道草思想論 アーカイブ

エンハンスメント。

 「エンハンスメント」。そもそもの意味は「改良すること。また、増大、増進、強化」、「天然石が本来もつ性質を最大限に引き出すため、加熱処理などを行なって、宝石としての価値を高める工程」なのだが、人体の増強というテーマでもこの言葉が注目されているらしい。それは、人工臓器や感覚の低下を人工的に補強することで身体機能を飛躍的に伸ばすことなのだそうです。あまり、聞きなれない言葉ではあるが、確かに技術の進歩が人間の生命に及ぼす作用や益は想像以上に大きく覚醒している現実もあるのだ。

 老化や事故による身体の損傷、癌などの不徳の事態を進歩した技術力で回避できたのなら、生命本来の寿命の上限を飛躍的に超える可能性が高いのだ。当然、人間としての尊厳や自然の摂理に対する感情との兼ね合いがあるだろうが、それでも本能が生命の延長を求めたのならヒトは最新テクノロジーでその生命を制御するだろう。ただ、そこまでして個体の生命を延長し倫理や哲学的な判断はどうなる?という疑問が残る。仮に私がそうしたいと願った場合、費用の問題もあるだろうし、生命に対する捉え方は個体それぞれだろうからYESとNOに別れる複雑な問題である。そこまでコストを賭けた延命に意義があるのかないのかという疑念の前に、そんな費用は用意できないだろうし、故に「NO」という結論が予想される。もし、個人資産に余裕があるのならこの老眼だけはなんとかしたいと考えるかもしれないし、人工心臓を埋め込んでまで枯れたゴーヤのような自分の四肢を見るのは辛い。まだ53歳だから「自分の死」を先送りにできるのだろうが、もう53歳だからと自問自答すると、「エンハンスメントかぁ~」と神妙な気持ちになってしまう。

 倫理や哲学、理論や理屈って頭の中で粘土のようにいろいろな形になってしまうから、答は出さないのが大前提だし、だから、覚悟も決意も必要ない無限ループの世界である。ただその現実に反して衰えていく肉体をなんとか増強したいという願い・理想については、バベルの塔の住民だけ語れる戯言、得られる特権であり、いつまでもその空想の世界で戯れていてもらいたいと思います。

 故郷は遠くにありて想うもの、理想とは理想でありつづけるからこそ価値がある。と思うのです。何もすべてを実現するだけが人間の英知ではないような。生命は有限であることをエンジョイできるヒトでありたいと思います。

セレンゲティ平原。

 日経新聞に総合研究大学院大学学長の長谷川真理子さんがショーン・B・キャロル著の「セレンゲティ・ルール」と書籍を紹介していた。セレンゲティ・ルールとは生物に共通する制御メカニズムの法則である。そのひとつに「二重否定による制御」というのがあり、何かの量を制御するのに、一つの量があるのではなく、ある量を増やすように働く要因と、それ自身を制御する二つの要因があり、それらがうまく作用することで全体のバランスを制御していて、コレステロール量も、がん細胞の増殖も、アフリカのセレンゲティ平原の有蹄類の個体数も、みな同じなのだそうです。単純に「BがAを抑える」のではなく、「Aを増やすBがあり、Bを抑えるCがある」ので、Aが正常に維持されると。生態系は複雑で鍵になる生物がいなくなると、それがXを引き起こし、それがさらにYを引き起こし、という具合にどんどん連鎖が起こるだそうです。「風が吹くと桶屋が儲かる」のかに対する説得力のある書籍なのだそうだ。ヒトが行っている経済活動も、生物間の相互作用の一つであり、競争、密度、サイズの影響など、想像力を働かせれば、経済活動にも当てはまるだろうと長谷川さんは締めている。

 非常に興味が沸く書籍である。

 「制御の法則」が記述されているとしたらDNAの中だろうし、オートマチックにこの制御が効いている状態ならば、恐らくこの著者はこの本を書かなかっただろうし、仕事だったとしても長谷川さんに何かしらの同じ危機感がなければ、著者との共感が生まれていなければこの記事は成立しない。いわば新聞の記事にも「制御の法則」が作用しているだろうし、新聞というメディア自体が「制御」そのものなのかもしれない。書籍として世に送り出す以上、この著者は生物学者である自らの存在を誰かに伝えたいと考えた結果、この書籍が生まれている。ここにも恐らく「制御の法則」が作用しているのだ。

 では、何故?このタイミングで間合いだったのだろう?

 恐らくこの著者も学長も同じ危機感を持たれ、同じ価値観で書をまとめ紹介文を書かれたのだ。本来ならばオートマチックに制御の法則が作用しているのに、その法則を崩す亀裂が見えたのだろう。この著者のように生物学者としての知識もキャリアもまったくない私でさえ、この紹介文からその「危機感」を読み取ったわけだから、この新聞記事を目にした人の中にもこの感覚を共有できるかもしれない。Aを正常に維持するために、BとCを意識しなければならない現代なのだ。

非論理的思考。

 「論理的思考力を鍛える33の思考実験」という書籍がある。新聞広告にはイラスト付で、このような質問が事例として紹介されていた。

 質問:「暴走したトロッコの先に5人の作業員がおり、線路を切り替えれば1人の作業員がいます。このときあなたは線路を切り替えますか?」という質問である。そのまま放置すれば5名が暴走したトラックに惹かれ、線路を切り替えれば1名の作業員が惹かれる。という状況です。この問題は論理的思考力の世界では有名な質問だそうで、この書籍ではこの類の質問が33個紹介され、論理的思考力を解説しているのだろう。

 確かにこの状況、論理的思考力が鍛えられるだろう。こんな極端なハプニングではないにしても、日常生活においても論理的に判断しなければならないケースは以外と多く、日々のルーティーンで判断できているうちはいいが、このような極端なケースでは自分自身がどんな判断をするのか?確かに興味深い。

 しかし、もしこの場面に私が遭遇したら、思考力のスイッチを入れる前に5名の作業員の方へ全力で駆け出し、なんとかトラックの暴走を気づかせようとするだろう。この質問の状況ならば、線路を切り替える余裕があるのだから、トロッコは切り替え地点にはまだ到達していないはず。そして、暴走している様子は目視できているわけだ。さらに、トロッコが暴走しているレベルだから、新幹線ほどスピードは早くないはず。さらに、5名の作業員も線路を切り替えた先の1名の作業員もその場所から確認できているとしたら、論理的思考力のスイッチを入れる前に、線路を切り替える切り替えないを考える前に5名の元へ全力で走り出すだろう。

 まぁ、論理的思考力って本を見ながら比較的余裕のある状態でゆったり考えましょう的なノリだから、迷いが生まれるわけです。思考力ってどんなにテクニックがあり能力が優れていたとしても、余裕のある机の上の戯れである。

 実際、トラブルの場面に出くわしたり、瞬間的に判断しなければならないケースでは、「さてさて、論理的思考力で・・・」などという余裕はない。それはもう感覚の世界で本能で判断するのが正解だと思います。現場でトラブルに遭遇したらスイッチを入れるのは論理的思考力ではなく、直感的な判断と筋肉への命令を最優先で意識する「非論理的思考」が決め手だと捉えています。こういうタイプの人間は、予測不可能なので、後先考えず、線路の上に石を並べトロッコを脱線させてるかもしれません。ジョン・マクレーン刑事のように。

テレビを熱く語る。

 昨晩、ある俳優さんが最近のテレビドラマについて熱く語っておられた。

 「最近は素晴らしいテレビドラマがない。」と。

 テレビ業界が以前のような活況を失い陳腐化していると。さて、それは現実だろうか?私はテレビ業界のことは全く知らないし、まして芸能人の世界など無縁である。子どもの頃はテレビを良く観る子どもだったし、多くの影響を受けてきた。その影響が今のデザインの仕事に作用していると捉えているし、多くのタレントや俳優さん達の言葉や演技からも人間形成の素となる刺激を受けてきたと捉えている。それは認める。

 日本人が英語を苦手とする理由のひとつにヒアリング能力があげられるらしい。当然、英語圏で生まれた赤ちゃんは親の言葉を毎日聞きながら育つため、言葉としての英語に違和感がなく、日常生活をする上でも言語は必要だから脳の発達と連動し英語を習得する。同時に英語を音として捉え、発音やニュアンスと感情面の連動も感覚で捉えるため、これらが連鎖・連携して英語を使いこなせるのだ。日本人も同じ環境で日本語を習得するのだが、英語と日本語では文法の違いや語感の違いが結構あり、同様にイントネーションや音としてのリズム・テンポを聞き分けるヒアリング能力もテクニック的に違うらしい。よって、生まれてから3歳までの間にどの言語圏で育ったのかで聴覚のタイプが決まるのだそうだ。だから、音として言語を認識する時期が過ぎると、知覚野で捉えてしまい本来のネイティブな英語を習得する障壁になるのだそうだ。

 さて、テレビも同様に親の言葉と同じぐらいテレビから様々な影響を受けている私達は英語脳同様に「テレビ脳」という能力部位があり、それぞれの時代毎に絶対感覚で体感しながら、対峙しているのだ。と思い込んでいる。

 しかし、「英語脳」も「テレビ脳」もそれほど真剣に熱く捉えるような存在ではない、ような気がした。それは私がテレビ業界の人間ではなく、死活問題と無縁だからなのだが、いつの時代も英語は英語でテレビはテレビなのである。熱く語ろうが冷静沈着に捉えようが、ひとつの仕組み・システムである。栄枯盛衰と時代性や経済情勢などと無理やり相関させれば、熱くも冷たくもなるだろうが、熱くなりたいから意図的に熱く語る。冷静冷徹にふるまいたいからそう捉えているだけのような気がする。つまり、私達が熱く捉えているモノも冷静に捉えているモノも実態は同じで、いつの時代も仕組みやシステムは同じでそれに関わる人のテンション・感情・ポテンシャルで変質しているようみ見えるだけで、さほど、熱く語ったところで現実的には今も昔もほぼ同じモノなんじゃないだろうかと、昨晩のテレビを観ていて感じた。この感受性も結局、たまたま、昨晩はそういう気分だっただけなのだろう。この距離感というか間合いが人生を左右したり、人間関係を決めてしまうと考えると、感情面をコントロールすることってとても大切だという結論に達し、心地よく寝ました。

 物事の伝え方と捉え方はできるだけシンプルに「S(主語)+V(動詞)+O(目的語)」の構造で。

スキルマッチング。

 「スキルマッチング」という言葉がある。

 個人の経験値や能力や知識と仕事の相性を整えて、より良い仕事を紹介する企業が多用する言葉だ。仕事を探す立場では自分のスキル(経験値や能力や知識など)も合わせた個性・人間性の部分と相関させて職場を探すのだろうし、雇い主側の立場なら、今必要な人材をスキルと相関させて、社会性や人間性も確認した上で採用・不採用を決めるような状況である。

 これらマッチングの分析は統計データや然るべき科学的な根拠を元に相性を決めているのだろうが、婚活・就活でも投資でも起業プランにしても、このスキルマッチングの法則が適用できて、人と仕事の関係には常識的なセオリーや法則があり、傾向と対策についての膨大なデータの中から人も企業も「選択する」という意思決定をしなければならない。

 さて、人も企業も何かビジネスプランや職場探しを「選択する」という捉え方で良いのだろうか?統計上の確率、傾向や根拠となるデータの中から意図する最適なルートを選択するというのが仕事に就き生計を立てる、人生設計に勤しむための適正な捉え方ではないような気がする。未来は誰にも予測できない。シリコンバレーのエンジニアやシンガポールの投資家達でさえ、未来は予測不可能である。だから、「選択する」という捉え方よりも、どちらかと言えば、「開拓する」「挑戦する」「探求する」「追求する」「引き寄せる」あたりのニュアンスが現実的だと思う。
 
 この「選択する」と「開拓する」というニュアンスの違い、いずれも意思決定を行うという思考タイプで似てはいるが、捉え方として語感として、前者は「安全ルート」、後者は「危険ルート」のニュアンスがあり、大海原に憧れの海賊を目指し船出した少年のような決断はこの現代ではしにくい。だから、選択肢は多い方がより良いと誰もが考えるから、とにかく情報が増える社会構造になったのだろう。より多くの選択肢から自分の考えにマッチした居場所を選択するのか、主体的にパイオニアスピリッツで自分のルートを進むのかで捉え方が、もしくは、見える景色が変化するような気がする。言い方を変え、少し俯瞰で捉えると、「選ばれたのか?選んだのか?」という言い方になるが、スキルを公正公平に評価する指標はありそうで存在していないし、もしかすると、「選んだ」と捉え意識していることが、「選ばれた」になる場合の方が圧倒的に多いのかもしれない。相対的か絶対的か?と理論理屈で言葉遊びをする前にある、感覚で捉える部分を強く意識したい。感覚は一人ひとつだけの機能だから嘘のつきようがないし。

第一次情報。

 第一次情報とは五感が捉えた感覚的な情報です。その情報は経験値や常識、知識や知恵によって処理され第二次情報になります。その後で神経系で処理され筋肉に伝達される。このルートは交感神経と副交換神経に分岐され生命維持の行動が生まれる。

 さて、この第一次情報と第二次情報についてどのように意識するかで人のふるまいや言動、筋肉がアウトプットが決まります。これらの仕組み、学校では学びませんし習得するには十分な経験と実感を得た上でなければ、誤解が生じ、当然、良い成果も生まれない。しかし、この調整を意識して吟味したとろで、第三次情報というゾーンがあり、トラブルや想定外の事態を引き寄せる。この状況を「偶然」と呼んで処理しているが、貪欲な人間はこの偶然でさえ必然にし、制御可能にしたいと考える。

 という情報の構造について書かれた雑誌を読んだのだが、経験が浅いのか理解力が足りていないのか十分に整理できない。この感覚もすでに第一次情報であり、「できない」という結論を出している以上、第二次情報の処理後、指先がそのようにキーボードにアウトプットしている結果。例えば、仕事でも人生も目標を設定する。人生のゴールを設定して充実したビジネスライフを実践しましょう的なビジネス書や啓蒙書があるが、ここは第一次情報よりも第二次情報に偏った理論・理屈の部分を刺激するが、本心・真意の部分では「ほんまかいな?」と感じてしまう。「そんな理想のお話は実感が湧かないが、有名な著者がわざわざ書籍にして語っていることだから、少しは興味をもとう」程度の意識はしようと試みるが。

 でも、人間には最も優先する三大欲望ってのがあり、密接に第一次情報とシンクロしている。社会生活を適正に行うためには第二次情報に依存しなければならない。自分勝手な判断や団体行動、組織活動をできない人間は孤立する。日本では孤立しても生命を脅かされるまでに至らないから、就労を否定する人が実在する。それも必然。

 さて、では、「怒り」ってどう処理するのか?という問題がある。それはそれでコンサルタントやスクール経営などビジネスとして成立しているぐらいだから、よほど人間が生み出す「怒り」のエネルギーは大きく価値も高いのだろう。

 ある雑誌で「あなたの怒りのタイプ診断」というテストがあった。タイプは6つに分けられ要約すると、正義感に駆られて怒りを感じる「公明正大タイプ」、白黒はっきりさせたい完璧主義者の「博学多才タイプ」、自尊心が高いが人の評価に敏感な「威風堂々タイプ」、一見穏やかでも内面には強い信念がある「外柔内剛タイプ」、策略家だが劣等感と猜疑心が強い「用心堅固タイプ」、自己主張が得意で、ときに独善的な「天真爛漫タイプ」がある。本当に価値の高い素晴らしい雑誌である。で、素直にテストをやってみると、私は6タイプすべて均等に高い反応が出た。つまり「怒り」の塊のような人間なのであると。

 しかし、私は怒っている人は自分に正直な人であり、そのふるまいや態度に「嘘」は一切ないと捉えている。ただ、周りの家族がメンドクサイのだが、そこが崩壊しない程度の協調性があるということだ。私の開き直り理論は「嘘」よりも自分や相手に対して正直にありたいので、「怒り」は致命的な問題にならなければそこそこ放置でいいと思う。

 つまり、最終的に自分勝手な人間なのだ。でも、多かれ少なかれ人間という生物はそれが正常のような気がする。ただ、「怒り」は連鎖するので注意・警戒しなければ。53歳ともなれば。

反射神経。

 「反射神経」というキーワードで検索すると、「反射神経という名称の神経は存在せず、あくまでも「認識→判断→動作」という一連の流れ(スピード)のことを、私たちは反射神経と呼んでいます。」という説明文がヒットする。

 それに関連して「あなたの反射神経測定テスト」というサイトなどもいろいろある。

 さて、この「反射神経」。日頃はあまり意識しないが、早い人は遅い人と比較してどのような利点があるのだろう?ちなみに反射神経測定テストをしてみると僕の場合「0.2秒」という結果が出た。この数値は「普通」で、「0.15秒」前後をコンスタントに出せると早い人なのだそうです。

 中学生の頃、野球部に所属しながら陸上記録会の季節(夏)には100mの記録会に出るため練習をしたいた。田舎の小さい中学校だが、100mは校内で2番で50mは1番だった。記録は対したことがなかったが、とにかくスタートの反射速度とトップスピードまでの加速には自信があった。全国平均なら平凡な数値なのだが、「反応は遅い方ではない。」という程度の認識になった。

 デザインの仕事を始めて、この「反射神経」を強く意識する機会があった。それは、打ち合わせの際のお客様の反応や電話連絡を受けた時の反応速度だ。つまり、相手の会話がスタートで、その内容に対する返答が「反射」なのだ。経験不足や知識が足りないと適正な反応ができないし、気持ちや体調が優れていないコンディションでも、反応が鈍くなる。いくら相手の会話を事前に入念に想定できていたとしても、その通りに打ち合わせが適正に完結することはない。だから、いくら膨大な資料を用意して安心していても、予習を何回も繰り返し対応策を講じて打ち合わせに望んでも、あまり効果・成果はないということに気づいた。よりも、いかに相手の話をしっかり聞き、内容や論理、心情や真意をいかに言葉や表情から聞き取れるかという、50m走だと感じた。

 「勇み足」「フライング」「早トチリ」でトンチンカンな状況を招くこともあるし、こちらの理解不足でゴールを見失う場合も多かった。ただ反射神経が早いだけでは50mを走り切ることができないのだ。当然、「認識→判断→動作」の手順だから認識や判断を誤ると、誤った動作しか生まれない。ならば、多少反射速度は遅くとも確実性を優先する場合が多いのです。

 しかし、「反射神経が少し早い」という気持ちがこの確実性に悪影響を及ぼすのだ。未だにこの悪影響が体に染み込んでいるので、つまらない軽率な失敗することが多い。年齢と共に反射神経も老化しているので、いずれ、ちょうど良い加減になるのを今は期待している。

 結局、うさぎと亀の勝負なら、確実にゴールのテープを切れるのは亀なのである。つまり、あまり利点はないのだ。人生も仕事も単純な50m走ではないのです。

人生を変える映画10選。

 「人生を変える映画10選」という切り口のメルマガが到着した。

 確かに人生観や仕事観、そして、人間観について過去に観た映画の登場人物から学んだことは多い。その映画をチラシやポスターを見て自主的にチョイスしたのか、知人からの紹介だったのかは様々なケースがあり、その映画の時代性や流行とのマッチングも自分の中のタイミングでチョイスした経緯もあるだろう。逆に捉えると、偶然だったが必然だったと解釈させるパワーのある良い映画は、確かに人生を変える、自分の人生に作用・影響が大きかったと言える。

 仮に私が人生を変えた映画10選をここに書き出しても、ピンと来ない人もいれば、共感してくださる人もいるだろう。つまり、対人関係と同様にすべてはコンデションとタイミングなのです。

 朝一に「人生を変える映画10選」というメルマガを読んでも、あまり心は震えない。ただ、少しだけ、「こちらをクリック」というURLをクリックしたくなる衝動はあるが、恐らくその先には残念な結果が臭うし、ネットの仕組みと先方の軽率な戦略を理解していれば、そのURLはスルーが正解。

 しかし、「何故、映画が人生を変えるのか?」というQに対してはじっくり自問・自己分析をしたい気持ちになりました。ここは自分に正直でいいと思いました。

初志貫徹。

 中学に入学し、初日、教室に入ると、黒板の上に「初志貫徹」という文字が貼ってあった。担任は野球部の監督さんでもある社会の先生だった。23年前、アクトの設立に参加した時、その言葉を筆で和紙に認め自分の部屋に貼った。

 長年、仕事をしていると、ずる賢くなってしまう。テクニックだとかノウハウだとか自分に都合の良い解釈で思考も行動もパターン化させる。言い訳ばかり上手くなり、何か挑戦をするにも、たくさんの言い訳を用意してから、動き出す始末。ただただ、失敗が怖いのだ。自分の能力が足りないことも、言い訳の対象になり、「老化だから仕方ないな」などと自分に嘘をつく。そんなのは仕事のテクニックでも人生の技でもない。

 「あきらめる」という言葉は本来「明らかに見る」という意味があるらしい。思考や行動を放棄したり停止したりする意味での誤用が多い言葉らしい。あきらめるのが怖いのだ。

 今更、「挑戦」だの「探求」だのと言ったところで限界点は見えていると自分の無力さを慰めるのか、何回も何回も原点に立ち返り、殻を破り老体に鞭を入れ、「目的」を再確認するのか。

 50歳を超えると、「初志貫徹」の言葉が妙に骨身に沁みる。

 恐らく、先生も同じ気持ちで教壇に立っておられたのだろう。

お互い老いましたね。

 休みはできるだけ愛犬の散歩を心がけている。平日は早朝から深夜まで散歩の時間がつくれないことが多いのです。愛犬チョップも老化が進み散歩に対してあまり貪欲ではないような気がするからだ。これもひとつの老いである。

 2日前も早朝の散歩をがっつりして帰ってくるといつもの手順で朝のお食事。いつもの手順で玄関に愛犬と入り、朝食をセットアップ。私も散歩で多少息があがっているし、愛犬はもうかなりふらふら。玄関の低い段差にもつまずくことが多く、しっかりリードで体重をサポートしてあげる。そのままリードにつながれているがチョップは餌への意識しかなく、息を切らしながら小屋のところまでつれてき餌を食べ始める。その段階でリードは外す。

 私も玄関でタバコに火をつけて、ガツガツ食べているチョップを見ながら少しだけ屈伸運動などをする。チョップはこちらをチラチラ見ながら、朝食を食べている。

 その日も散歩中にいくつかチョップの老化現象が見られた。特に階段の登り降りはかなり困難になってきていて、8段ほどの階段もまともに登れないし、降りる時も最後の2段はいつもジャンプするのですが、その2段の高低差でさえ着地できず、4足とも体重を支えられず大の字になって顎着地状態になってしまう始末。飛び降りた勢いをそのまま顎で受け止めるのだから、人間ならかなりのダメージだろう。そして、昔なら散歩中、水路に飛び込み水の中のゴミに反応してはバシャバシャ遊んでいたが、最近では季節的にあまり飛び込ませていない。でも、水路沿いを歩くとどうもムズムズするらしく、たった30cm程度の幅が飛び越えられないくせに、水路に入ろうとする。その時は普通なら飛び込まない細い水路、チョップの身体がギリギリぐらいの20cmぐらいの幅をいつも感じで飛び越えようとして、向こう側に届かず、その水路に落ちた。深さが50cmぐらいあるので、ピッタリ身体がはさまってしまい、身動き取れない状態で、こちらを悲しげに見つめてくる。仕方なくリードをひっぱって地面まで持ち上げてやる。そんなことがあった。

 「お前も老いたもんだなぁ~」なんて心の中でつぶやく。ようやく朝食を食べ終えて、こちらを見つめているチョップ。と、くさりが首輪につながっていない!餌をあげてリードを外した後、首輪に鎖をつけ忘れた・・・。

 お互い老いましたね、チョップ君。

内側と外側。

 以前読んだ福岡伸一先生がその本の中で「口から肛門は身体の外側」だと言っておられた。一般的には食べ物を口の中に入れているという感覚なので、口から肛門までは身体の内側だと思い込んでいたら、福岡先生の捉え方は違っていて、身体の内側というのは口で咀嚼し胃で消化した食べ物が腸壁で栄養分として吸収された先が身体の内側なのだそうです。新鮮なこの捉え方に視界が広がった。

 で、この文章を読んでから、いろいろな場面でいろいろなモノの「内側と外側」について意識するようになった。

 今まで内側だと思っていたのが実は外側だったり、外側だと捉えていたことが内側の出来事だったりするのではないかという意識・捉え方の確認作業です。

 すると、身体の内側と外側の構造のように、「心」も内側外側構造になっているような気がした。

 心の内側とは他人には見えない聞こえない感じることができない閉塞的なスペース・ゾーンで、外側とは言動や振る舞いなどで外から(他人から)見える・感じられる存在。心の存在についてはどのように捉えているかについては個人差があるだろうし、理論理屈で機能や能力として捉えている人もあれば、曖昧なイメージでぼんやり・ざっくりとした捉え方をしている人もいるだろう。実際、「心とはこういうモノだ」とか「心はこうあるるべきだ」などの文字表現で心を明記・規定・定義する人もいれば、「なんだかふわふわしている空気のようなモノ」などように概念で捉える人もいるだろう。それほど「心」とは実際に存在していろいろな感情を生み出す機能がありつつも、ではさて、どんなモノだと聞かれると、明確に答えることは難しい存在なのだと思うのです。

 だから、当然、個人差があるだろうし、共有できることって結局、外に出したことのみだから、心を共有することは実際は不可能で、言葉や感情などをお互いに外側同士でアウトプットしたボールをキャッチボールしているだけなのです。「上手く言葉にできませんが」という注釈を言ってから、食レポしているタレントさんなどをテレビで観ると、心が感じた信号を誰かに伝える、つまり、心の内側から外側に出すテクニックってかなり複雑で難易度が高そうだなと感じます。

 私は医学にまったく精通していないが、家庭の医学レベルの知識で、栄養バランスの良い食生活が健康維持には有効で、偏った食生活や暴飲暴食を繰り返していると結局、そのダメージが健康を害するってことレベルは知っている。心も同様に漠然と捉えず、概念として内側外側構造になっていると捉えると、理論理屈も曖昧なイメージも結構整理し比較し捉えることができます。

 これの捉え方はどこかの心の専門家がしっかり理論立てて構築した構造理論ではないので、どこから内側でどこから外側なのかも説明できませんし、ただ、漠然と内側と外側を意識して比較しているだけのレベルです。実例や実験を繰り返し調査・検証し、そのデータを解析した理論でもないのですが、福島先生のお話をきっかけに、モノゴトの「内側と外側」を改めて再認識して、それを心に適用してみると、意外と日常生活や仕事でのモヤモヤした思考の流れが整いましたという、まったく個人的な自論です。

 さて、今日は12月30日。今年もあと1日。無事、年賀状も出せたので、明日はこの「内側と外側」の捉え方で書き溜めたメモを少し掘り下げ、少し覚醒させて2016年の締めのブログを数本書き出したいと思っています。

ノーコメント

 世の中に存在する数多の権威ある受賞式。はたして、突き詰めると誰が得をするのだろう。

 ノーコメントを貫き沈黙を守る人、勘違いし色気を催す人、術も縁もなくスルーする人、脇目も振らず盲信・猛進する人、まるで「受賞」とは心を変質させる魔法の薬である。

素朴な何故?

 素朴な疑問。すべての競技において、「より早く」「より長く」「より大きく」が何故、大前提なんだろう?

 この考え方は単にバスフィッシングトーナメントで私が大きいサイズのブラックバスが釣れないひがみなのですが、もし、「より大きく」というルールではなく、「より小さく」という競技ルールだったら何か問題があるのだろうか?いや、私が無知なだけで、「より小さく」で競うと大きな問題が過去に発生し、「より大きく」というルールに落ち着き、現代の主流になり、私達も当然その価値感・スタイルを常識として受け入れているのだ程度のことなんだろう。だって、競技なんだから普通常識的に考えて「小ささを競っても楽しくないでしょう!」というのが通念の感覚だということは分かっていますが、私のような極端に偏屈者天邪鬼野郎はそんな根底を覆し、「競う」という視点なら、「より小さく」でもいいじゃん!などと開き直っています。勝負事で勝てない人間、勝てる脈の少ない人間はこのように、とことんまでひねくれた発想をするから非常に危険です。

 この発想で言えば、「優れたデザイン」という常識についても疑問がある。

 「デザイン」や「アート」とは本来、優劣を決めない。決めないことが大前提で「決められない価値」があるはずのモノだと捉えています。それを代価や言葉(評価)で実しやかに優劣を決めるものだから、本来の価値ではない部分に光があたる。では、本来の価値、本来の視点ってどこなんだ?というお話ですが、それは、ひとりひとりの心の中にあり、決して、言葉にできない個人的な感覚として受け取っているモノ。それをわざわざ言葉や数値に置き換えて共有し、優劣を決めたいばかりに、個々の心の中にあった鮮度の高い美しい感覚が、濁り、淀み、硬化し、汚れるのです。

 「優れたデザインの仕事」とは、受け取った人がしみじみとまったりと手の中で、いつまでもあたためてもらえるようなモノだと私は思います。

 人と人、常識があればあるほど、教養があればあるほど、余裕があればあるほど、ボキャブラリーがあればあるほど、策略・戦略が多ければ多いほど、合わないのが常。そんな人と人が何かで競う時、やはり、常識・ルールは大切なんですね。

アポリア。

アポリア(aporiaギリシア語)

 ギリシア語の原義は「行き詰まり」、すなわち、問題が解決困難な状態のこと。ソクラテスは、対話によって相手をアポリアに陥れ、無知を自覚させた。相手は、ソクラテスの問いに導かれて、自分の生き方についての自分の意見から、論理的に矛盾が生じることを認め、途方に暮れた。

という説明文がこの言葉には添えられている。

 人間は昔から苦悩していたのですね。むしろ苦悩こそが人間の証なのかもしれません。そして、他の生物にはない能力であり特権なのかもしれません。

自然科学と人文科学。

 新聞を読む習慣は情報・知識を蓄えるという効用がある上、日頃の思考を具体的に文字にして気づかせてくれるという効用もある。世の中に流通しているゴシップや思考のような規範をある特定のライターが文章にしているのだと捉えることができれば、それは鮮度の高い捉え方・視野の外からの有益な刺激と解釈ができると思います。どれだけ教養・記憶を豊富に蓄えた人であれ、知らないことすべて知ることは不可能である。知らないゾーンにある未知のルールを適用し誰かが階層化してくれることで、自分の意思・能力に関係なく、優先順位が浮沈しているとしたら、それらはまるで空から落ちてくる雨のように気まぐれで、地球上の循環機能というシステムの中で意識と無意識、認知と不認知の均衡を交錯する作用があるのだろう。

 エドワード・O・ウィルソン著「ヒトはどこまで進化するのか」と書籍がある。日経新聞のサイエンスライター内田真理香様の記事が曖昧な思考を明確な文章として意識化させてくれた。この著書はいずれ購入し読むとして、その紹介文がとても素敵だったので全文抜粋します。


 「自然科学は私たちを救ってくれない「冷たい」学問だと感じる人も、人文科学を「役に立たない」と考える人にも手のとってほしい一冊だ。著者のウィルソンは生物学の大家であり、さらに自然科学と人文科学を統合する社会生物学などの概念の創始者でもある。本書はその大胆とも思える説をもとにしながら、人間が存在する意味という大きな問いに挑む。
 38億年前に誕生した生物の進化、私たちが普段気にとめることがない微生物、地球上に存在する多様な生物、さらにET(地球外生命体)の存在の可能性。本書は、時間も空間も広大な話題を交えつつ、ウィルソン生物学の世界に引き込んでいく。
 その内容は以下のように多彩だ。集団のために分業するアリの社会的な生態は興味深いが、中でも他種のアリを奴隷にするサムライアリの戦略には驚かされる。ETの存在の可能性を探りつつも、ETが地球上のヒトと接触する可能性はないという。なぜか。偶然や幸運の積み重ねの結果で進化した人類は、体内に存在するものも含め、共生微生物が必須だ。地球外にもし知的生命体が存在するならば、人類と同様の進化を遂げているはずであり、ETは独自の生態系を形作っていると考えられる。従って、相容れない知的生命体同士の接触は破壊的な結果をもたらすと予測する。
 最近の心理学などの知見からは、人類が進化したのは、社会的知能を研ぎ澄ませ、集団の生活率を高めたためだといわれている。人間は人間に魅せられるからこそ、物語やゴシップやスポーツを好む。同族意識があるからこそ仲間内で協力もするが、その同族意識は集団外への攻撃、つまり現在も頻発するテロや紛争の源泉ともなる。
 ただし、ヒトの行動が科学的に解明されたとしても、新しい技術が生み出されたとしても、自然科学はそれらに対して価値判断を下すことはできない。同族意識が備わっていることが差別をしてもよい理由にはならない。バイオテクノロジーが発達しても、闇雲に利用すべきだと判断はできない。これらは人文科学の領分である。
 「自然科学の発見し分析する力に人文科学の内省的創造性が加われば、人間の存在は高められ、どこまでも実り多く興味深い意味を持つものになるはずだ」と著者は説く。これは夢物語だろうか。いや、人類は協力しながら進化を遂げてき。これからも自然科学と人文科学が協力することで、私たちの新たな展望が開かれることだろう。」と記している。

 人間の想像力が未確認知的生命体の存在を描き、多くの仮説(メッセージ)を投げかけるのも、人間への普遍的な同族意識故の現れだ。平和を求める故の争い、かのフロイトでさえ「戦争は必然」という意味合いの言葉をある書籍に残しているのを読んだことがある。人間の暴挙を生命の尊厳を踏みにじるような思考を受け入れることは不謹慎であり、決して共鳴はできないが、誰しも「新たな展望」を期待していることに依存はないはずだから、自然科学と人文科学の融合的知見がその呼び水になり強く太い本流が生まれ無価値な暴力が根絶されることを期待したい。

 原題「The Meaning of Human Existence」という書籍である。

「カッコイイ」から生まれるビジネス。

 もしも、私のような頭の毛が薄い人が、私のように頭の毛が薄いことを気にしなくなったら、カツラや植毛ビジネスは成立しない。

 もしも、私のように服装に無頓着で、一年中同じ服を着て何も感じない人が増えたら、ファッション業界は成立しない。

 もしも、私のように明確な目的がなければデジタルツールを買わない、非生産的なオンライン無料ゲームや可もなく不可もないアプリに一喜一憂しない人が増えれば、デジタルツール市場は消滅するだろう。

 つまり、「カッコイイ」や「イケている」という感覚はいつの時代も大きなビジネスを生み出しているのです。そもそも、デザインの仕事を始める以前にデザインの仕事に対して興味やあこがれがなかったので、いわゆる一般的な「カッコイイ」や「イケている」ことに羅針が反応しない。今となってしまえば、何をどうしようが、最先端のファッションをいつも気にして、最新ツールに敏感になることはできないが、逆にその感覚を逆手にとって楽しい作品が作れないだろうか、そんな野郎なりのアンチでディスなコンテンツが生み出せないだろうかなどと考えています。

 だから、政治家には極端なハゲやデブやチビがいないのだろう(かなり教唆的な捉え方です)。彼ら彼女達は、政治家として、政治家らしいルックスだから、人の心を動かせるのだろう。何事も単純明快さが一番有効で最高の戦略なのである。同じ言葉を連呼できる人、笑顔の素敵な人、社会性に富み言葉巧みに、何事にも相対的に思考し行動できる人。このような人はほんとに「カッコイイ」と思います。だから、市場が反応しやすいのです。

 けっこうな「ひがみ」「妄想」「ネガティブ思考」全開全力のブログでした。

 でも、わざわざ、ブログにこうして書き出すと、スッキリする効用もありやめられません。

136点

 娘が漢字検定2級を受けてきた。

 自身、漢字力にはまったく自信がない。学校の頃も漢字テストにはまったく興味がなかったから、当然、テストの点数は悪い。漢字をたくさん記憶することに興味がなかったのだ。言葉をたくさん知っていることと、漢字をたくさん知っていることを比較した場合、言葉をたくさん知っていいる方が実用的だと感じたからだろう。それは今も同じ。しかし、何かメモをとる時、打ち合わせ中にお客様の前でメモをする時など、比較的簡単な漢字が出てこないはなんともはずかしい。が、言葉で補足すればいいと根本、考えているので非常にタチが悪い。

 漢字検定2級のテストとは1時間のテストで、1点と2点の問題があり、200点満点で140点で合格という設定である。どんなものかと、さっそく挑戦してみた。結構、真剣にである。

 いきなり「さみしい」で躓く。ああ、「寂しい」が出てこないのか、これは、かなりヤバイなと感じながら、テストの問題に答えていく。

 結果、136点。不合格である。

 ネットで漢字検定2級のレベルについて調べてみると、大学生の合格率が25%だそうである。そうかそうか、あと4点。いつも、私は合格点にちょうどこれくらい足りないのである。

異分野交流・多分野協力論。

 東京大学教養部の藤谷祐子副理事長が提唱しておられる「異分野交流・多分野協力論」について。

 この取り組みは東京大学の総合的教育改革の一環として新設された後期教養科目の中の一科目なのだそうです。全12回のテーマを用意し、毎回、議論形式で授業を行っている。授業の構成は下記の12回である。

第1回 コピペは不正か
第2回 グローバル人材は本当に必要か
第3回 福島原発事故は日本固有の問題か
第4回 芸術作品には客観的価値はあるか
第5回 代理出産は許されるか
第6回 飢えた子どもを前に文学は役に立つか
第7回 真理は一つか
第8回 国民はすべてを知る権利があるか
第9回 学問は社会に対して責任を負わねばならないか
第10回 絶対に人は殺してはいけないか
番外篇 議論によって合意に達することは可能か
最終回 差異を乗り越えることは可能か

 なんとも、壮大で曖昧で必然なテーマです。では、ひとつひとつ答えていきたいと思います。

Q コピペは不正か?
A 何をコピペするかで不正か否かが分かれます。
  つまり、この議論をどのような立場のどのような属性の人とするかで分けるべきです。

Q グローバル人材は本当に必要か?
A 必要だと思えない理由が必要なし。

Q 福島原発事故は日本固有の問題か?
A NO。

Q 芸術作品には客観的価値はあるか?
A そもそも芸術に「客観」はない。

Q 代理出産は許されるか?
A 誰に許してもらうかという論点ではない上に、代理出産は必然である。

Q 飢えた子どもを前に文学は役に立つか?
A 役に立つ。

Q 真理は一つか?
A NO。

Q 国民はすべてを知る権利があるか?
A 権利はあるが、権利があるだけ。
  物理的にか概念的にか、もしくは哲学的には慣習に依存する。

Q 学問は社会に対して責任を負わねばならないか?
A どのように「社会」を規定するかで責任の有無が変化する。 

Q 絶対に人は殺してはいけないか?
A 殺してもいいという前提では何も生まれない。

Q 議論によって合意に達することは可能か?
A 議論する人達の時間の概念次第。

Q 差異を乗り越えることは可能か?
A 当然、可能である上に、不可能な状況の原因・要因を黙認せず直視し理解し納得するべき。

 議論ありきのテーマですから、乱暴な結論ばかりですが、私の根の部分はこんな感じです。

 しかし、東大生の皆様も次から次へと大変な時代になりました。

1万時間の法則。

 アメリカの研究で人が何かのスキルを志し、その熟練度との関係をデータ化し計測したところ、何かに没頭する時間が1万時間以上の人は、そのスキルに一定レベル以上の熟練度がみられたそうである。

 私の場合、幼稚園に入る前からチラシの裏に絵を描いていた。たわいもない落書きレベルの絵ではあるが、時間があれば鉛筆かマジックで描いていた。そのまま学校でも勉強の合間、図工の時間は勿論、マンガに出会ったあたりからその頻度は加速する。一番勉強をした中学3年生の頃でさえ、勉強の合間でも、気分転換にデッサン風の鉛筆画やマンガの主人公を模写していた。芸大に入学するとさらにその頻度は多くなり、一日の中で絵を描く時間は格段に増える。社会人になりデザインの仕事を始めた頃でも、グラフィックデザインの仕事をしながら、イラストレーターの仕事も合わせて展開していたので、ラフスケッチから着色までを絵を描く時間と想定すると、かなりの時間、私の人生では絵を描いてきたことになる。

 仮に50年間、1日平均1時間の絵を描いていたとしても18,250時間となり「1万時間の法則」にあてはまる。芸大生の頃やイラストレーションの仕事を長年展開してきたため、1日10時間以上、絵を描いていた日も相当あるので、恐らく推測ではあるが、5万時間以上は絵を描いていた計算になる。

 ただ、「熟練度」という捉え方で「絵」「イラスト」を捉えた場合、「上手い絵」が必ずしも有益な成果とは限らない。絵の評価は個人の主観に依存するため、絵を描くテクニックは熟練度が高いが、その絵に価値があるという直接的な比較が難しい。

 さて、「好きこそモノの上手なれ」という言葉があるが、私にとって絵は「好き」であり、全体平均から比べると「上手い」レベルとなるだろうが、だから仕事が増えるとか、だから生活が豊かになるとか、人生が充実したとかという成果に直結しているとは考えにくい。

 もし、私が医学の道を志し、多くに患者さんの治療や命を救ってきたのなら、専門的な知識や技術は有益で崇高だと捉えることができるが、「絵が上手い」ことが世間一般に価値があったとは捉えにくい。なのに、何故?絵を描いてきたのだろう?と、ずっと考えてきた。描くことがただ「好き」だから、描いてきただけなのか?実はその想いの下層に大きな意義や価値があるのだろうか?と。

 意義も価値もなければ、私は人生の相当な時間を無駄に過ごしてきたことになる。この疑問、文章にして書き出しても、言葉にして誰かに相談し助言を求めても、多くの書籍に解決の糸口を求めて探求・追求しても、明確な答はない。なかった。

 現在の結論として、やはり、「絵」に対する疑問の答は「絵」の中にあるような気がしている。

ポジティブシンキングな都道府県。

 そのランキング調査は、インターネットにより全国の20歳~59歳の男女1,457人(各都道府県から31人ずつ)を対象に行われたらしい。調査時期は2015年12月。という内容のメルマガが到着していた。

 ポジティブシンキングというテーマに対して具体的にどのような調査がされたのか?も興味があるが、各都道府県の31人をどのように選定したのか?という部分にも興味が沸いた。その調査の結果、最もポジティブシンキングな都道府県は「鹿児島県」だったらしいが、この結果を、この情報に対してどのような反応をするべきなのだろうか。以前、吹田から長浜に引っ越してきた時、新聞に「日本一住みやすい街 長浜」という情報を知り、同様の疑問が沸いた。人口とインフラの関係からその「住みやすさ基準」は算出されいたという補足説明があったが、それが直接「住みやすさ」と断定してもいいものかという疑問が残った。今回の「ポジティブシンキング」という基準についても多種多様で多面的な捉え方ができるだろうし、わずか31人の調査でこのようなネットの記事として情報として公開してもいいものか?と感じた。

 テレビの視聴率、国民調査、読者アンケートなどの物理定数は常に「100%」でモノゴトを査定する。この捉え方は選挙の投票にも作用し、票さえ集めればそれが正解であるという多数決心理の真骨頂である。確かに背景・根拠は曖昧でも、数値で比較すれば一目瞭然だから、意図する成果に数値がなびくように仕組みを整えれば既成事実は完成する。もしも、世の中の情報がこの類の既成事実ばかりだとしたら、最初にあるのは着想や想いではなく、そう仕込みたいという情報収集が優先されているような本末転倒な仕組みが横行しているのではと捉えている。

 つまり、世の中の順回転が、好循環だと捉え鵜呑みにしていることにすべて誰かの意図が反映されているとしら、それを見極めてからでないと、自分の行動の指針にはならないのかなという危機感である。この思考パターンはネガティブシンキング傾向にあるとしていも、一旦、冷静にフラットに情報を精査する必要があると思います。

 スマートフォンのスマートは「賢い」という意味が込められているが、私は未だにガラケーを仕事に活用している。確かに多機能なこのデバイスは「賢い」のだが、「便利」だとは感じられない。これは固執した捉え方で私が「賢くない」から「賢い」ツールに嫉妬しているのだろうとモヤモヤしていることは正直な心情です。しかし、とどのつまり、ツール選びに「賢さ」という利点は曖昧過ぎて、ポジティブシンキングになれないのです。世の中の大きな潮流に対して意固地になり、天邪鬼な判断ばかり続けているといつか足元をすくわれることになるだろうとは警戒しいますが、最後の最後で五臓六腑に落ちこてこないモノは消化できないのが生物のサガと、無粋な言い訳で自分を守っています。

 さて、滋賀県は何位だったのだろう?

犬的なアプローチ。

 「犬の収集癖」で検索するとこのような記事がヒットしました。

 「自然界で生きる動物の場合、いつ食べ物が食べられるかわからないため、あまった食料を隠して後日掘り起こすことがあります。これは後々自分で食べるためであって「大事なもの=隠す」という習性でもあります。ペットとして飼われている犬の場合は、しっかりと食事を与えられているためこのような動作が見られることは少ないものの、かわりに大事なものであるおもちゃを隠す傾向が強くなります。人間にとっては一見ガラクタと思えるようなもの(片方だけのサンダル、ペットボトル、壊れた植木鉢など)も、犬にとっては大事なコレクションのひとつなのです。」

 なるほどなるほど。「人間にとっては一見ガラクタ」という部分、何故かどこか共感します。他人から見ればくらだいないモノに価値を感じる感覚は本能だと言ってしまえばそれまでですし、趣向と捉えれば利己的な価値観になります。

 昨晩、地上波初ということでハリウッド版の「ゴジラ」がテレビで放送されていました。この地球上にゴジラが存在する可能性をつきつめれば限りなく0に近いのでしょうが、さりとて、0%でもないはず。原爆・水爆の影響が自然の生態系にどのような悪影響を及ぼしているか、及ぼしてきたかということについて人間はいつの時代も振り返り検証してきましたが、結果、巨大な未知の生物が海中や地中に潜んでいるかもしれないという可能性(仮設)は個人的にとても刺激的です。ムートーとゴジラの戦いにただ翻弄されている人間を人間が描いている以上、別段、ゴジラは救世主でもなければ人類の宿敵でもない。ゴジラに根拠も理由も理屈もないのですから、という設定です。

 ゴジラがムートーの小さい方(オス)をその尾で粉砕し、大きい方(メス)を放射能で狩った時、映画の登場人物達は「人間の味方だ」「地上神」「救世主」だと言いますが、それはゴジラにしてみれば全くの無意味です(という設定)。ゴジラはその本能(嗅覚)のままにどこかから現れ、自然界の法則のまま、相手を迎撃し駆逐しただけなのですね。日本のクリエィティブ「ゴジラ」がいい感じでひとり歩きを始めた瞬間でもあります。

 五感で捉え本能で受け取っている様々な情報に対して、言葉にならない理論化されていないゾーンをもっとしっかり捉える必要があるのかもしれません。犬がその本能でガラクタを集めるように、言葉にできない心のゾーンを開きたいものです。そしてそのゾーンを活用し、犬的なアプローチで自身のクリエティブ(仕事)に活用したいものです。

脳。

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 26歳の時、東京でこの書籍に出会った。出会っていなければというイメージがまったく浮かばないほど、必然だったと思いたい一冊である。慣習やシステム、セオリーや定石、規範やルール、情報化社会の人工的な箍に囚われず、自分自身の都市化を抑制できたのもこの一冊のお陰。代価として素直さや真面目さを低下させてしまったし、組織や団体に属することに違和感を感じる気質になってしまい、さらに「ずるさ」も増幅した。が、それも本質であり必然だと確信できる一冊である。人間、確信しているほどタチの悪い状態はないので、いかに書籍が文章が言葉が人間そのものを変えるチカラが大きか、固める力が強いかを実感しています。言い換えれば、人間は変化し続けていることが自然なのだから、箍から開放してくれる作用が言葉や文字にはあるということだろう。聴覚言語か・・・、視覚言語か・・・、そして、触覚言語か。

 脳は偉大であると同時に、面白い(と、脳が言っている)。

9つのタイプ

 人間ってこの9つのタイプに分かれているという説がある。

タイプ1 完全でありたい人
タイプ2 人の助けになりたい人
タイプ3 成功を追い求める人
タイプ4 特別な存在であろうとする人
タイプ5 知識を得て観察する人
タイプ6 安全を求め慎重に行動する人
タイプ7 楽しさを求め計画する人
タイプ8 強さを求め自己主張する人
タイプ9 調和と平和を願う人

 占星術もしかり、属しているという心地よさと違和感のバランスが人間の本質である以上、「あなたはこのタイプ!」と誰かに規定されるのは嬉しいような苦しいような。社会人である以上、起業している以上、生きている以上、必ず属性があるもの。国だったり性別だったら世代だったり学歴だったり趣味趣向だったりテクニックだったり。これもrelationshipの作用なのでしょうね。

雑談力と共感力

 どれだけコンピューター(人工頭脳)が進化しても人間の「雑談力」と「共感力」はプログラムで再現できないらしい。記憶力や整理力や様々な機能は圧倒的に人工頭脳が有利らしいのですが、人間の人間たる証として「雑談力」と「共感力」こそが決定的な違いだと、ある脳科学者がその著書で言っておられた。例えば、人工頭脳と人間が雑談らしき会話をしても、人間の思考の展開には到底及ばないというレベルで、人間らしさとは思考の展開・連携・結合であり、それは記憶をただ時系列に並べるだけの直線的な経路ではなく、複雑に絡み合った思考の綾なのだそうです。この過程で「不安」「焦燥」「憤慨」など喜怒哀楽が生まれ、その状況をまた多重な人格が捉えることで、人間らしさが生まれるのでしょう。いわばストレスもコンプレックスもアレルギーもシンドロームもこの接点で生まれるクオリアであり、でこそ人間だと。

 実際、私はあまり雑談が好きではありません。井戸端会議的な酒の席での無味乾燥な雑談が好きではありません。できることなら雑談が始まりそうな雰囲気の前にその場を退席したいと考えているタイプです。狙い・意図の明確ではない会話がたた退屈なのです。しかし、雑談力こそが人間らしさというこの著者の見解を知るにつけ、もしや、それを毛嫌いしている私は人間らしくないのかとも感じました。一方、仕事でパソコンは活用していて、初期のMACからだとほぼ27年ほどお世話になっている。当然、パソコンを使う主目的は仕事だから、余計なアプリもアイテムもハードから削除しています。なんせ、パソコンというツールの目的・成果に対するストレートで無駄のない仕組みが好きなので相性もいいのでしょう。パソコンがないと成立しない仕事をしているために必須アイテムだとは言え、初期の頃から初級者の頃から、パソコンに対するアレルギーはなく、興味を持って取り組めたことでいろいろ専門的な経験値が習得・蓄積できたのだと捉えています。時々、フリーズしたり故障するロジックでさえ、愛らしいツールです。また、プログラムを組む時も、言語(文法)にミステイクがあったり、一文字でも欠ければ機能不可になる正直さも好きです。期待値と反応の等価交換率が適正な部分がお気に入りなのでしょう。

 一方、バグの不確定要素の気分次第の多重多層なタイプの人との雑談は好まず、当然、共感もできないようです。不確定要素こそが人間らしさだと言えばそのとおりではありますが、やはり、私は偏屈者なのか、心底、繋がっていたいというタイプの人はあまり多くありません。

物語01

 断片的な情報や理論ひとつひとつに背景やディテールなどの物語があります。誰かに何かを伝えようとする意図や狙いが情報や理論に心を宿す。時間経過や相互の関係性をしっかり伝えたいのならば、ただ、正論や情報の羅列や精査では工夫が足りない。例えそれが事実であれ想像の産物であれ。物語をつくる心が大切なのです。現在に残る多くの偉大な成果物の中には、逸話や武勇伝など物語として残っているモノが多いのもうなずけます。物語こそがこの情報時代に最も有効な伝える手段なのです。最近、ある書籍を読んだことがきっかけで、改めてそのことに気がつきました。「確かに」「そう言えば」「なるほど」という実感です。デザインの仕事に長年携わってきて、「伝える仕事」の価値を改めて実感しています。

人手不足

 いろいろな業種で「人手不足」が叫ばれている。医療・教育・建設・文化芸術・製造業などいろいろな分野の業種で後継者の質が低下していると言われている。一方、政治は雇用を生み出そうと予算を配分しているが現場でその予算が有効に機能していないと言われている。すべて「言われているレベル」のうわさだが、メディアや活字の中で連呼されると、ワールドカップの日本チームへの期待値と同様に、リアリティーを感じる。流言・デマなどのノイズもあるだろし、サインも確かに存在しているだろう。そもそも「仕事を得る」というスタートラインから誤認だとしたら、「仕事をするための技術」だけ習得すればいいという意識に陥るだろう。ビジネス実用書や成功事例に見る「仕事は創る」ものだという意識はどのあたりのポジションから捉えればいいのだろう。「仕事がない」から得られないという意識が「人手不足」の要因になっているとしたら、一体どこから改善すればいいのだろうか?その改善方法は「仕事のできる人」人に直接倣うしかない。しかし、どんな経済不況でも「逞しい」「独創的な」「タフな」人がいる。スタイルをしっかり構築している人達である。プロフェッショナルと呼ぼうが、エキスパートと呼ぼうが、職人と呼ぼうが、この人達は関係ない。何故なら「仕事ができる人」だからだ。仕事ができる人にクリスマスツリーの電飾も、首から下げている認識票も、ジャケットの胸に光るピカピカのバッチは必要ないのだ。自分自身の中にしたためた自分のためだけの巻物があればいい。まして、「野次」などただの敗北宣言だ。自分がプレイヤーでないことを公言し自分の存在を保守するための宣言のようなものだ。当然、責任などないから簡単に謝罪する。そして、自分の記憶力の微弱さを安易に露呈する。

人手不足とは、雇う人と雇われる人の関係性にその原因があるようだ。

うわさ

 「流言は知者に止(とど)まる」という言葉がある。流れてる言葉とは、うわさ、口コミ、都市伝説、風評、デマなどのことだ。根も葉もない場所から火の手が起き煙になる。それが狼煙なのか雨乞いの儀式なのかはさて置き、この言葉の煙は言語が生まれた時代から、現代のインターネット時代に至るまで、脈々と鎮火することがないのだ。75日で消える火もあれば、時代を越えて燻ぶる火もある。メディアが生まれる以前から在った言葉。膨大なテキストデータの中に埋蔵された真理の言葉。何を引き寄せ、何を排除するか、暴徒の中で自分の言葉を失うよりも、適正な思考の空間で心地良い言葉の反響を味わいたいものだ。

災害時のデザイン

 「“もしもの時のデザイン”とは、起こりうるであろう災害時に備えた、元気な明日へ繋げる100人のデザイナーの強い思いを込めた提案です。例えばライフライン──「生命線」を意味するこのすべてが止まった時、デザインに何が出来るだろうか?“もしもの時”をどう捉え、考え、デザインに反映させるのか──。そしてそのデザインは人々のために実際に役立つ事ができるのか──。そのような視点からご覧いただきたい一冊です。」というコンセプトの「災害時に役に立つ物や心のデザイン」という新刊のご案内がメルマガで到着していた。なるほどなるほど、デザインと災害のコンビネーションか。「もしもの時」を想定して準備し備える能力は大切だ。特に3.11や極端な豪雨や猛暑など自然の猛威に無力なことは実感されられてきた。だから、備えるというのは当然の体制だ。それをデザインに反映させることはとても意義のあることだろう。この取り組みに参加された100名のクリエイターの皆様も大きなテーマに対して、どのような創造を具体的に生み出しておられるのか?とても興味のある一冊だ。
 しかし、デザインは天災や極端な異常気象への処方箋としても有効であるように、日々の細かい経済事情や嗜好性の変化にも対応できる非常に微妙なチューニングやメンテナンスをし、備えなければならない。不確実な時代だと取り立ててピックアップした机上のテーマよりも、もっと微細でデリケートな問題の連動が大きな経済や社会の流れになっている構造にも、クリエイターは配慮しなければならない。デザインで癌が治療できるとも、デザインが錬金術になるとも考えてはいないが、もっと、目の前の足元の前後左右上下をしっかり分析できるクリエイターでありたい。

ナポレオン・ヒル

 巨万の富を手に入れた人々の言葉は一見、真実値が高いように思える。道理は簡単、自らのリアルな成功体験をそのまま記述すれば紛れがないのだから。とある基準と比較して成功したから「成功への軌跡」が成立しているのだ。ほぼ99%この視点は小さい「妬み」なのだが。では、成功体験とは無縁だった巨万の富をその人生の中で獲得できなかった多くの人達の言葉はどこに残っているのだろう。ヒルは「思考が現実化する」条件は万人にあると言っている。それは間違いではないだろう。しかし、言葉を残せる人には、類稀なる思考術があり、その思考を人生の中で実行したからだけではない、別の理由があるはずだ。この思考はすでに私自身のバイアスを帯びているから、世界有数の書籍に意義を申し立てるわけではなく、私自身の「読書感想文」として書いているに尽きる。確かにヒルの言葉はヒルの真実として世界中の多くの人に受け入れられ、多大なる影響を与えたという事実は事実。その中に、ベルがいてエジソンがいてとなれば、誰も有無を言う隙間はない。巨万の富をその手に入れた人間の頭の中からあふれ出る言葉を、私自身の器で受け取れない故の拒絶感なのだ。そんな、時にヒートアップしながら、時にクールダウンしながら、ヒルの言葉は自分の意識の中に存在しない、どこか未知の部分を痛烈に刺激する。「現実化する思考」ならどうにか自分の意識の中で処理できるのだが。

インバスケット

問題発見力

インバスケット法で問題発見力は最も重要と言えます。
どんな環境でも問題が無いということはあり得ません。
従来のトラブルなどの発生型問題発見よりも、
今、必要なのは現状から問題を創り出す人材が求められています。
ビジネスシュミレーションとしてインバスケットを活用することによって、
いま必要とされる問題発見力を鍛えます。

問題分析力

発見された問題の本質をつかむ為の分析力を付けます。
判断するために、どのような情報をどのような方法で、
何に使うために収集するのかをトレーニングします。
より正確な判断を行う為に、定性情報(感覚や憶測)ではなく、
定量情報(尺度や論理的理由を持つ情報)を有効活用するトレーニング効果もあります。
また関連案件や関連資料から総合的な分析を行います。

創造力

様々な案件や情報から複数の対策立案をするトレーニングを行います。
インバスケット特有の時間制約や過酷な環境下でも、
管理者やリーダーに求められる創造性を発揮できるトレーニングを行い、
新たな可能性を見出す能力を育成します。

組織活用力

管理者・リーダーは与えられた人的資源だけではなく、
他部署や関係部署を有効活用し、結果を出すことが求められています。
インバスケットでは、自分では行動出来ない環境の中、適任者に何をさせるべきか、
また、どの部署に協力を依頼するべきかなどのトレーニングを行います。
加えて、組織のモチベーションを最大化するための、対人関係能力も育成します。

判断力

単に判断するだけではなく、確実な判断をするために、判断材料とした情報を明確にします。
また論理的な思考を持ち、判断の正確性や正当性を他者に
納得させる表現力もトレーニングできます。
併せて、インバスケット特有の案件処理の優先順位設定も重要な評価要素です。

 と、あるサイトからの抜粋ですが、どうやら新しい潮流は常に「軍事産業」が源流のようです。

謹賀新年。

nenga2014.jpg

 年々、年齢と共に誤解していたことが明確になり、自分の決定的に足りないモノが明瞭になってくる実感がある。まず、その一番手は「若さ」なのだが、こればかりはどうにもならないと諦めるのか、身体的な老化だけを容認して思考術や技術を磨き若者に負けないようにと鼓舞するのか、非常に重要な分岐点だ。よく、テレビの究極の二択として「若い頃に戻りたいか?」「未来を知りたいか?」という選択を真剣に考えてみると、実はどちらも求めていない自分がいる。もう一度、若い頃に戻り何かに挑戦したいとか、後悔していることに再チャレンジする機会を得て、再挑戦したいとは考えてはいないし、また、未来を知った上で今何をするべきか?などの情報を得て、充実した毎日を送れればいいかとも考えてはいないからだ。「今でしょ!」という2013年の流行語の裏を返せば、現代のあらゆるベクトルが「過去」や「未来」に散っている状態なのかとも分析してしまう。過去の集積である情報と未来への道しるべである戦略やビジョンの間に挟まれて、身動きできない、もしくは、心地良い挟まれいる感じのまま時間だけ過ぎてほしいレベルの快感でいいならば、ジョブスの、いや、スチュワート・ブランドの言葉が実践できなくなる。それほど「今」が重要だと言いたいわけではなく、ごく自然体で素直に「今が大切だ」と考え捉えられる年齢になったのだと感じている。決してやるべきことはやってこれたとは思っていなし、達成できなかったことを悔やんで消沈する気も毛頭ない。実際は目標として設定してできなかったことばかりだが、それでもそれらをすべて受け止めて「今」をハングリーに、そして、愚かに生きてこそなのであると考えている。

 さて、馬という今年の干支を絵にするにあたり何を考えたか?仕事上、私の手元にはいろいろな馬のデジタルデータがある。ネットを検索すれば「馬のイラスト」を描くための資料は豊富に揃えることができる。しかし、例え参考にできるような資料としての馬が、検索した情報の中にいたとして、その一匹の馬には私が今年も元気な馬のように草原を駆けるインスピレーションを背負えないことを知っている。求めているイマジネーションとネットの中に存在する絵柄が、絶対的に融合しないことを学習で知っているからである。欲しい要因や構図を参考にすることは、絵のプロなのでどうにでもなる。アナログの画材やソフトウエアを活用すれば1時間以内にどこにも存在しない馬を創り出すことは可能だが、仕事ではなく自分自身の年賀状なのだから、テーマを受ける(バッターボックスでボールを打つ)プロフェッショナルのスイッチをこの場面では一旦切り、マウンドに立ちバッターにボールを投げる投手の方のスイッチを入れる。そもそも、実際にピッチャー経験の少ない(小学生の頃だけ)私にとって、野球で一番居心地のいい場所はバッターボックスだったぐらいだから、ボールを打ち返すことが自分の真骨頂なのだ(いろいろな意味を込めて)。だから、打つテクニックは自信があるが、あまり、投げるのには慣れていない分、刺激的な結果が期待できるのだ。だから、資料を得ずに白い紙に向かってボールを投げたのがこの「馬の私」なのである。今年もマイペースに「長い顔に煙草を吸って本を読んでいる馬」でありたいとでも願った心が生み出した絵なのである。これが2014年の1枚目の絵になったことにかなり満足している。富士山からのぼる大きな太陽と煙草があれば今年もいいじゃん!というメッセージを込めた。

 さて、デザインの中(左上あたり)にこっそり仕込んだ二匹の龍が、マイペースな私の後ろでハングリーにも愚かにも天高く舞う、馬肥える一年になれば最高なのである。

 あけましておめでとうございます。スギノヨシカズ

自分を知るために。

 今日でこの一年が終わる。この一年を振り返ると世の中の景気や自分の仕事のことよりも、自分自身について考える時間が非常に多かった一年だった。それも来年の春に50歳の大台にのることも大きな要因だろうし、娘も大学受験や高校受験に奮起し、新しい出発に取り組んでいたことに親父も影響を受けたのだ。49歳から50歳への分岐点でいろいろなことを考えたために、自然と自分自身について考える時間が多くなったのだ。自分の部屋に「戦うべき最大の敵は自分だ」と書いて貼っていながら、その戦う相手をあまり理解していなかったことに気づかされた。これでは戦う戦わないのレベルではなかったのだ。戦うためにももっと勇気を振り絞って、黙殺してきたことについて注視しなけれ何も始まらないということ。そのためには49年間で凝り固まった思考やスタイルをリセットする必要があり、到底、自分ではできないことだと分かっていたので、相棒の力を借りた。勿論、そんじょそこいらの相棒では私の思考をリセットさせることなどできないし、お願した相手が力不足な場合、相手を傷つけて終わっていただろう。だから、相棒の条件は圧倒的に強力なカンフル剤であり、圧倒的に信頼できる相棒でなければならなかった。まず、そんな相棒がいてくれたことに感謝だし、そこまでのアドバイスと分析をしてくれたそのスキルと能力に感動だ。つまり、どうやら、リセットは成功したということになる。だが、まだそのリセットの仕上げは完了していない。そこに辿りつけたら、これまで観ていた景色は確実に一変するだろう期待している。自分の「決定的に足りないもモノ」は何で、その足りないモノを補填し、さらにその向こうに突き抜けるためには、年が変わろうとしているが、一切気持ちを緩めることはできない。12月31日なのに、こんなに気持ちのトルクが現在進行形は初めてだ。それなりに1年を振り返り、それなりに来年はどうしようこうしようと考えている31日が例年だっただけに、テンションが張り詰め過ぎて、まったく正月とか年始という感情が湧いてこない。このタスクをフィニッシュした時、今まで観たことのない景色を相棒と二人で見ていたい。今はただそれだけだ。

 そんな31日、漠然と思うのは、10年後、マンハッタンのオフィスでロッククライミングの書籍(英語版)のDTPをやっていたなぁ~と思うぐらいだ。相棒、よろしくお願いいたします。

顕在意識と潜在意識。

 「人が何か思考したり行動する時、影響を受ける意識の割合は顕在意識が20%、潜在意識が80%」と言われているらしい。思う節はいくつかあるからまんざらな数値化だろう。個人差もあるだろうが、顕在意識でコントロールできないことが、潜在意識でコントロールできるなら、最初から有効な意識を作用させたいところだが、この潜在意識というのがままならないのだ。必ず自分自身の中に存在している力なのに使えないとはどういうことだろう?顕在意識の影響とは、不安や過去の失敗例から受けた後悔が悪いストレスになり筋肉や思考を硬化させている。そのために自由な技術の制御ができないのだから、緊張を緩和させるために潜在意識を起動・稼働しポテンシャルを発揮させることが理想。邪魔をする顕在意識、能力を覚醒させる潜在意識。なんとも白黒が明確になったものだ。緊張が悪いプレッシャーに連動する場合と、いいモチベーションに連動する場合も意識の違いだろう。つまりは、「意識」「思考」「連想」のバイパスをどのスキルやテクニックにログオンするのかということ。さてさて、あなたはIDとPSWを紛失していませんか?私は覚えている自信がないので、忘れないように毎日復唱しています。

チェスの棋譜。

 歴代の国を代表するようなチェスのプレイヤー達の棋譜には何が刻印されてるのだろう。到底、世界レベルのイマジネーションや戦略が生まれたルートを全てトレスすることはできないが、その気持が少しでも興味として芽生えたなら、そのことに気持ちを向かわせることも大切だ。何がどう連動して勝利に繋がったのか?その方程式は複雑であればあるほど輝くのだろう。何が輝いていると捉えるか?はそれぞれ自由だが、私は自分自身の中にある素養や鉱脈の輝きだと捉えている。「自分に勝つ」と言ったフィッシャーの言葉は重い。その言葉を簡単に自分の中から生み出せそうにはないが、その努力は怠りたくはない。この世は全て勝った者がルールを決めているとしてもだ。

