違いは差ではない。

 学校では「学力」という基準で互いの差を明確にされてきた。ただ、テストで優劣を決めることが学力を高める唯一の手段であり、教育受けていると実感させるために。しかし、その学力とは何だったのだろう?

 今、思うとそれはただの「記憶力」だったような気がする。

 漢字を記憶して、数式を記憶して、年代を記憶して、地名を記憶する。覚えていることをテストで思い出し競う、みたいな。この状況でほぼほぼ個性は必要ないし、必要なことは、ただ誰よりもたくさん文字情報を記憶すること。学校で記憶したことがすべてムダだったとは思っていませんし、記憶力が良いとその能力と連動していろいろな効果も多いことも事実なのですが。

 また、運動もどこか評価の基準が一本調子だった。早く走れる、持久力がある、ボールを正確に投げられる、道具を正確に使いこなせる。これが運動の優劣を決めていた。言わば、筋肉の強さや応用力の違いだけだったような記憶があります。必死に足が速くなるように練習をして、結果、故障して大きな大会でリタイアし後悔した時、とても不毛な気持ちになりました。

 社会に出るまでにそのことに気づき、「なんか違うんじゃないかな?」と感じた人はその段階から自分の興味は記憶力を高めることや筋肉を単純に鍛え、運動力を高めることではなく、もっと、自分らしい思考や着想から生まれる自己表現としてのアウトプット(作品づくり)にベクトルを変化(シフトチェンジ)させていく。

 例えば、絵を上手くなりその技術とセンスを生かした仕事に就くという目標設定を行う。料理への興味、建築への興味、ダンスへの興味が自己表現の道筋を気づかせて、その道へ一歩を踏み出す。しかし、この道に一旦入ってしまうと、この道を発見してしまうと、実は二度とこの道から外れる(戻る)ことはできない。

 夢を諦めたり、失敗やトラブルを繰り返し例え心が折れたとしても、心は道の上に残るからだ。つまり、個性の存在をわずかでも実感した人は学力の優劣(違い)や運動力の優劣(違い)を差だとは捉えられなくなっているのです。例えどんなに致命的な優劣の差があり、自分が100人中100番でもこの結果は「個性」だと捉える人になってしまうからだ。この解釈は究極の開き直りであり、少し捻じ曲がった解釈かもしれないが、「個性」とはそういう捉え方を僕はしています。

 強い個性、良質な個性、悪い個性、正しい個性、厳しい個性、緩い個性。一見、この道は逃げ道のように感じる人も多いと思いますが、単調な記憶力の優劣や運動力の有無の世界に自分を封印してしまい、いつまでも他人との「差」を意識し続けるのはちょっと寂しい状況のような気がします。

 だから、個性の違いは差ではないのです。

 ただ、人間は野をかけるオオカミではないので、一般教養や基礎知識、常識レベルのセオリーや生きるためのルールを習得しなければなりません。法律を無視して思考・行動するような個性は言語道断です。ので、この「いい加減(良い加減)」を見つけるのが、探求・追求するのが実は一番楽しいことだと僕は思っています。