すべらない話 アーカイブ

特殊な設備。

 今日、仕事で長浜市内に出て踏み切りを渡ろうとしたら警報が鳴り出した。長浜駅周辺の遮断機だったので、長浜駅出発の新快速待ちだった。いつも通る踏み切りだったが、今日は何故か遮断機のバーを固定したフレームに設置された、小さい掲示物が目に止まった。恐らく2分間ほど待つことになるだろうと思い、その掲示物を読む。その掲示物に書かれていた内容を読み、いろいろ荒唐無稽なイメージ(想像)が膨らんだ。

 その掲示物にはこう書かれていました。

 この踏み切りには特殊な設備がしてありますから、警報器が鳴ったら踏み切りの上で立ち止まらず、す早くお渡りください。

 うん?「特殊な設備」?その掲示物には「す早くお渡りください。」とは書いてあるが、もし、立ち止まらなければ、その特殊な設備がどうなるのか?については書かれていなかった。警報が鳴っているのだから、電車が来る合図だということは子どもでも分かること。故意に立ち止まるなんて人はいないはず。しかし、もし立ち止まらなければ、一体、ここに記載されている「特殊な設備」は、立ち止まった人に対して、どんなお仕置きを与えるのだろう?

 まさか、映画SAWのように、映画CUBEのように、立ち止まった人がバラバラになったり、縦に降りてきたバーが横にスライドして強引に立ち止まった人を線路の外へ押し出すとか?もしくは、映画トランスフォーマーのように普段はどこか警報器の中か、地面にしまい込まれている金属のバーが瞬時に現れ、立ち止まった人を踏み切りの外につまみ出すのか?そんな途方もない想像が膨らんだ。

 すると、杖をついたおじいちゃんが踏み切り直前まで歩いてきて、普通に止まった。私は車なので左側、おじいちゃんは右側。もし、今、このおじいちゃんが何かの原因で踏み切り内に侵入し、その特殊な設備が起動し電車が来るまでにおじいちゃんを一瞬で処理してしまったら、などと考えると、不謹慎だがひとり車中で笑いがこみ上げてきた。

 また、別の角度でこの「特殊な設備」看板について考えてみた。恐らく、JRの内部で踏み切りを設置する際、万が一、急いでいる人が中に侵入しないようにとこの掲示物の設置が必要だという話になったのだろう。もしくは既存のルールで踏み切りには必ず侵入者に対する警告表示が義務づけられ、その文章を担当者が考え、しかるべき手順と確認作業で、文面を制作した担当者から部長さんへ確認作業が行われたはず。それも、踏み切りに設置している掲示物だから、そう最近のお話ではない。20年、もしくは、もっと以前からこの文章はあったはずだ。一昔前なら「特殊な設備」が何であれ、踏み切りは踏み切りだから、バーが降りれば侵入は禁止というモラルとして深く考えることもないだろうから、この文章を考え出した人は曖昧に「特殊な設備」と表現しておけば、明確に理解・実感はできないが、ほとんどの人が侵入を断念するだろうと予測したのかもしれない。しかし、「特殊な設備」が作動したら、踏み切り内に謝って入った人がどうなってしまうのか?については、掲示物として明確にする必要があるように感じた。

 だって、私自身、長年、デザインの仕事をしてきて、いろいろな文章に触れてきたし、いろいろな施設のサインを制作したり文章をチェックしてきた経験があるが、どの案件であれ、制作物に記載する文章として「特殊な設備」と書いて、それが何かを書かないという案件は経験がない。天下のJR、そのあたり、少し緩いのではないだろうか。

 そうこうしていると電車が目の前を通り過ぎ、普通に踏み切りを渡り終えたが、私の頭の中では、映画CUBEのオープニング。立方体の内部、その中央部分に立っていた囚人のように、あのおじいちゃんが一瞬でサイコロステーキのようにバラバラになるシーンが浮かび、深く小さく長い笑いが止まらなかった。

 いったい、「特殊な設備」ってなんだ?