古き友よ。

 古き友よ柿をありがとう。人生いろいろそれぞれを生きてきたのですね。私はあれから変わったとも言えるし、変わっていないとも言えます。自分なりに変わらなければいけない部分をがむしゃらに変化させ、変えてはいけない部分を頑固に維持しています。しかし、変わらなければならいないなどと大袈裟に言葉にしたところで大した変化は起きていませんし、変えない部分と自分で思っている程度で時代と共に時間の経過で摩擦されているのか研磨されているのかは不明。ただ時間は経過したということだけが重く心に蓄積している感覚ですね。父上のお身体が少しでも良くなることを、遠く琵琶湖の湖畔から祈っております。初めてあの場所で出会いもう30年以上が過ぎてしまいました。あなたはあなたのまま、私は私のままです。ひさしぶりに声を聞けてとても興奮しました。頑張ってください。では、また。

六つの法典

 日本国憲法・民法・商法 ・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法という法律を指して「六法」と呼ぶらしい。法律に私たちの生活は守られている。権利と義務について日常生活において深い知識がなくとも、弁護士や検察官や法の番人ら専門家がいてこの六法を根拠に正義を管理してくれている。経理の面で税金に関する法律が一番身近な法律だろうが、この税金に対しても充分な知識は世間一般の人達は意識が薄い。5%が8%になることをテレビや新聞で知り、テレビの司会や新聞の編集意図のまま、8%のデメリットとメリットを表面的な情報としてインプットするレベル。例え不徳な思いが心の中にあったとしても、それを1枚の紙で国政に参加しているという意識で沈下させている。させられているというニュアンスの方が正しいかもしれないが、それ以上、実際は関わることができないのが現実だ。

 でも、ほんとに関われないのいか?このことについて少し考えてみたい。そのためにも、六法全書を入手してみようと思っています。今から法律の専門家になることなどできないが、少しでも視野を広げるためにも「秩序と規律」について知り意識することはデザインやアートの仕事にもマイナスではないだろう。

 デザインの仕事において「いいデザイン」と「悪いデザイン」についてクリエイターが自らの知識やセンスや技術や気持ちで取り組んでいるが、この判断には法律における六法全書が存在していない。弁護士とクリエイターを単純に比較すると、向こう側は大学を卒業して試験に合格すれば年収は最低でも600万円からだそうだ。一方クリエイターはどうだろう?恐らく私の感覚では50%以下だ。このリアルな違いにはいくつか理由があるのだが、その理由について突き詰めて考えたことはなかった。つまり、同じ専門的な知識を持ち社会の循環に対して自らの素養で取り組んでいるのに、社会的な地位や具体的な年収となると明らかな格差が生じている。それはニーズ次第で社会的な価値が貨幣価値に置き換わっていると仮定するしかないだろう。

 確かにMACとアドビのソフトが使え、名刺に「グラフィックデザイナー」「WEBデザイナー」と印刷すればその瞬間から仕事ができるタイプと、義務教育から大学まで専門の勉強を積み重ね、厳しい試験をパスして得た知識と技術とでは、国の認定度合いに格差が生じるのは仕方ないが、適正な結論に導くというアプローチだけを捉えると「法律」も「アート・デザイン」も仕組みは同じ。インターネットが社会の規範や構造にメスを入れた以上、領土内の規範だけで解決できないグレイゾーンが一般生活にも悪い影響を及ぼす機会が増えているはず。恐らくテレビや新聞はおひざ元だからグレイゾーンには無力だろうし、教育の分野も50歩100歩だろう。やはり、ペンと絵筆の自由さを閉じ込めるCUBEは創れないということ。地層と地層の間に流れる地下の水脈のように、深海の海底の鉱物が山脈から流れ出したミネラルが地球上の生命に大きな影響を与えているように、ペンと絵筆で生まれたクリエイティブがデジタル信号に置き換わったとしても、それらは、人間の本能と知能とモラルに呼応しながら、同期し循環しているのだ。

アジカモ君登場。

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 どこのイベントの必須アイテム「ゆるキャラ」君。確かに場の空気を和ませられる強いツールです。

絵の具のような語彙。

 あるアンケートで出版されている雑誌を日本とアメリカとイギリスで調査した時、語彙の数が日本の雑誌は英語圏の雑誌の6倍だった。なるほど語彙だけでも6倍。さらに、いろいろな造語や外来語が混合しながら文法も複雑な日本語。小学生の頃、12色の絵の具を箱を開けた時の感覚を想い出した。どの色を使ったら自分の想いどおりの絵が描けるか、心が高まるというよりも、12色の絵具をどのように使ったらいいのかと迷った。実際、絵の具の種類が多いことは、嬉しいことでなければならないのに、使い慣れていない段階では、まず迷いが生じるのだ。語彙も文法も同じ。多様な語彙は日本語を使って何かを記してきた先人達の知恵の結晶。迷っているのは正しく使っていないから。語彙や文法を絵の具のように使いこなしたいものだ。絵の具の種類が多いことが、美しい絵が描けるとことと直接関係はないかもしれないが、素材を選び、完成品を想像し、設計し、創作することにおいて、絵も文章も同じだ。

考えることと書くことは分ける。

 デザインの仕事ではアイディアやイメージを考えて創るという作業を、一連の流れで取り組んでいるが、文章を書くという作業は考える作業と書くという作業を分けなければいけない。時間に余裕がないからとか、考えながら書くという作業に慣れているからなど、という理由で文章を書くことはよくないのだ。それなりに文章になっているから問題ないだろうとか、書いてから推敲すればいいだろうという緩い気持ちでは本当の強い文章力は身につかないのだ。文章力の本質は、観察する、情報収集力する、構想する、書き出す、そして、訴求する魅力を装備するという5つの段階で構成されている。デザインの仕事で取り組んでいる作業工程でもある、この工程の3つ目までは苦ではないのだが、どうも「文章を書く」という工程を誤認していた。文章を書くことは楽しいので、慣れ親しんでいるようで実は支離滅裂で大切なルールや法則を無視して文章を書いていたのだ。考える時間と書く作業を分けることで文章が研磨され軸が太くなることを改めて知り、自分自身がいかに文章を「流して」いたかを自覚している。もしや、デザインの仕事も「慣れているから」という理由で「流して」いたとしたら、とんでもない間違った感覚だ。長年、デザインの仕事に取り組んできたのだからという奢りがあったのではないのかと、改めて反省し日々のルーティーンを再確認している。世の中の変化や自分自身の考え方や感じ方の変化を柔軟に引き込み、自分のデザインの仕事に適用しなければいけない作業だけに、「慣れているから」という気持ちの構造の中にある小さな穴が大きくなり、大切なアイディアやデザインの品質がその穴から漏れださないように意識を改めよう。

 直感的・感覚的であると同時に、緻密であり柔軟であることの大切さを早く頭と心の中に完全に定着させ馴染ませたい。その後、身体の中に取り込まれたデザイン的な思考と緻密な文章力が何を創出してくれるかが、とても楽しみだ。もう、「デザイン」のいい悪いは興味がない。興味があるのは「強いデザイン」だ。

一番大切な能力。

 貪欲に情報を収集しようとする姿勢はこの仕事を始めた26年前から変わらない。また、芸大の頃ならば、福井から大阪に出ていろいろな刺激に触れることで、貪欲に求めるという意識や行動が加速した。現在もそのまま加速しているという意識と状況の中、手当たり次第に収集できる「気になるモノ」に触手を伸ばし続けている。世の中に情報が溢れていると言われてるが、具体的にあふれている情報と自分自身との距離感を推し量りながら思考し行動している。貪欲であるということや、情報で頭を満たしていることのみがポジティブさを実感できると思ってきた。デザインの仕事における新しい技術や知識や思考などのスタイルを自分自身に取り込むことと、日々取り組ませてもらっている仕事への適用にのみ注視してきたのだ。あと6ヶ月あまりで50歳になる。この状況で一番大切な能力を確認することができた。それは、デザイン表現やコンセプトワークにおける思考術ではなく、もっと基本の能力だ。その能力が何を成すために必要な能力かと言えば、この年齢だから「すべて」だと言える。根拠もあるし確証もある。そのことが嬉しくもあり苦しくもあり。

サカサマか・・・。

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 こんな作品があったのかと・・・。かなりかなり気になりますね。

創造する脳。

 茂木さんの本は実はあまり興味がない。が、「誰もがクリエティビティを発揮できる!創造性の最高形態、それは自分自身が変わることである。」とし、タイトルが「創造する脳」となればスルーはできない。「創造」とは何かについて茂木さんが自らの体験からどのように分析して精査しているかが最も興味のあるポイントだが、あえて脳を「創造する」としている構図にも興味が湧いた。この手のアプローチに対してはかなり前にマイブームが過ぎ、少し飽きていただけに、正直、「おっと!」という印象である。

 クリエイティビティについて茂木さんがどこまで言い切っているのか?というところもひとつ読みどころだし、創造についてはどこからどこまでを見てカット&ペーストしておられるのだろうか?と意外と興味が尽きないような気がする。とは言え、今現在は無駄に引っ張られたくはないのでしばらくタイミングを待ちたいと思っている一冊ですね。

 それよりも何よりもキングの新作が気になって気になって・・・。

見える化から言える化か・・・。

 情報化時代だからというわけではないのでしょうが、時代の流れは「見える化」からどうやら「言える化」時代に移行しているようです。例えば会社組織の中で、社長になんにも言えない人はストレスでつぶれるか職場を離れるという状態を「言える化」することで、不平とか不満ではなく、仕事の本質の部分でしっかり無理ムラ無駄を省き効率的で現実的な成果を追求してくださいというメッセージだろう。逆に社長は社長で大義名分や大きなビジョンはあるが現実的な社員の気持ちを理解せず自分のやりたいことをやりたいようにやっていても成果にはつながらない。古き良き時代のノウハウと精神論だけで現代は渡れないですよというメッセージが込められた「言える化」の導入だろう。スタッフは職を失いたくないから、言われるがまま。それを理解だ共感だ逞しさだとトップは勘違いして現実を黙認する。見えているのに見ていないトップならまだしも、見えないトップならお手上げ。「言える化」が成立するためには、必ず「聞ける化」も必要だから、トップがポンコツだと優秀な社員の「言える化」を受け止められないということなんだろう。アイスクリームの「ガリガリ君」の会社では「言える化」と「聞ける化」の空気を徹底して社員からのアイディアや販売促進手法をどんどん取り入れてヒットを飛ばしているらしい。同じようなこと、ジョブスもグーグルのCEOも言っていたなぁ~。

 日本人は見えていても表情に出ないし、思っていても言えないことが美徳だという空気が放射能のように蔓延しているから、書籍で訴えても根本的な変革は無理だろう。お茶を濁す程度でいつか「そんなこともあったなぁ~」と風化するのだろう。「言える人(考えている人)」って言う相手を選ぶからさらにポンコツが孤立する仕組み。裸の王様ゲームはどこでも起こりうる。

情報の実態。

 情報の実態について考えている。世の中で過去に起こったことと今現在起こっていることがすべて情報なのだが、情報化されるには誰かの意図や狙いがある。「テレビではああ言っているが、ホントに中国でそんなことが起こっているのか?」とか「テレビドラマではああ描いているが、ほんとにこの場所で戦国時代にそんなドラマが起こっていたのか?」とどの情報にも真価の割合があり、それを自分自身の中にある(あるだろう)モノサシであらゆる情報を観察・分析して価値に変換している。その価値とは何に活用しているかと言えば、日常生活にビジネスシーンに人生設計に活用しているのだ。そこに主体的な力と外因から受ける力のバランス感覚が作用するため、ひとつの情報に対してどう捉えてどう判断するかに個人のポテンシャルが密接に作用するという仕組み。

 そんな情報の実態をどのように意識するか意識しないかで、言わば、全ての人間社会のフォルムやシステムに影響を及ぼしている。そこで、デザインの仕事における外因的な情報と内因的な情報の整理術が実は何かを創る上でかなり関連性が高いと感じているので、その辺をつきつめてクールに整理しています。「情報が飽和している」「情報技術が進化している」「個人情報が守られていない」というふうに「情報」はとても大切なピースだから、しっかりと外因にひっぱられることなく自分のモノサシで精査したいと考えている。

ドリル的アプローチ。

 昔、ある会社のロゴマークを作成する仕事を受けた。グラフィックデザインの仕事においてロゴマークの作成という作業はいろいろなセンスやスキルを試させるいい案件だ。言葉で一生懸命やっていることを切々と伝えても、そのレベルのお話はデザイン力とは無関係。デザインの仕事に言葉の量は全く無関係だ。どんなにセンスやスキルがあるのか?小手先でやっているのか死に物狂いで取り組んでいるのか?一年費やしたのか短期間で仕上げたのか?などはコンテンツ(成果物)には関係ない。関係づける人は意外多いが・・・。企画主旨が緩く担当者のポテンシャルが低いとその低さに引っ張られるパターンにはいつも注意しているし、当然、モチベーションが高く、ポテンシャルの高い人には必然的に高くなるという仕組みが人間の本性で、言葉で「頑張っています」では人は動かない。特にクリエーターは動かない。ロゴマークは感覚的でありデザインのアイディアやセンスを利かすこともできれば、シンプルに感覚的にロジックを無視してサクッと創る方が完成度が高くなる場合もあり、一概にこの方法なら必ずロゴマークの完成度が高くなるという正攻法はない。ただ、ないだけに、その苦労が楽しい。そのロゴの場合は保険会社のパンフレットと名刺を作成するためのロゴマークだったが、ラフスケッチ1時間、イラレの作業1時間の2時間で完成した。確か3案作成したが、どれもお客様は気にっていただき、3日間迷われた末、ひとつが決定した。たった2時間でロゴマークを?となるのだが、それまでに、私はいろいろな保険会社のロゴマークを作成していたし、書籍やパンフレットなどの販促ツールのロゴマークもたくさん創っていたから、その案件の主旨を理解して2時間で創ることができたのだ。まぁ、この流れや詳細はどこかでドリルにして説明するが、プロというのは一生懸命さの物量ではない。そこに至るまでにどれだけスキルとセンスとポテンシャルを蓄えてきたかが勝負だからだ。

 さぁ、このあたりをどのようにドリルで表現・消化しようかな???

相対か絶対か。

 モノゴトは全て相対であればいいと考えてきた。相対でなければ仕事は成立しないのだと。多種多様なニーズに答える誠意と技術さえあればデザインの仕事は成立すると。そう考えられるようになったのも結構最近のお話で、そんな答を出すことさえも不謹慎で図に乗っていると自分に言い聞かせてきたような仕事のスタイルだった。しかし、その方法論では上手くアウトプットが機能しないケースがあることを知る。多種多様なニーズへの対応力こそが生命線だと信じてきたことが実は自分自身で緩めのリミッターを設定してその中で試行錯誤だの挑戦だの紆余曲折だのと小さく(精一杯だったので小さくもないのですが)まとめようまとめようとしていたのだと。その状態で横腹あたりにデットボールを喰らった。自分からボールを打ちに行くために踏み込んだのだが。

 この数ヶ月、強力な強制ギブスでこの思考規範と行動規範を「絶対モード」に変換させようとしています。勿論、ホームランを量産するためだ。最初は手足がその強力なバネで動かすこともできなかったのが、ようやく最近は相対モードと絶対モードを切り替えるきっかけが見てきた。具体的に何でそう感じられるのかと言えば、実はさほど目新しくも奇抜で斬新なモノではなく、これまで普通に見てきたり聞いていたことばかりだった。光と陰と言えば適正かもしれないが、同じモノを見ていたのに相対モードの時は陰の面ばかりを見ていた感覚だ。少し立ち位置を変えれば光の面が見えただろうに、ただ同じ場所に固執していたのだ。

 ただ、いくつかのきっかけに確実に遭遇し、自分の中の変化を認められるようにはなったが、これまでの思考癖を強制するには時間がかかることを実感し、焦っても仕方ないと素直に変化を受け入れている。五感と思考が絶対モードへの変換に対して馴染み、新しく見えている面からの新しい情報がインプットが絶対モードで循環しなければ、新しいコンテンツを創り出すことはできないのだ。私のO型の血液が相対モード用だとしたら、その50%を別の血液型に入れ替えて身体に新しいタイプの血液を馴染ませるぐらいのオペなのです。反作用や副作用や拒絶反応が発生したがなんとか融合させるにためのルートを今は獲得した。

 しかし、相対モードは「仕事モード」なので切り捨てることはできない。でも、相対モードではアウトプットするものが緩くなり意味も価値も緩くなくなる。だから、ハイブリッドモードを会得しなければいけない。相対モードを維持しながら、絶対モードを覚醒させたい。

 私の中では「アート」が絶対モード、「デザイン」が相対モードなので、自分自身のルーツを辿ることで絶対モードになれたが、感覚的には諸刃ではなく、二刀流でもなく、分身の術でもない。どうやら、そんな小手先のスキルではないのだというところまでは分かってきた。

 この強制ギブスはとことんまで楽しい。したがって、絶対モードでのコンテンツの完成は近い。

論理を切り取るツール。

 論理はループだから切り取り再構築しなければコンテンツにはならない。その切り取り方や再構築の手法のスキルの優劣でコンテンツの価値が変化する。論理はすでに偏在しているモノ。コンテンツはその一部分をカタチにしたモノ。この関係をデザインの仕事では意識化に据えておく必要がある。しかし、その意識も経験値だけでは手に負えないケースが多く、自分の度量や器量が毎回試されているという構図なのだ。見えているのに見ていないモノ、聞こえているのに聞けていないモノ、触れているのに触っていないモノに意識を集中するために身体機能の限界を補填するのがツールだと考えて間違いないだろう。ツールについてどこまで精通できているか?同じツールを使ってもスキルは適正か?確かめることは無数にある。無数にある分、楽しいのがデザインの仕事。だが、苦しい面と表裏一体。

 手に負えない場面で、何を考えてきたか、今、何を考えて、これから何を考えようとしているのか、このループと普遍の論理がシンクロする瞬間のサインを自分自身のツールでデスクトップにカット&ぺーストしなければならないのである。つまり、スペックは高ければ高いほど包容力があるということ。ただ、包容力だけでは蓄積し過ぎCPUへの負荷となる。また、マイエンジンのスペックをフル回転させるエネルギーの確保も必須だし、切り取り方のテクも重要。切り取り過ぎて食べ過ぎても消化できなければ栄養にはならないし、変化する自分のさじ加減のチューニングを都度調整しながらのカット&ペーストが大切なのですね。

じぇじぇじぇ!

 そろそろ流行語大賞の候補がいくつか浮上してきている。「お・も・て・な・し」もメモリアルなフレーズだし、「今でしょ!」も混迷の時代を見事にいい意味で切り裂いた。中でも、テレビドラマ「あまちゃん」の「じぇじぇじぇ!」はなんともいい響きだ。

 今年は特に猛暑からのゲリラ豪雨に先日の台風と3.11からか大震災からなのか分からないが、リーマン意外の天災による震撼が日本を絶え間なくタイトに攻め続ける。耐えることに対してポテンシャルの高い日本人でさえこの天災の疲労は相当蓄積している。経済と天災がここまでボトム感に襲われ続けると、もう、いくらタフな国民でさえ思考経路を失う。「頑張ろうニッポン!」では頑張れない。2020年、ぜひとも東京にはハネて頂きたいが、それまで霞を食べて暮らすわけにはいかないので、ヘビーなアクシデントもハプニングも「じぇじぇじぇ!」といなしたい。

好き嫌い。

 損か得か、正義か悪か、よりも好き嫌いの判断力が実は仕事やライフスタイルにおけるセンスと深く関係している。好きだから嫌いだからという判断の基準は、損得や正義の基準よりも感性に繋がるバイパスが太いのだ。特に仕事だから利益を追求しているのだらと利益率や効率のことばかりに判断の軸を置くと直感的な判断力のセンスや長期的な展望を描くビジョンの構築・構想力に響かない。響かないというか直結していないということでもあるのだが、心の中で起こっていることだから解釈はどうにでもなる。なるとしても、なるとすればするほど、センスのある判断力は低下する。好きな理由を頭の中に並べる前に私達は好きか嫌いを判断している。この感覚こそがセンスなのだから、得だから嫌いモノを選択したり、悪い行為だが好きだから選択したりする時に、このセンスが磨かれるのだ。さて、そこにある軸とは何だろう?よりつきつめた自分の存在を明確にすればするほどその存在を強く意識できる。

 しかし、意識したことが言語化されたり理論化して体系化されると同時に、必ずこのセンスの鮮度は低下するから非常に厄介だ。好きと嫌いの間には想像以上の深い谷がある。

芸術の価値。

 テレビである芸術家が「芸術とは本来価値のないモノだ。」と言っていた。この言葉の真意はよく分からないが、この人にしてみれば本来価値のなかったモノを私がピックアップしたことで価値に変換することができたのだといいたいのか、価値があるのかないのかという判断の規範を私はこの作品で世の中に示していると言いたいのか。それとも「価値がない」というコメントに価値があるんだという相対性で芸術を語ろうとしているのか、言葉の論理は難しい。

 登山ブームで売れた商品ベスト3で、第3位は登山用のシューズで、第2位がザックだった。そして、第1位が酸素だったというデータがある。酸素?酸素は地球上に存在する価値のあるモノ。それをパッケージ化したプロダクツが市場の反応を勝ち取った。はたまた、水ブームはどうか?水も酸素も地球上にそもそも存在していたモノ。つまり、本来価値のあったモノの売り方次第で価値は強調されるということなのか。絵画・彫刻・舞台芸術・建築物・音楽・文学、全て価値の有無で判断するのはいかなものかと。

 デザインの仕事は水や酸素と比較すれば人類の生命を維持するのに必要のない、つまり、価値のないものにカテゴライズされるが、芸術と同様にデザインの価値は人間が生まれる前から地球に存在した価値ではなく、人の思考や生活が生まれた時から存在しているモノ。人の心が生み出したタイプの価値なのだから、誰かにとって価値があっても誰かにとっては価値のないものだというムラは必然。この誤差とも摩擦とも呼べるムラにこそ心の実態だと仮定すると、芸術の価値はそのムラを視覚化している成果物だとも言える。そこには英知や技術や思考が組み込まれた構造物としてのムラがあり、美しくも醜くもその存在感を示しているのだろう。

困ること。

 「電池が持たない」「料金が高くなった」「日当たりのいい場所だと画面が見づらい」「フリーズ、リセット、データが消えるなどトラブルが起きる」「気づかないうちに画面に触れて電話をかけてしまった」「片手で操作しづらい」「文字入力がうまくできない」「電波がつながらないところが出てきた」「字が小さくて読みづらい」「タッチパネルが上手く操作できない」「目の疲れ、首や肩コリがひどくなった」と、スマホに対する困ることは結構な項目があるらしい。でも、スマホは「便利」なんですね。辛いことをリアリティーに上手く変換させられているような気がしますが、それでも「便利」。さてさて、この「便利」の意味がどうやら通信技術やインフラの進化といっしょに進化したようだ。

世界にたったひとつの花。

 創造意欲と破壊衝動は表裏一体である。経済の発展や文化の振興の裏には必ずそれに伴う、それ以上の代償があった。人間の歴史は略奪の歴史だというテーマが根源に流れている物語は多いのもこれらのテーマに著者が脚色し理解しやすいチューニングを施術した成果物。例えば、地域振興というテーマにこの法則を適用すると、やはり、見える世界と見えない世界があり、見える世界とは繁栄で、見えない世界とは滅亡となる。これほど極端に事は人の気持ちを無視した速度で進行するわけではないから、ゆっくりと悠久の時間の流れの中でこれらの一進一退を教授しながら我々は今いる場所で生きている。テーマが何であれ、同じようなことが起こっていると仮定すると、見えている世界と見えていない世界の均衡の中心点をどこに設定しているかで個性の存在が明確になる。

 世界でたったひとつの花という価値観の提起は非常に多くの日本人に受け入れられたようだが、誰もがそれぞれに存在価値があるというメッセージと「世界」というのフレーズに相関させて代償を黙認させようとした戦略が成功したのだ。世界の中心で~あたりからその戦略は勢いを定番化させ、グローバル化社会の到来というのぼりを見上げ慣れない刀を磨いているということ。これ以外にも根源になるテーマは多く存在するが、「個性」というアプローチで刺激されると破壊衝動が助長される性質の精神構造が多く存在するのだろう。この傾向は日本に限ったことではないだろうし、繁栄を求めるばかりに滅亡していく存在を黙認する訓練は充分にいろいろな国で取り組まれている。それが教育というもの。教え育むためにはゴールの設定が重要であり、誰でも世界でたったひとつの花になりたくないとは考えない大前提。もっとも、人間の存在をクラウドアトラスのように捉えてしまうのはユーモアからもウィットからも逸脱しているように見えてしまうが、いやいや、さらにその深部には壮大な遊び心が存在している。

 中二病でも恋がしたいか・・・、AKB48化する数多のムーブメントのルートをオブザベーションしながら、この山には登るべきか否かを躊躇してしまう私のこの気持ちは、創造か破壊か?どちらのタイプなのだろう。花は花、今この時も自分自身の設計図を元に代謝と複製のみを目的に存在している。つまり、人も同じ。

大阪芸術大学の中庭より

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 あの頃はこの像はここには立っていなかった。この中庭を見下ろしているとあの頃のことをいろいろ想い出してしまいます。その後、校内をぶらぶらしていると美術学科の1回生の実習室で作品展示されているという内容の張り紙が目に止まった。中に入ると油絵やデッサンなどの作品がたくさん展示されていた。制作途中の作品もあるようでまだ乾いていない油絵の具の臭いがした。すると、懐かしい感覚が押し寄せてきて20数年前の初めての実習日のことなどがいろいろ想い出された。

百田さん。

 本日は彦根で百田さんの講演会を撮影してきました。なかなかテンポの言い方でビックリしました。元々テレビ番組を作成しておられるお仕事がバックボーンにあり、50歳を超えてから作家活動を起動されたそうです。持ち前のテンポでヒット作品続出なんですね。私はボックスともう一作品しか読んでいませんし、「0」も「海賊」も読むつもりはありませんが、なかなか百田さんご自身は素敵な方でした。ちょっとファンになってしまいました。次から次へと出て来るあのマシンガントークはそのバックボーンの大きさを感じずにはいられなかったです。

マルクス・マルサス・ダーウィン。

 この3名にフォーカスしなければならない時代だとロイドは言いたいのだろう。そして、次の新しい原理や倫理が生まれる時、それはこの3つをベースに構築されるべきなんだろう。途方もないモンスターが現代でもどこかで火を吹き続けているとしたら、その業火に焼かれるのは誰だろう。

 人間は1日6万種類のことを考えているらしい。その中で新しいことは多くて3,000件。ほとんどの人が昨日と同じ6万種類のことを考えて過ごしているらしい。このシステムはある意味素晴らしい生物としてのシステムだが、ある意味「変わらない・変えない」という信号を素直に筋肉と骨格と神経系が実行している生物だと言える。4分間、「右手よ伸びろ」と念じると数ミリ右手は伸びるらしい。精神と身体の不思議な関係を持てあましている我々は複製と代謝、創造と破壊の中で、人間性というリミッターに一喜一憂して過ごしているということか。

 なるほどなるほど、確かに蔓延るはずだ。

孔子が言っている。

 孔子が言っている。「古きをたずねて、新しきを知れ。」と。何故、この言葉が残っているのだろう。また、「唯一不変なるもの、それは変化だ。」とも。これらの言葉が何故長く伝わる力のある言葉だったのか。適当な解釈で納まりのいいコンパクトなロジックに変換することはできるが、心理の琴線にことさら近いこの言葉の価値を古きを訪ねながら、変化を楽しみながら、見極める努力を怠りたくないですね。

 その次に読んだのは、岡本綾子さんの言葉。後輩達への説教として言われたそうですが、「悩んでいる悩んでいると後輩からアドバイスを求められるが、悩んでいるということは比較的対応が難しいことが多い。そんな時は悩むよりも考えて行動しなさい。と言っている。」と。ゴルフスイング、コースマネージメントしかり、大切なことはテンポとリズム。スキルとセンスは今その時、どうにもすることはできるが、メンタルとフィジカルを整えていれば、リズムとテンポはコントールできると。なるほどなるほど。

 鉄の歴史が現代の人類の歴史だと記した書籍にも書いてあったが、それはつまり戦争の歴史だと言える。スティングは「人間は歴史から学ばない。」と言っているが、学びたくなと思えるほどの残酷で支離滅裂でアンモラルな歴史の一枚下層のレイヤーに潜む「新しきもの」を知り、鉄がもたらした「変化」を私達は今このタイミングで悩むことのターゲットとせず、考えて行動することで次に進むしかないのだろう。と、孔子が生きていたらツイッターにつぶやくかもしれないのかな・・・。

ピラミッドストラクチャー。

 「ピラミッドストラクチャは事実や観察事項を基にして、そこから「何がいえるのか? (So What?)」という思考法により抽象化した上位概念を求めて行くことで構造化し、 全体を最上位の概念から事実までをツリー構造にまとめあげたものです。こうして出来たツリー図の最上位をメインメッセージ、それを支えるメッセージを サブメッセージ、その下をサポートメッセージと呼びます。この出来上がった論理構造が、正しく関係付けられているかを、見るもう一つの問いが 「何故そういえるのか?(Why So?)」です。これは下位メッセージが上位メッセージの 理由付けになっているかを、確認してみることにあたります。ピラミッドストラクチャは提案文書や論説文などを作成するときや、提示されたそれらの文書を理解・解釈する場合に有効な方法です。 」と検索したら普通にヒットするが、すでに「上位概念の構造化」あたりから微妙な誤差が生じている。人間の何故(Why?)を簡易的な構造化で一つのベクトルに収束しようすることで問題点や結論は一見シンプルになったように認識することができるが、それは、「一見、シンプルに捉えたい。」からへの置き換わりが生じている。それで論理構造が仮に完成したとしてもそれは結構微弱な構造と言えるような。その指針が新しい何かを創造したり現状の問題点の根本的な解決方法の中核に代入できるとは考えにくい。このシステムがもしセオリーだとしたらこの規範で構成されている経済や文化構造は押して知るべし。「有効な方法」論についてケチをつけている訳ではないが、ケチをつけている。つきつめることも開き直ることも自由自在でストラクチャーを瞬時に組み替える準備力の筋肉だけはいつでも活性化させておきたいですね。

 時間を戻すことはできないし、時間を早送りすることはできないが、今現在とそれらを相関させる能力こそが有効だと思います。恐らく時間軸がドロー軸(Z軸)が足りないのだろう。2次元的思考の2面性かなと・・・。

1964年。

 奇しくも1964年、ラプトルの化石が発見されている。それまでの恐竜のイメージは愚鈍で草食動物のイメージが一般的で捕食する草を求めて4足歩行する生物というのが恐竜だった。しかし、そのイメージを根底から覆す骨格を持つ化石が発見されたのが1964年。その骨格からは俊敏で肉食の猛禽類の証拠がいくつも発見される。恐らくラプトルは集団で行動し他の恐竜を集団で捕獲して食べていたということ。化石だけの分析結果ではあるがこれがかなり革新的な恐竜のイメージを否定し肯定させたのだ。確かにクライトンのジュラシックパークの原作でも冒頭のワンシーンは強烈である。ラプトルの化石が発見されなければ、ジュラシックパークはもっと大人しい恐竜大図鑑のような印象の映画に構築されていたのかもしれない。1964年生まれの私としてはこれがなんとも嬉しい事実だった。なんでラプトルの化石の発見と誕生日が同じでテンションが上がるのかは個人差があるとしても、地球の地層に隠ぺいされた過去のリアルが化石という物質でひとつひとと紐解かれるロマンはチンパンジーにもイルカにも感じることができないロマンだからだ。

 印象的なのは子どもの頃の図鑑の中に、恐らくティラノザウルスの足跡だっただろう穴に水が溜まっていて、その中にお尻から座りこみびしょびしょの服など気にすることなく笑っている外国の子どもの写真があった。何故かその一枚がとても印象的で毎日毎日その図鑑を眺めていた。ということはラプトルの化石が発見された後に、ティラノザウルスという順になるのだろうが、それでも、その巨大な足跡は子ども心を一瞬で釘付けにしてしうパワーがあった。それがきっかけで恐竜に興味が出て地球の歴史に興味を持つことができた。そのインパクトは考古学者になるというベクトルではなかったにせよ、最初に見た印象的な写真は一生を左右するパワーがあるということ。恐竜という存在自体がインパクトのある存在なのだからその写真を撮影した人の意思が書籍を編集した人の意思に重なり、日本語で編集され一般家庭に到着した図鑑。それはただの紙の集まりに過ぎないが、その中に表記された文字や写真やイラストはタイミングさえマッチすれば人の人生に影響を及ぼすことができうるというリアルがロマンチックでドラマチック。

 それを、最近購入した書籍に「1964年初めてラプトルの化石が発見される。」という情報と一瞬でシンクロするのだから、人間という生き物は自分自身の興味の対象に対してはどこまでも貪欲なんだと感じてしまう。

 同じことが、現代の子どもたちにとってみれば、パソコンのモニターや携帯デバイスの画面やタブレットで同じことが起きていると思うと人間は今後どのような進化をしていくのだろうか・・・と瞑想モードに入ってしまう。社会生活とはそれが幾重にも重なり代謝と複製が繰り返されているのだから、この流れを意識するしないに関係なく偏在する価値観のプレートは今も小さく移動していると知る。

 さて、どこにハーケンを打てばいいのだろうかと・・・。常に自分の今いるポイントからのオブザベーションは怠りたくないですよね。

京都はいいですね。

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 昨日は天気もよく、心地のいい京都でした。

オスとメス

 カブトムシの遺伝子の操作でメスにつのがオスに体毛が出たらしい。人間は何をしたいのだろうか?医学の進歩なのか科学の進化なのかそれが人間に課題なる功績をもたらすと思いたいが、ボストンの二人などMITで何をやっていたことだろう?クレバーな人材の精神まで大統領でも分からないということ。それほど人間は分からない。分からないことは分からないままでいいんじゃないのかなどと呑気なことは決して言えないが、ツノが生えて来たカブトムシのメスはどんな気持ちだろう?

 メディアをにぎわしているキャッキャ言って場を盛り上げている連中も本質的にそうならば幸せなことだろうが、それがもしテレビ用なら営業用なら相当悲劇であるし、オスだからメスだからなどモラルや倫理のお話をするつもりもないが、そこが交錯する融合する混同することで人間はどこに向かっているのだろうか・・・という部分がとても気になる。

 で、逆にそんな万象に対して自分自身は何を考えているかの部分の全てを意識下することはできないが、受け入れる部分と受け入れられない部分が確かに存在する。それぞれにその理由を追求・探究している時間などないから乱暴にこんなカタチでブログに書いておき、やらなければならないことにあとは集中しようと思っている。つまり、SNSや多種多様なアプリなどは誰かが誰かのためにデベロップしているのだろうが、その「誰」かという部分で圧力釜に釘を入れるという結論に辿りつかない文化であってほしいものです。我々は黙祷するしかないのか、何かの方法でそれらを削除できるのだろうか・・・と。

身体の中からの信号。

 外部からの信号には敏感だが、身体の中(頭・心・魂・細胞)からの情報に鈍感な人は意外と多いように思う。信号とは言わず、日々展開されている情報や仕事における人間関係や社会との接点で人は必ず日々変化する状況と情報を取り入れながら生きているし、生きているとはつまり外部からの情報との相関性の中で代謝と複製をするために五感から情報を得て、口から生体を維持するための素材を得て、生命を維持していると言える。この単純な構造・行程をどれだけ複雑にできるかという部分を「価値」に置き換えて社会が成立しているということ。

 しかし、外部からの信号をどのルートからでもインプットするとその情報をいろいろな意味で「消化」する必要があり、消化されたモノは然るべき臓器で生命を維持するために必要な身体の一部に変換される。福岡先生は日々こんなことを考えておられるのだろうが、その生物としての科学的なアプローチには常にパラレルに精神的な偏在する概念とでも言うのか、言語情報と非言語情報が混在している。

 喜怒哀楽はそのサイン(情報)が身体の中に取り組まれた結果の熱量なわけだが、これは言わば身体の中からの信号と言える。しかし、何事も基本的にone brain, one body...なのだから、自覚できる部分と無意識の分野にオートマチックに分けている節があり、このシステムが自律神経か交換神経か分からないが時に乱れる場合がある。つまり意識化していることが無意識の領域で、無意識の領域から有益な信号が発信される場合。この不具合をどう分析して「いい信号」と「悪い信号」を差別化できるのかで、かなり、身体の中を整理できるように思う。このテーマは、こうして書き出したものの、かなりディープになりそうなので、まぁ、今回はメモ程度にブログにログっておきます。

 で、「信号」なのだからみんなで渡れば基本怖くなのが正論のように思えるが、実は、赤・黄・青の三色以外にも色が存在したとしたら、「歩行者」と「止まっている人」以外のイラストの信号があったとしたら、それが実は本当の信号なのかな・・・などと。

時間が残されているいない!?

 「1分の遅刻は、1時間の遅刻より罪が重い。」そうかな?1分も1時間も罪は同じような気がする。

 「今月はスケジュールが一杯で・・・は恥ずかしい。」一杯は一杯なんだから、恥ずかしいとか恥ずかしくないという感覚の方がよほど恥ずかしい。

 「準備ばかりしていると、本番なしで人生は終わる。」別に人生、ずっと準備をしてたとしてもいいじゃん!

 「ふと気になった身内には、その都度合っておく。」なんのこと?ふと気になったが明確でないのになぜどのようにアクションするのか?ふと気になって会うのは何のため?

 「時間は命の断片だ もっと自由に生きるための時間のルール70」って、命をそもそもなんだと考えているのだろう?時間は命の断片だとは、何が分かって何が分かっていないのかと結構支離滅裂な味噌糞状態かもしれない。

 「君はもうそんなことをしている時間は残されていない」という書籍のアプローチ事例の列挙でしたが、どれもこれも五臓六腑には落ちてこない。ま!口に入れるつもりはない書籍だからいいか・・・。

 それが、早くも10刷!となるのだから、よほど「時間の価値の見極め」に現代は飢えているとういことがこの事例で読みとれる。かなり、現代の人類は自由に生きている上にさらに自由になりたいと願うベクトルの捻じれ方の方をなんとか矯正する必要があるのではないだろうか。

 時間が残されているありきの論拠に何がぶら下がっているのだろうかな?

 最近、どうも、どこまで自分自身が客観的になれるか?どこまで俯瞰視できるか?みたいな気持ちが高まっている。それにただ高めるだけはふわふわしていしまうので、その高め方のディテールやマテリアルを整理しようとしている。ただ、整理というニュアンスで何をどう整えても何かが整理される感覚がないので、さて、どこを軸に感覚を振り回そうかということに試行錯誤しているても言うか・・・。

 結果、迷ってはいなのですが、迷っているみたいなこと。

 だから、このようなアプローチの書籍が買わないが気になるのだろうか?

猿の手。

 猿の手、特に高い木の上で生活している猿は動体視力や空間認知能力に優れているらしい。さらに、枝から枝へ飛び移るために手が発達している。木から落ちるということは命に関係することであり、天敵から逃れる、餌を捕食するために、その能力はいかんなく発揮されるべく進化しているらしい。その手の特長とは、自然に力を抜いた状態で手は握り締められているのだそうだ。つまり、人間の手とは逆で、握るために筋肉が発達しているというよりも、開くための筋肉が発達している。この微妙な調整を身体能力でコントロールしながら高い木の上での生活を手に入れたのだ。

 進化の過程で人間は大きな脳を手にいれた。二足歩行と手の機能の発達は人間を人間たるポジションに据えたと言える。このことを考察すると、開く筋肉と握る筋肉の違いがどういうことに影響しているのだろうという次の仮説に向かうことができる。木から下り知能と技術を得た人間が手を常に握りしめている状態から解放され、自分の生命を維持するためにその手を開いた時から、新しい進化が始まったのだろう。投げる、掴む、抱きしめる、道具を使う、道具を作るという作業のバリエーションの進化がこうして今、デルのキーボードを打たせているのだろう。

 で、開く筋肉と握る筋肉の違いについて、「リラックス」している時、筋肉は潤滑に動く。作業でも動作でも競技でも、緊張して筋肉が委縮しているとポテンシャルを発揮できないというスポーツ競技などにいうあれである。イップスなど過去に失敗を重ねていると、いざという場面で、それを回帰し筋肉が委縮して操作性が低下するというテイである。過去の失敗を繰り返さないために人は新しいプラン・戦略を頭で考えるが、それは、精神的な重圧・ストレスを中和させようとしているに過ぎない。しかし、世の中、戦略戦略で時間を浪費する傾向にあるのは何故か?恐らく、開く筋肉と握る筋肉の関係性のジレンマだろう。勝負に勝てない、結果が残せないと、戦略をいくら重ねても実は動きにリミッターをかけているのではないだろうかという仮説が頭の中で構築される。ホームランを打った時、何を考えていたか?一様にその答は「何も考えていなかった。」が正解であり、自然とバットが出たとなる。このリラックス感こそが、高い技術に裏付けられた人間の進化の過程であるのだから、思考でも行動でも集中するとは筋肉に乳酸を溜めることではないと知る。

 感覚的になろうと、頭で理解している内はロジックが先行している。本当に感覚的になるためには、人間の場合、こぶしを開いている状態がベスト。猿は握っていたが・・・。

 それを理解していれば、高い技術を持っていればいるほど、道具はなんでもいいとなる。高いスキルがあるからこそ、人間の手は開くのであろう。道具に依存するのは文化の証だと思いたいが、生物としての人間のDNAはそこを実はストレスだと感じているのかもしれない。だから、高い技術と自律したモチベーションがあり、その上で目的を設定したなら、道具や戦略や方法論における、勝負に勝てない要素を排除し負けないスキルを、というか、負けないモードを手に入れる必要がある。

 それが、フォースなんだろう。

 心を解放するのは難しいが、両手を開き太陽に向けることは誰でもできる。手の内を明かすということではなく、重力に向かって手を開き進化の箍を解除しましょうということ。

会津は盛り上がっているだろう。

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 大河ドラマにあまり心は震えないが、この「八重の桜」はちょっといい。というかかなりいい。きっときっと、会津は盛り上がっているだろうな、いい感じに。旅に別段興味がないし、日本の歴史にあまり特筆するモノを感じないが、なんとなく、このドラマを観ていると会津の街をぶらりしたくなる。なんかいい・・・がこれからの大きなキーワードなのかもしれない。

 ロジックはどこかに置いておいても、「なんかいい」がいろいろな動機になるような気がする。

火の中の栗。

 やっかいな人はいる。やっかいな存在は在る。やっかいな心の衝動は誰でもあるだろう。誰もが「嫌がる仕事」の中に宝石が眠っていると言われても、なかなか、箍を外し先入観をクリアにしてそれを拾う勇気は相当のエネルギーが必要だと思う。癖は癖に反応し、否定は否定を生む。あれに見えるのが宝石の原石だから、やけどをするかもしれないが手を伸ばそうと、人類の最初の勇気ある先祖が人類の現在を開拓してくれたんだと大きく捉えると、日々の小さい「やっかいなこと」はすでにDNAのレシピの中の想定内であるはず。まぁ、一昨日のような隕石が落ちてきた場合は講じる手はないが。

 時にあえて損だと思われる役回りに身をゆだねることで大きなこれまでののびしろを大きく超えることができるのかもしれない。火の中で焼けている美味しそうな「栗」を拾うのか拾わないのか?火の中で香ばしい香りを漂わせていることを確認しても、美味しい栗を勇気を出して拾ったつもりが、犬のウンコだったってことにならぬよう、見極める、というか、自分自身は今、その栗が必要か必要でないかをいい状態で判断できる心地でいたいと思う。それは判断力であったり洞察力・分析力・観察力の類だろうが、常に手を出さない理由は生きていればいくつか手の中にあるはず。それを否定する勇気はキラメク宝石を目視しても絞り出すは難しい。

 宝石とはガラスケースの中でキラキラしているから価値があるのかもしれないし、手にした瞬間ただの小さな石になる可能性はある。また、勇気を出して伸ばした触手が違うモノを掴んでも、それは、次ののびしろの設計図かもしれない。自分のカルテは自分で書こう的な衝動がブログかもしれないし、自己治癒の処方箋がアウトプットした文脈の中に書き記しているかもしれないし。

 入れるためには出さないと・・・みたいなことなのかもしれない。

社会とどう関わりたい・・・か。

 高校2年生の娘がこんなテストの資料を持っていた。「小論文実戦テスト」。その中にはいろいろなカテゴリーと解答形式があり、それぞれの分野での問題が全15問。第1問目はこんな感じです。「あなたは仕事を通して、社会とどう関わりたいと考えているか。縦書き800文字以内で述べなさい。」となっている。

 さて、自分自身が高校2年生の時、この問題を目の当たりした時どんな解答をひねり出しただろう。恐らく何も出てこなかっただろう。いろいろ考えていることはあったが、「社会との関わり?」なんだろう?ぐらいから始まり、落とし所はたぶん「美術」のことだっただろう。

 私は硬式野球をしているが美術に興味がある。野球を始める前から絵画については興味があり、子ども心に野球をしている時と絵を描いている時を比較したら、野球などのスポーツよりも、白い紙に向かっていたいと考えている子どもだったからである。結果、何故、絵が好きになったからよりも、絵に関連する大人との接点の中に社会という存在を意識することが楽しく思えたからだろう。勉強はさて置き、野球と絵という選択肢を社会というフィールドに適用したら、というより、野球と絵を通して社会生活を見ることでしか、考え方の道筋を構築できなかったが正しいかもしれない。そこで、絵を通して社会を見ると~ってな具合のなんとも高校生らしい論文になっただろう。

 で、現在、そのテイストはどうなったか?恐らく、ベクトルは同じである。そして、どう関わってきたか?これからどう関わっていきたいか?についても、全くぶれることはないという確証はある。これがいいのか悪いのかについては誰かのモノサシでは絵空事だが、誰かの基準ではリアルなのだろう。しかし、この「小論文」というテストはいろいろなことが判断できるいいテストだと思う。娘は違うテーマで小論文を書いたらしいが、楽しんだのだろうか?素直にアウトプットしたのだろうか?ちょっとななめに考察しのだろうか?とても興味がある。

 社会とどう関わりたいか・・・か。たかがとされどの間の谷が意外と深い。

表現の自由。

 思わず「いいね!」でコメントをしてしまったつぶやきがあった。これだこれだ!ずっとモヤモヤしていた気持ちがシャキンとなる瞬間。これはかなりロングテールになりそうだ。美術でもデザインでも文学でもメディアでもインターネットでもそんじょそこいらの会議の場でも、どこか違和感を感じることってありますよね。それが何か分からないまま過ごしているとその感覚が退化する。勿論、何事も郷に従うことはある側面では大切だし、コミュニケーションする上で、規範や法律やタブーを意識しなければただの暴れん坊の無頓着野郎になる。空気を読むって読み過ぎて酸欠状態になっているような世界って、実は、今、この現代のことかなとガツンとなった。そうだそうだそうなんだ。まさに、「タブーを意識し過ぎて表現力が乏しい」ことを棚に上げて、いわゆる品行方正な発言・表現・行動で何かを成そうとするから閉塞感が漂っているんだ。それって正に今の日本じゃん!さおりさんさすがです。これは、ちょっと、根が深いので、これきっかけにいろいろ洞察の畑を掘り起こそう。そうなんだそうなんだ、SNSもゲームもコンテンツも何か物足りないいんだ!それは何かフォーカスできなかったが、さおりさんのつぶやきでピントが合った感覚です。表現力のリミッターが強すぎるんだ!だから、感受性が退化するんだ!

戦略とは破れた時の言い訳。

 私は今でもまだ「就業力」という言葉を100%理解していないだろう。3年前にあるプロジェクトに関わらせていただくことでこの言葉を知る。しかし、今だにその本質を適正に落とせる箱が自分の中に用意できないままでいる。しかし、だからと言って歩を止めることもできない。それは、迷うよりも価値がないからである。グローバルコミュニケーションというなんとも不思議なマジックキーワードで美味しいお酒を飲むのも健康的なことかもしれないし、決して具現化できない抽象的な概念の試行錯誤が達成感に向かっています的な仮説も好きにはなれない。具体的にそれがどういうことなのかをここに書き出せばいいのだが、それこそ、自分の言葉で自分が迷路に入ることになるので、あくまでもふわふわさておくおとが、ネットリテラシーの原則でありテッパンだろう。しかも、そのスキルこそが最も健全な有益な時間に繋がっているとしたら、ネットの未来はそこまででしょうね。と、このテーマは長くなるので、一旦保留し、年頭にあたりこの1年はどういう一年にしようかなどと考えてきた1月だったが、具体的にこうかな?という方向が見えたのでそれに付随してちょっと「戦略」について書きます。

 どんな属性の企業であれ会社であれ会議はする。トップ・上層部が然るべき頭を捻り、時にコンサルタントに意見を仰ぎ、経営上の組織上の会社における営業戦略や経営戦略をたてる。たてているはず。この場合の「戦略」の実態ですが、大枠、「目標設定に向けての生産的な策略」のような語感が正しいように思うが、私のねじ曲がった心ではどうもそのようには受け止められない。discodeでもないのですが、全く逆の語感を持っている。「挑戦して失敗した時の言い訳」を用意することが戦略を練るという同義に捉えている。というのも、私は戦略を企てる技術も才能もない。つまり、論理を整理して精査したり、想定することや仮説をたて策略を練ることをとてもメンドクサイという気持ちが心の底に流れている人間だからであり、裏を返すと「プラン通りに事が進められたことがないタイプ」の人間だから。だから、運を期待しない。幸運は追えば追うほど逃げていくと考えている。その代わり、とことんまで失敗した時のことは想定する。これは自分ではネガティブだとは捉えておらず、どちらかというとポジティブに最悪のケースをいくつもイメージしていろいろなことを進めている事が多く。100の悪いイメージでいると、たった一つの小さいないいことが想定以上の活性化になり覚醒するスイッチになる人間だと思っているからである。

 例えば、健康について言えば、私は恐らく癌で死ぬと思っている。これをあまり悪い死に方だとは思っていなからである。癌に苦しんでいる人に対して、「お前は癌じゃないからそんな能天気なことがブログに書けるんだ!もっと、大人らしく言動を慎め!」と言われても、プラスマイナス0の軸で「癌で死ねたらいいなぁ~」もしくは、「脳梗塞で死ねたらいいなぁ~」と思っている。だって、交通事故は嫌だし、テロに巻き込まれて犠牲になるのも嫌だし、災害で死ぬのも辛い。まして、ボケボケになって娘や介護の方に迷惑を数年かけて死ぬのもできたらしたくない。ならば、「癌」なら発見されて、自分の死期が判明した段階で、自分の死を考える猶予が与えられるのではないだろうかと思っている。だからといって、今、死にたいとは微塵も思っていないし、この自分の生命にはとことんのとんまで固執したいと思っている。だから、是非ではなく、この考えが根底にあるから、「健康」の価値にリアリティーを持っていれるとという極論。

 で、「戦略」について、私は何事も「策士は策に溺れるべくして溺れている。」と思っている。それは、戦略という仮説というかイマジネーションはすべて何かに挑戦する時にそれが達成できなかったことへのロジックとして自分自身を納得させるための予防線というか伏線だと思うから。「私のこの戦略を持ってしてもしも失敗したなら仕方なしと潔く・・・」ってもう挑戦する前から諦めているような。で、ダメだったときに、「ねっ!やっぱり。でも、次に繋がるいい内容だった・・・。」と自分を慰めている人がこのタイプに多い。

 私は「勝ちは勝ち」「負けは負け」ただそれだけだと思っているから、「勝負は時の運」だとも思っていないし、「ただ勝っただけ。」「ただ負けただけ。」が正解だと思っている。だから、楽しいと。もし、挑戦する前に期待するとしたら、「この挑戦、楽しくあれ!」と願うだけにしている。他のことは、何をどう考えても何にも結果、繋がらないと考えている。これでは能天気過ぎるのかもしれないが、意外と意外と、この方が「結果」がいいということも48年間の人生で学んでいるからである。

 さて、バイオ大学の「発見発信プロジェクト」に参画された1回生のお疲れ様でした。ねっ!「戦略」とはその程度がちょうどいいみたいですよ。いろいろこれからも「楽しい」をチョイスしてください。「負けるが勝ち」などの言葉遊びはできるだけ社会に出る前に学校といっしょに卒業して、自分の存在感を極めてください。

 ただ、結果を得るために必要な能力があるとれば、状況判断の迅速さと的確さだろう。空間認知能力とでもいうのか、状況が変化した時に自分の戦略(言い訳)に固執しない判断力とポテンシャルがあれば、楽しい挑戦を続けることができるはず。

嘘800、真実一つ!?

 世の中的に、嘘が800なら、真実はひとつと思いたい。恐らくコナン君も同じことを考えているはず。しかし、真実はひとつではないし、この世の中が嘘だらけだと悲観するものでもない。100点満点のテストに日夜取り組み何がなんでも100点満点を目指してきたほとんどの人(勿論、私も含めて)にとって、嘘800はいけないことであり、たったひとつの真実(正解)こそが正しく価値があるという先入観があるはず。いやいや、今の時代はそんなそんなキレイゴトではすまないよ、もっと、ボーダーラインぎりのちょっと、アンダーグランドでディープでダーティーなハリーこそが逞しく生きる手段。すでに日本もサバイバルなんだから、飛ぶ鳥を落とすのも、生き馬の目を抜くことも、必然と捉えて、理想だのビジョンだのと戯言に時間を浪費することなく若者よモノホンの大志を抱こう!的だと思うので、多少のいや、便宜上必須アイテムとしての嘘の脚色力・構成力は時にと言わず正義でいいのではと思います。仮に原理主義者で唯一神が心に在るとして、それは恐らく後天的な慣習からの教育素材であるはず。形式を尊び行動に理由を求める世代が形骸化した諸行に自分の時間を奪われているだけ。真実が一つか?に疑問があるとしたら、科学的であれ非科学的であれ、今立っている場所をすこし動いてみること。場所が変われば恐らく真実が変わるはず。そこでもやはり真実がひとつだと思えるならそのままの感覚が正解でいい。しかし、何かどうにも違和感があるなら、もう一度場所を変えるべきだろう。分子が動くように、地殻が流れているように、時間が相対性の中で永遠に刻まれるように。

物語こそが・・・。

 実は全てのコンテンツの優劣は「物語」のディテールが左右するという仮説がある。どの頃のどんな書籍で読んだのか、誰かから聞いてふと思い出したのかさえ不明ですが、その仮説を想い出した。これはタイミングだから何故そのことを思い出したかではなく、覚えていたことのディテールと想い出したことのディテールの相関性こそが「物語」なのである。ここを疑念視しても本末転倒。と、それほど瞬間瞬間に小さい微細な「物語」を繰り返し人間は生命を全うしているという着地点のお話。だから「物語」なのである。人の誕生が「物語」であり、人の死が「物語」である以上、生命こそが「物語」なのである。それはどのような媒体で繋がっているのか?その一つに「記憶」というファクターがある。「想い出」でも「後悔」でも「達成感」でも「サティスファクション」でも呼び方はなんでもいいが、言わば「記憶」を重ねて人間は生きているとすることが誕生から死までの「物語」を繋ぐラインなのである。それがシルクの糸なのか、4ポンドのフロロカーボンなのか、ナノワイヤーなのかはポテンシャル次第。

 その記憶力について脳科学者は言語化した理論で真理に光をあてようとするし、精神の側面から天体のルールでその座標を特定しようとするMr.85も2:8(パレートの法則)で構成されるのが世の中のスタンダード。しかし、記憶力はそもそも生まれた瞬間にあったのか?母体の中の記憶から、幽体離脱するまでの記憶する力は生命に対してどのような恩恵がありどのようなリスクを及ぼすのか?記憶力のいい人は子どもの頃、羨望の的だったが、下手すると記憶力の悪い方が、精査上手の能力が高いような。好むと好まざるに関わらず幸福と不幸はback to backである。だが、「人生、楽あれば苦あり。」とつぶやくことで、恩恵もリスクも調整することができるのもリアル。ならば、記憶力とはそもそも何のために備わった能力なのか?それは「代謝と複製」のために他ならない。それとこれが一致しない場合は、ここから先は読み進めない方がいいが、記憶力とは?と少しでも問題視したなら、少しは霧が晴れるかもしれない。

 記憶する能力が紡ぎ再構築するのが「物語」だとすると、情報であり外部刺激であれインプットとアウトプットを相互に繰り返す脳にとって全てを限られた有機体に格納することはできない(できるのかもしれないが・・・)はずだから、これらの刺激の収集と運動のアウトプットと並行して、精査も行われているはずだから、それが繋がった「物語」に心が反応するのであり、同じ物語に接していていも、インとアウトのポジションが異なり、その異なることさえもレイヤーに蓄積させているからこそ、ルールとループが成立し続けるのだろう。

 身体から魂が離脱する時(便宜上の表現であり、心臓と脳が停止した段階で信号は消えている。)、人間のイマジネーションは白い光を網膜に転写するという逸話も「物語」としてありとなる。

しあわせの指標。Shit!

 「世界のしあわせ紀行」というエリック・ワイナー著の書籍がある。この著者はアメリカ人のジャーナリストで、「幸せ」とは何であるかを求めて世界を旅されたらしい(世界を旅できるというだけですでに幸せですが・・・。)。オランダ、スイス、ブータン、タイ、インドなど10カ国。旅に出る前は「幸福をどうやって測ればいいのか?」という問題にぶつかっていたと。幸せとは感じ方であり気分であり人生観だからなかなか数値化できないということだった。(まぁ、その通りである。)「あなたは現在どのぐらい幸福に感じていますか?」という質問方法がその道の研究者のあいだでは過去40~50年繰り返されているらしい。その答は非常に正確らしい。その反証は「幸せな人は必ずそれに気がついている」という研究結果があるらしいのである。スイスで一人の医師に会い、「スイス人は幸福の最大の的が嫉妬だということを本能で知っている。」という洞察があり、「お金について話すことをとても嫌う。」らしい。「国民総幸福量」の理念をもつブータンでは一人の学者に出会い、彼は幸せが金で買えることもあるが、その考えは捨てるべきだと主張したらしい。お金は目的を達成するための手段であり、目的そのものと考えてしまうところに問題が生じる。と。「幸福は人と人との関係」にこそ成立すると考えているらしい。アイスランドでも「嫉妬」という言葉が登場したらしい。スイス人は「嫉妬」を抑え込むのに対してアイスランド人は分かち合うことでそれを消すという。「嫉妬心」「お金」「人間関係」あたりが、幸せを測る重要なアイテムのようであると著者は言っている。すると、「煩悩」「執着」といった欲求に関するベクトルについて、アメリカでは「希望を高く持つことが、幸せの追求そのものだとさえ考えられている。」となるが、一方で「私には登りつめるべき頂上はありません。」と説く。つまり、欲求を持たない方が嫉妬心は生まれず、お金にも執着せず、人間関係も良好となり、幸福感が増すという論法である。「つかのまの心の平穏」こそ、大切だと説いているらしい。きっと、答は一つじゃないのだろうが、実は誰しもそれを知っているのだろう・・・と著者はこの書籍で紐解いているらしい。

 で、ここで、「幸福」と「旅」の関係に注目したい。同じ場所で日々同じ代謝を平衡していると、上記のように、「嫉妬」も「執着」も生まれないはず。しかし、「変化」「変容」を受け入れてこそ心も魂も脳も身体も活性化するのだから、活性化することで人との関わりに自分自身をリフレクト(反照)させてこそ、それが見えてくるという仕組みだろう。光と陰について矢のごとしと最初に言葉にした人はほんとエライ。それが言わば、「幸福のモノサシ」になっているとかいないとか。

遼君の10勝目。

 親友と少し電話で話すことがあった。お互いにデザイナーとイラストレーターという立場でこの仕事をお互い同じぐらい(約25年ほど)やってきた親友である。同じモノヅクリの立場で共有できる想いも多くいつもいつも話をするだけできしんでいる歯車に潤滑油が流れ込み、枯渇しかけていた燃料タンクが満タンになる親友。どんな偉い人の著書やどんなエキスパートの雄弁に耳を傾けてもこの状態にはならないのに・・・。親友の言葉ひとつひとつが明らかに明らかに自分自身の中の細胞分裂を活性化させる感覚。昨今のSNSは広く浅くの交友関係がテッパンらしいがそんなものはFUCKである。それは全く時間の無駄。くだらないを通り過ぎてどうでもいい。ましてそれを活用するための空想の便利を詰め込んだスマホやタブレットに心の羅針盤は動かない。そんな親友の存在が本当に宝物である。ルフィー的に言えば、ゾロのような存在だろう。タイプは違うがどこかでお互いをどこまでもリスペクトしている相手が最高。人生の指標を何かで計測するモノサシがあるとすれば、それは地位や名誉や学齢や資産ではなく、親友の数だろう。むちゃくちゃなことを好き勝手にぶちまけても、「お前はいつも相変わらずやなぁ~!」と優しい言葉を返してくれる親友が人生の宝である。これが真のコミュニケーションである。毎晩、酒を飲みながらどうでもいい理論やゴシップに声帯を疲労させることがコミュニケーションではないし、会議会議と無駄な感想を井戸端会議的に結論や極論を避けて時間を浪費することがコミュニケーションでもない。まして、安いコンセプトに安い面子で激安の達成感を共有しあうことも無駄。これらのカッコ悪さの極みをどれだけ積み重ねてもグランドゼロ。地面は生きているのだから、振動と液状化でそんなことにエネルギーを使っていると精神の沈下は避けられない。

 で、そうならぬために苦労があり探究があり行動がある。いつもいつも安全牌ばかり捨てられないのがゲームだから、冒険もする必要があり、冒険をすると想定外の傷を負う。だけどその向こうには確実に期待以上の何かがあるのだろう。

 さて、遼君が最少年齢で10勝をあげた。2年ぶりのVらしい。あの遼君でさえ、この10勝目で涙を流したらしい。あの遼君でさえである。羅針の触れないベクトルに無駄なシナプスを結合させぬよう、常に緊張感を持って触手の方向を吟味・確認したいものである。おめでとうございます遼君。

AタイプとBタイプ。

 例えば、一生懸命頑張っている努力型の人間をAタイプ、そして、天才型の努力せずともいい結果を導く能力がある感覚派の人間をBタイプと暫定的に分ける。さて、いい絵を描くことができるのはどちらかという考察。この場合の「いい絵」とは「いい仕事」「いい売り上げ」「いい製品」「いいサービス」にも適用されるだろうし引いては「いい人間」にもなりかねない。これらが結集されて結果「いい人生」に連動しているから、この考察に対するリフレクトは大切だなと思うのです。

 で、そもそも「いい絵」とは貨幣価値なのか個人の価値感なのかというテーマの書籍を読んだことがあるのですが、ぶ厚い書籍の割には結論はグレイだった。つまり、そこはグレイが正解なんだろうとまず結論から設定しての、努力型と天才型の違いについて。

 ある、お仕事で一生懸命にテキパキと段取りをして資料を用意してプロセスの効率を吟味している人がいた。彼は完全なAタイプのように感じた。Bタイプの人は相対的にクールな印象があるから、どこか先入観で「熱い人はAタイプ」「クールな人はBタイプ」としている感じも否めないが、相対的にそうなることが多い。しかし、多くの場合、努力型のアプローチをしている人は「間違い」や「ミステイク」や「誤差」や「摩擦」に弱い。慎重派であることはいいのだが、できるだけ完璧にモノゴトを進めたいと考えるばかりに、石橋を叩いて渡らない。これが、Aタイプの真骨頂なのである。しかし、Bタイプの人はこれらにあまり神経を使っていない場合が多い。そして、全体が見えているから、いろいろな過程の失敗やミステイクをいい意味で無視できる。自分の設定した目的のビジョンに集中できている場合が多い。これをある側面では「達観」と呼ぶのかもしれないが、全体が見えていると途中の小さな問題も簡単にクリアするし、根本的・本質的な大きなトラブルに出くわしてもそれを簡単に柔らかくいなす衝撃吸収力を持っているように思う。この違いが蓄積されるとやはり到達する標高が自然と結果異なってくる。最初は同じ頂を目指していたはずなのに、「クマが出るかもしれないから諦める」とジャッジするAタイプと「クマとの遭遇をシュミレーションしながら準備をしてアタックする」とジャッジするBタイプでは、結果、山頂に立てるのは後者なのである。しかし、クマに遭遇して殺される可能性があるのは確実にBタイプだが。

 だから、仕事もライフワークも同じで、山に行けば100%クマは生息しているし、飛行機に乗れば、墜落する可能性は0%ではない世界が活きている世界。努力は大切だが、時に、相対性と絶対性を感覚的に分類して、いい意味で「いい加減」に動くべき。「いい加減な人間」だなぁとよく言われるが、「いい加減」を私自身、曲解していて、「足らないダメなバランス」だとは捉えていない。「いい=good」と捉える節があり、そこはどこに光をあてるとどこに影ができるかだけ見えていればいいかなと思います。正解は想定以上に多く存在するのでるから。

 なぜ、こんなことを考えたかと打ち明けると、最近ラーソンの「ミレニアム1・2・3」各上下6冊を読み終えてしまって、満足感と空虚感があるから、さて、この感覚は自分的に次の作品をどのように物色・リサーチしようか・・・と思ったから。頭か?心か?どちらで何をフォーカスしようか・・・と。まずは、お口直しに、「ミレニアムと私」を買おう。

考えないという発想法。

 「バカの考え休むに似たり」これを検索すると、「下手の考え休むに似たり」という優しいニュアンスが一般的でその意味は「下手の考え休むに似たりとは、よい考えも浮かばないのに長く考え込むのは何の役にも立たず、時間の無駄だということ。」ということになっている。さてこの場合の「考え」とは何だろうか?まぁ、一般的に「考える」だからいろいろ頭の中でモノゴトを整理したり準備をしたり構想したりすることがこの作業に該当するのだろうが、それにしても多岐であり多様である。では、「考える」とは一体どこからどこまでのことを指しているのだろうか。「考える」を考えるとまず「脳」とは?みたいなことになり、「精神」というキーワードが登場する。すると、必然的にテッパンで「心」というワードに辿り着くことになるが、これはどの軽い書籍から重い書籍までをひも解いても同系列。が、「休む」に似ているということは「考える=休む」とそもそも似ているということになる。「休む」ってそもそも考えないことではないから、この語源というかルールをどう辿ればいいのだろうか・・・と迷宮に入り込んでしまう。

 で、結果、「無我」「無心」「ニュートラル」という価値観に辿り着く。かなり、速足で辿り着いてしまったが、この論法はかなり強引だし割愛しまくり論法なのでツッコミどころは満載のはず~を前提の仮説です。座禅とかチャンネルとかモードとかいろいろその呼び名はあるが、その状態を日常的にどう取り込んで「考えている頭」を休ませて「考え」を生産的な創造的な活動へ結び付けるのか・・・これが、デザインのお仕事。ということは、「アイディア」が欲しいからと言って、考えていてもいいアイディアが確実に降臨するということはありえないのである。引き出しや資料は長年やっているから相当蓄積されているが、それでも、引き出しの数と資料の絶対量だけでデザインの仕事は不可能である。昨今で言えば、サーバにデータ情報を蓄積してクラウドのビックデータを解析・活用してノウハウを構築しましょう的な業務や戦略が実しやかに語られているが、恐らくそれらは「馬鹿対象」のチリや誇りや窒素に近い。それをアミノ酸に変換してエネルギーになることを仮想空間のピエロ達は知るべきである。氷室さんが「もつれた糸を断ち切って自分のために踊りな!」と歌っていた頃が懐かしい。

 だから、時にアイディアが欲しい場合、無心の向こうにある、「考えない発想法」というアプローチをいろいろ試しています。その一番身近な手法の一つが私の場合「絵を描く」という行為なのです。絵を描く時こそが実は「考えていない状態」なのですから、こんなに都合のいい状態はないのです。もっと言うと、デザインの仕事をしている状態では短いワーキングメモリーは使用するが、ほぼ、「考えない状態」ですから、これも都合がいい。このあたりのテンションと組み合わせを何周も回ってきて「天職」と呼べるのでしょうね。「天賦の才能」って言わばこういうことでしょうね。努力努力努力の積み重ねでそこに辿りつけると思いたい考えたいが、そこにはただ疲労困憊栄枯盛衰があるだけだと思います。リアリティーが本当に欲しいのならまず考えないことのようです。

 吹田のおじさん、分かります???

