独り言 アーカイブ

孫子曰く。

 テレビで「孫子の兵法」が紹介されていた。「自分の限界点を超えたい時は、常識と非常識を使い分けろ」という言葉に対して出演者がなるほどの連呼。う~ん、この言葉を初めて知ったのは高校生の頃だっただろうか。その頃はなんのことやら???チンプンカンプンだったが、今となっては確かに「なるほど」と少しは理解できる。しかし、だとしても、最近は「常識」と「非常識」の区別がつかないから困ったものである。さらに、「自分の限界点」についてはさらに濃霧の中で、3年前、富士山の2合目の駐車場に行く時以上の濃霧だった。あの濃霧はまるで映画のワンシーンのようで、少し恐怖を感じた。突然濃霧の中から巨大なモンスターの手が飛び出し、車ごと、そう、ジュラシックパークのティラノザウルスのようにひょいっと掴み上げられ、樹海にぽい!ってなりそうなほどの濃霧だった。ヘッドライトが4~5m先を照らしているが、地面も恐らくすぐ上にあるだろう樹々の枝葉も見えない濃霧。時速20kmぐらいの超徐行でもどこで道が曲がっているのか、さらに登っているのか下っているのかさえ感覚としてないような濃霧だった。

 「常識と非常識を使い分ける」と「自分の限界点」。ヘッドライトの届くゾーンならばなんとなくそのままの意味で理解できるが、霧の先は分からない。私たちは言葉や書籍の文面に対して、イチイチ「濃霧」の中のことまで考えないが、実は「常識」という言葉ひとつ掘り下げても、ヘッドライトが届く1m先は崖かもしれないし、「限界点」の枝葉の間から巨大なモンスターの手が伸びてくるかもしれない。でも、「へぇ~、孫子の兵法に書かれていたのか・・・」程度で「なるほど」を簡単に出している。つまり、感覚を抑制しているのである。私も会話中、安易に軽率に「なるほど」という相槌を打って、「ああ、表面的なリアクションをしてしまった・・・」と反省することが多い。しかし、「なるほど」もリズムや手拍子みたいな使い方があるので、イチイチ深読みして四六時中、just moment! BTW,,,ってわけにもいかない。

 孫子が実在していたかどうかさえ、実は濃霧の中なんだから。

健康の証。

 今日は何故か午前5時頃から仕事をしている。目が覚めたのだ。モヤモヤしている感じではなく、スッキリと4時30分頃に目が覚めてしまったので仕事をしている。何故か?仕事があるからなのだが、ある意味、健康だからだと捉えている。最近、特に「心技体」という言葉を意識することが多く、どれを欠いてもダメなんだと痛感している。

 というのも、最近、マーベルの新作「ドクター・ストレンジ」を観てから少し感覚が変化した。というか以前の感覚(モノゴトの捉え方)が少し変化したような実感があるのだ。あまり映画について詳細をタラタラと書きたくないのですが、この映画のモチーフは「医術と魔術」だった。過去にこのタイプの映画を観た時の感想は「そんな緩い設定はリアルじゃないからドン引き~!」だったが、今回は見終わった時、ちょっと毛色が違った。だって、あのデットプールのあとのマーベルの新作である。歴代のヒット映画のどれを観ても世界最高峰のスタッフが練りに練っている作品ばかりなのである。想像できないぐらいの予算を消化し、想像できないような英知が集結して完成された映画作品をド素人の私が「リアルじゃない!」とか「非現実的過ぎる!」などと評価して良いわけはない。「ド」だからそんな安易な感想をほざいてしまうことは仕方なしとして、何故このタイミングで「医術と魔術」なのかについて再考する必要があると捉えてから毛色が変わったのだ。

 このテーマの奥の深さをなんとか自分なりに探求しなければと捉えている。

 そう考えると、これまで見切ってきた映画作品や著書、引いては人についても、私の見切り方は的を得たものではなく、強引過ぎ軽率過ぎたとは言えないだろうかとも考えていて、以前の視点を変化させて、少し高く少し広く少し深く再検討した方が良いのかもしれないと考えている。

 これも健康の証。

他人の仕事。

 デザインの仕事っていろいろな業種の方と出会う機会が多い。例えば、ホテルの接客業や経営業に携わっている人なら、ホテルに宿泊や宴会目的で多くの人が来られるので出会う機会は多いし、大学の教授ならばいろいろなタイプの多くの学生を相手にする仕事なので出会う人の数は多いだろう。しかし、デザインの仕事は少し出会い方が違う。例えば、本の表紙デザイン(装丁やカバー制作)をつくる仕事の場合、著者についてリサーチし原稿のチェックをすると当時にその仕事について無知ではいられない。さらに編集者さんからの要望などもデザインをつくるための材料としてインプットする必要があり、著者の人間像や仕事への取り組み方や考え方を原稿や企画書で知り、必要であれば、ご本人へも直接いろいろな質問をしたりコミュニケーションを取るため仕事案件毎(納品するまでの期間だが)ひとりの個人、ひとつの仕事に結構詳しくなる。ただ出会うだけではないので、仕事の本質やお客様のご要望や意図を理解する能力も自然と習得してることが多い。だから、他の仕事と比較的して少し広めで深めの教養やノウハウが自分の知識として入るのです。そんなデザインの仕事だから、いろいろな人がおられました。

 22歳の頃、東京(曙橋)でデザイン事務所でバイトをさせて頂いていた頃でも、毎日、いろいろな人が事務所に訪ねてこられ、仕事案件毎に様々な情報を聞きいろいろ新しい経験や発見をさせていだいた。

 さて、そんなデザインの仕事現場でいろいろなエキスパートの方との出会いを繰り返していると、逆に私自身から能動的に「自分もこの仕事をやってみたい!」と感じることがあります。一般的にただお客様としてお店で料理を食べたり、ホテルでおもてなしを受けているだけでは気づかない仕事の裏側についてもいろいろ知る機会が多かったので、笑顔で対応しながらも実際のタフな仕事現場でたくさんのご苦労も見えてしまうが、その反面「やりがい」や「達成感」の大きさも見えるので、「やってみたい!」「実際、自分も経験してみたい!」と興味が生まれるのです。ただ、サービスを受けている立ち位置と、実際、現場で仕事に取り組むのとでは全く別物だということを分かった上で。

 今現在、個人的にある仕事に対してとても興味があります。とても心が惹かれています。しかし、実際、その場所で「さぁ、今から仕事です。始めましょう!」となった場合、自分自身がどこまで順応できて、ちゃんと仕事に取り組むためにはどのような準備が必要かを想像しながらその機会を得るためにどのように話を切り出そうかとワクワク・ドキドキしています。

 仕事って自分との相性もあるし、外側で見ているほど決して単純ではない。他人の仕事を無神経に否定することは絶対にできない。してはいけないと思っている。無知で無神経さを吐露したければそれが近道だが、当然、その言動は自分の価値や信用も低下さたり、極端な場合、軽率な一言で信頼がマイナスになる可能性もある。知らないこと知ったようなふるまいは絶対にやっていはいけない。仕事の現場では、簡単に目に見える、容易に頭に入れられる理論・情報の裏側に、数十倍~数百倍の厳しさや苦労がある。それを知らない気がついていない人間は絶対にデザインの仕事はできないのだ。そのことに気づきやっと入口に立てるのです。故に苦しく楽しいのです。

恐らく実感はできないこと。

 恐らく、100%実感・体感できないことで、非常にガキっぽいお話ですが、映画や小説の主人が持っている能力の中で実感したいなぁ~という能力がいろいろある。そのベスト3です。

 第3位は「空を飛ぶ」という能力。この能力は人間の歴史上の古今東西の物語に登場する魅力的な能力ですが、未だに誰もツールを使わずに飛ぶことはできない。故に鳥のように昆虫のように飛ぶ能力があれば、どんな感覚なのだろう?と想像力が膨らみ、その結果、魅力的な作品を生み出す原動力になるのだろう。人間は何をどうしても飛べない。数万年後、凄まじく進化(退化)して肩甲骨のあたりから巨大な翼でも生えない限り飛べない。むしろ、飛べないから現在の身体能力や思考力を得たわけだ。しかし、無重力で浮くのではなく、体感として自分の翼で飛ぶという感覚はなんとも心地良いのだろう。

 第2位はウルヴァリンの「切る」能力。そもそも「不死」であることや、「未知の金属が皮膚下に埋め込まれている」という設定もあるが、それよりも、気分次第で拳の間から出てくる3本の爪(アダマンチウム)は素敵だ。X-MENの原作者がこの能力の設定を着想した瞬間は、さぞかし興奮したことだろう。キャラを生み出すって想像力の賜物だから、それを求める人にしか備わらない能力なのでしょう。しかし、あの3本の爪は正に無敵の熊の気分だろう。

 第1位はサイボーグ009(島村ジョー)の「加速装置」である。設定では奥歯にスイッチが埋め込まれていてそれを歯で押すと動作速度が極限まで加速する能力だ。子ども心に遅刻しそうになった時、野球や陸上で走る時、ムカつく奴をぶっ飛ばしたい時などこの能力があればいいなぁ~などと考えていた。その感覚が大人になっても残っていて、誰よりも仕事を早く処理したい、想定外のトラブルや危険から回避したい、ムカつく奴をぶっ飛ばしたい時などにこの「加速する能力」が欲しい(子どもでも大人でもムカつく奴はいるものです。)。しかし、時間の速度は万人公平だからこそ、人生でも仕事でも社会活動でも自分が秀でるために努力したり挑戦したり耐えたり考えるのだから、スイッチひとつで加速できない方が良いのかもしれない。しかし、未だに奥歯のあたりにスイッチを探す自分がいる。

 恐らくすべて実感できないことだけど、自由に頭の中で想像することはとても大切です。

星野源という男。

 星野源氏の第一印象は「マルチな才能があるイマドキの男」だった。その容姿や独特で特異な発言や妙に落ち着いた温和なモノゴシがイマドキなのだと捉えていた。コントを演じていてもなかなか個性的で演技も素晴らしい。最初は「歌手」「アーティスト」という印象だったので、「あれ、この男、こんなコントの世界観も持っているのか」と多才な男だと感じた。そして、テレビドラマ「逃げ恥」でのブレイク。なんとも個性的な役柄を見事に演じていたし、漫画原作の世界観を見事にテレビドラマとして消化しておられるなぁ~という印象。「ああ、新しいタイプの俳優さんだなぁ」という、というレベルまでの印象だった。新垣結衣さんとコンビで番組宣伝で登場されるケースでも、お似合いのカップル観が漂っていたし、俳優・歌手・タレントとほんとに多才な男だという印象(だけ!?)だった。

 しかし、娘が星野源氏の「初エッセイ」を買ってきたことでその印象が大きく変化する。まず、「文才もあるんだ」という印象からエッセイを借りて読むとこれがなかなかの良品。どんな内容のエッセイなのか?個性的な男だから何か独特の世界観があるだろうが、源さんの楽曲を聞いても、テレビ番組でコメントしている際でもいわゆる二枚目と三枚目の間のちょうど良い、いわゆるイマドキのトレンドな存在という印象だったが、初エッセイを読み終えた段階でその印象は完全に消えた。

 いやいや、なかなか、そこそこの曲者である。マイルドで好感の溢れる印象が続いていただけに、エッセイの内容はなかなかの「良い!?感じ」だった。強烈で巧みな文才を披露されたわけではなかったが、比較するモノではないが、又吉直樹氏の「火花」よりも私は良い感じだった。改めて「星野源という男」をもっと知りたくなりました。その感じはこのブログでは書かないので、ぜひ、書店でお買い求めください。エッセイのタイトルは「くそして生活はつづく」、いや、「そして生活はつづく」である。

 今後、執筆作品があれば必ずチェックしたいひとりです。

1週間前。

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 ゴッホが自殺する1週間前に描いた作品だそうです。

 多くの偉大な作品を残した画家達。やはり、気になり多くの本で彼らの人生を知る度に、絵に人生を捧げるということがどれだけ大きな覚悟が必要なのかを実感します。決して決して画家の人生は華やかで煌びやかではなく、失意と憎悪と嫌悪に犯され、最後は寿命を待たない事例も多いのです。普通の感覚であれば想像・理解できない世界が画家の心の中には確かに存在していたのだ思います。

成功と偶然の関係。

 「成功する人は偶然を味方にする~運と成功の経済学~(ロバート・H・フランク著)」という書籍がある。
 
 「「努力と才能は報われる」という幻想」
 「才能があっても努力しても、運がなければ成功しない」
 「情報革命で「偶然」の力がますます強まった理由」
 「ポルシェからフェラーリに替えると、人は幸せになれるのか?」などなど、一見、興味が湧きそうなフレーズが広告の紙面にはちりばめられている。

 「成功」「才能と努力」「情報革命」あたりの語彙をチョイスしているだけでも、心の羅針が震えるが、さて、「成功と偶然の関係」を経済学でどう紐解いているのだろう?

