか?先入観なのか?長年の悪癖なのか?自分に都合の良い、歩きやすい道しか選択していない。そんな気がしています。

 例えば、WWWサーバの設定が上手くいかない。サーバ会社のサポートにメールをする(何故かちょっとキレ気味で)が、返信のポイントがずれている。つまり、僕が正しく状況を整理できていない。

 で、再度、メールを送ると、「下記のURLをご確認ください」と返信がくる。
「いやいや、そうじゃなく、メールで分かりやすく書いてほしかったのに」と思いながら、URLを確認すると欲しい解答以外に専門的な言葉で自分のトラブルとは関係のない情報が規定通りに書いてある。僕のトラブルの場合、どこを読めばいいのか分からない。つまり、しっかり落ち着いて送られてきたページを読めていない。イライラして「どこに書いてあるんだ!」という気持ちが強くなり、文章が頭に入らない。つまり、すべてがそういうことなのです。

 次の日、冷静になって送られてきたページをしっかり読んで、書いてある手順でやれば、問題は簡単に解決。

 う~ん、今回も最初からしっかり読めば良かっただけか…、というパターンです。

 だから、「よく分からない」という気持ちになったら、一旦、画面やマニュアルから意識を外して、リラックスしてから再度読み始めることにしています。ゆっくり読めば理解できたであろうに、恐らく、イライラしてその機会をたくさん失ってきただろうと考えると、何事も「急がば回れ」なんだと痛感します。

 余談ですが、僕は本を良く読むほうなのですが、最近はちょっと新しい読書術に挑戦しています。それは、「同じ本を何回読む」という挑戦です。これまで一回読んだら次へ次へと中途半端な「分かった」を繰り返してきたかもしれないという反省から、挑戦していることです。
で、心に響いた一文があるとそのページの隅を折ります。そんな本が何冊かあるのですが、一番読む本はページの80%ぐらい折れているわけです。

 それほど僕の「分かった」は適当だったのです。

本当に大切なモノ。

 生物はすべてそうなのかもしれないが、本当に大切なモノのこと(情報)を他人に教えない
傾向が強いような気がする。リスが木の実を隠すように、モズがバッタを枝に刺すように、狸がサンダルを集めるように。そんな独占したいという思考・意識が強く働いているような気がします。どうやらこの部分は理屈ではなく本能の部分で、このテーマについて具体的に分析・考察しようといろいろな本を探しているがそんな書籍(著者)にまだ出会えていないので、まったく根拠や背景はありません。ただの個人的な解釈です。

 ただ、現在のネット、特にSNSで得られる情報をざっくり総括するとそんな印象が当てはまるような気がするのです。

 むしろ、それは意識して大切な情報を出さないのではなく、SNSという仕組みの中にそれを入れにくいという構造の問題だと思っています。また、大切な情報が自分自身でも何か整理できていないという状況もあるでしょうし、それを言葉に文章にすることが、なかなか難しいという面もあるでしょう。

 より大切なコト(思考や情報や意図など)は言葉にしようとしても、できないということなのかもしれません。

 それは政治家のコメントのように、学校の先生の教えのように、評論家が語るアート作品の評価のように

つくり手の心得#003「型にはめない。」

 つくり手ならばデザインを構想する時、「型」にはめてはいけないと僕は考えている。

 若い頃、特に固執していた「自分のスタイル」という意識だ。ビギナーだからどうしても早く一人前になりたいと考える。今、56歳になって30年以上もデザインの仕事に従事してきたから一人前だとは当然、考えていないが、アナログ時代からデジタル時代、WEBサイトデザインから映像・動画制作などの仕事に携わってくるとそれぞれの段階で「自分のスタイル」つまり、「型」の有無や効果を意識してしまうことがある。

 それは、仕事を納品した瞬間に強く意識する。

「もう少し、あそこはこうだったかな?」
「クライアントさんはOKとおっしゃったが…」
「また、同じ失敗をしてしまったが、何とか納品できたぞ!」
 あの手順、この効率、その完成度、一様に仕事が完成して納品した瞬間、自分のスタイルらしき一片が一瞬、チラリと見えた気持ちになる。でも、次の瞬間、「まだまだ、これじゃない!」と気持ちが次の仕事に向け切り替わる。勿論、そこまで全力でデザイン制作に取り組んだからこそ、次のシーケンスが見えてくるのですが。さて、「これでひとつ自分の型ができたかな」とは意識して考えないできた。

 結果、デザインを「型(スタイル)」として捉える意識を消すことができて、現在に至っている。

 ひとつのスタイルで仕事を長年続けている友人やメジャーなクリエイターが「これば僕のスタイルですね」などと雑誌のインタビューなどでおしゃっておられるのを聞く読む度に、僕は思う。
「それはちょっとデザインじゃないのでは?」と。
 同じ思考、同じ手順、同じ行程でデザインを制作していたとしても、最初から「型」に流し込むだけなら、それはオペレーションじゃないかと。どんな状況でも仕事のスタートラインに立った時は新鮮な気持ちでいたいし、過去の失敗をいっぱい悔やみながら、今回こそは「新記録を出すぞ」と短距離走のようにピリピリしたのです。