「天然若鮎のオイル漬け」というテイスト。

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 私はグルメではない。テレビを付ければ◎◎牛が、三大食材が、どこどこのシェフが、新しい食感がと、グルメグルメの映像が飽和している。どこで何を食べればいいのか?などなど、こだわりがないので、時間もお金もかけない派のど真ん中。だから、現在のテレビのグルメ志向の創り方にはもう満足感を通り越してちょっとメンドクサイレベルになっている。「ステイタス」「グルメ」「ビューティー」全てある一方が利益を求めるために創造した価値感だから、それが慣習になり、それが文化になり、ライフスタイルになっていることを想定すれば、グルメ文化のどこかの段階でリミッターが効いてくるはず。いつまでも有益な生産的な試行錯誤が続くと思いたいが、情報の飽和の加速が今後、緩やかになるとは思えないので、よほど芯を喰った価値感でなければ、次のステップまで価値感をkeepできないような気がする。誠に恐ろしい情報化時代である。

 そこでパッケージデザインとはその価値の訴求や存続に一役を担うわけですから、どんな場合でも狙いが必要です。それは時代によって表現のテッパンは異なりますが、軸や芯の部分は同じ。先のブログのインダストリアルデザインも同じ。私自身、「G-MARK」グッドデザインマークにあまり心が震えたことがない。デザイン業界の重鎮がセレクトしたアワードシステムだが、そもそも、「デザインの品質を何で決めている」のか突き詰めれば突き詰めるほど底は深く空は高い。そのアワードが無価値だとは言わないが、「それはそれこれはこれ」でいいと思います。何もそんなテイで奉らずとも価値は個人で判断すればいいのかと。ネット社会のSNSの仕組みが浸透する前の感覚というか、デジタルコミュニケーションが浸透する少し前の状態を振り返るとその本丸の部分が少し実感できるのかなと思います。

 その場所での視点の置き方はSNS内の情報交換にも、今後の進化系デバイスの中でも有効のような気がします。

 う~ん、オイル漬けの味のお話がなったな・・・。

匿名性という特質。

 インターネットを介するコミュニケーションの特質として「匿名性」という側面があるらしい。つまり、直接FACE TO FACEでは大人しい社員が社内のSNSやメールでは人格が豹変するとか、会議の席では大人しいタイプの発表もしない、発表しても意見がまとまらずボソボソと言葉少ないタイプが、SNSになるとズバリズバリと核心を切る、それ以上に個人を主張して頑固として意見を譲らない・・・みたいなこと。これは、デバイスやPCを介することで一枚強力なフィルターが出来たと安心するため。つまり、N.Y.のタクシーみたいなもので、運転席と座席の間にある小さい穴のあいた防弾ガラスのようなもの。これがあると、お互いに煩わしさがなくなるため、警戒心がほどけ、本性・本音・本能が表出するという仕組みらしい。これは、現代社会のストレスの側面でもあるとある学者が論じていた。なるほどなるほど、面と向かっては何も言えないが、一旦、デバイスの画面の前では翼が広がるということ。これが実はのところの本性というやつらしい。

 さて、本当にそうだろうか?その側面は確かにあるとは思うが、ネットだから、デジタルコミュニケーションのTPOだから、本音が出やすいって、心地良くお酒に酔って饒舌になっているそれとどこが異なるか?無礼講の席ではハメを外して、社内のパブリックな場所でネコをかぶるのは、人間社会のコミュニケーションの綾というもの。ネットだからズバズバ言ってきても、バッサリ切ればいい。会議の席だろうが、ネットの書き込みだろうが、意見は意見。呼応するだけの特性を想定したら、どれだけ激しい言葉をフレーズをチョイスしてもパンチが飛んでくる可能性が0なんだから、いなせばいいじゃん。それがまた遺恨を残すようなことになるタイプなのかさっぱりタイプなのかは、その文脈で判断できるでしょうし。

 逆に会議の席や面と向かって言葉多い人。これは、しっかりコミュニケーション能力が高いのかとなると意外とそうでもない。よくよくその文脈を聞くとさほど質量のあることは言っていない場合がある。勢い80%、本質20%、でも、真理は0%みたいな・・・、ぐらいのテイで発言型だということだけを印象づけようとしているタイプもいるはず。これは、本音かたてまえかとなると、完全に「たてまえ」で処理可能。

 だから、ネットには匿名性があるからネットだからデジタルデバイスを介しているからと言って、コミュニケーションが淀むということでもないような気がする。リアル会議でもネット会議でも結局、ポテンシャルの違いでどうとでも解釈できるような気がする。というぐらいに言葉・言語の方程式などルールはあるだろうが、正解はないのだから。抽象的な気持ちをどれぐらい満たすのかというノンバーバルな質量のX軸と、言語や数値で理解度を変化させ公式や方程式で是非を問うY軸、それに時間の経過をZ軸とすると、必然的にその場所の体積がぼんやりと設定できるような気がします。

 さてさて、自分自身のそれはどんな形でどこに偏在しているんだろうと・・・いう感じですね。

「ガオッ!」というテイで。

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 今年の年賀状に「ガオッ」というフレーズを使った。さてあと2015年も3ヶ月だ。「ガオッ!」になっているのかいないのか、まだ、微妙・・・。とにかく60ページのネームを仕上げた先に「ガオッ!」の真価が待っているような気がする。なかなかこの時代、この景気、この国で「ガオッ!」といくのは難しい側面も多々あるが、それでも、なんとか自分なりの精一杯の「ガオッ!」になればいいかな。

火と戯れる女からの・・・。

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 さてさて次はこれです。ミレニアム3「眠れる女と円卓の騎士」。ステーグ・ラーソンがこの第3部で何を完結させたのかいやいや楽しみです。しばし「火と戯れる女」の余韻を楽しみつつここは一気に読み切りたいと考えています。ということは次は「ミレニアム1・2・3」のDVDをどうするか?ですが、やはり、リメイクは待てないかもしれない。

 と、その前にちょっと気になっている小説がある。それは、「ハーモニー」。ほんまか?というキャッチフレーズに負けて読んだ本にかなり裏切られてきたから、気になっているがどうしようかな?と。でも、まぁ、気になっている状態がかれこれ長期間あるわけで、一回だけこの著者にダイブしてもいいかなと思っています。そして、このダイブの結果が出たら、この1冊をはさんでの「眠れる女と円卓の騎士」かなと、そろそろ涼しくなる秋の夜長にいくつか書籍を仕込みたいと思っています。

 例えばビジネス啓蒙書で言えば「特定の人としかうまく付き合えないのは、結局、あなたの心が冷めているからだ」という書籍は相当気になっているし、以前にブログでチョイスした「読書」の本も気になている。そして、ある作品のリサーチ関連で、ここ20年の中国国内の歴史についての資料をまず図書館で探そうと思っている。そして、同じく資料としてゲーム産業の大まかな流れについても。そして、中国武術の歴史。このあたりが今優先して気になっている。

 ネットでこれらの情報収集のアウトランは完結するだろうが、ネットの情報は膨大だが偏っている。膨大過ぎてそれを精査するアプリが必要だがそんな便利なアプリはない。世の中、ビックデータをどう解析・分析するかに一喜一憂しているし、教育現場では勉強はやめて「五感教育」という言葉に価値を見出そうとしている雰囲気が見受けられる。万象をストレス視して抑えることだけを目的に処方箋が飛び交っているが、なぜ、ストレス=悪いとするのだろう。まぁ、これも慣習だから仕方ないが、ニートが60万人、今現在も人員削減の数値は上がっているだろう。新聞やメディアに登場する数字は恐らくかいつまんだ数値だから、15歳から34歳がニート対象とするとそれ以上のニート状態の人を入れれば、そして、実数は300万人という情報がある。毎年数十万人が自殺をして、正規の仕事を得られない人が増えている。さてさて、この国はどうなる?危機感はストレスではない。別段、仕事はなくとも生命は維持できるが、まだ、日本ではそれは通用しない。勤労感謝の国だから、国家予算を浪費しても仕事を作るだろう。と、ラーソンの小説を読み終えると社会に対して言葉の感覚のエッジが立ってしまう。

 と同時に、マルボロが吸いたくなる感じと、iBOOKが欲しくなる。誠に不思議な作品です。

置かれた場所が必然なのか!?

 「境遇を選ぶことはできないが、生き方は選ぶことができる。「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子著。苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる 置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。」とこの書籍の広告文は締めている。この「置かれた場所」の定義は難しい。境遇という言葉をどう理解すればいいのか?生き方を選ぶということは具体的にどういうことなのか?概念の中で仮説と仮定を組み上げて崩すトライは何パターンもできそうだが、さて、人間は生命を維持するために飯を喰わねばならないし、家族がいれば養うために稼ぐ必要がある。消費税が10%になったからと言って、次次に原子力発電所が再起動するからと言って、机の上でおままごとをしているハリボテ野郎達が国を仮に動かしているとしても、さて、その上で、自分自身の生き方とは?みたいな真理。この書籍がバイブルテイストなのはこの著者のポテンシャルを鑑みれば分からなくないが、こんな時代だからこそ心の拠り所としての宗教というアプローチはきな臭い臭くないではなく、絶対数が求めている限り真理に近いと捉えて間違いではないように思えた。

 さて、「置かれた場所」か?現在の持ち駒は何だろう?自分の引き出しとは何だろう?この書籍を読んだ人達は皆そのことを考え、現在の立ち位置を再確認するのだろうか。結果、この出版社は書籍が売れればいいのだろうし、この書籍の価格が1,000円だから、このテイの内容だったら、50万部のニーズがあったということがリアルな部分。では、この5億の市場のネクスト・イノベーションは何だろう?現在進行形で捉えるならこの書籍・コンテンツで現在の立ち位置が見えたまではいいが、次に自分自身を鼓舞して奮い立たせるためのモチベーションはどこにある?つまり、そこのループが滞っているから、5億のニーズが設定できるのだろう。さてさて、この5億のニーズは大きいのか小さいのか。この著者はこのコンテンツで何を失って何を得たのか?そして、「置かれた場所」が見えた人達は今?何事も悲観的に捉えればキリがないし、楽観的に捉えることもままならない。ちょうどいいフィーリングは重心が緩い。止まっていると筋肉は乳酸を生むが適度な運動は筋肉を活性化させる。つまり、ブレインワークも同じことが言えるのだろう。「動き続けること」これが実のところ「置かれた場所」の真骨頂(必然)のような気がする。

センスとは?

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 センスのない人間は最初から(当然のように)センスなどなくとも努力して一生懸命頑張ればなんとかなるだろうと開き直ることからモノゴトにアプローチする。圧倒的なセンスとは何かもスルーしてそんなの必要ないじゃん!何かと何かを組み合わせてそこそこ感でその場をしのげばそれで成立するってことになるだろう…的にモノゴトを処理してしまう傾向あり。そんなことを繰り返して、一歩でも二歩でもセンスという真髄に近づけたのか?と自問するが、そうではないことばかり。ことごく・・・なのである。センスのない人間は「センス」ってなんだと頭で考えて、頭で出した答で納得しているからセンスの芯から遠ざかる。これはとてもストレス。空間認知能力にしてもいわゆるセンスみたいな部分が大きく影響しているらしく、サッカーの試合なども一瞬でメンバーの位置とそれぞれの動きを正確に予想してゲームを組み立てているらしい。音楽もクリエティブも恐らく同じで、センスのあるモノゴトが見えている人は一瞬で結論を出している。固執しなければならないのは、努力でなんとかなると頭で考えている人達。まぁ、世の中的に会議の好きな人間達。結論が自分で出せないから予定調和が欲しいだけ。しかし、世の中これも現実としてセンスのない人の方が圧倒的に多い。頭で過去の事例やどこかのムーブメントをコピーして茶番で納得できる人達なのである。しかし、これは決して悪いことではない。センスがないのだから、何かの目標設定をした時に、努力や猫の手数で目標に向かうことをしなければ、何事も起動しなからである。しかし、判断は一瞬で決まっている。あとは言わば惰性なのである。どこまで息が続くのかな?と溺れるギリギリまでの調整期間にあてているだけ。そして、溺れそうになりレッドカードで退場する時に、リスクを回避するから、傷跡にならない。これが見えている人の瞬間瞬間の判断。すべて想定しておける強さがあるということ。

 逆に想定外に右往左往していることが試行錯誤だと勘違いしないように、まして、「努力」だなどと勘違いしないように、判断は一瞬で決めたい。というか、その思考の段階でもう結論は出ている。あとは、井戸端会議に参加する根気があるかないか。まぁ、そんなことは改めて特筆する必要もないのだが、この二人はいいですね。言わば、今、一番いいとも感じている。もう、何がいいとかこれがいいとかを突き抜けているからいいのである。

 センスとはそういうモノ。非言語で考える訓練は壁をすり抜けた瞬間、ニューロンに書き込まれると書き込まれないとか・・・。心理学とか何とか検定とかまちづくりとか言い出した段階で、実は終わっている。あとは延命でたった一つの成果である「長寿」を目指すのみの構図。これは、楽しいか?

 自分の中から発信されるシグナルをステレオタイプな論理で封印しようとしても、いつか九尾は出てくるのである。それが戦争と平和の相関性。

No cross, No crown.

 「試練なくして、栄冠なし。」ってことですが、これもミラーニューロンが受け身モードで構築した理のような気がしてならない。結局、フィードバックされるのが対人間なんだから。イルカもそうだし、猿もそう、昆虫や植物でさえ、DNAの中に記述しているのは、対同亜種への伝達の理しかないような。結局、進化はの紐は紐解かれていないわけだから、何をもって試練なんだ?何が栄冠なんだ?って、人間社会のお話。だから、絶対ではなく相対で物事はスパイラルしている。これがまず大前提の仮説。

 そして、最近のオリンピックを見ていると、メダルを獲った人が「応援してくれた人のお陰。」と言い、獲れなかった人が「申し訳がない。」というテイのコメントをしている。それがどうしても耳に残って仕方ない。そんなに愛国心を前面に出さなくとも、自分の意志で試練に立ち向かい、自分のその身体ひとつでそのメダルを獲得したんだから、もっと、脳幹から言葉を出せばいいじゃん!と思ってしまう。それに、メダルを期待されて獲得できなかったから、日本の皆様に申し訳ない・・・と、誰一人、そんなことは考えていないですよね。私達は貴方達のように優れた身体能力もなく、試練にも立ち向かわず、自分の限界点に挑戦することもなく、ただ、クーラーのかかった部屋のテレビで皆様を応援している貴方達よりも能力がなく、努力もしていない人間なのですから、なぜ、その人に向けて、貴方たちのような才能のある努力家が「申し訳ない。」と言うのか。これは止めてほしい。勝った時は、闘争本能むき出しにして「どや!これが俺の実力だ!」と咆哮して欲しいし、負けた時は、悔しさをその身体全体で表現して、会場の椅子を蹴飛ばすぐらいの映像を見せてください。それがリアルってものです。

 「品行方正、清く、正しく、美しく」が非常につまらない。勝つも負けるも時の運ぐらいに開き直り、ベストを尽くした自信と限界に挑戦したアドレナリンが詰まったその身体からストレートに言葉を発してください。それが一番聞きたいし見たい。

 結果の出せない人が、あとから言い訳を羅列することを、日本人はどうしても丁寧に受け入れ、次に繋げたらいいじゃん!的なフラット化をよしとするが、この挑戦はこの挑戦、次の挑戦は次と、繋がっているようで繋がってはいない。目の前の挑戦が「復習」でも「予習」でもない、ホンバンなんだと意識下できないと、何がホンバンか分からなくなり、集中力も均整化するでしょうね。結果の出している人は、意外と、前後の戦略とか予習とか、終わってからの言い訳は考えていないもの。その時に集中できる人ってのは、そういう素で理の強い人。

 だから、No pain, No gain.の意味を理解しているのですね。

 試練は自分ため、栄冠も自分のため。そこを共有したり共鳴する必要はないじゃん!どうも、SNSやインターネットはそのあたりを無理やり共有モードにしましょう的な、それが絆です。団結です。それが愛国心ですみたいなコンセプトが底の底でレアメタルのように盛り上がっていないか?それは、本来、共有すべきものじゃない。もっともっと、絶対と絶対でリフレクトするようなノンバーバルなコミュニケーションを楽しむのが正解なんじゃないだろうか・・・と思いますね。

 だから、競うことが楽しくなるが正しい理のような気がします。

トライブ型社会!?

 TRIBE「1[集合的に]a(同一の血統を持ち,上に族長をいただいて群居する)種族,部族,…族 《★【用法】 集合体と考える時には単数,構成要素を考える時には複数扱い》用例 the Hill Tribes of Bangladesh バングラデシュの高地部族 b(古代イスラエル人の)支族 《★【用法】 1a と同じ》 用例 the tribes of Israel イスラエルの 12 支族 《ヤコブの 12 人の子の子孫》 2[集合的に] 【動・生物】 族,類 《★【用法】 1a と同じ》 3[集合的に] 《軽蔑》 連中,手合い 〔of〕《★【用法】 1a と同じ》 用例 the scribbling tribe 文士連 the tribe of artists 芸術家連中 [ラテン語「(ローマの) 3 種族」の意; 【形容詞】 tribal]」という意味らしいが、時代はグループからトライブ型社会へ移行しているらしい。なんとなくそんな予感はするが、こうして海外の著者が紐解くってことはひとつ大きな転換の指標になるのかもしれない。ただ仮説は仮説だがどんな実証からこの仮説を組み立てているかについては知識として情報として知っておいてもリスクはないだろう。つまり、「組織」の定義さえ変革の趣なのである。

 ロンドンオリンピックが始まった。ある国では金メダルを獲得した選手に対して6,200万円が支払われるらしい。ある国では一生分の税金などの優遇がされる。一方、日本では金メダルに対しての評価が300万円らしい。この価値の違いは何?文化や慣習の違いか?おかしいだろうこの価値基準は。決して金メダルは貨幣価値で査定できないモノだとしても、0が二つ足りない。この足りない部分のお金が国民の意思に反してどこかに流れているだろうと考えると遺憾である。誠に残念極まりない。

上手くいかなかった・・・。

 「これまで英語を勉強してきたけど上手くいかなかった」という人向けの完全英語攻略プログラムだそうである。その実態を知らないが別段知りたくもない。そもそも「英語を勉強する」とは具体的にどういうことか?語学に堪能な人間では決してないので、英語の点数が高くなければ昇給できない会社に勤めているわけでもないし、来月から海外支社に転属するということでもないから、気楽に英語を捉えているのかもしれないが、英語に対してそれほど構える必要があるのか?ということ。「上手くいく」とは最終的にコミュニケーションをとることだから、英語が上手くてもコミュニケーション能力が低ければ、もっと言うと、ビジネスコンテンツを持っていない上、コミュニケーション能力も低い、しかし、英語を上手くなれば、なんとかなると思っているとしたらそれは間違い。だが、このような「これまで英語を勉強してきたけど上手くいかなかった」と痛感している人達の90%がこの手のタイプじゃないかな。そもそも、手に技術もセンスも経験値もモチベーションもポテンシャルがないのに、なんとかしたい!が「英語を上手くなる」だとしたら、英語が上手くなる前にもっと上手にならねば、非凡な何かが必要なんじゃないのか。SNSで無駄なコメントや「いいね!」を集めているだけのログや無料ゲームやオンラインの仮想空間に没頭できる時間とモチベーションを持っている人達って、リアルな現場でリアルなレスが少ないから呼応するだけで何か生産的な活動をしていると勘違いしている。仮想空間に一喜一憂していることなど本末転倒の「末」でもなければ、竜頭蛇尾の「蛇の尾」でさえもない。人の心の痛みが分かる人間に・・・と教育現場の人は連呼するが、杓子定規に「心の痛み」とはなんですか?すべて「上手くいかなかった」からと、これらの安全牌な仕組みで時間を浪費するよりも、ガチのコトでリアルをゲットしなきゃ!と常々自分自身に言い聞かせています。

 「いいね!」が多いと気持ちいいが人間の心の構造だが、実は、その先がとても白くぼやけている。恐らくこれを創った人間の心と同じように・・・。

あなたの心が冷めているから!?

 発売1ヶ月で3万部突破!というクロスメディア・パブからの書籍がある。そのタイトルは「特定の人としかうまく付き合えないのは、結局、あたなの心が冷えているからだ」。仕事、家族、友人、ご近所さんまで、あらゆる人間関係の課題を解決してくれる本。と。なかなか大袈裟な挑戦的な書籍である。つまり、この反響の裏付けとして、世の中的には特定の人としかうまく付き合えない人が多いですよ、それは、あなた自身の問題であり、その問題をこの書籍を読むことで少しでも改善してください!ぐらいのテイなのだろう。¥1,344とのことでちょっといい値段だから、新書のノリから少しは踏み込んでいるのかな?とも感じている。

 で、レビューらしき文脈には「面白さトップクラス。心理学についても多く学べました。」「他人も実は自分と同じ人間だと気づかされた。」「自分を変えてくれるような力を持った本でした。」「ユーモアに富んだ著者の人柄が感じられ、心が温まった。」と綴られている。そして、文末には「日本をもう一度温め直そう!」としている。そうかそうか、日本はいろいろあり諸問題進行注の折り、総じて「冷えているのか!」と。そこであなたの心は冷えているからもっとホットに!ということなんでしょうが、さてさて、この書籍は「買い」か否か。

 これはつまりネット社会における対人能力が問われて久しい折りに、ネットでのコミュニケーションと対人能力的な部分との細かいディテールの違いやニュアンスの違い、引いては機能的な違いについてこの著者がユーモアを交えて語っているのだろう・・・と推察する。

 さて、「特定の人意外にうまく付き合いたい。」と考える状況ってどのような状態か?それが、人生観やビジネスモデルと比較した場合、お互いのポテンシャルの問題なのか、そもそもの関係性における大前提の設定の違いなのかという多種多様な条件下でこの方程式がどこま通用するか?ということになるだろう。多かれ少なかれ人との関係で「うまく付き合いたい。」と考えない人はないはずだから、この「特定」というカテゴも緩い設定でアリ。そこで結局あたなの心が冷えているということは一体どのような仮説から紐解けばいいのだろう?となりますね。

 まぁ、気になるレベルでは10段階で6ぐらいかな。最近、書店にいくとマジでガチでこのテイの書籍が氾濫している。それほどこの現代混沌としているというひとつの指標になるというものの、この路線が海外で一部、反響を呼んでいるというのもなんとなく頭では理解できる。これがひとことで慣習だと言ってしまうには短絡的であるものの、どこまでの特定想定外の人とどこまでつきあいたいと願っているのかについてこの書籍の紐解き方が変わってくるだろうし、ネットで繋がっている人と全て潤滑なコミュニケーションをとりたいとは考えていないが、どこで境界線を引くか!?とか、どのようなニュアンスで「特定の人」という属性にするのか?という目安を確認することができればこの書籍の意義・価値は大きい。しかし、概論的なことをいくらユーモアを添えて語ってもポイントがズレてたら「なし」だし・・・。ここはしばらくこの書籍に対するフィーリングが熟成するまで保留かなと・・・。

 「特定の人とうまく付き合えているのは、あたなの心がホットだからだ」というタイトルの書籍なら気になるレベルは8ぐらいになるのだが・・・。いやはや、否定から入るのが最近のノリなのだろう。日本人はなんともはや「肯定」からダイブすることをしない特性がある・・・あたりを上手く演出・利用・適用しているしている。

情報スーパーハイウエー構想

 「Bill Clinton元大統領とAl Gore元副大統領が1992年の大統領選を戦っていたとき、「情報スーパーハイウェイ」という当時はまだ漠然とした概念について盛んに主張していたことを覚えているだろうか。 情報スーパーハイウェイ」という言葉は何やら華やかに聞こえたが、当時はまだ、それが何を意味するのか正確に把握していない人たちもいた。あれから15年。インターネットは、現代の生活に欠かせないあらゆる重要な部分に浸透したといってよいだろう。今や、インターネットについて知らない人などいない。Pew Internet & American Life Projectが行った最近の調査によると、米国の成人人口の何と73%がインターネットユーザーであり、その数字は増え続けているという。インターネットのおかげで仕事の生産性が大幅に向上したと感じている米国人は、2001年3月の時点で全体の24%だったが、今では35%に増えている。同じ期間で、インターネットのおかげで医療関連の情報を入手しやすくなったと答えた人の割合も、17%から20%に増加した。また、インターネットのおかげで買い物が大変楽になったと答えた人は、2001年3月時点では16%だったのが、現在では32%に増えている。さらには、同じ期間で、インターネットによって趣味や興味を深めることができるようになったと答えた人は22%から33%に増えている。米国のインターネット利用者数はまさに驚愕に値する。インタ―ネットを使用している米国成人は、昨年で1億3300万人、今年は約1億4700万人に達する。さらには、そのうちの8400万人が自宅にブロードバンド接続環境があると答えている。これは昨年の5900万人からの大幅増加だ。もちろん、インターネットの普及率は、年齢層と学歴によって異なる。年代別では、18〜29歳で88%、30〜49歳で84%、50〜64歳で71%、65歳以上で32%と、若い年代ほどインターネットの普及率が高くなっている。つまり、これから若い世代が年を重ねるにつれて、インターネットはすべての年代に渡って広く普及することになる。また、学歴が高いほど、インターネットの普及率も高い。大学の学位保有者では91%がインターネットユーザーだが、カレッジ卒では84%、高卒では64%、高卒未満の学歴しか持たない場合は40%にまで低下する。したがって、学歴の低い人たちは、インターネットを使えないために、仕事、医療サービス、趣味、ショッピングなどでも、大きな不利益を被っていることになる。これからは、すべての意欲のある人たちに教育を受ける機会が与えられるようになってほしいものだ。そうすれば、学歴の違いによるインターネット・デバイドは是正されるだろう。この調査は、インターネットが、電話やテレビと同じように、米国人の生活に欠かせない存在になりつつあることを明確に示している。かつては「情報スーパーハイウェイ」という言葉の意味も明確ではなかった。それが、今や、インターネットのない生活を想像するほうが難しくなっている。」とこれがインターネットの根源と現実。こんな情報は数秒でヒットする情報だが、ここまで詳細を知ったところで何かリアリティーが在るかと言えば、別段、「へぇ~、ITリテラシーが学歴と相関性があるのか・・・」程度である。またまた、「スーパーハイウエー」などと古典のような五感もたかがだ20数年の歴史を感じさせる。

 で、これはアメリカのお話。さぁさぁ、インターネットを活用できるかできないかで利益が異なる。自分自身もこれほど仕事に活用させていただき、仕事としてWEBサイトを創っているという立場を踏まえると、このスーパーハイウエー構想の恩恵を受けている実感があるのと同時に、様々な警告や不協和音に対しても敏感になっておかなければならいと思うわけ。なんでも両刃なんですね。

好きこそ・・・。

 「好きこそものの上手なり」と言うが、この「好き」を分析してみるといったいどういう感覚なのだろう。簡単に「仕事が好き」だとか「釣りが好き」、「山登りが好き」、「映画が好き」と言ってしまっているが、反面「・・・が嫌い」という判断をしている。これが仕事になった場合「嫌いだから下手でいいのか?」というジレンマがあり、仕事である以上、好きとか嫌いとか関係なく、上手を目指さなければならない場合が世の中的にも人生的にも圧倒的に多いはず。なかなか「好きなことを仕事にする。」とテイは難しいというのが常。しかし、この「好き」を細かく分析して自分にとっての「好き」の理由を言語や論理ではなく感覚で分析すると意外と単純なことでこの判断をしているような気がする。初めてのチャレンジ、人に勧めれてがキッカケでも、やってみたら楽しかった。思いのほか上手にこなすことができた。あたりから、「好き」が加速するし、何か明確な根拠はないがなんとなく始めた仕事や趣味が結果現状、自分と相性がよく好きになったというパターンもあるだろう。この場合、初めは何も感覚として自分自身の中に存在していないどこかのスイッチが何かのタイミングでONになる。ここが言わば「好き」の始まり。しかし、人間は飽きる生物である(特に私は極端に飽きるのが早い・・・)、成功して達成感に包まれれば調子にのってのめり込むが、失敗が続くと自分との相性だとかいろいろな理由をつけて便宜上、「やぁ~めた!」となる。しかし、楽しい感覚で始めても何かのタイミングで、慢性化して楽しさが失速することもある。つまり、これを人生であれ、仕事であれ、趣味であれ繰り返している中で本当の「好き」は何だろうとふと考えてしまう。

 前段の「好きこそものの上手・・・」の下りも「好き」と「上手」の相関性についてはあまり論理的に言語的に考えない方が追求し探究し達成する可能性が高い。ならば、あまり、この「好き」って実は明確な分岐点があるのではなく、結構ふわふわしている判断なのかもしれない。なんでも貪欲に「上手」でありたいと思う反面、それが「好き」か「嫌い」か判断しながらでは持続力に欠ける。う~ん、このあたりが非常に難しいが、続けてこれたことを自分との相性がいいと捉えて、結果、「好き」とすることの方が簡単だが、仕事として「上手」を目指すなら、今よりもステップアップ・バージョンアップをしたいなら、この自分の中の「好き」を右脳でも左脳でもしっかり意識下に置いておく必要があるように思います。

 って、そんなに簡単にいかないのがこれまた現実であり、ひとつひとつのタイミングを自分自身にしっかりリフレクトして回していきたいと思います。想像と創造が人間の本能だからとは緩い仮説ではあるが、それを信じなければ、何も始まらないし今現在のリアリティーも失速する。これを仮想空間や空論に依存せず手で掴めるもの、目で見える実態、感覚で捉えられるリアルを大切にしていきたい。

激震ソーシャルゲーム!

 グリーの社長が国内のゲームの規制に悲鳴を上げているとかいないとか。グリーの社長は言っている。「国としてのビジョン、方向性、何を善とするかを打ち出すこと。我々は日本以外の国に製品を売って収益を上げる宿命にある。」と。さすが、仮想空間の覇者だけに実態・実像のジレンマを避けてコメントしている。「国」という実態がありそうでない対象に対して、そもそも「ビジョン」や「方向性」など無理な話。仮想ゲームに子どもが毎月10万円を使える豊かな国なんだから、これただ、「平和平和」としか言いようがないですね。それが新聞になると「激震!」だから、どこか論法が崩れている。たぶん、あの時から、崩れたままなんだろう。でも、この崩れで豊かさを手にした人にしてみれば、彼はヒーローだし、いつまでもヒーローだけでは国単位での制御コントロールが難しくなってきたわけだから、そういう意味で、ゲームビジネスに浮かれるニーズがあるということが一番激震。

信頼される男、されない男。

 「信頼は言葉に出した瞬間に偽物になる。そして、言い訳の数だけ失われていく。信頼される男は「信頼関係をもとに・・・」とは言わない。信頼される男は「過去」の自慢話しない。信頼される男は、自分の「肩書き」をわざわざ言わない。信頼される男は深い孤独感を背負っている。信頼される男は「アウェイ感」を出さない。信頼される男は、パートナーを大事にする。信頼される男は「色気」がある。信頼される男は、歩き方が美しい。信頼される男は「自信」と「過信」の違いを知っている。信頼される男は、自分自身を「信頼」している。」という書籍をある一流秘書が書いている。どれもなんとなく女性の目線での「信頼される男性論」の臭いはしなくはないが、これは女性の視点。誰からも信頼してほしいから、これらのことに留意して人とコミュニケーションするつもりはない。まして、信頼されたいから・・・的なテイに陥った段階で本末転倒。周回遅れもはなはだしい。一流秘書目線で全てが見えると思っているなら大間違い。逆に「信頼されない男」ぐらいのダーティーな感じでちょうどいいのかもしれないぞ。言葉に出した段階で偽物って、書籍にしている段階でこの心理は少しづつ失速していっていることも事実。これられを相殺してもこの著者はアンカーを打ちたかったのだろう。か、編集者の甘い言葉に負け手の内を紐解いてしまったのか・・・。

 ただ、唯一、この広告の文脈で信頼できるフレーズは「自分自信を信頼している。」という部分だろう。これは、文章化しても一定のリアリティーを維持している強い言葉ですね。シンパシーを感じましたね。

夢か現実か?

 よく、歌の歌詞で「夢か現実か?」と自問自答ことがある。これは一瞬、心にひっかかるフレーズですが、実は「夢」と「現実」の境界線はない。どちらも「夢」だとも言えるし、どちらも「現実」だとも言えるからである。では、なぜ、一瞬だけ心に引っかかるのか?このひっかかる感じは何を意味するのか?それはIQの機能だとも言えるし、身体の中を走るパルスのスピードだとも言える。つまり、感覚とはスピード感をどのように体感するかであり、学習でさえ、椅子に座ってテキストに向かってペンを走らせているのだから、知力という運動なのである。必然的に画面を見ているだけで学習にはならない。だから、パソコンの使い過ぎ、ゲームのやりすぎで記憶力や知力が落ちると言うがそれは違う。そういう人は後天的な問題であり、もともと知力が低いのである。生まれてCUBEのような部屋に隔離されて、パソコンしか与えられなかったとしたら、この場合の知力を語ることはできないはず。まぁ、何分、割合と比率と確率と軸が存在するから一概に推量することはできないが、「夢」と「現実」を区別している意識に自分を置けるということはある意味バランスのいい状態かもしれない。

 で、理想としては、いつでも、夢と現実の間を言ったり来たりできる状態でいたいものです。血液が潤滑に適正に流れるように、筋肉への信号が停滞しないように、五感からの信号が詰まらないように。

「good bye!」って。

 娘に「good bye」の語源は知っているか?と聞かれた。う~ん、なかなか、やりよる。その角度で来るか、最近なかなかするどいするどい。しばし、反芻を繰り返す。おそらく「bye」は不戦勝の意味だが、勝利や敗北に関するニュアンスを不慮の事故や人生のトラブルに引用しながら、「いい、不戦勝を!」とういニュアンスか、「bye」に続く何か語彙に人生だとか生活の安定を促すような意味があり、「あなたのこれからの人生がよい状態に!」ということだろうと推察して、そのことを娘に伝えると。

 そこまでの深さはないよ。とのこと。うんうん、今回もなんとか親父の威厳を保てたぞ。その語源とは「god by」の普遍化であり、昔は戦争や争いが絶えない世界だったために、別れ際に、こからも、あなたの人生の傍らに常に神がいますように・・・という願いを込めての「god by」だったそうです。なるほどなるほど、英語はストレートでディープである。だから、see you, later/around. take care,good bye.なのである。まぁ、「god」を偏在する人間社会の真価と捉えるか否かは信じる者次第と・・・。

「読む」から「使う」!?

 どうやら、雑誌は「読む」から「使う」への時代らしい。通勤・移動時間はスマホでニュースをチェック。会社ではパソコンで特集やケーススタディーを。会議や商談ではタブレットで記事を参考資料に。海外出張でもリアルタイムで情報を把握。そして週末は自宅で雑誌をじっくり読む時代。いつでもどこでもビジネスに必要な情報をスマホ・PC・タブレットで!ってよくできたシナリオである。まず、「読む」と「使う」という関係性について一見それは実しやかではあるが、実はこの行動パターンは大きく異なる。なぜ、「いつでも、どこでも、最新の情報を。」が「便利」なのかを考えている暇を与えずに何がなんでも「便利」を訴求されると、本当の真価としての「便利」を見失う。まぁ、真価とはそもそも見失うモノなのかもしれないが、でも、その見失い加減が尋常ではない。読むという行為が使うという行為に代用されるはずがないし、「情報を使う」とはいったいどういうことか?情報の差別化をせずにその実態を分析せずに、猫も杓子も金太郎あめのような情報の断面を最新機器で閲覧しているだけではただの「see」だろう。読むとは「look」だし、readの側面とリサーチの側面があるのだから、使うが見てるだけにならないようにするためにはどこが注意する部分か?ということをキモに銘じたい。この部分、意外と、なかなか難しいと思いますね。リアルタイムの情報が世界を駆け巡っていることは現実として、「なぜ、情報のリアルタイム性を重要視しなければならないか?」は無意識で処理している。情報は早ければいいのか?信憑性や信頼性を棚に上げ、最新=信頼のバランス感覚を煽るこの最新機器の末路は進化とは呼べないような。混沌としたこの情報化社会に規範があるとすれば、使う人間のポテンシャルのみ。

 で、この部分、どこをデフォルトにするか?それが今後全てのユーザーの意識下に置かれた後、さてさて、この最新機器は便利なのか否かという判断が必要。
 
 「使う」は「読む」を包括できるが、「読む」は「使う」を包括できない。

20人中19人。

 20人中19人が自殺未遂に終わる。しかし、2回目が成功する確率はその約40倍。この数値が事実か否かについてよりもそれほど人の心は弱く強いということ。0から1への変換機能について人間の判断力のリミッターはとても強い。しかし、1から2への移行する時その効力が激減する。つまり、0と1の間にある谷の深さを人間は本能で守っている。自らの命を絶つ判断をする唯一の生物、人間。一体何故?と疑問視するが次の瞬間自分自身もそのベクトルに転換するかもしれないという潜在的な負の能力は内在しているはず。心は強いのか弱いのか?ただ言えることは、心も生物だということである。変容する価値観こそがその実態。

 で、寿命が来れば必然的に脳も心臓も停止するのに、自らの命を絶つという判断に辿りつくのか?それは論理的な判断ではなく、衝動的な感覚的な判断だと思いたいがその実態は不明。おそらく、死人に口がない論理でそれを確かめることもできない。会話が必要だと言うが本末転倒、間違いなく、この悲しい結末はなるべくしてなっている。心が弱いから・・・と捉えることは簡単だが、私は心が強いから・・・かもしれないと想う。だって、心が弱い人は正直「死」は怖い。心が弱いから誰かに助けてほしいと願い行動する。ネットのデジタルコミュニケーションにばかり交流の場所を求め過ぎると、この弱い部分のリアルさが欠落し、強い人間になったと誤解するパターンってあるかもしれない。

 「人の心は弱い。」というテイでもっともっと、助け合うぶっちゃけ感が現代には必要なのかも・・・。

筋金が入っているか!?

 最近、「筋金が入っている人」に新しく出会う機会が少ないような気がする。この「筋金感」ってあるいみの相対的なリアリティーだろうし、その方のポテンシャルだとも言えなくないが、骨が太いというか、心臓に毛が生えているというか、器量が大きいというか、なんとなくそんなニュアンスの人が少ない。それに比べパソコンみたいな人が増えてません?スイッチのオンとオフがはっきりしていて、細かく、考えや行動パターンが2次元の人。ミクロとマクロに自分自身のスイッチを巧みに切り替えています!みたいなテイでどや!みたいな人。それは素晴らしいことかもしれないが、到底「筋金」が入っているという印象には程遠い。細かい小さい神経質が悪いことではないのですが、デリケートっていうバリケードが強すぎる。抗菌フィルムに守られているから、雑菌に弱い・・・みたいな。

 恐らく、時代や経済の観念が変容して人間の資質が軟化・フラット化・相対化した結果、硬度の高い思考や競争率の高いフィールドからテイクオフし、絶対的な関係をストレス視しているのだろう。だから、自分自身の筋金を鍛えることよりも、平均化して右にならっておこうみたいな思考が平和をもたらしラブ&ピースみたいなノリなのかもしれないですね。だから、メディアはそれに敏感になり、放射能の問題や日本の経済や政治の真理を隠ぺい・捏造する。もしかするとその現場の人は、それを創造だと勘違いしている・・・みたいなことだろう。

 筋金入りの人間になりたいものである。ウルバリンのような感じはそういう意味であこがれである。あえて「リアル・スティール」じゃなく「ウルバリン」みたいな、「イーサン・ハント」より「ジェイソン・ボーン」みたいな。

小さい失敗の先にあるモノ。

 唯一、前進する方法は、検討と検証を充分に重ね決断することではない。感覚で判断して小さい失敗を繰り返しながら進むしかない。小さい失敗を恐れていては判断が遅れる。小さい失敗にドンキホーテのように破天荒に突っ込んでいくから答が見える。前進するとはそういう感覚。ネットの中に答はないのと同じぐらい検討と検証に答もない。自分の答と相手の答の間でつばぜり合いをしてこそ、感覚を共有できるってこと。それは決して言語ではない。声とか色とか臭いとか体温とか皮膚感覚でしか伝導されない化学的な物理的なエレメント。

相手の質問を予測して答える。

 時に質問のパターンが見える時がある。しかし、想定外のこともあるが、よほどの想定外でない限り、相手が日本語を使うのなら、質問の予測はできることが多い。でも、正しいリアクションがいつもいつも出来ているかとなるとそれは失敗の方が多い。これは、反発したいと心が感じているからか、根っからの天の邪鬼だから、心で否定して言葉は肯定するみたいなことで、ストレスが蓄積している結果なのか?まぁ、そんなことも意識下に置いていると無意識からダイブしてみたくなる場合もあるし、無意識が時になんとも心地良い場合もあって、相手の気持ちをスルーして自分の世界で完結させてしまって、あとは、上の空みたいなこともしばしば。これって何がどう影響しているのだろうか?相手のことをどう思っているかが正確に見えるゴーグルがあれば、適正な正解を並べるのだが、そんなゴーグルはどこにもない。目に入ってくるホコリを遮断するぐらいがゴーグルの限界です。

 いい目を持っている人はとにかく言葉が少ない。これは間違いない。次から次へ言葉を出す人は恐らくいっぱいいっぱいなのだろう。笑顔って実は動物の本能的には相手を威嚇する行動だそうですから、「へへへ・・・」と笑っている人は実は心で相手を威嚇しているんだと生物学者が言っていた。なるほどなるほど、なんとなく分かるような気がしますね。

 で、相手の質問が予測できない時が実は大きな化学反応が起こせるチャンス。だから、時に馬鹿になることも大切なんだろう。って、馬鹿を自分自身に容認するほどクレバーでもないから始末が悪い。

ジッと見ること。

 確かテレビで誰かが言っていた。美しくなりたいなら、「美しいモノをジッと見ること」が大切だそうである。この場合、美しいモノとは美女でも花でも自然の風景でもなんでもいいらしい。とにかく、自分が心から美しいと感じることができる対象物をジッと見ることで、目からの情報として脳が刺激を受けて、自分自身に大切な重要な情報としてより深い認識をインプットするそうです。何気なく見ているテイや、使命感や責任感で見るのではなく、気持ちを集中させて適度な緊張感で「ジッと見る」大切さを語っておられた。

 確かに、仕事で画面の絵や文字情報もジッとは見ているが必然性で見ているだけで、心が震えているわけではない。仕事として区別をしている訳ではないにしても、ジッとではなくそこそこのテンションだろう。では、自分自身の場合、どんなモノをジッと見てるのだろうと考える。そのタレントさんは、モデル出身で健康や化粧品に関する書籍なども書いているクレバーな女性。その女性が何をジッと見るかというと、若い美しい女性の仕草や表情をジッと見るらしい。それで、自分自身の心の美しさや若さを活性化させているのだそうである。実際、好奇心の対象が「美しい存在」であるから、自分自身の心の美しい部分がより活性化されて、その活性化された意識というか脳の信号が身体の機能を若く再生するとかしないとか。

 で、私は何をジッと見る傾向にあるのだろう?それが、実は自分自身の好奇心の対象であり、心が求めているモノ・存在だとしたら、その対象は結構重要になる。恐らく、ブランド物の服や高価な時計や車や宝石関係ではない。そして、美しい風景に心は普通に奪われるがそんな風景でもないだろう。たぶん、美しい女性はジッと見ているだろうが、これは、この場合のジッととは少しニュアンスが違う。とすると、なんだろう?思い当たるのはどう考えを巡らせてもこれしかない。

 それは、「石」だろう。っても、宝石ではない。ちょっと気になるカタチや質感の「石」は時間があれば、ジッと見ている見ている。美しいか美しくないかの判断も分からないほど、ジッと見ていることが多い。どこかで買ってきたり拾ったりした「鉄鉱石」や「サハラの砂」「化石」などもこの対象に含まれ見ていることが多い。なんなら、砂時計の砂でさえ、ぼぉ~と見ていることは嫌いではない。つまり、「石」「砂」あたりに心が奪われてるのだろう。今更、適当な理由はどうにでもなるが、芯を喰う理由はこれと言って思いつかない。

 さてさて、このおっさんは「石」に何を感じていることやら・・・。

スマホの多機能化、脳の無能化。

 スマホを集中攻撃するわけではないが、私自身、その必要性が未だに・・・。結局、カーナビもタブレットも「買い」への決断ができない。これではダメなんでしょうが、これは慎重過ぎてというよりも、頭で必要性は理解していても、最後の最後で心が拒絶している。これが不思議な感覚です。別に道具なんだから勝手使えば自然とのびしろも実感できるぐらいに考えればいいのだが、どうも天の邪鬼な心がビンビンに反応して、「私には必要ない信号」を出し続ける。結局、ノートブックパソコンにしても、外出した時でもこんなに便利でワイファイでどこでもネットが観れますよ的なテイを拒絶している。

 反面、心のどこかで「スマホの多機能化」と「人間の脳の無能化」みたいな捻じれた考えが蔓延し始める始末。こんな人間、実は一番メンドクサイのだと頭で理解していても、心が素直になれない。結局便利便利とジョブスのスタイリッシュスタイルを鵜呑みにして、カッコイイって使っているが、実は脳を休ませたいだけ。適度なテンションをキープさせるためにも、便利と思っていることが実は便利ではなく、「みんなと同じことをしているだけ」を便利と勘違いしないようにと心が危険信号を発信しているのかもしれないぞ、とまた、天の邪鬼が語り始める。

 で、そのアプリってホントに必要か?ってうそぶいているわけ。車のETCサービスだってエトセトラレベルです。これって、原始人レベルのかな・・・。

冥土の土産と罰。

 「冥土の土産」と「罰(ばち)」という概念がある。輪廻転生極楽浄土の世界観に紐解かれた分野なのだろうが、この思考は否定も肯定もしないが、手を合わせ心で思うことを意識下に置くことは人間のコミュニケーションと人格形成において非常に有効な形骸的創造行為だろう。意識と無意識の問題をこんなに朝イチで切り出す必要もないが、ふと、「冥土の土産」ビジネスとか「罰」ビジネスっていうビジネスモデルを展開しているECショップってあるのかな?とひらめいたからこうしてブログにメモをしている。

 高齢化社会、経済生活への不安が蔓延しているから、この手の悪徳でもないが、ビジネスが幅を利かせる要因・背景は充分にある。いい意味ならいいが、悪い意味で「魂」を抜かれぬように肝を据えたいところです。いや、もう、この国で日常生活をして慣習にどっぷり浸かっている段階で、大切な魂は抜き取られているかもしれないが・・・。

非言語コミュニケーションとは。

 「しゃべりは上手いが信用できない人、無口で説得力に溢れた人の差はどこにある?女性の嘘は見破りにくいのは何故?すべてを左右しているのは「見た目」!?顔つき、仕草、目つき、匂い、色、温度、距離感などなど。私たちを取り巻く言葉以外の膨大な情報は持つ意味とは?心理学、社会学からマンガ・演劇まであらゆる知識を駆使した日本人のための非言語コミュニケーション入門」とこの書籍紹介が冒頭に記されている。へぇ~、それってデザインとかアートとかとどこかシンクロしているんじゃないのか?なかなか、この書籍あたりかもしれない。

 ここんところ、小説が続いたので、ちょっと、一息って感じでこの書籍に向かってみよう。その書籍「人は見た目が9割」というタイトルです。¥680なり。

書籍「人間の基本」。

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 足場のない人は、人生を無駄にすると・・・。いい切っちゃう勇気に感激しています。「人間の基本@曽根綾子著」。これはチェックでしょうね。

 これからを生きる人、生き方を見つめなおそうとしている人へ。「本当の答え」がここにある!と言いながら、モノゴトの2面性を示唆・洞察するこのジレンマが大好きですね。

 「運に向き合う訓練こそが大切である。」と言いながら、「人間の基本」というタイトルにしてしまうこの摩訶不思議なスタンスがまたいい。

 このアプローチは女性的な側面が強いような気がするが、それも「マスコミよりも先祖の声に耳を傾けよう。」というフィーリングに象徴されている。

 まぁ、ここまで喰いついてるのだから、いずれ、この書籍も買うでしょうね。何事も「基本」は大切ですから。

娘の質問。

 唐突に娘からこんな質問があった。「仮説は2つあるんだけれど、人間の鼻の下の溝って何故あるでしょうか?」と。うんうん、なかなかいい質問である。さてさて、親父としてこの質問どう捉えてどのような考察を返すべきかとアドレナリンが一気に放出する。お茶を濁すような解答はどうにでもなるし、適当な考察を返すことも簡単。しかし、ちょっと待て待て、そんな簡単な質問でもないし、ささっと頭の中を巡らせても適正な解答はふっと想いつかないぞ。これはどうするどうする!?

 その時間、約15分間。全力でその2つの仮説を考察して捻り出した。しかし、この鼻の下の溝は何?って、我が娘ながらなかなか素晴らしい疑問点・着眼点である。だからこそ親父として中途半端な解答は出せないぞ!さて、人間の進化の過程から考察を始める。そもそもどの段階で鼻の下の溝はあったのだろうか?猿人類の段階の少し前だろうから、その時、DNAがその生活環境をどう捉えてその溝を使ったか?まず最初のアプローチはこの部分。劣悪な自然環境の元、彼らがその生命を維持し種を存続するために行動していたパターンにこの溝は深く関連しているはずだ・・・と。しかし、人間の身体の表面にあるいくつかの特長と進化の過程で変容してきた部位の特長をどう関連づけるか?頭部の五感機能が集中するどの中心にある溝だから、嗅覚や味覚と関係があるのだろうか?鼻の穴はふたつ。臭いを感じるためのセンサーはとても微細なために人間の皮膚の中でもかなりデリケートである。だから、血圧が上がると毛細血管が切れて血が出る。恐らく進化の過程で現代人よりもその頃の猿人やそれ以前の段階で鼻の機能とこの血の関係から、溝が関係していないか?すると、睡眠中や身体が自由に動かせない状態の時に、聴覚と嗅覚からの情報を得るための穴の近くにあるこの溝は情報収集する際、どんな場面が考察できるか?

 次は、人間の骨格と筋肉と皮膚の関係はどうか?重力の元、二足歩行となり、両手を使いこなすことで進化を紡いできた人間だから、骨格や筋肉には一定の正当な法則がある。それが、現在のフォルムになる過程でその動作や外気からの関係上、何らかの理由で鼻の下に溝を作ったのではないだろうか?というアプローチ。しかし、よほどの肥満でないかぎり、全人類にこの溝はある。ということは、環境や生活規範が原因で変異したモノではないだろう。すると人間という生物すべてに関係する個体の誕生から発育の過程、引いては、卵細胞から細胞分裂をする時に何かの要因で身体のフォルムになるはずだから、その行程でというかプロセスで最終的に溝になっているという分析はどうか?

 そして、鼻と口という五感の重要な部位には本来・元来、別の用途や機能があり、それを潤滑に機能させるためにこの溝があるのか?などなど、充分にたっぷり15分間。いろいろな考察を反芻した。持てる知識を総合して関係性を導こうと試みた。

 娘は現状仮説が2つあると言う。あまり、微弱な緩い仮説も出せないぞ。上記の考察を元に改めて2つの仮説を組み立てる。

 で、「細胞分裂の過程で出来た溝」という仮説と「環境や生活習慣が進化の過程で溝を創った。」という解答を娘に思い切ってぶつけた。

 結果、その仮説は高校の生物の教師が授業中に余談で話をした仮説らしい。私の二つの仮説を聞いた娘は「へぇ~、かなり近いな。一つは正解で一つは限りなく近いな。」と。なんとか親父の立場を保てた保てたっていう感じ。

 その生物の教師の仮説は「細胞分裂の過程で頭部のこの部位はとても人間の生物としての部位だから、この部分が細胞分裂による生育の最後のプロセスになるために、溝になるということ。」もう一つは「水中生物だった時期や水辺で生活を始めた時期に、水中に隠れなければならない場合に、上唇で鼻の穴をふさぐ必要があったと。その際にふさぎやすいためにこの部分に収縮用の溝が出来たとのこと。」。うんうん、なかなか我ながらいいラインを捻り出したものである。

 しかし、高校2年生、なかなか鋭い質問をするようになったものです。娘の成長のリアルに感動しつつも、親父の威厳を保つのも一苦労である。よかったよかった。

大大大先輩ご両名に学ぶ。

 特にメディアは「世代交代」を強調したがる傾向にある。それは、そこに物語感を演出・脚色しておけば、自分の立ち位置が好印象になるからだ。なんでもかんでも「世代交代」で解決できると思っては大きな間違いである。日本の経済を支えてきた多くの大先輩の方へのリスペクトなくして芯を喰う思考や活動展開は難しいと感じた。下手をすると自由に自分独自の発想で道を突き進むが理想だが、そんな道は実は道ではないということ。先人の既知に対してのリスペクトを失わず信頼関係を心の中心でシンクロさせなければ、ネットやデジタルコミュニケーションのどこまで探究しても言語的な世界では人の心と呼応することは難しいと知る。

 ネットやデジタルツールの知識ありきでそれを最先端と誤解すること。もしくは、誤解させておきながら、一番大切な部分を棚に上げさせるメディアコントロールの摩訶不思議。結局、バットの芯からヒットポイントを外させるためのスライダー系のボールなのだろう。微妙に手元で変化させバットにはあたるがボールは飛ばないみたいな。低重心でデカヘッドの長尺ドライバーで一見誰でもボールの芯を喰えると思わせて購買を狙っているような行為が人間と人間の間で行われているのだろう。

 2012年、身の周りで素晴らしい出会いがあった。その大大大先輩のご両名に対して心から敬意を送りたい。このご両名の前では私など吹けば飛ぶような「ガキンチョ」なのである。それを実感させていただけるこの幸福感と、だからこその自分へのモチベーションの高揚とのバランスが今とても心地いい。

 この感覚、絶対に20~30歳代では実感できないリアル。人生とは学ぶことの普遍な連続なのである。

サリーは可愛いですね。

 いやいや、これは売れるわ・・・という一冊。まだ第1部が終わったとろこですが、この物語第3部の最後の一行を読む頃にはいったい何と何に繋がれるのか?この物語の中に何が見えてくるのか?この2人の関係はどう進展するのか?もう、このワクワクドキドキがさらに加速した第1部下の最終行でした。いきなり始まる不可解な映像認知表現から、ハッキングのディテール。ヨーロッパの歴史が言わばミレニアムなのか?人の歴史、現代との比較、そして未来へ。すべてを紡ぐこの物語にそりゃ引き込まれないはずはない。これがたぶん電子書籍やネットの中のテキストデータならこの認知には絶対ならない。それは、小説(書籍)というリアルこそが人の知覚や感性を刺激するのだろう。人間の目は動くものへの動的認知能力に優れている。これは危険から回避するために絶対に必要な能力。それをここまでの物語に展開し、これだけの大人数の人間関係や性格を表現すると「小説というリアル」がパラレルに存在するような錯覚に陥る。と、それほど素晴らしい。

 で、サリーは、うん、可愛い可愛い。第2部が楽しみ楽しみ。

人はなぜ騙すのか?

 人はなぜ騙すのか?という書籍があるらしい。この書籍についてはさほど興味はないが、さて、「騙す」という行動や心理とは何か?この書籍は人間の歴史上、「騙す」というテイで展開されてきた事象や書籍について、分析・洞察・考察を哲学や心理学の視点で紐解いているのでだろう。が、あまりこのテイには興味が薄い。

 で、「騙す」とは悪意の表出した行動・言動なのか、正義へのアプローチなのか?ミニマムな「うそ」から壮大な「うそ」まで何が悪で何が正しいかについて改めていろいろ考えてしまった。しかし、このテーマはかなり広がる余地があり過ぎるのと、何を指して「騙す」と規定できるのか?についても、適正な枠が想定できないことに気がついた。こうして、ブログを書きながら、そのことを考えているが、恐らく私の文章力や思考力ではこのテーマに対して的を得たコメントは書けそうにもない。それほど人間は「騙す」を共有しているし、昨今、「絆」「絆」と連呼が絶えないが、そんな叫ばずとも日本人から「絆」を抜いたら何が残るのか?というぐらいみっちりとまったりと脈々と存在しているのだから、どんだけ盛るのか?という感じ。すると、「騙す」もコミュニケーションのアイテムなのかもしれないし、メディアも総じて「騙す」「騙され」の相関性で成立しているのかもしれない。すると、どこが軸なのか、「騙す」という行為や思考はどこを中心に回しているのか?などと思考が支離滅裂感を帯びてくる。

 さて、明日は4月1日。大義名分にも「うそ」を奨励する慣習たるエイプリール・フール。然るべき理由や背景の元、それが継承されているのだろうが、この「嘘」と「騙す」について、人間の持つイマジネーション能力と連動しているわけですが、その能力はどういう価値があるのだろう?

 フォースと共にあれか・・・、あの映画も言わば「美しい嘘」となるのだろう。

60歳になって思うことか・・・。

 60歳までにやっておきたいこと、60歳になって思うことというアンケートが新聞に記載されていた。貯金や年金のお話が中心だったが、一番、お金のこと以外でのベスト3としては、このような解答が多かった。

 第3位、もっと、子どもたちと話をしたりいろいろなことをいっしょにしたかった。仕事を優先してあまり家族との時間を作れなかったという反省。この場合の「仕事」が何を指すかは人それぞれだろうし、「仕事」と「家庭」をよく天秤にかける文脈のテイがあるが、それは実は天秤にのせるようなアイテムではない。優先すべきは「家族・家庭」である。いや、優先というモノサシも正確には違う。「家族」と「仕事」はどちらも大切である上に、優先順位をつけたり天秤に載せるような存在ではない。にも関わらず「仕事に追われて家族との時間が作れない」は「家族との時間を作ったら仕事ができなかった」と言っているだけに過ぎない。この背景にはあまりのびしろがない。家族があるから仕事をするのか?家族との時間を犠牲にして仕事をする意味があるのか?となる。子どもとのコミュニケーションはその時間の尺ではない。密度である。つまり、上記のように反省する人達は対象が何であれ、コミュニケーションが苦手だった結果、時間の使い方を後悔しているだけ。

 第2位、もっと、夫婦間の会話をするべきだった。さらに第3位の人たちの症状が悪化している。

 そして、第1位、自分の趣味や得意な技術を磨いておくべきだった・・・と。えっ!このアンケートはどこに向かっているのか?第3位も第2位も第1位も「ただの不器用な人の独り言」である。明らかに「趣味と仕事」、「家族と仕事」、「夫婦と仕事」が分離してる立ち位置のコメントである。もしかすると、これらの人達は「自分自身と仕事」も分離していないだろうか?

 で、このアンケートを表記しているこの日経新聞のライターや編集者達はこの記事で何を伝えたいのか?これが新聞の価値が失速した一番の理由だろう。伝える手がいろいろな大前提を間違っている。というか、ある側面でしか洞察・分析できていないから、こんなアンケートを展開して、さもありなんで土曜日の別紙の表紙に掲載してしまうのだろう。自分が好きなこと我慢して、自分の家族とも子どもとも密度の高いコミュニケーションができず、ただ、60歳になった人達。そんな人達がこの日本に今後もあふれ続けていくとしたら、それを見ている10代、20代、30代の若者は何を人生の指針にすればいいのか?っていうお話。小さい頃から優れた教育を受けさせて、グローバルな人間に・・・とはよく聞くフレーズだが、さてさて、このフレーズの語感の中にある「教育」の定義がぶれていないことだけを、ただただ、願うばかりである。

 もうすぐ4月。日本では出発の時期である。ただ、出発するタイミングは自分で決めるべきである。赤信号はみんなで渡っても危険だし、赤でも青でも車が走っていても、その間隙をすり抜ける脚力と判断力があれば、いつでもスタートすればいい。それは、春に限って足並みそろえて、鼓舞しあう必要はないのである。あと、12年で私もその60歳になる(癌や大事故や災害に会わなければ)だろうが、やはり、人となりにいろいろ考えるのだろうか?それを通過点としてさらにブラッシュアップするベクトルでいられるのだろうか?無意味に深刻にならず、このふわふわした気持ちでさえ楽しめるようにこのままオプティミストで行きたいものである。

中国人の本質、日本人の本質。

 「男脳中国、女脳日本」という書籍があるそうだ。「なぜ中国に進出した日本企業が連敗なのか?中国人が働くルールを知れ!」というメッセージが込められている。なになに?日本人男性は大陸の落ちこぼれ!?在中10年、現代中国事情を誰よりも深くしる著者が、近くにいながらわかりあえない日本と中国の関係を「男と女」に置き換えて刺激的に分析しているらしい。なるほどなるほど、これは結構ガチでリアルな臭いがするぞ。日本男児が女脳とは?どういうこと?そもそも何を「男と女」に置き換えているのか?とても興味が湧く。「騙すと騙される」の仕組みが根底に流れていると著者は言っているが、そんなのお互い様でしょうし、人と人など常に50:50のGIVE&TAKEなのに、わざわざ、「男と女」に代入する変数ってなんだろう?「あああああ・・・」となるか、「そんな、なんでやねん!」となるか、とても興味津々である。

 で、分かりあいたいと願う強さはどちらが上かとか、女の感性と男の感性、どちがらどうでどこへ向かっているベクトルなのか???集英社だけに興味がありますね。

デザイン=設計か?

 そもそも「デザイン」という語感の中に「設計する」というニュアンスが多分に含まれている。それを細かく分解していくと「描く」「書く」「創る」「複製する」「思う」「動く」などのパーツに分解されるが、基本的に素材を組み立てるわけで新しい元素と元素に化学反応を誘発させてボワン!と新薬を創るみたいな部分も言わばデザイン。しかし、あまり「デザイン」という言葉を乱用するのは個人的に好ましくないと考えている。だから、文脈の中で「デザイン」という語彙の使い方には慎重になるべきだと考えているし、人とのコミュニケーションの場において、「自分のデザインスタイルは・・・」とか「このデザインの方向性は・・・」などとあまり安易にデザインという言葉を使わないようにしている。同じようなTPOならば「イメージ」や「ニュアンス」や「フィーリング」という語彙の方がいろいろな意味合いを包括していると考えているのでその言葉をチョイスすることが多い。さりとて、「イメージ」という言葉についても細かく分解して遠心分離すると、試験管の中にはどのようなエレメントが存在するのだろう。まぁ、そんなに深く考えずにもっと感覚的に行きましょうよ!とこれまた「感覚的」という言葉に泥酔している人も多いが、それを言うならば、「感覚的」についてもっと掘り下げましょか・・・となる。イチイチこんな風に重箱の隅をつつくことはさすがに日常会話でする必要はないが、これだけ、ネットでいろいろな文字や文脈が溢れていると、一つ一つに注視していても仕方ないが、脇の甘い文章も多い。

 って、自分の脇の甘さを棚に上げ、「脇の甘い文章も多い。」などと書けてしまうのもブログの魅力ですね。だからって、あなたがどこでどんな酒を飲んでようが、あなたが誰とどこで出会っていようが、そんなことをブログやSNSで知ったところで、他人の時間を得たことが何になる?ザッカーバーグだって、SNSの仕組みを創ったのは、例の彼女のことを知りたかったからだろうし、創作者の意図がここまで世界に一人旅をするとそれは創造なのかな?それとも何か人として大切なモノを破壊させているのかな?というジレンマに襲われてしまう。だから、あまり、SNSに興味はない。こうしてマイペースに書き下ろせるブログが楽しい。誰に読んでもらうということではなく、自分に対して向き合うために、文章化してサーバに残すという意義のためだけにブログは書いているようなもの。それ以上それ以下の何ものでもないあたりが実はデジタル文化の適正値のような気がしますね。

 仮想の妄想に翻弄されぬよう。デジタルはデジタルに、アナログはアナログに、それぞれのバランスを楽しみたいと思います。

水の中の時間。

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 で、こちらが優衣さんの作品。このクラシカルでアカデミックな世界観。自分自身がなかなか他人の絵に引き込まれることは数少ないが、このモノホンには引力がありました。ゴリゴリではなく、シャープに引き込まれる感覚です。リアルな作品の引力です。これはネット上やペーパーの複製物では絶対に表現できないリアリティーです。優衣さん、本日は、いろいろお話ができてとても有意義でした。今後とも何卒、よろしくお願いいたしますという感じでございます。東京のプロジェクト頑張ってください!