 「成功」という語彙だけでも十人十色様々な解釈があり、感じるイメージも異なるし、「偶然」をテーマにした書籍の大前提として、すべて「結果論」になるため、成功者の事例を具体的に上げ、根拠や背景を説明した上で、それがいかに偶然だったかを感覚的に紐解けば、そこに何か発見があるのかもしれない。それを「必然」と解釈せず、「偶然」と解釈することは著者の自由だが、結局、経済学が切り口ならば当然、成功者の事例しか出てこないはず。読者も失敗を繰り返している人の話など聞きたくないだろうし、出版社がその姿勢・状態・事例を「売れる」とは判断しない。などと推測してしまいます。これすべて必然である。つまり、「成功」や「偶然」や「経済学」を文章にしている、できている状態が確実に「必然」の賜物なのだから、どこまで文章の力を借り、著者のポテンシャルをフル活用しようが、そもそも正確に「偶然」を文章で語れないはず。これが僕の解釈です。つまり、「運と成功の経済学」の裏に、「必然と失敗の真意」が潜んでいるはずなのだ。だって、「幸運」を意識するためには「不運」を実感していなければならないし、「成功」を意識するためには「失敗」を体験していなければ分からない。濾過する前の泥水があるはず。

 この本を購入して読んだら、そんな不可解なジレンマを感じることになりそうだと捉えた段階で、やはり、この切り口に興味があるのだとも感じている。文字づらは読めば理解できるが、連想が沸いたり過去に得た知識・知恵と結びつかなければただの快楽に終わる。読書の難しさはそれを知ること以上に、知るための気づくための準備・コンディションが整っているか否かなので、今のところ、この本は見送ろうと思っています。

何故だろう…。

 WEBサイトを仕事で制作しながら感じること。また、インターネットでいろいろ検索し、WEBページやブログ、SNSの情報を読んでいて最近感じることがあります。当然、WEBサイトを制作する際の文字原稿とは自社の業務や商品の案内を訴求することが目的です。だから、特長や利点をしっかり伝えるために文字原稿を制作する。また、ブログやSNSの文章も伝えたい情報をしっかり読みやすく文章化して制作する。しかし、それでもどこかなんとなく、伝えきれていない感覚が残ります。その感覚が作用して、自分自身が他のWEBページやSNSの記事を読んでいても、実はこの会社様やこの個人さんは本当に伝えたいことが別にあるのではないだろうかと、しっくりこないのです。それは、インターネットのテキストだからというわけではなく、新聞や雑誌や書籍にもあてはまり、しっかり編集された文章であるはずなのに、今読んだ文章は言わば「タテマエ」で、実は書き手の「本音」は違うんじゃないかと感じてしまうのです。これは「伝え方と捉え方」の問題だから、素直に書かれている文字のまま理解すれば良いだけのことだと分かっていても、素直になれないのです。

 恐らく、文章をネットに公開する。原稿を整えて印刷する段階で、書き手はいろいろな制約を受けています。ネットならばデリケートな部分は触れられないだろうし、書いているテーマ毎にタブーなゾーンがあるでしょう。特定の対象に向けて個人的な分析や評価を書くこともできないし、まして会社案内や新聞・雑誌・書籍なら、商品としての真価が問われる部分ですから、曖昧で個人的な根拠のない独り言は誰も読まないし、まずもって情報として商品化が成立しない。そんな様々な制約をクリアする過程で、文章は鋭敏に研ぎ澄まされていくのか?それとも劣化し微弱化していくのか?という感覚です。

 インスタが現在のSNSのトレンドだとして、写真にも撮影者や掲載者の意図が含まれているが、文章ほどその意図は明確ではなく、印象やイメージやニュアンスの部分、感覚の部分で捉えてもらえているから、投稿しやすく閲覧者もイメージを膨らませやすいという利点があるのでしょう。これも「伝え方と捉え方」の問題。

 じゃあ、文章にする際、どのような「伝え方と捉え方」が理想なのか?と聞かれれば、「要点だけを正確にシンプルに整理する。」や、「感覚的な情報と言語的(数値的)な情報をバランスよく織り交ぜる。」などがあるでしょう。ただ、このサジ加減、時代と共に微妙に変化しているように思います。その大きな変化の要因とはインターネットが呼び水となっているのは間違いないとしても、それは、最初に誰かが求めたからだとも言えます。

 これからの時代、日常生活の中でもビジネスの現場でも、この「サジ加減」を使いこなす人がアドバンテージを獲得し、自分の狙いを成果に評価に変換することができるような気がしています。こうなると単に文章力や持ち前の教養だけでは適正に処理できなし、まして、名前が売れている売れていないってことよりも、より本質的な何かの有無。それは本質的な個人としての気質や人間性の部分で、真意の出し方が求められているような気がします。しかし、それは古今東西の偉人達が取り組んできたレベル・クラスのお話だから、到底、素人には真似できない。だから、ただ漠然と「何故だろう…」とモヤモヤするしか術がないのでしょう。

 あまり深く考えず、普通にラーメン食べて、麺の硬さやスープの個人的な感想を書いている感じですべてが丸く収まるのでしょうし、それがストライクゾーンだとも言えます。

 インハイで体を起こされ腰が引け、アウトローに踏み込めず三振せぬよう、常に自分の軸と体重移動を意識したいです。

貧乏人には暇がない。

 「格差社会」という文字を新聞やネットで見る度に僕はどっちなんだろう?と考える。少し前なら「勝ち組・負け組」という文字が横行していたが、「格差」「勝ち負け」とは何が基準になるのだろうと。

 ご縁があり、中国の裕福な人と3日間ほど過ごす機会があった。中国で不動産や環境事業を手広く展開している方とその御子息だった。確かにその佇まい・ふるまいには「余裕」が感じられた。また、相対的に中国の方にはどこか独特の雰囲気があり、言葉や行動が「前体重」なのだ。お話を聞けばその事業展開やビジネスに対する姿勢は相当の余裕があり、実際展開しておられる事業も普通・常識に捉えると相当大きい。しかし、ご本人達はいたって気さくで人間味にあふれている。先入観で「余裕がある人」だと捉えているから、そういう見方をどうしてもしてしまっただろうが、確かに僕と比較しても気持ちや生活面・ビジネス面において「余裕」が感じられた。ああ、こういうタイプが「富裕層」であり、「勝ち組」なのかとアンカーを打った。だが、その口から出てくる言葉はどこか印象として「借り物」が多く、運動会の借り物競走で「せんたくばさみ持っていませんか!」って走り回っているようだった。

 一方、厳しい生活を強いられている兄弟がいた。まだ、東京でデザインの仕事を始める前、池袋のサンシャイン60で60階のフロアから出るゴミを回収するアルバイトをしている職場で出会ったのだ。バイト先の同僚だったその兄弟はご両親がなく、池袋のマンションで二人で生活をしていた。親しくなりいろいろな話をしたが、確かに生活に余裕はなく、大学にも行かず、毎日の生活を二人でコツコツ取り組んでいた。当然、映画や好きな服などを買う余裕はなく、旅行や趣味にかけるお金も少ない。その会社の事務所が地下3階にあるのだが、駐車場の最下に昼間でも薄暗い事務所でいろいろな人が集まり、作業服に着替え各フロアにゴミ回収に行くのだ。オフィスビルだとは言え、様々なゴミが出されていたし、フロアが汚れていればそれを清掃するのも仕事のひとつだった。仕事を終わると着替えてからその兄弟とたわいもない立ち話をしてバイトが終わる。そして、彼らは次のバイトに向かった。彼らのことは何故か忘れることができない。理想やビジョンなどを彼らの口から聞いた記憶は一切ないが、モクモクとタンタンとゴミを集めている兄弟のふるまいは忘れることができない。

 この二つの経験から僕が感じたことは「余裕は欲しくない」という結論だ。

 裕福な成功者や著名人にも仕事がら会う機会が多いし、一流企業の社長様や会長様に会う機会も多い。一様にこの人達は「余裕」があり、自らの成功体験の上でゆったりと考え、その余裕を教育やビジネスに展開し、いかに意義のある存在になれるか、いかに己の人生が意味のあるものだったかを考えてる印象を受けた。が、羨ましさや嫉妬もあるが、僕はその境遇を切望はしていないようだ。コツコツ仕事を続けていればどこかで小さな余裕が生まれ、過去の実績を振り返る瞬間もあるだろうが、その気持ちが一瞬でも心の中に生まれると次の瞬間にその気持ちが「不安」や「焦燥」に変化するのだ。決して「奢り」まではいかないが、僕は「余裕」を「緩み」だとしか捉えられない気質・本質なのだ。

 つまり、生粋の貧乏人であり、「暇がない」「休むまない」ことが、比類なく心地良いのです。心に浮かぶこの思考は、相当、弄れた言い訳や言い草ばかりだが、そんなコンプレックスに体の中が満たされていることがとても心地良いのです。

 ということでこのGWもほぼ仕事をしようと思っています。

笑える笑えない話

 今日、「自営業の老後」という本がアマゾンから届いた。

 なんと、4月17日初版で27日に第2版になっている書籍だ。

 著者のことはこの本に書いてあること以外、何もも知らないが会いたくなった。

 そういう本をつくりたい。

 まず、出版社に連絡し著者に会いに行こうと思っています。

 内容はここでは書けないが、笑える笑えない話が満載です。

CRISIS

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 いったい何がどこがどのように普通のテレビドラマと違うのだろう?まず、「本格的」という言葉が頭に浮かんだ。しかし、何がどこがどのように「本格的」なのだろう?

 例えば、歴代の刑事TVドラマと比較してみると、事件が発生し主人公達が解決するという物語の構造は同じ。ただ、「解決」が普通のテレビドラマとはちょっと違う。当然、観る側の視点も違うし演者の考え方も違っている結果だろうし、作り手の気持ちやテクニックやセンスも違うからそう感じるような気がします。ただ、テレビを観ている時間だけスッキリすればいいのか?そこに描かれたテーマや政治背景や国家システムなどまでも考えさせるべきなのか?という違い。大きく複雑なテーマをシンプルに描くか、シンプルなエンジョイ最優先でテンプレートにテーマをあてはめるのか?この捉え方の違いだけでも成果物が異なるように、このドラマも恐らく前者の取り組みの結果、「本格的」という空気を醸し出しているに違いない。

 恐らくそれは観る側の捉え方でもあり、小栗さんや西島さんが画面に出てくれば単なるファンが反応するというクラスもあるだろうし、過去のご両名の映画やテレビドラマの印象を覚醒して捉えるという捉え方もある。また、このチームが取り組んでいる事件の質についてもドラマの構造は変化するだろう。

 ただの民家に犯人が潜んでいるかもしれないという状況で、その家に踏み込むシーンなだけのに、ピリピリする緊張感が画面から溢れている。他の刑事ドラマではこの緊張感はない。観ている側がそう感じるのは、作り手の狙いだろうし、何かの理由でそう感じてしまうのだろう。それを言葉にすると一番しっくりくるのが「本格的」となる。

 このタイプのテレビドラマには威圧的で高圧的な政治家が必ず登場するが、これは実際の政治家がモデルになっているのか?ドラマゆえに作り上げた最大公約数なイメージなのか?まったく一般市民には分からないゾーンだが、もし、政治家が、もし、公安と呼ばれている人達がこのドラマを見て、失笑で終わるのか遺憾と感じるのかさえ分からないゾーンだとしても、イマージネーションは刺激される。

 しかし、何かどこか心が動いてしまうポイントなのかと考えると、それは「実際は」というイマジネーションなのかもしれない。絵空事ではなく、リアリティーをつくる、1時間のテレビドラマの中にそれを組み込むという作業はテクニックや理論理屈ではなく、やはり、作り手と演者のシンパシーがそのベクトルを帯びているから成立し生み出させる作品なのだろう。
 
 いやいや、毎回、素晴らし過ぎる。

その気

この気なんの気 気になる気
名前も知らない 気ですから
名前も知らない気になるでしょう

この気なんの気 気になる気
見たこともない 気ですから
見たこともない花が咲くでしょう

しかし、その気は名前が付けられ見事な花を咲かせている。
その気とは「ネットの中の表現者」である。

そもそも表現者とは孤高の思考と秀逸なセンス・テクニックで
その存在感を示すしか手立てがなかった。
しかし、ネットの中に存在する多くの人が「表現者」になる術を得たのだ。

それれはそれは見事な花である。

表現者になることに躊躇していた人達だからこそ、
その中にある想いは地下に眠るプロトニウムよりも強く偉大である。
ネットデバイスが与えた「その気」は仮想空間で開放され百花繚乱。

ゆえに、悲劇も喜劇も多い。

表現者のツールが刀なら間合いを見極める能力が必要だったのだが、
このツール、一瞬で数光年先の惑星さえも滅ぼしかねない。
たかだか半島の微力な国でさえその気になってしまい、
世界の驚異という称号を得てしまうのだ。

その気さえあれば、誰でも大きな木になり美しい花を咲かすことができるのだ。
仮想空間の中で。

ただ、木には根があり、花が結実することを忘れてはいけない。
根には水が必要であり、実は次の芽になるのだ。
残念なことに、仮想空間の中に水はなく、「次」もない。
そのことを黙認させるだけの刺激が仕組みの中にあるからこそ
「その気」になれるのだ。

電気は地球上からは絶対になくならないという大前提がシャットダウンした時、
再起動スイッチをもっていれば、次の花を咲かすことができるだろうが、
花を咲かすためのテクニックを電子に頼るのは表現ではないような、
そんな気がする。

ああ、良かった。

 アマゾンの牙城が揺らいでいる。振込詐欺の手順も巧みになっている。海外からの日本を見る視点も複雑になっている。皆が皆、生きるために試行錯誤を繰り返す。それぞれ善意か悪意あれど、そのエネルギーこそ人のそれである。

 一方、本質が露呈し自爆していく人がいる。ドンキホーテならまだ美学もあるが、彼の自爆劇は見事だった。足ひとつ踏み込めない地雷ゾーンに彼は素足で踏み込んだ。本来、危険を察知する能力や今自分がいる場所はどれだけ危険でデリケートなゾーンなのかを普通、過剰に警戒するのに。AIがいずれ彼らの仕事はすべて奪うのは時間の問題だとしても、そのポンコツぶりはあっぱれとしか言葉が浮かばない。

 このネット時代、メディアの方達はそんな千鳥足の羊を絶対に逃さない。彼は一斉放火を浴び、素足で地雷を踏み見事に木っ端微塵。ある意味、あのインタビュー映像は胸のすく心地良い瞬間だった。彼らの本質を象徴していた瞬間だったからだ。