すべらないということ。

 年末恒例の「すべらない話」。今年も逸品揃いでしたが、やはり、陣内さんのお話が最高の仕上がりでしたね。松本さんのお話も素敵でしたし、小藪さんのお話もスタイルが完成されていた。あのメンバーがあの空間で吐き出すすべらない話というリアルは、やはり、テレビのリアルであり、あの空間でアウトプットする人とインプットする人の構図にこそ実は情報交換の本質がある。「話す」という行為がかくも人の本能を刺激することに注視すれば、数多の諸行のパワバラが説明可能だ・・・みたいな。それを勿論ガチで演出効果のそれに置き換えテーブルの正面に鎮座している松本人志が素晴らしいのである。脇を固める他のメンバーのポテンシャルとそれを会場で鑑賞するあそこに座れない人達。ただ単に「笑うう」「すべらない」という価値観が生み出す不思議で愛すべきひととき。いやいや、楽しませてもらいましたね。

 「しばくぞ!」にあれだけの脚本と物語感を注げるエネルギーが凄まじい。

すべらないパターン。

 昨晩の「すべらない話」は第10回目ということでメンバーがそろそろ固まってきた感じがある。常連さんから初登場の方も含めて、この場所に来て自分の話術を披露できる人は芸能界広しと言えどかなり限定されているような気がしてきました。そして、すべらない話に対するオーディエンスの構え方もレベルが上がっているというか、すでにこのお話が皆様から発信される前に相当、温まっている感じ。つまり期待度とこなれた感じが次のレベルになっているような。これを恐らく松本さんはイメージしていたのだろう。このテイの話術というか観察眼がなければ芸能人として物足りないですよ、テレビで芸能人としてのポテンシャルを示すならばこのレベルの才能と日々の努力が必要ですよと言っているような流れ。テレビの世界もメディアの世界も政治・経済の世界も同じ。作用と反作用だから、いくら高い次元の高尚な作品(コンテンツ)を世の中に送り出そうとしても、もしくは、根本的な理想のビジョンを政治家や思想家が世の中に認知させようと構想しても、それを受けるサイドの層が未熟だと本末転倒な「空回り」になる。しかし、それが成功・実現すれば、その下位のレベルの層は必然的に淘汰される。撹拌したいなら、センスと技術と知識を磨けよ!と松本さんはほのめかしているのだろう。それを「すべらない」というひとつのモノサシでバブリックに展開したのがこの「すべらない話」の仕組み。

 あの席でテーブルを囲みダイスの転がりを見つめながら、「自分の名前が出ろ!」と願うのか、着飾り適当なコメントで尺を繋ぐ一芸能人で終わるのか・・・、松本さんも分かりやすい仕組みを創ったもである。流石としか言いようがない。ある意味、彼らはグラディエイターなのかもしれない。

 に、比べてこの年末の特番音楽番組に登場するタレントのリストは何だ?アーティストの密度が低い。出ているのはいわゆるニギヤカシ面子ばかり。たぶん、単価が安いんだろう。ジャニーズか秋元組か韓国系かエグザ系みたいな・・・。どれも、当然「歌」ではあるが、ハリボテの付け焼き刃もはななはだしい。が、それが現在のテレビの背景だろうから、リアルの部分として仕方なし。しかし、モノホンのアーティストはこれらのハリボテ達と一緒に「音楽番組」のテイで登場することを根底から嫌っているんだろうなとさえ思ってしまう。あの人達といっしょにすべりたくないのだろう・・・。

 で、トータル的に「すべらないパターン」はどうすればいいのかが、2012年の大きな日本のテーマになるだろうなと思いながら、さっさとその音楽らしき番組を消して、「フリンジ・セカンドステージ」の最終巻(11巻)を観ました。こんなテレビドラマが流れる国ってそれを待っている人のレベルも高いんだろうなぁって感じです。さて、正月休みは「フリンジ・サードシーズン」へダイブ!

安全パトロール出動!