小柳優衣さんのWEBサイトです。http://yui-koyanagi.jimdo.com/

優衣さん。

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 はい、大切なのは「感謝の気持ち」ですね。

小柳優衣さんのWEBサイトです。http://yui-koyanagi.jimdo.com/

全てに正解はない。

 らしくないポジティブさにはやはり当然自ずと限界がある。それよりも淡々と何事もフラットに受け止めた方が適正な判断ができるというもの。期待せず落胆せず。何か問題が起きた時、多くの人は必ずその問題を解決するための正解があると信じているが、現実はそうではない。時に正解などなしということが答の場合もある。つまり、事実を受け止めず、無理苦理なポジティブシンキングで描いた仮想の正解と現実のジレンマにネガティブになっているだけで、普通考えたらそんないい結果が次から次へ出せる道理はない・・・という場合の方が圧倒的に多いのが現実。ありのままを受け入れることも大切ってこもある。オプティミズムでいいんだと。冷静になれないと目の前の真実が歪む。まぁ、こんな時はテンション上げてても仕方ないので、「まぁ、いいか」となれるかなれないか。あまりにも無責任は信頼を失うが、適当にほどほどがいい場合って多いですよね。実は「ボチボチでんな!」が一番いい状態かも・・・。

「コツ」のお話。

 「知」を言葉に置き換える時「形式知」と言語化は難しい「暗黙知」という分類があるらしい。スポーツで習得の肝になる「コツ」は後者の領域。言葉にできない部分があるからコツの伝授は指導者にとっても悩みの種になるらしい。確かに!その道を極めた名人の中には「腰を入れてダーンと振れ」などと語って笑われる人がいるが、そもそもが暗黙知の領域なのだから感覚的になるのはやむを得ないというお話。そういう感覚の世界をITを使って少しでも解きほぐせないというアプローチがいろいろあるらしい。それを「センシングデータ」と呼ぶらしい。身体に幾つかのセンサーを付けてデータを取得しグラフ化する。そのグラフを見れば上手と下手の身体の使い方が一目瞭然という仕組み。こういうアプローチがどう広がるかは未知数としても、昨今の子どもたちのスポーツ離れを繋ぎとめる言わば「蜘蛛の糸」なのだそうです。何かを失敗するたびに「どうしでできないんだ!」と頭ごなしにコーチに叱られる。それで運動嫌いになるわけですが、実は教える側の根気と説明が足りないだけなのかもしれない。タブレットのような端末がもっと普及すれば教え方は変化するだろう。どこをどう修正すればいいのか、画面を見ながらゲーム感覚でコーチと選手が協議するという仕組み。ただ、スポーツにおける「正しい」はかなりふわふわしているから、同じスプリンターでもボルトと福島選手では「正しい」が分かれるだろう。最大公約数的な「正しい」をロジックにするのもある意味で正しいかもしれないが、別のベクトルもあることを想定する必要があるだろう。つまり理想のフォームとは十人十色なのである。それを大前提に個人個人の特性を知るひとつのきっかけにITが活用されればその価値も増すのだろうという仮説である。

 例えば、会社のエネルギー使用量を「見える化」しましょう!組織のコミュニケーションの構図を「視覚化」しましょう!とIT企業は連呼するが、それはどこまで行ってもある側面にフォーカスしているだけ。本当に見えているか見えていないかを判断するのは上記のように「暗黙知」の領域。だから、どれだけ「形式知」を先端技術で最新技術で具現化しても身体や心は反応しにくい。つまり、見えているとは視覚も知能も機能も経験値も全てが潤滑にシームレスに同期しなければ「会得」「知恵」「人間性」には覚醒しないということだろう。さてさて、どこまで、人間本体がITを活用するかだが、実は、誰かが誰かをコントロールするために情報がデジタル化されているだけという仮説の方がリアリティーがあるように強く私自身は感じている。ここを一刀両断に「教育です。」とか「ビジネスモデルです。」と言ってしまうまで人間は進化していないような。もっと、脳幹レベルの刺激を求めているような気がします。

格好悪いがカッコイイ。

 大活躍中のプロテニスプレイヤー錦織圭君。昨晩、彼のテレビ番組が深夜にあったので録画しまいた。錦織(にしこり)さんはさらに世界の上を目指すために「格好悪く勝つ」という新しいプレイスタイルの確立を目指している。強引にスタイリッシュに得意技を磨き強引に攻めるのではなく、決して攻め急がず相手のミスを誘い、粘り勝つというスタイル。言わば「我慢のテニス」こそが世界を制するために必要なアプローチだと考えておられるのだろう。独自のトレーニング方法で長時間のラリーに耐えられるような身体づくりを進めているということなどをテレビプログラムとして紹介しているのだろう。昨晩は観れなかったので今晩録画を楽しみにしています。

 なるほどなるど、「格好悪く勝つ」か・・・。世界の頂点とはそういうモノなんだろう。とてもリアリティーのある言葉ですし、それがガチの世界だろう。会議で議論してひとつの結論を捻り出す時、どうしてもスマートに粋にスタイリッシュにと考えてしまうのは本丸ではなく決して芯は喰っていないということだろう。会議で出た結論が正しいか正しくないかではなく、会議で結論など出ないが正しい。そんなに頭でイメージしているどおりに行くことなど現実の世界ではない。そんなのはゲームソフトの中だけの絵空事。現実は常に変容している時間の軸の中でどう変化するかを動いて創って考えている人が正解。変わりつづけるということは言わば小さいサイクルの破壊と創造を再構築再構築を繰り返している。つまりこれは量子論になるのですが、それが生物のベースにあるのだから、デジタルプログラムの中に逃げ込みたくなる生物としての微弱な知性も理解はできるが、絶対にそこにリアルはない。イメージを「格好悪い」にフォーカスできる人はとてつもない高みが見えているのだろう。いわば、「勝利」のその先が見えているのだろう。日本男子初の快挙からさらに上の高さまで突き進んでほしい。

 「格好悪い」が「カッコイイ」の時代なんですね。

コンテナ。

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 ある場所の隅っこに放置されていたコンテナ。なんとも雰囲気がありパチリ。と、最近、撮影しているモチーフがどうも妙な傾向にある。言わば「しょうもないモノ」が多い。それは撮影するほど価値があるのか?といつもちょっと気になっているが、何故かどこか気になるのだから仕方ない。その風景や対象を見て何を感じたから撮影したのか?はあまり関係ない感じ。すべてたまたまが多い。逆に何か写真を撮影するぞと山やびわ湖に行っても撮影したいカットにめぐり合うことはない。ここに何か一定のルールみたいなモノがあるのだが、それは自分自身でも不明。ただ、半日粘ってこんな夕景を撮影したいとか、この場所だけに咲く花をもとめて山を1日中歩くというこはしない。それが写真を楽しむ場合のテッパンなのだろうが。自分は写真家ではないし趣味が写真だというわけでもない。ましてカメラマンでもないので、「写真」に対するこだわりなどたぶん0以下のマイナスだろう。

 で、「写真」って何だろう?と考えてみると、時間を切り取っている訳で切り取っているのは時間といっしょにそれを撮影した時の自分の気持ちでもあるはず。ならば、「美しい」は最低限求めていないし、「感動的」な風景や情景も求めていないことになる。つまり、自分の時間というか自分の気持ちが決して「美しい」や「感動的」に向いていないことが自覚できるのが自分自身にとっての「写真」であるという定義になる。では、「自分の時間」というのは一体???となるが、別に「写真」でなくとも時間は刻印できるし、記憶のためのアーカイブだと捉えると、なんとなく気持ちとマッチする感覚もある。

 ではでは、この「コンテナ」と私の「記憶」の関連性はいかに?

うずまきか・・・。

 福岡先生の「動的平衡」は素晴らしかった。いやはや、しかし、「うずまき」か・・・。なるほどなるほど、そうきてこうきてこう落ちるのか?サスティナブルって感じなのですね。さてさて、次は「2」だ。

変化する者。

 さてさて、そろそろ、時間的に2011年を包括するタイミングかもしれません。今年はどんな年だったか?なかなかこんなブログで全てを総括するこは難しいですが、「3.11」を抜きに2012年の日本を語ることはできないでしょう。もし、滋賀県がそのエリアだったら、福井に津波が押し寄せ原電の放射能が漏れてたら今頃こうしてブログで「総括」を書いている状態ではなかっただろう。東北の皆様は仮説住宅や避難先で実際のところどのような年末年始をお過ごしなんだろう。あれからというものの、「日本はひとつ」「頑張ろう東北!」的なノリのイベントや事業に出くわす度にそんな表面的なことでほんとうに東北の皆様は心が和むのか?そんな他人行儀なことで、こっちとあっちみたいな線を引き、「ひとつ」って言いながら、どこまで心で歩みよっているのか?と思ってしまうこともしばしば。しかし、自分自身が被災地に出向き支援活動をしたわけでもなし、巨額の支援金を提供したわけでもないので、実際は何もできていないがリアルなのです。だから、いくら「絆」は大切ってことでも物理的に何を持って「絆」とするのかは結局ふわふわしてしまうわわけで、現実は支援のお手伝いにも出向けない。ただただ、遠い琵琶湖の湖畔からこうして「頑張ってください。」と思い綴ることしかできない。

 また、原子力発電所や日本の政府の不透明さを綴る新聞記事やテレビ番組を観るが、まぁ、本当の悪人はいつの時代にもどんな組織にもいるでしょうが、それを煽るだけのメディアと同じ視点で同調・同期するのか反目するのかの違いで、本当にこの「3.11」をリアルな出来事として捉えているかという軸があるように思います。で、言うと、それを記事にして、それをテレビ番組にして何がどうなる?と思ってしまう。戦争の悲劇、激動の明治維新、戦国時代のリアル、どれもこれも、終わったこと。無理苦理、古いアルバムを引き出してきて、自分の消化不良度合いをそのアルバムにぶつけてもそれは何のため?もっと建設的に生産的な時間を送らないと、日本は世界は結構ギリギリの状態だと思うのです。古いアルバムはもう閉じて、新しい白い紙に自分達の手で新しい絵を描いていこう!みたいなノリがテンションがモチベーションがより大切な一年だったように感じました。

 で、2012年もよりサバイバルな時代になるでしょう。ダーウィンは言っています。サバイバルで生き残る者は「強い者」でも、「賢い者」でもない、「変化する者」だと。イグアナの爪が伸びたのも、海中の餌を捕獲できるようになったのも変化。今いる場所が危険ならば動くべき。今立っている場所が自分に合わないのなら移動するべき。今考えているパターンで答が出ないのならば結果が出ないのであれば、そのパターンを捨て新しいパターンにトライするべきだと思います。古い機能しない知識や知恵や技術に固執して時間を浪費するぐらいなら「変容」を受け入れて絶対に生き残りたいですね。というか、ちょっと伸びた爪をサボテンの幹にぐっさり差し込んで息絶える感じ。俺の進化はここまでだったが、皆さんはこれを見て、サボテンに登って生き残ってくださいね的な一匹目のドラゴン(イグアナ)になりたいかな。

脳の進化とリスク。

 老化に伴い脳の認知機能が失われる症状は人間だけの特性らしい。同じ霊長類でもチンパンジーは長寿でアルツハイマーにかかってもおかしくないのだが、これまでに発症した例は見つかっていないらしい。人間と他の霊長類の脳にどのような違いあるのかという考察。アルツハイマーとは神経細胞が30%から70%死滅し脳が委縮するような現象を指すが、猿やチンパンジーはアルツハイマーまで進展しないのか?それはどうやら人間の進化と深い関連性があるらしい。それは逆に人間のように進化しなかったことで危険性を回避したとも考えられてるらしい。人間は他の霊長類と別の脳の仕組みをそなているのではないかという仮説とは何か?人間とチンパンジーの違いのひとつに血液中の尿酸値が高まり関節炎を起こす痛風がある。猿やチンパンジーは痛風にかからない。尿酸を効率よく分解する酵素を持っているからである。ところが人間は進化する中でこの酵素を無くし、尿酸を残す道を選んだ。尿酸は活性酸素と反応して毒性を弱める作用があるために寿命が延びる。それと引き換えに・・・みたいなことなんだそうです。人間意外の霊長類との比較研究から人らしさを突き止める多くのヒントが得られるのではないだろうかとこの記事は締めている。

 なんと、進化は時に何かを与え何かを奪っているという理論を科学的に捉えるならそれは白か黒。しかし、それは進化のある極わずかな部分だろうし、人間が人間の進化を捉えようとしているアプローチであることから、どこか道義的な作用もあるだろう。猿が人間のことを研究はしないだろうし、人間だから、人間ありきの進化論はさてどこまで進化の真髄にアプローチできているかということ。脳生理学についても、物理的に病理的に脳を解明しようとすると臓器としての脳細胞に研究者の意識が介入してくる。その道のプロではないし、別段どこかから研究予算の投資を受けているわけでもないので、そこに日々のエネルギーをフォーカスできない。恐らくそういう人がほとんどだろうから、結局、進化と時間軸についてあまりリアリティーを成さないが大多数の正論となる。でも、脳は好奇心を失わない。進化が具体的に日々の生活や個体個体の人生観にどのような影響を及ぼしているかを知りたい人は多いはず。そのニーズに答える数多の学術的な研究が大きな流れの中で分離してフラット化してトレンドやメディアやネットの世界に伝導しているはず。それらひとつひとつを精査して論化することは普段の暮らしの中では難しく意義を見つけにくい存在というか明確な意識下に置くことはできない。でも、恐らくこれらのエレメントはファッションの中にも工業の世界にも教育の世界にも宗教の世界にも介在しているだろうし、「進化」を人間という遠心分離機にかけた時、何と何に分離して有用なモノと無用なモノに分かれるような気がします。その段階で何を持ってリスクとするのか、何をもって進化とするのかを落としこまないと、必ず大切なサインを逃すような気がします。脳が示す感情や記憶を文章化・論化することと合わせて、これらのことを時にシリアルにパラレルにとらえながら、またある時流線的に考察する時間も必要だと思います。それが何か?具体的にどうすれば?で、それはどこに向かっている?となるが、そうではなく、今現在の感覚や感情をどこまで細かく分解できるのかみたいな。

 ふと、営業中に車中から見たある企業の看板にこう書かれていた。「「愛」それは心のタテ糸。」と。非常に緩い切り口であり、「ヨコ糸はなんやねん!?」とツッコンでおいたが、もし、これを考えた人の中に「進化」のそれがあり、脳がその信号をこの文脈に完結させる意図があったとしたら、意外と深いアプローチかなとも感じてしまった。恐らく、「ヨコ糸」のことは考えていないだろうが・・・。

 つまり、サインは人それぞれの条件下で異なるということだろう。それを同じしようとしている仕組みは多いが決して人間はそうならない「良さ」と「悪さ」を内在させていると思います。

グレイトフル・デッドというバンド。

 オバマ大統領もスティーブ・ジョブスもこのバンドから学んでいた!ということだが、いったい?その仕組みはというと、ライブは録音OK、音楽は無料で聴き放題。それなのに年間5000万ドルも稼ぐ。40年前から「フリー」も「シェア」も実践している。ビートルズよりもストーンズよりも儲けてしまったヒッピーバンドの秘密!となっている。これだけを読んで、さぁ、どう判断する。恐らくこの情報、芯を喰っているだろうが、バンドとしてのそれは普通な印象がある。仕組みだけが受け入れられて結果稼いでいるような。でも、5000万ドルは素晴らしいじゃん!時代のニーズ的な部分を先行させていたのか、その部分が狙ってか結果all rightなのか、たぶん、非常に複合的だろうと推察するが、結果、そうなるにはこのバンドの音楽に対する捉え方や個性的な部分が核にあり、既存の仕組みで自分達の表現が波及することに疑問を感じた何か「ひっかかり」があったはず。それを見逃さなかったのだろう。かなり気になる一冊ですね。

 最近、JAZZについて考えることが多く、どうも、「JAZZとは何か?」を頭で考え過ぎている帰来がある。これではまったくJAZZに一歩も歩み寄ることはできないと知っていても、何もすることができないがリアル。何かする必要があるのかとも開き直るが、そりゃ、向こうからJAZZはやってこないから、こちらが動く必要がある。でも、JAZZって何だろう?何をどうすれば、JAZZが体感できるのだろう。本格的な上質なライブに足を運び、五感でJAZZを感じることが唯一の近道のように思えるが、そんなことはできない。そんな時間があれば仕事をしたい。つまり、こういう人間にJAZZは降りてこないってことかな?ということは、JAZZが降臨してきた人って逆にどういう人なのか?「僕はJAZZを長く聴いて、レコードもたくさんあるんです。東京ではあれもこれもいろいろなライブを観ましたね。」という人は、JAZZな人なのか?十数年前からライブハウスに入り浸り酒とタバコとJAZZな生活をしていたから、JAZZな人なのか?いやいや、それはちょっと違うでしょう。私は、JAZZを語れる人っていう条件は、何か楽器ができて、なんでもいいからJAZZのナンバーを演奏できる人だと思う。プレイヤーしかJAZZを語れないような気がする。つまり、いくら収集してもライブに足を運んでもたくさんのスタンダードなナンバーを聴いてきたとしても、それは、そっち側の人。JAZZを共有するには、JAZZにダイブしなければ始まらないような気がするのです。そこらか全ては始まるような気がします。

 絵を描かない人が絵を語るようなことにならぬよう、ならぬよう。恐らくJAZZはそこにあるはず。

SOCIAL QUOTIENTか。

 「かかわり」の知能指数を「SOCIAL QUOTIENT」と言うらしい。いわゆる、「IQ」から「EQ」からの、「SQ」ということ。「なぜ、若者たちはお金より人の役に立つ仕事を望むのか?」「なぜ、女性たちは高級外車よりエコカーをカッコイイと思うのか?」「なぜ、父親たちは郊外のマイホームより職場の近くに住むことを望むのか?」などなど、ちょっと気なるキーワード・フレーズがある。そういう時代なんだろうと、そこを軸足に考えを広げるといろいろなリアルが見えてくるような気がします。

 例えば・・・、なにかにつけ「SOCIAL」は今後のキーワードだろうと思うが、そもそも?というニュアンスもある。日本語にすると「かかわり」となり2011年のひと文字!っていうことで「絆」みたいな便利な言葉があるが、「絆」と「かかわり」というニュアンスは深いはず。親子の、社会の、日本の、みたいなことでこれらのニュアンスが3.11後よりリアルになっている。それはそうであり時勢の潮流的にも、スタンダードに人間の社会性や経済の仕組みを分析してもそこに「絆」は必要だろうということになる。しかし、ここでも、そもそも、では、「かかわり」とか「絆」にわざわざフォーカスせざるを得ない状況だということ自体が問題視されるのかな?そこを特筆するようなことって逆に・・・とならないかと思うのです。

 なにごとも「作用と反作用」なんだから、SQ値が高い人が社会的に求められていますということで、その高さの基準値をどこに設定して、どうならどうで、どうならどうなの?といういわば、水掛け論に陥るような気がしなくもない。そこに一緒にフォーカスしましょうよ!こんな時代ですから絆は大切。人と人のかかわりが希薄になった希薄になったと煽っておけば、絆がビジネスになり、かかわりが利益になる仕組みを創りたい、これが、最終目的だとしたら、そもそも、かかわりのあった人に対してもあらためてあなたとの「かかわり」を・・・とか、あなたとの「絆」を改めて鑑みますところ・・・みたいな、ギクシャクな感じにならないかな?もう、「かかわり」も「絆」もありきの大前提でナチュラルに力まずに考える自然体な人間になるための(というか自然体であることを)無意識と意識の中間のような場所を共有しましょう!でいいのではないだろうか。

 猫も杓子も右向け右がどうも、どうも、メンドクサイ。

 って、やっぱ、一番大切なのは基本的に今も昔も「IQ」でしょうみたいな。

5/100という実数。

 これは決して消費税の率ではない。仮にあるところに1億円があったとする。それが、いくつかの過程を経て最終的に500万円になっているという仕組みのお話はあまり世の中に流れ出していない。このリアルは放射能よりも流れ出していない。この構図というか仕組みは言わば言わば「日本の仕組み」に深く関係しているからである。文化・歴史・経済・流通・教育・宗教すべてに。

 ある意味この数値は緩い設定値だとも言えるし、ある意味において厳しい数値だとも言える。単位がリアルに「円」だけに、誰も感覚的には理解できるだろうが、そんなことが本当に起こっているなどとは100%誰も知る余地はない。こっち側の人間ならば。

 しかし、これがただマスメディアのお話でなくとも、多かれ少なかれ同じようなことが社会構造として起きてきた。というよりもこれが日本経済の根幹を支えてきたとしたらそれはそれは崩壊して当然。何も日本が崩壊することは誰しも望んでいないだろうが、崩れるべき城はエゴと欲のシンボルかもれいない。昔から。人間の歴史は破壊と想像。それを繰り返しているだけならば、築くのは誰で、崩すのは誰だ?

 5/100という実数はとても身近にある数値である。

「学問のすすめ」では。

 ユキチフクザワの「学問のすすめ」が刊行されたのは明治5年。新しい時代の幕開けに、明治人が持つべきメンタリティーを説いたこの本は当時300万部を超える日本最大のベストセラーだったらしい。今、平成の世にこそ、この時代に生きている若い世代にこそ、このユキチフクザワのメッセージは伝えていくべき芯を喰っているような気がするというテイがあるらしい。日本の歴史にあまり興味がない私はそのあたりがまったく暗く、どのような時代背景の中でどのようなメッセージが込められていたかについてのディテールが皆無。それがまさに現代に精通する実学のそれだと言われても・・・。それが示す方向性とは「自分にとって必要な学問とは何かを考え、探し、選び取る。そういった行為こそが、ベーシックなものとして根底に流れている必要がある。」と説いている。

 さてさて、いい大学を出て、いい企業に就職できれば、30代に課長になり、40代で部長になり、50代で・・・、そして、無事退職後は悠悠自適の年金生活が日本人のテンプレートだった。しかし、それは過去の話。もう、そのテンプレートが通用・適用できる企業が今いくつあるだろうか?みたいな現代。若者はこの社会のどこに期待をすればいいのか、依存する先はどこか?ということが現代の大学の講義の大きなテーマらしい。なるほどなるほど、そりゃそうでしょう。高校生・大学生の諸君、地頭はありますか?思考の自肩は強いですか?ポテンシャルの脚力はありますか?という警鐘。

 なぜ、今更「学問のすすめ」なのかということもあるが、一旦経済のピークが過ぎ、混沌としたカオスの時代だとか言われて何がどう変容したのか?それをどう受け止めてどう考えてどう動くか?それが、ひとりひとりに投げかけられてる。そのための教育期間であるとすれば、到底、ゲームやインターネットやデジタルデバイスに一喜一憂している場合ではない。一昔までのエキスパートが職を失い、その歳で何を言っているの?的な社会人1年生のような人と出会うと愕然と現代のリアリティーを体感する。さてさて、そこで自分自身はどうかと自問自答するが、またこれが、何年この世界で飯を食っているのか!とどやされることばかり。失敗に失敗を重ね、さらに、失敗の穴を掘っている状態。危機感はあるし、好奇心もあるし、試行錯誤も自己研鑽もしているつもりでも、振り返れば自分の歩んで来た道は大きな穴ばかり。よくその歩き方で崖に落ちなかったかものだとふらふらの綱渡りだった。これからも、恐らく、この綱渡りは続く。よく、ゴールを設定しなさい的な啓蒙書を読むがまったく無意味である。どんなに細かい分析をしてもこの世にゴールなどない。あの穴を飛び越えた時がゴールだったのか?とも振り返るがたぶんそれは違うだろう。

 「学問のすすめ」か・・・、ちょっとユキチフクザワの世界に興味が湧いてきている。

3%の真理。

 世の中には少数派がいて、昨晩読んだ本にはエキスパートではなくプロフェッショナルになれと書いてあった。これが京都大学の医学生に対して講義をしている方の言葉だからどこまでどうなのかという視点はさて置き、これからはリベラルアートの時代だということ。これまでの常識や伝承されてきたことがなかなか活用できない時代になりますぞというお話。そもそも教養とは古い奴隷制があった時代に、奴隷のような仕事を一生する身分から抜け出すために人々は語学を学び知識を獲得することに取り組んだと書いてあった。確かに、なぜ?教養が必要なのかという真理の根底にはそのような自分自身を高める要因があったはずだろう。教養を得るということは言葉もしゃべれない人にしてみればかなりハードルの高い作業だったことだろう。しかし、義務教育のある国では一般教養ということを経て社会に出る仕組みが確立されている。確立されているが・・・という部分だろう。これがパンキョーと学生の間で呼ばれている一般教養課程だそうである。

 そもそも京大の医学部が起業講座を何故受けるのか?という疑問が次に出てきたが、医学部に進んでおきながら40%の学生が「起業講座」を受けているらしい。つまり、医師免許を持っているだけではこれからの社会構造においてさほどアドバンテージがないと彼ら医大生は考えているらしい。逆に頭のいい学生達は医師として社会にでるメリットとデメリットをジャッジした結果、企業講座を受けているということらしい。なるほどなるほど、医学の現場も大変なのである。

 で、ある友人が「お前は少数派だな、たぶん、3%以内だな。」と私に言った。それは、タイプ的な部分や諸行の部分、そして、思考パターンの意味でか、とにかく、100人暫定的に人がいれば、お前は確実に3%以内の人間だという。たぶん、恐らく、間違いなく、学歴や公認的免許のお話ではない。学歴など無縁の人生だったし、免許と言えば、車の免許とロッククライミングの免許しか持っていない。なんとか師とか公認なんとかエキスパートとかというテイも興味はない。おそらく、一般ゴルファーの中でシングルさんは3%だという話からこの話になったような記憶があるが、「絵が上手い人」も恐らくこれぐらいの確立だろう。この話の流れを一旦総括すると、少数派と多数派のパワーバランスはどうやら、少数派の方が幸福げに思えるような気がした。つまり、新車を買っても、ホイルを履かせない、カーナビを装備しない、DVDも付いていない、オートエアコンも付いていな、自動ドア機能もない、バックモニターもない新車を乗っているという段階でどうやらこの3%に属しているようである。しかも、イマドキ健康ブームの風に乗り、マラソンを始めない。マラソンは究極のスポーツのように捉えているが、どうやら、始める人の声を聞くといつでもできるからとおっしゃる。そして、自分のペースで続けられるからという理由で、こぞってなんとかマラソン大会に老若男女でエントリーするらしい。確かに数時間完走する体力と持久力の向こうには大きな達成感があるだろう。しかし、自分自身はそこにあまり痺れないし魅力を感じることができない。まずここで少数派なのかもしれない。

 少数派と多数派の違いが社会構造において何を意味して名に機能しているかは見当もつかないが、どうやら、自分自身が多数派ではないことに対して、複雑な気持になっている。いいこともあれば悪いこともあり、人生楽ありゃ苦もあるさと歌い飛ばすこともできるが、ほんと、いいことばかりではないのである。しかし、新車にカーナビをつけて休日マラソンをしてお酒とグルメを嗜み公認免許のテキストなどめくっていればこの危惧も納まるのか、そこに注視しなくてもいいのか。いろいろ考えてしまいます。

感覚とは推し量れないモノ。

 今、福島千里選手を育てた北海道の中村氏というコーチの書籍を読んでいる。北海道という環境で何故日本を代表するような選手が次々に生まれてきたかのか?いったいどのようなトレーニングをして福島選手は世界のひのき舞台に立ったのか?それを支えていたコーチの方の想いは?これらがこの書籍を買う動機である。自分自身も過去に100mと200mと400リレーをやっていたことで短距離という競技の入口の部分は体感しているつもり。

 学生の頃、記録会や大会に向けてパンパンの足や身体にムチを入れていろいろなトレーニングをしていたことが、この書籍を読みながら蘇る。もっともっと、本格的な陸上の練習をしたかったと遠い過去に後悔の念を漂わせても仕方ないが、少しばかりでも関わってきた人間としてこのコーチの書籍の中に散りばめられた言葉は重い。

 さらに、今後の、福島選手の晴れ姿に注目である。

 季節は冬、福島選手は今日も北海道で汗を流しておられるんだろう。

 本文のことをここであまり詳しくお話することはしないが、中村コーチのたくさんの言葉の中に、「感覚とは推し量れないモノです。それを、技術論や方法論で噛み砕いているように思えても、選手には伝わらない。たった10数秒の世界を選手は競い合っている。そこに、他人の理論や技術が介入する余地は限りなく小さい。」と。つまり、いかに足が早く動かせるかを感覚的に本能的に高める工夫やアイディアを考えることがコーチの仕事ですというニュアンスの言葉があった。まさにである。

 さて、定説や理論や技術論を振りかざしている人、この言葉をどう受け止めますか?それらは、モノゴトを収束させないのですね。言わば、ポイントマーカーでありノートに貼られた付箋のようなモノでしかないということ。本丸はそこにはなく、実際レースのコースに立つ人をどのように高めるかをもっともっと本能や感覚の部分で試行錯誤しなければいけないということ。

 デザインやアートの分野も同期であり、セオリーや先入観や経験値は時に大切なモノを見失わせる場合がある。言語にならない大切なモノ。最後の最後でそれは「見えているのか?見えていないか?」が分岐点となる。

低温社会。

 プライベイトや職場での人間関係の「温度」が低下している。ネットを通じて人とつながることが容易になり、メールを使えば気軽にコミュニケーションができる。しかし、ネット上では「友達」の顔色をうかがいながら過ごし、職場では人間関係が希薄になり、孤独を感じる社員が増えているという。コミュニケーションに異変が起きているらしい。それは結婚しない人が増えたり孤独死が増えたりすることからの分析・洞察だろう。ネット上のコミュニケーションは対人での関係のディテールと何が異なるのか。このあたりが入口のようです。ネットの利用者や利用時間が急激に増えている傾向も踏まえると、孤独は嫌だがリアルに対面するのはちょっと・・・みたいなことで、ネットのアプリの中で「友達マーク」が付いていたら「友達」になった気分になる。その「友達」のアイコンが増えることで、自分自身はネット上にたくさんのネットワークが広がったと誤解している感じ。この状態で安心しているから、次の一手を出しそびれ、いつしか次の一手の出し方もそれを高めるための好奇心も失速する。だから、コミュニケーションに異変が起きているなどと新聞の編集者が洞察してしまうみたいな構図だろう。

 内向きの志向が強く、比較的「熱い人」は敬遠される空気感。だから「なるべく空気を読む」や「なるべく相手と合わせる」といった傾向のコミュニケーションが通例となり意識がフラット化する。させる傾向にあるのだろう。同じ趣味だっていうだけで安易に「友達」が成立してしまうSNSはどこか本末転倒な印象がある。「互いの共通点に頼る関係は快適な一方、現実ほど手応えが感じられず、物足りないのでないか。」という意見があるらしい。あたりまえ当然のお話。仲間と褒め合うことでのちょっと寂しいコミュニケーション。それは、リスペクトではない。そんなネット上で褒め合うことになれてしまうとその心地良さがリアルだと感じて結局意識が内向きになる仕組み。人との摩擦を避け、ネットの中で同類同志で褒め合う先に何があるのか?そんな場所では「熱い人」は敬遠される傾向にあり、全体的な人間関係の温度が低下するという流れ。

 それに、SNSもまさにの部分で、意外と制約はルールが多くて窮屈。非常にメンドクサイことが多いことで、ネットにアレルギーを感じている人はリテラシーが低いイコール熱い人ということにもなっていそうな現代社会構造が見えてくる。確かに、SNSはメンドクサイ。さてさて、この状況をすでにマークは予見していたのであろうか?であるなら、それありきで社会に摩訶不思議な調和をもたらした功績はさてさて、大きいのか小さいのか?結果、フラット化する情報の動向に体温は低くあるべき?熱くあるべき?

心の洗い方。

 昨日は山元加津子さんという方の講演に参加させていただいた。思わずぐっとくるエピソードの連続になんとも心が洗われた気がした。そうかそうかこうして心はたまに洗わないといつしかホコリやゴミが付いてしまっている。で、ストレートに心や頭にモノゴトが入ってこないような悪さをしているんだと。たまには心のデフラグを最適化しないといけないと強く感じた。

 深いキーワードをたくさんいただけたのですが、中でも強烈に頭に残っているフレーズは「知っているのに伝えないことは悪だ。」という心理。これってすごい言葉ですね。この言葉を出せる人はそういない。皆、自分も含めて、獲得した知識とか有益な情報ってコレクションしてしまう。で、仕事とか自分に有利に働くような場面まで温存しようとしている。これって意識するしないに関わらず、人間のエゴみたいな本能みたいな部分で悪気はないのにそうしてしまってはいないかい?という問いかけ。意外とこのネタは誰にも言わず一人でニヤニヤしながら独り占めして結局自分の器の中で腐らせてはいないか?という言葉。確かに、世の中は何ごとも独占の空気が蔓延しているから、共有しなければと口に出しながらもどこか出し惜しみをしている人間。自分も含めてこんなことを繰り返してきたから今の日本になっちゃったのかなとさえも思えた。

 山元先生、なかなか、素敵ですね。そんな心が洗われる言葉の数々が散りばめられていたので、講演が終わり余興が始まりそうだったので、さっさと会場を後にした。シンプルで強い気持ちがあるならば、純粋に自分自身に対しても他人に対しても同じテンションで共有させましょうってこと。

ある次期社長さんからの刺激的な切り口。

 ある次期社長さんと昨晩飲んだ。彼曰く、「だまして奪うか信じて与えるか。」とのこと。うーん、真理ですなぁ。その調子で11月のゴルフを楽しみにしていますよ。そして、就任後、目の前で90を切ることを宣言しておきたいと思います。パターはフォームでもストロークスタイルでもありません。「入れるという気持ち」だけあればいいと思いますよ。

偉人の死。

 大き過ぎる業績とその名前を残して偉人が他界された。決して個人の偉業でないことは周知としても、その存在感が世界のクリエイターに残した遺産はあまりも大きい。恐らくパソコンのパの字も知らない人間がその魅力を感じてそれまで三角定規やディバイダや烏口でやっていた仕事をMACにマウスに持ち替えさせたのだから、言わば、強烈である。ほぼ、24年前の新宿でのお話。その間の進化にドップリと関わらせていただけた幸運を心の中で噛みしめながら、偉人の死を悔みたい。遠い日本の地から冥福を祈るクリエーターは想像以上に多いはず。ビジネスの現場で紆余曲折があり、体調の面でも2回の大きな手術をされたと新聞で知る。人間、ジョブスが伝説になるためのここがスタートラインなのかもしれない・・・。

虫、鳥、魚、こうもり!?

 世の中を見る視点のお話。モノゴトは時に主観を離れて、虫のようにミクロに、鳥のように俯瞰からマクロに、水流を生きる魚のように全体の潮流を見ながら、そして、時にコウモリのように逆の視点で捉えることで、先入観や固定観念で捉えたことが軟化・流動化して新しい発見がありますよというあれ。こんな杓子定規に何事も実現できれば苦労はしないが、こういうスタイルでモノゴトを見るという視点があるという知識・情報だけはインプットしておいてもいいかもしれない。人間の脳は主語を認知しない。「楽しい」「美味しい」「しんどい」という動詞だけを認知するということ。つまり、ミラーニューロンが機能することで、自分と他人、主観と客観の区別をするのが意外と意外、脳は苦手という仮説がある。なんか分かるような気がする。

 固定観念やセオリーに逆行するだけのコウモリ君だけでも、流れに流される魚君でもダメということだろう。個性が強くあることをただ主張するだけで実感し切っている人がよくいるが、これは、多面的にモノゴトを取らえられず、言わば、虫なら虫籠、鳥なら鳥かご、魚なら水槽、コウモリなら動物園!?で暮らしているそれになるのだろう。そこは生きる上で楽かもしれないが、振り幅は限定される。主観を強調しながら客観も調和させている人は強い。

じゃんけんの法則。

 いちびり川柳というノリがある。例えばこれが優秀作品。

 「じ ゃ ん け ん で  俺 も 出 世 が  し て み た い」。

 このいちびり感覚がなんとも素敵ですね。じゃんけんて「勝ち」か「負け」か「あいこ」しか結果がでないし、確率的には公平に1/3だし、結果を明確にするためにもこの法則はとても有効である。でも、何故、パーとハサミとグーになったのかまたリサーチしてみたいものです。これは世情的なAKBのあれに対してちょっといちびっている川柳ではあるが、にしても、完成度は高い。

 でも、世の中の出世の仕組みってそう考えると、さほど複雑でもないかもしれない。お家柄や性格や背景が出世には深く関係しているように思えるし、いやいや、実力の世界だから出世するためには、努力だけでしょうと確信している人も多いはず。だから、そんな二人がじゃんけんをして上司と部下の関係を決めたり、給与の査定額を決めるのが公平感がある。そもそも公平感にしてもただの先入観だし、結果、何を持って出世とするのかについても世の中的にそれほど単純でもない。

 で、僕はじゃんけんが強いと言う人がたまにるが、それこそ、「たまのたま」。人間自体が「法則」とか「公平」とか「出世」とか言い出したからそれに巻き込まれているだけ。そういう意味において、このいちびり度合いはなんともGOOD!

 いずれ日本の政治も閉塞後の抜本的な改革と組織づくりにこの手法を採用するだろう。

遠回りが一番近道と・・・。

 あるジャズギターのマスターからの一言。「何事も遠回りが一番近道でしょう・・・。」と。うーん、なかなか、なかなか、この言葉は出てこない出てこない。これって相当ですね。この言葉が出せる人って深さとか広さとか大きさとかって尺度は関係ない。何をどう語るよりも「見てきた人、動いてきた人、感じてきた人の言葉」です。これは今でもジンシンと心に響き渡っています。

 に比べ、まぁ、よくしゃべる人、まぁ、自負と顕示のオンパレードな人、何も自分の手を汚さずに動かさずに口だけの雄弁で生きている人、そんな人が霞のように思える言葉です。これをネットでも書籍でもテレビでもない、目の前にいる人に言われたら・・・どうします?そんな状況?そんな言葉を出してくる人がいるんですね、世の中には。それだけで感動しているのに、その方は意外と滋賀県内に住んでおられるという始末。こんな野良犬でも歩けば棒、いやいや、ゴールドバーに出会えるんだという感じ。

 この言葉、もしかすると、2011年度、私個人の「誰かに言われた最高のフレーズ大賞」かもしれないぞ・・・。いやぁー、響くは、これ。動いている人の言葉って鋭く温かく質量がありますね。言葉は数じゃないんですね。うんうん、兜はないけど緒は締めておこう。

複製不可なるモノ。

 デジタル時代の繁栄には「複製」というキーワードがそこかしこに適用できる。そもそも、技術の進化とはこの技術で全て包括できるような気がする。多様なニーズを商品化してレスポンスを得るために常にフロントを走っている人達は複製技術を進化させてきたとも言えなくない。沈滞している分野、失速している分野に言えることは複製のスピード感に追随できなくなったからの孤立であり、そこに元来の価値を創出できくなったことで必然的に降下しているのである。まるで、生物の世界の自然淘汰のような構造である。絶滅危惧種が保護されるの対象は生物だけのお話でビジネスモデルは絶滅しようが保護の対象ではない。熾烈な弱肉強食がそれ。サバイバルに生き残りたければ進化しなさいとどこかから声が聞こえるとか聞こえないとか。でも、そもそもの部分で進化という言葉、ある側面で便利で有効だが、ある側面で破壊や混乱をもたらしているとも言えなくない。しかし、世の中はバランスであるから二極化も必然であり、創造も破壊も必然なのであろう。

 「シェア(共有)」という本能の部分と「孤立」という頭脳を持ってしまった人間が協調性とエゴのジレンマで右往左往している間に障害競争をクリアしている脚力のあるランナーがゴールするみたいなことなんでしょうね。「仕事がない。」という言葉を悲痛に捉えると上記の考察から必然と捉える側面と偶然と捉える側面に分岐するが、さて、この場合の「仕事」の語感はどうあるべき?社会や経済の構造からはじかれそうな人が「稼ぎが少なくなって・・・」みたいな愚痴はどこか孤立の頭脳で自分の存在を擁護しているようにも思え、デジタル複製時代に自己のポテンシャルで共有すればいいことを心で理解していても、頭が反応できていない悲劇なんだろう。

 東大・京大のスマートエリートが現在ストリートで起こっていることを黙殺してきた結果、正解が誤解になる構造・法則。つまり、正解などどこにもないのだから、偏差値をいくら稼いでもリアル社会の綾の中でバックラッシュ・・・みたいな。

 ラインが出せなきゃルアーはキャストできないぞ、ルアーを動かせても反応させなければバスは手の中に落ちてこない。しかし、バスを釣ってもリリースすることが全体のモラルなんだから、何故、ルアーを投げるのか?と開き直ることは容易いがそれがバスフィッシングですからって感じ。つまり、複製不可なるモノとは、自分の手を汚して濡らして傷つけながら得た獲物であり、それは、得ているという実感ではなく、たまたま、今だけ手の中にあるという感覚でいいはず。複製して所有していると勘違いできるならそれもいいが、数多の原理をひも解き自分の存在をそこに見出せたと勘違いできるならそれもよし。結局、所有と共有のジレンマを繰り返しいつか炭素に還るだけなのだから。

 で、今、何にディテールを感じますか?五感は何をキャッチしていますか?独占しようとは考えずに共有しようとすればすべての摩擦が最低レベルに落とせるはず。摩擦を減らして誤差なくし違和感がなくなれば、必然的に感覚は研磨され時間の流れが自分自身のパスルとシンクロするはず。そこが結局一番気持ちいいことのような気がしますね。この法則はたぶん古今東西の数多の概念や宗教や哲学が分析・論化しようとしてきたことであり、その一旦を知識として得ていても実際、飯が食えなきゃ生命は維持できない。まぁ、このように文章化している段階でもうヨタ話・虚像・井戸端のつぶやきなのですから、ブログってここが限界点なのでしょうね。

ドアーズさん今日はお休み!?

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 今日は土曜日、そうかそうか、設けている成功しているデザイン会社は土曜日が完全に休みなんだ。素晴らしいことですね。しかし、デザインやアートのビジネスにおいて休日は正確にはないはず。システム化し生産性を高めようとする結果、一般の会社と同じような形態であることが、そこに働く人の気持ちをいい状態で維持させるのでしょうけれど、デザインやアートに携わる人間のいい状態っていうのは(勿論、十人十色なのですが・・・。)どこまでもマイペースであることだと考えている。浮かれず落ち込まず語らずとも語る術こそが「デザイン」であり「アート」の本質。でも、語るべき必要のないことを語り、文章化できないことを無理苦理文章化しようとすると、必ず、その澱が浮く。遠心分離される血液のように人の心が分解できればいいが、非言語たる芸術を浅い知見で紐解くのはナンセンス。まして、何も創っていない創れない人に限り蘊蓄が多い。そんな取り繕わなくとももっと正直になれば楽なのに。

 ドアーズの皆さまが今、そういうサラリーマン集団ではないことを期待する。

贈り物。

 最近出会った、あまにも素敵な文脈なので全文紹介します。「メディアの危機に際会して、僕がいちばん痛切に感じるのは、この「これは私宛ての贈り物ではないか?」という自問がどれほどたいせつなものなのかを僕たちが忘れはじめていることです。この自問の習慣のことを、かつてクロード・レヴィ=ストロースは「ブリコロール」という言葉で説明したことがあります。「ブリコロール」というのはフランス語で、「日曜大工」とか「器用仕事をする人」とかいうことですけれど、要するに、「手元にある、ありあわせのもので、なんとか当座の用事を間に合わせてしまう人」ということです。資源の乏しい環境におかれた人間は「ブリコロール」的に生きる他ありません。山奥で暮らすとときとか、ヨットで船旅をしているときとか。そして、人類史のほとんどの時間を人類は「手元にあるありあわせのもの」で間に合わせるしかないという状況で生きてきました。あれがないから、ちょっとコンビニで買ってきて、というわけにはゆかない。ですから、「ブリコロール」的な潜在能力は僕たちの生得的なビルドインされているはずです。マトグロッソのジャングルの中で採取と狩猟の生活をするインディオたちが限られた資源を最大限に有効活用するために、環境に対して独特の踏み込みをする習慣を持っていることを知りました。ジャングルの中でふと目についたものがあると、彼らはそれを熟視して、こう自問するのです。「こんなものでもそのうち何かの役に立つんじゃないかな?」。これこそすぐれて「ブリコロール」的な問いなのです。この言葉はおそらく沈黙交易の起源において、テリトリーのはずれで、「なんだかよくわからないもの」に遭遇して、それを「贈り物」と考えたクロマニヨン人の考えと、本質的には同型のものだろうと思います。その「なんだかよくわからないもの」がいつ、どのような条件の下で、どんなふうに「役に立つ」ことになるのか、今の段階ではわからない。そもそもその価値や有用性を考量する手持ちの度量衡がないからこそ、それは「なんだかよくわからないもの」と呼ばれているわけです。でも、ある種の直感は、それが「いつか役に立つ可能性がある」ことを教えます。そのような直感が活発に働いている人だけが「いつか役に立ったときに「ああ、あのときに拾っておいてよかった」と思っている自分の感謝の気持ち」を前倒しで感知することができる。だとしたら、それは、さしあたりは意味も有用性もわからないものですが、その人にとっては、すでに「贈り物」なのです。映画でよくあります。登場人物が物語の途中で、何かを拾う。あるいは置いていこうとしたものを、なにかのはずみでポケットにしまう。そういうシーンが大写しになったら、それは伏線です。必ず後で「それがあったおかげでピンチを脱出した」という展開になります。よくあるのは、「聖書」と「家族の写真を納めたロケット」。これは胸を銃撃されて、誰も死んだを思ったときに、聖書やロケットが代わりに銃弾を受け生き延びた・・・という話につながります。似た話はあまりも多いところから考えると、これはずいぶんと起源の古い説話原型なのでしょう。その教訓は明らかです。人が「無意味」だと思って見逃し、捨て置きそうなものを、「なんだかわからないけど、自分宛ての贈り物ではないか」と思った人間は生き延びる確率が高い。そいういうことなのです。」という文脈です。

 これはある書籍のかなり後半の文脈なので、ここだけ抜粋してもその真意は文脈以上に伝わりにくくなっていますが、これをこの文脈にならい「贈り物」だと捉えた人は情報の海からその書籍を釣り上げてください。

 つまり、用意されたプログラムにはのびしろはないということです。どちらかと言えば、パソコンなどもフリーズしたり誤動作をする時にその真価が見えるみたいな。人間も同じかなと思います。正常にモノゴトが潤滑に流れている時はそれには気づかない。しかし、どこか流れに淀みができたり、落差のある流れに実は有用性が潜んでいるのかもしれないですね。飽和する情報が「自分宛て」と捉えていただくためにも、セオリーや相対性はそこそこにして、ポテンシャルと絶対値で「贈り物」を練り上げたいですね。

リーダーがリーダーを育てる。

 「リーダーがリーダーを育てる」というタッチのメルマガが到着した。その本分は下記のようになっていたので一部抜粋します。

 「リーダーシップ能力は、プロジェクト管理やスタッフ編成、ベンダー評価といった各種のスキルを兼ね備えていることと誤解されやすい。実際、よいITリーダーはこれらをすべてこなせる。しかし、真のリーダーシップとは人を動かす力だ。優れたリーダーは、適材適所でチームの各メンバーに能力を発揮させ、それをまとめ上げて絶大な相乗効果を引き出す。米国CIOエグゼクティブ・カウンシル(CIO Magazine米国版の発行元が創設したITエグゼクティブのためのグローバル・コミュニティ)が毎年選出している「Ones to Watch」アワードは、次代を担う新進気鋭のITリーダーを表彰し、併せて、彼らの成長を後押ししてきたCIOの功績をたたえるものだ。受賞者は、人を動かす力とそれに裏打ちされた業績が傑出しており、将来のCIOとして嘱望されている。2011年の受賞者は25人(「2011 Ones to Watchアワード受賞者」を参照)。彼らは、CIOがITスタッフのリーダーシップ養成に尽力したことにより、次代を担う新進気鋭のITリーダーとして成長した。真のリーダーが次のリーダーを育てるということだ。だが、米国CIOエグゼクティブ・カウンシルが2011年2月に実施した328人のITエグゼクティブに対する調査において、ITリーダー層が薄いとする回答者と、層が厚いとする回答者の間で大きな違いが出たのが、IT部門の運営に関する今後の見通しだった。また、回答者の52%は、ITリーダー層の厚さが「ある程度増している」と答えている。ところが、多くの企業はリーダーシップ開発の重要な要素を認識している一方で、それらについて驚くほどなおざりにしている。例えば、紛争管理力や政治的手腕は回答者が重視している力量だが、自社がこれらの力量を適切に育成していると答えた回答者は、それぞれ26%、17%にとどまっている。この回答状況からすると意外ではないが、回答者はIT部門長レベルでもこれらのスキルが「あまり磨かれていない」と答えている。人を動かす力を持つ有能なリーダーとなるためのスキルの中で、会社としての育成があまり進んでいないものはほかにもある。例えば、人の考えをくみ取るスキルを自社が適切に育成していると答えた回答者は10%にすぎない。あいまいさへの対処については27%となっており、社内の力関係の実態把握も15%という低い数字だ。「主に日々の戦術的な問題に対応することに終始している受け身姿勢のIT部門は、リーダーシップの開発機会を無視しがちであり、そのために悪循環に陥りやすい」とカレン・ルーベンストランク氏は指摘する。同氏は企業役員などを指導するエグゼクティブ・コーチで、『The CIO Edge: Seven Leadership Skills You Need to Drive Results』(CIOの武器:結果を出すために必要な7つのリーダーシップ・スキル)の共著者でもある。そして今回、米国CIOエグゼクティブ・カウンシルのために調査結果を分析した。「部下を強力なリーダーに育てれば、CIOには余力ができ、他の役員とより戦略的に連携して仕事ができる。CIOとしての本分を果たせるというわけだ」(ルーベンストランク氏)この点において、2011 Ones to Watchアワード受賞者が所属する英国グラクソ・スミスクライン、日産ノースアメリカ、米国ジェイコブズ・エンジニアリング・グループ、米国ペプシコといった企業はとりわけ際立っている。前述したさまざまなスキルを養成して強力なリーダーを育てているからだ。そうすることで、企業は競争力を保つことができると、日産ノースアメリカの情報システム担当副社長を務め、2011 Ones to Watchを受賞したリンダ・アン・グッドスピード氏は語る。「“できる”リーダーは創造的かつ革新的だ。また、そうしたリーダーを数多く育てるものである」(グッドスピード氏)」とあるが、そりゃそうでしょう。

 結局、要は「ITリテラシー」と「リーダーシップ能力」は「機能と技能」の関係だと捉えられなくもない。双方とても重要な要素ではあるが、似ているようで似ていない。共有しているようで分岐しているという相互の関係性をどこで分割するか、それともしないのかという捉え方でしょうね。

 そもそも、これだけの文脈を読んだところで、「リーダー」の定義もよく分からない。ただ、言えることは、知識や技術が豊富でもリーダーの素養・資質ではないということ。これだけ難しく理路整然と文脈を連ねても結論から~となるとそこに辿り着くような気がしました。

JAZZとは何だろう?

 検索するとこうなっている。「ジャズは西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアル、ブルース、ラグタイムの要素を含み、根底的には西アフリカ、西サヘル(サハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の民族音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。ニューオーリンズが発祥の地とされており、この地区での当時のスラングで、女性性器や性行為をjass、売春宿をJass Houseと呼んでいて、売春宿の待合室や酒場を主な活動場所にしていた演奏家たちのことをJASS BANDと呼んだことが、JAZZの語源となったという説もあるが、「JAZZはシカゴで成立した語」「フランス語のjaser(「くだらない話」の意味とも、アフリカ系アメリカ人に対する軽蔑を意味したとも言われる)から」などと、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀に入ると、コルネット奏者のバディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博し、今日では「初代ジャズ王」と呼ばれているが、バディは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない。」となっている。なんとも魅力的なJAZZのルーツ。

 これを現代に至るまでどう進化してきたのか、それをこの日本でどう消化してきたのか、掘れば掘るほどJAZZの鉱脈は大きいような印象である。ごくごく表面的にしかJAZZをこれまで捉えてこなったが、ここに来てどうじてもガチでJAZZをリサーチする必要があり、ただ、頭でJAZZってこうだよね…的なフワフワしたレベルではちょっと不十分なため、もう一度、この段階からJAZZを自分なりに掘り下げていこうと思っております。ただ、嫌いな音楽ではなく、JAZZのCDも数枚ある程度の私が、このきっかけでどこまでJAZZに精通できるかなど未知数すぎるのですが、それでも一回この鉱脈を掘ってみようと思っております。まずできることは、JAZZについての適正な情報を得ること。公平な情報と偏った情報の2つのベクトルでアプローチしていこうと思っております。そして、音楽であることから、やっぱり実際にJAZZに楽器を持って取り組むこともしなければ、たぶん、恐らくJAZZを語ることなど、JAZZの魅力など芯の部分で会得することは不可能だろうという直感。

 多くのムーブメントやイベントの成功(何を持って成功と呼ぶかは難しいが)の中核には必ずそれに精通する人の存在があるはず。歴史のイベントや歴史のアクションに魅力を感じられないのは、すべてがフィクションだから。どうも、戦国時代も明治維新もいろいろなアプローチが存在するようですが、微妙にディテールが異なる。これは、時代性と書き手の癖なんだろうが、真実か否かというこよりも、「それらしい」感で全て丸くフラット化させているのが嫌い。

 だから、JAZZは何だろうと一旦スイッチが入ったので、この手を汚してでも掴みたい掴めるカケラだけでも獲得したいと思っております。さてさて、どこを掘ればJAZZの原石があるのだろう?誰か知ってますか?誰かそのカケラを見せてくれますか?

言葉の中の真意の割合い。

 さて、例えば「私を信じてください。」という言葉。この言葉の真意の割合いを何で推量・計測すればいいのか?という疑問。それは、文脈やボキャブラリーのスキルの問題でもないようです。では、何がそれを実感として判断させるのかとなるとこれがまた適正なモノサシがないとなる。それを直感でしか測れないと仮説すると、全てを直感で処理しなくてはならなくなるし、信頼関係という基準値さえ、実は直感でその質量が認知されているとしたら、そもそも「信じる」というこはただの直感の蓄積?とならないだろうか?極端な洞察であるから、話半分以下で読んでいただければいいが、それでも、つきあっている女性がいる。もうそろそろ(何がそろそろかは不明として)結婚した方がいいと親にも友人にも言われる。本人も周りの温度が温かくなるからその気になる(このその気というのも実はとてもファジー)。そして、プロポーズ。「私と結婚してください。一生幸せにします。」さて、この言葉の真意の割合はどうだろう?確証のためにダイヤモンドを買うがそれは形骸化した概念であり真意の割合を100%に引き上げる効果は実はない。つまり、形式上の流れで文化や慣習的な意味でそれをすることで真意が高くなるだろう程度の行為に過ぎない。でも、それを信じるか信じないかは個人のポテンシャル。そして、誓う。富める時も貧しい時も健やかなる時も病に伏していいる時もって、この言葉も実はどこに真意の軸足を置くべきかによくよく考えると迷うはずなのである。

 でも、これも形式的に処理する能力を義務教育や社会教育で学んでいる国民は迷うことなく、「はい。」と答えている。さて、ここまでの流れでどれだけ真意があるのだろう?実は、本当の確証はどこにもないはずである。それほど、言葉のクオリティーは微弱である。まだ、どこかの民族が獲物を発見して吠えている方が真意の割合は高い。つまり文化とはよく言ったもので、文字(記号)化することでそれを共通言語として信じてくださいよ、というルールなのである。だから、言葉を覚えた段階でその共通のルールの世界に踏み込むことで、真意は定かではないが、たぶん、これが「幸福」だろうと、世間のセオリー的に「幸福な人生」だと感じさせられて生命を全うするから、それが逆に幸福なんだという諦念とういか概念なのである。

 しかし、一旦、どこかでこのルールの隙間が見えてしまった人はその真意を改めて探すことが人生のそれに置き換わる。人生、知らなければいいことはたくさんあるし、知って逆に不幸になる場合も少なくない。言葉とはたかがそれだけのツールなんだと知ると、どんな説得も無意味に感じてしまうことがあり、その考えに対する自分の中の反証さえ意味をなさなくなるケースもある。

 ある方が私の価値観に無断で入ってくる時、私は否定も拒絶もしない。一旦、その言葉を飲み込み(飲み込んだふり)、時間をキープする。つまり、脳の言語中枢は人それぞれの処理速度を持っていると言われているから、早急な人にはタイムラグを置き、緩慢な人にはインターバルを入れない。これが、言語によるコミュニケーションの一般的な方程式。しかし、歳と共に自分自身のレスのスピードも鈍化するから、注意しなければいけない。しかし、歳と共にチャンネルが増え、使える色数が増える。つまり、不思議な比例と反比例が起こる。これを楽しめていると他人とのコミュニケーションはとてつもなく楽しくなる。結果、真意の割合を推量しながら、比例と反比例を座標化し何色をチョイスしようかという選択肢が増えると楽しくなるのである。

 だから、私のような人間に絶対に勧誘は難しい。年上の人からの言葉には極力リスペクトしたいとは考えているが、ある程度、貴方達も歳を重ねてきているのですから、目の前の人間が自分の発した言葉を受け止めていないことを感じとって頂きたい、という場面がよくあるのですが、私の頭の中では受け取った言葉がキレイに分解されて机の上に並んでいるだけなのです。その机の上の言葉のパーツをどのようにお返しするかだけを考えているので、絶対に、私は勧誘されない。大抵の人はそうだと思いますが、他発で人間の心は動きません。自発を促せるほど貴方達にポテンシャルがあれば、私から動いているはずですという言葉は絶対に口にせず、比例と反比例を楽しんでいるのです。逆にこの楽しみは誰の心の中にでも多かれ少なから起こっていることです。それを自覚するかしないかは別として・・・。だから、真意の割合いを時間や論理や語調で解決しようとしないことですね。それは間違いなく時間の浪費です。

ティナが来日する。

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 ティナ・シーリングがやってくる。さてさて、日本の大学生や招待した団体をティナはどう分析・洞察するだろうか?それが一番楽しみ。

 ネットで検索すれば、「ティナ・シーリグ氏は、米スタンフォード大アントレプレナーセンターのエクゼクティブディレクターで、「起業家養成講座」「イノベーション」などのクラスを担当する名物教員。著書『20歳のときに知っておきたかったこと』が昨年ベストセラーとなり、日本での知名度が急上昇した。その型破りな授業は、全米でも高く評価されている。「手元にある5ドルを2時間でできる限り増やすこと」と言った課題を学生に次々に与え、課題を解決していく中で、起業家精神やクリエイティビティを醸成していくといった仕立てだ。経歴からしてユニーク。スタンフォード大医学部で神経科学の博士号を取得後、ビジネス界に転身。戦略コンサルタントや起業など様々な経験を積んでいる。講演では、実証実験の成果やビデオ素材などを巧みに使いながら、スタンフォード大の授業さながらにオーディエンスを巻き込み、「常識に挑戦する」「問題を組み替える」といった「クリエイティビティを高める9つの要素」を紹介した。「最大の過ちはクリエイティブなアイデアを阻害することです。アイデアがなければ、どれほど時間やエネルギーをかけてもイノベーションは起こりません」と説く。さらに続く対談、質疑応答のセッションでは、自身のクリエイティビティを育んだ子ども時代の思い出や、人生観についても触れ、「私たちが生きる世界には数えきれないほどの不確実性がある。答えがないことを怖いと感じるかもしれない。『自分自身の冒険映画をつくっているようなものだ』と楽しむことが重要」と熱く語った。ティナ氏は言う。「若い方々自身が未来そのもの。社会はみなさん次第でいかようにも変わります。その社会がどういったカルチャーになるのか。その社会のなかにある企業カルチャーがどのように変化していくのか――。それはすべてみなさん次第であり、一人ひとりが未来のリーダーなんです。それを忘れないでください」。混迷深き、寄る辺なき時代。見通しが立たず、個々人がそれぞれに人生を切り拓いていくことが求められる今、「一人ひとりに起業家精神を」というティナ氏のメッセージは、力強く響く。」ぐらいのことはすぐに出てくるが、これはたぶんティナの実力の文脈化した表面的な部分だけ。実は、この見せている部分の裏にとてもつない大きく強く広い見聞と底知れない鉱脈がマントルのように高温で活性化しているのだろう。決して、地頭の強いストリート・スマートな人は自分を誇示しない。そして、地位や名声や富に興味を示さない。だから、ストリート・スマートなんだと勝間氏が言っていた。まさに、その代表格がティナだろう。

 ネットに掲示される情報はもう飽きた。一度、彼女の講演を見て聞いてみたいものです。

分類不可能ガガ様。

 頭の上に黒い電話を乗せて現れる。シャボン玉で全身を包んだような服でピアノを弾き始める。奇抜とか派手とかいう前に、思わず愉快な気分になってします。大人気の米国のアーティスト、レディー・ガガさんが、復興支援のために来日した。日本が好きなのだそうで、震災の翌日、3月12日には「日本の為に祈りを」と記したリストバンドを売り出し、1億2千万円を寄付した。記者会見では、ティーカップにキスしてみせ、オークションにかけて収益を被災地に送ると語った。観光庁から感謝状を贈られたが、「本当はこんなものいらいなの」と言う。ポップス愛好家に限らず、見る人が自然にニコニコするのは、このアイドルの「突き抜け感」が心に響くからだろう。被災者の避難所暮らしには終わりが見えない。原発事故は心理的にずっしり重くのしかかる。何か常識外れのことをしたい、されたい、という気持ちを、日本の誰もがいま抱いているに違いない。ガガさんはロックスターのデビッド・ボウイとクイーンを自分の活動の手本にしたそうです。演劇のような表現と、物語を感じさせる存在感。それらが「入り口」となって、観衆を日常生活から連れ出すからだと話している。人々が求めるものを感じ取るショービジネスの才能は、日本の政治家より勝っている。と、今日の新聞からの抜粋です。

 ガガ様は分類不可能という称号を押されても、さらに、その枠からはみ出るイマジネーションで常に変化してこられたのだろう。それは、こうして世界的なアーティストになるずっとずっと前から。だから、世の中のフレームに推し量れないのは当然。それでも、メディアはガガ様の度合いを数値や言葉で指標化しようとする腑抜け加減。指標がある以上、そこからはみ出るバイタリティーでこれからも変化していってほしいですね。パターンとして薬に依存したり、資産問題に巻き込まれたりする世界を席巻したビックネームが多いが、意外とああ見えて、ガガ様は計画的に有意義な意味のある価値のある道を進むような気がします。

 しかし、ガガ様に感謝状って!?明治維新かっ!