 ペンという槍を構えた軍勢に手持ちのコマは脇差一本しか持っていなかったのだ。結局、脇差の潔い使い方もできぬまま、いつも悪い嘘をついていたから、針千本の槍に串刺しにされたのだろう。恐らく、痛いと感じる前に、「なぜだ?」と自問する前に、すでに息絶えていたのだろう。彼はすでに死んでいたのだ。1億人の平成維新軍がいることをその仕事についている人は一時も忘れてはいけない。言及すれば、それのみが皆様のタスクなのだから。

 ああ、舌先三寸、口八丁で稼ぐだけの仕事でなくてよかった。

独創性

 アートやクリエイティブの世界では個々の独創性がひしめき合っているのだろうと想像していた。若い頃、自分の中にある独創性を磨き、誰よりも優れたクリエティブワークを生み出そうと努力を重ね、貪欲にいろいろなモノを観て、自分の好奇心や直感を信じて思考と行動を繰り返していた。新しい発見や新しい感動を得ることで自身の独創性が少しずつ確立していくのだろうと。しかし、探求し追いかければ追いかけるほど独創性の実態が分からなくなった。決して、諦めたわけではないが、どうやらこの辺で独創性を追いかけるのを一旦止め、自分の歩いてきた道を振り返り整理するタイミングなのではないかと考えている。独創性という言葉が存在しているわけだから、その言葉の真価はどこかにあるのだろう。この言葉が生まれたの要因がどこかに今でも存在しているだろうし、独創性を追いかけてきた全ての人達が私のように迷子になり、「そんなモノ、実はどこにもないんじゃないの?」とは考えてはいないはず。今でも独創性を信じている人達は、日夜、切磋琢磨し精進を繰り返しているはずだから、あまり軽率で冷めた言い草は不謹慎だ。しかし、本当に独創的な何かに出会ったら、私はそれを独創性と認識することができるのだろうか?それが分からない。

 これはただの老化の兆候なのかもしれないし、「Just sleep on it!」である。

隻眼のヒーロー

 ふと、思ったことがある。

 小説や映画、漫画や歴史上のヒーローには隻眼が多い。

 何故だろう?と。

 53歳になり、老眼鏡を手放せなくなってしまい、とてもメンドくさい。しかし、歴史に名前を残した画家達は視力が悪い人が多く、色盲だったり、近眼だったらしい。40歳中頃まで、視力が1.5以上を維持していたが、40歳後半から老眼が始まった。健康診断の視力検査ではまだ裸眼で1.5以上あるが、老眼は辛い。

 もし、自分が何かの理由で隻眼になったらなどと考えてみる。

 老眼より辛いのだろうか、それとも、別の世界が見えてくるのだろうか。

 デッサン中にフォルムや調子の狂いを修正する時、右目だけで修正する。タッチを調整する場合は、限りなく目を閉じ意図的にピントを甘くする。さらに、全体を仕上げる段階で、両目で確認しながらピントを開放している。とにかく、人間の目は何事も見えすぎるのだ。隻眼になれば、もしかすると、雑念が消え、心眼が開き真実だけが見えたりするのかもしれない。

アオウミガメ。

 ヒルナンデスで水族館のロケを放送していた。

 そこにはいろいろな人気キャラクターがいて、それぞれに多彩な魅力があるとタレントが紹介していた。動物達をまとめたフリップをタレントが持ちながら、
「シロクマの○○君!アザラシの○○ちゃん!イルカの○○ちゃん!」などなど、それぞれに愛称を読み上げていく。最後に紹介されたのが「アオウミガメ」。

 あれ?愛称もなければ、「ちゃん」も「君」も付けられていないぞ!?

 ちょっと可哀想なアオウミガメ。

「オノマトペ」って侮れない。

 「オノマトペ」とは擬音語・擬態語・擬声語です。

 パタパタとか、ドキドキ・コツコツなどの状況や心情を表現する語彙です。

 英語や他の外国語と比較して、日本語にはこのオノマトペ表現がケタチで多いらしい。その理由は日本語の比喩表現・引用表現が複雑で言語としては非日常的で、文章としては趣があり、体裁が良い表現でも、言葉にすると小難しくなる。それを代用するために使われているのが「オノマトペ」。

 しかし、表現力があるからと言って、会議や然るべき状況で、パクパク・ビンビンとか言ってしまうと品格が下がるし、それを使うことでより伝わると判断しても控える状況です。しかし、口語がブログやSNSに多様されるのは、やはり、読み手に伝わるから。その効果や作用は決して侮ることができません。小難しい、難解な文章よりも、さらりと感覚的にシンプルな文章を心がけることが読み手に対する誠意となる場合も多いのです。

 しかも、この「オノマトペ」の活用術として、介護や認知症の現場でのコミュニケーションにとても有効で、実際、理屈には叶っているが、小難しい言葉を使って相手の理解に至らず、コミュニケーションが成立しないよりも、「オノマトペ」を多用し、しっかりとニュアンスやフィーリングを伝える方が治療や介護の場面では有効だそうです。

 英語や海外の言語と比較して、日本語の「オノマトペ」の数は10倍以上。英語の場合は300程度なのが、日本語では3,000近くあるらしいです。言葉って、文章って、使い方が難しいです。リズムやテンポやトーンやイントネーションでも伝わり方が変化しますし、勢いだけでも伝わらないし、丁寧に慎重に誠実に理屈を並べてもドンビキされる場合もあります。結局、空気や間合いを読める人が適正な成果を生むのですね。

良い違和感。

 「オリジナリティー」とは何か?

 どうしてもパソコンで制作したコンテンツって、どこかにありそうな感じが漂っています。理論理屈で捉えると、形状や色彩や各パーツのコンビネーションは明らかに違うモノなんだけれど、感性や感覚で捉えると「同じモノ!?」となってしまいます。この感覚は長年デザインの仕事をしてきた、言わば専門的な狭い視野で捉えた感覚だから、一般的な広告やデザインのコンテンツとして、目的やクライアントの要望をしっかり訴求できればそれでOK。何もその先を探求する必要は蛇足だというセオリーも正解。しかし、なんとなくそれじゃ違和感が拭えないのも現実的に感覚としてあるのです。

 そこで「オリジナリティー」という言葉をどう捉え、自分がその言葉をどう使うかというスタンスで、つくり手としてのポテンシャル評価が変化するような気がしています。つまり、仕事において「オリジナリティー」という言葉の使い方、使う場面を慎重に吟味しないと、相手に誤解される、伝えたい狙いや主張がスムーズに伝わらない。本人が言葉を十分に理解し習得していなければ、パソコンでつくるデジタルコンテンツと同じ、「コピペモドキ」を生み出してしまう結果になるのです。

 では、パソコンのデジタルフィールドから外へ目を向けるって具体的にどうするのか?やはり、日本には四季があり、目に見えて美しい変化が自然の中には多く存在します。その変化の中には美しい木々や花、山や海、空や星があるわけで、身近なモノとしては、日々の天候の変化や食材も自然からの恵みなので「変化の産物」です。美味しい食材を美しい景色、心地よいスペースで頂くという嗜みこそに、人としての感性を起動させる間合い・機会があると思います。

 一方、デジタル仮想空間にはそれが一切なく、結果、一時の知恵熱のようにわずかに興奮はするけれど、平熱に戻ったときに「あれ?僕は何に浮かれていたのだろう?」とか「よくよく冷静に捉えるとこの2次元の世界に何故感動していたのだろう?」と我に変えると、ヒヤリとするわけです。

 結局、外に出て、雲の流れを見つめたり、風向きを気にしたり、雨の中にいることで、自分の中の感覚が再起動する、その感覚をニュートラルポジションだと意識することができれば、つくり手としてのコンディションも整うと思っています。

 そんな感覚をキープできれば、「良い違和感」を見極めることも簡単だと思うのです。

 仕事のツールとしてパソコンやソフト、スマホはもう手放すことはできないのでツールとしてカッターやペンと同じように主人として使い、決して、奴隷にならぬことだと思います。

skillfully?

For example, which will swell when I talk in English when an American good at Japanese and a Japanese good at English talk in English?
Which will it be that the feeling of the person becomes the words skillfully?
Because the thing called all skillfull is how to choose words and personality and a human being in the essence, The quality of the conversation should be fixed what you changed through a result, words.
Then you should think that human nature cultivated in the different language zone by culture and custom makes a base of the communication.

トロントか。

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 トロントか、いいなぁ~。

英語のスパムメール。

 最近、よく来る英語のスパムメールを自力で翻訳している。常識で考えれば、「あっ!また、どこからか英語のスパムだ!」で、即、ゴミ箱行きなのだが。

 当然、日本語のスパムも到着しているが、意外と読むように心がけている。決して敬遠することなく、曖昧で根拠のない不誠実な文面ではあるが、そんな一見価値のなさげな文章の中にも、書き手の狙いや語彙のチョイスがあるから、その感覚を分析しようとする狙いだ。よくよく読めば、曖昧な文章でも書き手の人間性や気質が文章の中に潜んでいる。

 むしろ、こうなってはいけないという悪い事例としては非常に有効だと捉えて。

 そんな中、英語のスパムも読み込んでいくと、長文の中に書き手の人間性が感じられる一文があったり、個性的な引用や比喩があるから、意外と楽しめる。単語の練習にもなるし、駄文も少ないことが多い。とても良い(悪い!?)サンプルなのである。

 英語力を上げるために、「英字新聞を読め!」などというアドバイスがあるが、実際、どこで買うのか分からないし、英語のサイトをぼんやり眺めていても気持ちが入らない。ならば、わざわざ送ってきた一見うっとおしい英語のスパムでも、捉え方、視点を変えると意外な活用方法があるのだ。意外と楽しいです。

人間臭く

 本来、どこまでも泥臭く、人間臭い本性な私が、デザインの仕事をしているばかりに、「クリエイティブ」や「WEBサイト」や「マルチメディア」などの横文字テイストになってしまい、中身などどこにでもいるただのおっさんなのに、理論・理屈をこねくりまわしたようなブログばかり書いているので、正反対の人間だと思われている節がある。仕事だからしっかり誠実に、デザインのプロらしい言葉をならべねばと精一杯なのです。実は。

 まぁ、こうして文章にしてみると、いつものことながら、なんだかしっくりこないのです。

 「泥臭い」「人間臭い」をアピールしているようなニュアンスになってしまいますし、さりとて、ヨコモジを並べて「いかにも!」というニュアンスでもない。とにかく、文章にするとどこかすべてが嘘臭くなるように最近感じてしまいます。

 本来、人間なんだから人間臭いのは当然だし、その匙加減などどうにでもなるからと、開き直ったところで、伝えたい気持ちはあまり文章に乗らない。すべて文章力の無さに起因するので、結局、愚痴になるから始末が悪い。

 ネットもパソコンも抜きにした仕事。しかも、対人関係から離れた、仙人のような場所に身を置けばこの苦悩もなくなるのだろうか。でも、当分、そんな極端なこともできそうにない。毎朝、仕事場に来てパソコンのスイッチを押すところから仕事を始めるしかない。

 またまた、「しかない」などと言ってしまうと、「お前、それでやる気はあんのか!」とカツを自分に入れたくなる。いや、やる気は漲っている。間違いなく、いつもMAXで取り組んでいるが、逆にやる気があり過ぎてミスを繰り返すことが多い。つまり、すべてにおいて思い込みや捉え方が過敏で過剰なことに気がつく。もっと、リラックスすれば、もっと、ニュートラルに解釈すればいいと、よくカミさんに助言される。最近は素直に聞き入れ、都度、深呼吸しています。ああ、素直になれば、こんなに効率が良く、ミスやトラブルが少ないのか、と。ほんと、カミさんって、ありがたい存在。

 そんな、「THE 独り言」でした。

ワンオク「Listen」

You always call me full of regret
いつも未練がましく、きみは僕を呼ぶんだね

You want me to save you again
また僕に救って欲しいんだろう?