 確かに満足感や達成感は残るものの、その余韻に浸るより、パチンとスイッチを切り替えて、次の思考にダイブしたいと思っています。過去の、世の中のクリエイターの皆様の「型」を知ることはとても重要なことですが、つくり手ならばコピーマシンになってはいけない。むしろ、変幻自在のアウトプットマシンを目指したい。それが良質なデザインに対する意識だと思っています。

アニメ映画「海獣の子供」を観て。

 GWはコロナでうっかりしていてDVD「海獣の子供」がレンタル開始しているのに気がつかず、昨日、レンタルして観ました。もっと早めにレンタル開始していたのかもしれません。

 最初、映画情報から知ったこの作品。漫画原作だという情報から、映画館に行きたいと思ったが滋賀県では上映されていなかったので諦めた。DVDが販売されるようになり、買おうかなと思ったが、なんとなく「これは買いなのなか?」と「購入ボタン」画面まで進んでカートから削除。その流からなんとなく漫画原作から読もうと思った。で、やはり、この直感が正解。漫画作品は宮崎監督の「ナウシカ」の原作コミックスを読んだ時ぐらい痺れた。何回も何回も5冊の漫画原作を読んでDVDをレンタルしようと思っていて、忘れていた。で、昨晩、そのアニメ映画作品を観たのですが、やはり、DVDの購入ボタンまでいってCan'tした直感が正解でした。

 ファンの方は怒らないでくださいね。確かにスタジオ4℃さんの絵は迫力があり抜群なんです。声優さん達も素晴らしいしエンディングの米津さんの楽曲も完璧。なのですが、漫画の世界観とは別の作品になっていた。確かに漫画原作のアニメ映画化は同じようなことがよく起こる。5冊ある原作を100分程度のアニメ映画にまとめる際、無理が生じるのかもしれないし、初見でこの作品を観る不特定多数の方に対して、この映画の魅力を映像とサウンドと物語で魅せるわけですから、それはそれは想像できないぐらいのプロの皆様の英知が結集されているわけです。ま、素人なんでも映画評論なのでご了承いただきたいのですが、いや、それほど漫画の世界観と物語のスピード感、登場人物の心情表現や構成があまりにも秀逸で、それこそ、漫画の一コマ一コマの構図にドラマというか空気感があり、その期待値のままアニメを観たので、どうしてもどうしても別物という感想になってしまいました。残念ながらDVDは買わないでしょう。

 で、この物語のテーマのサイズ感について。同じような物語のタタミカケ感が映画「アキラ」にもあった。後半、最終局面の映像表現が途方もなく巨大過ぎて、観ている人の理解の枠のキャパをオーバーした(僕の場合)。つくっている人達は漫画原作を厳選してこの表現にたどり着かれているわけだと頭で分かっていても、どうも「これが正解?」「この展開でいいのかな?」という気持ちになり少し心の温度が下がる感覚です。

 それが、アニメ「海獣の子供」では冒頭にありました。ネタバレになってしまうので、あまり詳しくは言えませんが、海君の登場シーンはこれではないはずです。これもつくり手の皆様の吟味して吟味した結果なので、素人がどうのこうの言う領域ではないのですが、一人の映画ファンとして、漫画ファンとして、少しだけ気持ちが下がりました。

 DVDを買おうと思い立ち、WEBサイトで観たアニメ映画のダイジェストで美しい海の風景を観たときもその予感がありました。この作品、観る人達の理解や感受性を放置しているかもしれないと。つまり、それほど美しいシーンだったわけなのですが、映像の構図の中からつくり手の強い手が現れて、心をガッシリ鷲づかみにするタイプの映画作品ではないなという直感でした。

 アニメ映画作品を観てから昨晩は漫画原作の第1巻をまた読みました。ふわふわしていた気持ちが元の鞘に納まった感覚で快眠でした。

 「白と黒」「空と海」そんなテーマがスタジオ4℃さんは好きなのかな。

3軸ミニDIY CNCルーター。

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 この画面は「3軸ミニDIY CNCルーター」の操作画面です。細かい文字や一定のパタンを木材やプラスチックに彫りたいと思い立ち、最初に「レーザー機」を見つけてしまったので、レーザー機の方向で性能や価格をリサーチしてきました。確かにレーザーヘッドでは軽金属まで細かい細工が可能なのですが、安価な機種でさえ価格的に10万円を超えてきます。で、本当にレーザーヘッドが正解なのかと考え始め、検索リサーチを続けていたら、ルーター(チタンドリル)で同じことができる機種を発見。いろいろスペックの詳細を確認していくと、本来やりたかったことと機能・性能が完全に一致しました。価格も2万円台!まだまだ大型機は考えていないので、卓上型の「3軸ミニCNCルーター」で再度、商品の仕様などを絞り込んでいこうと思っています。で、やはり、購入前に充分にリサーチしておかなければならいのが、こちらの操作画面。どんなに優れた商品でも実際、到着して組み立ててソフトをインストールして操作してみたら、「ええっ!こんなことぐらいできないの!!」ということがある(多々ある)。特にこの機種の場合、マニュアルも説明動画も英語だから、ちょっと警戒して慎重にリサーチしていこうと思っています。

 使っている方がおられましたら、情報をください。→アクトお問合せフォームへ

君の名は?