 で、方向性がデビット・ボウイだったとは、ちょっと意外なような、でも、かなり納得。王道ですものね。

「仁(JIN)」の結末。

 テレビドラマ「JIN」が終わった。結末は結果、時間の軸に吸いこまれた。輪廻転生とタイムスリップを江戸と平成を坂本龍馬と南方仁をしっかり結合させた上で次への方向性をしっかりと示していたように思える。人の死と生命についてこれだけガチで考えさせるシーンをふんだんに盛り込む意欲、それを超一流の配役が適材適所で演じている壮大な物語だったと思います。

 留意する点は2つあったような気がします。ひとつは「血」という視点。結果、仁先生は外科医ですから、血についてどう描くかということで人間本体の価値観とか生命の不思議を描くわけですが、さらに、人間の血液が持っている古来からの機能やペニシリンについての考察など、いかに、人間の生命が微妙なバランスで維持されているかということを江戸(穢土)というステージでしっかり描く。どうも幕末が舞台になる物語は政治や人間の概念や慣習のジレンマばかり描きフワフワしてしまう部分をしっかり江戸時代の人間の存在感を描いていたような気がします。それに、いろいろな坂本龍馬をテレビや映画で観るが、このドラマの坂本龍馬が一番強い人間に写りましたね。

 二つ目は「手紙」である。これはツールとしての手紙、歴史の史実としての手紙、心を刻印するための手紙と、江戸だから当然ですが、デジタルツールのないこの時代、文をしたため、「お慕い申しておりました。」となると、う~ん、強いと感じてしまう。紙に残す手紙、印画紙に残す写真という人間の慣習やツールとしての価値を改めて再認識してしまった。紙の上に墨でしたためる手紙こそ、実は、歴史を紡ぐ最高のツールだと。サーバに保存された無限のテキストは、さて、未来にどんな意義を継承するのだろうか・・・みたいな。

 しかし、まぁ、素晴らしい配役揃いで、他のテレビドラマが貧弱に思えたこのクールでした。多分、次は谷だろうから期待はできない。大河ドラマよりも「いい役者」という視点では充実し過ぎていましたね。たぶん、「仁(JIN)」と「江」を比較した場合、単純にそれだけで比較できないが、上野樹里さんと、綾瀬はるかさんの使い方の違いだったような、つまり、この二人の演技力というか女優さんとしてのポテンシャルの違いがこの2つのドラマの決定的な差のようにも感じました。

 いやいや、ひさびさ(実は、前回のJIN以来)に、テレビドラマを第1回目から最終回まで観てしまった。満足満足。

テレビの存在理由。

 おそくら、4大メディアと言われる「テレビ」「ラジオ」「新聞」「雑誌」の中で、実は、一番最初に消滅するシステムが「テレビ」だという仮説があります。ラジオというメディアはこの度の震災でその存在価値をしっかりと証明しました。そして、ラジオ局自体の運営費用がテレビや新聞社・出版社と比較にならないぐらいに安価で効率のいい事業体系が展開できることもその存在価値と存続性の理由に挙げられていると。そして、新聞と雑誌は液晶端末系やスマートフォン系がその隆盛を極めようが人が情報のディテールに対して紙という媒体に愛着を得てしまっている限りそのニーズは消失することはないと言われており、電気ということが必須条件の液晶端末に対して、紙のメディアはスイッチを入れる必要も充電する必要もない。これ以上の便利さが液晶端末にあるのか?そして、コスト面でも大きな新聞社や出版社・雑誌社の形態をとらなければニーズに対して適正な規模の組織と筐体で発信し続けられる紙媒体というのは消失することはないだろうと言われています。

 それに比べて「テレビ」は?情報を得るための端末としてのコストやそのコンテンツを配信する創造するシステムや組織はあまりにも肥大してしまったということ。この現状を時勢にマッチさせスリム化させようとする取り組みは明確に昨今のテレビ番組には表出していますが、それでは、その情報をテレビで観る知る聞く必要がどこまであるかとなるとこれがなかなかつじつまの合わない事情があるようです。しかし、テレビ関係の人達は「ラジオ」や「新聞」や「雑誌」が消失しても、まさか「テレビ」が消滅することはないだろう・・・とテレビの有用論を崩さない傾向にあるそうです。でしょうね、一旦、文化のテーブルで「娯楽」「ステイタス」「エンタメ」の中核を担うビジネスモデルとして肥大・覚醒してきたシステムですから、相当の自負もあるでしょう。しかし、一番の危機感は、テレビ業界の人材的な空洞化がその一番の理由に挙げられているそうです。広告スポンサーが離れ、別の「娯楽」「ステイタス」「エンタメ」ソースが多様なニーズを満足させている昨今、肥大化したシステムを維持・管理することが難しいということが一番の消滅・失速・消失のトリガーらしいですね。その価値観にユーザーが反応しなくなれば、いわば親亀がこけるわけですから、なしくずし。

 で、世の中、ドックイヤーからマウスイヤーになり、トドノツマリ、バクテリアイヤーになった時、そのサイクルに人がついていかなければいけないのか、人のスピード感にもう一度、インフラ・デバイス・プラットフォーム・コンテンツの拡充サイクルを適正にマッチさせる取り組みをするのかしないのかということになるのでしょう。ここでテッパンの「時は金なり」という銘がそのリアリティーを帯びてくる・・・みたいなことじゃないでしょうか。

 早起きの鳥は芋虫を食べてきたが、芋虫も馬鹿じゃないし、鳥以外も芋虫は食べる。芋虫だって野菜や木の葉を食べるし鳥だってさらに大きな鳥に狙われてるんですね。自然はそういう仕組みでシンクロして正確なループを展開していることにもっと注視することで、テレビの存在理由のもう一枚裏にある、地球に上でこの一生をどう生きるかという本来DNAに記述している設計図がチラチラと見えるとか見えないとか・・・ってことじゃないでしょうか。もしも、その解析を完了している人達がいて、その設計図さえも消失させようとして、放射線を無視しているとしたら、鳥に食べらるのは芋虫ではなく人じゃない?人が描く「絶対悪」と「善人・聖人・神」の比較をたぶん深海でYrrは失笑しているだろうな・・・。

3つの知。

 知は3つに分類できるというお話。それは、「学問」「知識」「情報」の3要素。情報とは日々なんらかの形式と目的で流れてくるものであり、新聞やテレビなどのマスメディアが提供しているモノから現代ではネットの中から提供されてくる。マスメディアからソーシャルメディアに変異する段階で情報は比較的スムースに移行していった形跡がある。これに対しての部分で知識とは何か?知識とは人類が長い歴史の中で蓄積してきたもので、情報のように断片的ではないい、言わば体系的なモノ。その中で普遍的な価値観となったものが学問となります。

 例えば、出版文化とはこの3つの知の中で知識と学問をカバーしています。そして、それらを共有することで国民全体の水準が向上して民主主義に対して深く関連性を与え文化として成立するという構図を呈しています。よって、ネット文化が発達・進化・浸透し「情報」のみの流通が盛んになったとしても、知識と学問という視点ではどうも欠落している状況が現代のネット社会の構造だと言えなくないのです。これは、まさにの部分です。マスメディアの失速と出版文化の衰退がもたらすその国の文化や教育レベルの沈滞はこの3つの知の構造がいかに活性化さているかで推し量ることができるという仮説です。

 すると、インフラの整備からビジネスモデルの創出などイノベーションに関連する人材がそのスキルやセンスを含めた知識と学問のスタイルを発信することが沈滞し、情報だけが飽和した状態で商品やサービスや人的な資産が新しいベクトルに向かう土壌を失うというこになってしまうという警鐘をどこかで具体的にネットの技術に取り込まなければこの失速モードはシフトチェンジできないような・・・そんな気がします。3つの知を改めて考える時、そのベクトルはおそくらプラットフォームでもインフラでもデバイスでもないなずです。これらはただのツール。やはり、有料で優良なコンテンツを創出する人と人がネットワーク上に点在する仕組みを、もしくは、それらの素養が活性化されマンパワーがグイグイ覚醒する仕組みづくりにもっと軸足を持っていかなければ、文化や経済や教育の水準は必然的に失速してしまうのではないでしょうか。ガチでベタでリアルな思考と構造と行動がネット内でリアル社会で活性化されないと、そこでこそ本当のつばぜり合いをしなければいけないですよね・・・という感じ。

 さてさて、クラウドの中にシャングリラはあるのか?阿弥陀浄土さえ包括しかねないネット文化の隆盛を、今、改めて分解して再構築できるポテンシャルはどこで息を潜めているのだろうか・・・。

心が熱くなる時。

 人間、心が熱くなる時ってあります。それは、感動だとか怒りだとか。その時ってなんとなく自分的にはパワフルに心のエネルギーが満タンになっている感じがあります。素晴らしい映画や絵画を観た瞬間にいっきに沸点に達する感覚や、納得いかない行動や言動に触れた時、言いようのないエネルギーが心に充満して、深呼吸をしたり、ちょっと、目をつぶり沈静する感じ。でも、それって力があるなしでいうと確実に自分の不思議な力のみなぎる感じが実感されて、ちっぽけな事でぶつぶつイライラしているのに、なんとなく、熱い感じは気分的に悪くない。ぼわっと燃える瞬間があまりにも日常的に多過ぎるとそれはそれで扱いにくい人になってしますが、適当に、自分なりの基準や軸でぶつかるのは精神的にはいいことじゃないかと思います。人を傷つけたりモノを壊すことはNGですが、自分で着火して自分で消火できるなら、ちょっとぐらいイラっとしても心の健康にはいいのではないだろうか。

 と、自分の挙動を擁護しているようなことを言い訳的に書いている感じがするのですが、それでも、心が熱くなることがないと、やはり、心も低体温が続く。すると、リアル体温と同じで免疫力が低下して身体機能も低下するだろうし、新陳代謝も体温が高い方が活性化する。たぶん、同じ個体だから心もおなじはずと、全く医学的根拠も科学的根拠もない持論ワールド全開である。

 で、ネット社会は便利で情報が豊富、多種多様なニーズをそれぞれのデバイスで獲得したい時に獲得できるということでは熱いのですが、その中に存在するコンテンツについては、温度が低め。ブログが炎上するって一時流行ったがそのエネルギーって実はネットの中だからこそ大切な仕組みなのかもしれないと思います。誹謗中傷は建設的ではないが、生産的な論拠に置いて心が熱くなる、ポジティブな炎上は逆にその書き手や発信者のポテンシャルの高さの尺度を示しているような気がします。どうも、ネットやオンラインのパワーユーザーは冷静過ぎてフラット過ぎて一歩踏み込まない感じがしてて、もっと、ガツガツしてるぐらいがちょうどいいように思います。人に避難されたり、攻撃を避けるために、フラットな意見をどれだけ並べても、日常会話レベルをわざわざ携帯端末からつぶやいても、それって、熱くないような気がする。まぁ、熱いか熱くないかは別としても、踏み込んでこないから踏み込めない感じの日本人のコミュニケーションは探り合いの文化。一刀両断の間を見切るようなネット内のコンテンツがないものだろうか・・・、たぶん、構造上システム上無理だろなぁ。こればかりはリアル社会のリアリティーに勝る「熱さ」は存在しないだろうし、どこまで技術が進化しても、3D映像で心は熱くならないぞ。

TRUE ROMANCE

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 最近はこのタイプの映画がないなぁ~。この映画は歴代お気に入りのベスト10に確実に入っているのですが、第何位かは決められない。ベスト100に拡げるとそれこそ思いつくままに一気に映画のタイトルが頭に浮かんでくるが、「トゥルー・ロマンス」は別格。その基準がよく分からないと映画好きの仲間とは意見が食い違うが、これは確実にベスト10圏内です。ではベスト3には何が入るかとなるとひとつは「ブレードランナー」となるし、では、「ファイトクラブ」となると、ベスト30圏内。で、で、「トトロ」や「カリオストロ」はとなるとベスト50圏内となるり、「X-MEN ウルバリン」や「ウォンテッド」あたりがベスト100圏内となる。だから、全くド主観のセレクトではあるので、勿論、賛否両論あるのですが、「TURE ROMANCE」はたまらないのです。全てたまらないのですが、中でも、C.ウォーケンとD.ホッパーのあのシーンはワンシーンだけをチョイスするなら、ベスト5に入りますね。で、このG.オールドマンは?もう、しびれ過ぎて第何位とかどうでもよくなる感じですね。いいですよ「TURE ROMANCE」。

SAYAKA AKIMOTO.

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 私、全く、AKB48には興味がない。以上に肯定も否定もできないぐらい無味無臭な感覚で捉えていますが、どうも、秋元才加さんは別格です。いろいろなバラエティに出ておられるが明らかに他の47名かそこらへんとはポテンシャルが違うと言わざるを得ない。これがテレビの恐ろしいところだなぁ~と思いますね。例えばモデルを職業にしている人はスタイルもルックスも抜群だが最近のテレビプログラムの構造はディテールを重視している。だから、あほなコメントしててもキレイで可愛いはもう成立しない。人がテレビに求める情報のマテリアルはそこではないような気がします。これは言わばネットでも同じで情報のディテールというか演出・表現手法についても同位でただ整えてあるだけでは、踏み込み感がなく、伝導率が低いというか、それに対峙して何か大切なポテンシャルのエネルギーを奪われそうで否定するが正解のような。

 とにかく、そういう意味で秋元才加さんはいいですね。才女ですしたぶんIQは高いだろうなぁ~と感じてしまいます。あの切り返しと豊かな表情はこの世界で残っていく存在だろうし、別に固執せずとも他の分野でもしっかり地に足がついた展開をされていくだろうと思いますね。テレビの画面レベルですが、最近では観ていていい感じのする稀有な存在感を発散しておられますね。って、これも一AKB48ファンのコメントに属してしまうのだろうか・・・。

誰が決めたこと!?

 誰が決めたことだか知らないが、子どもの頃から、注意や警告を受ける時に「一般的には~」「普通は~」「世の中では~」という接頭語が付くことが気になっていた。本能的にこれがとても疑問だったし嫌悪していた。もう、小学校に入る前の段階で、なんとなく嫌な記憶があり、学校の先生に言われることの全てがこの語調だったから、それが明確になったような漠然とした記憶。「世間一般的にはそうかもしれないが、別に何故その指標をそれほど過度に意識しなければならないのか?」そんな学生時代だから、「大切な義務教育中の勉学」の重要性が不明で未知だった。

 「偉い人が決めたことは素直にリスペクトして誠意を持って取り組みなさい!」これも聞き古されたよくあるセリフ。その場合の「エライ人」と「フウツの人」のボーダーはどこ?それは世間とか一般的とかじゃなくってお前のさじ加減でしょう?どんな教育とどんな経験を積んできたか知らないが、その人が「一般的」と言うと、その人のポテンシャルが確実に読みとれる。「ああ、この人間はこのことが一般的と捉えているのか、すると、論法的にはたぶん、こう言ったらこう言うだろうなぁ~。」と考える。そして、それは100発100中その通りのリアクションが返ってくるから、この「一般的」という言葉は非常に恐ろしい。だから、私は逆にこの「一般的」という言葉を使うように心かげている。それは、メンドクサイ人が「君、君、一般的にはね~」と顎が上がった瞬間、その人の「一般的」にシンクロさせるためである。まぁ、マージャンでいうところの「鏡打ち」である。すると、確実に相手は共感を抱くから、さらに顎のガードが甘くなる。しかし、そこでアッパーは打ちこまず、私自身は「一般的」をコミュニケーーションのツールとして活用しただけですから、さほど、テンションは上がらないまま心のこぶしを開く。しかし、この経験はデータベースとして非常に重要だから、心のライブラリーにしっかりと保管される。

 誰が決めたか知らないが、そんなふわふわしたリミッターを解除できなまま人生を送るのは嫌だと実は人は本能で思っている。が、リミッターの縛りは時に心地良く、まぁ、いわゆる鎖に繋がれた犬ほど、飼い主に擁護された犬ほどよく吠えるという仕組みのあれ。お互い、生死を賭けたタイマンであるなら、一発触発である。しかし、吠えている犬はある程度相手も襲ってこないことを知っている。吠える条件とはそこにある。だから、野生の獣や野良犬は怖い。サイレント(無音)で近づき「ワン」とも吠えず、のどを噛み切る。ワンショットである。できれば、ここまで全てを研ぎ澄ませたいものである。

 人間の「苦笑い」「失笑」で口元を上げる表情。実は、獣の本能で「グダグダ言っているとお前を食うぞ・・・」という意味があるらしい。

 つまり、自分がどれだけ素敵なのびしろのある能力を持っているかを決定するのは、自分自身なのである。ということ。自分で決めたから今の自分があると思えない自己を縛るリミッターを持ちたいものですね。ああ~多重になってしまいそうですが、そこは、理性と本能のバランスでぐっと堪えて・・・。

ネガデブなネガティブ。

 何事にも「ネガデブ」な人がいる。体系や私生活のことでもないが、とにかく思考に脂肪が多い人。適正値なら脂肪は的確に燃焼するが、ネガデブな人は蓄えに蓄えている。その脂肪が時に血液に作用して骨や腱に悪影響を及ぼすから始末が悪い。すると、どうしてもポジティブになれない場合が多く、瞬発力は勿論のこと持久力もなく、そして、必然的に柔軟性もない。人は口に出して言わないがネガデブな人と心から共鳴したいとは思わない。美しいフォルムが美しいフォームを生み美しいリズムを生むこと踏まえ、やはり、ネガデブな人はどこかネガティブさをぬぐいきれない。何もリカちゃんみたいなモデルのフォルムが美しいということではない、あれはあれで辛い。タブンアノタイケイヲイジスルタメニ、タイチョウカンリシスギテ、IQモダイエットシテシマッタ・・・みたいなことになるとほんと辛い。

 で、適正値はどこか?それを知るためにも適正な運動と適正な刺激が必要なのだろう。すべてはループでありルーティーン。淀ませない工夫が身体にも思考にも人生にも必要なのだろう。言うのは簡単、しかし、実行・継続は非常に難しいことです・・・。

二人の坂本龍馬。

 昨年から今年にかけてテレビ番組の中に二人の坂本龍馬が登場した。ひとつは大河ドラマ、ひとつは「JIN」の中。私自身は幕末にも明治維新にも坂本龍馬にも別に興味がないので、いつも、このテイのタッチはスルーしている。しかし、大河ドラマとなるとなかなかそんなタイプの人間でもどうしても接点ができてしまう。嫌悪しているわけではないので、テレビに出てれば観るが基本がその程度のテンションなので、あぁ~福山君か…程度。それよりも昨年の大河ドラマで言えば真木よう子さんが画面の中で光っていたのでそればかりを観て福山君の坂本龍馬は「3へぇ~」ぐらいでした。と同じく、というか、そのテンションとは比較にならないぐらいに、ひさびさにテレビドラマを第1話から最終話まで観たドラマがあった。それが「JIN」である。「コミックが原作で大沢たかおさんが主役!?」これだけで、ちょっといい感じはしないのですが、それでも、大沢たかおさんに引き寄せられて第1話を観た。これがビンゴ!とてもいい、昨今のテレビ番組にはない何か物語の振幅と深度が未知数な感じ。大河ドラマの吉本新喜劇化はさて置き、同じ日曜日でこれは比較にならないぐらいの「JIN」の素敵さは何だ!

 で、この物語の中に登場する「坂本龍馬」がまたいい。上記の通り、私自身はこの時代に特筆する思い入れはないので、新撰組や長州や薩摩や土佐やと言われても体温も脈拍も上がらない。が、この物語の中の坂本龍馬には確実に引きつけらている自分に気が付いた。ほぉ~坂本龍馬ってこういうタイプだったのか。過去にいろいろな文献の知識としての坂本龍馬像は頭に中にあるし、特筆しないとは言え、江戸の文化や幕末・明治維新のフレームは頭に入っている。ただ、さほど、その時代の登場人物に感情移入ができないというだけのお話ですから、その坂本龍馬像よりも、JINのドラマの中の坂本龍馬はとても魅力を感じてしまった。これも役者のポテンシャルなのか・・・、物語のスケールの大きさの違いなのか・・・。

 しかし、ほんとはどんな人だったのだろう?坂本龍馬という人間は。かなり尾ひれ背びれが大きくなり独り歩きをしているキャラのように思う。昨今の戦国ゲームのテイで無理苦理な脚色と物語設定をされてマジンガーZ化してしまった坂本龍馬像。物語化する段階で等身大って不可能でしょうし、事実を史実から紐解くのは難しいのかもしれないですが、でも、興味が少しだけ湧いてきたテレビドラマ「JIN」の坂本龍馬なのでした。

 もしかしたら、古今東西の日本人の中で一番拳銃の似合うキャラかもしれないぞ。刀はいいのに、日本人のピストルの持ち方はオモチャっぽい。やっぱ、これも慣習・文化・歴史の蓄積物がDNAにインプットされている量的な仕業なのかなと思います。まぁ、ピストルが上手に使えることは何の自慢にもなりませんが・・・。

LAB的なことかなと・・・。

 この2~3年、う~ん、もしくはこの仕事を始めてからかもしれないが、サラリーマン・クリエイターの頃からかもしれないが、仕事があれば会社にいた。まだ仕事を始めた頃や20代の頃はバブルだったこともあり相当忙しい状態だった。だから、給料をより多く欲しかったからからもしれないが、仕事があれば休みなしで仕事場にいた。その頃は若造だから早く一人前になるためにただただ一生懸命にというニュアンスで休みを返上して仕事をしていた。それが自分なりの「頑張っている」ということで「勤勉な日本人気質だから仕事大好きでいいじゃん!ええやん!」と納得してた。が、遊ぶ時は徹夜明けでもゴルフや釣りに行っていた。が、30歳・40歳ともなると、ゴルフや釣りなどもそこそこでいいかなぁ~と思える部分と自分にとって「楽しいこと=モノを創ること・考えること」になっていることに気がついた。

 遅いか早いか、敏感か鈍感かはさて置き、ゴルフ場にいても仕事のことが頭から離れない。ルアーを投げていても仕事のことばかり。これは楽しくないぞ・・・となり、ゴルフや釣りのテンションも平均値に落ち着いてる。だから、ゴルフをやっているとはいえ、練習場には年に数回、ゴルフ場には年1~2回。これで趣味としてゴルフをやっているとはかなり遠いようにも感じているし、バス釣りは好きだが、仲間で楽しく魚を釣りましょう!では全く楽しくなく、トーナメント形式で時間を制限して釣果を競うテイでしかテンションが上がらなくなった。が、そのトーナメントも終わり、ここ数年ロッドは握っていない。

 それと並行して「富士山に登ろう!」と決めてから基礎体力づくりが趣味のひとつになった。その流れで壁や鉄棒や健康器にぶら下がっていたら、山登りの向こうに「ボルダリング」という競技が見えてきた。結果、ほぼ10ヶ月(昨年の6月頃から)の自分なりのトレーニングを経て、来週4月24日、福井市のボルダリングジムに講習を受けに行く(ボルダリングジム・デビューである。)。ここに通うことは距離的に難しいので行けて月一レベルだろう。トレーニングは自宅でやらなければいけない。これが、一番今テンションの上がる趣味。と、これが日々のルーティーンになっていると、まぁ、趣味という括りで出かけない。決してインターネットやパソコンやソフトウエアが大好きです!という人間ではないが、結果、休日も一年中ほぼ365日基本的に仕事場か本屋さんにいるか何らかの書籍を読むか原稿を書いている。

 で、これは本当に「仕事」なのか?とふと・・・。大学の教授さん達の仕事は「研究」である。お休みもとっておられるだろうが、基本的に教授の皆様の頭の中は自分の研究のことだけ。別に私のデザインやアートに対する取り組みが大学の教授さんレベルだと言っているわけではないが、逆に、天職であるということでその取り組みの度合いというかディプスを捉えると、決して、大学の教授さんレベルに劣らない突っ込み方をしているとも思える。つまり、「好きなこと=仕事=研究?」というタッチが見えてくるようなことを最近、富に考えるようになった。お客様から与えられた案件を右から左に流すことが仕事ではないので、一旦、飲み込み・消化してアウトプットすることがデザイン・クリエティブの仕事の軸であり核なので、いつしか、仕事場にいることが、「仕事をしていますモード」からデザインやアートやマルチメディアの「自己研究をしていますモード」になっているように感じた。さて、リアルはどうかは分からないが、仕事で休みが潰れるのは嫌だが、研究なら仕方なし!という人間構造になっているように感じます。

 で、「仕事=研究=楽しい」となり、1年中、仕事場でいろいろテンションがキープできるということなのです。つまり、デザインもアートもクリエイティブも問題はいろいろあるが正解のない世界。よりよき答を導くために自分自身の引き出し(方程式や公式やルール)は多い方がいい。が、昔の方程式が現代では未来では通用しないこともしばしば、だから、研究過程でこれらをブラッシュアップしなければいけないし、それに必要な機材(パソコンやソフトウエアやアナログツールなど)は可能な限り新しい環境にしておく必要があるということ。つまり、これは仕事でもあり、研究でもあるのかなと・・・。

仕事選びの3Kとは?

 「汚い」「危険」「キツイ仕事」が仕事選びで敬遠される3Kらしい。う~ん、贅沢な話である。まだまだ危機感が緩い緩い。私は大学時代に42種類のアルバイトをした。4年間継続したアルバイトも3種類あるし、単発で瞬間風速狙いのバイトもあった。そして、卒業後も1年間、東京でひとりデザイン事務所のアルバイトだけでは苦しかったのでいろいろなアルバイトをした。結果、その経験を経て翌年正社員になれた。高校3年生からいろいろお世話になったアルバイトではあるが、数字が欲しかったので、率先して3Kに取り組んだような気がする。その代わり身入りは相当良かったような。

 「汚い」で言えば一晩中、大きなレストランの生ごみの掃除とホール・厨房の掃除。「危険」で言えば、山の斜面にロープを腰に括りつけ土を削るバイト。「キツイ仕事」で言えば、肉体労働は他種多様だったし、一晩中機械から出てくるノートをパレットにキレイに積み上げること約8時間。また、プラスチック成形の部品パーツが熱処理されて出てくるのを一心不乱にケースに整頓すること10時間。高層ビルのダクトシュート(人が二人程度なら同時に落ちるぐらいの直径の穴)に各フロアのゴミを掘り込む業務などなど。この穴に落ちたらたぶん・・・みたいなバイトだった。

 まぁ、これだけのバイトをしていれば、別段3Kなどどうでもよくなる。人間があらゆることに対して鈍感になるというか麻痺してくる。別にお金のために手段を選ばなかったということでもないが、その一面も確かにある。でも、「気にしない。」モードになれば人間大抵の仕事はできる。

 よく、デザインの仕事は「クリーン」で「危険とは無縁」で「カッコイイ」ので羨ましですと言われるし、ある教室でデザインのソフトウエアを教えていた頃は、「先生のような仕事をしたくってこの学校に来ました。デザインの仕事はやりがいもあってクリーンでスタイリッシュであこがれなんです。」って目を輝かせていただ人が何人かいたが、そんなにこの仕事はカッコイイのか???がガチな部分。危険ではないが自分のスキルやセンスやテクと四六時中向き合い研鑽と探究を怠るこができない仕事ですよ。たぶん、あなたじゃ無理でしょう・・・みたいな人に限って「カッコイイ~!」となる。そんな仕事に優劣付けているようなレベルでは、逆に仕事に選ばれる人になっちゃいますよ・・・みたいな感じですね。

 政治家が国を選ばず国が政治家を選ぶものだらかこんなみじめなことになるんです。主体は軸は本丸は自分の中に持っていないと。あなたたちの議論・答弁は国会という然るべき場所で税金を使わず、どこかの気楽な居酒屋でやってくださいって感じですから。でも、この国を愛する人がいる以上、たまたまかもしれないですが、そのポジションの仕事に就いたわけですから、頑張ってくださいよ政治家さん達。別に3Kありきでもいいじゃないですか?芯を喰った国の展開をお願いしたいものです。

経済効果算出方法。

 なんだ経済効果の算出方法って意外とどんぶり。池上さんが経済効果の算出方法と説明しそうな感じのテレビだったのでじっくり観ていたら、あれれれ、これってかなりどんぶりだし、ニュースや新聞に具体的な数値として定数を出している人もあまり誰だか知らない人。つまり、52億円!って聞けば、おおっと凄い経済効果があるんだと思うがその内訳はある人のある法則による希望的観測に近い算出方法だった。逆に算出方法に適用された人やモノはそれをどう受け止めるのか?天狗になるためには特に数多の修行はいらないようですね。

 それよりも、例の「メシ友グランプリ」で優勝された土佐のあのメシ友。あれはおいしそうでした。間違いなく。で、毎日10程度しか売れていなかったのが、この番組で決勝に進む過程で認知され評判になり現在毎日25,000個売れている。そして、3ヶ月先まで予約でいっぱい。このリアリティーの方がスゲッって感じ。そういえば哀川氏が本を出したらしい。タイトルは「継続」って。いやはやゴーストの人も大変である。つまり、リアリティーとはバックボーンへの信憑性。しっかりと脈々とタイムラインを流れてきた証のようなものが今その場所にある、あるだろうという確証を何かで感じてその度合いが確証に変わる。付け刃な史実を表面だけ取り繕っても決してリアリティーにはならない。さて経済効果と言えばいろいろなイベントが開催されるが、さて、それぞれにどの程度のこの算出方法が適用できるのだろう。そのバックボーンが明らかにどんぶりなら、せめてリアリティーのあるメシ友ぐらいはのかっててほしいものです。

進むべきルート。

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 進むべきルートを指すコンパス。どんな状況にも指針がぶれないコンパス。時に進むべきか迷いながらも自分のルートを確かめるためにそれを見て確認する。針の指す方向は心の指す方向であると信じる力が何よりも真意たる確信となりその行動の質量さえ覚醒させることだろう。そんなコンパスを持っているか?ということ。混迷の現代と言われている。指針を失うことが一瞬でルートを見失うことになる危機感と立ち止まる勇気をもコンパスの針は諭しているように思います。太古の歴史が物語る人間のルートに意味があるのか、継承するべきモノを失うことで得る至福の時間に決して自分の時を浪費せぬように硬く握りしめておきたい心のコンパスってありますよね。

100が基準の公平感。

 私達は一般に学校の頃、100点を基準に優劣を推し量ってきた。しかし、何故、100が基準なのかを改めて考えたことはない。つまり、それが日本の義務教育から専門教育に人間を進める場合の基準値として最適だったと言われている。確かにである。すべての試験が100を基準に採点され順位が決定してきたがこれはあくまでも便宜上の設定値なのである。海外に目を向ければ必ずしも評価の基準が100ではない。つまり、貴方は90点、私も90点、だから、あなたと私は同じです~みたいな公平感で人ののびしろを規定するから、それ以外の要素でそれ相当の職についている人にポテンシャルとスピリッツとクリエティビティーが欠落するのである。決して出る杭は暴挙でもアンノーマルでもない。「しなやかな個性」をリスペクトするフィーリングというかモチベーションを会得していないから、孤立し仮想や妄想や迷走の世界に逃走するのである。インターネットはコミュニケーションのツールだと言うが、その本質というか真価の本丸に食らいついている人は少ない。一瞬で100の評価を1000に変えるような日本にならないと。だから、100の人が1になることを恐れすぎなのである。振幅は家柄や資本力や地位や名声や肩書きで決めない方がいい。これらが結果99の人は悲し過ぎるっしょ!まぁ、人のことは言えないので、いつでもどこでも100,000ぐらいのポテンシャルは蓄えておきたいものです。

信長の死。

 昨晩の大河ドラマは「本能寺の変」。豊川さんの織田信長像に引かれて第5回まで大河ドラマを断片的に観ている。これは非常に稀なことでたぶん、この長浜の地域での三姉妹博覧会はひとつのトリガーであり、テレビを見させているのは豊川さんの存在だけだろう。たぶん、恐らく、第6回目からはスルー。しかし、「世の春こそ私の春。」みたいなフレーズは非常に良かった。

 最後のシーンで側近に「ワシの首も骨も髪の毛一本も残すな・・・。」と伝える織田信長。なんともあっぱれな死に際だろう。江に託したメッセージ、「わしはわしの思うがままに生きたぞ、そちも・・・。」みたいな部分はちょっとスケールを小さくしたが、それでも、この物語の流れ的にはそれでよかったのだろう。そこはフィクションの部分として受け入れられなくはない部分。でも、織田信長をこのように描く感じはとても史実に沿っているようなイメージだったし、日本の武将で唯一好きな人だから第5回までをチェックしたのかもしれない。

 監督や原作者や脚本家がどうアレンジしてもいいのではあるが、今回の織田信長はなかなか良かった良かった。死に際が美しい人だったんだなぁ~と。

「満足」を語るために。

 よくもまぁこんな切り口・アプローチを不特定多数に送れるものだ。どこかで鋼の心でも入手・会得したのだろうか。で、「今の収入に満足していますか?」と来た。これはチープなスパムと処理するのは簡単だが、ちょっと、喰いついてみたい。このメルマガにの冒頭にはこう記載されている。

今の収入に満足していますか?
〓〓「もう少し小遣いがあったらな」って思いませんか?〓〓
〓〓欲しいものが、いつでも買える生活に憧れませんか?〓〓
〓〓安い居酒屋で、安い焼酎を飲む生活が楽しいですか?〓〓
〓〓サービス残業で、せっせと働き、昇給は満足してますか?〓〓
☆☆☆☆☆☆お金稼ぎましょうよ。お金儲けましょうよ。☆☆☆☆☆☆
お金があれば人生は本当に楽しいですよ。
今の収入に満足していない方へのすばらしい情報をお届けします。 とある。

 どこか「満足」の定義がおかしい。ずれて捻じれている。まずもって、「満足」と「情報」との組み合わせが安易過ぎる。たぶん、これを記述したライターの心理は何かのフォーマットを使用しているだろう。よくあるテレフォンセールスやテレフォンサービスのマニュアル的なモノだろう。これをメルマガを定期的に発信するプログラムのテンプレートに書き込んでクローラーで収集したメールアドレスにばらまいている流れだろう。しかし、この文脈のどこかのワンフレーズに共感した人なら、このメールに記述されているURLを叩くだろう。そして、訪問するぐらいなら、大きな問題にもならずリスクは少ないだろうと、道草・寄り道が自分の逃げ道になる。このシンプルなドラマをこの発信者や企画者は確率であとは魚を釣るだけみたいな戦略なのだろう。

 つまり、この場合、言葉や文章にあまり意味はない。ニュアンスの問題である。非言語がどこまで訴求力を高められるかという部分がデザインの仕事の重要なポイントであるから、このチープな文脈の中にでも何かの脈略を得て分解できる視点がないと語彙を先入観で捉えてしまって、語彙のニュアンスの部分を狭い自分の自己解釈で処理しアウトプットしてしまう危険性がるあるからである。これが情報化時代の徳の部分。これらの多様な視点を取り込んでいなければ創るという軸がぶれるのである。

最新戦闘機のプレゼン!?

 米と欧で最新戦闘機の販売戦略が激化しているらしい。う~ん、離陸点はなんとなくとしても着地点はどこだろう?そして、これらを買う人。何基準で購入するの?その場合の「いざという時」のいざの部分が結構近い感じだろうか?そして、これらを開発して作っている人。莫大な給料を頂いて戦闘機を作っているって・・・その人生、誰に誇れる?自分の中の神とどんな契約をしたの?しかし、信長という人、豪快で稀有な存在だったと大河ドラマで描かれていますが、真実はどうでもいいとして、現代にこう伝わってきている以上、多少のアレンジメントが画面の中にいるはず。アレンジメント=歴史ってことになるわけで、最新戦闘機も言わばその道の歴史上の産物。「太平の世」を得るための犠牲が必要だと誰が言ったかしらないが、そんなセリフが日曜日の午後8時になんのストレスもなく成立している部分、ちょっと、箍が外れているような気がした。なんもかんももうノーマルには戻れない戻れない。エジプトの暴動にしても振り上げたこぶしの行き場所はどこだろう?日本人だったこぶしは握っているぞ。今、仮に上に立っている人達、予定調和で生きてきた世代はもう少ないですよ、仮想に生きる人達の逆鱗に触れぬよう自分の城を確認しておくべきですね。相撲の世界もしかり、古い慣習だか経済の澱だか知らないが、露呈し過ぎ。情報が透明になると立ち位置を失う人、早く自分のベールの向こう側へ。

「買う」という満足感。

 日本人の経済感覚はある時点から狂っているというお話。モノが無い時代には人は一生懸命働いて生活のためモノを買っていた。しかし、高度成長の果て、得たモノに対する満足感がモノを「買った」という行為に置き換わったという説があるらしい。う~ん、確かにその感覚は微妙ですが、なんとなく理解できるような気がする。つまり、モノに反応していないわけで、ブランドやメディアやインターネットの情報で脚色された装飾されたモノ(情報)をゲットする行為に満足感を抱き、貨幣価値とかモノが良質であるとかモノを生活に馴染ませ活用することに重きを置いていないということ。なるほどなるほど、だから、泡のように消えた残像にまだ本質をかき消されているような位置関係ですね。それはあるあるである。

 お金で得たモノの価値はさて置き~金を稼ぎモノを手に入れる瞬間に一番アドレナリンが出てるのかもしれないぞ。日本人は単一だからコレクター気質が強いともよく言われているが、そのベクトルが本体ではなく行為に置き換わっているとしたら、本来のニーズが結論であり、モノは目的に対しての媒体になるのか?複雑な仕組みになってしまったものです。お金に余裕のない私にしてみれば、これこそが本末転倒であり、この竜の頭と蛇の尾は決して挿げ変わることなどないのだが。さてさて、こだわりの多様化が幻を追いかける構図になってしまったとしたら、かなり、レッドカードである。

宝くじが当選すれば人生は変わるのか?

 よくテレビCMで聞くフレーズ。「宝くじを当てて人生を変えてやろう!」という無責任なキャッチコピーがあるがこれは海外でも同じテイなのだろうか?奇跡の確率で途方もない(数億円以上)金額が自分のモノになった場合、本当に人生は変わるのだろうか?これは「宝くじ」をまだ一回も購入したことのない人間のひがみややっかみや愚痴レベルの独り言であることは否めないのですが、本当にある日突然3億円が自分のモノになったら本当に人生がどう変わるというのだろう?というのも、ずっとこのテーマで何か物語を書きたい(短い小説)と思っていたので、テレビのCMのフレーズがずっと耳に残っていたのでこんなブログを書いています。

 たぶん、恐らく間違いなくある日突然自由になるお金が3億円手に入れば、気が緩み仕事に対する熱意を完全に消失するだろう。そして、知人・友人・家族はこの程度のお金で何か特別な機会を得たと勘違いするだろう。それまで日々の暮らしの中で培ってきた感覚や金銭・経済観念のどこかの部分が破綻するだろう。いい方向でこの資金を活用すればいいだろうが、いやいや一生懸命仕事をしてその報酬として得たお金以外の方法で得たモノなどなんの価値もないはずが、それが必然のように思え、信じ、自らの人生だからこそ勝ち得たものだと誤解する。そこが全ての始まりであり、一旦壊れた人間の中にあるスイッチは傷のように癒えないだろうし、治癒もしないだろう。つまり元に戻ることなく軸を失い糸の切れたタコ状態になるだろう。それに、「私は1年前、宝くじで3億円当たりました。そして、素晴らしい人生を獲得しました。」という人に会ったことはない。メディアのゴシップなど捏造ノンフィクションの絵空事であるから物理定数的に絵に描いた餅よりもまずいはず。

 身近にそんな人がいて、それで人生が変わったんですっていうふるまいを見れてその言動を聞ければ少しは納得できるかもしれないが、まず100%そんなことはないだろう。確かに「変わる」と言っているが好転したとは言及していないことも、CM的には保険なのだろうか?一転どん底モードになるやもしれない「宝くじで当てた3億円。」結局、夢を買うんじゃなくて、それを購入した分の精神的なドキドキを楽しんで、よしんば当選したとしても、それこそが夢みたいな。

 たぶん、宝くじは一生買わない人間なので、こんな妄想が成立するのかもしれない。

彦ニャンどこへ行く?

 またまたその使用方法で作者と彦根市がもめているらしい。裁判では作者の言い分が通ったようですが、彦根市はそれを不服として~みたいな絵に描いたような泥試合。これが長浜市でなくて良かったと思う反面、同県内のしかもそこそこ認知度を獲得しているキャラクターでこのような悲しいもめごとが発生していることをどう受け止めればいいのやら。これも販売促進であり、ブランド化の一環だと大きく捉えることができればいいのだが、どうも、実態はガチでそうではないようである。古今東西どこにでも起こりうる「うんことはえの物語」。臭い代わりに何が浸透してはえの羽音がどう聞こえるか?主観と客観が入り乱れてまさにキャラクター争奪戦というミニマムな戦国時代が勃発している。冷たい戦争なのか、お茶を濁した茶番劇なのか、さて、こうなるとお互いに遺恨が残りつつも平行線上にけん制し合う攻防がこれからも続きそう。で、一定の認知度と経済効果を稼ぐキャラのサダメなのかもしれないですね。まぁ、ゴシップのテイでちやほやされているうちが花なのかもしれませんし・・・。お互いにメディアの露出を「シメシメ感」で受け止めているかもしれない。尻切れトンボの本末転倒が一周回ってワンならそれも予定調和かもれいないですし。地元、長浜市の三姉妹キャラクターが覚醒しない理由を考察した方が生産的・建設的かもしれないですし・・・。

合理化されない存在でありたい。

 私はいつの頃からか「衣食住」に関するベクトルに興味が薄れていき、最近ではもう、諦めたようにその類に心の針がピクリとも動かなくなった。これはある意味危険信号なのもしれないが、クリエイティブという視点ではかなり無駄な思考が頭の中から排除され、見たいモノ、見なければいけないモノを見せてくれているように感じている。自分の器は大きいことにこしたことはないが、限界はあることも知っている。だから、ときどき引き出しを整理して引き算を楽しんでいる。が、入れなければいけないモノも多いので、器を大きくする努力は怠ってはいけないいけない。

 で、「衣食住」に関わるものの生産活動は時代とともに機械化され合理化されてきた。しかし、多くの人間を支えるためにそれが逆に人間の存在を整理しているとも言えなくない。基本的に人間は楽をしたいという理由からあらゆる技術を発展・進化させてきた。以前は肉体労働こそが仕事という軸が正論であり、ブレインワークはある限られた知識や技術を持った人のジョブだった。しかし、コンピューターによる情報化社会において、機械化とシステム化は迅速に時代を牽引している。となると、人間様は何をすればいいのか?その答は明確である。「衣食住」に関わらない、つまり、生存するためのものからは離れた対象に仕事を求めることになる。つまり、「遊び」「娯楽」の産業である。物質的に豊かになるということは時間に余裕が良きにつけ悪しきにつけ手に入り、そういう贅沢・快適に消費者が金を出すのである。そこに確実に流通が生まれ次第に流れのパターンができシステムが最低限の仕組みになったとき、やはり、最後の最後は「何かを創っている人」がそこに残るのだろう。これが大枠の今後の流れとしても、さて、次の一手は何をどこに置く?ポーンで守りを固めるのか?ナイトで切り込むのか?クイーンで敵を排除するのか?何と何を相殺するべきか?結果、勝負はそいういうテイで毎日どこかで起こっている。いろいろなチェックメイトの末、勝った者と負けた者が最後に握手をできる社会の構造だけは合理化は難しいはずであると思う。

 今年もそんなスモールゲームもビックゲームもあるだろうが、策士として策に奢ることなく、次の一手を考えておきたいと思っております。「合理化」とは以外と箸にも棒にもならないことを企業のトップの人達はそろそろリアルとして捉え動き始めるように思います。

KAGEROUの評価か・・・。

 話題になっているヒロさんの処女作「KAGEROU」。いい意味でも悪い意味でも話題になっていますね。ただ、これに対する評価が一様に芳しくない。これはもしかして逆に「読んでみてくださいよ!」というFAKEか?どこをリサーチしても「凡庸」であるという評価が伴う。

 逆にそうでない場合だったらどうするのか?歴代の文豪に肩を並べるような作品だったらそれこそ驚異の新人作家であるし、それを選出した実行委員会も株が上がるというテイ。しかし、そもそもそうではないし、ただのゴシップだと捉えればそうガチで評価などとしなくともいいじゃん。作用と反作用の関係で言えば、評価している人はどうなんだろう?結局、それを特筆している結果になっているような気がします。

 私は残念ながら、この作品に対する気持ちのレベルはプラスマイナス0です。だから、絶対読まないぞ!と拒絶もしないし、何かのタイミング(いろいろなたまたまが重なって・・・)で手元に落ちてきたならページをめくるかもしれない。そういう存在ですね。人間が一生かかって読んだ本は歴代の研究者や文豪の大家でも数万冊と言われています。世界中にいったい何種類の書籍があるのか想像もできませんが、まぁ、力まずに「たまたま」気になった書籍を順番に入手して手元に置き、気持ちが向けばページをめくればいいのでは、結果、何冊読んだかなどどうでもいいこと。で、当然、電子書籍のコンテンツが何十万・何百万あろうが、あんなデバイスで何かを得たいと思う世代では明らかにないので、このまま無理をせずに自分のスピードでいいかなと・・・。

 ただ、「歌うクジラ 上・下」の仕掛けには興味がある。

日本語の依存性。

 日本人は言い切ることを避ける。文頭にニュアンスを置き、説明を展開し、結論を他人に依存するニュアンスで意見を交換している。これがいいのか悪いのか。慣習だからとスルーすることも危険だし、そこを掘って何か出てくるのか・・・?となるとそれも掘り方を吟味しなければいけないこともリアル。ただ、非言語を使ってアートだのデザインの世界にいるとコピーライトの不連続性が体系なのか?システムシステムと言いながらシステムのフィッシュボーンに依存し過ぎて結論ありきになってはいないかと少しシニカルな気持ちになる。悲観しているのか楽観しているのかそれさえ「悲観」と「楽観」の語彙に依存しているような。思考の骨に血を通す段階で血と骨を入れ替えれば、甲殻類的思考とでも言うのか。体得していることが体得していないことに干渉されないように保護プロテクトとしての言語能力。切り込まれても切り込まれてもいなせるチカラが言語の本丸だとも考えている。さて、刀は何本持てばいい、傷はどこまでなら自己治癒の対象なのか・・・?である。

繁栄とは。

 「人類10万年史、進化の原動力を解く。」か・・・。マット・リドレーという著者、英国のジャーナリストであり、オックスフォード大で動物学の博士号を取得。英国国債生命センター所長などを歴任した人物らしい。その著者が言っている。原題が「合理的な楽観主義者」となっていることから、その独自の視点がとても気になる。手の中の石斧をマウスに変えるまで10万年以上のひらきがあり、その精密な社会的進化のエンジンがあると言っている。そこにある「アイディアの交配」というフレーズがどうも気になって仕方がない。その視点から見た人類の未来ってことになるのでしょうけれど、これが、また、この著者のポテンシャルを覗きたいという気持ちをどこまでも刺激する。知能や才能や技能が交換されながら生成される秩序と言いきっているようですが、そのどこかにもし自分自身がいるとしたら、何か接点的なモノが抽出できるかもしれない。それが、日々の暮らしにどうF.B.するかは未知数として、探究の価値がありそうです。すでにファイナンシャル・タイムスとゴールドマン・サックスが本書を本年のBEST1に推挙しようとしていることからも、この著書、かなりありかもしれない。

鶏口牛後か・・・。

 尾川智子さんの好きな言葉である。「◎意味:大きな組織に付き従って軽んぜられるよりも、小さな組織の長となって重んぜられるほうがよいということ。◎解説:「むしろ鶏口と為るも牛後と為る勿れ」の略。「鶏口」は鶏のくちばしのことで、弱小なものの頭のたとえ。「牛後」は牛の尻で、強大なものの末端を指す。◎出典:『史記』◎用例:鶏口牛後の志を持って社会に巣立つ。」とネットには解説が載っていた。なるほどなるほど。素敵な言葉だ。自分自身で突き進む風は心地いいのだろう、切り開くという感覚は爽快なのだろう。リスクはある、そして、その場所ならでの強い向かい風も吹くだろう、しかし、自分自身の目的意識を明確にし、アイデンティティーは自分で完結させたければ、やはり、こうなるのですよね。さらにファンになってしまいます。

ひとつの卵。

 人間は一回の食事に10万個の卵を食べることはできない。そういう習慣がないからであり、身体のサイズに10万個の卵は多すぎるからである。10万個の卵をどう料理すれば美味しく食べられるなどと人間の思考は答を用意していない。が、それを食べられるという世の中になったからといって、それを食べられるツールが開発されたからと言って「卵」を食べたいと思わない。この感覚がいわばインターネットの中にあるデジタルテキストだと言えなくもない。人間は一回の食事に一個の卵をどのように料理してどのような食材と合わせてどのように盛り付けるかを考える生物だからである。それが楽しいのである。つまり知識よりも認識ということ。

 もうあまり見かけないが「大盛り番組」や「食べつくし企画」あれは観ていて辛くなる。何に対して辛いかというとその番組を作っているプロダクションのデレクターに対して、それを発信しなければ死活問題になってしまうと判断しているテレビ会社、そして、何よりもカメラの前で出された食材を胃の中に押し込んでいるタレントさん。まるで、後ろにジョン・ドゥーがいるようである。「大食」は罪だと誰か言っていたはずなのに、それがテレビで流れると普通に鑑賞してしまう人間の業。多く食べられることを競うなどローマの時代で終わったはずなのに、まだまだ、そこかしこにコロシアムは存在するのだろうか。

 一つの卵を美味しく食べられたらそれでいいじゃん。酷暑の影響で卵が高騰しているらしい。にわとりも大変である。餌を食べ毎日卵を製造している。人間も消費するだけでなく、にわとりのように何かを作らなければ、数億年先に地層の中で原油になるぐらいしか使い道はないだろうに、それも、わざわざ焼却して炭素に返す始末。地球は卵、美味しい楽しい卵にしなければと何億人の人が認識しているのだろう?

適正な規模になる・・・か。

 そりゃそうである。電子書籍でも紙の書籍でも売れるモノは売れる、売れないモノは売れない。つまり中身なのである。体裁がどうであれニーズがなければコンテンツにはなりえない。つまり、雑誌や書籍の質がそうなったから売れないという現象が起こっているだけ。これを端末に入れ替えたとしても同じ。反応しない人は反応しないだろうという見解に一票である。そして、書籍が売れない、雑誌がメディアとしての広告効果がないと判断され、新聞と同位になる。テレビも同じ。ラジオなど数年前に断末魔を聞いた。つまり、メディアの価値がなければ広告が集まらない。広告効果もないのに、広告の掲載を促されるパターンはもう遠い昔の石の下である。効果は数値で認証できなければ、そこに費用対効果も存在しない。目に見えない効果に人はもうコストはかけない。と同時に目に見えない大きな価値が存在することの現実。このバランスとして書籍の絶対数は適正な規模に落ち着くのだろう。適正値内にエントリーしたいものです。

本とは?

 本をめぐる環境が激変している。実際にベストセラーと言われている書籍についてあまり興味がなく、特にベストセラーを読みたいと書籍をリサーチしないので、一体今どのようなカテゴリーがベストセラーなのかまったく分らない。単純に安易なビジネス書やダイエットやグルメ関係なのか?タレント本なのか?軽めのサスペンスモノなのか?では具体的に著者は誰?など全然リサーチできていないので、何が売れる書籍で何が売れない書籍なのかは分からない。ただ、傾向として特定のWEBサイトや新聞の広告による書籍の情報をリサーチする機会が多いので、もしかすると、その傾向が強くなっているかもしれない。が、ジャンルで言うと必ずしも日経新聞の編集意図や特定のWEBサイトだけが興味の対象ではないので、それこそ、ぶらりと最寄の書店でフラットな気持ちでどこのコーナーというわけもなくふらふら歩いて気になる書籍をリサーチしながら入手するというパターンが多いので、傾向的にもまったくランダムだと思っている。しかし、書棚にある書籍はカミさんに言わせると確実に「偏っている。」らしい。でも、結局興味がそこしかないので、書籍のパターン化は崩しているようで崩せていない。

 つまり、「売れた書籍が良書」なのか?、「良書だから売れる。」のか?は分からない。しかし、本が売れる売れないということはあまり実は気にしていなかった。売れることが出版社のキモであることは当然でありビジネスとして成立不成立がこの売れるに深く関係するから、たぶん、恐らく出版社は「売れる書籍」しか発行していないだろう。しかし、中には出版社として編集者としてこのような書籍を市場に送り出したいと考えて監修・編集・企画する場合もあるだろう。では、この比率とはどのようなバランスで時代の推移を形成しているのだろう?まぁ、そのタイプの日常業務ではないからと言って、書籍を売ることに興味がないわけでもないので、「どうしたら売れる書籍が作れるのか?」とデザインという仕事のシンクロしそうな部分には興味がある。ヒット商品が良品とは限らないなどと単純にこの構図を捉えることもしたくはない。

 で、売れる書籍は電子書籍とどんな相関関係にあるのか?という洞察についてですが、たぶん、この両者は共鳴しているはずである。確かな物理定数は知らないが、形態やデバイスが変わっても本体の質量は同じだろう。この場合の質量がホンマルではあるが、結局「ええ感じのモノは強い」ということで間違いないように思います。本という存在が問われているが別に紙であれパルスであれ、「ええ感じ」であればいい。つまり、ええ感じの人はええ感じの何かを創造しそれをやはりええ感じの人が受け入れているから文化や慣習が形成されるということもひとつ軸としてアリなのではないだろうか。

 ええ感じの人でありたいものです。

「ストロベリーナイト」の成功要因。

 まず、原作者が誰か知らないテレビドラマであったこと、そして、新聞の予告でもあまり知識がなかったことがこのテレビドラマがフィットした要因であった。まだ、詳しくリサーチしていないので、このブログを書いてから調べようと思っていますが、まずは、何故ああまでしっくりきたのかを分析してみたい。

 昨今、マンガ原作のテレビや映画が多いのはいいのですが(そんなことどこの国でも同じだから)、ただただ、テレビにするという条件化で何がぶれてくるかと言えば、まず、物語の尺である。マンガが小説の世界では時間の感覚が自由であることを2時間のドラマや13本の連続ドラマプログラムに変換しなければいけないという条件がある。これは、脚本家の方の手腕とPの手腕が露呈するのだろうが、いくらマンガが面白くてもそれはマンガの尺で抑える部分、引っ張る部分、盛る部分、はじける部分をコントロールしているからであり、それを単調な2時間の尺に同じ画面の中で限られたコストの中でとなると、そりゃ現場の人達は大変だろうから、こうも、最近のテレビドラマが面白くないのであろう。どんなテーマでどんなカテゴで役者は誰かは10分ほどで読めるから、ここ最近、10分以上観たテレビドラマが全くなかったのもそれが理由。そして、やはり、どんな役者さんが登場しているかも大きな要因になる。このキャラをこの俳優さん?この条件でこの女優さん?ということにならない限り脚色は成功するはずであるが、まぁ、これも残念なことが多い。特に俳優さんや女優さんの人気だけで始点から終点までひっぱろうとする意図が一瞬でも観えた時、もう、その段階で気持ちがOFFになる。そんなことがここ最近はずっと続いていた。誰が出ようが何が原作であろうが、10分を超えたテレビドラマはあまり記憶になかった。かの大河ドラマでさえ、真木よう子さんのシーンしか記憶にない。大沢さんと綾瀬さんのドラマは珍しく初回から最終回まで1分も見逃していない。

 で、昨晩の「ストロベリーナイト」。テイはまぁ、「ブラックサイト」でありさほど新しい感じもなったのですが、上記の理由で視点から終点まで実に秀逸に物語、配役、ドラマ性、テンポ、社会性、美術などがマッチしていた。何より、俳優に全く無駄がなかった。適材適所と言えば僭越ですが、このポジションにはこの俳優さん・女優さんということで全く非の打ちどころが0だった。主演の竹内さんもGREAT。脇の俳優さんもGREAT、意外と高島さんも良かったし、旬な皆様も全くマッチしていいた。物語の中のリアリティーという部分で非常にホットな構成でした。圧巻はやはり、谷村さんと林遣都くんである。ここまで設定と物語を全て最後の最後で受ける人物像は誰か?それがとても興味があり物語の1分1分に緊張感があった。もしかして、これだけの俳優・女優を集めたドラマなんだから、そりゃ最後の結末の部分で登場する犯人は凄まじいはず、もしや、もうその人物は登場していた?などと最後の最後までその瞬間を楽しみに鑑賞できた。で、谷村さんと林遣都くん。ここまで重厚で旬で演技派の俳優が物語を引っ張ってきたこをと受けるこの二人の重圧は相当だっただろう。しかし、さすがにこの二人の演技はGREATだった。それが最後の最後までこの物語の質量を上げ続けた。谷村さんはすでに演技派として地位を確立しているが、林遣都くんの今後の展開をこのドラマを始点に楽しみが増えた感覚である。

 いやぁ~良かったですね。ちょっと、ぞぞっとしましたものね。テレビドラマでこんな「ぞぞっと感」は何以来だろうか?と考えてももう記憶にないほど遠い昔のような気がします。ってぐらい林遣都くんは良かったですね。二の線の若手のイケメンでは絶対に無理だったでしょうね。ほんとに林遣都くんは演技派なのかもしれないですね。線が細いことをしっかり自分の演技の中に取り込み、その器の中でこの物語における自分自身のポジションを理解してカメラの前に立っておられるよな・・・、う~ん、良かった。

 勿論、竹内さんはその実力どおり、ガチで物語の全てを支えておられました。この支え方ができる女優さんと言えばの部分ですが、深津さん・柴咲さんぐらいだろうから、このストロベリーナイトに関しては竹内さんが大正解だったと思います。ほんとにひさびさにしっかり最後まで楽しめたテレビドラマでした。

 勿論勿論、桐谷君も速水先生も良かったっす!!!

流出問題。

 もし流出したことが問題であれば原因は人にあるが、問題点の鉱脈は深い。まぁ、天上天下唯我独尊だから仕方ないんじゃないだろうか。またまた、テレビ用の原因が捏造されて過去の出来事になるだけ。人間の風化させる能力は凄まじいですからね。熱いうちに打っている鉄が言わば鉄なのかもしれないですね。あとは錆を待つだけみたいな。そう言えば日本の錆がこのことをコメントしていたが、もう、今にも崩れそうなテイ。鉱脈に触れなければ酸化しなかったのに・・・みたいな。

プライスレスだから楽しいのか?

 お金がないから人生を工夫をしてきたということなのだろうが、あまりたくさんのお金が必要な「楽しみ」を持っていないことに気がついた。つまり、お酒を飲まないことや旅行をしないことブランド商品に反応しないこと。そして、バイクや高級な車には心の目盛りが1ミリも動かない。よく芸能人がほざいている「自分へのご褒美」的な高級腕時計やアクセサリーなど頭にないししない。まぁ、お金のない人間のただの愚痴ではあるのですが、それにしてもそれにしても、自分自身の「楽しいこと」はお金がかかっていない。衣食住に興味がないから、雨風を凌げる、困るほどの空腹感がなければグルメなんてどうでもいい、まして、何とか牛がどうのなど例え選択肢を迫られてもそのベクトルをチョイスはしない。吉野家さんの「牛鍋丼」がパーフェクトである。それに、ウエアについても同じ。ラベルやロゴを買うことはしない、あくまでも機能性に相応しい売値だったらmade inは気にしない。

 ならば、何が楽しいのか?と聞かれると、「デザインやアートの仕事」「絵を描いたり何かを創ること」「運動をして健康管理をしっかりすること」「山や湖で自然に触れていること」となる。これが不思議と見栄や謙遜ではなく、本当にそう思っている人間だからあるいみタチが悪い。で、それは、社会に出てからそうなったのか?と振り返ってもそうでなはない。学生の頃から適度なライトなギャンブル以外はだいたい上記のことに限られてくる。まぁ、ここまで人格が形成されるにはいろいろなサインがあったのでしょうけれど、この状態のどこにストレスがない。もしかしたら、自問するとそう思いたいと思っているだけなのかとも禅問するが、どうもそうではなさげ。やはり、「楽しい」は自分の場合、かなり、相当、プライスレスなのである。だから、車やバイクなどにも興味はないし、時計やバックや靴にもこだわりはない。つまり、上手く表現できないが、「時間」や「金」や「立場や肩書き」などのモノサシに絶対に縛られたくないと思っているのかもしれないですね。と、ブログに書き出してみましたが、どうもこの「楽しみ」が本丸のようです。何よりのびしろが自分次第なのがいいですよね。

10億人の肥満と10億人の飢餓。

 世界の人口が現在約70億人。のうち、10億人が肥満で10億人が飢餓で苦しんでいるらしい。これはどう受け止めればいい数字なのでしょう。残りの50億人のひとりで良かった良かったなのか、苦しんでいる人に手を差し伸べることをしなければいけないのか。10億の肥満の人が毎日食べている食事を10億の飢餓で苦しんでいる人に分けるという単純なことは難しいのか?クラウドで地球は小さくなったと言われているがこれは仮想のお話。インターネットで食糧が共有できるうような技術が発達すれば、もしくは、電子食糧みたいな技術が進化すれば一気にこの問題は解決するのだろうか。う~ん、10億人の肥満の人は10億人の飢餓の人のことをどう思っているのだろう・・・?リアルな数字です。

女性の方が稼いでいる現実。

 新聞に書いてあった記事。独身の30歳以下の男女の平均月収が男性よりも女性の方が上らしい。100歳以上の戸籍に名前だけがあるすでに他界している人がぼろぼろ出てきました。つまり、その年金で暮らしている人がいるということの裏である。政治不信が経済をふわふわさせていることやメディアの崩壊がいろいろな意味での「実は」の部分にメスを入れているということでしょう。そういう時代だから、別段、男性の平均月収が女性の平均月収より下回ろうが驚きはしない。その背景的には男性の製造業のニーズが減り、というか、製造業に携わる人達がいわゆるオートマチックな機械によるシステムにその存在価値を奪われる傾向にあるということなのでしょう。で、女性は医療事務や介護関連などの現場のニーズは不景気に関係なくいつの時代にもニーズを創出しているということ。つまり、そのスキルや経験値を持っている人は給与の対象として製造業に携わる男性よりも価値が上だということの結果であろう。でもまぁ、そんな物理定数で何を洞察したところでリアルな部分で次の一手にさほど影響はない。経済の構造が製造業からソフト思考に移行しているということはもうこの時代だからということでもないので、当然の流れであり、労働力を提供しているだけでは、社会のニーズの変革には依存するだけで、社会との関係性における充実度の高いマッチングは獲得できないとも言える。

 で、やはり、女性は強いといことであり、女性は才能という本能に長けているということはどうやら現実であり事実のようですね。脳幹が太いことで感覚や行動力や判断力に何か男性よりも長けた能力が多いということなのでしょう。つまり、菩薩の上の孫悟空は上手いこと言っているわけ。そりゃ、このインターネット社会の基礎の部分をしっかり支えているのは明らかに女性である。そのニーズが存在しなければ、ビジネスだのアートだのビジョンだの言っている余裕はないのだから。ここをリスペクトしなければ、いくら机の上でどんなテイの理想を語ろうが、しょうもない会議の時間で当たり前のことばかりを呼称・復唱しようがそれらはすべて「キレイゴト」なのである。脈々と流れるデジタルコンテンツを支える女性のポテンシャルは世界を支えているのである。

 だから、平均月収が男性よりも女性が高いという記事を読んでも別段驚くことはない。当然だろうと思いますね。子どもを育て、家事をこなし、社会のニーズにスキルと能力でレスポンスを返す女性にリスペクトせずにどうする?というテイ。たぶん、政治の世界もあんなにたくさんのおじいさんは必要ないし、全国的にみてもおじいちゃんの議員さんをはじめ油顔の若手組も含めて女性陣に置き換えれば、ちょっとは日本も活力が出てくるのではないだろうか。男は考え過ぎ、考え過ぎて判断できない人ばかり。数値や傾向や対策に本来の正しいというか有効な判断をできずに指をくわえてる。そのとなりで強い女性は自分に与えられたニーズを着実に処理していく。この行為こそが創出である。たぶん、自殺者の数の内訳は知らないが男性の方が多いはず。ならば、男性の役割とは?それは「筋肉」しかないのだろうと思います。いろいろな意味での筋肉的思考というか行動というか、だから、製造業となるのでしょうが、製品を製造するのは機械ですから、そこに筋肉は関係なくなってきている。ならば、別の筋肉を使いましょうよという時代なのかもしれないですね。頑張ろう・・・。

一同合意の二面性。

 マネージメントのコンサルタントが海外から日本の中小企業に訪れた時になんとも不思議な会議の進め方に驚くらしい。会議に問題提起がなされ対策が講じられる。それぞれの部署からの数値的な報告や現状についての考察があり、テーマに沿った情報が収集されて紙でデジタルで資料が配布される。問題点の規模に応じて、カテゴリーに応じてそれぞれの担当者から解決策がプレゼンテーションされる。そして、そのプランに対する意見や修正案が会議に出席している人達から述べられ、共感と反論の協議が展開する。ここまでの時間、それぞれ然るべき部署の人間が数時間ひとつの部屋に拘束されていわゆる「会議」が進行してくる。最終的に結論が出る場合と出ない場合があり、会議の多くはその場で結論が出ないことが多い。仮に多数決で審議したとしてもそれはあくまでも便宜上の一段階に過ぎない。最終結論ではない。そして、おどろくなかれ最終結論はトップが出している。これにはもうコンサルタントという立場ではない人間でも舌を巻く出来事。その一部始終を見ていたコンサルタントは言ったらしい。「この会社にコンサルタントは必要ありません。」と。その言葉を残して母国へ帰っていったというお話。

 このお話の摩訶不思議な部分はなぜこの会社がコンサルタントを雇おうとしたのかという部分で、そもそも、その結論を出すための会議はどのような内容だったのだろうか?という点である。このような現象はいたるところで起こっているはず。何も中小企業に限ったことではないだろうし、マネージメントが何故必要でどのような効果を齎すというのかを、いったい、誰がどんな情報を判断して導いたのか・・・。もう、この不思議な不思議なスパイラルが無限に続く。

 つまり、この場合の会議の「合意」とは便宜上であるということ。本質の部分で予定調和を得るために同じ方向を確認するための会議であり、結論を出すための時間ではないのである。まぁ、「人が3名以上集まれば答は出ない。」という言葉にもあるとおり、人の心の綾は難しい。まして、会議のテーマに相当の責任感がある場合、二面性は必要不可欠なのであろう。最も大切なことはそのテーマについて協議したという事実やプロセスが重要なのである。専門家でもない人間がネットで独自の分析力で収集した情報をどう活用するのか?まして、マネージメントのスキルもキャリアもない人間がマネゴトで正しい状況判断ができ、会議をナビゲートできるのか?年功序列で上から下へ流れる水ほど美味しくない水はない。

 しかし、なかなか聞けないことですが、どんな場面でも勇気を持って切り込みたいものです。What do you mean?と。

中田ヤスタカさんのトラップ。

 「僕が君の言葉で悩むはずがない・・・。」か、中田ヤスタカさんのトラップは深く近未来のようでいて、実はリアルを描いている。しかも、本質は源泉から流れている強さがありますあります。時に論理的とは感覚的とシンクロするのですね。

パフューム「575」の仕掛け。

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 ほんと、田中ヤスタカ氏の仕掛けは巧みである。これだけ仕掛けが現代のニーズにマッチすると面白いだろうなぁ~。そもそも、パフュームはデビューした時から一定の方向性をかなり高い位置でキープし続け、さらに、時代の流れにマッチングして覚醒している。まぁ、ファンであることで迷走ぎみな意見かもしれないが、これも、時代の流れで分解すれば脈略が整う。それが仕掛けの効用なのである。この3名のキャラがどうのということはテレビで観える表面的な色の部分。彼女達はシンガーであり、パフォーマーであり、アーティスト。くだらないMCの人参に反応する必要はない。

 で、新作「575」の仕掛けがなんとも・・・。う~ん、時代が見えている人は強い。自肩の強いひとは凄い。軸のぶれない人はのびしろが凄まじい。と、思う。

オフィシャルサイトはこちら。http://www.perfume-web.jp/

芸術とは?