After all these years, the days go by
結局ここ数年の間は、月日はただ過ぎていくばかりで

I've seen you fall a million times
落ち込むあなたの姿を僕は何度も見てきた

Everybody makes mistakes
もちろん、誰でも間違いは犯すものだよ

It feels so hard to watch you hurt
傷つくあなたを見ていると僕も辛くて

From that pain a lesson learned
その痛みから学びを得ることで

This is how you find your way
自分らしい道を見つけることができるんだ

You feel so lost I've been there too
そばにいてもあなたの孤独を埋めることは僕にはできなくて

Skies so dark no way through
空は暗く、その先も見えなくて

Stories only scars can tell
痛みだけが物語を語るんだ

I've got so much love for you my friend
こんなにもあなたを愛している

Ride or die until the end
あなたのためになら何だってするつもりだけど

But only you can save yourself
あなたを救えるのはあなた自身しかいないんだ

You just have to
あなたに必要なのは、ただ…

Listen, listen
ねぇ聞いて

I hope that you know
知っていて欲しいんだ

Listen, listen
聞いてくれ

I won't let you go
僕はあなたを離したくないんだ

I wish I could save you from the pain you've been through
その痛みからあなたを救うことができたらいいのに

And all I can tell you is the best thing to do
きっとあなたに必要なのはこういうこと

(You gotta)
あなたに必要なのは

Listen, listen
耳を傾けること

To your heart
自分の心に

Listen, listen
ねぇ聞いてよ

Listen, listen
ねぇ…

Listen, listen
聞いてよ

一つだけ

Listen, listen
聞いておくれ

信じよう
降り止まない雨などない

And all I can tell you is the best thing to do
きっとあなたに必要なのはこういうこと

(You gotta)
あなたはただ

Listen, listen
耳を傾ければいいんだ

Listen, listen
聞くんだ

Listen, listen
聞いてみなよ

To your heart
自分の気持ちを

Listen, listen
聞いてごらん

To your heart
自分の本当の気持ちを

・・・とても素敵な歌です。

一調・二機・三声

 「一調・二機・三声」とは、言葉で相手に何かを伝えたい時の重要な3つの要素です。

 「一調」とは会話のテンポやリズムなど調子を整えることが大切です。伝えたい気持ちが先行して早口になったり、真意から逸れると当然、言葉のテンポは悪くなります。
 
 「二機」とはタイミングや間合いで、一方的に話しても伝わらないし、聞き手に終始しても、伝わらない。前体重が過ぎると間が詰まり、警戒心や不信感があると後ろ体重になり、間が伸びます。これでは適正なタイミングは成立しません。

 「三声」とは声の質であったりトーン(音程)で、伝えたいという気持ちを言葉で表現する際は、音程の「ド」よりも「ラ」が伝わるのです。気持ちに余裕がなかったり、真意から離れるとトーンは乱れるものです。その乱れが相手に伝わってしまえば、どれだけ美辞麗句を並べても理論理屈の裏にある真理は伝わりません。

 頭で理解しているつもりでも、これらを意識して行動しているつもりでも、しっかり伝わっているかは分かりません。

 心理学者アドラーは人間が抱えるストレスや心的疲労、そして、それらが引き起こすトラブルや失敗の原因は「対人関係」にあると言っています。確かに、「対人関係」が上手い人は、どこかなんとなく好感を抱いてしまうし、その言葉にも説得力があります。さらに、経験値や知恵が豊富で人間的な魅力、優しさや寛大さや誠実さがある人は、決して口を開かずともその佇まいがどこか魅力的です。ちょっとした仕草や小さいな身体の動きさえも好感に繋がるのです。意図的にそうしているかもしれない場合と、身体の芯から醸し出している場合があるでしょうが、多くの経験と機知を得た人ほど、無言で佇んでいてもどこか好印象を漂わせている場合うが多いと思います。

 だから、その上で、「一調・二機・三声」を実践できていると、正に「鬼に金棒」なのでしょう。

 いくら経験値が豊富で知識・知恵があり、熱意も探究心があったとしても、無言で商売は始まりません。それに主張や意図を言葉にして「伝える」ことを実行しながら、トライ&エラーで失敗を乗り越えて、っても単純な失敗ばかり繰り返しているようでは信頼を失いますが、それもで、怖気ず、さりとて開き直らず、曖昧な達観もせず、一手一手を丁寧に打ち続けることが大切なのです。

 長い長い、独り言でした。

30分砂時計。

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 なかなか30分設定の砂時計はない。しかもこの北欧系のデザイン。思わず買ってしまいました。素敵なデザインです。

ゴジラの正解。

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 想像上の生物だから正解はないのですが、このゴジラは好きではない。

 身体の赤い部分が嫌い。皮膚のゴツゴツのパターンが嫌い。手の角度が生物的にありえないので嫌い。首が細くて嫌い。背びれの形状がいかにも作りました!的なので嫌い。頭のサイズや目の造りもアンバランスで嫌い。動きもどうせ人が動かしている感満載だろうから嫌い。

 正解のない創造物だけに、個人的な好みで真価を判断してはいけないが、このゴジラは歴代のゴジラ、そして、ハリウッド版のゴジラと比較しても、完成度が低いように感じた。

 子どもの頃、尻尾を抱えて飛ぶゴジラ、ヘドラの目玉をつかみ出し、両手が骨になって佇むゴジラ、キングギドラに放射能を浴びせるゴジラ。そんなゴジラ世代だけに、このゴジラは好きになれない。

 ハリウッド版のゴジラが背びれを海面から出しながら泳いでいるシーンのドキドキする感じ、恐らく、映画「シンゴジラ」にはないのだろう。映画を観ていなから分かりませんが、このゴジラが画面に登場した瞬間に気持ちが沈むだろうから映画は観ないでしょう。それに、ゴジラが安易に軽率にCMのキャラみたいな扱いになも、とても寂しいです。

言葉にする力

 「その気持ち、ちゃんと伝わってますか?」というD社のコピーライターが書いた本がある。

 コピーライターとして数々の受賞経歴があり、想いを伝える秘訣を教えてくれるそうです。まぁ、ここまで書き出した段階で私がこの著者の気持ちをちゃんと受け取っていないのは歴然なのですが、「言葉にできることが武器なる」という切り口はおおむね実感できるし、あの場面でもっと上手く伝えられたらあんなトラブルにならなかっただろうという後悔はあとを絶たないものの、このタイプの著者の気骨の部分が見えない私はどうも斜めに捉えてしまう。ここが私のいたらぬ悪い癖なのだが、私は言葉よりもちゃんと伝えるためには意識しなければならないモノがあると考えている。

 確かに言葉は大切です。「会議で発言する」「営業先でプレゼンする」「面接で自己アピールする」「異性に想いを伝える」「SNSで「いいね!」をもらいたい」これらすべて程よく実現し習得したい技術ではあるが、そこまでの経歴の著者が「武器」という言葉をチョイスしていることにちょっと違和感を感じる。

 少し話の脈がずれるがD社の社長が例の事件の責任を負い辞任した。そんな超巨大企業で仕事をしていた優秀な人材が仕事が忙しいからという理由で、自らの命を断つのはちょっと自身の感覚として違和感がある。優秀であるか否かは別次元なかもしれないし、超巨大企業だから就業規則や雇用条件と現実の就労環境に深刻な状況があったとも想像しにくいからだ。恐らく、同じ条件でも逞しく仕事をこなしている人もいるだろうし、その逞しさが身体能力に依存するのか精神構造に依存するのかは不明だが、ただ仕事が忙しい、職場の環境で追い込まれたからと言って自ら命を絶つというのはいかなものか。語弊があり偏った考え方かもしれませんが、私ならそこまで無理をしなければならない状況なら思い詰める前に会社を辞めるだろう。そこまでの状況になる前に予感や推測できただろうし、使命感があったにせよ、自分の命はひとつである。それを犠牲にしてやらなければならない仕事などない。目的と手法が交錯し混乱していたのではないだろうかと感じた。

 そこで、その責任を負って社長が辞任するというのもいかなものだろうか。これもよくあるパターンだし、結局、社長は言葉にできなかったから逃げたのである。

 しかし、戦国時代なら首が落ちて切腹するような状況である。この社長は結局、真意を隠し、言葉にすることなく自分の命を守り、優秀で真面目な社員さんは自らの命を絶ったのである。

 多かれ少なかれこのムードはこの国の美徳として捉えられているものの、この本の著者がいくら「言葉は武器になる」と言ったところで、それは本太刀なのか脇差しなのか?と問い詰めたくなる。

 対戦ゲームの仮想空間で華奢なヒロインが自分の背丈よりも長い太刀を振り回しているシーンを見かけるが、あのサイズの太刀を振り回せるのは現実ではありえない。仮想空間だから譲るものの、武器を描くならばその重量や質感も大切だと思う。操作レバーひとつで自分の身長以上の太刀を振り回し、迫ってくる敵を叩き切るのは爽快だが、その爽快さも脳は非現実だと知っていながら、興奮する臓器なのである。この仕組み、この構造を利用している以上、本当の武器は使いこなせないし、本当の敵も倒せない。

 私は言葉にするテクニックも大切だと思うが、登山道を登り始め荒くなる鼓動、ボートの上で感じる魚の感触、100mのスタートラインで全体重が両手にかかる実感こそが重要で、デザインの仕事においても、理論理屈を削ぎ落とした骨の部分でつくることが重要だと思います。成果物が優れている優れていない、つくり手として評価されるされない、受賞経験があるないはすべて終わったこと。

 何回も折れて太くなった骨こそが最大の武器だと。気骨の強いつくり手でありたい。

 そして、逃げ足の速いスプリンターでもありたい。

天然な人。

 世の中には天然な人がいて、私のように理論理屈が先行したタイプは天然な人にはまったく刃がたたない。対抗策としてこちらも天然モードに切り替え、直情的に言葉のやりとりを試みるが、それでも真から天然な人には太刀打ちできない。

 テレビを観ていいるとたまに天然な人が登場して司会者を困らせているが、正にあの感じ。例えば、その代表選手としては松本伊代さんだ。テレビ番組だからだんなのヒロミさんも多少誇張脚色し話を盛っているだろうが、それでも伊代さんの実力は飛び抜けている。結果、ヒロミさんと伊代さんの関係ってバランスがとれていて夫婦円満となるだが。若手の2トップとしては、タキザワカレンさんと平愛理さんである。テレビの撮りだから飛び抜けている天然加減が爆発するシーンだけを観ていることになるので、多少、編集者の意図も作用しているものの、現場でのリアルタイムであのやりとりは強烈だろう。

 例えば、タキザワカレンさんなどは、ハーフということもあるのだろう、少し日本語の使い方が天然である。恐らく「下積み」というニュアンスのトークの流れだったのだろうが、それが簡単に「山積み」になるし、敬語も使い方がおかしい。タレントさんとしてはその天然さもひとつの才能であり個性だからいいが、日常生活でそのタイプの天然を炸裂されると結構辛い。

 平愛理さんも、さんまさんの番組で「好きな動物は?」の質問に、「猿です。」と答える。で、さんまさんが「日本猿?」と聞くと「ゴリラです。」と返す。さらにさんまさんが「えっ!じゃぁ、猿というよりもゴリラが好きなの?」、愛理さん「はい。」と、ここまでは、許容範囲想定内だが、「じゃぁ、ゴリラが好きですでええやん!そやろ?」と伝えると、愛理さんは「でも、一番好きなのはライオンです。」と。さんまさん「なんじゃそりゃ!」でドカーン。このキャッチボール、文章で読むとテンポとか間合いが悪くなるが、実際の流れを見ていると愛理さんの天然は飛び抜けていた。

 とにかく、お笑い芸人でもしっかりネタやギャグを練り込みひとつの技・スキルとして秀逸なキャッチボールを展開する天才も多いが、天然な人はこんな戦略的で攻撃的な人でも関係ない。向かうところ敵なしなのである。「無敵の天然」なのである。当然、悪意の欠片もなく、その場は練り込んだネタやテンポのある笑いよりも和み瞬間的に沸点に達するのである。

 私の近くにもこのタイプがひとりいて、当然、私は何をどう切り替えそうが勝てる余地・見込みがない。恐らく天然の人は「勝ち」とか「負け」とかまったく意識していないし、相手のリアクションさえもどうでもよく、とことん自分のペースを崩さない。結果、どんな言い合いになったところで白旗をあげるのは私なのである。

 私は「オロナミンC」が好きなので、買い物に行くんだったら「オロナミンC」も買ってきてと言うと、「空ビンがたくさん貯まるからダメ」と言われ却下となる。しかし、「チオビタ」や「乳酸菌ドリンク」は買ってくる。その理由は「安かったから」なのである。「ええっ!チオビタも乳酸菌栄養ドリンクも瓶やん!それに、オロナミンCと比較して価格もあまり変わらへんし!」と言うと、「いや、ちょっとだけ安かった」と言われる。なるほどなるほど、100歩譲って、どれだけ安かったのかは聞かないが、でも、「それも瓶だからゴミになるやろ」と返すが「ちゃんと洗って分別するから大丈夫だ」と言われる。「なになに、だったらオロナミンCも飲み終えたらちゃんと洗って分別したらええやん!」。すると、「オロナミンCは炭酸が強いから嫌いだ」と言われる。私はもうオロナミンCのことはどうでもよくなり、諦める。

 もう、理論理屈ではないのだ。天然は怖い。

 人はどんなに強い北風でもコートは脱がないのである。ああ、太陽になりたい。

ワニの絵。

 昨日、お客様のところで意外な流れから一枚の「ワニの絵」を頂いた。

 そして、突然の「ワニの絵を描いてください。」というご依頼。

 ここだけの出来事を絵心のない人が捉えると、いや、絵心のない人に「描いてください。」という注文は発生しないから、私に絵心があった、あると感じていただけたから、そういう展開になったと捉えている。まず、これが最初の嬉しい流れ。

 お仕事の打ち合わせやご提案・確認作業にお客様のところに行くことは多いが、まず、「ワニの絵」をお客様からいただくことはない。まして、私が「ワニの絵」を描くこともない。この一見、不思議なやりとりの中に私は無類の感激・感動を感じる。「絵を描けるって素敵ですね」とか「絵心のある人はいつも見ている世界が一般の人と違うんですよね」とか、言われる場合が多いが、いきなり「ワニの絵」をいただくことはそう経験できることではないし、勿論、絵を描けることでデザインの仕事に有利に作用する場面は多いが、一人の「絵を描く人」としてというか、「絵が好きな人」として、「絵」を通じて、何か、気持ちや趣味趣向が交差するのはとても心地良い。これが二つ目の嬉しい流れ。

 最近、「絵を描く能力って具体的に何だろう?」というテーマついて時間があれば考えている。

 なかなか答は出てこないし、整理も当然できていない。しかし、情報が飽和している、つまり、文字情報が飛び交っている現代、絵によるコミュニケーションの不動の価値がより際立つ傾向が強いように感じます。絵とデザインの関係は意外と密接で、密接だったからこそ、こうして仕事として生業にできたという経緯もある。

 仕事の場面で名刺を渡す時、新しい出会いに必ず名刺を差し出しているが、ちょっとお時間をくださいとお願いし、相手の「似顔絵」を名刺の裏に描いて渡したら、かなり印象的な出来事なるだろう。似顔絵なんて1分もあれば描けるのだから。海外の人ならば喜ぶかもしれながい、日本人は基本、いや、表面的に「まじめ」だから、ドン引きされるかもしれないが、そういう名刺作戦もアリかもしれない。これが三つ目の嬉しい流れ。

 一枚の「ワニの絵」でこんな荒唐無稽な着想が生まれた。

 これも一枚の絵のチカラ。

ネコ。

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 ふと、会社の窓から向かいのビルを見るとエアコンの室外機の下でネコが寝ていた。

 なんと、平和感全開のネコだこと。

こういうこと。

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 仕事とは本来、こういうことなのです。とても高価なハンコです。そして、良い仕事です。

 何故高価なのか?それは遺伝子情報(配列)がハンコ面に彫り込まれているから。

 何故良い仕事なのか?指紋や声紋や光彩や毛根の断面などなど、人間は地球上で唯一無二の存在。なのに、遺伝子は個体同士をつなげようとする。つなげようとする本能が分裂を生み、同族意識を生み、宗教を生み、戦争を生む。本来、唯一無二であるがゆえの孤独感から開放され、集団で思考し行動することが、本来の進化に繋がるとでも記述してあるのでだろう。当然、それは非言語で誰もどのパターンにもあてはまらないのが人間なのに。ただそこには時代を超えた解釈があるのみ。そんな人間が生み出す仕事なのだから、仕事ってこうあるべきっていう仕事ですね、これは。

南新宿へ。

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 ひさびさに南新宿へ。人と会うため道端で人ごみを見ながら、時間を潰していた。

 東京はいつ来ても人が多いなぁ~と感じた。そして、それ以上先に思考が展開しなかった。

 一見、あらゆる情報が飽和・氾濫しているようで、実は虚無な街なのである。

次世代!