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 いつか何かを植えようと用意していた鉢から芽が出てきた。種を植えた覚えはないのですが、何かの種が土の中に残っていたようです。まだ、この双葉君の名前は分かりません。でも、土さえ用意しておくだけで、種があれば君自身のタイミングでちゃんと芽を出すんですね。植物のマイペースな感じ、逞しい感じ、とても好きです。

本当のヒーロー。

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 これはバンクシーが英病院の職員宛に送った作品。添えられたメモには「いつもありがとう。たとえモノクロでも作品がこの場所を少しでも明るくできたら」とあったらしい。これこそ絵の力。痺れる。

キモイモノ。

 どうも僕がつくりたい立体作品(フィギュア)はキモイとカミさん受けがしない。なんでそんなにキモイモノばかりつくりたいのか?なんでそういう発想になるのか?いつもこんなアゲンスト(北風)の中、コートの衿を立てています。

 しかし、自己弁護ですが、この世の中には意外とキモイモノの方が多いような気がしていまして、逆にキモクないモノって何か分からないと言えば分からない。何を見ても本質・本性がそういう姿勢だからキモイモノにばかり視線が行くのでしょうけれど。これは僕の個性であり人間性でもあるのでどうしようもない。もっと、清清しく誰もが美しい心地良いというモノに興味や好奇心があればキモイとは言われないのでしょうけれど、どうしてもそのゾーンに心が引き寄せられてしまいます。

 その流れで僕はあまりと言うか、まったく風景の絵を描きません。仕事ならば建物のペン画や観光地の水彩画は描きますが、自分のライフワークで風景画を描くことはまずない。あくまでも描きたいのは「人」のみ。その明確な根拠や理由も言葉にはできないのですが、どうやら風景や静物画を描いてその気持ちを誰かに伝えたいという発想が皆無なのです。

 だから、素朴な味のある風景画をサラリと描く画家さんの気持ちが分からない。

 こういう人間は「妖怪」とか「怪獣」とか「宇宙人」とか「幽霊」を描くことで無類の達成感を感じるようなので、普通に人を描いていても、どこか微妙にキモイと言われてしまいます。これは恐らく、ずっと今後も変わらない本質のようです。どこかで道を間違えたのかもしれません。

人形のインパクト!?

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 分かっていますが、リアルな等身大の人形はインパクトがある。まだ、閉館中の鉄道スクエアという施設の撮影に行ってきたのですが、シーンとした施設の中、ひんやりとした空間に座っているこの三体を見ていると、少し心がザワザワとなります。

長浜市慶雲館の庭。

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 本日は長浜市慶雲館様の写真撮影に行ってきました。慶雲館様は5月13日(水)より営業を再開されます。パンフレットを制作するための施設写真の撮影だったのですが、この一枚は慶雲館様の庭にある一番高い木と青空の写真です。少しずつコロナの状況がゆっくりと鈍化していっているように思えます。しかし、第2の波、第3の波が発生しないように引き続き警戒態勢を解いてはいけませんが、少しずつ終息に向かって時の流れが平常時に戻るような期待も出てきました。この写真、何気ない青空でしたが、妙に美しく感じてしまいシャッターを切りました。

聖獣バロン。

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 バリ島と銀細工バロン(Barong)は、インドネシアのバリ島に伝わる獅子の姿の聖獣。バリ・ヒンドゥーの善の側面を象徴しており、悪の象徴である魔女ランダと対を成す。バロンはあらゆる災害を防ぐ力をもつと信じられており、デサ村の寺院の一隅に収められ、日々、供物と祈りの対象となっている。~ある方のブログより抜粋~

 いろいろな立体作品をつくろと考えて、仏像や世界遺産のシンボルなどをリサーチし続けているのですが、日本の「座敷わらし」「河童」「天狗」や、海外の「フランケンシュタイン」「ピエロ」などをリサーチしていてこの「聖獣バロン」にたどり着きました。この仮面の意味合いは「災害を防ぐ力」に連動しているのですが、冷静に見ればただの木の仮面。そんなことを言ったら奈良の大仏も同じで身も蓋も。でも、人間のイマジネーションはそんな短絡的で安易で貧相ではなく、もっと襞が細かく多い。つまり信仰とはそういうものであり、結果、イマジネーション力の強さというか細かさに依存すると思います。白い着物を着た髪の長い色白の細身の女性が暗闇に立っていても、ああ、そういう人なんだと無視できる人と「怨霊の化身」と捉える人の違いです。

 で、この絵柄というか構造・意匠に言葉にできない何かを感じてしまったので、この仮面もつくってみようと思っています。信じる人は救われるか救われないかで言うと、救われると僕は思っています。

違いは差ではない。

 学校では「学力」という基準で互いの差を明確にされてきた。ただ、テストで優劣を決めることが学力を高める唯一の手段であり、教育受けていると実感させるために。しかし、その学力とは何だったのだろう?