 そうかそうか、「芸術」とは「人が芸術と呼ぶモノ」なのか。アートやデザインにずっと関わっていると尺度というか考え方のモノサシや他人との比較ばかりに気をとられ自分の基準値がどこにあるのか定まらなくなっていた20代だった。学校の中にアートなどないだろうとは思いながら過ごした学生時代から、生活するためにドアーズを叩いたデザイン界。もう、試行錯誤の紆余曲折の上に七転八倒、おまけに右往左往の連続だった。何のために何をする?こうなるためにこれをする?ばかりが頭に充満していた。

 で、そもそも芸術とは何か?というシンプルな疑問が頭に浮かびはじめた40代。少しずつ少しずつその大きな氷山が溶けているのかもしれない。積み上げたモノが大きいと捨てるのも大変だし、新しく何かを持ちこむのも容易ではない。いっぱいいっぱいになると場所を変えてリセットすればいいとはよく言うがそれもそう頻繁にできることではない。今、「芸術と金」という書籍とドラッカーの「マネージメント」の書籍を併読しているので、頭の中のトルクがかなり上がっているからかもしれない。

 なるほど、「人が呼ぶもの~」ありきでいいんだと今日現在は考えられるようになっています。まぁ、これも秋の空と同じかもしれないが、少しずつでも原石が見つかればそれをどうにか加工はできるというもの、何もないところからマジックのように結論は具現化できない。という意味で書籍の中の著者の世界観に一時気持ちを委ねる読書という時間はほんとに心地いい。「人が呼ぶもの~」なのだから、絶対はないということ。あくまでも相対であることで間違いなかったと少し安心している。

 余談ですが、ドラッカーの書籍の中に「公共機関」の仕組みについての警鐘の下りがあった。何故こうも公共機関の組織は機能しないのか?というQである。なるほどなるほどである。目的が一般企業とはことなること、優れた人材が存在しないこと、相対性が絶対性で完結し創造性さえも本末転倒になっているからだそうだ。確かに、競争力のない人間だからそのテイを選択したわけだから、ポテンシャルなどあろうはずがないとドラッカー氏は言いたいのだろうか・・・。

 つまり、ここに芸術とは?と同じ考察が適用されるということ。原因や起因はすべて人だということで、人がどう考えてこれからどう考察していくかを想像し創造する企業が消費に値する価値を担えるのであろう。すべてはチェーンリアクションなのである。

あまり興味のない3D関係。

 なんでもかんでも3Dimensionで商品力の差別化を図ろうとするテイが氾濫している。確かに3Dは技術だが、あまり、この表現についてテンションは上がらない。何故だろう?興味がないから、そそくさとそれをチェックしないリサーチしないからなのですが、カメラにテレビにムービーにと3Dに見えたことで何がどう2Dと違うのか?基本的に目の錯覚でしょう・・・という頭で捉えているからなのか。実際に迫力のある3D映像を観たらこんな思いは吹き飛ぶのか?いやいや、そうでもないんじゃない、と思っています。

 確かに技術力が進化しデバイスの機能は日々進歩しているが、3D映像でペットを観てもピンとこないし、どこかの世界遺産の風景や建造物が画面から飛び出しているように観えたところで、頭はそれを錯覚だと認知している状態だから、それこそ仮想の上にチラつく仮想の産物。迫力のある映像は別に3Dでなくとも迫力は感じるし、映像だけでは人間の五感は20~30%しかリアリティーとシンクロしないらしい。残りはほとんど聴覚から入る情報でリアリティーを感じるらしいです。ではでは、8チャンネルシングルサウンドチップを駆使しながら3Dをマッチングさせれば・・・相当なものだろうが、でも、3Dはさほど喰いつけない。まぁ、いつもの喰わず嫌いなのでしょうが、食べる前に警戒する能力って古代から備わっている人間の大切な本能ですし・・・。

合理性20%、非合理性80%。

 「「人間は合理性20%、非合理性80%で生きる動物だ。」と言われています。数量になって表れる部分(従来の定量型マーケティング)は20%で、それ以外の80%はエモーショナル(感情、情緒、感覚)で、とても計算が難しいものでした。しかし、生活者優先社会で、このモノ余り社会。数量モデルから見えてこないものが数多くあります。落ちこぼれてくるもの次第に増え、ここでポストモダーンマーケティング(定性型)へ大きく軸足を移していきます。今マーケティングの原点は定量調査から定性調査へ。定性とは、結果何%で良し悪しを判断するのではなく「なぜ人はモノを買うのか」という洞察を進めていこう、というアプローチです。結果を分析し、後付けするのではなく、理論と感性で予見できるリサーチに切り換えていこう・・・と。」このように人間を一人の個としてとらえないかぎり、生活者のニーズに合ったものは生まれないからです。こうした時代の流れの中から、生活者の行動の心理の内面に深く入り込んでマーケティングに生かす「コンシューマーインサイト」という手法が拡がっています。」という部分をある書籍から抜粋しましたが、そもそもマーケティングとは確証がなく、例え便宜上マーケティングの結果としての結論がアイドマの法則に適用しようとする段階で合理的になる。合理的はエモーショナルではないのだから、この論理は少しおかしい。仕事上、ヨコモジはよく使うが「コンシューマーインサイト」って分ったような分らないようなとてもエモーショナルな定性です。

 冒頭の20%と80%の関係性もさほど的は得ていない。これも便宜上の定数だろう。この著者は五感を使え、仕事は会社でできない、結論は進行形だなどと上手い表現を駆使しながらも、落とし所が緩い。さすが、某広告代理店のOLD BOYである。こんなことばかり考えていたから、書いていることと、自分自身の感覚のズレに若干気がついていない。そのまま本にしたようです。ほんとに文脈の導入部分はいいのだけれど、中身が定量過ぎて、全然、エモーショナルな感じがしてこない。もしかして、ご本人は素晴らしく五感を研ぎ澄ました方かもしれないが、こうして文脈にすることで体系化せざるをえず、フィッシュボーンになってしまっているのだろうか。ならば、書籍というテイの表現の限界にもしかするとこの著者はトライしたのだろうか・・・?ならば、これは素晴らしいチャレンジである。

 で、導入部分にクリエテイィブでひも解くために歴代の広告の有名コピーを並べたがこれがどうやら、失敗だったかもしれない。ここから仮説を始めるにはもっと後半戦ののびしろが欲しかった(まだ、30Pほど残してあるが・・・)。う~ん、一冊の書籍に自分の考えをまとめ完結させるっていうことはとても大変なことなんだろう。そう言う意味でこの書籍はとても勉強になりました。「真クリエティブ体質:高橋宣行著 発行:PHP研究所」でした。

40年前のイライザ。

 イライザの詳しくはこちらをご確認ください。

 で、これが現代のいろいろなデジタルデバイスというかプログラムの元祖みたいな存在なのだろうが、その基本的な機能を見て改めてびっくりする。いわゆる「おうむ返しプログラム」が人間の脳が心地いいと感じてしまうこのディテール。確かに!という部分を強く感じてしまうだけにこのイライザの意義は大きい。つまり、安心させるためだけなら、プログラムのように中身がなくとも、伝えたことをやまびこのように返すだけで人間は安心感を感じるということで、それが人間の安心の本質だとしたらちょっと引く。って、自分もそうかもしれないし、「実は~」みたいな相談モードで心の澱を語ったとしてもそれが誰であれしっかりと聞いてくれて、適切なアドバイスなどなくとも、やまびこのように1対1で反響してくるだけで悩みが解決していしまうのかもしれない。う~ん、人間って単純だ。

 逆に反論されたり、上からのアドバイス的なことを、聞いた側は一生懸命真摯に語ったところで、落ち込んでいる人には「心地の悪いノイズ」にしか聞こえていないのかもしれない。禅には「善友」という言葉・価値感があるらしい。共に時間を過ごす人の中で自分自身の心がどう反応するかで「善友」であるか否かが振り分けられてるらしい。それを知る手法として瞑想による自意識のなんたらかんたら~だそうである。まぁ、ここらへんのメンドクサイことはさて置き、確かに自分自身にとっての「善友」とは誰なのか?という部分、改めて自分を知るサインのようですね。

 だから、日本の政治家は全員一旦どこか海外に移住して頂き、IT技術で業務を行っていただき、イライザ的なAIを総理大臣にしてシンボル化する。で、国民はそのプログラムに対して国政を語っていただくみたいな。結果、無駄なノイズがなくなって日本が透き通ったらよし、沈滞するようだったらプログラムに集まったアーカイブを解析してそれぞれのエキパの人がこのプログラムをそれぞれの分野でバージョンアップしていけば、一歩前へ進める国政が可能なんじゃないの?

 で、移住した人たちはそのままそこで余生を過ごしてください~みたいな。結果、必要なかったのだから・・・、ということで。これってかなり抜本的のような気がします。しませんか?アシモフ博士だけは理解してくださるだろう。

MONKEY・KENさんか・・・。

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 世界は広く狭い、音楽は大きく深い。時に知ることで愕然とするインパクトを得る場合と無味乾燥な自分を感じるケースの二つに分かれるような気がする。「聞く」ということに身体が心が自我が反射してるのだから仕方ない。条件反射なら自律神経も意識できなくもないが、反射ならどうしようもない。反射はの本能か?反射は必然が?音楽のジャンルに「この部分にだけはこだっています」的なこだわりはない。どんなジャンルでもどんな人でもどんな楽曲でも聞いてから反射で決めればいいと思っている。しかし、数多の作品の中からこうして出会えた一期一会には何か意味があるはず。それが何かを考えず感じられたらそのアーティストは私にとってサイン。あと何回聞くだろうと考えてしまう音楽ならたぶん数えるほどだろうし、何度聞いても新しい楽曲はどんな気分の時でも新しい。音楽は不思議だ。時間軸にメロディとリズムが並ぶこの綾になぜこれほど心が反射するのだろうか。音楽とは不思議な表現形態である。時に時間の経過も超えて音が心を揺さぶるのだから・・・。

In english, please.

 あるメルマガより抜粋。「多くの方がご存じのように、今年に入って日本企業である楽天やユニクロが社内公用語を英語とし、日本企業から世界企業を目指すことを発表しました。このニュースからも象徴されるように、今までは英語ができれば大きなアドバンテージになっていましたが、これからは英語ができなければビジネスの世界から取り残されてしまう時代が日本でも本格的に到来しつつあります。言い換えれば、ビジネスと英語、お金と英語の関係は切っても切り離せない関係であると言えます。そのような時代環境の中で、英語や将来に対して不安をお持ちの方が多いのではないでしょうか?そこで、英語を使ってグローバルに仕事をしたいとお考えのビジネスパーソンを対象に、「お金と英語のリテラシーを高めて、ビジネスで成功する方法」をテーマにしたセミナーをこのたび開催します。」となっている。まぁ、このセミナーに参加するつもりはないし、会社の公用語が英語になったところで、別段、なんとかなるだろう。それよりも、日本企業から世界企業を目指すなら言語の問題よりも別の大きな問題がありそうです。英語ができなければビジネスの世界から取り残されるという危機感は大切ですが、環境問題・禁煙促進運動・二酸化炭素削減・省エネなどなどもしかり、グローバルに仕事をしたいならお金と英語のリテラシーを高めるだけでいいのだろうか?

 最近、珍しく大河ドラマを2週連続観たが、「新しい日本新しい日本」と連呼しているあたりが人気のようですし、戦国時代云々もたぶん日本の歴史はこうであっただろう・・・ぐらいの史実からフィクションで膨らませて人気俳優がそのテイの刺激的なやりとりで盛り上げてます・・・みたいな感じ。それが、今の時代と対比させてモヤモヤを疑似的に解消しているだけのようでした。新しい日本の夜明け・・・か。たぶん、仮定ですが、その頃の幕府と今の日本の政府を比較するなら、どんな部分が違うのだろう?刀を差している武士がいなくなってさぞ政府はやりやすいことだろう。

 で、グローバルとは?PLS, tell me in english, Frust. Well, let's discuss about it. Come on!

イタタタタタ・・・。

 ある新聞の記事からの抜粋です。「例えばバブルの頃は食自慢といえば、少数民族や欧州の田舎など海外の珍しい料理が話題となった。いま視線は国内生まれの個性へ。地に足がついたのか、ゆとりの減少か。ともあれ衣食住遊、独自の生活文化を守ってきた地方にはチャンス到来である。中央からの補助金で、東京をまねるばかりが地域振興ではない。」とある。これは痛いんじゃない!?

 誰が?東京をまねてるって?って聞くかもしれないけど、独自の定義は想像以上に教科書には存在しない。教科書にある地域振興のマニュアルには逆になんと書いていあるのだろう?たぶん、バブルの頃の澱がいっぱい残留しているような気がします。だって、東京だって「まねだらけ」ですものね・・・。

 で、「まね」が悪いのか?そうではないですものね。「まねぶ=学ぶ」ですから。独自などそもそも存在しないのですから、オリジナリティーって言葉にあまり泥酔しないほうがいいということでしょうね。

廃墟と廃道という存在。

 最近書店で気になる書籍のカテゴリーベスト1は「廃墟と廃道」に関する写真集や雑誌です。何かどこかとても気になる。立ち読みでチラミしている段階ですが、いずれ、そこそこそのテイの書籍や写真集を買うことになるだろうと思っております。まだ、ガチでそのテイのWEBサイトをリサーチはしていませんが、2~3年前、富士山をリサーチしていた頃のようなドキドキな感じを「廃墟と廃道」に感じてしまいます。

 まず、それを専門に撮影しておられるカメラの方の考え方が面白い。だから、写真もどこか美しい。写っている風景や施設はもう雨風の中でかなりの建物としては停滞している。つまり、時間が止まっている状態なので、世界の絶景や世界遺跡のような美しさや壮大な雰囲気はない。その施設から人が離れてかなりの時間が経過している壊れた家具やほこりが上にたまったゴミの山が切り取られている。人が離れると建物はこうなるのか・・・という衝撃がある。それがどこか美しいと感じるのはたぶん人間だけだろうけれど、でも、とても気になってしまいます。

 ここに目を向けたこの第一人者のカメラマンは凄いなぁ~と。気になる以上、そいういうスポットがあれば、ぜひ、カメラを持ってそのテイの場所に行き撮影をしてみたい。その場所に立った時、少なからずこのカメラマンの方の気持ちが分かればこのドキドキの意味が少し理解できるかもしれないので。まさか、近い未来の日本像をこの写真に見い出しているとは考えたくないが、それに近い危機なフィーリングもドキドキに含まれているように感じます。

 IT、バーチャル、デジタル、インターネット、クラウド、仮想現実とキラキラする存在に心を奪われていると、リアルの世界はいつかこうなってしまいます的な警鐘のようにも感じますし・・・。

バリューか?ノイズか?

 「情報が氾濫している。」とはよく聞くし見るし、そう強く感じる側面は機会は多々ある。が、その場合の「情報」とは具体的に何か?分解してみるといくつかのパターンがある。有益な情報とそうではない情報。個人的に主観的に好きな情報とそうではない情報。正しいと思える情報とそうは思えない情報。これらをバリューなのかノイズなのか選択・判断・考察しているモノサシって何だろう?ひとつは、価値というこなら、お金に換算できるし、価格的な価値を別のベクトルで判断することは消費者として当然日々行っている価値判断である。これらは比較的「価格」という基準があるからそうストレスなく判断できる数値化されたバリューである。しかし、情報の全体像はこの価値判断に当てはまらない場合も多い。

 情報とは何か、つまり、五感と心でインプットされモノ。勿論、PCの中から携帯デバイスの中からテレビからラジオから新聞から雑誌からそれらの情報は個体の中にインプットされる。¥100のモノを¥100でインプットするならストレスはないが、¥50のモノを¥100で買わされるとストレスになり、¥100のモノを¥50で買えたならそれはバリューである。が、このように明確に数値化できない情報がストレスになり個体の中に蓄積され続けると、最初それに若干のストレスを感じていた個体が慣れ、それがその個体のモノサシ・価値判断のスケールになる。これはある意味学習と呼べるのかもしれなが、良き学習もあれば悪しき学習もあるという現実。すると、その習慣で得たモノサシで以前なら価値を感じていたことがそれほど感じられなくなり、個体にとって適正な有益な情報だったにも関わらず、そのサインを見逃してしまうこと。これが、日々、小さいジャブのようにどこからも飛んでくる。これに対する護身術はないものだろうか?セキュリティーリスクと言えばそうだろうし、プロテクトツールでバリアしてればいいだけかとなるとこれも疑問が残る。結果、現代の人は自分自身の心の中にひきこもる。アイソレートは決して悪しき習慣ではないし、この状態からとてつもないコンセントレーションが生まれたり天才的な歴史的な着想が生まれていることも事実。とすると、これらのことについて、こうあるべきだ!というバイブルは存在しないという仮説も成立しなくない。たぶん、福音にもそれが適用できるはず。

 となると、バリューとノイズは自己責任において個体が判断しなさいということにならないだろうか。自己責任ほど無責任な感覚はないが、組織であれ企業であれ政治団体であれこうも人の集まるところに蠢いている悪しきノイズがネット社会になり聞こえてくると見えてくるとそうそう無関心でもいられない。強い刺激を強いストレスを個体は心のどこかで求めているという学説もあるから、非常に厄介な個体ではあるが、そこはそれでいいじゃん。五感と心でしっかりとバリューとノイズを見極めたいと思いますね。

映画やマンガの舞台。

 映画などの撮影地を訪れることをロケ巡りやシネマ観光などと呼ぶらしい。近年、マンガやアニメ、ゲームに描かれてた場所を訪れる人が増えているらしい。映像作品や小説、歌などを英語でコンテンツと呼ぶことから、各種作品の舞台を訪れる旅を「コンテンツ観光」と呼び、文化的意味や経済効果などを研究する大学も登場しているらしい。優れた映画監督やゲーム作家の手にかかると、ごく日常的な風景ですら突然、輝きを増すのだろう。普通の案内書などよりも、人を呼ぶ理由が分かるような気がします。日常を逃れ、絵空事の中に入り込みたい。そこの新しい課金のシステムが存在する。つまり、絶対的な意味における創造というマネージメントなのだろう。そこにスパイラルが起こっている背景はさて?やはり、メディアコントロールは今も昔も有効なのだろう。動機付けのチェーンリアクションである。

絶対音感のかわり。

 お盆休みに東京芸大の音楽学科バイオリンを卒業し演奏者として活躍してこられた女性とお会いする機会がありました。聞けば2歳の頃からバイオリンの日々。う~ん、強烈である。そのまま東京芸大まで一直線だったことを振りかえり、生活=バイオリンという学生時代のお話だった。う~ん、学生時代は適当に勉強してスポーツしていたぐらいの私にしてみれば、バイオリン一直線の生活はどうしてもイメージできなかった。お母様がプロの奏者だったことが深く関係しておられたわけですが、一流になるために厳しい練習練習の日々だったご様子。つまり、東京芸大とはそういうイメージがあったので、まさに~でした。しかしながら、その方には音楽の分野での「絶対音感」がなかったことで、楽譜を読んだりオケで演奏する時にその部分でのご苦労が絶えなかったとのこと。まぁ、絶対音感など言葉でしか知らない私はこのご苦労でさえチンプンカンプン。音楽家にとっての「絶対音感」の価値がとても実感できない始末。それを努力で乗り越えられ入試試験にパスされ芸大に入学されたわけですが、それもどのレベルのどのクラスのご努力なのかは未知数。お母様は絶対音感の持ち主だったので、同じ練習をしても会得するスピードが格段に別モノだったらしいとのことでした。

 で、絵やデザインの分野における、音楽の分野でいうところの「絶対音感」ってあるのだろうか?というお話の流れになりました。さて、私はそんなことも考えてことがなかったので、ポカ~ン。まず、絶対音感ということが言葉でしか理解できていない始末なので、それを、絵やデザインに置き換えることも難しいし、それが音楽家にとってとても重要な能力であるということは理解できるが、では、絵やデザインを仕事にしている人間にとって重要な能力とは???この段階で頭の中がグルングルン。その場では適正な対象を限定できないまま・・・。「たぶん、感受性的なものなのかもしれないですね。」が関の山。

 他にもいろいろなお話が聞けたのでとても有意義気な時間だったのですが、どうしてもそれから「絵やデザインにおける絶対音感って何だろう?」と気になり、今も気になって仕方がない。そんな部分の思考をしてこなかったということに間違いないのですが、それはあるのかないのか?あるとすれば何なんだろう?と。

 学生の頃、野球や陸上をしてきた、働きだしてゴルフやバスフィッシングを始めた、いずれも、競技として楽しみ、勝つことが目的でうまくなるため早くなるためにそれなりの努力をする。また、その努力の過程が楽しい部分もあり、勝負の結果はさほど気にならないようにもなってきた(つまり一番になれなかったから・・・)。とてもとても絶対音感を持ちプロの奏者としてオーケストラの一員として舞台に立つってこととは無縁の世界であり、基本に「楽しい」があればそれで納得してきた。が、そんな中でも、確実にスゴイ奴はいた。センスがあるというか、努力とセンスが連動して結果を常に出せる奴である。その違いは何か?学生の頃ならそれが悔しくて悔しくて練習を2倍3倍するが勝てない。あげくの果てにケガをして故障をして同じ土俵にも立てなくなった学生時代。底なしの悔しさはすべて自分の場合、「絵」に向けられた。つまり、音楽でいうところの「絶対音感」。スポーツでいうところの「センス」。ようは天才には天才の条件があるということ。それが明らかにない、持ち合わせていない人間は、気持ちと努力でなんとかしなければいけないという事実・現実。

 東京芸大の方とお話をさせていただきながら、その部分をひしひしと痛感していた。間違いなく音楽の分野でいうところの「絶対音感」がない人間は、持っている人に対して勝つ負けるのレベルではないのだと。そんな母上を持つこの方もはんぱない努力を積み重ねてこられたそうです。いろいろな意味で立場や状況・環境は違いますが、その部分で共感・シンクロできたことでテンションが上がりました。

 絵ならなんでしょう?「色や形や構図やメッセージを感じる力=感受性」がそれなのかもしれません。が、それは「絶対感受性」とは呼ばないし、そういうテイのモノでもない。音と色、音とカタチ。つまり、仕事も人生も企業も国も全て同じような・・・。「見えている、分っている人が絶対。」であり、他はそれの相対であるというこなのかいなと・・・。なら、「相対の力」を磨いて「絶対の力」に挑みたいものです。

モノサシついでに。

 自然豊かな高知県在住、グラフィックデァイナー梅原真氏の書籍のお話。それは、疲弊する地域の再生などを同氏に託そうとする人たちと同氏の考えや生き様にスポットをあてた書籍である。グローバルでフラットな社会になればなるほど辺鄙な町は個性的な経営・観光源として輝きを見せるが、地元の人はあまりに見慣れた風景や日頃口にしている地場産品の本当の魅力に気がつかないという部分や、それらのプラスマイナスを全国の消費者目線でその地域にベクトルを向ける工夫・方法論について梅原氏のご活躍はいかに的な部分を通して「地域再生論」として考察しておられるイメージ。

 そのためにはその地域のポテンシャルを小手先ではない真の魅力として地元の人たちが語れるか否かにかかっているとも言っておられる。梅原氏と地元の人たちのまちづくりの奮闘・奮戦記なのだろう。生き生きとした活動ぶりがこの書籍に落とされていればこの書籍は地方再生のバイブルになりえるだろう。それが公的な立場の人間でもなく、企業家でもない、一クリエイターだということにひとつ共感を抱いてしまいました。地方再生と言うが、その全体像は一クリエイターのモノサシでは推量するには複雑怪奇であるとも思えるし、いっしょに奮戦記を共有していては本質を見誤る。そういう意味でこの梅原氏の著書には非常に興味がありますね。おそらく進行形であろうその取り組みのプロセスに、おそらくバージョンアップ中の梅原氏のモノサシのどこかのディテールが垣間見れたとしたら、この書籍の価値は高い。

心は見えないけど・・・。

 CMのキャッチコピーより。「心は見ることができないけれど、心づかいは見える。思いは見えないけれど思いやりは見えますよね・・・」とのこと。上手い!まさに王道の表現です。広告やデザインやWEBは何かを伝えるための手法ですから、たった15秒のCMでこのことについてズバリと言ってしまえるという立ち位置が素晴らしい。デザインとはつまり、「心づかい」であり、「思いやり」の部分。まぁ、どこよりも安くって数値的な比較をさせて内容をスリムにするということもテッパンではありますが、それは、引き算のように見えて実は何も引いていないことになる。つまり、「開き直り」に近い感覚。薄利多売なんて言葉もパチンコ屋さんの入口にはヒラヒラと旗めていいますが、まるでそののぼりと同じぐらいに薄い。別に「開き直り」が1から10まで悪いとも非生産的だとも思えないし、その中に創意工夫があればそれは「心づかい」とも「思いやり」ともとれなくないが、割合的に開き直りは最後の9か10程度ぐらいが適正のような気がします。

 心が見えない、思いが伝わらないのは何故か?ご本人の努力が足りないと簡単に答を出すこともできますが、いやいや、そんな問題でもない。もしかすると伝わらないのは「心」や「思い」が存在しないのかもしれないし、何を持って「伝わった」というモノサシも持っていなければ、確証は薄い。

 で、やはり、「心づかい」や「思いやり」を日頃から温存させて保有しておく必要があり、もし、それが種的な存在なら、いつも自分の中にいろいろな種を用意している人が結果「強い存在」だと言えるような気がします。まぁ、「器がデカイ」などと言われている人はたぶんそんなタイプのパターンなのでしょう。それで、そのテイの書籍に答を求めて行脚するが、なかなか、ご本人との相性がイケてるそれに巡り合わないこともしかり。それも著者の「心づかい」や「思いやり」だけでは推し量れないが、軸足はそこにあるような気がします。難しい書籍も趣味の本もマンガも雑誌も新聞も「心づかい」基準でアプローチしてると意外とアタリが多いのも事実。

企業は営利組織ではない。

 「企業とは何かと聞かれれば、ほとんどの人が営利組織と答える。経済学者もそう答える。だがこの答は、まちがっているだけでなく的はずれである。経済学は利益を云々するが、目的としての利益とは、「安く買って高く売る」との昔からの言葉を難しく言い直したにすぎない。それは企業のいかなる活動も説明しない。活動の在り方についても説明できてはいない。~中略~利潤動機なるものは、企業行動はもちろん、利益そのもとさえ無関係である。何某が利潤動機のもとに事業としているということは、その者と記録係の天使だけの問題である。しかも、利益のために事業をしているということから、彼がいかなる事業をいかに行っているかは知りえない。利潤動機なるものは、的はずれであるだけでなく害を与えている。この観念のゆえに、利益の本質に対する誤解と、利益に対する根深い敵意が生じている。この誤解と敵意こそ、現代社会における最も危険な病原菌である。そのうえこの観念ゆえに、企業の本質、機能、目的に対する誤解に基づく公共政策の最悪の過ちがもらされている。利益と社会貢献は矛盾するとの通念さえ生まれている。しかし、企業は、高い利益をあげて、初めて社会貢献を果たすことができる。」となっている。

 なぜ、この書籍が気になりマネジメントとは?の部分に興味が今さらながら湧いてきたのかがすこし明確になったような気がした。つまり、社会が画一的なマネジメントもどきの定着で淀んでいるということになんとなく気がついたような。それは、非常にITの進化・進歩・普及と密接な関係がある。ニーズが多様になったとよくオンラインビジネスの最前線から伝達されてくるが、いやいや、ニーズとはもともと多様でしょう!?と思っていたし、政治の仕組みが淀んでいるから経済が淀むってこれは絶対に=ではないはずだから、政治の現場にいる人と経済の現場にいる人とのコミュニケーションや連携を分断する、何か悪しきシステムがあるからじゃないの!?とツッコンでいた。極端な思想や哲学でこの「日本の肩こり」をほぐそうなどとも思わないし、自分と自分の仲間でこのことがしっかり共有できていれば、その関係の中で「肩こり」とうまくつきあう方法・手段もこれまた「社会性」と呼べるのだろうとそこはファジーにしておくことができた。が、全く相性の悪い組織は存在する。社会的にとか日本や世界の歴史的に素晴らしい取り組みであるのかもしれないが、私自身のポテンシャルとは相性が悪い仕組みである。まぁ、日本には素晴らしい言葉があり「石の上にも3年。」のとおり首を突っ込むがやはり必然的に3年でF.O.となる。

 営利組織ではないなら、企業とは何か???まだ、この書籍の序盤戦なのでそれを期待したいが、私は「企業とは人の集まり」であり、それ以上それ以下の何モノでもないと思う。で、具体的にとか体系的にどうなの?とステレオタイプな常識人は質問するが、それは、自分で考えてくださいでいいじゃん。みんな大人なんだからその部分は自分の中で確定させて、その上でコミュニケーションしましょうよ・・・みたいな。

メアリー・ノートンという女流作家。

 今の段階でジブリの「仮ぐらしのアリエッティ」には興味がない。昨日もドラマチックにこの作品で抜擢されたマロさんのドキュメントを観たが、さほど、心は動かなかった。たぶん「ゲド戦記」よりも興味がない。このテイでDVDを観たならたぶんのびしろの部分で楽しめるかな・・・というレベルからあまりテンションが上がる要素を感じることができないでいる。

 宮崎さんが抜擢したとのことだが、だから、作品への太鼓判とはまたニュアンスが違うだろうし、ジブリは凄いが今回の映画がどうなのかまだ何も知らない段階だからであることは承知の上、何か期待感が薄い。が、原作であるメアリー・ノートンの作品は読みたくなった。現在リサーチ中ですが、イギリスの女流作家で小説以外にもマルチな文筆活動を展開してこられた方のようです。原作を読めば、この気持ちはちょっとでも変化するのかもしれない。っても変化を期待して原作を読むというテイではなく、映画を通して知った原作の作家に興味がただ湧いてきたという程度。

 でも、過去にこの流れで「アタリ」の確率が非常に高いのもパターン。さて、どの作品にまず触手をのばしたものか・・・。

芥川賞と村上春樹の関係。

 「1Q84」にもその名が登場する日本でもっとも有名な文学賞・芥川賞が、世界的作家・村上春樹に授賞しなかったのはなぜか。選考会で何があったのか、そもそも芥川賞とは何なのか?を徹底分析するって、何のために?

 芥川賞と村上春樹を何故比較するのか?逆フェイクか?一周まわって何が言いたいのか?日本の小説はほんとに代表作しかあまり読まない。最近ではほとんど手にすることはない。ニッポンの小説の未来はどうのこうのとこの著者は語りたいのでしょう。つまり、すべてが「ありき」なこのアプローチはいかなものか?自分自身、ただの食わず嫌いであることは認めているし、視野が狭いことも確信がある。その視点での偏った偏狂な独りごとではあるが、実際、本や小説が好きな人が100人いたら、このテーマにYESは何人?NOは何人?中立・無関心は何人だろう?その縮図がもしかして日本の文学の世界の縮図ならそれがこの国の歴史であり慣習であり文化であるとできなくはない。

 その部分に切り込んでいるかもしれないから少しは興味があるが、ならば、別に村上春樹ではなく、芥川さんと芥川賞の相関性について書けばいいのに。もしくは、村上賞という仮説をたてて村上春樹との相関性を語るってのもアリなのではないだろうか。と、いつものフラフラとした道草でした。

博報堂の狙い。

 日本企業向けの中国国内での企業イメージアップ戦略について、中国に進出している日本企業に対して博報堂がコンサルティングを展開しておられるらしい。製品の評価は高いのに企業としての評価が低いための販売力の活性化というか根底からのボトムアップだろう。国内では企業ブランドの価値向上が広報戦略から社会貢献まで、ふんふんと「聴き入る企業」が多いだろうが、相手は中国の慣習や文化である。市場を確保してニーズを捉えるために、さて、どのようなコンサルティングが展開されているのだろうか、とてもとても興味がある。中国では「尊敬できる企業かどうかが製品選びにおいて重要な意味を持つ。」とのことだそうですが、お互いをリスペクトするためにまずは「尊敬」というベクトルで何かを始めなければいけないのか・・・。頭で理解していても心の反応はいかなものか。小さいことがネックになるタイプの国民性がデリケートと賞賛を得る視点とパイの小ささをファジーなニュアンスで押し切る戦法の間に存在するさまざまなストレスに、さてさて、人間様がどれだけ耐えられるのか・・・?というディーテルだろう。

 まぁ、このテイのことはこうして博報堂さんあたりが旗を上げていただかなければ、なかなか、ゴイっとムーブメントにならないし文化として定着も観念として浸透・波及もしないわけですから、博報堂がってことではなく、もっと、内部の個人名を出して、顔を見せてほしい気もします。

 で、結果、ビジネスシーンにおける尊敬とは何かを外に内に示すことで、もう一度、広告代理店の復興を狙っているのか?いやいや、これを契機にピンで動くポテンシャルの高い人のフェイクなのか?このマスメディア戦法にどんなトラップがあるのか?それが見えた時にこのプロジェクトの真価が見えるような気がします。

ひきこもり69万人!?

 つまり127,767,994(17年10月のデータ)人中約690,000人が現在ひきこもっている状態であるというデータがある。信ぴょう性はたぶん恐らく70~80%程度の精度であろう。つまり、0.005%がどうも自分の部屋から出ない人、もしくは家から出ない人という断定を受けているらしい。つまりのつまり、日本の国民の200人いたら1人はどうやら「ひきこもり」と認定を受けている状態。海外の事情はどうなんだろう?また、ひきこもり傾向にある若者については155万人いると推計されている。これらのことを調査する人も大変であろうが、調査結果を踏まえ、この調査の責任者の方は「高いコミュニケーション能力が必要な時代になり、それができずにひきこもる若者が多いようだ。」と言ってしまっている。また、何でも病理にあてはめたい立場の人たちにすると、精神疾患と定義し区別しうとしている。

 さてさて、現代は本当に「高度のコミュニケーション能力が必要な時代」なのか?ある企業では公用語に英語が導入されニュースなっていたが、逆にひきこもりスタイルの方が生み出すニーズもある。法律や権威や名声に守られた椅子の上に座り、国民の声を聞くというたてまえで、私が国を変えますってことを言葉にしている時点で、この個人に高いコミュニケーション能力があるのか?と疑問になるし、限られた組織の中で一定のルーティーンを繰り返し大義名分を肴に美食にうつつを抜かしている人達も、決して高いコミュニケーション能力があるとも思えない。いわば、通念化したひきこもり状態だとも言えなくない。共通言語を失った段階で正確にはコミュニケーションが成立していない。コミュニケーションの基本ルールは等価交換であるべき。世代も年収も立場もポテンシャルも超えて等価交換のスタイルを維持できる人はさて200人中何人いるだろう?

エドラス、ザントドン、マカリア・・・。

 アイオリオ、アイデス、アウエンタール、アーカム、アグラウラ、アースシー、アダンの国、アップミーズ、アトヴァタバール、アバトン、アフェニア、アムルの墓、アルカ、アルギア、アルンハイム、アロィ、アンドラ、イアニクム、イカツア、イシュタカル、イルアーナ、ヴァゴン、ヴィシェボルキ国、ヴェッツァノ、ウラノポリス、エヴァーキア、エウサピア、エドラス、エルシリア、エレホン、エワイパノマ、オギュアギア、オクタヴィア、オケアーナ、オフル、カストーラ、カナ、カピラリア、ガラ、カルパテンブルグ、カルーン、カロナック、カンパーニア、キカンドンヌ、キャスパック、キャトミア、キリヌ・ウルゴン、クアール島、クストウェルックスト、クラヴォニア、グルーポフ、クレプシドラ、グローム、コーク、コセキンの国、コラダイン、コンコルディア、サイレンス、サマラ、ザントドン、ジノグラフィア、シバ、ジュアム、ジュメルズ、ジョリギンキ、シロス島、ズヴェンディス、ステップフォード、スペンソニア、ゼノピア、セレーネ、ゼンダ、タカリグア、ダゴルラド、タプロペイン、タモエ、タルタルス、チチプー、チリベット、ツーレ、ディレンダ、テオドーラ、デスピナ、テーレピュロス、トゥピア、ドミノーラ、トリフェーム、ドレクサラ、ナキューメラ島、ナンジカシラ、ニュートピア、ヌビア、ネペンテス、ノーランダニア、パイル、パウチ、ハシオクラム、ガシュプース、ハドリバーク、バビラリー、バラタリア、バリュータ、バルニバービ、ハルモニア、バンザ、ピュテュア、ヒュペルボレア、ピラリス、ファルゲスタン、フィロス、フェリスランド、プトレマイス、ブリガドゥーン、フリードニア、プロセリアンド、プロトコスモ、ヘクラ、ヘリオポリス、ポアテスム、カリリア、マバロン、マラコピア、ミスニー、ムメルゼー、メティンゲン、メロア、モリアーナ、ユージア、ユーラリア、ラグナグ、タミアム、リアラロ、リクサス、リグマロール、リープ、リラール、リン・リグア、ルータバガ、ルリタニア、レウケ、レオーニア、レレク、ロキュータ、ローハン、ロマンシア、ロンブ、ワック、ワトキンス、ワフェルダノス・・・。ニンゲンノソウゾウリョクハスバラシイ、スバラシイ。

わかってもらえる・・・さ。

こんな歌、歌いたいと思っていたの・・・さ

素敵なメロディー、あの娘に聞いてほしくて

ただそれだけで歌う僕さ

この歌の良さがいつかきっと君にも

わかってもらえるさ いつかそんな日になる

僕ら何も間違ってない もうすぐなんだ

気の合う友達ってたくさんいるの・・・さ

今は気づかないだけ

街ですれ違っただけで分かるようになる・・・よ。

 と歌っておられたあの方。もう、この世を去られて、改めてこの歌詞が心を高揚させる。これって、何故こうもいつまでも新しいのか、何故古くならないのか、この態こそ今まさにではないだろうか。そもそも新しい古いなどただの便宜上の言い回しに過ぎない。誰かひとりのために何かを想い考え行動するこそが、現代の全てのビジネスの根底にあるべきだと、例の白髪の外人は言っているような気がする。つまり「間違い」こそ実は一周まわって正解だと。ただ、昔より一周回るスピードが速くなっていることは事実であり、スピード感さえも麻痺していると捉えるなら時間の経過などあまり意味がないのかもしれない。それを「カオス」と呼ぶことは誰でも知識として知っているが、その存在を自らの知恵でどうにかしようとする努力は想定以上に難しい。だけど、知恵を持ってでしか、一周回って「ワン」につながらないジレンマも現代のリアル。

今は気づかないだけ、だけどだけど、わかってもらえる・・さ、と歌い続けたいですね。

視聴率のために・・・。

 イッテQのイモトさんが次から次へと世界の秘境や珍獣と格闘している映像は確かに引き込まれます。たぶん、視聴率的にもいい数字を持っているはず。しかし、次から次へとそれぞれの地に短期間とは言えあれだけの適合性を持っている女性って、たぶん、男性だったら難しいのかな・・・、絵的にも無理があるのかな・・・イモトさんだから成立するのかなと思っていつもテレビを観ています。出川さんと絡むプロジェクトもあったりするが、出川さんは出川さんである程度フォーマットの上で独自のスタイルを築いておられ、日本の枠というかテレビの枠から越えていない気がします。しかし、イモトさんは見事にセーラー服にあのルックスという条件で馴染んでしまう能力が凄い。

 で、それに見慣れていると、ちょっとやそっとの企画ではもうテレビの前の視聴者はドキドキしない。つまり、数字が稼げないのだろう。最近観たテレビにはお笑いコンビが結構劣悪な環境でそれぞれの司令を受け映像をゲットしてくるという態で、かなり、その映像にはプロジェクトの内容よりも、その環境にいるということだけでかなり危険な匂いがする場面があった。ひとつ間違えば生命の危機に転換してしまうような場面があった。でも、タレントさんはぶつぶつ言いながらチャレンジする。もし、これが最後のタレントとしての映像になってもいいだろうぐらいの覚悟があるように見えた。お笑いタレントさんたちは自らの存在感やタレント生命を自らの命と引き換えに真剣勝負しているように見えた。それが結果数字を得るならテレビ関係者の危機感もかなりガチだなぁ~と感じてしまいました。

 それに比べ、毎日毎日、車の上で適当なことをうるさくがなっているその類の人達。あんたらは何だろう?民間のためとか国のためとかってもう結構、もっと、海外の秘境で命をかけているお笑いタレントさんの爪の垢的なものをリスペクトするべき。ほんと3つの意味でうるさい。ひとつは音量がうるさい、ふたつめは内容的にうるさい、そして、最後3つ目はそこにいるという存在自体がうるさい。IT時代ですから、もっと、昔ながらの運動方法ではなく、真実を本当に考え語りたいならもっと時代にマッチしたデバイス(方法)で語るボキャブラリーとポリシーが欲しいんですけど・・・。

2010.06.29のスカイツリー。

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 ちょっと曇っていたし雨も少し降っていましたが、駅のホームからパチリ。まだまだ高くなるスカイツリー。新しい日本のシンボル、只今、発育中。

おかえりなさい!はやぶさ。

 「今から7年前、われらが探査機「はやぶさ」は、太陽系誕生の鍵を握る小惑星「イトカワ」へと旅立った。表面の砂を採取し持ち帰るという史上初のミッションを果たすために・・・。エンジン故障、姿勢制御装置の不具合など数々のトラブルを乗り越え、己の役目を果たし、燃え尽きたはやぶさ。その未曽有の偉業と、満身創痍の探査機を操る精鋭チーム「宇宙研」の物語。不屈の精神と情熱、執念、日本人が忘れかけていた魂がここある。」とのこと。これは、京都大学工学博士 吉田武さんの著書「はやぶさ~不死身の探査機と宇宙研の物語~」の新聞広告文です。これは、新聞の記事ではじめて知ったのですが、その新聞の記事にはこの偉業のディテールの詳細が記載されていた。いかにこの宇宙研の取り組みが偉業であり、どのような熱意と執念と思考錯誤があったかが書かれていた。そして、次のプロジェクトへの予算のことにも触れていた。なかなか、今の日本の仕組みはふわふわとした政治の政権取りのお話や事業仕分けがスポットライトをあび、本当に意義のある研究や人材に対する日本としてのサポートが微弱であると書かれていた。極端なお話、無能な官僚達、椅子を温めているだけの議員さんを80%ほどカットしてあとはクラウド内のシステムに管理をまかせ、本当に人が携わらなければ最前線の判断をしなければいけないポストの人だけで政治を活性化して頂き、その給料を宇宙研究や10年後30年後50年後の日本のために使ってほしいと思いますね。

 選挙ウイークが始まって長浜でもステレオタイプのスピーチを垂れ流している車が走っている。いつもいつもいっしょのことを貴重なガソリンを使って市民の耳を煩わせる人たち。まぁ、それはそれでいいのかもしれないが、情報時代に逆行するような街頭演説のリアリティーを見るにつけ、不規則な文脈と軽い言葉の質量に気分が滅入る。あんたたちもはやぶさのようにもえつきる覚悟はあるのか?と握手を求められたら耳元で囁いてみたいものです。
 
 原理主義にも二元論にもはじかれた閉塞感漂う日本政治のフレーム。資本主義の構造が大きく変化しようとしているのに、古き良き時代のルーティーンを繰り返すステレオタイプたち。ただ汗を出せば、ただ手を振り握手をしていれば伝わっていると信じている薄い人間像。願えばいつでも神風が吹くと信じているのなら、もう喜劇である。これらが、政治というスクリーンに映し出されている絵はなんとも見るに堪えない。政治とは何なのか?基本的な根底のお話をできる人が街や県や国のイニィアティブを牽引してほしいものですね。ただ、そんな優秀でモノゴトの本質が「見えている人」は政治の世界には一定の距離を置いているのも事実。だから、淀みに澱が沈殿するのでしょうね。これも自然の摂理。

本気の度合。

 こんな時代ですから、ぼわぁ~と意識の中に「少なくとも現状維持」という意識があると何かの新聞か雑誌かWEBサイトの記事に書かれてた。うん?もしかしたらどこかからのメルマガかも・・・。と、つまり、ぼわぁ~という意識でなんとか現状維持をしようとする努力を多かれ少なかれ相対的に皆さんがやっているだろうという価値感を彼らは仮定しているわけです。そこから、目標設定はこうあるべき、節約術はこうあるべき、新しい目標設定はこうあるべきと論証して、最後に、売りたい商品をボン!という戦法。

 しかし、いわずもがなこれらはなんの根拠もない。新聞に書いてあったから、テレビで誰かが言っていたから、有名なWEBサイトで芸能人がブログっていたから、この程度の文脈ではとても今の時代、確証は得られないと考えるべき。だから、テレビで二枚目俳優がこの家に住んで良かったぁ~だとか、宝くじをお早めにと煽ったとこで、それに反応するターゲットは逆に減少していく。つまり、マスメディアからの情報のディテールに真価というか信頼度が低下し始めているということ。

 では、市場は何から情報を得ているのか、自分の足で耳で目で得た情報がまず一番の信頼度が高い。しかし、マスメディアやツールを見て聞いて味わってではなく、直接、情報源を自分の五感で感じることで判断しているという仕組みがファーストアプローチである。そして、次は信頼できるネットワークからの情報。家族であったり、友人・知人であったり、個人的なネットワークからの情報がそれに値するのだろう。で、そのネットワークの階層の最後あたりに、マスメディアがおぼろげなキャンドルの光のように揺らいでいる。

 では、こんな今日この頃、何か目標を設定して、それに精進するというプロセスにおいて、自分自身に問いただした時、その目標設定は「いつまでに?」だとか「どこまで?」だとか、さらに、「それは本気か?」と自問自答する場合があると思う。その際の自分自身の「本気モードレベル」はいったい何で計測すればいいのだろう?連呼する、大きな声で叫ぶ、色紙に書き出す、ブログに書き込む、家族に宣言する。いろいろあるが、どれも、ゆるい。本当の決意は絶対に自分の心の中から漏れないモノを指す。たぶん、ブログで「ガチに今年こそ結婚するぞ!」とかテレビで、「私は国民の幸福を心から願って~」とか、「お世話になった皆様のために、応援してくれる皆様のために、この勝負に全力で・・・」とか言っているが、どうも、本気モードで言うとレベルが低い。

 で、これが言わば何かを伝えるというお仕事の場合のひとつの指針やディテールになるので、デザインや WEBの仕事をしている以上、この部分をスルーして教科書通りにソフトウエアで創ったものがデザインですに絶対にならぬよう自分の答をクリエイターとして用意しておく必要があると思っています。それが、この仕事をするために(他の仕事でも勿論同じです)必要な「本気モード」なのではないだろうかと思っているので、まずは、自分に向けて、ブログに吐き出してみました。つまり、上記の論法で言うならば、語らない部分でさらに巨大な本気が自分自身の心の中にあることを願って・・・。

このリアリティー。

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 いくら技術が進歩しようがこのリアリティーはデジタルデバイスには絶対に表現不可能でしょう。

世界で戦えますか?か・・・。

 経済の専門誌の投げかけは「世界で戦えますか?」とある。◎世界で戦える人材の作り方。◎2年後、英語ができない役員はクビだ。◎中国でビジネスを成功させた日本人の軌跡。◎リーダー候補はスパルタ方式で「4倍の負荷」。◎グローバル人材に必要なスキル(英語と中国語、どちらを学ぶべき?世界で通用するスペシャリストの条件とは?中国・インド人とうまく働く条件は?)などなど、非常に興味をそそられるフレーズが列挙されている。そもそも、「グローバル人材」とは何か?この専門誌の中にその答はあるのだろうが、それを買って読むことは簡単であるが、一応、気になったので、このフレーズに対してちょっと道草をしてみたくなった。

 まず、なぜ、「グローバル=戦う」という発想になるのか?なんでもかんでも戦うという態でモチベーションを上げたいポテンシャルを高めたいという気持ちは分かるが、なぜ、ここは「戦う」にしてしまうのだろう。雑誌社も売上を稼がなければいけない危機感からか、崖っぷちモード感は十分に伝わってきますし、購買意欲を掻き立てるためにさまざまな工夫やアレンジがされているはず。必ずしもリサーチした人や編集した人は「戦う人」を探していたわけではないはず。が、結果、情報のアレンジとしてそれらを「戦っていた人」、そして、まだ、この雑誌を買っていない人を「戦っていない人」と設定してこの専門誌は編集されているわけです。国内でマイペースに日々の仕事をしている人達を「戦っていない人」、海外で仕事を展開している人を「戦っている人」と単純に比較することで購買意欲を高めたいのでしょう。だから、それに関連・連動するフレーズの連発・多発が止まらない。資格・検定モノも道義で、スキルアップ、スキルアップと連呼しても、これまで、そのモードになっていない人が、一定額の出費でスキルが上がりましたと錯覚させるモンキービジネスが横行しているが、スキルが上がったことで満足しているレベルでは実は何も始まっていないことをなんとか体感してもらうことが最優先のような気がします。

 戦えますか?って、なんとも緩い言葉だろう。戦っている人にも戦っていない人にも僭越である。

オルセー美術館展@NHK日曜美術館

 あまりテレビで六本木で開催されている「オルセー美術館展」の話題が出てこない。で、NHKの日曜美術館でガッツリと特集していた。誰もいないあんなに静かな展示会場でふたりだけで絵に向かえる特典っていいなぁ~と。まぁ、カメラやデレクターはいるだろうけれど、どこかのタイミングで会場内に入れるはず。とすれば、そこにある名画と自分ひとりだけというタイミングもあるはず。それってどんな気持ちになるのだろう。名画はいわば怪物である。それを描いた画家達が現代に残した、というか、生き残ったとても強烈な怪物である。しかし、その怪物は額の中から決して出てきて鋭い爪で皮膚を切り裂くわけでも、鋭い顎で頭をもぎ取るわけでもないが、確実に目に見えない爪と顎でそれを見入る人の魂をわしづかみにして画面の中に持ち帰る。だから、今もそれらは残っているとも言えなくない。つまり、この怪物はそれを描いた画家が仕掛けた時空を越えて現代に鼓動する素晴らしきモンスター達なのである。司会者の二人はその収録中、たぶん、魂をもぎ取られているはずだから、新しいスペアをいっぱい持って来ていたのでしょうね。

 怪物の前に立ち、テレビの番組だとは言え、決死のコメントだった。どれだけのポテンシャルを持ってしても、どれだけの叡智を持ってしても、これらの怪物の前で現代の作家や女子アナ程度では到底太刀打ちなどできるはずがない、それを、番組として成立させたということは、もう一つの可能性として、怪物達が見えなかった。もしくは、怪物達にスルーされたということ。だって、ひと筆ひと筆が見える距離で重なり合う色が自分の目の中に入ってくるのに、よく、言葉が整理できる。という視点では彼らはプロである。強いエネルギーを緩和するために専用のサングラスをかけていたのだろう。

 「語られる条件」で言えば、ゴッホが生涯2,000枚の絵を描き、売れたのは1枚だけという情報は必要がなく、ゴーギャンが病死したのか自然死したのかということもあまり意味がない。そんなことを本人がどこかに記述していたのか?記述などしなくとも絵を残せばそれが人生だと生命の証だと知っていたからそれを絵にしたのに、金魚のフンが長すぎる。想いとは技術や感覚を超え、時空さえ超えたその先にあるモノ。もしくは、それらの想いの一呼吸手前にあったモノ。それを、今の言葉で脚色するのは自由だが、方程式や論理でXYZ座標を決めて眺めても、たぶん、真理はそこにはないだろう。真理は絶対的に画家だけのモノ。それを描いた個体の中にあるものは永遠に未知である。絵を描かぬ者がシンクロしたければ、頭で考えずその手で何かを創る必要がある。そこに正真正銘の唯一無二の共感がある。文字や言葉のコミュニケーションにはびっくりするぐらいリミットラインが低い。

 ひさびさの日曜美術館を観て、そんなことを考えてしまいました。

空間認知と移動能力。

人間は知っている。自分達に動物達のような空間認知能力がないことを。

人間は知っている。自分達に渡り鳥のような移動能力がないことを。

人間は知っている。言葉のコミュニケーション能力の限界を。

だから、技術を進化させてきた。しかし、その反面、退化したことがないだろうか?

身体を寄せ合い越冬するペンギンのように、
子を守る鋭い眼光のライオンのように、
暗闇でも獲物を察知するフクロウのように、
水中で信号を交換してコミュニケーションするイルカのように、
人間の鈍いストロークを複眼で回避するハエのように
人間ははなれないのだから・・・、絶対に。

これは欺瞞に満ちた人間という種に対する罰かもしれないぞ、
これは実は生物的には未熟な人間の能力に対する負荷かもしれないぞ、
これは地球上で偉そうに踏ん反りかえらぬように課せられた枷かもれいないぞ。

政治の新陳代謝。

 新内閣発足。いつもこの瞬間は期待するがいつもいつもそれが新陳代謝ではないことに気がつくのにあまり時間は必要ない。結果、いつも何かをどこかで継承している組織だから、その部分を大切に守り続けていこうとしている人達だから、正確には新陳代謝など起こらないはずなのである。が、形式的にだけでもリセットしているなら、それ相当の結果が生まれてもよさそうな・・・と政治のことを全く理解していない素人として感じるのですが。政治には政治の世界のノウハウがあるのでしょうが、まぁ、もう、美辞麗句は聞き飽きて久しいので、皆様の立場でしかできないことを全うにやってください。としか期待できないですね。正確にはもう期待ではないのかもしれないですし。

 そして、然るべき立場に立ったわけですから、第一線を退いた人が私利私欲に走らぬよう監視しておいてください。退いた方達のゴシップは本当に喜劇であり悲劇です。

 で、平均年齢が59歳だとのこと。これが国を動かす中心になっている人達の平均年齢なのですね。たぶん、60歳以上だと思っていたので、ちょっとびっくりですが、でも、59歳って年齢はどうなの?人生経験も現場のスキルも人間関係も一番活性化されている年齢なの?それとも、そろそろ失速し始めている年齢なの?まぁ、この部分は十人十色でしょうが、「平均年齢59歳」はそういう意味で適正値なのかもしれないですね。

イマドコ?

 ツイッターを始めがどうもまだ理解・実感不足。まだまだ何をどうすれば?状態です。どこかでじっくりと取り組もうとは思っておりますが・・・。でもこれって青天井だろうから、自分なりの適当がベストマッチ。で、ふと、イマドコ?ということが情報の属性をかなり決定づけているように感じる。つまり、情報交換先の個人がどこにいるかということが情報のディテールをかなりの割合で占めている。何をしている何を考えている誰といるよりも。人間は空間認知能力の点でかなり動物の中でもその能力は低く、どうしてもロジックで存在感や存在意義を捉えようとするらしい。どこかに移動する際にも理由とか動機とかメリットデメリットで動く。そりゃ当然だろう!という部分が情報の孤立化を促進させているという論理。で、つなげるためのデバイスに注視さている啓蒙。イマドコ?がなんとなく気になる。

それぞれの世代の責任。

 広告・デザイン・印刷業界の歴史を振り返ってみても24年も関わっているわけで、24年しかという捉え方もできるが、「たかが&されど」である。その間、淘汰された分野や技術やフィールドがあり、それぞれに歴史があったはずなのに、もうそれらは歴史そのものになってしまった。細かくその分野に対する想いや感謝の気持ちもあるにはあるが、流石にまだその部分をしっかりと想い起して積年の念に浸る時間はない。次から次へと訪れる変革の波と呼ばれている現実を新しい価値観として受け入れ、適度に消化し考え動き創りづつけなければならないからである。

 では、20代、30代、そして46歳になった40代にこの仕事をできたことでの恩恵は必然だったのか?偶然だったのか?という部分。時代と共に発生した世の中の出来事に対して義務と権利ではないが、しっかりと自分自身は作用し反作用を適用できていたのだろうかと考える。さて、これから、なれたとして50代、60代になった時、どのように誰に関わりどこで何を考えるのだろうか?という思考の道のちょっと傍らにふと腰を下ろしてみると、さて、自分はそんな絶対に対してそれぞれの世代にそれぞれの責任を意識できていただろうか?と考えてしまった。そんなことを考えるようになったのもおっさんモードだからと楽観視できないぐらいに、今、世の中に起こっていることやビジネスシーンで繰り広げられる万象に対して、また、身近にお世話になっている人達に対して、バランスのいい関係は築けているのだろうか?と。

 ひとつ言えば、「絵を描く人」という視点で言えばもっともっと、お世話になった人やコミュニケーションしていただけた人に対して何もできていなかったのではないだろうかと暗鬼が頭を擡げる。最後の瞬間、50:50な気持ちでいるために、少しでもそのモヤモヤを絵にしなければいけないのではと、ふと考えてしまいました。この気持ちにたまたまはないはずだが、それでも、気分的なモノならそれはそれでいいとして、もっともっと、いろいろな気持ちや感情や考えていることを絵にしなければいけないと思います。この衝動は意外と強い。

元暗し。

 一生懸命何かにフォーカスして時間を惜しんで貪欲に取り組んでいるつもりでも、それが、もしかしたらあまり他人にとって、もしくはビジネスにとって意味がない価値がないということになる場合がある。というか、そういうことは意外と多いように思います。しかし、「これは素晴らしいソフトだから、ぜひ、独学でもいいから勉強して仕事に活用しよう!」とか「この手法・表現はなかなか独自性が感じられるから試行錯誤をして自分のスキルとして取り込もう!」などと感じ実際に取り組むが、そのうち、想定以上に難しかったり、そこそこの状態になって、ふと、「あれれ、これはそれほど効果的でもないなぁ~」と気がつき、最初のテンションが下がり始めるってことないでしょうか?極端なお話、ある学部の大学に入ったが思っていた世界観がなく、逆にアルバイトの方にやる気がモチベーションが上がり、学校を辞めてアルバイトが本業になりビジネスとして成功するパターンの奴です。これは結果、幸福なのだろうか?ライフワークは誰しも同じスタートラインにスタート地点に立っているわけでもなく、ゴール設定もヒトそれぞれ。走り方も、もしかすると、競技さえ異なる場合が多く。時に個人競技の部分と団体競技の部分があったり、体力勝負の場合、頭脳勝負の場合、感覚勝負の場合などなどのつばぜり合いの本質が異なる。

 で、そんなことを考えながら、自分自身の得手な部分により磨きをかけて、そして、また、別の興味も貪欲に持ちながら技の引き出しをできるだけ多く取り込みたいと考える。これはごくごく自然な感覚だと思うのです。でも、相性ってのがあり、また、好き嫌いってモノサシもあるものだから、世間一般的にはこれとこれをやっておけば安泰みたいなことには興味が湧かず、どうでもいいことに興味を持ってしまい大義名分を失うケースもある。でも、正論はひとつではなく、他人の正論が自分の正論である可能性は極めて低い。

 すると、何かを一生懸命照らしているつもりでも、その光が相手にとってまぶしすぎたり好きな色でなかったり、光をあててほしくない気分だったりするとこれはメンドイことになる。だから、5W1H、コミュニケーションは難しい。そして、意外と自分の足元に光が届かず、しばらく見ないうちにゴミやコケやアカが溜まっていることに気がついた時、これはかなり辛い。たまには自分が今立っている場所にしっかりと光をあててその地面を確認する必要がある。これは分かっているつもりでもなかなか照らせないものですね。道草も時には大切だという言葉に癒されますが、道草ばかりだから・・・。

蓋然性の系譜。

 偶然と必然はシリアルにもパラレルにも綾を織りなしている。この系譜とは?たぶん単細胞生物がたどる進化の経路の綾と同じなのだろう。蓋然性にすべて支配されているという極端な仮説もひも解いていけばギリシャとローマに辿り着くらしい。定期的に直列する惑星のように脈略が自分の中で整い始める兆候がある。すると、それは必ず近い未来に何かを引き寄せてくれる(過去にそうであったように)。その蓋然性についてプラスマイナス0レベルで捉えることができたら、そこで新しい化学反応が起こるかもしれない。幼い微弱な感覚ではそれをスルーしてきたかもしれないが、今回、それが目の前に訪れた時はその何かを自分の中に取り込みたいと思っています。見えてるなら手は延ばせるはずだ。蓋然性について考えられていることが絶対中立的な客観へ意識が集中できている状態なのかもしれない。雑音にかき消されぬよう、躊躇せずに手を伸ばせるよう・・・。

絆とは?

 人は何かと「絆」を大切にしたがるが、そもそもその場合の絆とは何だろう?それが絆であること、その絆が存在する理由や背景に目を向ければ、どんな状況でも何がなんでも絆を結ぼうと努力するがそれで無理やり得た「絆らしきモノ」で人間関係は絶対に活性化しない。どちらかと言えばすでに存在する絆を無視して頭で考えすぎた絆もどきに依存し固定観念や先入観で絆の存在を捉えて安心している節があるのではないでしょうか。「絆」はミラクル接着剤でもウルトラハブでもスペシャル培養液でもない。つまり、大切なことは絆自体ではなく、すでに何らかの形骸化している関係性に対して自分自身がどう向き合うかで「絆」を自分の方向へ、そして、相手のベクトルへ向わせることができる。「絆」とはそういう存在でいいのではないでしょうか。

 今、手の中には野球のボールがある。誰かにそれを受け取ってもらいたい。もしくは、ボールを投げる、相手がそれをバットで打つといった構図のそのボールが実は「絆」でいいのではないかと。ボールを投げる技術、受ける技術、打つ技術、そして、その一連を観覧席で観る楽しさ。三振、ファインプレイ、クロスプレイ、ホームラン、ゲームセット。ボールが様々な場面で様々なドラマを作る。

 自分自身が国民から信頼を得られなくなり起死回生の黄金のボールを手中に強引に得たとしても、それは何のため?あなたがフィールドに降りてきて誰かとキャッチボールするため?誰もそんなボールは受けませんよ。逆に黄金のボールにとってあなたはただの弾まない空気の抜けた貧弱なボールなのかもしれませんよ。野球をなめるなとの観覧席からブーイングが聞こえないのでしょうか。

適正があるとしたら・・・。

 もし、G.デザイナー・WEBデザイナー・クリエイター・アーティストの適正検査があったらと仮設を起こしたなら、それは何だろう?間違いなくソフトウエアのスキルや知識ではなく、小手先の技術や知識や感覚ではないような気がします。逆に普遍的な歴史や文化やメディアをどう捉えているかみたいなフワフワしたモノでも大きな路の上でただただ猛進すればいいというテイでもないだろう。それほど何かを創造する、想像するという作業には人間の本能の部分が深く関係しているだろう。では、適正値が不思議なモノサシで計測できたとして、その数値(たぶん物理定数ではないだろうが・・・)とは何かに記録できそれを継承しようとするときに遍在可能なのだろうか?だとしたら、そのバイブルは貨幣価値では推量でいないだろう。つまり、このバイブルを知識として会得し技術や方法論を体得すれば「モナリザ」が描けるというバイブル。現在の「モナリザ」の貨幣価値はいかほどかは不明としてそこまでいくとしたら、それは本当の意味で最終兵器のような。ダイヤモンドや金やプロトニウムの価値さえ曇らせるようなバイブルになるだろう。歴上最も人間に受け入れられたバイブルと言えばあれですが、私自身は全くそこに興味がない。しかし、このバイブルには興味が尽きない。

 この空想上のバイブルには例えばどんなインデックスなのだろう?どんな構成になっているのだろう?それをライトダウンするためにはどんなアプローチが必要なのだろうと思考のループが不本意にも加速する。歴史上、それに一番近づいた人って誰なんだろう?まぁ、たぶん、それは、脳幹の中にあり、遺伝と共に灰白質に記述されていて、何かの信号でアウトプットされるのだろうが、それを意識してアウトプットするためにどれだけの感覚や知識の刺激が必要なのだろう。悪しき薬品で旅立つことで錯覚はできるだろうが、それは誤認に他ならず麻痺していれば常道を逸脱すれば誰でもモンスターになれる。が、人には人のリミッターがある。それが本来何を意味しているのかあたりが糸口のようですね。

 で、氾濫している自己覚醒・自己啓発のモデルがそれにぶら下がっているとしても、たぶん、最後の最後でリミッターが起動するだろう。よもや話がかなり逸脱してしまった・・・。誰もが持っているのに、誰も持っていない何か。また、「眠れぬ夜のシンフォニー」状態である。

脳からストレスを消す技術。

 サンマーク出版の「脳からストレスを消す技術 有田秀穂著(東邦大学医学部教授)」という本がある。まだ、購入していませんが、たぶん、書店でぶらぶらしていて覚えてて発見したら購入するでしょう。「セロトニンと涙が人生を変える」とあり、人はストレスに勝てません。ならば、消せばいいのです。とある。そして、広告の文面には◎太陽の光を浴びると、ストレスが消える。◎ウォーキングやランニングなどのリズム運動を実践すべし、なんと、ガムを噛むだけでも効果があり。◎トントンと家族や恋人の身体に触れるだけで癒される。◎週末号泣で一週間分の疲れがリセットできる!などといろいろなtipsが列挙されている。これもどうやらテレビ発信系の情報のようですが、最近のテレビと言えばこのテイが多い。茂木さんが登場して脳とは・・・みたいな切り口でヒトについて語る流れ。

 昨晩観たテレビ情報では、頭の中に今から自分が何かに挑戦しようとするとき、成功のイメージといっしょに失敗のイメージを用意しておくとこで、集中力が向上して自分の力が十分に発揮できると言っていた。失敗のイメージをあらかじめ何パターンか用意しておくことで、仮に小さい失敗をした時に脳がパニックにならずにその失敗を払拭する成功のモードへ転換してくれるとのこと。ここ一番の失敗できな場面ではこの手法はとても有効に思える。が、失敗のイメージが強すぎるとそれに飲み込まれ委縮してしまうと思っていたが、実は、ここでもバランスなのである。

 で、ストレスを消す技術とこの著者は言っているが、これも多分バランス重視だろう。現代のストレスは非常に多様化していると言われているが、どの程度、どの時代と比べてどれぐらい多様化されているとは聞いたことがない。ぼんやりと多様化されているストレスに向かって何をどうすれば、ココイチで発揮できるチカラを貯えさらに新しい技術を会得できるだろう。現在、取り組んでいることが果たして今設定している目標設定にマッチしているのだろうか?そのノビシロが多様だとなると、それに対応するために、人も時代の多様を追いかける必要があるのだろうか。いや、その部分もたぶんバランスだろう。

 感動がストレスをリセットしてくれるといアプローチもなんとなく理解できるが、そうそう、感動することも次から次へと降臨するはずもなく、自分にとっての感動を知っていなければ、不規則に訪れるだろう感動を待つしかない。が、突然、感動・感激が訪れた時に素直にそれを受け入れるためにも、やはり、リミッターをいつでも解除できるようにだけはしておく必要があるようです。

 さて、そこまで自分の脳が器用なのだろうかと考えはじめると、それもそれはそれで結構なストレスである。

これは何の意味がある!?

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 これはどういう意味があるのか?losのオブジェへのオマージュ?とにかく何かこの場所に置きたかったのか?これを見て何を感じればいいのか?いつも気なっていた。改めて間近でそれを見ても同じ気持ちにしかなれなかった。残念。

街の中のアート。

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 ふと目に止まった街の中の気になるアート。モニュメントひとつにその地域のその街のアートに対する観念が反映される。いくらヒトが頭で考えてアートの街にしようとしても、イベントを繰り返してもどうにもこうにもアートにはならない街がある。それが例えアートの街。文化の街と呼称できていても。それほどアートは難しいというかつかみどころがない存在だからである。アートに魅力を感じているがなかなかアートを身近に引き寄せることは難しい。

 例えば、この石のモニュメント。何気に街のスペースに置いてあるが、これをこの街の人が見てどう考えるか、もしくはこれを置いた人、創った人の考えがどれほどこの存在感の中から発散さているかが疑問である。湖畔にアートを並べたらその湖畔にヒトが来るのか?里山にアートを並べればその里山に付加価値が装着できるか?いずれもNOである。しかし、そんな「アートだのみ思考」があまりにも氾濫しているように思います。どれだけアートを頭で理解しても心や魂で感じていない人が、アートの価値を貨幣やタイミングで選んでそこに置いただけということが、決してアートの種をそこの場所に植えていないから。何が土で何が水で何が光かを知る必要がある。まちづくり、まちおこし、文化事業、ベラベラベラ。アートのたれながし状態。薄い軽いみすぼらしい。日本には日本のアートがある。それは、絶対にアートという世界観の中の日本であるべきであり、これが本末転倒するとそれはもうアートではなくなる。

 文化事業を語る前に自分のポテンシャルに合った身の丈の言葉を選んで欲しいと思う瞬間があった。彼らは彼らなりに与えられた業務を消化して時を浪費している。でも、成立する不思議な存在。もう、開口一番でお疲れ様状態。引いてはその人の人生に対しても過去形になってしまう。まるで、言葉を持たないこの街の中の不思議なアート作品のように。沈黙は金。

殺人の時効を廃止。

 罪を憎んで人を憎まずの真意は不明ですが、遺族にしてみればこのテイは当然。法律は人権を保護するという前提で覚醒してきた文脈ならば、時効を設立した人とそれを廃止しようとする人の間に何があったのか?時代の流れ?凶悪犯罪がはびこってきたから?生命の価値が昔と現代では何か変わってきたのか?そもそも、その法律の源泉は何だったのか?などなど、このニュースにはツッコミどころ満載である。国家の権威がこうもぶれているってことはやはり人の意識は時代と共に変異するということ。常にその変異が進化とは限らないとして殺人の罪が時効と共に0になるという発想はどこの何の発想なのだろう。痛ましい事件がテレビや新聞で報じるたびに然るべき機関の人達はそれを法律で裁いているが、昨今の陪審員制度も何かベースになるシナリオがあるはず。そしてそれを構築した国の文化や慣習や歴史背景があるはず。そことしっかりリンクし整合性が整っていればいいが、そもそも「裁き」とは何ぞやという根幹を紐解く必要もある。

 で、時効を待っている人が今現在、どこかで日常生活をしていると思うと複雑すぎる世の中の闇と光に震えが止まらないですね。

未体験の魅力。

 時に未体験のことが無償に魅力的に思えることがある。逆にそれを演出して興味づけ・動機づけをする手法についても、様々な販売促進ツールやブランド戦略には適用されているように感じる。「知らないこと。」「体験していないこと。」は無償に魅力を感じる。例の「踏み出す!」ってテイの奴も同じ。通信教育でカラーコーディネイトの体系やチュートリアルをしたからって、バリバリの最前線のカラーコーディネイターになれるわけはないし、仮にその仕事につけたとしてもそのテイのポテンシャルで最前線は泳げない。これは間違いない現実。しかし、人は未体験の存在に興味を抱き心を奪われ自分の資金や時間や心をその畑に注ぐ。

 で、この心理の背景には人間の合理性と何かを次に継承させたいという本能が機能しているように思う。それがヒトの本質であることを意識化すれば、いろいろなリアルが見えてくる。極論を言えば「死」は誰しも未体験。だからこれほど心を奪われる。真実の「真」という感じは頭が逆さになった死体の表意文字だということらしいが、その存在が普遍の存在であるから・・・というニュアンスが「真」の文字の背景にあるとかないとか・・・。う~ん、それも日本の文字文化の背景に脈々と流れている真実だろう。

 誰しも「素晴らしい死」に向かっているというテイ。

何故?ただの思いつきがダメ?