 それは、ほぼ、10~15秒の出来事であるから、全てが風景描写でしかない。しかし、その風景は今でも目に焼き付いている。だから、すべらない話というカテゴリーにしてしまったが、すべるとかすべらないというほど実はこの話には展開力も物語性もない。しかし、いったい何が起こっていたのか?その場所でどのような事件が発生してそこにいた安全パトロールの対象である、小学校低学年の7人に何があったのか・・・?それが、今でも気になって仕方ない。

 東近江市にパンフレットの配達に昨日行きました。昨日は梅雨明けしたような感じの猛暑。ちょっと、打ち合わせをして車に戻ってくると車の中はほぼオーブン状態。窓を全開にして風を通すが車のボディはお湯を沸かしたやかんのようにチンチン。さすがにやけどはしないだろうが、シートに座った瞬間、全身から汗が噴き出す。早く窓を開けて走り出さないと脱水症状で車の中で熱中症になるだろう。ってぐらい暑かった。

 だから、その場面が視界に入って来た時も何かご近所の年配の方が小学生の子どもたちの集団下校を見守っていて暑さで誰か倒れたのかと思った。それぞれの街でそれぞれ老人会の皆様が旗を持って道路の角に立ってくださっているあれ。ああ、おじいちゃんがんばっておられるなと思ったが、あれ?そのすぐ後ろに白い軽自動車で屋根の青色のランプが二つ点灯している。車の止め方も路肩でどうやら緊急モードのようである。で、そのおじいちゃんは何やらその低学年の子ども達を集めて何かをしゃべっている。大きなジェスチャーでよほど何か子ども達が危険な行為をしたのか、子どもたちが安全でないことをしたのか?という状態でした。

 一方子ども達はそんなおじいちゃんの話半分かなとすぐ右となりを車で通ると、全員がおじいちゃんの顔をじっと見て視線が固定さている。まるで、学校の先生に怒られているような、いや、それ以上の緊張の表情である。全員が後ろに手を組み、まるで、精鋭の特殊部隊が鬼教官を見るように微動だにしない体制で、その安全パトロールのおじいちゃんの話を聞いている。

 うん?いったい何があったのだ?安全パトロールのおじいちゃんと7人の小学学生達。その右となりを車で通る時、少しスピードを落として何か一言でもおじいちゃんの声が聞けるかと聞き入ったがが何も言葉は聞こえなかった。その場所を通り過ぎ、サイドミラーでおじいちゃんをチラリと見ると、さっきまで、腰にかけていた右手を上下に激しく降って小学生に何かを注意していた・・・。う~ん、何を言っていたのだぁ~???

 昨晩、寝る時もそのことが気になってしまったし、今でも、何を言っていたのか気になって仕方がない。ただ、間違いなく言えることは、あのおじいちゃんは心の底から近所の子ども達のことを考えている立派な安全パトローラーだということ。う~ん、何を言ってたのだろう???

緊張MAX。

 まず、私が書店のレジのところで待っている状態での風体は、丸坊主、無精ひげ、オレンジ色のTシャツ、ヒザが破れているパンツ、そして、トレッキングシューズ。この状態で私はレジに並んでいました。すると、すぐ右どなりにある、書籍を検索できるサービスで突然「どないなっとんねん!」というおっさんの叫び声。ゆっくり右を向くと、太った50歳ぐらいのおばはんと私よりちょっと背の低い派手なアロハを着たちょっとパンチの効いたおっさんがそのコーナーで叫んでいる。おばはんはたぶんこのおっさんのカミさんだろう。どうやら10日以上前に注文した文庫本が何故まだ到着していないのか?というお話のようで、そのおばはんはその検索コーナーに常設の椅子にふんぞり返っている。まず、この夫婦がどのような文庫本を読むのか興味があったのでしばしその会話に耳を傾ける。すると、「注文した時にここにいたねえちゃんはどこにいる?」と叫ぶおっさん。さらに、「わしらは客やぞ!椅子持ってこい椅子!」という始末。慌てて別の店員さんが事務用の椅子を持ってくる。その二人をじろじろ眺める他のお客達。その視線を感じてかおっさんが「おらおら、何をじろじろ見てるんや!わしらは客やぞ客や!」。その二人を見つめる冷たい視線をこのおっさんはエネルギーに変えて小さく爆発を繰り返す。すると、一人の女性店員さんが来て、「このたびは~」というビジネストーク・クレーム対応の始まり。