 今、思うとそれはただの「記憶力」だったような気がする。

 漢字を記憶して、数式を記憶して、年代を記憶して、地名を記憶する。覚えていることをテストで思い出し競う、みたいな。この状況でほぼほぼ個性は必要ないし、必要なことは、ただ誰よりもたくさん文字情報を記憶すること。学校で記憶したことがすべてムダだったとは思っていませんし、記憶力が良いとその能力と連動していろいろな効果も多いことも事実なのですが。

 また、運動もどこか評価の基準が一本調子だった。早く走れる、持久力がある、ボールを正確に投げられる、道具を正確に使いこなせる。これが運動の優劣を決めていた。言わば、筋肉の強さや応用力の違いだけだったような記憶があります。必死に足が速くなるように練習をして、結果、故障して大きな大会でリタイアし後悔した時、とても不毛な気持ちになりました。

 社会に出るまでにそのことに気づき、「なんか違うんじゃないかな?」と感じた人はその段階から自分の興味は記憶力を高めることや筋肉を単純に鍛え、運動力を高めることではなく、もっと、自分らしい思考や着想から生まれる自己表現としてのアウトプット(作品づくり)にベクトルを変化(シフトチェンジ)させていく。

 例えば、絵を上手くなりその技術とセンスを生かした仕事に就くという目標設定を行う。料理への興味、建築への興味、ダンスへの興味が自己表現の道筋を気づかせて、その道へ一歩を踏み出す。しかし、この道に一旦入ってしまうと、この道を発見してしまうと、実は二度とこの道から外れる(戻る)ことはできない。

 夢を諦めたり、失敗やトラブルを繰り返し例え心が折れたとしても、心は道の上に残るからだ。つまり、個性の存在をわずかでも実感した人は学力の優劣(違い)や運動力の優劣(違い)を差だとは捉えられなくなっているのです。例えどんなに致命的な優劣の差があり、自分が100人中100番でもこの結果は「個性」だと捉える人になってしまうからだ。この解釈は究極の開き直りであり、少し捻じ曲がった解釈かもしれないが、「個性」とはそういう捉え方を僕はしています。

 強い個性、良質な個性、悪い個性、正しい個性、厳しい個性、緩い個性。一見、この道は逃げ道のように感じる人も多いと思いますが、単調な記憶力の優劣や運動力の有無の世界に自分を封印してしまい、いつまでも他人との「差」を意識し続けるのはちょっと寂しい状況のような気がします。

 だから、個性の違いは差ではないのです。

 ただ、人間は野をかけるオオカミではないので、一般教養や基礎知識、常識レベルのセオリーや生きるためのルールを習得しなければなりません。法律を無視して思考・行動するような個性は言語道断です。ので、この「いい加減(良い加減)」を見つけるのが、探求・追求するのが実は一番楽しいことだと僕は思っています。

ルーペLEDメガネ。

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 最近、アマゾンで購入して一番テンションが上がった商品がこちらです。

 なぁ~んだ、ただの拡大レンズ付眼鏡か!と、一見、なんてことのない眼鏡ですが、これがなかなかの逸品です。実際、老眼になり眼鏡をかけないと紙面の文字もモニターの文字も読みにくくなり、スマホなんて眼鏡がなければただの光る画面。イラストや細かいペン画を描く際にも老眼鏡はかけていましたが、ルーペグラスをかけてビックリ!別世界が目の前に広がりました。その感動を例えるなら、20代の頃、東京で図鑑のリアルイラストレーションの仕事をしたり、パンフレット用のリアルイラスト(カワセミや淡水魚など)を描いていた頃の視力が甦った感覚です。元々、長年イラストを描いているのである程度、手は細かい作業を覚えているのですが、いかんせん視力がゆっくりと低下していったため、気づかない実感できていなかった細部の世界がこのルーペで完全に復活し、久しぶりにひとりガッツポーズをしてしまいました。

 若い方はこの実感が少ないと思いますが、初老の人間にしてみればこのツール、最強です。

時間に余裕ができると。

 僕の場合、時間に余裕ができてしまうとロクでもないことを考える。

 つまり、結果、「下手(馬鹿)の考え休むに似たり」状態に陥る。

 その考えがいろいろな不安や焦りを生み、次から次へとネガティブなことがひらめき、思考がフリーズする。忙しい時は忙しい時でパニックになり頭のOSがシャットダウン。つまり、アップアップ状態になると作業量がメモリの上限を超えて機能を停止させるのだ。この状態をそうなる前に回避するテクニックとして僕が習慣化しているのは、単純な運動だ。どうも椅子に長時間座って思考している状態がよろしくない。だから、そろそろヤバイなぁ~とサインを自覚したら、椅子を立ちその場でスクワットしたりストレッチをする。それでもモヤモヤが止まらないと仕事場につくったボルダリングの壁にぶら下がり、両手両足がバンプするまで壁から降りない。ボルダリングも研修を受けて免許を取得してから、本格的なスタジオに行った経験は数回で、未だに仕事場の壁に張り付いている時間はMAX8分間。でも、両手と両足の筋肉がカチカチになって壁から降り、呼吸を整えている頃にはさっきのモヤモヤは少し消えている。

 で、モヤモヤしていた思考のレイヤーの上に新しいレイヤーが現れて、そこに次のひらめきが生まれる。これが解消法と言えば解消法なのですが、「ひらめき」について僕は高校卒業する時、芸大に合格したことを学校の友達に個人的に伝えるため、ひとりでストーリーマンガの卒業文集を制作した。自分で物語をつくり漫画を描き、コピーしてホッチキスで製本するというなんとも手作り感満載の冊子だったが、そのタイトルが「ひらめき」だった。思考の連想とは不思議なものでモヤモヤしていても何かひらめいた時、この文集のことをよく思い出す。今考えると「なんて傲慢なことをしてしまったのだろう」などと恥ずかしさの極地だが、その時の「ひらめき」は結構満足していた記憶がある。でも、こっぱずかしさと同時に不思議な達成感が甦り少しだけ高揚する作用があります。