 デザインの仕事をしていて専用のソフトウエアを活用できるようになるまで書籍を読み適度なチュートリアルをこなし目の前の仕事にフォーカスする。いきなり専用のソフトウエアが活用できるわけではないので、機能や特長を知り実例を踏まえタスクに取り組むようにしています。しかし、アナログの道具と同じで手に馴染むまでがなんともギコチナイ。一旦手に馴染むとと道具と同じで能率が上がり品質を追求できる。そして、思考パターンと同期する感覚が得られ、ここをこうしたいがマウスとキーボードでリンクし始めるとホップはクリアする。

 その段階で「デザインを考える。」というプロセスのお話。若い頃、ある仕事であるレベルのデザイン案をお得意様から求められ展開するツールにどのように企画やデザインを適用し意向を表現するかという段階で誰しも頭を捻る。適正なテンプレがあればそれも視野にいれるが、基本はゼロスタート。この状況でデザインのアイディアや表現手法をどのような気持ちで取り組むかという部分で、若い頃は頭で考え過ぎて「これだけの資料をリサーチしてその中からじっくりと検討しましたから~」や「デザイン表現についてすでに何十通りの展開を考えて、その中から今回のコンセプトにマッチした~」などととにかく言い訳が先行するパターンが多かったように記憶している。それも、「仕事に対する熱意」であるから、必要ではあるが、「それでこの程度のデザイン?」と言われてしまうこともしばしば。つまり、プロセス重視の風潮がデザインの仕事のアプローチにもテッパンで、それさえこなせば信頼してもらえるだろう的な依存心があったことも事実。デザイン=感性ということは頭で理解していても、いざとなると、まず、堀から固めてしまう人間の悲しいサガ。それに反して、忙しくいろいろな仕事を並行していると、実際に作成から吟味・微調整のプロセスに想定以上に時間を配分できないこともある。その時、言わば「思いつき」でデザイン案を比較的短時間で作成して上司に怒られるパターン。「う~ん、こんなただの思いつきではダメダメ!」自分自身、時間もなく吟味も検討もせずに提出しているから後ろめたさも相まって、「すいません。」となる。

 が、心でずっと「何故?ただの思いつきではダメなのか?」と思っていた。デザインをカタチにするのに「時間×感覚×スキル=成果物」的な方程式なんてどこにもないのに。「思いつき」の裏にある何かがその時はあまりも微弱だったことは否めないが、「時間を費やしたから=いいデザイン」にはならないという感覚も大切だと思うのです。人の思いつきには膨大なる経験値と知識と感覚の要素が存在する。直感やインスピレーションも、ただもやっ~と降臨するわけではない。逆に「ただの思いつき」の方がストレートで印象的で強いデザインになることの方が多い。時間をかけることが何よりも重要という気質はどうもしっくりこない感じであり、ナンセンスに思える。

 それを最近どんな仕事のどの場面で感じたかについてはオフレコードですが・・・。

人間らしさに切り込む。

 その書籍は「ヒトは特別だろうか?」と問いかけている。一見安易なこのアプローチながらも実は奥がかなり・・・。そう感じた。著者マイケル・S・ガザニガを検索すると「人間のユニークさを明かす科学の最前線: マイケル・S. ガザニガ, Michael S. Gazzaniga,著者:マイケル・S・ガザニガカリフォルニア大学サンタバーバラ校の心理学教授、認知神経科学学会会長、アメリカ芸術科学アカデミー会員~。 著者のマイケル・S. ガザニガは長年、分離脳などを研究してきた認知神経科学の研究者で、この本はそのガザニガが2001年に大統領生命倫理評議会のメンバーに選ばれたことをきっかけに、様々な倫理的問題を自らの専門である脳神経学の立場から語ったもの~。」と出てくる。非常に興味深い。紙面の批評では「奇跡的に特異な生物ヒトの意味」とし、その校正は、遺伝子や細胞、脳領域、身体などの構造的差異の話題から始まり、しだいに、社会性や道徳観、宗教、芸術、心身連関、意識へと外挿してゆく。そして、最終章には、機械の体や知的ロボットなどの近未来の話題に至る。記憶障害を回復する海馬チップの話題さえ飛び出すとのこと。しかし、いたずらに妄想を走らせたり、好奇心を煽ったりはしていない。論調はあくまでも実験データに基づいた冷静なものだ。そうだ。

 著者の気合が入りすぎているせいか、あるいは翻訳のせいかはわからないが、読みやすい本とは必ずしも~、しかし、読む価値はあると。奇跡の特異点たるヒトの深厚な意味を知れば、誰でもしばし呆然とするだろう。そして、ヒトに生まれたことを心から感謝するはずだ。とこの批評は絞めている。

 そうかそうか、そこまで書くか。この批評家の意味はさて置き、しかるべき紙面にここまで記述させるにはこの批評家にのポテンシャルとその読破感は少なくともここに並べられている言葉通り前後には価値がありそうである。ガザニガを知らないからここまで新鮮なドキドキがあるのかもしれない。

 しかし、さて、この書籍は買いなのか?世の中、どうやら、いよいよ、iPadで騒がしいが、ヒトとしてまだこの著書をデジタル画面で出会う気はない。人間らしさ・・・、Uuuuh、深いテーマである。

仮想過去の定義。

 「仮想現実」はいたるところに氾濫・飽和・充満している。が、それぞれに細かく分解していくと、まず、「仮想」とはいったい何を指しているのか?「現実」とはいったい何を指しているのか?という疑問に分解でき、さらに、「仮想」をウィキペディアにならい「仮想化という用語の起源は古く、1960年代には既に広く使われていた。ネットワーク全体や個々の機能やコンポーネントなど、コンピューティングの様々な面に適用されてきた。仮想化技術に共通する目的は、カプセル化によって「技術的詳細を隠蔽する」ことである。仮想化は、例えばアクセスを多重化したり、異なる物理的位置にあるリソースを統合したり、制御システムを単純化したりすることで、根底にある実装を隠蔽した外部インタフェースを生成する。近年、新たな仮想化基盤や仮想化技術が登場し、この円熟した概念が再び注目されるようになってきた。抽象化やオブジェクト指向などの用語と同様、「仮想化」という用語は様々な文脈で用いられる。本項では、これを主に以下の2つに分類して解説する。」としても、やはり、ここでさらに2つに分類している。

 まず、この段階で気になるフレーズは「技術詳細を隠蔽する」の部分である。利便性を見える化し技術背景を隠蔽することが=仮想化であることは間違いないようである。他の考察についてはさて置き、目的のためにその手法や論法を隠蔽し、目的のみをコンピューティングの中で体験できたように錯覚させることが言わば仮想の本来の目的のひとつであることは否めない。

 で、ふと気になるのが、「歴史」である。国内に氾濫する数多の歴史的な資産。歴史小説が氾濫し、人物像がクローズアップされ、それにいかにして浸るかというベクトルに終始した体験で多くの人々がアクションを起こしている「歴史」という価値観。古き良きなんとかに群がるサティスファクション。が、最近海外のテレビプログラムを観ていて思うのは、日本の歴史ってどこまで真実なのか?すべて、仮説ではないのか?という疑問。つまり、現実も仮想化なら歴史=過去も実は大義的には仮想なのではないだろうか?しかし、「仮想過去」というフレーズでグーグルやYahoo!にヒットするページは非常に少ない。つまり、過去=仮想で片づけられているからか、そもそも、過去=歴史を何かの都合で隠蔽したいから、そのフレーズが極端に少ないのか?その視点があれば、何かそのルートでビジネスモデルが動くはず。しかし、数多の歴史博覧会の根底が揺るぐこのフレーズはもはやこの国ではタブーなのか?触れてはいけない琴線だとしたらこのブログは隠蔽されるのか・・・?

 余談ですが、「仮想未来」なら、大丈夫なのだろうか?

社会における上達と規範の相関関係ついて。

 単刀直入ですが、安易にお手軽にこれだけやればグイグイ上達するという方法論ではありません。そもそも何を指して「上達」とするのか、大学や専門学校でのチュートリアルが緩いのは緩かったのは、あくまでも一般的なレベル(学校用)を目標値にしているから、基礎と言えば基礎なのであるが、応用編となった場合も基礎の延長から離れられないものだから、というよりも、それを教授する連中のポテンシャルが同じ(ワンパターンという意)だから、基礎から応用が基礎1から基礎2になるのです。仮にFLASHというソフトウエアのスキルをより現場レベルで即戦力に近いレベルまでなれるのなら、それはよほど教える人のテクとキャリアとポテンシャルが高いのケースだろう。でなければ、到底、学校の教授陣達に期待してはいけない。ある一定の囲いの中でフワフワ過ごしている保護されているトキと隙あらば相手の喉元を噛み切ってやろうと牙と爪を研いでいる野生のイタチとの差。

 何事も本来の「上達」とは、保護された囲いの中のお話ではなく、あくまでも、外の野生のエリアの中で生き延びるための技の一種であるのだから、牙や爪のない方には喉の噛み切り方など到底分からない。まず、これが「学校」と「現場」に存在する明確なテンションと諸条件の違い。

 で、学校過程を終え、そろそろこの春の季節、新しい職場でスタートを切る方も多いはず。その皆様がそれぞれの職場でそれぞれのポテンシャルを発揮されるまでどうしても個人差はあれど、ある一定期間が必要です。この期間は研修期間などと呼ばれているのですが、そもそも、社会に出てまともに研修期間を経てきた人間ではないので、私自身はこのあたりが非常に不透明なのですが、新聞などを読んでいると、学生の頃にアルバイトをしていた人間と学校で勉強を頑張り過ぎた人間とでは、あきらかに前者の現場での能力が高いとある。それは確かに実感できる。学生だから学校で勉強するのは当然ではあるが、諸事情でバイトをしてきた人やこずかい欲しさにバイトをしてきた人は、自主性が高く、しかも、自己を与えられた条件下で適応させる能力があり、しかも、自己管理能力も備わっている場合が多いように思う。に比べて、自宅と学校の往復だけの人はいい意味でも悪い意味でも「マジメ」で、これらの能力は皆無に近く、しかも、表情に余裕がなく、人間の器が小さい。たぶん、正確には大きい小さいではないのだろうけれど、大きいか小さいかと聞かれれば小さい。

 つまり、社会に出るということは、自分自身の中に明確な目標がなければ出てきてはいけない世界。目標値を与えられていた学校時代と同じベクトルで会社に目標を与えられて、それに向かって猛進するにしても、それを自分の目標値に置きかえる視点が必要であり、目標が1人称なのか、2人称なのか、3人称なのかで保持しなければいけないエネルギー量が異なるはずだからである。つまり、全体の構図的に言えば「社会」とは「学校」をも包括していた外の大きな円なのである。当然、規範は異なり、自己の円を構図的にどの配置にているかで、必然的に「社会」と自分の相関関係が決定する。さて、では、本来の「上達」とは自分自身にとってどの程度の意義があるのかも同じ方程式で算出できないだろうか・・・。

自分の目線。

 「人間の目線から事態の全貌を捉え、その進行方向を見定めよう。そして、将来に対応できるビジョンを持とう。」と書籍「2030年メディアのかたち」の著者は締めくくっている。書籍を読み終えしばらくこの言葉を自分のモノにするために日々の思考の中で少しずつ断片的に思い返してこの言葉を反芻していた。あながちここ最近思うことと近いニュアンスを感じて、感じたからこそそれを確認するために買った書籍だけに、その直感がドンピシャだったこと以上に収穫があり、反芻も純化作業もとても心地よかった。この心地良さが何かモノゴトを考察する際に妙に馴染ませることなく、少しずつ自分なりのフィルターを介して綴られた言葉のひとつひとつを心の引き出しに整理しています。さすが、その初期からインターネットに携わり多くの識者達とコミュニケーションを繰り返し、その上で、著者の言葉で綴られている書籍だけに言葉が重かった。つまり、言葉がCPUのなすがままにスクロールさせているだけではなく、どこか一部分に光らせたり(FLASHやJAVA.S.は使わず・・・)、言葉を立体的(3Dテクを使わず・・・)に見せるためには絶対条件として純化された言葉を綴りなさいとこの著者から投げかけられている感覚。言葉は誰でも学習すれば知識として貯めることは可能だけれど、それをアウトプットする時に同じ質量ではPCにやらせていることと同じ。人がアウトプットするには何かを込めましょうというニュアンス。吸血鬼を撃ち殺すためには銀の弾丸を込めなさいということ。さすがに吸血鬼をこの時代に限定するは難しいが、ターゲットが見えているなら、それ相当の弾丸が必要だということでしょう。う~ん、なかなか、ドンピシャな書籍でした。満足満足。適度な消化を待とうと思っています。しかし、これは書籍ならではの満足感のリアリティー。このテイをWEBで表現できれば凄いだろうなぁ・・・。

 自分の目線、自分の目線・・・である。

バイアス。

 バイアスとは「バイアス(英:bias)、斜め、または偏りや歪みを意味し、転じて偏見や先入観という意味をもつ。心理学や社会学などの統計から一般論を導く分野で使われることが多い。」となっている。何かしらのリサーチ・アプローチを試みる時、それまでの記憶や方法論が問題の解決に有効に機能する場合とそうでない場合があり、フィルター的な解釈でそれを捉える場合や、目的と手法の置き換え的な論理で表現される場合がある。また、主体と客体についても明確にボーダーを設定することは難しいが必ずそのボーダーが存在し、意識が二分になり多重にもなる。その場合、バイアスとはこれらの障害が発生することを指しているのだろう。

 では、「バイアス」は悪玉なのか?しかし、この意見にもバイアスが発生している。純化するとは本当に難しい。泥水がビーカーにあるイメージいうとやはりそれには時間が必要なのでしょう。バイアスとは混沌とする情報化時代に仕掛けられたトラップなのか?しかし、これまた「トラップ」は善玉かもしれない?というバイアスが適用されてしまう。このループ、非常にワクワクドキドキしますね。

直感のチカラ。

 自分自身の中にもホンネとタテマエがあり、それは、全ての人に言えることであるはずという仮説の上のお話ですが、この場合のホンネとタテマエの間の距離感を計測するモノサシってどんなモノサシだろうか?それがしっかりと意識できれば、数値化できれば、何か大きな判断を下さなければいけない状況で間違いない正しい判断ができるというもの。しかし、何が正しい、何が正しくないということを考えるとその理由は多様になり何を軸に正しいと正しくないを判断し、どう考えれば、自分の中の正しいをジャッジできるのだろう・・・となる。こうなるともう時間と自分の中の妥協ラインの設定との勝負。「何か新しい表現があるはず・・・」「何か強い独自の表現があるはず・・・」と時間ばかりが経過してどんどん迷いの迷宮に引きずり込まれる。別に本格的な迷宮に一回も訪れたことはないけれど、人はそう表現して迷いを消化している部分もある。

 が、先に答を知っている人もいる。その人は迷うしたくさんの多様な論理を繰り返す技ももっておられる。しかし、答はもう出ている人。その人の言葉は強い。決して限定しているわけではなく、モノゴトの例えとして、あるスーパーの受付のおばちゃんが「日本の経済をなんとかせんといけないですねぇ~」と言われるのと、長浜新市長が「日本の経済をなんとかせんといけないですねぇ~」と言われるのとでは、明らかに説得力のテイが異なる。同じ言葉を言っているにしても、伝わるディテールが異なる。それはどの部分がどれぐらい異なるのか?たぶん、裏に中にある何かの量が異なるからそれが異なるのだろう。例えばそれが「熱意」だったとする。しかし、人をただ見ているだけではその人に熱意があるのか無いのかなど判断つかない。しかし、アルバイトのおばちゃんの世界観と市長の世界観はおそらくたぶん市長の方が大きく熱いだろうから・・・というモノサシで言葉に質量を感じている。これが、日々、いたるところで起こっているから、どんな人でもその判断を一瞬一瞬で行って鍛えているわけである。

 で、直感を信じるのか信じないのかはその能力を自分の中に向けた場合の技術・リテラシーになるから、それを答だと絞り込むために、上記と同様、自分の中で自分の軸としっかりとコミュニケーションしている必要がある。とすれば、モノホンの決断力・判断力が少しつづ鍛えられるということにはならないのだろうか・・・。つまり、直感とは「思いつき」「ひらめき」「気まぐれ」的に捉えがちですが、1日グーグルで資料を集めて答を出したり、何十人で会議して議論して答を出すよりも、最適な答を出せる技のひとつなのであると思います。思いませんか?オズさん?

「レッドシューズ」という核融合。

 それを創った人を見ればその意味が分かる。それを育ててきた人を見ればその熱量が分かる。しかし、その意味がとても真髄だったり、その熱量があまりにも巨大である場合、確実に心が魂が持っていかれる。持っていかれて人ははたと考える。何故なのだろう?設立から運営の過程において何がそこで起こったのだろうか?その地で何と何が繋がりこうなったのか?そして、それは今からどこにいこうとしているのか?すべてが自分自身の「分かる」の許容範囲を大幅に上回っていた時、これまでの方法論がまったく通用しそうにないとき、何をすればいいのか?たぶん、それを創った人の心の動き、行動の指針は常に同じだろう。たぶん、その人はぶっちゃけるとこう言うだろう。「僕は何もしていません。ただ、楽しいことをやりたかったんです。」と。それが万象に向けて何かを駆け巡らせるために一番必要なエネルギーの核の部分なのかもしれない。それは、自分自身の中でそういう場所に奉られた。「出会いたい。」といくら思考錯誤しても出会えないことが多い。「出会いたいモード」の時は味噌もクソも引き寄せてしまいそのほとんどがクソだということにあとから気がつくことが多いのに対して、魂をフラットにしていると、何故かそんな出会いがやってくる。もう、そうなった場合、必然か偶然かなどどうでもよくなる。ただ、余韻が心に残りそれが核となり小さな核融合が起こる。その場に何を投げればいいのか?考えても答はでないばかりか、例えひねり出したとしてもそれは緩い答。時にそんな場合、もう答は出ていることが多い。とは言え、開き直りで問題は正確には解決しない。だから、奉ったその場所へ何かを持っていく場合、同軸でシンクロしなければいけない。さて、その場合、自分は今どれぐらいのプロトニウムの含有量があるのか在庫を確認しなければいけないのです。

 「レッドシューズ」という核融合は毎晩、その場所で起こっている。発電されるエネルギーが暗い日本を照らしている。う~ん、こんなクリーンなエネルギー、こんな巨大なエネルギー、何かが変わる時、多分、こういう場所からその変化の兆候が現れるのでしょうね。

詳しくはこちらをご覧ください。http://www.redshoes.jp/

若者像について。

 新聞の記事にこうある。「若者がモノを買わなくなった。最近の消費行動から浮かび上がる若者の「元気のなさ」は、厳しい経済環境への自己防衛だと考えれば、わかりやすいかもしれないが、どうもそれだけではなさそうだ。最近相次いで刊行されている若者の生態を描いた書物によれば、若者の消費離れの背後で生活スタイルのより深い変化が進んでいる。車を欲しいと思わない、ブランド品に関心がない、酒よりもスイーツを好む、休日は旅行や遠出をするよりも自宅の近辺で過ごす、今を楽しむよりも将来に備えて蓄積する・・・。」また、「家族や友人との親密な関係を維持するために、贈りものを交換し、メールよりも親しい友人との対面でのコミュニケーションを求めている。あくせく働いて地位を高め、それを象徴化するような消費をするよりも、まったりとした、穏やかな暮らしを目指している。」とある。

 また、別の見解として「若者には偶然を活用できる力がなくなっていると分析する。しかし、リスクを回避しようとして、達成可能な範囲で目標を定めるような生き方では、予期せぬ出来事をチャンスにかえることはできない。そのため、彼らは自分の人生を自分で決めようとして、逆に状況への柔軟な適応力を失っている。」ともある。また、別の方の意見として、「人間関係の網の目に埋め込まれてしまった若者は交際人数も交際回数も多くならざるをえない。従って、現在の状況は消費が冷え込んでいるというよりも、いくつものネットワークの中で村八分にならないために「小さな消費」を大量にしている。」とある。

 つまり、このような社会を生き抜くには「空気」を巧みに読む必要があり、他者が自分の姿にどのように反応するのかを想定して、あらかじめ修正を施した自分の姿を相手に示して、ネットワークからはじき出されないように振る舞う必要がある。当然、自己主張は控え目になり、とても、「元気がある」とはならないのだそうです。そして、さらに、このようなネットワークの中では「既視感」が蔓延している。経験したことがないのに、どこかで経験したことがあるように錯覚してしまう現象。実際に行っていないハワイに関する多数のブログのコメントを読んで「ハワイはつまらない」と評価する。そうなると、実際の行動範囲は自宅近辺だけで、個人としての器は十分に満たされる仕組み。

 これらのことが、どこまで現実に起こっているかはある程度の信頼性をこの方達の記事の中で読み取りたいという気持ちはあるが、逆にその視点を少し位置を変えればそもそもの消費の在り方が別のベクトルで再構築されようとしている、もしくは、これは新しいコミュニケーションのスタイルであり、これは肯定も否定もできないのではないだろうかと感じてしまう。何が最適かなど人の数だけあり、それらがどのような方法で共鳴しようが、心が何を感じてどの潮流を取り込むのかという部分まで考察し方向性を示すことはただの「奢り」ではないだろうか。「元気」のことでいえば、例えインターネットの中であれコミュニケーションの活性化が起こっているならそれもひとつの「元気」である。現代の若者がどうのこうのという前に世代とは常にどこかで連動しているのだから、突然「元気のない若者」増えたわけではないし、これが推移しているとしても、だから、その一部分にフォーカスして、偏った洞察を展開することは言論の自由のまさに「奢り」の側面である。この世界に存在する絶対熱量があり、温かいモノから冷えたモノへ熱量が伝導し、元気の対流が今も季節風のように吹いているなら、その熱が起こす風が見えていれば、今この瞬間自分を見失うことはないだろう。生きているとはその程度でいいのではないだろうか。

 大義は大義を生み、欲求はさらなる欲求を生む。個体としての心の在り方とは過去と未来の間の現在をどれだけ五感で感じ取れるかに尽きるように思います。

情報収集だけでは学習とは言わない。

 私が大好きな日本のモノカキさん(モノカキさんとカテゴライズしてもいいのだろうか?)、養老孟司さんの「まともな人」本分からの抜粋です。特に素敵すぎる洞察だったので・・・。「学習とは文武両道である。両道とは二股を掛けているということで、それぞれべつべつにという意味ではない。脳でいうなら、知覚と運動である。知覚から情報が入り、運動として出ていく。出て行くが、運動の結果は状況を変える。その状況の変化が知覚を通して脳に再入力される。こうして知覚から運動へ、運動から知覚へという、ループが回転する。そうしたループをさまざまに用意してモデル化すること、これが学習である。たとえば散歩する。一歩歩くごとに視界が変化する。その変化に合わせて、次の一歩を踏み出す。幼児はこうして自己の動きと知覚の変化、その関連を学習する。成人はこうした変化をあまりにも当然と思っているために、それをまだ学んでいない状態、あるいはそれができない状態を想像することがない。」とある。この短い文章の中に込められた無限の英知は計り知れない。この視点をどうして手に入れることができるかという部分に気持ちがフォーカスされて、養老さんが言いたいことの本質にはそれほどテンションが上がらない。この書籍に関して言えば、書かれている一次的な考察や分析よりも、何故ここに至ることができるのかという部分を読み解くためにこの一冊には非常に意義を感じてしまいました。

 つまり、情報をモニターから目で見ていることが脳の中(便宜上)で新しい運動(アウトプット)に変化されてそれがまた違う情報になるテイではそれを学習していると言えるが、さて、表示されている文字群から改めて何を得ているか、具体的に何をインプットしているかと言えば、もしかして、「モニターを見ている自分自身」止まりで、頭にはたくさんの文字が入っているだけで、閲覧しているだけでは、その情報は情報から覚醒していない。もっと、なんらかの手法で拡散して分解して化学反応を起こさせるために自分の中に取り込めってことでしょう。そうして初めて多くの情報と学習が連動されるのでしょう。

 つまり、WEBを創るという仕事の一番本質の部分であり、仮にもWEBのプレゼンテーションの企画書らしき内容の中に、作成目的として「~に行ってみたいという気持ちを起こさせること。」とか「閲覧者にとって~プラン化の材料になること。」などと書かれていても、決して、笑ってはいけない。たぶん、このテイの企画書を記述した方のモチベーションはここが天なのだから。それ以上を別アングルで嘲笑しても、それこそ、学習には至れない。だから、この文字を自分なりに一旦口に入れて消化を試みることが大切なのでしょう。そして、ひとつのループとしての結論が新しい運動としての表現手法をアウトプットすればいいのでしょう。つまり、ワクワク・ドキドキしない人達が「プレゼンテーションなんだから例えばこの企画にどんなワクワク・ドキドキが展開できるのか具体例をご提案してください。」と語尾を上げられても、この瞬間で実は全てがEND。もう、この場合、共通言語が存在しなくなる。もうその段階でそれは「ワクワク・ドキドキ」ではなくなっていることに気がつかないタイプの人間だからです。学業と向き合っているつもりで情報収集だけしてきて、本来の学習をされてこなかった人達。つまり、日本の英才教育の中で知識を詰め込むことが学習だと誤認識させられ、それに大切な時間を費やしてきた方たちの寂しい心の叫びなのである。実は。とても残念。残念過ぎてこちらが言葉を失う。

 「学習」の本質は実に深い。

石と人の関係。

 ブランド物やエンジン物やグルメテイストにはまったく興味がないのですが、どうも変なモノへの興味が歳を重ねるごとに肥大していきます。最初はただの興味があるないレベルだった存在がそれが手元にあることでなんとなく落ち着く感じ。そして、その欲求がどんどん高くなり「何故?」とか「どうして?」という気持ちに意味をつけようとしてしまうというか・・・。仕事上、PCやソフトウエアや周辺機器やカメラなどのデジタル機器は必然として、絵を描くので全ての画材や表現手法に必要なツール、そして、絵画・イラストレーション関連の書籍資料などなどにつては勿論、「好き」であるということが前提であり、「好き」がよほど屈折しなければ「何故?」とは考えない。それだけ自分自身と馴染んでいるからだと信じて疑わないが、妙なモノでテンションが上がるのはそれを見ながら触りながら集めながら「何故?」という気持ちを抱きながらも興味が失せない。

 そのひとつは「石」です。石の収集癖はたぶん小さい頃からあったのでしょうが、小さい頃は他に興味があることがいっぱいあったというか、「興味」の意味を理解していなかったから、「友達と同じモノ」や「友達が興味があるコト」にまぎれてそれは比較的埋もれ気味だった。それが、大人になり、「ブランド物のウエアの話に食いつかない自分」、「バイクや車の話題に反応しない。しかも、洗車が楽しくない自分」、「どこどこのなになにはとても美味しかったからぜひ行ってみてください!という言葉をスルーする自分」に気がつき始めると、あれれ?自分は何故それらに興味がなく、仕事関連のツールを中心とした非常に狭いストライクゾーンなのだろうかと考えてしまう。そして、自然と仕事場に自分の部屋に「石」を並べていろいろ想いを馳せていると、な~んとなく気持ちが落ち着くのはなんでだろう・・・となる。そして、海外やいろいろなところに旅行に行く人に「お土産は何がいいですか?」と聞かれると、「お酒」とか「銘菓」とかではなく、行った場所のどこかに落ちていた「石」が第一候補になる。で、しばらくしてこれはどこどこの石で~となり受け取る時の瞬間のテンションは言葉では表現できないぐらい嬉しい。

 で、さて、石器時代ではないけれど、「石と人の関係」の歴史って分析したら面白いのではないだろうかと考える始末。道具としての石、建造物としての石、何かの象徴としての石、鉱石としての成分が身体に影響を及ぼすテイの薬などの石、自然の造形物としての岩石や溶岩の存在、そして、墓石。う~ん、石と人ってすごく密接に関わっているような気がする。このお話は思いついたはいいがかなり広がるように思え、じっくりと、想いのレンジを分解してみたいと思いました。

 そうそう、結婚指輪も石なわけで、石に対する人間の心は古くから密接に関係していると思います。これも一般的にはちょっと妙なテンションになってしまうのだろうか・・・?

 が、パワーストーン的なノリはちょっと人為的過ぎてNG。

正解を求めて。

 あるCMのTIPSですが、日本の数学の問題はX+Y=?ですが、海外の問題は?+?=Zみたいな要素が強いとのこと。それは誰が決めたということでもなく、「疑問+知能=正解」みたいな文化や慣習がこの国には適していると誰となくそう捉えた結果であり、その部分についてこれほどの情報化社会が到来するまではそれで切磋琢磨が成立していたのでしょう。しかし、「疑問」も「知能」も多面多様になれば、当然「正解」のバリエーションもX乗に比例するはず。

 ならば、そんな時代の正解とは何?とアプローチしがちですが、実はそうではない側面の方が正解に近いように思える。例えがあまり適切ではないかもしれないが、「ゴルフの正解とデザインの世界の相関関係」について言えば、ゴルフというスポーツに興味を持ちラウンドするようになったのは27歳の頃、そこからほぼ20年、上手くなるために楽しむためにいろいろな練習をして、人に練習方法を聞き、いろいろな書籍やマガジンを読む、そして、ゴルフの正解を探す。それは、デザインの仕事にも同じことが言える。仕事として「いいデザイン」「強いデザイン」「大きいデザイン」を会得するためにいろいろなデザインを見ていろいな作品に触れ自分自身でも試行錯誤を繰り返す。ゴルフもデザインも最終目的は正解を求めているわけである。

 しかしながら、ゴルフで言えば、まだまだ全然正解などおぼつかないレベルで、いつも、楽しいと苦しいの行ったり来たり。続けていればスコアもそのうちよくなるだろうと緩く捉えて20年、逆に悪くなっている。体調や筋肉が少しづつ衰えていることを相殺しても、正解がだんだん遠くなっている。では、デザインではどうか?気がつかないだけで意識できていないだけでゴルフと同じく正解が遠くなってきてはいないだろうか?貪欲に取り組んでいることが裏目に作用していることが一番怖い。それは、ゴルフならスコアで明確に数値化されるが、デザインは数値化できない非言語。だから、より一層怖い。この危機感はこの仕事を始めてから常に隣にいる相棒?コンサルタント?シュリンク?家庭教師?アドバイザー?

 で、「正解などないんじゃない!」と乱暴な答を出す勇気もなく、いつまでも、隣にいる危機感に愛想よくつきあっている始末。つまり、「正解」ということは流動的なその分野の中で試行錯誤していること自体を指していて、ゴールがあるようで実はゴールはないのではないだろうかと思う。ただ、それも安心して一息つきたいだけの逃げ道かもしれないので、その想いはたばこ1本分ぐらいの休憩にしておかなければいけない。

 ワンピースは絶対にある!俺は海賊王に絶対になる男だ!というルフィーはとても輝いて見えるが、それでも、尾田先生は海賊時代の正解がすでに見えているはずだから、これだけ「ワンピース」がドキドキワクワクするのでしょうね。どこかに1冊、0巻が余ってないかしら・・・。

皮膚感覚。

 人と人の関係は理屈や理論では割り切れないと言われているいますが確かに。例えば、オンラインショップで何かパソコン周辺機器を買うや、机や椅子を買うということでさえ、WEBサイトを認知してデザインを確認して価格を確認して納品発送方法や支払いの仕様を確認する際、同じ条件のオンラインショップが2件存在した場合、もしくは、価格は微妙に異なる場合、他の変数も検討する、が、微妙に同じ条件の場合、最後の決め手は何だろう?という場合。仕様や機能が同じソフトウエアや素材写真・映像CDの場合などは、検討する要素がほとんどなくほぼコストで決めている場合が多く、そのジャッジでまず間違いないのですが、仕様も価格もいろいろな要素が同じという2者択一の場合、最後の最後の決め手は何か・・・。

 それは、いろいろな意味での「信頼感」が大きく左右する。この「信頼感」を細かく分析・分解していくといろいろな要素があり、これは、デザイン戦略やブランド戦略が基本的には担う部分のように思います。もっと言うとそのショップさんに「人間臭さのいい部分」がより強く感じられれば、最後の決定はそちらに確定する。すると、情報の発信側がより多くの商品を市場に展開したいと考える場合、商品のポテンシャルは高くしなければいけないが、それと合わせ技として、どうしても、他社との差別化という部分や中核競争能力の部分で、「イメージ」や「知名度」や「コンセプトの明確さ」、もしくは、それを扱っている担当者の方のポテンシャル(人柄や存在感やアピール力)が上記の「信頼感」ととても密接に関連している。

 つまり、同じ商品を販売しているお店が2つあり、いずれも条件が同じ場合、「信頼できる人」がいるお店で人は商品を購入するということが、日常茶飯事起のように思います。情報が氾濫して飽和している時代において、他社との比較や商品へのリサーチは凄まじく簡単になりました。しかし、最後の決め手はその商品の機能や性能プラス、その情報を扱っている人の感覚、それも、皮膚感覚として、画面に広告物に、そして、実際の商品にそれがあるかないかで市場は反応するように思います。実際、私も何かを検討して決断する場合、そのようなことが心の中で起こっているように自覚できる部分がとても多い。

 五感の中でも一番敏感なのは意外と「触覚」かもしれませんね。

世界一周99万円。

 「世界一周」と「99万円」という関係について、「おお!これは値打ちな旅行になりそうだ!」となるのか、「世界一周が99万円で?本当にそれを世界一周ってことで捉えていいのだろうか?」という印象があった。これはどこかの旅行会社の広告からの情報なのですが、確かに時間があれば世界一周の船の旅ってことに一度は挑戦してみたい気がする。そのことについて例えばどのような動機があれば人は「世界一周に行こう!」と決断するのだろう。つまり、このプランに申し込み実際世界一周をしてこられた方たちはどんな意識というか気持ちでこの船に乗られたのだろう?と想像してしまいます。また、時間も99万円もOKとなった時に、では、はたして「世界一周」という選択肢をチョイスするのはどんな気分な時だろうと想像してしまいました。たぶん、その時間(多分2~3ヶ月)があれば、あれをしたいこれをしたいとなり「世界一周」はチョイスするかな?となるし、99万円あれば、たぶん、映像編集用のごっついプラットフォームや映像を創るための機材を購入するだろうと考えてしまう。逆に船での旅行が好き、世界遺産などをゆっくり時間をかけて巡りたいという人にしてみれば、ひとつひとつゆったりと時間をかけて訪れたいと考え、いっきにザザァ~といいとこどりして「はい、世界一周完了」となることはチョイスしないような。

 で、改めて「世界一周」の価値と「99万円」の価値みたいなことを考えると、この価値に反応する人はいったい何%ぐらいいるのだろう?不景気とは言え、まだまだ、時間にもお金にも余裕のある方は世の中的には多いことでしょうから、2~3ヶ月ぐらい船の旅をしてても、99万円ぐらい別に・・・という人にしてみればこれは非常に「高価なひまつぶし」ってことになるのでは。これはかなり偏屈な見方だろうか?

 99万円となると専門学校の2年間の授業料関連がこの程度ぐらい?なのかもしれないので、新しいスキルや知識を得るために99万円をかける人とその眼で世界遺産など世界を見に行きたいという費用の99万円の価値観は十人十色ということになるのでしょう。

 確かにオーロラは見たいし、ピラミッドも見たい、モアイ像も見たいし、ガウディーも見たいが、そのリアリティーに今日現在的はNOな気持ちです。でも、実際にそれらをその状況で見たらいろいろな感覚が変化するのだろうなぁ~。

8%の化石率。

 大阪大学と国立遺伝学研究所などが、ヒトのゲノムの中に、約4千年前に感染したとみられる「ボルナウイルス」の痕跡を発見したらしい。人やチンパンジーなどの共通祖先に感染したウイルスの遺伝子がヒトのゲノムに入りこみ現在まで保存されていたということである。人類とウイルスの共存関係を探る手掛かりになるのではということでその詳細は英科学誌ネイチャーに掲載されるらしい。人間などの生物は感染したウイルスの遺伝子を自らのゲノムに取り込み、ゲノムを多様にしてきたらしく、こうした遺伝子は「ウイルス化石」と呼ばれ、ヒトゲノム全体の約8%を占めると言われているらしい。

 最新の科学技術が人の遺伝子を解析した結果、このような発見が現在のそしてこれからの人類の未来にどう影響があるのか、この技術や解析結果が新しい医療技術やバイオテクノロジーの分野における偉大な功績に連動するのか否かなのである。まだまだこの人間の身体の中には解明できていないブラックボックスがありすでに解明できたことから多くの仮説が検証され多くの時間と人の叡智により、また、人類の歴史に影響を及ぼす。これが人類の歴史だと思うと科学という分野の取り組みの意義だとか価値を改めて再認識します。が、言葉や言語能力を持たない人間以外の動物についてはどうなんだろう?同じく、人間よりも歴史のあるルーツを持っている生物はこの地球上に多く存在しているだろうし、それが人類と同等に解析できているのだろうか?ある分野では特定の種に対しての研究が推進されているだろうけれど、人類ほどの研究には及ばないような気がします。

 昆虫でさえ、ある一部の分野の研究者がある特定の種に対しての研究をしてきただろうが、その研究が他の種や人類への研究と連携はしているのだろうか?いずれにしても、「水分25ℓ、炭素20kg、アンモニア4ℓ、石灰1.5kg、リン800g、塩分250g、硝石100g、イオウ80g・・・」の生命体が何をどう次の種へ継承・伝承してきたかにつていは非常に興味深い。上記の成分をお金に換算すると¥5,000前後らしい。ということは、その8%は過去のログのために費やされているということにしても、¥5,000に満たない素材価値の生物が戦争や温暖化防止やと自分達で設定した貨幣文化の中で今も昔もこれからも右往左往していくってことになり、これまた地球は摩訶不思議な惑星である。

性格診断で・・・?

 よくこの類のメルマガを頂く。それは「あなたはどのタイプ?4つの動物に例えて判定!「最近のヒット商品は注目してしまう?」→YES/NO 「家族や恋人といるより、一人の方が安心する」→YES/NO…などなど、シンプルな質問に答えていくだけ。15秒で、あなたの性格タイプを判定します!【あなたのタイプを、動物に例えて判定!】 ★戦略的に『待つ』 ワニタイプ ★一人で転職は正直不安 ウサギタイプ ★自分の目でしっかり確認 ライオンタイプ ★決断の前に情報収集を フクロウタイプ・・・」的なサービスである。その手の書籍も読んだことはあるのですが、それなりに楽しい。そこには動物に例えて自分の性格が分析されていていろいな場面場面での方向性が示唆されている。がその信憑性については多々疑問の余地というか診断結果について実のところどう捉えたらいいのかいつも迷ってしまうことが多い。

 しかし、このような取り組みを企画してプログラムを新規で作成しようとするとそう簡単にデータの整合性を整えたりプログラムの機能性を吟味しようとするとなるとどのような材料を集めてどのようなデータを収集してということになるでしょうから、その大変さは想像もつかない。商品というかプログラム本体とすると素晴らしい練り込んだ取り組みであることは間違いない。これで多くの人が自分の個性や行動の指針を少しでも分析できて何か次のアクションに対する指針になるのなら、この診断プログラムはとても意義のある取り組みだと思う。

 それよりもこのプログラムの結果が相対的な部分であることをこれを受けた方がどう捉えるかという本人のポテンシャルの部分が一番重要になると思います。結果、分類されたことで相性のいいタイプと相性の悪いタイプが確かにあるとしても、同ジャンル内の人の中にも細かい個性のディテールがあるわけですから、一概に・・・の部分である。

 また、性格診断をなぜ動物に例えるのか?という素朴な疑問についてですが、逆に「戦略的に『待つ』ワニタイプ」と強引に設定できる相対性が実はこの企画のキモ。ワニが戦略的に待つタイプだということは普通に聞けばそうかもしれないが・・・となるが、それは生態系的に進化の過程で捕食活動を他の動物と比較して「待つタイプ」になるわけで、ワニに直接聞くわけにもいかず「私は戦略的です。」ということでもないので、分類的にワニは戦略的になっているシンボルなだけ。そこで自分がワニだと診断されたとして自分自身の「待つ能力」と「戦略的な能力」がどの程度活性化するばいいのかについては診断されていないはず。となるとこの診断結果をどう受け止めるのがいいのだろうか???となる。

 これは考え過ぎなのだろうか?この手の分析・分類で「星座」「血液型」「風水」などいろいろ存在するが、いつもその部分でひっかかる。信頼しないわけではないがその診断・判断をどう自分の中に消化させる術が実は存在していない。まぁ、この手のモノサシに依存すること自体がナンセンスなのではあるが、いつの世も「信じている人」ほど無敵な存在はない。となると、人が何かを信じるというプロセスにアプローチできるなら手法は何でもいいのかもしれない。と考えると、アートやデザインも同じとは言わないものの、アプローチとしては同ベクトルなのかもしれない。やはり救われたいから信じるの構図がここにも存在しているような・・・。

箱根駅伝が始まった。

 今年は気合を入れて箱根駅伝をチェックしています。「風が強く~」で駅伝のドラマチックな部分をこれでもかと感じさせていただけたものですから、マラソンとか駅伝はさほどテンションが上がるジャンルではなかったのですが、かなり気合が入ってしまいます。明日はどんなドラマがあるのでしょう?しかしながらすでにこの20組がこのルートを走っていることだけで、この大会にエントリーできなかった多くのチームがあるわけですから、すでにすでにドラマチックだとも言えます。1位のチームも20位のチームも自分の全力を出し切り次の走者にたすきを繋げているのですね。そんなトップレベルの戦いをこれまで何気に観ていたと思うと残念な気持ちにもなりますが、その分、今年はとてもエキサイティングな気持ちで観ています。みんなほんとにカッコイイ。

「JIN-仁-」がいいっすねぇ~!

 なんともTBSのテレビドラマ「JIN-仁-」がいいですねぇ!ええ、テレビに大沢たかおさんって確かめてからの第1回目から第10回目までなんとも贅沢な俳優陣・女優陣でしょう。しかも、お話もいいってことで、毎回、はずさずにひさびさにテレビドラマを見ています。しかし、大沢たかおさんがいいのは分かっていても、なんでしょう、あのよさは。それくらべ他のテレビドラマの貧弱なこと貧弱なこと。そう考えるとテレビドラマが陳腐化するのは、テレビ局の製作コストの問題とかではなく、やはり、その番組に登場する役者さんのポテンシャルが一番大きな影響を及ぼしている関係しているのだと改めて確認できますね。どうやら、踊る~の第3弾が発表されましたが、たぶん、「JIN-仁-」が星5つなら、「踊る~」は3つ合わせて星0.3ぐらいでしょうね。この0.3ってのはすべて「いかりや長介さん」の功績ですが。

 で、次は80分に拡大しての最終回。一気に物語の結論がでそうな第10回目でしたから、なぞが解決するのでしょうね。と、物語の展開の満足度もさることながら、この10回分の大沢たかおさん、中谷美紀さん、綾瀬はるかさん、小出恵介さん、その他の脇役の皆様の映像をテレビでなんとも贅沢に10回分観れたということは他のどのテレビ番組にもない充実レベルだったので、例え(いやいやそんなことはないない・・・。)最終回のオチが貧弱でもこのドラマ「JIN-仁-」は今年の最高のテレビプロジェクトのひとつでした。

 だって、普通の神社で大沢たかおさんと綾瀬はるかさんが演技しているだけですよ。なのに、あの場面の臨場感というか物語感というか吸引力というかもうテレビ枠を超えたクオリティーでした。

社会人って?

 「社会人基礎力」という能力が時代の流れにともなってクローズアップされているらしい。大義の部分で「社会人」の定義はそうでない立場からそうなった立場で意識的に変えているのか、無意識の中で変わっていったのか、それは今となっては(45歳)もういつ頃にそのような感覚になり、何かのチュートリアルで学ばせていただいたいのか、何もあえての部分ではなく、学生から就職して変わっていったのか、はたまた、その部分が欠落したまま現在に至っているのか不明です。

 アルバイトではなく正社員になった段階で自然と身についた自覚とでも言うのか、親となり子を持つ立場で得られる自覚のように何か義務と権利を得た段階で意識するしないに関わらず感覚として自然についた能力が自分なりの精一杯の「社会人基礎力」だと思っている。分析すればモラルやポリシーやコミュニケーション能力などもそれらにあたり、仕事を通じて社会との関わり方のディテールとも言えるのではないでしょうか。

 その詳細としては、3つの能力と12の要素に分けられるらしい。

 1つ目の能力とは「前に踏み出す力」(アクション)であり、この中の要素として、「主体性」「働きかけ力」「実行力」があるらしい。「主体性」とは物事に進んで取り組む力であり、「働きかけ力」とは他人に働きかけて巻き込む力。そして、「実行力」とは目的を設定して確実に行動する力となる。

 2つ目の能力は「考え抜く力」(シンキング)であり、その要素は「課題発見力」で現状を分析して目的や課題を明らかにする力、「計画力」は課題解決に向けたプロセスを明らかにして準備する力、「創造力」は新しい価値を生み出す力となる。

 3つ目の能力は「チームで働く力」であり、自分の意思を分かりやすく伝える「発信力」、相手の意見を丁寧に聞く力「傾聴力」、意見の違いや立場の違いを理解する力「柔軟性」、自分と周囲の人々や物事との関係性を理解する力「状況把握力」、社会のルールや人との約束を守る力「規律性」、ストレスの発生源に対応する力「ストレスコントロール力」の6つの要素に分けられるらしい。これらはある冊子からの抜粋なので、非常によくまとめられていると感じながらも、これらの細かい要素を日頃ひとつひとつ再認識し意識下に置いて日々の行動を律することは私にはできない。改めてこのように何かに書かれているまとめられいるモノを見て読んで意識する程度である。つまり、社会において必要なことは知識や記憶やデータ先行ではなく、無意識に自分の思考パータンの中にある、つまり、「身についているモノ」でしか、指針を決定できないということ。ひとつひとつその場面場面でマニュアルを確認している時間や気持の余裕などなく、時間の波が次から次へと押し寄せてくる状態でおぼれないためにも、必要なことは、とにかく酸素をすうために手足を一生懸命動かして「浮いている能力」こそが最後の最後で必要な生命力だと感じた。

 ただ、振り返ると、学生から社会人に変わった瞬間とはどのようなシチュエイションだったのかと振り返ると、そこには一枚のドアがあったような気がします。それは、学生のフィールドから社会のフィールドに入るための門だったような気がします。そのドアは私の場合新宿にありました。そのドアに手をかけた時の記憶は今でもいつでも鮮明に心に残っています。このドアを開けてその中に入った瞬間から自分は社会人の一員なんだという自覚が感覚がありました。たぶん、ひとりひとりにドアがあったように、門があったように社会のサイズやカタチはひとそれぞれに異なっていていい、ただ、その中ではテキストは与えられないし課題は自分で探さなければいけない、評価など誰もしてくれない、学校のように守られた空間で自由に飛びまわることもできないということ。

 ひさびさに、学びの場で見つけた冊子にこれだけも心が反応してしまいました。が、あの4年間は今でも黄金のように輝いている。懐かしいという感覚ではなく、それが、いつまでも心にあってくれて自分の中の本体の部分がそこの何かの力で生きているという感覚こそが「教育」でいいのかなと・・・。

春夏秋冬を「ひととせ」と読む。

 日本人の感覚の素敵な部分にその独特の解釈というか世界観があると思います。英語と漢字のニュアンスの違いが言わばそれぞれの文化圏のニュアンスの違いでありその根底に流れる精神的な部分をどう捉えるかでそこから生まれるいろいろな創造物の価値や方向性が存在する。四季があればこそ生まれる文化や慣習にはその地に暮らしてきた人々の叡智が含有されている。それらは否定でも肯定もなく確かに偏在している価値観であるから、それへのアプローチが「依存」でも「共鳴」でも「鵜呑み」でもなんでもいい、というかすでに存在している価値観へのリスペクトこそが今を生きている我々に与えられた有効な材料だと思います。そこへ向けて何を思い何を感じるかが見えてこそ、なのである。

 で、「ひととせ」という語彙は間違いなく4seasonsではない。春から夏、秋を経て冬という四季を「ひととせ」と最初に読んだ人の心意気こそが慣習や文化の原石であり、それを放置するか磨くかで創造者の目力(メジカラ)が試されているような。ひととせ・・・なんとも情緒があり深慮に値する感覚ではないだろうか。「ひととせに人は考え感じ時間の中でそれを繰り返している。」みたいな小説の書き出しはアリだと思う。いつの日かこの書き出して小説を書こう。

読まなくてはいけない本は読まなくていい!?

 確かにその感覚はある。確かにWEBで検索して得られる情報は均一である。かなり均一で誰でも同じことをすれば同じ情報に辿り着くこの検索機能は素晴らしいツールではあるが、さてさて、WEBの中にある情報の均一化が今後ますます加速しこの膨大な情報の中にあることが検索という行為で得られる最大の獲物ならそれはどこでも誰でもいつでも得られる獲物だからそこに時間にかけるよりももっと別の大きな意義を得るためには、「読まなくてはいけない本は読まなくていい。」となるのでしょう。

 携帯小説などというなんともふわふわしたジャンルがあり一度も興味がないので触れたことはないが、携帯キャリアをひとつのツールと考えると情報発信の携帯としては一度触れておかないといけないと思うの部分も、キーワードで現れる上位のWEBサイトはエンジン対策を施しそれぞれのエンジンが最適と分析したアルゴリズムの結果だからこの位置にヒットしていることにはそれ相当の価値があると認識する部分も、結局、本質から離れている。まぁ、何が本質かなどと限定できるほど世界は単純ではないものの多くの書籍に触れれば触れるほどその中にある価値に何かを感じてきたはず。が、昨今のデジタルデバイスの中にある情報のディテールは均一化され過ぎて「情報の本質」など無視して絶対数でグイっと持って行かれているような感覚がある。だから、WEBサイトには利便性と独自性のバランスが調和が必要になってくる。いつでも同じモノには普遍の価値があるモノとただ風化を待つ価値があり、情報を発信したことでそれで満足する仕組みから、発信のディテールに独自性があり、不特定多数の情報の中から選ばれるためにも、そこから新しい繋がりを得るためにも、バランスよく可動範囲の広い情報であったり、発信先と受信先が何かで絡み合うリアリティーが必要なのだと思います。だんだん、均一化され便利さだけを数量感だけで押しきれないほど受け手の目が耳が感覚が肥えてきているような。

 で、どんな本を読めばいい?つまり、WEBも広告もペーパーアイテムも、引いてはいろいろな生活必需品も会社も経済も国も同じ。それぞれが「読みたい本」にならなければいけないのでしょう。誰かにすすめられる「読まなくてはいけない本」ほどつまらない本はない。ならば、他の数多の万象も同じだろうと思うわけです。素敵な書籍はいろいろな疑問を投げてくる。それはその書籍の著者であり、その著者が影響を受けて継承してきた多くの価値観の軸の上から降りてくる疑問であり、書籍の中に存在するそれらの価値に触れることは、驚くほどWEBの中にはない。これは今更ながらとても不思議な現象です。

新政権について。

 結果、日本をどう変えると言っても国民にできることは1票を投じることだけ。あとは依存しかない。小泉さんが麻生さんがとテレビや新聞は書き立てていますがそれで国内の潮流が民主党に置き換わったというわけではないでしょう。メディアの力は強いと思いますが、それだけでコントロールされるほど・・・みたいな期待感も無くしていないつもりですが、この部分も結果、依存するしかない。だから、マニフェストを羅列してもらっても「頑張ってください。」状態であることは否めない。それぞれの権限を州議会に依存し国家と連動する国のシステムならまた違ったモチベーションが国全体に生まれるのでしょうが。ニュースでは近隣の朝鮮や中国やアメリカとの政治背景の違いで比較されているが、もっと広く、ヨーロッパ諸国やアフリカなど全世界的にこの部分の動向や歴史ってどうなんでしょう?そして、現実的にどのような潮流がそれぞれの慣習エリアで起こっているのでしょう。アメリカは日本の今回の政権交代を「微弱」だとコメントしているようですが、外向上、何がどう微弱なのか?強いか弱いで国を測る時代がまだ続いていると言いたいのか、それとも・・・。深くならぬよう注意しながらの部分に入ってしまうので、さて置き、鳩山由紀夫総理の印象だけを捉えるならとても好感を抱いています。素直に好感を抱いています。様々な後背効果があるから正確には「好感」ではないのかもしれませんが、コメントの文脈に隙がないような印象です。隙だらけの比較対象が一番近くに存在したからかもしれませんが、たぶん、鳩山由紀夫総理のミラーニューロンがそれを避けたのでしょう。そして、そこから自己を覚醒されるチャンネルをお持ちなのでしょう。それだけでも期待する価値があるのではないだろうか。紡がれる日本の政治の綾に何か新しい軸を心から期待しています。そんな昨日の記者会見でした。蓋は今日開けられますが、例えその箱に何が入っているにせよ、少なくとも、今の段階で国民の皆様は今までにない大きな期待をそれぞれに抱いているのではないでしょうか・・・と想像させるテイの存在であることは間違いないように感じました。頑張っている人に頑張ってとは語弊がありますが、頑張ってほしいですね。

 で、JALの47,000人中の6,800人の人員削減は多いのか適正値なのだろうか?490円のランチはとても美味しそうでしたが・・・。

印象派という美の装置。

 西洋美術の捉え方について日本への伝わり方は独特だった。それは大学の頃から気になっていてことあるごとにその道の書籍を読んだが、やはり、それは純粋な芸術の道からかなり逸れているような印象になってしまう。純粋にと言うがこの何を指して純粋であるかを限定することは非常に難しく、個として捉えるのか全体として捉えるのか、相対で捉えるのか絶対で捉えるのかと迷えば迷うほど答は手の届かない場所へ昇華する(そもそも芸術に対する答など手は届きませんが。)。だが、何かこんな仮にも情報化時代なのだから、そのきっかけになるようなヒントはどこかにないものかと常にそのテンションは持ち続けている。大学の時に「ドラゴンテール」という論文を構想したことがあるが、これが、今となっては、構想に構想を重ね、じっくりとまったりとワインのように芳醇になっていれば、いつか、どこかで、この構想をライトダウンしたものです。

 で、西洋美術、とりわけ印象派のお話ですが、これが、日本の既成概念とは比較にならないぐらいにディープでリアリティーがあります。それを、フィリップ・フック著の「印象派はこうして世界を征服した:白水社」という書籍で確かめたいと思っています。征服かぁ~、純粋はどこへやら。

はんにゃの川島ワールド。

 一時のお笑いブームはどうやら落ち着いた感があるように感じています。このブームでかなり多くのお笑い芸人やコンビが世の中に出てきましたが、ここまで氾濫すると淘汰されるスピードも尋常ではない。まして、テレビ業界がこんな情勢ですから、政治の勢いとお笑いの勢いが反比例するとは言え、昨年のような動きは今年はなく、落ち着いていくように思います。昨今のテレビ番組のイージーさがお笑いタレントの皆様にかなり依存している雰囲気さえも沈静化しているような。ここ数年のM-1グランプリはそれなりに面白かったし、上位3組の実力は素晴らしいと思います。私は2008年はオードリーだと信じて疑わなかったのですが、ノンスタイルはダークホースでした。という感じで今年はどのコンビだろうと考えても浮かんで来ません。それほど沈静化している。

 お笑いのネタ番組のクオリティーもだんだん落ちてきているように思います。これが大きなリズムなのか、ただ単に枯渇なのかという見方ができると思うのですが、総じて明らかにテレビ番組が面白くなく、海外のドッキリ映像や昔懐かし映像などを流してそれなりの面子でコメントを並べてる創りにどうも飽きてきました。そんな中、やはり、存在感を示す方たちもいて、こんな下降の時期だから面白いのか、それとも孤高なのかと、その人たちを見守っています。

 そのひとりがはんにゃの川島氏である。この方のポテンシャルはかなり高い。「おバカタレント」隆盛とは言え、例のクイズ番組の「おバカ」の皆様は非常に紙一重である。テレビで演出する「面白い」なのか「ただのノープラン」なのかが紙一重。しかし、お笑いは計算してもダメでしょうし、その方の持っている何かが「面白く」で、それをさらにプロとしてコントロールされているからお笑いタレントとして魅力があるということになるわけですから、ただ、バカでは、ちょっと辛い。MCの方の手腕だけが目立ち、ちょっと、竜頭蛇尾である。それもテレビ業界の構図なのかもしれませんが・・・。

 と、とにかく、川島氏の一挙一足は目が離せません。だって、あのコントネタの流れで、「頭を取ったら、ハッピーバースデー!」ですから。ジャルジャルの「サイン、長っ!」以来。やられましたね。引いては鳥居みゆきさんの「桃栗3年、千葉8分。」以来。かなり心を持って行かれましたね。

芸術と観光の連鎖。

 里山で開催される芸術祭。現代美術が過疎化した村落を変える、というのは成功事例をよく新聞や専門誌で見るがこの相関関係ははたして成立しているのだろうか。成立という言葉は適切ではないかもしれないのですが、芸術という感覚に触れたことのない方たちと芸術家が自らの作品でそんな方と触れ合い、里山の方たちは芸術作品を身近で感じられることで、新しいモチベーションに出会う。そこから先、何が生まれるのかが未知数な部分が感じられ、「成立しているのか?」という疑問が浮かんできてしまう。都市圏の大きな美術館でビックネームが海外からやって来て、いろいろな方たちが足を運ぶことは、逆に芸術家やその作品を世に知らしめるという志を持った方にしてみれば、いかなものかと思う。美術館への動員数が多ければいいのか?という疑問が浮かび、同様に「成立していのるか?」という疑問になってしまう。つまり、芸術がどのような状況で世の中へ浸透することが一番いいカタチなのだろうか?という根源的な疑問があるからです。大学の頃にもよくこのようなテーマで論文を書くためにいろいろな芸術論を読みましたが、結局、その時代時代に受け入れられる芸術とは思惑のレールの上に乗っているケースが多く、この状態が「にわとり」なのか「たまご」なのかと疑問のメガネがはずせない。

 で、昨今の芸術と観光の連鎖である。そもそも、連鎖する2物ではないはずのものを組み合わせようとするこころみというかセンスが素晴らしいのですが、どうも、水と油を透明なビーカーの中で一生懸命混ぜている絵が頭に浮かぶ。性質の異なる液体はいずれどれだけうまく混ぜ合わせようとしても、時間の経過と共に上下に分かれるんじゃないの・・・というメガネ。

 つまり、観光のディテールと芸術のディテールがインターネットやメディアクロスで一番本丸な質感を失ったものだから、頭で混ぜ合わせて素晴らしい液体、魔法の薬が完成したとでも思っているのか?シュミレーションの世界でゲーム感覚でこの2物を捉えている方は仮想現実から抜け出せないのではないだろうか。ずっとずっと、「仮想現実」について自分なりの答を出そうとしているのですが、それが見えない。この芸術と観光という連鎖にもそのことが思いのほか当てはまり、このことをしばらく考えることで自分自身にとっての「仮想現実」というテーマに対する答が出せそうな気がします。自分なりの解答が出ないのに、S.O.S.の皆様に「よろしくお願いします。」は決して言えない。

 芸術と観光の相関関係、メガネをはずして裸眼で見なければ・・・。

模倣と学習の関係。

 書籍「ミラーニューロンの発見」がとてもとても面白い。「物まね細胞」が明かす驚きの科学~というサブタイトルのニュアンスで本体もとても面白い。ほんとにいろいろな脳生理学の書籍を読みあさってきましたが、どれも、概念的で仮説がほとんど。どれも人間の脳に近づいていく感覚が感じられないままずっとモヤモヤしていたのが、この書籍を新聞広告で発見して、「これはいいかも!」と入手したのですが、これがなかなかいい感じです。大きな意味ではこれも発見と言っても100%実証されているような感覚ではないのですが、ここから根本的な脳に対するアプローチのフレームが実は最適なように思え、非常に1ページ1ページ、まるで、自分の感覚の中に踏み込むような気持ちで読み進めています。イタリアの神経学者なので事例が世界的すぎるので確かにピンとくるというところまでなかなか瞬時に行けない辛さがある(自分の無知に起因していることは現実として・・・)のですが、それでも面白い。

 例えば、これは本文からの抜粋なのですが、「人間は好きなことをしていいとなったら、たいていお互いの真似をしだす。」とあります。これは、エリック・ホッファーの言葉らしいのですが、ここから、ミラーニューロンを洞察していく下りは圧巻です。これを何かの企画書や仕事のプランニングに活用したいと考える以上に社会心理としてのこのアプローチはあらゆることに関連づけられ、目からうろこレベルのリアリティーを超越したところで何か新しい創作に活用できないかと・・・。逆にこれを意識し過ぎてノイローゼにならないように注意注意。しかし、時に無知で楽天なタイプはこの程度では鬱にならない特性があり、鬱を逆に楽しむようなストレスジャンキーなところで適度にミラーニューロンについてリサーチをしているていなのです。

 で、模倣と学習の関係は非常に面白かったので、また、このブログで紹介します。

地デジ普及60.7%!?

 何よりもこの「60・7%」という物理定数をどう捉えるかが問題である。アナログから地上デジタル放送に変える理由がよく理解できないまま、お上の仰せつけのとおり・・・が未だに横行しているのかと思うと受信機としてのテレビもどんだけ大きくなろうが薄くなろうが高解像度になろうが、素直な気持ちにはなりにくい。だって、新しいOSを購入すれば、PCで観れるのに、チューナーさえ購入すればデジタル放送は見ることが可能なのに、なぜ、この不景気のタイミングでテレビをリセットしなければいけないのか。ここをスルーすれば別に「いいじゃん」でいいのだけれど、なんか今回の地デジは納得がいかない。どこかに目に見えない壁がいっぱいあるように感じてしまう。

 で、「60・7%」がどうなの?という感じなのである。目標値は62%だったそうですが、この数値も背景が知りたい。とにかく人間は物理定数に弱いからよほどの理由がなければ「「60・7%」を深く掘り下げないし、なんの気なしに、「目標値は62%」だと言われたら、鵜呑みにする。ここが一番疑問な部分なのに、スルーして「そろそろウチもテレビを買おうか・・・」みたいな、いわば、安易な軸が確かに存在する。

 で、で、例えば、「カーナビ」なんかも、絶対に必要ないと私は思っている。興味もなければ、意味・意義・価値も感じない。みんなが買ってるから、みんなが便利だと言っているから、みんなが使っているから・・・という理由の方が実は「60・7%」なんじゃないかな。

 最近はプライベイトブランド(PB)って言葉をよく耳にしますが、これまでスーパーウルトラスペシャルブランド志向だった人たちがようやくその意味のないステイタス感覚を捨て、本来の機能性やデザイン性を求めて所在と背景とコンセンプトがしっかりしている(というか身の丈にマッチしている。)と感じる商品に注目しているのでしょう。これは、価値観が多様化していると言えばそれまでですが、何故、多様化しなければいけなかったかということを推察すれば、その出発点は、「60・7%」は価値が無かったということになれば、不思議な国の不思議な方程式が成立するとかしないとか・・・。全て道草思想上のお話です。

アニマルスピリットという感覚。

 「もし血気(アニマルスピリッツ)が鈍り、自生的な楽観に挫け、数学的期待値以外に我々が頼るべきものがなくなれば、企業は衰え、死滅するであろう」。という言葉がある。これは、経済学者、ジャーナリスト、思想家であるジョン・メイナード・ケインズが一般理論で「アニマルスピリッツ」という用語を使ったとき、それを説明するパラグラフのむすびとして書いた言葉らしい。(~日経新聞より抜粋~)なかなかの真理に近い言葉であり質量も大きい。これは人間の本能の部分と進化してきた経済体系の関係性を分析するための手法だと思う。そもそも、「安心・信頼」とは何なのか?普遍の「公平さ」とは?そもそもの部分で起源から辿る「貨幣錯覚」とは?など非常に興味深いテーマを投げ、それに対する答があるだろうG・A・アカロフ、R・Jシラー著の「アニマルスピリッツ」。この書籍はかなりチェックである。

 この記事の末尾に「物語とはビジョンの源泉である。著者らによれば、いま経済学者が集うあらゆるところでビジョンと解答が模索されており、本書はそうした解答を捻出するための背景となる物語だという。日本の答えを求める血気を持って本書が読まれて欲しい。」とメッセージがある。血気という語感からプラスとマイナスのイメージがあるが、これも引いては深い部分で「日本のそれ」なのである。ノーベル経済学賞を受賞している方の論述だからというわけではなく、何回も何回も「血気」という言葉について掘り下げ、掘り上げていくと、いったいどこに辿りつくのだろう?その物語にこそそのディテールにこそ真実があるだろうけれど、人間である前に動物であること、生物であることを忘れないで、改めて人間の経済の歴史が語られていることをこの書籍には期待しています。

 脳幹の外側にそれを覆うように進化してきた2層の臓器の意義へもアプローチしているのだろうか?何はともあれ、経済のことよりも、ノーベル経済学賞のことよりも、アニマルがどこから来てどこへ行くのかの羅針が見えればこの書籍の存在価値はあると思います。書籍を読むというアクションにもたぶん血気が必要なんだろう。

頭の中の言葉。

 単に語彙を増やせばいいということではないが、確かにPCへの依存度の高い便利な環境下で自分の頭の中にある語彙がコミュニケーションを行う際に適正なスピードでチョイスできない感じはここ最近ある。これが「記憶力がなくなった。」とか「ボキャブラリーが減った。」などとテレビで展開されるブレインネタを鵜呑みにしてブルーになることは簡単ですが、そんなに頭の中は単純ではない。語彙のチョイスがぶれると文脈がぶれ、結果、伝えたいことが伝わらず澱が貯まる。これを繰り返していると自分の中の伝える力が落ちてきているように感じられ委縮が委縮を生み負のルーティーンから抜け出せなくなる。これが一番怖い。文字を書かなくなったり、PCを介してのコミュニケーションの依存度が高くなるとこのルーティーンが加速していくのでしょう。デザインの仕事も私の場合、最初の頃(20年前)はMacもなくワープロもボチボチな状態だったので、キーボードで作る書類はすでに頭の中や構想しているメモを清書する道具でしかなかった。デザインについても、構想はスケッチブックや紙のうらに手書きしレイアウトシートも写植や写真のトリミングを配置するための設計図を完成してから、仕上げるためにPCとソフトウエアを活用していた。そして、この流れが進化しDTPという言葉が生まれ現在に至っている。この間に何が変化したかとなると、明らかに考えやアイディアをアウトプットする作業とオペレイトする作業が混在してしまう結果になった。よほど企画構想の部分が自分のスタイルとして確立している人はこれでもクリエイトは成立するが、いきなりPCで考えをまとめるというのは、何かをクリエイトするための一番大切なプロセスを無視した行程になるために、モノは仕上がるが「仕上がる」だけになる。このことは別に意識しなければ、アイディアや構想のプロセスが欠落しているとは意識されないので、「仕上がればいい。」だけのデザイン・クリエイションになり、結果、仕上がったものは「デザイン」でも、「クエイエション」でもない、それによく似たモノになる。これは、語彙が頭の中にあるかないかの問題と深く関係しているように感じる。

 で、メモをとる、辞書を引く、書籍を読むというインプット作業と何かを伝えようと説明している時に客観的に自分自身が見えているのか?や、比喩の応用などただ単にボキャブラリーの羅列ではないアウトプット作業の合わせ技のレベルが実際どうなのかと意識することで、結果、表現力が高まりリズムが良くなりコミュニケーションが円滑になる。芸能人のブログにアクセスが集まるのは時代の産物としてメディアの一進化系としてそれでいいが、デザインやWEBの仕事に関わらず、道具を道具として活用するために、使い手の意識は昔も今もこれからもぶれてはいけない軸のように思います。

 けっして、語彙が豊富でも専門的な知識が適正値でもないのですが、自分自身の駒はしっかりと確かめてコミュニケーションの際にはいいリズムのチョイスをしたいと思っております。一番単純な会話として「・・・を知ってる?」って聞かれた時に、どれぐらいのスピードでYES NOの返答ができ、YESのディテール、NOのディテールがコミュニケーションの軸にしっかりと絡められているかを意識したいとは常々キモに銘じている今日この頃です。インプットとアウトプットのルーティーンは反復することで表現力が高まり応用力が高まります。たぶん、デザインとかクリエイティブの仕事はそのさらに先にあるボールを投げて受けての繰り返しですから、やはり、何より地肩は強いほうがいいですよね。

日本のサイクル。

 日本のサイクルは何かにつけて無意味に早いらしい。なぜそんなに急ぐのだろうか・・・みたいな感じじゃないの?それがどうしても効果的な展開力があるというニュアンスにならないところが辛いのではないでしょうか。これはただの抽象論なので、具体性に欠ける、非常に欠ける直観以上の妄想かもしれないのですが、そんな感じがしませんか?