 そうこうしているうちにレジが開き、いつも流れで財布からメンバーカードを若い男性店員に渡して、購入する本をレジに置く。すぐ右どなりで展開されるクレーマーの爆発にその若い男性店員さんは相当緊張している表情が窺えた。別にこの男性店員さんは緊張することなみじんもないのですが、おっさんがプチ爆発を繰り返すものだから、レジ付近の緊張感を一気に吸いこんだ感じの男性店員。その男性店員の表情も気になるし、右どなりの馬鹿夫婦も気になる。ちらちら見ていると、その店員さんが、「ブックカバーにしますか、ポイントにしますか?」と聞いてくる。私は書籍にカバーはしないので、「ポイントでお願いします。」と伝える。すると、この店員さんに妙な間があった。あれ?何か変なことを言ってしまったのかな?としばし冷静に考えていると、その店員さんが「メンバーカードをお願いします。」と言う。あれ?さっき、一番に渡したはず、私もこのレベルのうっかりは日常茶飯事なので、財布を確認する。が、確かにさっきメンバーズカードは渡している。で、「あの、さっき、渡しましたよね?」と伝えると。カードリーダーを即座に確認してその男性店員さんは深々と陳謝される。「誠に申し訳ありませんでした。」と。あ~あ、この馬鹿夫婦の爆発で完全に緊張しているんだなぁ~と読みとれた。

 そんな最中でもこのおっさんは何故10日前に頼んだ文庫本がまだ到着しないのかをネチネチと女性店員さんに迫っている。パソコンで検索している最中も、周りの客にプチ爆発を繰り返すおっさん。ちょっと、あまりにも店内の雰囲気が悪いので、おっさんを凝視した。そして、目があった瞬間に舌打ちをして完全におっさんをロックオン。そんな私を見上げるおっさん。2~3秒その状態を経て、おっさんから目線を反らした。そして、そのおっさんのボリュームは普通レベルに戻った。

 それを見ていた男性店員。お金を支払い、領収書をお願いすると、引き出しから手書きの領収書を取り出し、宛名と金額と但し書きをして領収書を破き始める。そこで、「あの、係印を頂けますか?」というと、慌ててハンコを別の引き出しから出してきて押す店員さん。これがまた、朱肉が乾いていてうまく押せない。3回目でなんとか押せたのですが、まだかすれている。でも、まぁいいかと「ああ、それでいいですよ、ありがとうございます。」というと、ホットした表情で領収書と書籍を渡してくれた。領収書も書籍もお釣りも頂いたがまだメンバーズカードは返して貰っていない。ので、しばらく、私が店員さんを見ていると、一瞬で緊張がMAX。目が泳いでいる。「あの、会員カードを・・・」というと、はじかれたようにカードリーダーからカードを排出して返してくれた。「君はカード忘れ過ぎ!」と心でツッコんで書店を後にしました。

 メンドクサイお客ですいませんでした。しかし、あの馬鹿夫婦が注文した書籍の名称を確認できなかかったことだけが悔やまれる・・・。

第20回すべらない話。

 昨晩、人志松本のすべらなない話、第20回がゴスペラーズのイントロで始まった。毎回期待値が肥大する一方でメンバーも趣向を変えエンタメ感を意識して強い話を演出されている。が、そろそろ、第20回ともなるとこちらはスタイルから期待値の側面で入ってしまう傾向を強く感じた。「すべらない話」とはこうあるべきだみたいな空気が演者の皆さまの中にフォーマット化されていくつかのパターンに話の組み立てが偏っているような印象。面白い話ではあるが、置きにいっている感じ。それが、ちょっと残念だった。