 このように、この馬鹿野郎が「この景気をどう乗り越えよう?」などとない知恵を絞り、少ない引き出しをかきまわして今更、何か考えたところで妙案はそう簡単にひらめかない。だから、「ひとり卒業文集」程度のアイディアが少しでもひらめいたら、それをコツコツつくることぐらいしかできないのだ。だから、スクワットやボルダリングでガスを抜いたら、今やるべきことが明確にひとつひとつ見えてくるので、それを徹底的にやり抜くしかこの状況を凌ぐ方法は僕の場合、ないようです。いろいろ経営のことや心理学やビジネス書も読みましたが、結局、この頭に残っていることは「モヤモヤしたらひとりで身体を動かせ!」ぐらいの単純な知恵なのです。

 いくつになっても「動いて、つくって、考える」これしかできない人間のようです。

ひさびさのアクリルガッシュ。

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 これは最近購入した「アクリルガッシュ」の習作です。仕事用のイラストを描く場合、ほぼカラーインクとイラストレーションボードのパターンけっこう長かったので、アクリルガッシュは久しぶり。透明染料系のカラーインクとはやはり発色や混色の癖が異なります。どうしてもカラーインクの手順が染み付いているので薄く重ねてしまい、混色は比較的イラストボードの上に色を重ねながらつくっていました。それがアクリルガッシュだとパレットで色を決めてから描画になるので画面の色づくりが異なります。ま、そのあたりを確認してから、エアーブラシによる立体作品の着色の感覚を復活させようと思っています。

 絵を描いたり立体作品をつくるのは頭の中でいくら素晴らしい作品が完成していても、それを手で実在させなければなりません。技術が足りなかったり道具の癖を分かっていないと頭の中の完成度はどんどん劣化し別物になります。この手順・作業は手で実際に描いたりつくったりしなければその実感を確認できないので、どうしてもテクのコンディションを整えるためにはいろいろ試作・習作を繰り返していく必要があります。実際、筆やヘラを握って描いたりつくったりしていると、いろいろ技術的な新しい発見やアイディアも生まれます。頭で考えているだけではこれらのひらめきも生まれません。だから、作品(成果物)を生み出すためには手を動かすしかないようです。

粘土部材各種。

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 これが現在手持ちの粘土部材。左から「石粉粘土」「樹脂系粘土2種」「スカルピー2種」です。それぞれに特長があるらしく、「石粉粘土」は素材が細かい石をメディアで練ってあり、「樹脂系粘土」は細かい樹脂粉。で、スカルピーも素材は樹脂なんですが、練ってある溶剤というか繋ぎがフルタ酸エステルという物質らしく、皮膚の弱い人はゴム手袋を付けて成形する必要があり、また、この素材は硬化させるためにはオーブンで130度以上で加熱する必要があります。その際、ちょっと有害なガスが出るので換気が必要というデメリットがあります。「石粉粘土」や「樹脂系粘土」は完全にクリーンなのに対して、スカルピーの特長です。しかし、何故こんな練り方をしているのかと言えば、加熱しない限り硬化しないという特質があります。最初この特長を知った時、正直、ちょっとこの素材はないのかな?と感じたのですが、いろいろなYTチャンネルで動画を観ているとスカルピーのこの硬化しないという利点はかなり優れていて画期的なことらしい。そこまで長時間成形をしたことがないのでこの利点を分かっていないようです。

 で、他にも立体作品をつくるためには軽量粘土や透明度の高いラバー粘土、硬化した粘土同志を接着する液体上のスカルピーや接着用のエポキシパテなどもあるのですが、これはまたその状況になれば、ある程度の成形テクニックが習得した段階でテストしてみようと思っています。フィギュアづくりで食品サンプルやアクセサリーなどをつくっている方のブログなどもチェックしていますが、立体作品の可能性はかなり広く大きい。

 何よりも指で粘土を練る、ヘラで粘土を成形する行程が楽しく刺激的です。僕はこれまで絵画やイラストの平面の仕事やデジタルソフトでデジタルデータを制作する仕事を長年続けてきたので、ある仕事のきっかけで立体作品をつくるようになり、改めて立体作品の魅力に取り付かれています。紙やモニターではなく、自分が制作した作品が目の前に存在していることがなんともウキウキするのです。56歳にしてこの発見をさらに覚醒したいと思っています。

 結果、成形行程手順をシュミレーションして粘土を切り出し下地に付けていく作業、いろいろなヘラや研磨ツールで成形を整えていく作業をしていると、従来のイラストレーションの描画中にもデジタルデータの制作中にも同じ「コツコツ感覚」が作用・連鎖して作業の姿勢が正されると同時に細かいチューニングを長時間繰り返すようになったという利点も実感しています。手を動かして立体作品をつくることでどこか老化・鈍化・マンネリ化していた歯車に潤滑油を指した感覚です。

モアイ像ペン立て。

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 立体作品をつくろうと思い立ち、どうしても最初につくりたかったのが「モアイ像」。何故か理由は分からない。カミさんからは「そんな訳の分からんモノをつくらずに、もっと使える何かをつくったら?」という的確なアドバイスを頂き、「モアイ像」と「ペン立て」を組み合わせてみました。まだ、これは石粉粘土の成形試作の段階なので、特に設計図(ラフスケッチ)も用意せず、モアイ像の資料写真も見ずに感覚で成形したモックアップです。