 というのは、若干、海外にメルトモや知り合いや友人がいるので、その皆様といろいろ情報交換していると、考え方のボリュームが大きくゆったりとして余裕がある印象を受けるのです(たぶん、それは、私自身がセカセカし過ぎ・・・)。だからというわけではないのですが、いろいろな情報のディテールを貪欲に集めていると、どうも、ジパングはおかしいような。たぶん、これもそいういう流れの一部しか見ずに感じてしまっている非常に部分的な印象なのかもしれませんが。

 で、WEBが世界を網羅しているといいますが、そうも思えない。よくよく吟味すれば、都合のいい情報だけが飽和しているように思え、情報のその向こうにあるディテールやマテリアルやフィーリングやテイストなどは決してWEBの中には存在しない。だから、簡単に飽和させることが可能なのかもしれない。この広い地球上でそれが例え「情報」という抽象的な概念であったとしても、飽和するなんて不可能ですものね。となると、これらも仮説に過ぎないような。

 逆説的に「日本のサイクルは変?」と仮定した場合、いろいろなことのつじつまが合い始めるのは何故だろう?デザインという仕事上、情報も含めてアイディアやチップスやディテールやマテリアルやフィーリングやテイストやストレスやサティスファクションなどを組み合わせていかなければいけないので、ベースをどこに設定するかしっかり土台を吟味する必要があると思っております。

すべての国民に恩恵を!?

 日経新聞より抜粋。「世界は経済危機のさなかにあるが、どんな種をまいているかが問われている。ICT(情報通信技術)は経済を回復させ、持続的な経済成長を図る上で不可欠なエンジンになると、多くの人が期待している。今は集積した知識や情報をいつでも、どこでも、誰でも効率的・効果的に消費できるユビキタスネット社会が到来しつつある。だが、情報漏えいや違法・有害情報など負の側面の懸念も残っている。総務省の「ICTビジョン懇談会」がまとめた最終報告では、すべての国民がICTを安心して利用でき、恩恵を享受できるよう、より進化したスマートユビキタスネット社会を実現するための方策について言及している。」とある。
 しかし、情報は共有するから情報なのか?異なる情報が交差するから「情報」と呼べるのではないだろうか?全てが均一にフラット化され、いつでも、どこでも、誰でも知っていることがそれほど素晴らしいのだろうか?持続的な経済成長とあるが、これまでの歴史(世界と日本)を振り返り、持続的な経済成長など不可能なことは火を見るより明らかである。何も今から10世紀経済成長をしてほしいとは誰も思っていない。せめて、自分の子どもや孫たちにとって社会が素晴らしくあれとは思うが・・・。
 つまり、それが確証もなく偶像であっても、メディアが言う「ユビキタス社会」でそれを「恩恵」と指定されれば、ほとんどのユーザーはそれを「恩恵」だと思ってしまう怖さが介在しているということ。また、情報の漏えいと有害情報はネット社会だけに限らないはずなのに、ネット空間だけそれらを排除したり管理したりすることなど不可能なことも誰でも少し考えただけで明白である。にも関わらず、なくそうなくそとしているが、それは、二酸化炭素と同じである。いろいろな世界の軸がなくなり、そういう意味ではユビキタスかもしれないが、何もデジタル機器に国民の恩恵を委ねなくとも・・・。

宮台真司という人。

 この方を知ったのは「日本の難点」という書籍がきっかけ。書籍を読み、もっとこの方のことを知りたくてWEBを確認。ブログ「MIYADAI.com Blog」を発見した。ここまで日本の難点をズバリズバリと切れる人はどいうバンクボーンなのか?他に様々なアプローチを試みておられるこの人物の詳細を知りたいという想いが強くなる。特に日本の難点で気に入ったフレーズがあるのですが、それは、どれだけ情報技術や便利な世の中になっても人の心から心に伝わるのは心ですよ・・・的なニュアンスが含まれている言葉であり、さらに、この言葉には人間の本質や歴史や国際的な様々な問題を包括したメッセージさえ含まれているように感じられた。

 その言葉は「スゴイ奴はスゴイ奴を知っている。」である。非体育会系的理科系の頭の人には理解不能でしょうね。私の身体は頭は心は完全に「体育会系的文科(芸術系)系」なので、口より手が先に出るタイプ、手が動くタイプとしてこの方のいろいろな言葉が心に染み込みましたね。「日本の難点」書店で見かけられたらぜひお手元に!

1000件目。

 2年1ヶ月と5日目で1000件目のブログ記事の投稿達成となりました。思った以上に達成感はなく、また次の1001件目を考えながらこれからも続けていこうと思っております。6年ほど前に「ブログ」というモノを知り「SNS」というコミュニケーションを知り、また一部のユーザーの中だけの限られた世界なんだろうと興味が0だったブログ。それを2年前に書き始めてここまで手に馴染むとは思っていませんでした。これまでいろいろなビジネスにおけるブログの活用術や成功事例を読んで、何万件というアクセスや自社の営業にこんなにプラスになりました!的なところまで行ければ行きたいと思っている節もあることにはありますが、現実はそんなにeasyではありません。しかし、その反面確かにブログを書き綴ることで効果という呼べるほどの成果ではありませんが、実感として、これのために一日の中で何かを考え、「ネタ探しモード」になる時も手に馴染んでしまえば面倒くさい感じないのが実感です。別段、深い論文を書くわけでもなく、重い企画書を書くわけでもないので、気楽に毎日「ブログを楽しむ」ことを日々のサイクルの中に取り込むことが、日々の想いや気づいた小さなことがログれて意識化できる部分では「ブログの効果」と言えるのではないでしょうか。別に愛読のブログもありませんし(芸能人の人気ブログもリサーチしたりしますが、あの文脈の無さ加減は例え数行の文字でも読んで、いや、見ていて嫌悪感さえ走ります。これで本当にええの?と。)、ブログを通じて大きなビジネスチャンスが転がり込んだわけでもありませんが、「ログる楽しさ」はなんとなくこの2年で理解できるような気がします。よく、「ブログは誰に対して書いているのですか?」という質問を受けますが、「自分自身へ」と一番無難な答えを返す場合が多いのですが、実は「自分が触れてきた全ての時間(過去)とこれから触れるかもしれない時間(未来)を繋ぐすでに偏在する何かに向けて」が正確な解答のように感じています。これは解答としていますが、解答であり解答でないような言い草です。が、今、ここでこの段階で辿り着いた自分なりの最大の解答がこれのようです。
 で、次、2000件目の投稿を書き込む時、この解答がどうなっているかが一番楽しみなのです。

「認められる技術」!?

 「なんとか力」の次は「なんとか技術」なのだろうか。書籍が市場から反応を勝ち取るためにはある一定の法則があるように思います。なぜこの書籍がベストセラーかという歴代の作品を頭に思い浮かべ、そして、毎年の芥川賞と直木賞の傾向や、創刊する雑誌、廃刊になる雑誌の書籍のタイトルだけの傾向の流れを思い起こしてみてもどのようなキーワードが市場を活性化しているかについて、意外と公平に判断することができるのではないでしょうか。とにかく、BOOKというメディアというか存在価値が好きなので何か書店に目的の書籍を探すわけでもなく、大きな書店の中をウロウロしているだけで楽しくなる。小学校・中学校の頃は休み時間はいつも図書館にいたような記憶が蘇りますが、その感覚で時間に余裕がある時、何かアイディアをひねり出そうとする時、そんな時はお気に入りの書店に足が向きますね。立ち読みはあまりよくないことですが、いくらベストセラーであろうとも、受賞作品であろうとも、その書籍のINDEXと第1ページ目の文脈だけは確かめて書籍は買いたいと思っている。
 で、これが、私の書籍を買う時に注意している「技術」。で、大きなセルを勝ち取っている書籍に最近目立つ傾向が「XXXXの技術」というタイトルのような印象を受けるのです。しかし、技術とは技術そのもを認めてもらってこその技術なのに、技術を認めてもらうための技術って、アリスの鏡に何が映っているの?とこのループっていつまでも結論が出ないような・・・、いやいや、そんなことでこの書籍を買う衝動にはならないならない。たぶん、この書籍を買う人はこの著者に「がんばって!」と言葉をかけてほしいだけのような気もしなくもない。それは映画「ルーキーズ」を観て無償に心が躍るのと同じ!?

「農業の技」データベース化!?

 農林水産省の取組みで農家が農産物を作る際のノウハウを「匠の技」としてデータベース化するという方向性を検討しているらしい。が、いわずもがなITやAI(人工知能)を使ってベテラン農家の経験値や長年培われてきた勘を数値化するうんぬんかんぬんである。「デジタルとアナログ」の違いをまだまだ農林水産省の方たちは理解していない。数値化できないから「勘」が成立するのに。データの山と山の間の谷に流れる水に風に意味があるのに。なぜデジタルかってことをもっと根本的に理解して何かを進めないと税金の浪費になりますね。というか、この皆さんの取組み自体にも税金が適用されているのだから、もっと、理解を深めてください。そして、頭で考えるのではなく、ノートブックを叩きながら、きれいなデスクの上で「農家の皆様の勘」をどうのこうのと料理するのはやめてください。まず、土に触れ雨の中に立ち野菜の香りを得て四季の移ろいを農作物を育てるという気持ちに変換してその全知全能で感じてください。そこからその方のポテンシャルで数値化してください。そんなに農業は浅くないですから。簡単に数値化するなって思わない方がいいと思いますよ。たかだか数十年のギアで分析してログれるほど農業の真髄は浅くないと思いますね。

ネガティブな人。

 よくゴルフトーナメントなどの優勝のコメントで「守りに入ってこれまでのいいペースを崩した。」「優勝できたのはあの苦しい場面で常に攻める気持ちがあったからです。」などというタイプのコメントが多い。結果、優勝した人たちの言葉は重いと思います。そして、昨日も海外の強豪に競い勝った諸見里さん。そのコメントの中にも終盤戦で苦しい場面があったが、どんなに悪い条件でも守りモードに入らず最後の最後まで攻める気持ちで優勝を勝ち取りましたとのこと。そして、「ネガティブな人には絶対に運は訪れない。」というある本で読んだ言葉に心の底から叱咤激励されたと言っておられた。
 で、苦しい時、何をやっても空回りして疲れだけが蓄積するような状況では、誰しもネガティブな思考になる。これはごくごく当然。しかし、そこで気持ちを切り替えて怖気ずに守らずに攻撃できる人は確実にステップアップしていく人。時にシリアスな状況を楽天的に解釈することが文化的に慣習的に不謹慎という価値観も現実には存在するが、そんな固定観念でさえ、そんなセオリーでさえ、自分自身に確固たる自信を持ち、ポジティブに考え判断し行動できる人はどの分野でも「優れた勝ち」を手に入れる。確かにネガティブな思考も底なしだけれど、ポジティブな思考も青天井である。つまり涙がこぼれないように上を向いて歩こうなのであり、上を向いたら背筋が伸びていい信号が身体を駆け巡り活性化された信号が新しい発想や着想を生み、次の挑戦へのモードへ切り替えてくれるという仕組み。下を見てても、上手い話はどこにも落ちてはいない。

「愛しあってるかい?」の意味。

 忌野清志郎さんが5万人近い人に見送られ他界された。失ってはじめてその価値を知るとはよく言われるが、清志郎こそ今の日本に必要だった人なのではないかと思い、告別式のテレビを映像を観ているだけで目頭が熱くなった。悲しいとか辛いとかではなく、心に穴があく感覚である。今さらながらずっと清志郎さんが叫んでこられた「愛し合ってるかい?」の言葉の意味が理解できるような気がします。何事においても「愛し合う」という言葉の深い意味がしんしんと心に。さようなら・・・である。

ボーナス返済がイエローカード。

 派遣社員さんやパートの方の労働条件がかなり厳しい状況はテレビやニュースや口コミで認識しているんのですが、どうやら正社員さんも実はの部分でかなり厳しい状況の方も多くおられるそうです。休日が増え、月給が減り、さらに、この夏のボーナスも削減~削除。これは厳しい。特にボーナス時の返済を住宅のローンに適用しておられた方にしてみると、これはかなりヘビーである。最長借り入れを50年に延長することは可能らしいですが、その代わり、プラマイで考えるとかなり大きな格差が生じる。その上、いったい何歳まで家のローンを払うのか~状態になる。しかし、ボーナス時の返済が難しい場合は12ヶ月割りに変えるべきらしいですね。しかし、月額の収入がダウンしているから、それもままならない。ではどうするのかで、「消費者金融」が待っているらしい。が、これは最悪のシナリオらしい。やはり、銀行に相談したほうがいいですよとの、今朝の日経新聞の記事より~。
 で、私はこれまでボーナスが充分に出る、というか、ボーナスの出る会社に勤務したことがないので、この気持ちは分からないし、友人が「今年のボーナスは4ヶ月分だった。」という言葉も羨ましいと思ったことは一度もない。人と人の境目は何で社会と関わっているかにつきる。それは、家族、地域、市町村と。つまり、ボーナスを通じて会社と関わっているメリットとデメリットが見えていたら、自分が得られる代価だけに集中していればいい。それ以外に意味も意義も価値もないに等しい。だから、私はジャブやボディーブローをいっぱい食らってマットに沈まない限り、自分の足で立っているつもり。だから、足の力も日々鍛錬しているわけ。だから、フィールドには出ていますが、イエローカードもレッドカードも誰からも頂く可能性はない。その代わり、フィールドを出るも残るのも自由。しかし、ボールを蹴りはじめたのなら、1点でも多く点数を獲得したいし、自分のゴールに点を入れられるのは防ぎたい。それがルール。
 サッカーの経験がまったくないので、この比喩がどこかギ・コ・チ・ナ・イ。

景気の底辺感。

 日経新聞ではどうやら日本の不景気はボトムから抜け出し上昇し始めているという希望的観測結果!?がグラフで表現してあった。いろいろな政策が効果を出しているのか、もともと、不景気自体もバブルで実はただ単にそういうサイクルだったのか・・・?この1~3月のムードはかなり悲惨ではありましたが、逆にヒラキナオリ感とこの苦境を乗り越えてこそみたいなエネルギー感があったように思います。本物だけが残る流れみたいな、どこか、戦国時代のような、革命時代のような雰囲気も感じていました。が、それもバブルかもしれないし、ただの幻想かもしれない。「ITバブル」とかって適当な造語に一喜一憂するわけにはいきませんから、自分自身の中にある意味や意義としっかりした計画性だけを慎重に吟味しながら、時に大胆に挑戦するバランスだけに集中したいと考えております。
 で、日経新聞の少しだけ上昇していた折れ線グラフを見て気分が少しだけ上がったような気がしたのでした。視覚的効果というのは大きいですね。

雇用創出200万人!?

 雇用とはそもそも創出するものだったかもしれないが、それが意識的であれ無意識下であれ本来の経済母体の中に存在する「仕事」の意義を考えるなら、客観的に雇用を創出の対象にするのは自由だけれど、主観的にはそれで果たして「仕事」なのか?とモヤモヤ感が払拭できない。そもそもモヤモヤした国だったから、モヤモヤした政治が成立し、モヤモヤした経済で微妙なバランスをとっているのが実は日本なのかもしれないし、その母体はアメリカなのかもしれないと思考がループする。儀礼的な意味においていくつかのルーティーンを指して「仕事」とし、代価と意義の公式を誰かから受け取ることで生活が成立するならそれも経済。アンチステレオタイプに、自然への回帰に、精神的なよりどころに、意義を求めて代価なくとも崇高なIDを確保するのか?と突き放すののも経済。しかし、精神社会の構造とリアルな自然社会の輪廻をどこかで納得できうるレベルまで意識化しないと、それはもう混沌・混迷としか受け取れなくなってしまうレベルの状態だと思います。
 で、雇用創出で200万人の生活を確保することが、国策として優先されることなら、それも問題解決のルーティーンかもしれません。が、自分自身が創出された雇用に属しているという意識の方は、生活が確保されてはいるが、どこか不安定な状態で人生を過ごすことにならないだろうか?と言いつつも、自分自身が到底自立しているなどとは考えていません。やはり、この国のシステムに守られているわけですから、今回の不況とどう向き合うのかなどと荒唐無稽なことも言えない現実もあるわけです。そもそも意味など求めようとするから無意味に操られるわけで、「ふるまい」や偏在する数多のサインの中に自分自身の感覚とマッチするエレメントを組み合わせて「生活」とするしかないわけです。そこには意味も無意味も意義も価値もないはずなのです。食うために人間としての能力を生活するために適用して、心が思うことは自分流のプロセスでバランスを保つぐらいの安定感を持ちたいと・・・。

主語の認識が・・・。

 人間の脳はそれが自分が発した言葉であれ、他人の言葉であれ、主語を無視しようとするらしい。なるほどなるほど、以前、若い頃、友人の進めで「自分を発見しようセミナー」に儀で参加した。3日間である。かなりの友人だから実現したのですが、今なら普通にスルーなのですが、この時ばかりは熱心に進められたので了解した。で、そのセミナーで同じようなことを体験させていただいた記憶が蘇った。確かにそんなところはある。例えばまったく縁もゆかりも面識もない初めて、生まれて初めて会った方の前に座り、その方のことを分析して、言葉を投げかけるというセミナーの1プログラムなのである。ある意味いい経験ではあったが、空の上の自分はあきれてものも~状態でした。
 で、好き勝手に放つ言葉が全て実は自分に言っていることだった・・・ってのがオチなんですが、それは、医学的に脳の機能なのだろう。それは、人間が人間として進化するに必要不可欠だった、共存するために必要な機能なのかもしれない。つまり、「お前は馬鹿だなぁ~!」と言っても脳は「馬鹿だなぁ~!」としか理解していない。逆に「君の作品は素晴らしいですねぇ~!」と言葉を発することで脳は「作品は素晴らしいですねぇ~!」が「私の作品は素晴らしい!」と誤解するらしい。だから、自分のつばのお話と同じ。なんでもかんでも返ってくるんですね。主語なんて実は言語上の約束であって、本来言語を操る人間という生物は、動詞と目的語しか理解していなということになりますね。これって「なるほど」です。非常に抽象的であり、論理的。

ボア・ハンコックという設定。

 これまでもコミック「ワンピース」の中には数多の登場人物が現れて、ルフィを中心にとてつもないワールドを展開してきた。そこには何事に対しても「信じる力」の素晴らしさがこれでもかってぐらい絵に物語に刻印されいる。だから、この物語が伝説になっているのでしょう。その部分に疑いの余地はない。私の中では歴々のコミックスの中でもベスト3に鎮座している。他の2つは何かについてはまたどこかで。
 で、今回の新刊に登場した「ボア・ハンコック」がまたいい。もう購入して毎晩寝る前に読んでいるのですが、この登場人物はちょっとこれまでワンピースには登場してこなかった人物だと思うのです。これまでもいろいろな登場人物には影というか闇の部分があったのですが、これまでのキャラクターは個性的で能力的にもダイナミックでしたが、このボア・ハンコックは言わばルフィと対極にある設定のように感じるのです。ここでこのキャラを登場させるか尾田さん的な、かなりかなりアタタメテこられたキャラのように感じています。物語の中に登場してきた多くの「友情」よりも、今回のボア・ハンコックを動かしているのはルフィに対する「恋愛感」。もう、読んでいてホォ~そう来るのか・・・と、さらにさらに、ワンピースの魅力に引き込まれる44歳のおっさんひとり。いつの時代も「恋はいつでもハリケーン」なんですね。
 で、赤犬は誰だ?

魑魅魍魎跳梁跋扈と。

 山林の異気から生ずる怪物が勢力をふるい好き勝手に振舞っていることの意ではあるが、なんとも日本には素敵な表現があるものです。人間の醜い部分を何きっかけで山林の異気と合わせてこう表現しあたのだろうかと考えてしまう。で、時代はコンクリートとアスファルト。同じように異気があるとすれば、それは今どこで蠢いているのでしょう。情報化とデジタル文化のマッチングで人の心がどう変化した?変化しなければ、進化進化と言われれば誰も取り残されぬようにと危機感を煽られるいるように感じるのですが、昔の人のイマジネーションが創り上げた魍魎たちがこの時代どんな姿でどこに潜んでいることやら。あるアーティストの友人が山には精霊がいて彼らと会話するための作品があり、会話することとは人間にとって自分自身を確かめる唯一の手法。創ることでそれが実感でき、作品がその気持ちをそれを観た人に伝える流れにおいて、作品は作品として存在感の覇気を放ち始めるとのこと。この感覚がデジタルコミュニケーションにおいてはどうなっているのかがとてもとても気になる。デジタルな作品に感じられる作家・アーティスト・クリエイターの心はどのように伝わるべきなのか・・・?伝わっているようで伝わっていない部分。伝わっていないようで伝わっている部分。相対ではなく絶対のこの感覚をひとつひとつ確かめておかないと「記憶」が「記憶」としてのみ蓄積され、「情報」と「知識」のある間にある腱が微弱になる。いつもパンパンにテンションをかけておきたいから、「情報」の中にあるサインをしっかりと見極めないと。
 情報が飽和したこの現代に跳梁跋扈する魑魅魍魎に惑わされぬように。

愛犬の散歩中に。

 平日は時間がないので、愛犬の散歩は夜になる。しかし、休日は仕事をする前に必ず愛犬の散歩の時間を作っている。こんな主人だから愛犬に充分な散歩の時間を作ってあげることができなことはちょっと可哀そうだと思うが、こんな主人に出会ってしまったのだから運命とあきらめてほしいと思っている。しかし、時間がある時はお互いにへとへとになるまで歩いている。今日もほぼ自宅の近所を1時間ほど散歩した。愛犬の気の向くまま歩く。今年はじめてのつくしを発見。雪の少ない冬だったから、そろそろ、春の予兆が大地に現れていた。
 近くの中学校のグランドが近づいてきた時、元気な声がたくさん聞こえてきた。たぶん、早朝から部活をしている部員の声だろう。グランドが見えてくると、女子のソフトボール部員が10名ほど、そして、グランドの反対面には男子の野球部員が5名ほどいた。まだ、練習は開始されていない雰囲気で、自由にキャッチボールをしている。私が愛犬と彼ら野球部員の近くを通った時、彼らが、私の方に一斉に向きなおして「ちわ~!」と帽子を脱いで挨拶をしてくれた。驚きながら、こちらも、毛糸の帽子を脱いで彼らに頭を下げた。たぶん、監督から言われて誰にでも挨拶をするということが彼らの中で徹底されているから、ごくごく自然に初めて会う愛犬の散歩をしているおっさんに朝の挨拶ができるのだろう。
 朝の散歩もなかなかいい。見知らぬ方でも、同じ犬の散歩中に挨拶をしくれるとグイッと体温が上がる気がする。挨拶、散歩、笑顔。あたりまえの日常的なことがやはり一番、心に響く朝でした。

デジタルコンテンツの保存願望。

 独身時代ほどポケットマネーに余裕がないので、自由にCDやDVDや書籍や画材やソフトウエアやハードウエアが手元に入手(購入)できなくなったのでそれを愚痴っているだけかもしれませんが、こんな時代だから、あまり無駄遣いはしなくなりました。いやいや、これまで買ってきたものが全て無駄だとは思っていないのですが、よくよく振り返ると無駄も多かったかもしれません。この場合の無駄とは何だという疑問はさて置き、衣食住に関係の無いモノ、つまり、嗜好品と呼ばれているモノは何故買って手元に置きたいのかという気持ち・こだわり・願望のお話です。
 例えば、映画が好きだから、映画館で観る、テレビで観る、DVDで鑑賞するということ。でも、たくさん存在する映画の中から、「これは絶対に金を貰っても観ない映画」と「この映画は必ずDVDを買って手元にいつでも観られるように置いておきたいという映画」この違いは何だろう?レンタルショップに行くとAからZまでいろいろな作品があり、芸術的な社会的な感傷的な妄想的的な本能的な様々な作品がある。その膨大な作品の中から何かをチョイスする時の規準とは何だろう?そもそも「好きだから」の好きとは何だろう?この視点は何もDVDだけに適用される視点ではなく、人に出来事に仕事に社会に経済に文化にとそれぞれの人の中にある規準が日々変化しながら、変化されられながら時代の潮流になっているはず。
 で、情報化時代の氾濫する情報とこの保存願望の間にある、奇妙な化学式が言わば引いては「生き方」と言っても過言ではない程度の存在だと思うのです。これがDVDだから理解しやすいのですが、米だったら、家だったら、伴侶だったら、税金だったら・・・となると、右や左の話になるので割愛しますが、今このブログを書きながら、ラックに並んでいるDVDを観ながらそんなことを考えています。そして、ブラウザのお気に入りに入れている先行予約の「WALL・E」と「WANTED」のDVDの価格を見ながら、これが自分自身の願望の数値なのかな・・・と。

滋賀県は第29位!?

 本日の日本経済新聞に「地域ブランド力 京都府全国2位」という記事がありました。地域名称や名産品などがどう認識されて、ブランド力を持っているかを調べたそうです。「2008年地域ブランド力調査」の結果です。
 で、その詳細というか実際にブランドとしての商品などはリサーチしていないのですが、第1位は2006年も2008年も北海道なのです。そして第2位が京都、第3位は沖縄と。我が滋賀県はといいますとかなり下の第29位なのです。このあたりは愛媛県、香川県、高知県となり、低いのは茨城県、栃木県、群馬県。この結果を見ると、日本の両端がブランド力があり都心に近い地域は別にブランド力がなくとも安泰だということが言えるように思いました。細かくリサーチしていくと、それぞれの地域でいろいろな特産品があるのだと思いますが、この中の下状態の滋賀県をさらにブランド力を上げるためには何をしなければいけないのでしょうか?京都や大阪などのブランド力のある地域から隣接しているような位置関係の滋賀なのに、他の四国地方や東北地方や九州地方よりも下って。2006年の調査で滋賀県は第38位だったのが上昇しているのはとてもいいことだと思うんですが、やはり、地域のブランド力という視点では低いとなるでしょう。元来その地域が持っている観光資源や特産品をどのようにブランド力にすることができるのかという部分ですが、これについては、滋賀県の観光資源に関わる人たちの創意工夫力の問題なのか、潜在能力(観光地や名産品や歴史など)の高い地域はそんな自発的な努力がそこそこでも、外的要因で注目度が上がり、自然とブランド化に繋がったのか。たぶん、この相乗効果が現時点でのこの調査結果になっていると思うのです。さて、それでも、この第29位を10位以内に引き上げていきたいと考える場合、まず、打つ手は何なのでしょう?海外からの観光客や海外とのビジネスモデルの展開が盛んな現代。やはり、情報網を広く展開し、すでに今存在する観光資源への光の当て方を吟味することでしか、その地域が持つ潜在能力を外部要因に対して反応させることは難しいように思います。滋賀県に来て15年、いろいろなお仕事に携わらせていただき、知識は増えましたが、さぁ、それを国内県外に海外に発信となった場合、整理するのは難しい。もしかすると「整理できていないことがブランド力を弱めている。」なのかもしれません。アプローチの手法で言うと創出ではなく、再発見なのかもしれません。しかし、時代に沿った新しい観光資源を創造するという視点もなくすことはできない。それぞれの地域で先人の方が築き上げてこられたことに対してしっかりとリスペクトした上で、新しいムーブメントを育成する人がいてはじめて「地域のブランド力」とは何かを語れるのかな・・・と感じています。さてさて、スタートラインはどこなのでしょう?

ミラーニューロンの今。

 ウィキペディアでは、「ミラーニューロンは霊長類などの動物が自ら行動する時と、その行動と同じ行動を他の同種の個体が行っているのを観察している時の両方で活動電位を発生させる神経細胞である。したがって、他の個体の行動に対して、まるで自身が同じ行動をしているかのように"鏡"のような活動をする。このようなニューロンは、マカクザルで直接観察され、ヒトやいくつかの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳活動が観測されている。ミラーニューロンは、神経科学におけるこの10年で最も重要な発見の1つであると考える研究者も存在する。その中でも、ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランは模倣が言語獲得において重要な役割を持つと考えている。しかし、その分野での認知度にも関わらず、ミラーニューロンの活動が模倣などの認知活動において、どのような役割を果たすのかという疑問に答える神経モデルや計算モデルは、現時点では存在しない。加えて、1つの神経細胞がある現象を引き起こすとは一般的には考えられていない。むしろ、神経細胞のネットワーク全体が、ある活動を行う際に活性化していると考えられている。」とある。そもそも、小学校の頃、美術の時間に「マネはいけない、個性的に。」と言われ続けてきたが、小学生なりに、何か変だなぁ~とは漠然と感じていたような記憶がある。なぜ、マネがいけないのか、そこから、大阪芸大に入るまでこのジレンマがあった。絵の勉強を芸大で本格的(これも語弊があるが・・・)始めるようになってからもずっとずっと「オリジナリティーを」と言われてきた。「自分の絵」を探しなさいと、とおり一辺倒の教授陣の言葉にやはり、小学校の頃感じた変な感じが否めなかった。決して懐疑的な思考ではなかったものの、常に「何故、マネがいけないのか?」が頭の中でモヤモヤしていた。デザインの仕事を始めるようになっても、また、「オリジナリティー」という言葉にぶつかる。そのデザインは何々風でいいけど、君は君のデザインをしていかなければモノホンではないですよ的な助言を頂くたびに、「ああ、またか・・・。」みたいな感覚。イラストレーション表現も「個性的な絵」のスタイルが嫌いだったのもそれが大きく影響している。「上手い絵=リアルな絵」という考えがコアにあるために、抽象画やオリジナリティーもどきのイラストレーションを否定してきた。今でも否定している。しかし、芸大で芸用心理学や社会心理学の講義に出会ってから、なぜ否定してしまうのかという心の部分の本質を見極めたいという視点を頂き、それにことあるごとに没頭するようになる。専門的な研究はできないまでも、個人的なレベルで「人の考える仕組み」に対する答を出せないものかと。その中で「マネぶ=学ぶ」というキーワードに出会えた。そこから波及する日本の義務教育の澱についても、絵画・芸術一般についての海外・日本の歴史についても個人的にリサーチをしてきた。そこまでの背景があり、このミラーニューロンの研究がここ10年のお話であることを知ると、まだまだの部分があったんだと納得してしまった。そして、最近、心のお話が書籍やテレビに取り上げられるごとにけっこう見入っている。
 で、やはり、「全ての芸術は模倣から始まる。」という言葉がかなり自分自身の心の中で色彩を帯びてくる。やっぱりね、という感じ。だってそうでしょう、芸術の歴史の中で、絵画の昔と今を体系的に分解しても、絵はそもそもただの伝達方法ですから。そこにどう価値が付加されるかは放し飼い状態であれ、根本は何かを伝える手法であるなら、それを継承する作業が絵を描くことの根底に流れているはず。それを見誤って「個性」だの「オリジナリティー」だの「情操教育」だの「心理分析」だのと言ってもそれはただの「お茶のにごり」だと思いますね。この根本を理解させる教育体系をどこかで見誤ったから、あんな総理大臣が国を動かしている国になってしまうのでしょうね(かなり強引な結論ですが。)。じゃあ、どうなるべきかという部分ですが、それは、それが見えている人がどう立ち振る舞うかだけですね。つまり、最後の最後は、誰かの頭の中にあるヴィジョンや考察が渦になり時代を作ると言っても言いすぎではないでしょう。最後の最後で、頭の中のミラーニューロンがどう反応してどんな信号を出力中枢に出すか・・・だけ。まぁ、この考察はこんなブログでは無理ですから、また、改めて執筆してそれが書籍になった時にどこかで同じ考えを読んだ時、あなたのミラーニューロンで吸い込んでください。年頭にあたり、道草思想論第一筆でした。この考察に対するご意見をぜひください。「肯定否定」ではなく、「正しい悪い」でもなく、「価値があるない」でもない、フラットな考察をよろしくお願いします。RONINさんどうですか?

CRS(企業の社会的責任)について。

 2003年は「CSR元年」だったらしく、それから5年がたち、この概念は幅広く知られるようになったと日経新聞に書いてあった。さまざまな企業の不祥事がトリガーになり企業倫理の均一がどれだけ意識化にあり、実動がどれだけ伴っていたのかが問われた5年だったと記載されていた。また、環境問題についても同じ、闇雲にステレオタイプに弊社はなんとか運動に共鳴しています的なくくりで安心みたいな風潮が蔓延し、個々の意識の中には何も芽生えていない。という構図が否めない。とりあえずこの認証だけ取得しておけば、環境問題もセキュリティーも当面は大丈夫だろう・・・みたいな概念とは到底育成しきれていないレベルで安泰してしまうこの国の感覚が一番恐ろしい。つまり、お上に依存している文化と歴史の上にまだあぐらをかいている。勿論、この恩恵は大なり小なり受けていることに対してリスペクトしないわけではないし、コアな取組みや体温の高い方への共鳴は怠っていけないと思います。
 で、これは国や企業に対してのCRSというよりも、もしや、概念を持っている人との共鳴こそが一番大切な「企業の社会的責任」の核なのかもしれないと考えていた。だから、この記事の後半に展開されていた内容に心から呼応してしまった。その記事は「そのための需要な鍵は、事業の社会的意義を揚げた経営理念や経営哲学の真の浸透にあるのではないだろうか。そこにおいて、形式主義を超えたコンプライアンス、企業倫理とCRSが、従業員一人ひとりの中で改めて結びつくことになると思われる。」とっ括っている。つまり、不祥事もその発端はひとりの倫理なき個人であるはず。それが、倫理観のない誰かに伝達され、企業の総意となり、負の連鎖に発展したのだろう。つまり、一番大切なことは総意に対する個人ではなく、個人に対する総意でなければならない。総意になるまでの過程を無視し、ステレオタイプに論理を構築しようとするから「ひずみ」や「ねじれ」が発生する。時に「ひずみ」や「ねじれ」をも「共有」にしてしまうぐらいの「視野」というか「テーブル」というか「器」が今最も必要なのではないだろうかと考えてしまった。「サイズの異なるどんぐり」でも「長い釘」でも「101歩」でもいいから、まずは、自分の中の「Yes」と「No」を明確に持ちたいと思います。そこから、権利も責任も生まれるような気がするのですが・・・。ここですでにねじれているかもしれませんが。

宮本武蔵という存在感。

 歴史的に偉業を残し名前が残っている人物像とは異質な存在の宮本武蔵。それは、国や世界を動かすような存在ではなかったのにもかかわらず。彼が歴史になった大きな理由はとにかく武道の道で強かったということだけらしい。その彼がその生涯に想い考えた思想的な思考をまとめたのが「五輪書」なのである。「五輪書は、剣豪・宮本武蔵がその晩年に書き記したもので、二天一流と称する自らの剣術と兵法について解説したものである。その考え方はあくまでも「勝つため」にこだわった非常に合理的なものであり、現代のビジネスに置き換えても参考となる部分が多い。ここでは、個としての兵法の解説に多くを割いてある「五輪書」に学び、ビジネスマンのあるべき姿を考察することにする。五輪書は五つの巻から構成されている。地・水・火・風・空の五巻である。」と検索すればすぐに出てくるほど。彼が生きて伝説を作った時代と今の時代では背景が違うとは言え、排他されずその書が現代にも息づいているということはなんらかの理由があるはずである。300年の日本の空白を憂うのか、歴史の中に存在する伝説の書の中に何かサインを見つけよう、そして、得たものを現代に活用しようとするか。武蔵が今でも生きていたら、この時代をどう定義するのか。もしかすると、それほど変わっていないのかもしれない。科学や医学や先進技術が進化・発展してもそれを活用する人の心には実はこの「五輪書」が有効なのかもしれない。武蔵はこの書の中で、「人生が見える瞬間がある。」と語っていたらしい。それはいったいどういう感覚なのだろう。この世に生を受け、両親の愛情に育まれた一人の人間が、モノ心を知り、世界感を広げ、友情を知り、愛情を知る。そして、自分自身の人生を知る瞬間があると言っているのだろうか。それは親になり、社会と関わることで、自然と身についた能力なのか。定説や論理や情報の向こうに何かがあるのだろうか。それはたぶんPCの中にはないのだろう。手から手へ、言葉から言葉へ、心から心へ伝わってきた「想」なのでしょう。¥480の書籍の中にそんな伝説が隠されている。書籍というメディアが人に受け入れられる理由がそこにあるように思う。リアリティーというかふるまいというか偏在する価値観や世界観に「OFF」はないと思う。

「こんなイメージ」論#001

 「・・・なイメージのデザイン」「・・・なイメージのWEBサイト」「・・・なイメージのコセンプト」と何何にイメージという言葉はよく口にするし耳にする。自分自身が何かを伝えようとする時、それを表現する適切な言葉が浮かばない時にこんなコミュニケーションの方法をとっているし、人から何かを聞く場合もその人の言葉で伝えようとしておられることのフレームが見えない時、「それは・・・なイメージでしょうか?」と確認させていただく場合「・・・なイメージ」という表現を活用しています。これは、何かをコミュニケーションする時に非常に有効に機能する。「ほらほら、黒い重苦しい空から雨が降り、近未来風の巨大な建物が建ち、空飛ぶ自動車みたいな乗り物が行き交い、地上では傘を差した人が無国籍風のコスチウムを纏い闊歩している。雨は酸性雨でその街に暮らす人々は自分たちの未来に希望を抱いていない。今をただ生きているという実感だけで街が動いているような未来の映像」を、と伝えようとすると、「黒い雨?」「近未来風?」「空飛ぶ自動車?」「無国籍風?」とこれらのどれかひとつが理解できない、頭の中に描けていないと、最終的に伝えたい映像はかなりチグハグなモニになり伝わってしまう。しかし、一言「ブレードランナーのオープニングようなイメージの映像」で「はいはい、なるほどなるほど!ところどころで炎が噴出しているみたいな・・・」と100%その伝えようとする映像は伝わる。しかし、伝えようとする相手が「ブレードランナー」を観たことがない場合、やはり、「黒い重苦しい~」から始めなければならない。
 で、人と人がコニュミケーションするということはお互いのいろいろな条件がマッチしているとそのコミュニケーションはさらに覚醒されるのですが、スタートラインで温度差や既知に格差があったり経験値や一般知識・専門知識に格差があると最後まで交わらないコミュニケーションになり、繕うだけで終わる場合が多い。だから、その人が何のプロであり、どんなライフワークを展開して、どのような人間関係の中にいて、何を経験値として持ち、どんな自分の未来像を描いておられるかを知るためには感じるためには、こちらが広くも深くも何かを探求し続けていなければいけない。どれだけ厚い経験値があり、その時はクレバーでも今現在それをしていない人は「むかし話」でコミュニケーションが終わり、何かにコンプレックスを持ちそれをプラスのベクトルに変えられない人は「おとぎ話」で終わり、そのいずれでもない、何も自分自身の事や家族の事や社会の事や教育の事や地球の事や宇宙の事に興味のない人とは、どのアプローチを持ってしてもコミュニケーションをとることが難しい。というよりも、そのタッチの方とはコミュニケーションをとる必要がないのである。社会生活とは団体生活であり、共生共存とは言え、その方とは別にコミュニケーションしなくとも共生共存は成立する。一番、危機感を持たなければいけない最大のポイントはここである。存在価値とは難しい言葉になりますが、価値とは呼応することであるはずですから、そのために何を思っているを知るために、「・・・なイメージ」表現は便利でもありリスクもあるのです。
 「時は金なり」と言いますが、「ふるまいは人なり」と勝手な造語で「道草思想論「こんなイメージ」論#001」とさせていただきます。

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長浜力か・・・。

 「なんとか力」という書籍にどうしても最近目がいってしまう。長浜力という力は何かと考える機会があり、これからの20年の長浜市をなんとかしようとする方とのガチの議論は熱い。熱いから議論なのか議論だから熱いものなのかということはさて置き、やはり、何かを創出しようする際にはエネルギーが一点に集中する必要がある。自然に生まれるモノには自然に生まれるべくしてのエネルギーが循環している。だから、新しいモノを創ると言っても科学や工学ではないのだから、そうそう新しい価値観など生まれるわけでもなく、新しいと感じてているけれど、それは、地球上のどこかで必ずすでにあるソースに対してちょっと色を変えたり形を変えての改めて観賞しているだけだとも思う。しかるに、原案はどこかの焼き直しでも新しい価値観とは格別に個性がある必要もなく、格段に内容が充実している必要もない。

 しかし、重要なポイントはその場所でその条件でその人の手によって何が生まれたかであり、「なんとか力」って書籍を読んでも結局そのパターンなのである。その言葉自体は何かと何かの組み合わせなのですが、その著者がこの時代に書籍として存在させたということに価値があるのである。それをまた読む人のタイミングが新しいタイミングを生み連鎖が起こることが、いわゆる「なんとか力」の認知度とよばれているだけ。

 で、それがもっとも重要なことであのだから、「長浜力」も「札幌力」でも「ドバイ力」でもないのでから、そこにアイディンティティがあればいいし、それこそがアイデンティティだと思って間違いないだろう。さて、それがどう認知されて、どう具現化するさせることができるかをこれからその「長浜力」で試すことになるのでしょう。方法も目的もすべて包括できてこそ、その場所が持つ力と言える。人の心が淀まずに同じ方向に向かった時のパワーは無敵である。淀まず怖気つかず諂わず歩を刻んでいきたい。長浜力研究所が起動する。

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画面情報の緩さ。

 アナログ情報とデジタル情報の決定的な差はその存在感であるが、デジタルはデジタルで「リアル感」を追求し情報にディテールを負荷しようとしている。しかし、もうそろそろ技術進化も限界なのではないでしょうか。求めれば変わるという幻想もいつか技術的な障壁が現れてそこでストップするように思う。それは、情報の受信側が五感を持っているからでしょう。「見る」という受信形態を分析しても、見ているには実はさまざまななチャンネルがあり、ただ、平面的なモニターの中で2次元的に展開する絵柄を見るだけということは非常にディテールに欠けている。欠けているからこそのメリットの部分は多くあるのですが、情報のディテールが今後いろいろな分野で求められ差別化されようとすると、このドローがない薄い面で目がどこまでディテールをイマジネーションを核心を抽出できるか疑問である。ふと気がついたこのお話は意外に展開できるかもしれないので、また、時間があるときに書き出してみます。
 で、それを仕事にしていながらなのですが、3Dにどこか違和感があり、作品づくりに没頭てきない理由は上記のことが大きな理由のようですね。角度の変わらない、調整可能なこのモニターと呼ばれているキャンバスはどこがどう進化しようが、このままだろう・・・ということです。だってそれがモニターじゃんと言ってしまえればいいのですが、やはり、モノヅクリだからディテールが欲しい。例えブラウザの中でモチーフが回転しようが、映像で世界いろいろな場所に行けようが、物語の展開をリアルに演出しようが、操作バーを振り回そうが、弾丸を避けられようが・・・。

タイムボックスという思考。

 和歌山のおいさんへ、タイムボカンではないですから・・・。
 様々なフィールドのプロフェッショナルの方とお話をすると、「プロ意識」とは具体的に何だろうかと考えた場合に、私の中では3つあるように思います。ひとつは「その仕事を楽しむ」ということ、そして、二つ目は「考えず感じている」ということ、この二つについては、いつかまたこのブログで気が向いた時に(これまでもこの展開は何回となくあったのですが、なかなか、気が向くことは少ない・・・)展開いたします。
 で、三つ目は「制約・条件の中でのMAX」ができる人だと思う。例えば、最高のPCを持ってありとあらゆるソフトウエアを持っていてお金も持っていて自由な時間もあるという方が、そのパソコンを最大限活用して素晴らしいクリエイティブを展開しているかと言えば決してそうではなく、むしろ、その逆であったりする場合が多い。パソコンのコレクターならそれでいいが、私の感覚ではかんなやのこぎりやのみなら、その形状は美しく壁にかけてあっても観賞るす価値はあると思うし、道具としてもそれらは素晴らしいと思う。しかし、パソコンの外見なんて、最近、アップルも緩くなってきたので、パソコンは私の場合絶対に観賞対象ではないので、活用してなんぼ、ソフトが手に馴染んでいなければ、ただのパソコンのアクセサリーだと思っている。つまり、いいパソコンスペックを求めることは大切でそのためにいい仕事をして、よりハイスペックなプラットフォームを手に入れたいという願望は正しいと思うが、それが、本末転倒にならぬように注意したい(と言っても、予算が潤滑にあったことは私の記憶では1回もないので、好きなパソコンを買ってもいいよと言われたらそれはそれで自分を見失うような気がします。)が、そんな幸運は絶対にないだろう。
 また、いい感じの方は「忙しい」を確実にコントロールしている。決して、悪いストレスになったり、まして、ユウとウツの間を行ったり来たりはしない。現代病だとか言っているが、これは完全に贅沢ボケである。何かしなければ、命がなくなる。家族の生活が危機にさらされると感じた人間は本能で生き抜く判断をするはずである。うつだか精神の病だか知りませんが、それは平和で贅沢で無知な毎日に脳が反応をサボっているだけでしょう。あまり、強い語調はブログとしてタブーですし、そんな存在に熱くなってもその価値がない。しかし、「忙しい忙しい」の本質は「どんどんなんでも来い!」に変換できるように思いますが、いつもいつも忙しい忙しいという方はちょっと信頼感が薄れる場合もある。自分で自分の人生をコントロールできてねぇな~と思う反面、セルフコントロールしすぎて、されすぎて、この人の器はだんだん萎縮していくんじゃない?とも感じてします。まぁ、自分がそうならぬよう留意はしたい。
 そんな条件がたくさん在る中で、コストや環境などいろいろな条件があるが、中でも、誰にでも均等に与えられている「時間」についてプロフェッショナルでない方はとても緩い。時間が与えられているという感覚もなく、問題意識も欠如していると、時間の感覚が麻痺してモチベーションがコントロールできなくなるような気がします。いつまでにを自分で目標値を設定したらなんとかやる。もしくは、「それは無理!」と諦める。という判断ができないとナニゴトもプロと呼べないような気がする9月4日でした。

電柱の数!?

 「地頭力を鍛える」という書籍について気にはなっていたのですが、どうせイマドキの啓発著書だろう・・・と高を括っていたのですが、ちょっと前がきを読んだ瞬間、あれアリかなとその場でチェック開始。インデックスを読みそれぞれの章を見ていると買いたくなりました。「国内の電柱の数は何本でしょう?」とこの一見無意味にも思える問題に興味が沸きほぼ読み終えました。なるほどなるほど、確かにねぇ~という内容と整理されている文体や事例がとても適切でいい書籍でした。さてさて、日本国内に立っている電柱の数は実は何本でしょう?新しい思考パターンというか、インターネット時代の情報処理能力の大切さを3つの軸で考察している内容です。とても心地のいい文章でした。

イレモノをデザインするか・・・。

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 考えている人は本当に深い。浅いことは悪いことではないが、深いと感じる人には恥とか体裁とか外聞をかなぐり捨ててリスペクトしてしまう。また、リスペクトできる自分も浅い野郎ではリスペクトのベクトルも緩くなる。骨の棍棒と手で水を掬う器のねじれか・・・。イレモノという概念は決して義務教育でも専門学校でも4年生の大学のカリキュラムの中に存在しない。まぁ、存在できるはずもないが。しかし、近年、その取り組みがいろいろな場所で行われているらしい。つまり、教育者という免許を持っていない、現場のプロが教育の現場で学生たちと共に学びながら、教える学ぶという構図ではなく、相互のモチベーションを高めるエクササイズが展開されいるらしい。そもそも教育とは目的のための手法であったはずが、いつのころか手法が目的になり目的はどこかにジャンプしてしまった。ジャンプさせた連中は目的が必要ないとその時感じたからだろう。非常に浅い判断である。というより、それは別のチカラの影響下にあったからで、独自の判断ができない状態だったからだとは思う。そして、高度成長という殻づくりに翻弄して年月が経ってしまったということ。その間、イレモノの概念はどう変異したか。進化はしていないはずである。時代と共にカタチを変える殻こそが現代のシンボルのように思う。そして、デザインという行為の意義である。考えるということは創るということであり、モノトゴを鵜呑みにしないということであり、もしかすると破壊するということかもしれない。これは、こんなブログで語れるテーマではない。
 ただ、デザインという仕事に長年たずさわり、少しでもそのフォルムが見えてきたなら、手を伸ばすべきである。べきであるなどと非常に他人のふんどし的な言い草ですが、本当の主観のイレモノの中にあるデザインを整理する時期が一生の中であるとすればこの時期なのかなと思っています。

長浜力研究所構想。

 全国、全世界にはそれぞれの市や街単位でそれぞれの歴史や文化をベースに「街づくり」や「地域教育」などの運動や事業を展開するコミュニティーが存在している。その規模は巨大なモノもあれば、小規模な団体もある。いろいろな季節にいろいろなコンセプトを構築して展開・継続される事業・イベントが歳月を重ねる毎に定着し、それ自体の価値観がさらに大きな渦となり、活性化や安らぎや期待感を創出し始める。それ自体はたくさんの関係者の皆様がひとりひとりの想いや願いを共有する目的でスタートしている。
 共有が共有を生む過程で初志が色褪せないようにしなければいけない。しかし、規模やボリュームを維持することが難しい時代です。手法が目的にならぬよう、何がはじまりで何がゴールなのかをその都度少しだけ立ち止まり確認することも共有するためにも、固定化しない概念の集まる場所があればいいと思います。ピースを集めて大きな絵を組み立てることも、集まったピースをバラバラにすることもそれほど難しいことではありません。何故組み立てているのか、何故一旦バラすのか、その理由や背景を共有できていれば、それは、とても生産的な概念として意味があると思います。
 意識の中に偏在する概念には常に先入観や別の価値観が入り乱れ「迷い」が生まれます。時にその「迷い」も必要だと言えるほどその入れ物が成長した時、それを傍観する人、その中に入りたいと感じる人、そして、その中で軸を支える人、それぞれが、何かを共有するきっかけとして長浜力研究所が存在すればいいなぁ~と思うのです。

長浜力研究所公式WEBサイト

文章の裏読み。

 例えばこういう文章がある。「インターネットを取り巻く環境は、日々進化しつづけています。次々と新しい技術やテクニックが生まれ、通信インフラやパソコンのスペックもどんどん向上しています。これらの変化は、ホームページやWEBデザイナーにとって、よい方向に作用することもあればその逆もありますので、世の中の流れを見てうまく対応していきたいものです。この章では、200X年X月現在のインターネットを取り巻く状況を概観しながら、WEBデザイナーとして新しい技術や環境とうまく付き合っていく方法や心構えを、一緒に考えていきたいと思います。」ということは、通信環境やパソコンがどんどん進化して新しくなりますから、クリエイターの皆様はそれに付随して新しい技術やテクニックを会得しましょう。でなければ、悪い方向に作用することもあれば、その逆もありますで。私は新しい技術や環境とうまく付き合っていると思っているのですが、皆さんはどうお考えでしょうか?と言っているように読み取れなくもないですし、さらに、インターネット環境は新しい技術を会得するためには一緒に考えていきましょう!というふうに短くまとめられなくもない。
 しかし、意外とリアルな目線としては、「さらに、よい方向と悪い方向にふたつの選択があれば、皆さんは勿論、よい方向に進みたいと切磋琢磨されていることでしょう。しかし、クリエイトに良い方向と悪い方向などと「良い」と「悪い」と明確に識別できるような基準があるのでしょうか?あるとしたら、それは、すであるモノサシ、しかも、それほどたいしたことのないモノサシで何かを計測しているだけで、私はそれほど気にしていませんよ。まず、「良い」と「悪い」の区別などすることなく、全てを受け入れてとは言いませんが、お互いのコミュニケーション値を上げて、お互いの立場や考え方を得ることが「概観する」ということだと思うのですが・・・。」と論じられるかもしれない。
 って、書籍は面白いですね。ひとつの文章の裏にいくつもの応用編があるから。その設計図を見つけるのが書籍の楽しみ方のひとつだと思います。文字を絵のように読むということも楽しいですが・・・。

文武両道とは・・・。

 中・高校生の頃、身近にあった言葉で「文武両道」という考え方がありました。その頃は両道とは「部活動」と「勉強」だと思い込んでいました。勉強だけできても、運動だけできてもだめだから、健全な肉体に健全な心が宿るという少し古い考え方のように思えるこの「文武両道」を中・高校生なりに解釈して部活に勉強に取り組んでいた。とはいえ私の高校生時代は「文」とは無縁になるのですが。そして、芸術という道(大阪芸術大学)に進んだわけですが、そこでも、実は「文武両道」が存在していたのです。
 現代、人材育成という言葉を聞くとどうしても多くの人材を同一のある一方向に成長させるためのプラクティスや理論や実技や心理プログムラのように捉えてしまいます。実際はそんなプログラムを一回も受けたことがないので、その実情は理解していないに等しいのですが、なんとなく、「人材育成プログラム」と聞くとそんなイメージを受けてしまいます。それは、江戸時代以降の教育システムのバージョンアップ上にあり、要は少ない国民の数で全体的な教育レベルを上げて生産性を高めるという指針の元に展開されてきた大きな潮流だと言えるのではないでしょうか。絶大な効果があったように見えましたが、実はその副産物というか弊害というか失われた大切なシステムがあったように思います。
 中・高校生で「文武両道」をみんなといっしょに目指していた人間が、硬式野球と陸上競技に没頭するあまり「文」のバランスが崩れる。しかし、芸術という道を見つけてその道で試行錯誤を繰り返し右往左往しているうちに、たくさんのプロフェッショナルなクリエイターと出会う。そして、何かを吸収させていただいた。すると、クリエイター以外のいろいろな分野のプロフェッショナルな方と出会えるようになった。そして、感じるのです。本当に文武両道の「文」は学業で「部」とは部活動・運動のことなのか?と。そのきかっけはある歳になり、自分が芸術やデザインの世界で食っていくために、東京や大阪で何かを吸収していた時期と同じ世代の方と出会うことが増え、その頃の自分と今の世代の方の考え方や環境の違いが少しだけ見えた時にちょっとした感覚的な相違点が見えたような気がしたのです。
 まだ、それは非常に仮説レベルであり、整理された考察ではないのですが、これは、なんとかして整理してみたいという気持ちになったのです。あまりにも多くの出来事を少しづつ系譜にしていく作業とその頃の気持ちを参考資料と合わせて文章化することは大変なことかもしれませんが、今だからこそとてもその意義を強く感じるのです。株式会社アクトの企業方針として「動くひと、創るひと、考えるひと。」というスローガン的なことを数年前から打ち出しているのですが、これは、自分自身の中に常に意識化させるためなのです。迷った時とかモチベーションが上がらない時に「お前は充分に動いているか?創っているか?考えているか?」と問いただすため。その自問自答こそが実は「文武両道」なのでは・・・と。しかし、この考え方はまだ緩い。だから整理する必要があるし、その整理された系譜を同じベクトルを持つ皆様と共有したいということでいくつか具体的なプランを構想しています。それはまたいずれ・・・。

マイナス6%の扇動。

 それは真実かと問われるとそこに明確な物理定数は存在しない。そもそも物理定数を崇拝する人間の本質は人間が科学と出会ってから宗教のように浸透しているらしい。確かに、教科書の数字をテストでいい点をとるために覚えることはしてきたけれど、その数値は正しいのか?と疑問視することには慣れていない。実際、科学の現場で実験を繰り返し、スーパーコンピュターが割り出した数値を真実とは呼ばずに何を真実と呼ぶのかなどと水を掛け合っても仕方ないということも言えなくないのですが、必ず、数字をコントロールするための手法に使っている方もいるはずだから、今、我々は「マイナス6%」に向かいながら実は現実は「プラス6%以上」だという事も判断材料の中に入れておく必要もある。洞爺湖で行われるお集まりでどのような結論が出るのかは知る由もないが、都合のいい物理定数を操って何かを扇動しようとする議論だけはやめてほしいと思うが、それも一般市民では手の届かない話である。
 科学も宗教も政治と組み合わさり成立している。これはいいことでも悪いことでないし、何も白黒をはっきりつけることが成果でもない。繋がっていないより繋がっている方がだんぜん素敵だと思うから、繋がり方もいろいろあっていいんじゃないでしょうか?デジタルコミュニケーションを推奨するエヌとエヌとティーの会社さん、本当の国益は何だと思いますか?お話する機会があれば聞かせていただきたい。

魚が食卓から消える!?

 石油燃料をとりまく負の連鎖反応がいろいろ問題化しています。漁船の燃料が高騰し遠洋漁業ができなくなり、日本の食卓から魚が消える!?らしい。これだけ海に囲まれているのに魚が食えなくなるのということも想定しなければいけないのか。石油燃料は何も自動車だけのことではなということ。近くの買い物なら自転車を使うか歩くかに本格的に取り組んだ方がいいのでしょう。便利さを失いたくないとライフスタイルを変えたくないなんて言って高いハイブリッドを買うよりも、近場は歩きと自転車、遠距離は電車やバスを利用・活用すればいいんですよね。でもなかなか身についた便利さをリセットすることは難しい。いろいろなことの基準が変わっていることには疑いようのない現実なんだから、人間が何かを変えようとするのではなく、人間自身も変わる努力をしなければいけない時代なんでしょうね。魚が消えるまえに自動車が消えていたりして・・・。

実感がそれほど・・・。

 確かにブログの便利さは10年前には今ほど浸透していなかっただろうし、これを活用したビジネスモデルも存在しなかっただろう。まして、IT関連の最新記事を読むたびにこれを活用してビジネスが次世代へ向かうと言ってはいるが、その次世代に何があるのだろうか?何のために次世代に向かう必要があるのだろうかと猜疑心というか疑心暗鬼にならなくもない。確かに確かに便利でPCやモバイルを活用してどこでもテレビプログラムが見れたり、デジタルコミュニケーションが可能だったり、本来メディアを購入していた商品がD.L.に置き換わり、HDDに保存され、それがライフスタイルになってはいるのですが。それが、本当に「便利のカタチ」なのだろうかと思ってしまう。
 なぜ、ブログをやり始めたかと聞かれれば、「みんながいいと言っているから・・・」「自社のWEBサイトのエンジン対策に・・・」「閲覧が自由でキャパも無制限に近いアーカイブだから・・・」「デジタルコミュニケーションの先端を実感するために・・・」など一般的な理由はいろいろありましたが、ほぼ1年、続けてみてそれほどその理由に対する実感はありません。結果を出すためには「それなり」の部分でもっともっと企画やコストをかけなければいけないのでしょう。ならば、これまでの広告メディアといっしょということにもならなくない。だけど、世の中ブログブログと言われ続けているにはもっと別の理由があるように思います。はたしてそれが本当の理由で、それ以外のどこでも見たり聞いたりできる一般的な理由はただのきっかけづくりで、奥の奥にはもっと別の目的が用意されているのではないのかなと最近は思うようになりました。
 実感としてブログをやっていていいと思えることは、自分の想いや世の中の見方をその日その日単位で記録できることが、それをある一定の時間の経過後、改めて簡単に検索して読むことができるということが、何につけても物忘れの激しい自分自身にとって「デジタルの再認識」ができるのはひとつの利点だと思います。ブログを書いている人の人なりを知らずに文章だけを読んで何かが伝わるというほど、皆様ブログに依存はしておられないだろうし、テーマの設定もよほど共感できるテーマでない限りそうそう、シンクロもしないできないの現実なんだろと思います。「ブログの成功術!?」なんて書籍もブログはただのトラップで書籍に繋げるためのツールだったようにも思えなくない。ならば、その手法、自分でも取り入れてデジタルとアナログ、ブログと書籍(印刷物)の関連性をもっと吟味しなければいけないのではと考えるわけです。やはり、どれだけ表現が豊かになっても2次元のモニターや端末からの情報に人の五感はそれほど左右されないというのが結論・真理のような気がするのですが、皆さんはいかがでしょう?情報のリアルさと時間経過の方程式、皆様はどんな公式をお持ちなのでしょう?

右目と左目。

 普段は意識しない右目と左目の見え方の違い。最近、ある方のブログで左手と右手のお話が書かれていまして、それで、利き手についての面白いこだわりトークがありました。へぇ~、日常生活で利き手(右手)を使わず、あえて左手を使ってみるという楽しい意外な角度のお話だったので、ちょっと、気持ちが上がったのです。利き手のお話では、子どもの頃、左利きだったのが、いつの間にか小学校では右利きになっていたので、何故、右になったのかは覚えておらず、左のままだったら、さてどうなっていたのかということも含めて、右手と左手の楽しいお話でした。右利きの人がなかなか左手で箸を使うのは難しく、野球の打席も右の方が左でボールを打つのはかなり練習が必要。けれど、どうも、元々左利きの私は、右でも左でもボールを打てた。大成はしませんでしたが、体育の時間のソフトボールレベルでは、右でも左でも気分で打席に入っていました。そして、箸もどちらでも使えたりしますし、日常生活でどちらでコップを持って、どちらで冷蔵庫のドアを開けるというレベルでも、両手を使っている。
 そこで、目のお話なのですが、私も芸大でデッサンの実技を受けている時に確か「利き目」というのがあるのを知り、それまで、意識してこなかったのが、モノを見るという時に、片目で見る利点と両目で見る利点を使い分けるようになりました。その中でも、右目と左目でどちらが自分の効き目なのかを知っていると便利な時もあります。どうして知ることができるかはまた次回ということで、両目で見るということは、物体を立体的に捉えることができるという利点があります。この逆で、立体的に捉えるためには1点ではだめだということ。2点で捉えることで、物体の存在感が情報としてインプットされるということになります。では、モニターから入ってくる画像情報についても、立体的にインプットさせるためには、どうすればいいのか・・・。これが、今、WEBサイトで新しい表現をするために、なんとかできないモノかと考えております。勿論、映像やFLASHを駆使して、物体を回転させたり、視点を変えれば、物体は立体的に捉えることができますが、これは誰でもできる安易な方法。そうではなく、動かさずに物体を立体的に表現できれば、新しいアプローチができそうだなぁ~と考えております。勿論、3D眼鏡なんて使わずに。つまり、2次元で3次元の錯覚をさせるのではなく、両目で見ている情報の特長を理解して、平面でそれを表現するということができるのかできないのか・・・なのです。何かいいアプローチがありましたら、コメントせずに、こっそりとメールをください。info@act-khuz.comまで。

裁判員制度の是非。

 徐々にその温度が上がっている。地球の気温はそれほど上がっているようには思えないが、裁判員制度の温度は上がっている。国民が国民を裁く国になる。審判を下すべき資格を持たない国民が協議の末に審判を下す。このことが、どれほど責任を問われるのか想像もつかない。凶悪犯罪が増えたから、弁護士や検事に負担が大きいから、それとも芽生えたのか?その立場になった時に権利と義務のジレンマをどう解釈するのだろう。正しいことと悪いことの定義を何に求めるのだろうか?事例が積み重なりそれがいずれはスタイルになるのでしょう。

「沈黙入門」とは?

 こちらの書籍は幻冬舎からの発行されているベストセラー。広告にはこう紹介されています。「意見のあるところに浴あり。沈黙から道は開ける!余計なことは言わない生き方のすすめ。もう語らない。怒らない。求めない。ベットに入っても眠れない。食べても食べても満ち足りないとき。複数の選択肢の間で迷うとき。大切な場面を前にして緊張してしまうとき。断りたいのに断る勇気が持てないとき。仕事の締め切りが近づき焦るとき。など場面別カンタン瞑想法も紹介。心と体が軽くなります。~今夜は一冊の本をご紹介します。タイトルは「自分から自由になる沈黙入門」。著者は小池龍之介さんというお坊さんです。今、とても売れているようですが、つい他人の悪口を言ってしまう人、愚痴が多い人、自分は正しいと思い込んで人を責める人、欲望の強い人、すぐにイヤミを言ってしまう人、ちょっとへこんでいる人にお勧めです。」となっています。で、7万部を突破しているとのこと。「欲望、怒り、迷いから開放される生き方。ポップな仏教入門書」らしい。よほどこの著者の方は煩悩に支配されていたのでしょうね。何も語らず何も求めないことの難しさではなく、語り方や求め方のショートカットがこの書籍の中に在ることを期待して、チェック入れました。東京大学教養学部を出て、現在は月読寺のご住職か・・・。人生いろいろですね。