 つまり、すべらない話のフォーマット化が本来のライブ感とか奇想天外感を失い、「すべらない話」テンプレートの中で処理されているような気が少しした。これだけの話術のエキスパートが集合してもテレビというテイの中では、何事もフォーマット化・テンプレート化されてしまうのかと・・・。ただ、それぞれ出演者の皆様のパワーバランスはピリピリしていてドライブ感があった。落語家よりも秀逸な話の組み立て方あり、感覚的に感傷的に落とす手法あり、ちょっと深い話で心の振幅を誘いながらのオチみたいな手法あり。どれも、テレビ的には75点でしたが、さてさて、松本さんはその出来をどう判断されたのだろう。MVSが結果、ジュニアさんだったことを鑑みると、内容はさほど高くなかったと考察できる。

 しかし、いつものことながら、雁首そろえた芸能人のオーディエンスの寒いコメントにはくらくらする。

 で、私の第20回のナンバーワンBEST OF すべらない話は、たぶん、大輔さんだろう。話が太く、感覚的で、聴いている人にイメージさせる部分と聴いている人の頭のイマジネーションに挑戦するような「お父さんの散髪」である。短い展開でしたが、これがたぶんベストでしょうね。この大輔さんのお話に比べると他の皆さまのお話はテンプレート内で組み立てとディテールにフォーカスしているが、いわゆる「すべらない話」の本来の芯からは少しづつズレていたような気がする。

「トーク力」というスキル。

 お笑いバブルは何やらはじけたらしい。そして、格差社会がここでも生じているらしい。まぁ、ほんまかうそかは別として、確かにそんなテイは感じる。勝ち組・負け組の例えしかり、テレビの番組に残るお笑いタレントをはじめとする芸能人にはその起用方法に一定の方程式があるようです。

 つまり、トークができるかできないか。その番組の流れやテーマに沿って、求められているトークが展開できるか否かという能力。自分の知識や自慢話だけでは空気が読めないってことになり、蘊蓄ばかりでは流れやリズムが切れる。だから、「トーク力」ということのようです。自分のネタをしっかりと持ち、現在流れているリズムにそってそれらを組み合わせる能力。しかも、テーマがぶれずに起承転結を考慮してしっかり求められた尺の中でオチを用意する。これがこの場合の「トーク力」なんだと思います。

 で、「トーク力」がない人のパターンとしては、同じお話をしていても、どこか何か足りない。凄い内容をしゃべっているのに何故か盛り上がらない。このお話はほんとに奇想天外なのにその奇想天外感がニュアンスとして伝わってこない。「あれ?こいつ何言ってんの?」となる不思議。これは、一概には言えないかもしれませんが、ひとつに「表現方法」と「全体の構成力」に深い関係があるように思えます。

 つまり、しっかり構成を考えて表現力豊かにトークできる人はイコール、人のお話を同様に聴けている人であることが最低限のスキルで、空気を読む~というあたりもこの能力に近いような気がする。その上でこれらのパーツに装飾をして組み立ててリズムとセンスでオチに持っていく。まさにヒトシマツモトのスベラナイハナシのテイである。

 これは何もお笑い界だけのお話ではなく、お笑の場合それが極端に集約されているからテレビとして成立するわけで、一般のビジネスの現場やライフスタイルの場面でも「トーク力」のある人とそうでない人がいることも事実である。これも一概には言えないが、最後の最後でポテンシャルなんだと思いますし、相対力なんだと思います。蓄積しているディテールの重なりが細かく厚い人ってやはり魅力的です。そんな人になりたいものです。