 任天堂が「次世代のゲーム」を新発売しメディアで披露するらしい。

 「次世代」、非常に曖昧で魅力的な言葉である。

 「次世代のスマホ」「次世代のテレビ」「次世代の経営術」「次世代のビジネスモデル」。

 いずれも魅力的な響きです。

 時間は誰にも止めることができない。そして、未来は誰にも予測不可能である。これがあらゆる思考の大前提です。ゆえに、不安や期待が価値観を増幅させ失速させるというシクミ。

 乱暴な言い方かもしれないですが、次世代のことは次世代に任せておけばいい。次世代は今の世代が思い悩んでいるほど無能ではなく、むしろ、過去の現代の悪いサンプルを排除し、自分達に有益で有利な情報をしっかり精査しているに違いない。当然、不安もあれば焦燥もあるだろう。しかし、それはどの世代も同じだったはず。自分自身、多くのあたたかい手ほどきや恩恵を授かり今があるのだと捉える反面、自分の可能性を自分自身で切り開いて、ひとつひとつ実感し能力に変換してきたという自負もある。恐らく、次世代の皆様も同じ。

生態系。

 「生態系」という言葉を人間はつくり出し、自分たちの都合で弄んでいる。

 そもそも「生態系」を人間は操作できないのに。

 昨日、ひさびさにテレビに「ブラックバス」が登場した。さすが、読売テレビである。

 しかし、その捉え方は「フィッシュイーター」として生態系を狂わせている元凶だという解釈である。まぁ、ブラックボックスをスルーしているテレビ局よりも意欲的だと捉え、その結論は飲み込んだが、そもそも、「ブラックバスvs人間」の抗争はどこからいつから始まったのだろう?

 「生態系」を人間が認知・理解・解釈しようとする際に生まれる不協和音が実はあらゆる違和感の元凶だとしたら、人間はどこか他の惑星に移住するべきなんだろう。荒唐無稽な考え方だが、自然の驚異の前になす術を失い、無力化されるごとにその無力さ加減を嫌悪しているゆえに、人間の思考能力では絶対に正解は出せないのだろう。しかし、近い未来、AIが自己を持ったらどうなるのだろう?

 そんなことを考えながらブラックバス釣りの大会に参加している私も生態系のワンピースなのだ。

ワクワクドキドキ。

 夏バテなのかここ3日間ほど体調が悪かった。9月中盤で少し涼しくなったかと思っていたら、日替わりで暑くなったり、体調管理が難しい季節の変わり目でした。涼しくなったから夜、気まぐれに走り始めたら右足(股関節)の調子が悪くなり、気圧の変化も激しく雨もけっこう降ったので、その影響で偏頭痛も日替わりだった。毎日の運動もセーブしつつ、なんとか9月を乗り越えました。ライブも行ったしゴルフも行った。新しいパソコンも買ったし仕事も忙しくさせていただけた。そんな9月でした。

 今日から10月。2016年もあと3ヶ月。すでにクリスマスケーキ販売促進関連の仕事も終えている。年末のことも意識し始めてしまいます。

 そんな中、ワクワクドキドキできることも貪欲に探求し、思考と行動を繰り返しているのですが、必ずしも世の中の「ワクワクドキドキ」と、自分自身の「ワクワクドキドキ」が連動・連鎖しない私は、良い意味で自己中心的にワクワクドキドキできることを物色しています。このマイペースさ、習慣(偏屈な)、ルーティーン(独自の)は改めて考えてみると若い頃からほぼ同じで、この9月を振り返っても、3年前を振り返っても、30年前を振り返っても(可能な限り)、同じです。

 今、一番のワクワクドキドキは、今更ではありますが、10月中に入手しようと予定している「スマホ」です。機種はエクスペリア(アンドロイド)かなと思っていますが、今更も今更、ガラケーが製造中止のタイミングでスマホに変えるわけですから、マラソン大会で言えば最後尾スタート。スマホの活用術で先頭集団に食い込む気持ちがないからなどと、いじけたスタート。もう、スマホの機能面は相当安定しているし、世の中的にはほぼ浸透し尽くしている状態での、つまり、スタートの号砲が響き、皆様がスタートをしてから、さぁ、そろそろスタートしようかな?あれ?もう誰もスタートラインにはいないぞ!という状況です。スマホユーザーとして最後尾からスタートした私が、あの端末とどう仲良くなるのか?まるで合コンのようなお見合いのような気持ち、そんなワクワクドキドキなのです。

 さて、10月も仕事を頑張ろう。お見合い相手、器量が良く相性が良いことを願っています。

あさっての方向から。

 歳だなぁ~と思う瞬間がある。それは、想定外のことや予期せぬ非常事態があまり起こらないこと。痛い目に会わないかわりに突然のサプライズも極端に減ったことだ。これも情報化社会の良い面と悪い面で、いつも想定内のことしか起こらない。軽率な「チョンボ」や「イージーミス」は元々原因が100%私にあるので比較的致命傷にはなりにくいし、仮に力不足が原因で失敗を招いてもなんとかなってしまうのがこの傾向をさらに促進している。これを「安定」「均衡」と呼ぶこともできるのでしょうが、それはそれで退屈してしまう。つまり、適度な刺激と適度な満足感が欲しいのだが、このバランスが非常に難しい。「そこそこ」「ボチボチ」「まずまず」というニュアンスが嬉しくもあり苦しくもある。

 どこからともなく凶悪な敵が現れ、どこからともなく無敵のヒーローが倒してくれる。そんなドラマチックな状況を心のどこかで求めてる感覚。そんなことは映画や小説の中だけのお話で、現実に生死に関係するような事態は非常に困る。しかし、だから、誰もがそんな状況を疑似体験できることを渇望しているのです。勿論、私もなのです。そういう想いを自分で物語にしたら少しはこのモヤモヤが晴れるかもしれないと期待しつつ、自分の中の「最大の敵」とはなんだろう?そして、「永遠のヒーロー」ってなんだろうなどと考えています。

 最近の映画は完全懲悪路線が緩み、善意と悪意が混沌としている。「ダークヒーロー」などという言葉が横行して久しいほどだ。一見、悪っぽいタイプが善行したり、どう見てもエリートヒーロータイプが影で悪行に手を染めていたり。だって、スーパーマンとバットマンが戦ってしまうわけですから、そりゃ、エイリアンとプレデーターだって戦うわけです。例えば、ゴジラ。誰もゴジラの真意は分からないが、ビルを壊しながらも凶悪・巨大な人類の敵と戦ってくれるゴジラ。それはゴジラの勝手気ままな本能のはずが、いつしか海に帰っていく頃には人類のヒーローになっている。ここに善意とか悪意はなく、ただただ、生物の本能のみが事象となり物語となる。「老人と海」である。

 レクターがハンス・グルーバーがジョーカーが巨人がゾンビが純粋で完全無欠の悪ならば誰も肯定することなく受け入れないし、物語として成立しないわけで、ダースベーダーさえ共感してしまう、人間の本質が実はもっともこの世の中で「悪」であったりする。誠に突き詰めていくと「光と影」の関係を描くのは難しい。

 ある場面では「善(光)」なのに、別の場面では「悪(影)」がにやけているからだ。そのスイッチングがいまだこの年齢になっていもままならない。優れた物語を生み出してきた古今東西のクリエイターってほんとにこの苦悩を完璧に乗り越えて、自分の中の善も悪も制御・操作・支配できたんでしょうね。でなければ、「アトム」は生まれないのだから。

ルノアール

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 人間は忘れる生き物である。

 記憶には2種類あって、決して忘れることがない記憶と自然消滅してしまう記憶がある。何かの基準でこの2種類を分けているのだろうが、未だにその基準は分からない。

 この日、僕の肉眼で見たルノアールの絵画作品の記憶は、間違いなく一生忘れることのない記憶の箱の中に入った。自分でご飯をまともに食べられなくなったとしても、自分の名前が分からなくなったとしても、この記憶だけは消えないような気がしています。

 展示会を見終えた感想のほとんどは言葉はできないが、唯一、言葉にできる感想があるとしたら、ほんの少しだけルノアールの肉眼の内側に入り込めたような気がしました。

新説・明治維新。

 「新説・明治維新」という書籍がある。以前、日経新聞にも書籍の広告があり、少し気になっている。具体的に書かれている内容がではない、何故、このタイミングでこのタイプが浮上してきたのか?という疑問である。まかりとおっていた事実・常識が何かの理由でほころび、明治維新の真実が封印から解けたのか?いや、新しい何かこの時代にマッチした狙い・意図が具体化・具現化したのか?好奇心の振動が止まらない。恐らく、書籍の内容を確認したところで、現在知られている内容の軸は同じだろう。ただ、光の当て方を誰かが意図的に変えているか、完全なるフィクションか?という推測である。

 仮に歴史を紐解くほとんどの史実がほぼ誰かの脚色だったにせよ、私達がそれを確認する術はない。術がないことが大前提なら何をどう歴史だと脚色し、言い切ってもいい、良かったはずだ。

 何故、今、「新説・明治維新」なのか?とても気になります。

アイディア

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 いつか、何かの種を植えようと窓際に放置していた植木鉢。土が死なないように定期的に肥料も水をやっている。すると、土の中に種か根が紛れ残っていたのか、小さい草の芽が出てきた。意外なタイミングに意外な芽。

 この芽、想定外の状況で生まれる「良いアイディア」にとても似ている。

12

 ふと、考えた。

 時間・1年・1ダース・十二音・十二支・十二星座・十二宮・十二使徒・オリュンポス12神・十二単・十二神将・冠位十二階・十二因縁・十二直・方位・十二天・十二処・英米の陪審・十二表法員・十二進法、そして、十二指腸。すべて12である。これは何かある?きっとある、必ず根拠があるはずだ。例え、言葉にならなくとも文献として成立していないくとも、誰しも心の中に「12」を重んじる、何か理由があるはずだ。安易に「本能だから、本質だから。」などと軽視してはならない何か。

 ひさびさに「12モンキーズ」を観よう。

宇宙最強。

 最近、特にメルマガやWEBサイトで「宇宙最強」という言葉が目につく。

 もう、商品を訴求する方法として「世界一」では足りないのだ。

 確かに「宇宙最強」という言葉は諸刃だが、強いニュアンスがあるゆえに根拠が弱い。しかし、そこまでのリスクを承知で言葉を選ばなければならないほど、比較合戦が熾烈だという証である。もし、その商品が本当に宇宙最強ならば、人類意外の誰かが存在しているということが大前提になり、人類では査定・判断・分析できないくらい最強なのだという曖昧さも、どこかメルヘンチックでファンタジックな夢物語のようで許容してしまう。言葉遊びが過ぎていると言えばそれまでですが、宇宙最強と言えば「宇宙最強」なのだから、言い切った人の勇気を讃えるしかない。

 当然、宇宙には「金」以上に価値のある金属(鉱物)が存在するだろうから、それをメダルにすれば、金メダルも少し陰ることになる。だが、私は、とりえあえず「金」がいい。

「うずまき」テスト。

 あるテレビ番組で「うずまきを描いてください。」という心理テストがあった。

 どんなうずまきを描くかで「金持ちになれるかが分かる」というテストである。

 テレビ番組のネタだからあまり真剣に捉えず、家族といっしょにどんな「うずまき」を描くか言い合った。娘とカミさんは中心から「うずまき」を描き、次第に時計回りで大きく描くらしく、私は逆に「うずまき」の外側から時計回りに中心にむかって描いた。

 結果、お金持ちになれるタイプは「うずまき」を中心から外側へ描くタイプで、このタイプは、モノゴトの全体像をイメージしてから、中心から外側へ思考が向かうため、大きなビジネス展開に向いているらしく、その結果、お金持ちになれるという結論だった。「うずまき」を中心から描くタイプは思考力が柔軟で、思考の中心点からいろいろなアイディアや着想が生まれ、ビジネスにおいてもいろいろな大きな可能性が生まれるタイプであるという分析結果だった。なるほどと納得しつつも、外側からうずまきを描いた私は、どこか「お前は小さい人間だ」、「あまり冒険をしないつまらない堅実派」だと言われた気がして、少し反意をもよおした。
 