 特に石粉粘土は水性で乾燥が速い利点があるのですが、硬化開始(約15分後)までは非常に柔らかい特性があります。硬化中は成形しやすい硬さなのですが、そこから一気に硬化が始まります。だから、成形時間をキープしたい場合は霧吹きや筆で表面に水をつけて硬化を鈍化させています。この部分だけを注意して成形すればけっこう長時間成形することができます。

 あとはデッサン力と根気で立体成形をどこまでこだわるかが勝負。

 ま、石粉粘土の特長として「盛り」が比較的、樹脂系の粘土と比べると簡単です。非常に粒子の細かい粘土で細部もしっかりつくり込めるのですが、一点、樹脂系粘土と比較して細かいパーツがポキリと折れやすい。だから、細いパーツや細かいパーツなど本体と接合部分が狭いパーツの場合は中にアルミの針金やアルミホイルで芯を入れておく必要があります。

 ちょっと苦笑いな表情にしたかったのでここから硬化した粘土を削りながら、部分的に粘土を盛りつつ成形行程を仕上げたいと思っています。この作業、無類に楽しい。この作業を傍で見ているカミさんが「その底なしの根気はどこから来るの?」と冷ややかな視線をあびながら、コツコツとつくっています。老刑事が足で情報を集めるような粘りで手前のヘラを使い成形しています。

売れっ子。

「売れっ子」が売っているモノって一体、何だろう?

 恐らく「ネームバリュー」に関する何かで買い手に対していろいろなモノを与えているから
「売れっ子」が成立している。心底、羨ましいと感じる反面、恐らく想像できないようなプレッシャーやストレスがあるだろう。

 また、「売れない芸人」という人達は何が何故売れないのか?なんらかの才能があり決意と覚悟があるにも関わらず、売れないということは、「売れっ子」と比較して何かが足りないのだろう。この観点はデザインの仕事にとても深い関係があるように最近、感じている。

 そのきっかけは漫才コンビ「ナイツ」の塙さんの本を読み、プロの漫才師がM-1優勝を獲得したコンビを冷静に分析しながら、自己分析も正直に丁寧にされていたことに根がある。塙さんの分析を要約すると、そもそもM-1の決勝枠に選ばれるコンビというのはとてつもない努力を重ねた才能ある一部の天才達なのだが、それでも優勝できないコンビとできるコンビに分かれる。その要因はあの会場のギャラリーや審査委員の好みなども作用しているが、優勝するためには決定的な「勢い」があると。

 それは言葉の選択や互いの掛け合いやネタのトレンド(鮮度)、そして、互いの間合いのような微妙なニュアンスが必要で、二人の内側にあるあのステージを楽しむ姿勢のようなモノも含めこれらがすべて結合したコンビが1年に一組だけチャンピオンになれるのだと。その後、その二人は「超売れっ子」になるという流れだと分析しておられました。

 そこで、漫才やエンタメに限らず「売れっ子」とは、恐らく、M-1のように、「努力」「才能」「時代性」「姿勢や素質」が結実した人だけに与えられる称号なんだと思います。

 つまり「売れない」ということはどんなビジネスでも何かが足りないのであって、「売れたい」というただ強い根拠のない思考(自信)だけでは、自分自身をとりまく現実(環境)は変化しないのだ。現状を冷静に分析する視点・姿勢があれば、何が足りないのかが正確に判別できるのだろうが、「売れない人」というのは、いくら努力して才能に恵まれていても、この自己分析の段階で結論を先送りにしたり、行動を躊躇したり、理論理屈でのみ正解を出し、失敗やトラブルを警戒するあまりに動き、アウトプットが鈍化・停止するのだろう。

 とは言いながらも、闇雲にただ奇抜さや傲慢さだけを頼りに戦略を欠き、猛進していてもいつか前進は止まる。過去にどんな実績があろうとも、その瞬間その瞬間を冷静に分析しながら、ダイナミックに直進する推進力を常にキープすることが大切なのだろう。

 コロナの作用で思考と行動に強烈なブレーキをかけられた人は多い。しかし、自分の「売り」を見失っていない人はこの最悪の状況さえ巧みに凌ぎ、次の流れを自分に引き寄せるのだろう。「売れっ子」の人達はそんな「引力」というか、「発信力(動力)」というか、「素質(ポテンシャル)」を誰からも与えられることなく、自分自身で収穫・習得し、自分の中に実装させたのだろう。

スーツがなくても真剣に仕事ができる。

 この一文はグーグルが掲げる10の事実の中の9番目の「事実」です。

 中でも一番心が震えた文章でした。

 この時期、世界のあらゆる経済活動・文化活動がコロナの影響で鈍化・停止するなかこの企業の軸は一切ぶれていない。これが本当の強さなんですね。

 グーグル。強い企業には確固たるぶれない強い軸があるんですね。

→これがGoogleが掲げる10の事実です。

「Google の社員たちはさまざまなバックグラウンドを持ち、エネルギーと情熱をほとばしらせながら、仕事、遊び、人生に独創的にアプローチしています。」この意識が心の中か消えた時、人間の思考力や行動力は鈍化し停止し悪循環に陥るんだと。一旦、思考や行動がマイナスのベクトルに感染してしまうと様々な悲劇を引き寄せるんだと。