すべらない話の条件。

 話術とはひとつの技術でありすべる・すべらないはその技術の優劣が「笑い」という結果へと導くレベルを左右する。ほんとうに「すべらない」ために必要な条件は何だろうといつも「すべらない話」をテレビやDVDで観ながら考える。が、演者の技量が上がれば上がるほどその見方ができなくなり、話の内容に引き込まれ技術のことやレベルのことなど関係なくただ「笑える」のである。歴代のチャンピオンがテーブルを囲みダイスがふられる。演者を決めるのはダイス。なんとスマートな手法だろうか。過去にこのステージでグズグズになってしまった演者も数名おられたがそれはこの場所の意味をよくよく理解してここで何をしなければいけないかということと、自分の技量への不安がプレッシャーになり、話を組みたてられずにアドリブも装飾できずに沈没していくパターン。落語や漫談などもカテゴ的にはこの手法と同じかもしれないが、そちらは、見るサイドもすでに心の中にこの演者がここに座り題目はこれだからたぶんこの流れでオチに向かうというパターンやシナリオが読めているという条件下で、あくまでも、ステージで演じる方の表現力を楽しんでいるだけという見方もある。つまり、松っちゃんの「すべらない話」の秀逸な部分はそれがダイスという乱数の上で演者を決め、演者は何を話してもいいという条件下で、ただ、自らのネタと話の構成力と表現力で「すべらない話」をアウトプットするという醍醐味が素晴らしい。このドキドキな感じは想定内の部分と想定外の微妙なニュアンスがあって成立する微妙なバランスなのである。

 つまり、「ワクワク・ドキドキ」など予め用意はできるないが結論であり、それを論理や方法論で考えている段階でもうそれは「ワクワク・ドキドキ」とは無縁の産物であり、「ワクワク・ドキドキもどき」なのである。これが感受性の高いターゲットに対して、古いステレオタイプの人間達が何をどう思考しようが、リアリティーの欠片もなく、結論で言えば、表現とフレームを用意したら、あとはダイスに任せられるぐらいの器がなければ非常に非生産的なアンクリエイティブな代物にしか仕上がるはずがないのである。机の上でパソコンの前で何をどう思考しようがそれはただの打痕。

 それらのことが今この日本で起きているから、政治も教育も文化もすべっているのである。自分のポテンシャルのなさを枠で囲みはみ出ることを恐れ箱庭で確実に育てられる野菜だけを育てて何かを成し遂げたと思いたいだけなのである。本末転倒が3回ほどその場で子犬のように回っているイメージ。何何はこうあるべきでしょう!などと声を高める人に限り、手持ちのコマが貧弱な証拠。年齢や地位はあるのに完全にすべっている。

 それに比べ、このすべらない話に登場している演者の皆様の覚悟と日頃の情報収集能力たるや凄まじい努力量である。しかし、この場合それは「努力」ではないかもしれない。努力というメガネでインプットされたふるまいはアウトプットする時も同じ体裁で外に出るという法則があるからである。つまり、「笑い」という本能のベクトルで感覚的にインプットされたふるまい・万物でなければ、「笑い」というカタチでアウトプットされない自分の中の等価交換の法則があるように感じます。だから、政治家も教育者も推して知るべしなのである。不適切なコミュニケーションをしてくる人に対して、一番最初に感じることはその語彙のチョイスの貧弱さとボキャブラリーレベルの安直さではなく、その方の歴史の貧弱さと安直さを感じてしまう。これは自分に置き換えても同じことが言えるのでその緊張感は常に意識を努力している。コミュニケーション上、貧弱なボキャブラリーの方は間違いなくその方のポテンシャルの低さも関連しているが、一番近くにいた方からの信号が低かったのである。それが両親なのか恩師なのか特定はできないが、一番思うことは「ああ、この方の人生にはいい出会いがなかったのか・・・」と直感で感じてしまいます。しかし、その逆の場面も非常に多く、素晴らしいエネルギーとバイタリティーを保持している人の言葉は強い。全く揺るがない。そして何かを燃やせるほど熱量がある。そういう方とのコミュニケーションはほんとに心地よくこころからドキドキ・ワクワクする。ただの言葉として「ワクワク・ドキドキ」を考察・分析しようとしている輩とは対極にいる人達である。

 つまり、見えてない人では何も伝えられないし何も伝わらないのである。そんな残念な人も多いのが世の常でもある。つまり、つまりの部分で結果的に兵藤さんはそのベクトルの最高峰なのである。