 いやいや、「ビジネス」というのは着想やアイディも大切だが、全体像と自分の器をしっかり掌握し、危険ゾーンを避けながら、安定した運営展開をしていくことが大切で、短く激しく無碍に拡充することだけがビジネスのポイントではない。着想や思考が広がらない人よりもアイディアが豊富で探究心のある人の方がビジネスにおける成功率が高いとは言い切れない。まして、モノゴトを捉える時は、大きく広げていく思考パターンよりも、深く掘り下げて中心点を探求する思考パターンの方が重要だから、この心理テストの結果、50%は納得いかない、などと言い出すと、娘とカミさんは、「ああ、また、いつものへ理屈を言い出した。はい、はい。」と軽快にいなされてしまった。ポツンとオヤジひとり、見事に自論が空を切った。

 そして、やはり、うずまきを外側から描くタイプは「小さい人間なんだ」と実感した。

 「うずまきテスト」ひとつ、恐るべし。

手づくり。

 私も含め人は「手づくり」という言葉に弱い。

 弱いというか心が動かされるのです。何と比べて?マシンと比べてです。

 デザインの仕事について最初に始めた頃、仕事現場にマシン(PC)は無かった。すべて「手づくり」だったのです。だから、テクニックも必要だったし、デザイン感覚もプロレベルを習得する必要があった。そうこうしているうちにデザインの仕事現場にマシンが登場した。タイミング良く、私はデザインのアナログテクニックとデジタルテクニックの変換期に遭遇できたのだ。もし、そのタイミングが少しずれていれば、どちからに偏ったテクニックになっていた可能性が高い。また、デザインの仕事を始める前は美術(絵画)の勉強をしていたから、当然、デジタルなど介在しない世界だった。そして、幸運にもその変換期に東京にいたということも、あとあと大きな意味・価値があったのだと捉えています。

 さて、デザインにおける「手づくり」の価値についてですが、「人の心が動きやすい」のであれば、活用しない手はありません。しかし、デジタル化した仕事現場で「手」を意識することは意外と難しく、ツールとしてはキーボートとマウスだけだから、「手」はつくるというよりも作業(操作)に終始している。ブレインワークという言葉があるが、着想やアイディアは頭の中で、それをただ、ツールでオブジェクトにしている、デジタルデータに変換しているだけなのです。最初は手では生み出せなかった表現や組み合わせがモニターの上で次から次へと達成できる快感に陶酔していたが、ふと気づくと自分の手がPCにヤキモチを焼いていた。理論・理屈にバイアスをかけ、キーボードもマウスも手で操作している以上、「手づくり」だと解釈することもできるが、それは、本当の「手づくり」を体験・実感していない人だけに許された狭い小さな優越感でしかない。

 海外からの訪日旅行者が画一的な企画ツアーから体験型にシフトしているらしい。都市圏でもローカルエリアでも、猫も杓子も「体験型」を推奨しているのは、社会がマシン化し、アルゴリズム化してしまった結果、人間が本来備えている「感覚」がヤキモチを焼いている証拠なのだろう。やはり、どんなことでも「手づくり」には不思議な効果・効力があるのだ。

 ある書籍でフロイトが「文化こそが平和への糸口だ」的なことを言っていたが、「文化(文章化)」が人間の欲動を適正に抑制すれば、そこにはどんな均衡があるのだろう。その状況・状態を「平和」と呼ぶのなら、「手づくり」は創造と破壊のループだとも言えなくない。

 ただ、理論・理屈はさて置き、この手が動いている以上、つくらないという選択肢はない。

高評価。

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 「世界でも高評価の日本のグラフィックデザイン。その「現在」を見る展覧会」が開催されているらしい。と、このような展覧会だが、どうも私は「高評価」という文字に違和感を覚える。誰からの評価なのか?どの程度、数値的に高い(多い)のか?などは非常に曖昧で、ただ、「世界でも高評価の~」と言われても根拠は何?どこ?という違和感である。

 デザインの仕事を始めた頃(30年前)から、デザイン力を高めるためには良いデザインをたくさん見る、がセオリーであり常識だった。図録や年間を見て、「これが良いデザイン」だと刷り込まれてきたわけです。若い頃ならばそれで疑う余地も余裕もないから、「これが良いデザインだ」と鵜呑みにして、自分のつたない技術と感覚をここを手本に高めようで素直に純粋に納得できた。しかし、年齢を重ね、いろいろなタイプのデザインの仕事に長年従事してきて感じること、思うこと、考えることは、基本的に「良いデザインって何?」という自問自答・自己分析である。

 デザインの仕事を始める前も、美術学部美術学科の私は、「良い絵画とは何か?」を探求していた。個展をする、団体に加盟する、著名な先生のお膝元に鎮座するなどなど、いろいろな価値観・スタイルを知る事に、大きな違和感を感じた。なんだそれ!部活かっ!?と。

 さて、世界の中で「平和な国ランキング」を調査したところ、日本は第10位だった。第1位はデンマーク、そして、ヨーロッパの各国や北欧の各国が続く流れで第10位である。この設定背景は人口や経済指数や軍事産業との関連性などを複数の指標を総合的に分析しランキングされている。そんな確固たる数値的な根拠があるらしい。ならば、日本の平和度数は第10位なのかと納得できるが、いきなり、「世界でも高評価の日本のグラフィックデザイン」と言われても、あまりピンと来ない。

 つまり、「デザイン」と「ピン」をあまり関連づけない方がいいのである。デザインはもっと曖昧でいいのである。評価を一列に並べて優劣を決めるのは、別の狙いがあるからなのである。

OODA LOOP

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 監視・観察→状況判断→意思決定→行動→と、このループが大切。

壊す風景。

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 子どもの頃(小学生)、学校の帰り道や日曜日、よく建築現場で工事風景を観察していた。何が楽しいのかとよく母に聞かれたが、その時は理由を説明できなかった。結局、壊している風景もその次にある建設(創造)への準備なわけで、誰かが何かをつくっている様を観察するのが楽しかったのだ。料理も同じ。実家で夏期旅館をしていた時期があり、夏休みは早朝から晩まで料理人さんの後ろで包丁さばきを見ていた。とにかく観察するのが好きなのである。

 この場所にはモデルハウスが建っていたが、最近、壊されて、恐らく新しいモデルハウスが建つのでしょう。子どもの頃のように一日中観察することはできないが、恐らく、この年齢になっても、時間に余裕があるのなら、じっとその様を観察するだろう。

 つくり手の傾向として、実際に作る技術やセンス、準備段階の資料集めリサーチ力、選択力、判断力など能動的な部分を意識しすることが多く重要視する傾向が強い。しかし、実はその前段階に「ただ見る」という体制が必要不可欠。つまり、機会をつくることがすべての出発点であり、むしろ、機会を得ずにいきなり行動(創造)はできない。まして、頭の中も手持ちの引き出しも空の状態で何かを生み出す、つくり出すことなど絶対に不可能なのである。

ことばの選び方。

 手元にある「語感辞典」のまえがきに「ことばの選び方」という文章がある。

 ことばを選ぶのは、伝えようとする情報だけではない。当人の意図とは関係なく、その事柄を選び、そんなふうに表現したその人自身の、立場や態度や評価や配慮、性別や年齢、感じ方や考え方、価値感や教養や品性を含めた人間性が相手に否応なく伝わってしまう。ひとつの文章が生まれるまでには、無意識のうちに発想や表現のさまざまなレベルでの選択が積み重ねられる。その過程で人間の在り方が、結果として姿を現す言語作品に映っているからである。表現の外面から発想の内面へとそのレベルを順にたどってみよう。~はじめにより抜粋~

 なんと心地よい流れ、淀まないテンポ、そして、軽快で誠実で的確な文章なのだろう。文章を研ぎ澄ますとノイズが排除され純化される。ノイズだらけの人間(私)にはこの文章は到底生み出せそうにない。例え、外面を取り繕う術を得たとしても、内面の混沌が露呈するのだ。

 ことばの選び方、決して軽率に安易に乱暴には渡れない綱渡りの綱のようです。

選挙ポスター。

 営業や打ち合わせでお客様のところに行くことがよくあり、車から街角に選挙用のポスターが貼ってあるのをよく見かける。デザイン的には議員さんの顔写真が大きくレイアウトされ、所属先やスローガンがデザインされているパターンである。目立つ配色、読みやすい文字の大きさとフォント。内容的にはとてもシンプルで、それ以上それ以下でもないとてもシンプルな情報が一枚の紙に印刷されている。

 人工頭脳関連の書籍を読んでいるとコンピューターが進化すると、今存在する人間の仕事の中でいくつかが代行されるという現実を知った。決まり決まった想像的ではない事務的な単純処理は、はるかにコンピューターの方が正確で効率が良いということである。当然、それらのプログラムに連動している工作製造機械があれば、単純作業なども代行可能である。新しい何かを想像したり開発するようなテーマはまだまだ苦手で、人間への繊細で微妙な対応についてもまだまだ進化の渦中らしいが、方程式があり正解を多様な選択肢の中から判断するだけならば、人間はコンピューターに劣る場合がある。むしろ、正解が分かっている単純作業ならば、人間はその仕事を放棄していもいい時代だということである。

 さて、議員さん達の仕事はどっちだろう?私は議員経験が当然ないので、どのような仕事を任期中に展開しておられるか理解・掌握していませんが、テレビやネットの情報で知る範囲では、あまり想像的な仕事は少ないような印象がある。議案を制作し議会で審議し可決させることが主なタスクなのであれば、想像的な要素は少ないような印象がある。この流れを分解すると、情報収集と整理・設計、そして、立案・提案し議論した末、多数決で可決する。このファンクションを成立させるための、費用対効果はどうなのだろう?

 「どうなのだろう?」ということは、何かと比較していることになるのが、例えば、農業と比較してどうなのだろう?

 土を最適化し、強い種・苗を選別し、成果(商品)として育てる作業には長年のつくり手の経験則がかなりの比率で作用している。そのノウハウの中には決まりきった手順もあるだろうが、農業の相手は自然である。自然相手の仕事だから想定外の事態(トラブル)が容易に発生する。いつでも発生する。経験則はあれど、これらのトラブルに対応するためには会議をしている時間はない。毎日毎日、一瞬一瞬が勝負なのである。まして相手は野菜や穀物などの生物である。判断を謝れば成果は生み出されない。それまでの作業時間や原価を失うことになります。このような農業と比較して政治というタスクはどうなのだろう?農業より政治が単純だとは言わないまでも、人工頭脳が対応できそうなのは農業よりも政治のような気がするのです。農業も政治も素人の私が曖昧な情報だけで安易に軽率に判断できるようなテーマではないが、一般人の知識レベルでは政治のシステム・構造こそ、専用のアプリで代用できそうなことが多いような気がします。

 テレビのニュースで政治家達が巨額の資金を独断で操作したり、無駄遣いをしていることを知る度に、政治のシステムや構造を否定するのではなく、そもそも政治自体の必要性に疑問を感じてします。これは一般市民の悪気のない一意見なのですが、同じようなことを国民は感じているんじゃないだろうか。そもそも、ひとつの議案立案にかけている費用や時間、何事も金次第の世の中ですが、一般市民と比べてあまりも単位・単価が大きい割には、実際やっていることはとても単純で、無理やり大義名分を積み重ねて大きく見せているだけで、実態・実質的には公明正大なアプリを制作して代行させれば、と思うのです。

 選挙ポスターの単純明快なデザインを見る度に、ああこの人の素養はいかなものか?有名な大学で知識を詰め込み、潤沢な資金をベースに然るべき経験値を積み、大義な空間で議会という時間でそれらしくふるまっているが、本質は卓上ゲームのコマのようだと。つまり、その属性が然るべき立場を形成しているだけのIDであるならば、別段、「ゆるキャラ」と同じではないかと。選挙ポスターの写真を見る度に、ああこの人たちはそういうキャラを演じることに人生を賭けているのかもしれないな、などと感じてしまいます。ルックスのいい熱意溢れる人間性を表面的に打ち出し、それを「キャラ」にしている仕事。だから、論理が曖昧な答弁や拙い日本語を露呈しても、国民は「議員さんなのに何を言っているの?」レベルで許される。これ正にそういう「ゆるキャラ」だからなのである。

 それもそのはず、ただ、選挙で選出されただけなのだから。素養も教養もポテンシャルも関係なく、選挙ポスターなどで認知されているモノサシ加減だけで得た属性・立場なのだから。だから、選挙ポスターには「デザイン性」が必要ないのです。むしろ、あってはならないんでしょう。

 そんな仕事、ほんとに大変だと思います。相関で俯瞰で客観で自己分析さえできていれば、決して、立候補したいという結論にはならないでしょう。それを考慮してかしないでか、決意し覚悟し手を上げている証があのポスターなのでしょうから。

PVがつくれそう。

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 とある巨大な倉庫です。映画のワンシーンに登場しそうな雰囲気のある空間です。どこかのドアからひょこっとチャッピーが出てきそう。

陸上記録会の運営。

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 陸上記録会に行くと運営・進行に携わっておられる人の多さに驚きます。球技の大会なども多くのスタッフの方がおられるのですが、陸上は競技種目が多く、それぞれのタイムや距離の計測などは慎重に円滑に対応しなければなりません。選手ひとりひとりのタイムや距離を計測するためには、よほどの慎重さと丁寧さ、そして、円滑な運営を行うノウハウが必要なのだと思います。このようなプロフェッショナルな皆様に支えながら、選手達は常に自己ベストを出すために真剣勝負をしている。それが陸上記録会なのです。

 私自身、短距離をやっていたとはいえ、学校のグランドでの大会経験のみです。こんな本格的なトラックで走りたかったなどと、ちょっと、かなり羨ましさ満載で観戦していました。球技のフィールドにも、武道の道場にも、独特の緊張感が漂っていますが、陸上競技場のこの緊張感が私は一番好きです。

ラプトルの勇気。

 ついに、満を時して「ジュラシック・パーク4枚組DVD」を購入した。

 いつか、必ず、当然と、目論んでいたが、昨日がようやくそのタイミングだったのです。

 なぜ、こんなに、第1作「ジュラシック・パーク」公開から、第4作「ジュラシック・ワールド」までDVDを買わなかったのか?その理由とは、ただ、タイミングを逸していただけなのですが、かれこれクライトンの原作を読んでから、映画化が決定したあたりまで話が遡るので、自分としては「満を時して」という感覚でした。

 1、2、3と続き、そろそろかなと思っていたが決意できず、保留してたら、「ジュラシック・ワールド」の映画制作となり、今日に至るという流れでした。

 「恐竜」に興味のない、6500万年前に興味のない人に言わせれば、アマゾンのDVD評価コメントを読むと、「単純で展開が読める上、物語の展開に都合のいい安易で軽率なトラブルが起こり過ぎる」とか、「DNAの操作で現実的にそこまで可能なはずがない。SFと言うよりもファンタジーでつまらない」とか、「ワンパターン化による映画の完成度が回を重ねる毎に劣化している」などの意見があった。私のように映画に「恐竜」さえ登場していれば満足するタイプなら、あまり気にならないことが気になる人もいるのです。

 昨晩も早速、DNDで5回目の「ジュラシック・ワールド」を観たが、1回目より満足度(爽快感)が増している。こんな作品は最近、稀である。今晩も観るかもしれない。

 あの、ラプトル君の勇気は、他のモチーフでは描けないのです。決して。

東京五輪新エンブレム。

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 いろいろと物議を醸し出した遺恨の残る「東京五輪エンブレム」。結果、すべてがリセットされて、現在はこの4案に絞り込まれているらしい。さて、この4案、いかなものか?

