理解する。

「私たちは若い頃に学び、年老いてからそれらを理解する」

 この言葉は昨晩、読んだ本に書かれていました。若い頃、いろんな本を読んだり、会社の上司や仕事仲間の諸先輩方、そして、クライアントの担当者様なからいろいろな助言やアドバイスを頂き、真剣な姿勢で「分かりました!」と言ってきたが、どうやらそのタイミングで僕は助言やアドバイスを理解していなかったかもしれないと、この著者の言葉を読んで感じた。そう思えば、僕は安易に「分かりました」を連発していたのだ。分かっていない、理解していない、実感できていないのに、その場を取り繕うために「お座り!」に対する「ワン!」のような犬のリアクションレベルだったのだ。一度、その事について数年前、知人から真摯な警告を受けてから少しずつ僕の頑固な心が軟化した事も経緯としてある。その警告が心に作用していなければ、この言葉を気に止めることなく読み飛ばしていただろうと捉えています。

 さて、この「理解する」という状態・状況は具体的にどのような状態なのか?

 今、僕ができる解釈はこうです。私達は学校で「記憶力」を高める訓練を何年も繰り返してきた。実際、何か知識や情報を記憶する能力は重要で、仕事に従事する上で大切な能力なのですが、自分の中に知識や情報を格納できているだけでは学校のテストでは高い成果が得られますが、社会生活(仕事面)ではそれだけでは何か足りないことに気づく。学校ならば成立していた手順が社会では通用しない。社会経験がない状況で多様な記憶力以外の能力を習得するこは時間的にも方法的にも無理だから、まずはベーシックな能力として「記憶力」が必要不可欠だと考えた人が教育現場にその構造を適用したのだ。そこで多様な記憶力以外の能力、社会生活やビジネスの現場で必要な能力を習得するためには、基礎能力の素養として「記憶力」が有効だったのだ。ただ、学校の時はその能力を具体的にアウトプットする方法が「テスト」・「試験」だったが、社会に出ると「仕事」に切り替わる。優秀な記憶力があればテストの点数は高く個人の評価は高いが、記憶力だけで「仕事」の高い評価は難しい。ここが最大の分岐点のような気がしています。これが最初の生きていくための「学び」です。で、次はいろいろなアウトプットを繰り返すわけです。経営者の指示・要望、上司からの依頼、お客様からの要件定義などなど。記憶(習得)する情報量と多様性が一気に増大します。あの人はこう言ったが別の人はこう言っている。でも、ネットや専門書ではこう書かれていた。などの微妙な情報の違いや解釈の違いに戸惑いながらもアウトプット(仕事)をつくり、ひとつひとつ丁寧に評価を得ることで、本質的な「理解」が自分の中に定着するわけです。つまり、「学び(情報)」を「理解」に変えるためには「アウトプット(行動や経験)」を何回も繰り返し、失敗やトラブルを経て、自分だけの何か確証を得る必要があるのです。これが「理解」の実態。

 かなり、回りくどいお話になってしまいましたが、それぞれ社会生活や経営に仕事に携わっている人すべてがこの反復を繰り返しながら、学びを理解に変えることで結果、仕事を成立させて生計を生命を維持させているのです。私もこのブログを書いていなければ、具体的にはある親友から「スギノさん、ブログぐらいは書いておかないと時代の流れに取り残されますよ」という警告を学びとして得て、2007年5月から書いてきたから、こうして4,875本目の記事にこのレベルの理解を文章化できているという流れなのです。当然、ここがゴールではないので、これからも失敗やトラブルを繰り返すでしょうけれど、次の学びを期待して書き続ける。淡々とコツコツと僕の「ノギス」の精度を高めていくしかないのです。

 さて、では「コロナ」がひとつの学びだとして、それを理解するためにはどんなアウトプットを繰り返すのか?そんな厳しいスタートラインに立たされた状態なんですね。皆様も同じなのではないでしょうか?これは個々の「ノギス」の精度を高めるしかないようです。何故なら、それぞれに皆様、「学び」の在り方(個性)が異なるからです。