朝の風景。

sankakuyane.jpg
 早朝に車を走らせているといつも見慣れない風景に出会ったりすることが多い。まだ、午前5時30分頃にふと工場の入口を見ると作業服を着た方がド真剣のキャッチボール。何故?高速を降りて茨木市内、今朝はそう寒くもなかったのですが、小柄なおばあちゃんが古い自転車の前のかごの中に皮のバックに荷物をいっぱい入れて、フード付きの防寒具のような上着とこれがまた皮の指のない手袋。しかも、肩から同色のバックをかけて自転車には乗らずにゆっくりとゆっくりと歩道を歩いてらっしゃった。車の中で思わずツッコンでしまった。「エスキモーかい!」。
 また、味のあるエスキモー顔のかわいいおばあちゃんでした。
 で、休憩したサービスエリアでこの不思議な三角ガラス屋根の建物越しの日の出。今度はしっとりとした気持ちで「ルーブルかぁ!」と。
 余談ですが、夕食中にかみさんが何か言って「ウフフ」と、そう、明確に「ウフフ」と声に出して笑った。そこでひとこと。「サザエさんかぁ!」。娘達には思いのほかストライクだった。

最高!イモトアヤコ。

 お笑いブームはたくさんの実力者や一発屋を輩出した。そして、その中の誰かが今後のメディアを少なからず牽引していくのでしょう。テレビ的には、MCとの歯切れのいい、ノリのいい個性的なコメント力があればどんな番組にも重宝がられる。ああ、この方はその路線を目指しておられるんだろうなぁ~という見方になってしまうコンビやピンさんが非常に多いように思う。とてつもなく低いギャラでこきつかわれているという新人のイメージも逆にピラミッドの上部の方を支えているというタテの繋がり感みたいなものを感じ、お笑いの業界もタテとヨコの糸が微妙に絡み合いながら、芸能界って成立しているんだろうなぁ~と思う。売れると面白いの関係は多様ですが、どれだけネタ的にクオリティーが高くとも、コメントや切り替えしのクオリティーが低いとイッキに高感度・期待度が下がる。それは、これだけの密度のお笑いムーブメントだから、よほどのことがない限り次に期待はしなくなる。これは、出演者を決めているプロデューサーの皆様も判断しておられるのではないでしょうか。勿論、事務所の力関係もあるでしょうし、縦の糸の中で芸能界の誰と親しくしているかなどの人的ネットワークも重要なんでしょう。これは、ふと考えるとお笑いブームの渦中のタレントさんだけの話ではなく、一般社会の様々な場面で同じことが言え、あてはまるテンプレートのように思うのです。そういう意味ですべてがテンプレートの中で小さくまとまっているべきなんだと、それが、目先の安心安心なんだと。しかし、イモトさんは違う。だって、あの場面であの条件下でバナナを食べて虫歯が抜けるんですから!これは、ここ数年、テレビを観ていて最高の出来事でしたね。お笑いブームとか関係なしに、あの映像をリアルタイムで観れたことに最も高い価値を感じました。あれはお笑いではない何かもっとレアでディープでスペシャルでワンダフルな神様がイモトさんに降りてきた瞬間でした。

私はほっしゃんさんでしたが。

 松本人志のすべらない話ゴールデンが先日放送されていましたね。テレビ枠では3回目ということで、どんどん演出が豪華になり、エントリーされるメンバーも17名で、どんどん大きくなっていきます。結果、小藪さんが「MVS(もっとも価値のあるすべらない話)」だったのですが、私としては、第3位が松本さんの犬の逃亡事件の話。第2位が兵藤さんのトランポリンの話。そして、第1位はほっしゃんさんのパラシュート部隊の話でした。他、ジュニアさんの「スター」と「温泉旅館」のお話も、浜口さんの「猪木さん」と「隣の部屋」のお話も、ケンコバさんの「オレジナリティー」のお話も、宮川さんの「サウナ」のお話もとても良かったのですが、小藪さんの「おじいちゃん」はそれほど~でした。すべるすべらないということで、参加メンバー、特に松本さん的にはほんわかしててMVSだったのかなぁ~と思っておりました。いずれにしても皆様の観察眼とお話のスキルは素晴らしいですね。
 あと、ほっしゃんさんの「ジャングルの露天風呂」もとても良かったです。