 「一般公募」とのことで公平性をアピールしているようですが、この4案のエンブレム、いずれも非常に「迷い」を感じる。印象として完成度うんぬんよりも、社会情勢の影響からなのか、日本人という気質が作用しているからなのか、「迷い」が第一印象としてあり、なかなか心から素直に受け入れにくい。これは私がデザインの仕事をしている人間だからなのか、ただ単に否定的なアプローチが癖だからなのかは分かりませんが、しっくりくる要素があまり感じられない。

 例のリセットされた疑惑付きのエンブレム案と比較した場合、明らかに何かが足りない。酷似していたことや、盗作の疑いなど、ボツになった経緯があるからか素直な気持ちで、新しい4案に対峙できないだけかもしれません。その感覚を言葉にすると「っぽくない」。

 唯一、総合点数が飛び抜けて高いのは「A案」です。あとは有象無象に近い。できることなら、「A案」に決まってほしいと考えています。

 恐らく、多くのつくり手が「東京五輪2020」に期待を寄せ、あらんかぎり英知と感覚で生み出したエンブレムデザインなのだろうけれど、デザインに必要なことは理論や理屈や根拠ではなく「っぽい」こと、「らしい」ことが大切。人工知能は最近凄まじい進化を遂げ、猫の顔を判断するようになったらしいが、つくり手は自らの経験と世の中の膨大なビックデータから適正なテーマを組み合わせた後、必ず、つくり手本人の「らしい」部分、つまり、最後の魔法の一滴を落とさなければならない。完成度やデザインの歴史がどうだったからではなく、今、作った本人の中の何かが転移・憑依し初めてデザインは息吹くと私は思います。人工頭脳が「これ猫だ!」という認識レベルと同じであってはならない。

 その視点で、その捉え方でこの4案の中から1点を選ぶとしたら、圧倒的に「A案」です。

 さて、どれに決まるのでしょう?

ほぼ日刊イトイ新聞

 ほぼ毎日、糸井重里さんが運営しておられる「ほぼ日刊イトイ新聞」を読んでいます。「ほぼ毎日」という切り口が糸井重里さんらしく、当然、記事の暖かさと誠実さは文章のお手本のようで(当然)、私には決して近づけない程の孤高な高さを感じてしまいます。こんな文章が書ける人になりたいと思うわけです。

 その中で「主観と客観」についての記事がありました。

 日常生活の中に氾濫する「客観」に自分自信の「主観」を押しつぶされない、手放さない、紛失しないように気をつけようと、いつものことながら、糸井さんらしい後味と余韻が残る素敵すぎる文章でした。

 「アート」の価値は主観だからこそと、言葉にできるにはそれ相当の根拠や要因が必要だと思います。「アートなんとか」とネーミングするだけで、「あとはご自由に!」的なイベントやプロジェクトをよく見かけるが、その全容と詳細を確かめるまでもなく、中身(主観)が弱い、表面的(客観)に終始したハリボテ企画に残念になる。残念になるのは期待しているからであり、一本でも筋の通った作品や心を震わせてくれる人に出会えたなら、それだけで満足なのだが、なかなか、主観のありかにたどりつけないことがもどかしい。ただ、自分の理解力のなさ加減と感度の鈍さに閉口することが多い。

 「良いつくり手になるには、良いモノをたくさん見る」という指南に、仕事でも人生の場面でもよく出会うが、「何をどう見ればいい?」については誰も紐解いてくれないから、結局、試行錯誤から始めて、自分だけの「良いモノ」に出会うしかない。誰から「良いモノ」だと教えてもらったことが、自分の「良いモノ」だという確率は経験上、非常に少ないからです。この部分に主観の軸があるのでしょう。

 さて、「アート」の価値についていくつか思うことがあるが、まだまだ、ブログで書けるほど整理できていないのが正直なところで、「ほぼ日刊イトイ新聞」でいろいろな良いモノに出会えているのだろうが、口の中に入れて噛み始めた段階です。美味しいのか美味しくないのか?栄養になるのかならないのか?ちゃんと自分の身体が吸収してくれるのかしてくれないのか?イトイ新聞を読み始めてから思うことは、より深く広く迷いのゾーンが広がったということ。

 逆に迷っていなかったことが短絡的で軽率だったと反省することしきりです。

 今の結論は自分の中にある優柔不断で天邪鬼な「主観」だけど、大切にしたいと思っています。

ズレ。

 長年、デザインの仕事をしていると自分の感覚が他人と比べ、ズレていると感じることが多い。しかし、いつもいつもズレていては商売は続けてこれなかっただろうし、ワガママな考えや行動を繰り返していれば、結果、孤立してしまっていたでしょう。

 そう考えると、私の感覚の「ズレ」はデザインの仕事を展開する上で必要だった、多少ズレてはいたが仕事の成果としては良い作用もあったということになります(自己完結)。かなり、自分を擁護している考え方ではありますが、デザインの仕事にはつくり手の感覚や理屈など、適当に適正にズレている必要があると捉えています。

 例えば、日本の「音楽シーン(ビジネス)」について他人の感覚とのズレを強く意識することが多い。老若男女が「ワーキャー」言っているグループがいる。ここでそのグループを特定して個人的な分析を披露したところで、誰も得をしないのでそのグループ名は書きませんが、私はそのグループがテレビに登場しても一切魅力的だと感じない。しかし、世の中には熱烈なファンがいて、ライブに集まりグッズを購入し、当然、CDも破格の販売力がある。その現実・事実・根拠があるから、テレビ番組にその皆さんがゲストとして登場した際、司会者や他の芸能人さん達はその皆さんに対して「そういう扱い」をする。これは歴(れっき)としたビジネスモデルなのだから、私個人レベルで何をどう感じようが体勢に影響などない些細なこと。しかし、仕事の場面でその感覚がマイナスに作用すると判断すれば、私はその想いを伏せてニュートラルに世間一般の評価をしている人になる。この変わり身の術、非常に不本意ではあるが、その場面で自分の感覚を鋭利に尖らせる必要はないと考えています。尖らせなければならない部分を使うのはあくまでもデザインの仕事だからです。

 このように日常の些細な出来事や場面で感じる「ズレ」は、自分の未熟で足りない部分を明確に分からせてくれるという利点もある。

 そのグループの魅力を私は感じられないほど正真正銘の「おっさんなのだ」とか、これがカッコイイと感じられないのはただの食わず嫌いで、ちょっと色眼鏡を外せば魅力が見えてくるのかもしれないという、リセットする機会だと捉える利点です。若い頃なら、未熟者やビギナーだからと許されたことでも、この年齢(51歳)になればそれは常識として許されないゾーン。そもそも常識への理解がズレていたからこんなタイミングでこんなブログを書いているのですから、それでも、こんな私でもリセットできる体勢・コンディションにしておくことは大切だと考えている。理論・理屈で社会から孤立するよりは、ズレている本質をひきずりながら飽くなき「世渡り上手」でいたい。

 デジタルツール(ソフトやデバイス)をデザインの仕事で活用するようになって、得したことは技術レベルが低くともツールが補正してくれる点である。アナログツールを活用していれば、スキルが足りないと「ゆがみ」「ねじれ」「ズレ」が生じるが、デジタルツールでは完璧に補正してくれる。シフトキーさえ押していれば、垂直・水平が狂うことはない。しかし、それゆえに、意図的な「ゆがみ」「ねじれ」「ズレ」を生み出しにくくなってしまう。これは常識では「良いこと」なのだが、ズレている人間からすれば、意図的に「ゆがませたい」「捻りたい」「ズラしたい」という気持ちまで、矯正されているようでストレスなのです。

 私はこの意識をデザインの仕事で必要なバッファ(余裕)だと捉えているが、常識では「水平・垂直が美しい」、その根拠は「安定していることを美しいと人は感じるから」という理屈で片付け、その先、その裏、その下にある「不安定な美しさ」「歪な美しさ」「0.1%の美意識」を受け入れない人も多い。

 とても正確で物理的で緻密なお話をすれば、デジタルツールで制作したコンテンツを印刷した場合、刷版も印刷用紙も湿度や気温で微妙に歪んで伸縮している。350dpiで印刷した場合の4版(CMYK)の版は網点の集合であり、それぞれの4版はそれぞれの法則で角度が意図的にズラしてある。だから、美しい印刷物が仕上がるのです。

 また、モニターについても、それぞれの解像度があり、昨今の4K・5K画像でさえ、どんなに徹底的にカラーマネージメントを管理しても、見る視点や角度、部屋のライトの種類、日光との兼ね合いで同じ状態で再現は不可能なのです。まして、人間の網膜は血流と視神経の新陳代謝の影響で、時間毎に変化している。視神経と言われているぐらいだから、感情やその日の気分や体調でも毛細血管は伸縮し微妙に変化している。変化すれば当然、色の認識・認知にズレが生じている。

 でも、理論・理屈ですべてを片付ける人は「ズレ禁止」で満足できる幸福者なのです。ある意味、それが正常なのかもしれませんし、原理や仕組みを知り過ぎない方が低いレベルでいられ、満足の度合いが相対的に高く多くなる利点もあります。闇雲に過剰に追求し探求しても、常に正解は形を変えているのだから目や耳や心を背けて伏せている方が楽チン。

 ただ、ズレていると、私のように「メンドクサイ人」になってまうので、この長文、最後まで読んだ人には大変申し訳ないですが、人は結果、素直で素朴な方が幸福を手に入れるチャンスは多いと思います。最後までズレズレのブログでした。ゴメンナサイ。

素敵なアイテムなんだけど。

 素敵なアイテムなんだけど、ちょっとお値段が高い。¥3,980(税別)なら買うのですが。

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 デザインも良いし、アイディアもある、素材感も申し分なしなのですが、お値段設定がちょっと高めです。「デザインとセンス」って商品選びの「決め手」のようで、やはり、「お値段」が優先。誰かが市場の相場価格帯を操作しているわけでもなく、原価、開発コスト、制作コストから「お値段」は算出されているはずですから、「お値段」が価値の実態なのです。実は。

 「デザインとセンス」も「手間」だと捉えると、開発・制作に費やした「時間」と「お値段」の関係性が商品価値を生み出す公式となる。この単純な公式に個人の「好み(主観)」が入り混じり、市場の相場価格帯が決まるという仕組み。

 素敵なアイテムなんだけど、ちょっとこのお値段では私は手が出ない。

→詳しくはこちら

翻訳か。

 「翻訳」か。

 僕の文章は何故?乱雑なのかとずっと考えてきました。考えてきたというよりも、悩んできました。話をするように書けないのは、何故?と。

 例えば、デザインの仕事で打ち合わせをする。チラシを制作するために、内容や主旨の説明をお客様に聞いた上で、いろいろ質問をします。内容や主旨について知らない分野であれば、予め予備知識も用意していきますが、それらは一般教養レベルでお客様との打ち合わせの潤滑油程度。お客様から聞く情報や資料を確認して、始めて充分な情報を得ることができるのです。その際、原稿と合わせて大切なのが情報の「優先順位」です。

 多くの情報の中から優先順位を確認しなければ、レイアウト(紙面づくり)において、的を得たデザインにならないからです。重要な情報を軸に他の情報と合わせて、優先順位を確認することで、紙面づくりの設計が円滑になり、さらに、強調する部分や印象的なデザイン処理を施す部分が明確になります。

 当然、原稿と合わせて、説明を聞く中で、「イメージ」についての情報交換もします。具体的なテーマやモチーフなどについても、その場でしっかり質問しておく必要があります。特に商品の魅力を訴求する上で、この「イメージ」をしっかりお客様と共有する必要があるのです。

 そこで、「原稿」・「イメージ」がチラシの材料として適正かを頭の中で整理するのですが、ここで、言葉をイメージに変換したり、逆にイメージを言葉に変換する作業を行います。長年、この作業を繰り返してきましたから、変換作業など朝飯前だと高をくくっていました。変換する際、自分の中の基準にそれなりの自信があったからです。それは過去の経験値や他者からの評価をベースに積み上げた価値基準であり判断テクニックだったのです。しかし、最近、それが大きく揺らぎました。積み上げたブロックが地震で崩れた感覚です。

 この「揺れ」はけっこう根本的な「崩れ」になりました。

 その地震の後、再構築の兆しが見えたきっかけがある書籍の中の言葉でした。

 「話言葉(思考)を書き言葉(文章)に翻訳する。」というアドバイスでした。

 これまでそのような感覚が今まで皆無だったため、大きな鱗が落ちた気分でした。まだ、気づきだけで、具体的に翻訳技術を習得できたわけではりませんが、この気づきが仕事にどう作用するのかとても期待しています。犬も歩けば棒にあたるのです。ありがたいありがたい。これを機会に揺れに強い耐震性を獲得したいものです。

おめでとう!チーム「バンド」。

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 大学1回生の頃、私自身はどんなことを考えて、何をしていたのだろう?