理解する。

「私たちは若い頃に学び、年老いてからそれらを理解する」

 この言葉は昨晩、読んだ本に書かれていました。若い頃、いろんな本を読んだり、会社の上司や仕事仲間の諸先輩方、そして、クライアントの担当者様なからいろいろな助言やアドバイスを頂き、真剣な姿勢で「分かりました!」と言ってきたが、どうやらそのタイミングで僕は助言やアドバイスを理解していなかったかもしれないと、この著者の言葉を読んで感じた。そう思えば、僕は安易に「分かりました」を連発していたのだ。分かっていない、理解していない、実感できていないのに、その場を取り繕うために「お座り!」に対する「ワン!」のような犬のリアクションレベルだったのだ。一度、その事について数年前、知人から真摯な警告を受けてから少しずつ僕の頑固な心が軟化した事も経緯としてある。その警告が心に作用していなければ、この言葉を気に止めることなく読み飛ばしていただろうと捉えています。

 さて、この「理解する」という状態・状況は具体的にどのような状態なのか?

 今、僕ができる解釈はこうです。私達は学校で「記憶力」を高める訓練を何年も繰り返してきた。実際、何か知識や情報を記憶する能力は重要で、仕事に従事する上で大切な能力なのですが、自分の中に知識や情報を格納できているだけでは学校のテストでは高い成果が得られますが、社会生活(仕事面)ではそれだけでは何か足りないことに気づく。学校ならば成立していた手順が社会では通用しない。社会経験がない状況で多様な記憶力以外の能力を習得するこは時間的にも方法的にも無理だから、まずはベーシックな能力として「記憶力」が必要不可欠だと考えた人が教育現場にその構造を適用したのだ。そこで多様な記憶力以外の能力、社会生活やビジネスの現場で必要な能力を習得するためには、基礎能力の素養として「記憶力」が有効だったのだ。ただ、学校の時はその能力を具体的にアウトプットする方法が「テスト」・「試験」だったが、社会に出ると「仕事」に切り替わる。優秀な記憶力があればテストの点数は高く個人の評価は高いが、記憶力だけで「仕事」の高い評価は難しい。ここが最大の分岐点のような気がしています。これが最初の生きていくための「学び」です。で、次はいろいろなアウトプットを繰り返すわけです。経営者の指示・要望、上司からの依頼、お客様からの要件定義などなど。記憶(習得)する情報量と多様性が一気に増大します。あの人はこう言ったが別の人はこう言っている。でも、ネットや専門書ではこう書かれていた。などの微妙な情報の違いや解釈の違いに戸惑いながらもアウトプット(仕事)をつくり、ひとつひとつ丁寧に評価を得ることで、本質的な「理解」が自分の中に定着するわけです。つまり、「学び(情報)」を「理解」に変えるためには「アウトプット(行動や経験)」を何回も繰り返し、失敗やトラブルを経て、自分だけの何か確証を得る必要があるのです。これが「理解」の実態。

 かなり、回りくどいお話になってしまいましたが、それぞれ社会生活や経営に仕事に携わっている人すべてがこの反復を繰り返しながら、学びを理解に変えることで結果、仕事を成立させて生計を生命を維持させているのです。私もこのブログを書いていなければ、具体的にはある親友から「スギノさん、ブログぐらいは書いておかないと時代の流れに取り残されますよ」という警告を学びとして得て、2007年5月から書いてきたから、こうして4,875本目の記事にこのレベルの理解を文章化できているという流れなのです。当然、ここがゴールではないので、これからも失敗やトラブルを繰り返すでしょうけれど、次の学びを期待して書き続ける。淡々とコツコツと僕の「ノギス」の精度を高めていくしかないのです。

 さて、では「コロナ」がひとつの学びだとして、それを理解するためにはどんなアウトプットを繰り返すのか?そんな厳しいスタートラインに立たされた状態なんですね。皆様も同じなのではないでしょうか?これは個々の「ノギス」の精度を高めるしかないようです。何故なら、それぞれに皆様、「学び」の在り方(個性)が異なるからです。

最初の細胞分裂。

 興味・向学のひとつとしてアートやデザイン、小説やソフトウエアの専門書以外の本を読むことが多い。それは、東京で書籍の装丁デザインを始めた頃から習慣になった。元々、本が好きだったので、いろいろな小説は読んだし、特に地図帳や図鑑が好きだったことで新しいジャンルの情報を得ることで、なんとなく学校の勉強よりも教養が付いたような気分になれたから。時間があればランダムに図書館や書店で本を漁るということが習慣・趣向となった下地があったのだろう。特定の出版社さんの装丁デザインとなれば、法律の書籍や介護などがテーマとなるし、特定のクライアント様の印刷物となればテーマは教育や建築や生命保険や観光などになる。当然、何事も無知な状況だからデザイン制作に取り組むためには「予備知識レベル」の知識・情報を頭に入れなければならない。結果、装丁デザインを決めていただく担当者様はその分野のプロだから、専門的な見方をされる。いくらこちらが「デザイン優先」でご提案し押し切ろうとしても、専門書や特定のテーマの書籍ではデザインの方向性が簡単にNGになることも多かった。通念・常識的なデザインのルールが当てはまらない場合もあり、その状況で選択はそれ以上の提案を止める、つまり仕事を断るか、新しい視点や観点を受け入れクライアントが要望される方向性でデザインをブラッシュアップするかの選択になる。ま、仕事を断ることはしないしできないので、担当者の言葉をしっかりヒアリングしてデザインを再構築する。そして、ご要望に添ったデザインを仕上げ、成果物を納品するという手順になります。この捉え方は装丁デザインに限ったことではなく、その後、あらゆる印刷物やWEBサイトや映像・動画制作にも適用できる姿勢になった。私はデザインの仕事を始めた、比較的早い段階でこの状況・場面・局面に遭遇できたことでデザイン制作において思考スイッチを切り替えるという大切な経験を得られ、切り替えた後のブラッシュアップ・チューニングの手順を経験することができた。