和歌山のおいさん達。

 おいさん(40歳あたり)になると、20歳代や30歳代とはちょっと違って何か昔の夢を追いかけたくなる。夢を追いかけるというと非常に御幣があるのですが、自分で本当にやりたかった仕事といろいろな条件でやっている現在の仕事の間に大きな溝がある方の場合、自分が本当にやりたかった事にもう一度トライしてみたくなる年齢なのでしょう。40歳代を過ぎると、50歳になると、なかなか思い切ったことができなのではないだろうか・・・という危機感もありで、30歳後半から40歳代にかけて、昔の夢や何かやり残した事をチャレンジしてしまうのでしょう。なぜ、あきらめたのか?なぜ、達成できなかったのか?という事も後悔という程の思い心持ちではないものの、どこかに「もう一度」という気持ちがあるからこそ、今、120%燃焼しているという実感に満たされたいと・・・なる。なるのではないでしょうか。
 現在はお笑いブームでいろいな芸人さんたちにスポットがあたっているし、ほんとに、いろいろなお笑いの才能を持った若い方がしのぎを削っている。これは、文化としても素晴らしいと思うし、メディアとしても不況だからお笑いブームがくるという構図を考えると、「確かに・・・」となる。そんな中、様々なアングル・アプローチ・コンセプトのアーティスト(芸人さん)の場合、時代が求めた感じはありますが、やはり、自分自身で何かを切り開いた感では充実しているのでしょう。
 ただ、ネタやギャグでブレイクした方の芸人生命は短い。それに比べて技術や時代への対応力があったり、存在自身にパワーがあると、ワンランク上の存在になり、それを続けていると、さらに、メディア自身をプロデュースする立場になったりできたりするのでしょう。
 さて、早く、和歌山のおいさん達の「すべらないネタ」、「すべらないステージ」を見せてくださいな。
 最後に「お笑いブーム」とかけて「クリエイティブ」と解く、その心は「桃栗3年、千葉8分」。

お前は大丈夫!?

cyoppu001.jpg
 こちらは愛犬チョップ君。先日「人志松本のすべらない話DVD」をレンタルして観た。1と2が入っていたので楽しく拝見した。ゴールデンでメンバーが増えてのすべらない~ではなく、最初の段階のようでメンバーは6名でした。去年の夏と年末の2時間スペの時はもっとメンバーが多かったような気がするので、6名だとかなりお話の回数が多くなり、内容的にも大丈夫かなと思ったのですが、さすが、すべらない~のメンバーの鉄板トークはさすがさすが。この1と2のルールとしては同じ話を何回してもいいという流れがありそのTPOはそれぞれのメンバーが自分で判断するというルールでした。で、次課長の河本さんのお話。「太郎吉」という犬のお話。皆さんご存知ですか?太郎吉とは河本さんが飼っていた犬の名前で、両親が離婚で別居になるまで住んでいた家で飼っていたらしい。非常に可愛がってきた愛犬を両親の離婚の都合で住むところが変わり、そのために愛犬を手放す、捨てるという事が納得いかない河本さん達ご兄弟はその愛犬「太郎吉」のことで最後の最後まで両親と激しい口論をしたそうです。そして、特に可愛がっていたお姉さんは太郎吉を捨てるなど想像もできないと母に激しく訴えるほどの愛着ぶりだったそうです。河本さんも同じく小さい頃から可愛がっていた太郎吉を手放すどころか捨てるという事になんとも納得のいかなかったそうです。しかし、もう離婚も決定し住む場所も移らなければならないという時、河本さんは泣く泣く太郎吉を勇気を振り絞り、悲しむ姉に見守られながら山へ捨てに行ったそうです。人里離れた山奥で河本さんと太郎吉は最後の別れです。いろいろな想い出を胸に首輪をはずし太郎吉をそっと地面に置いた瞬間、愛犬太郎吉は全速力で山の中に逃げていったそうです。「ああ、愛犬愛犬と言っても飼い主と犬の関係なんてこんなものか・・・」と思いましたというお話。この話を河本さんは3回繰り返しされたのですが、確かにすべらなかったですね。
 で、ウチの愛犬「チョップ」君。おまえさんはどうなんだろうね・・・。