 では、この資質はどこの段階で自分の中に最初に芽生えたのか?素人で無知で無経験な男が小さな進化を獲得・実感する瞬間である。ひとつひとつの技術や経験値に必ず出発点があるように、一回目の細胞分裂はどのタイミングだったのだろうと考えることが多い。あの本の著者の言葉か?あの先生のあの師匠の言葉か?それとも日常生活の中の些細な出来事だったのか?と。もし、そのタイミングを逸していたら僕は専門家の意見を受け入れることや飲み込むことが出来ずに、引いてはデザインの仕事を続けることができなかったかもしれないと感じています。すべては1本のルートにあったという感覚です。

 デザインの仕事で言えば、それは22歳の時、芸大を卒業後、東京のイラストレーションの専門学校に通いながら四谷のデザイン事務所でアルバイトを始めた頃、その師匠に言われた言葉だろう。一日の仕事が終わり、ワイン好きの師匠がボトルを持ってきて「飲みますか?」と言われグラスを受け取った。そして、師匠が何気におっしゃった言葉。このタイミングで僕の中の「デザインの仕事」に対する決意というか、最初の覚悟が固まった。それはこんな言葉だった。今でこそいろいな解釈はできるが、その時の僕にしてみれば金の言葉になった。

 「僕達は美しいゴミをつくっているんですよね」と。

つくり手の心得#002

 つくり手は大きく二つのゾーンに分けられる。それは料理や建設業などの「アナログワーク」とプログラムシステムの構築やWEBサイト制作などの「デジタルワーク」。毎日テレビやインターネットの情報を観ていると比較的、「アナログワーク」はコロナ問題の被害が大きく、「デジタルワーク」は比較的、被害が少ないような印象を受けている(部分的な捉え方だと思いますが)。当然、このような状況でも被害を受けていない仕事があり、医療現場の皆様は過酷な状況を強いられている。例えば芸能人・タレントの皆様などが自宅のカメラで撮影した映像とテレビ放送を連動させたり、スタジオ撮影でもお互いに距離を置いた番組づくりに取り組まれている。人間と人間が一定の距離を置き、孤立しなければならない状況でどんな仕事を選択してきたか、選択するのかが、生計を立てる経営を存続させるための重要な選択になる。「人が動く」ことが景気や経済を一定のレベルに維持するために、これほどまでに必要不可欠な条件なんだと痛感しています。

 そこでつくり手はどのようなことを心得(意識)なければならないのか?

 その一つにアナログワークとデジタルワークを組み合わせることだと捉えています。例えばラーメン店さんなどの場合、コロナ問題がない状況で仕事のルーティーンは朝仕込み、開店時間になればお客様が来る。ラーメンをつくり閉店と同時に一日の売り上げの締めをして終了。この手順を続けながら、より美味しいラーメンを研究し、認知度を広げるために広告やチラシをつくる。顧客満足を高めるために店舗の施設や備品をより良質にしていく。これが一連の流れだったのであろう。私はたまの外食で来店するレベルだからラーメンのつくり手(料理人)さんの苦労や経営者としての満足感は分からないが、コロナ問題で「従業員の給料」「銀行からの借金」「毎月の家賃」「自宅のローン」が滞るという悲痛な店主の声をテレビで聞くと、人間と人間が触れ合う(集まる)ことを規制されただけで、「ラーメン」という商品がここまで売れなくなるとは、人間の衣食住の思考パターンって結構簡単に(現実は簡単ではないが)変えることができるんだと感じました。

 つまり、今までこの経営状況がずっと続くと思っていたことでも、人間は状況が一変すれば(変えざるを得ない状況に限るが)変えることができるんんだと。よく、政治家が「生命」と「経済」のどちらを優先するか?という言葉を吐いているが、「生命とは経済」であり、「経済とは生命」である。

 これまでのある意味安定した平和な普通の状況ならば意識しなくてもいいことが、この過酷な状況では露呈するわけです。それは人間の「弱さ」かもしれないし、「強さ」なのかもしれません。このGWは仕事場でカミさんと二人、孤立した状況で何が足りて何が足りないのかをしっかり整理したいと思っています。この規制の状況はここ長浜でも5月6日から5月31日まで延長されました。さらに夏休み、年末、翌年とこの状況が続く可能性もあります。

 つくり手としての「弱さ」と「強さ」をしっかり意識して立ち向かおうと思っています。