 教える立場がこれほども苦しく楽しいのかという実感と共に、皆様の表彰風景を見ていました。他のチームの皆様に対しても、伝えきれなかった事がたくさんあります。そして、私のアドバイスや技術的なサポートが適正だったのかという自問も多く残っています。

 このような素晴らしい場所で、成果を生み出した人ゆえの評価の風表に立ち、皆様が得た達成感と反省材料を必ず次の行動に繋げてください。そんな総評を言いながら、私の頭の中には大学1回生の自分がいました。教育者ではない私がどのような視点から、自分自身の経験値を平易に伝えられるのか、この1点に集中した全15回の講義と実習でした。6年目、達成感には程遠い反省材料ばかりが、実は残っています。

 「行動から成果を生み出し思考する。」「この良い循環を繰り返してください。」と皆様に伝えながら、その言葉は自分自身の中でこだましている感覚でした。

 「教えることは学ぶこと」なんだと、今回も6回目の総評を述べさせていただきながら、実感しています。今回も非常に多くの良い「気づき」を得ることができた、長浜バイオ大学「魅力発見発信プロジェクト」でした。皆様、お疲れ様でした。

オハイオ。

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 オハイオってここなのか。

糸の切れた凧。

 とにかく、糸(意図)の切れた凧は大空高く舞い上がる。

 僕は何事も出発地点の志しや狙いをすぐに忘れ暴走・迷走してしまう傾向が強い。悪癖であることは頭で理解していても、体は舞い上がる。いつも心に「初志貫徹」の四文字を掲げながら、その旗を掲げなら暴走してしまうのです。しかし、この年齢になり、何故?「目的が手段」に置き換わる瞬間に気づかないのか?「良かれ」と信じて試行錯誤を繰り返し、探究心だ!挑戦だ!と自分の心を高揚させながら、実はそんなのただの「空元気」であり「虚栄」だった実感。だから、凧はどこまで舞い上がるのです。

 風を受けて舞い上がるにしても、誰かがその糸をしっかり握っていてくれないと凧ではなく、ただのゴミ(浮遊物)です。その誰かこそが実は僕(人間)の一番大切な存在なのです。仮にその誰かを「親友」と呼ぶのなら、幸運にも僕にはその親友が3名いてくれる。いずれも昭和39年生まれの3匹の龍です。ほんとにありがたい存在。そんなことを実感する時、僕も誰かの「糸を握る誰か」であったらいいなぁと思います。

 いつもいつもキレのいい一刀両断をありがとう。

人脈硬化。

 企業組織に属していると「動脈硬化」ならぬ「人脈硬化」を発生しやすくなるらしい。

 インターネット(SNS)がその処方箋になると一見、捉えられがちだが、デジタルデータに対して人間の扁桃核(脳の一部)は情報源として捉えることができないという実験データがあり、どれだけ「世界と繋がてっています」という類の情報を文字やイメージで捉えようが、脳はそんなに単純な構造でははく、有益な情報とは認識しないらしい。結果、SNSの活況は「時間と通話料金の浪費」を生み、おいしいのはスマホメーカーと通信会社という構図があるとその報告者は警告している。まぁ、そこまで極端に神経質に捉えずとも、「誰かが便利だ」という言葉に倣うのは、「絆」を強くすると捉えられなくない側面もあるので、「信じるものは強し」と解釈も一理ある。しかし、情報源として、有益な情報として脳が反応していない以上、有益なネットワークではなく、実は「血管内の脂肪」を蓄積しているだけになっているとしたらネット情報に対して警戒する視点も必要かなと捉えています。そうなれば、企業組織に属している人だけが「人脈硬化」の対象ではなくなるのだから、やはり、健康管理は自己責任において、世の中の一見強そうな規範や通念を疑うこと(柔軟体操)から始めるべきなのです。

 さて、人脈が硬化するとどういう症状があるのでしょう?コミュニケーションが硬化しているということは、血液同様、円滑に潤滑に酸素が筋肉や臓器に行き渡らないという結果を招き、当然、諸機能が低下する。引いては壊死を免れない。これを人脈に適用すると、自分の存在価値や特質をいくらネットで言葉を重ね訴求しても伝わっていないことになる。結果、ギコチナイ関係が生まれ、健全なコミュニケーションが壊死し、「絆」だと信じていたモノが「脂肪」だったと知ることになりかねない。そして、いつしか孤立するという展開です。すでに、メディアの中で認知度の高い、つまり、メディアという山でわずかながら高い位置にいる人ならば、重力が作用し、勝手に情報は下がっていくが、フラットな平地の関係ならば、お互いの情報発信に重力が作用すれば、情報は当然下がる。この「メディアという山」の存在があればこそ、インターネットは有効なツールとして機能しているのだから、重力と自分の位置関係(あくまでもメディアの山のみのお話)を見誤ることは避けたい。

 「人脈硬化」は「勤力(筋力)低下」も誘発するらしいので、注意が必要です。

良いのか悪いのか?

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 「人相が悪い」「目つきが悪い」とよく人から言われる。しかし、本人はいたってフラット、むしろ、悪意などさらさらない状態にもかかわらず、外見でよく「キツイ」「キビシイソウ」「怒っている」という印象を指摘されます。あながち本質の部分も、全体的に比較すればその傾向になのかなと反省・後悔しつつも、なかなか、本質を変えるのは難しいと捉えています。

 先日、風呂上りにテレビを観ていると、カミさんが笑いながらツイッターで発見した上記の写真を私に見せた。何故、笑っているのか尋ねると、この犬の写真に今のテレビを見ていた表情がそっくりだと言う。人の表情を犬に例えるのはいかなものかと感じつつ、改めてこの目つきの悪いハスキーの表情を見ると、まぁ、確かに目つきは悪いが、個人的にカッコイイという捉え方もできなくはないと感じた。

 さて、この犬の表情に例えられた人間本人としては、「良し」なのか「悪し」なのか解釈に迷う。

進化する「いいね」。

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 よくある「いいね機能」がグラフィカルに進化するらしい。これらがそのランクをグラフィックボタンで差別化させているとのこと。言葉の限界を絵がイメージが超えたという捉えています。楽しい取り組みです。

思考力と論理力。

 普段、何気に使っている「思考力と論理力」という言葉。「仕事が忙しくて思考力が低下する。」や、「状況が複雑すぎて私の論理力では対応できません。」などの場面で使われます。面と向かって思考力や論理力が弱いとか安易に言葉にしてしまうと「お前は何様なんだ!」「お前の思考力はさぞ素晴らしいのだろうが、」などとコミュニケーションが破綻してしまいますから注意。例えそう心で思ったとしてもあまり言葉にしない方が無難でもあるデリケートなゾーンです。

 逆に相手からの大切な質問や状況説明をうわの空で聞いてしまい、十分に理解できず曖昧で無気力な返事を返してから、「ヤバイ!いい加減な返答をしてしまった!」「恐らく、今の返信に失望しているだろうなぁ、なんとか挽回せねば!」などと後手に回るケースもしばしば。しかし、そもそも「思考力と論理力」ってどうして鍛えればいいのか、いや、それ以前に「思考力と論理力」ってどんな「能力」なのか?という疑問に最近、ぶちあたった。

 その言葉を学校で習ってからすでに確実に30年以上経過しているわけですが、さて、「思考力」とは具体的にどんな能力なのだろう?「論理力」とはどういうケースで機能・作用しているのだろう?という疑問に対して自問したところ、曖昧で抽象的な結論・解答しか出てこなかったことに愕然とした。

 日頃から会話で普通に使ったり、企画書の資料作成には使っている言葉なのに。そこで、自分自身の「思考力」と「論理力」をテストしようとある問題集を購入した。その中の問題を一部紹介します。「思考力」と「論理力」の問題です。

 いずれも2分以内に正解が出れば、IQ(知能指数)は130以上ということでした。まぁ、時間制限はテスト問題ゆえの制約ということで気にせず、挑戦してみました。結果、2分ぐらいはかかってしまいましたから、IQの基準から言えば130に少し足りないという結果でした。ちなみにIQ100が絶対的な平均値であり130という数値は平均値りも30%高いゾーンだということ。勿論、年齢差があるのですが、「IQ=130の人口は全人類の0.5%程度」という検索結果もありました。しかし、IQは学力とは違う能力なので、あまり気にしなくてもいいと言うものの、テスト問題に登場してきた基準だけに、モチベーションの根拠にはなりました。

 さて、問題はこうです。問題集から抜粋します。

 まず、「思考力テスト」です。

 ここに二つの砂時計があります。ひとつは7分用、もうひとつは11分用です。この二つを使って27分を計ってください。

 という問題でした。

 二つ目、「論理力テスト」はこんな問題でした。

 「二人のうそつきは誰だ?」という問題で、下記の6名の言葉から犯人を推理する問題です。条件として二人の犯人は嘘をついている。それ以外の4名のうち2名はいいかげんなことをいう調子者で嘘も本当も適当に言っている。そして、残りの2名は本当のことを言っているという前提です。6名の言葉から犯人を推理してくださいという問題でした。

サナエ 「私かマサトのどちらかが犯人ということね」

カズキ 「ボクは犯人だ。だから知っている!ショウは犯人じゃないんだ」

マナ  「カズキは犯人だわ」

ユイ  「犯人は男女1人ずつよ!」

ショウ 「ユイは犯人じゃない」

マサト 「ボクが犯人だとしたらユイも犯人ということになってしまよ」

さて、誰と誰が犯人でしょう?

 しかし、気まぐれにコンビニで買った¥580の本でこれでだけ楽しめるのですから、魅力的で有益な書籍を企画して商品として制作するって大変な作業だと思います。

 正解よりも、この問題を解きながら「思考力」と「論理力」を再認識し実感できたことにとても価値を感じました。

初心者になろう。今年こそ。

 「初心者になろう。今年こそ。」

 このフレーズはグーグルからのメッセージなのですが、とても心に響きました。どう響いたのかについてですが、このメッセージを生み出したつくり手、ライターなのかデザイナーなのかエンジニアなのかは分かりませんが、「今年こそ、新しいことに挑戦しよう!」ではなく、「初心者」という主人公設定がにくい、そして、旨い。じんわりとまったりと共感してしまいました。

 何かに挑戦する以上、かならず、最初は皆初心者ですから、その時のワクワク・ドキドキを忘れることなく、挑戦・探求し続けている方から生み出されたメッセージだと捉えました。小さな達成を繰り返したり、大きな偉業を達成したりすると、まわりからの高い評価を一回でも受け、人間誰しも、プライドが生まれます。そのプライドは努力や試行錯誤の結果であり、挑戦したことの証なのですが、一回生まれたプライドは挑戦意欲や探究心の活性化を抑制するデメリットもあるようです。知性・知識があるゆえの理論・理屈が行動を鈍化・退化させるというパターンです。

 私の場合、長年(28年)、デザインの仕事に取り組んできましたから、成功も失敗も多種多様です。失敗した時は後悔や反省を繰り返し、次の行動への活力に変換しやすし反面、達成感や成功体験はどうしてもその余韻に浸ってしまい、次の行動への躊躇を誘発します。年齢を重ねるごとにこの傾向は強くなり、体力・気力の老化に同期して、いつのまにか躊躇の塊になる。当然、新しいことへの挑戦もなく、まして、「初心者になる。」という気概は不必要だと判断してしまうのです。経験値があればあるほど挑戦や変化が煩わしくなるのでしょう。私のような年齢(51歳)に対して、そういう気持ちを根底から奮起させてくれる素晴らしいメッセーだと感じました。

 やっぱ、Googleはただ、考えているだけじゃなく、行動(発信)し続けている素敵な企業です。

十三の街並み

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 昨年の暮れ、十三のクライアントさんで打ち合わせをするため、阪急の十三駅で降り、徒歩で本社までいく途中に撮影した街並みの写真です。以前、上海に仕事で行った時、この風景に似た街並みを見た。その時の記憶がふっと蘇り、懐かしさを感じて撮影しました。現代、日本の街並みは千差万別・多種多様です。その時代時代にいろいろな家のコンセプトがあり、建築手法も様々な変遷を経て、結果、現代の日本にの街並みには多様な佇まいがあり、同様に様々なライフスタイルが混在していると思います。人間の身なり・風体・ふるまいにもその作用あり、それらは社会全体の潮流だとも言えます。トレンド・流行について、私のようなデザインの仕事をしている人間は敏感にならなければならないのですが、こと「衣食住」に無頓着なため、恐らくその影響がデザインの仕事にも少なからず作用しているのでしょう。改めてこの街並みの写真を見ながらそんなことを考えています。

 以前、ある女性クリエーターに「スギノさんはなんとなく日本人らしくない」と言われたことがある。その時、その言葉を深く考えることもなく、気にもとめていなかったが、自身の中にある思考パターンや知識・経験値・趣味趣向の一枚裏にある気質が作用し、その類の言動や振る舞いやモノゴシとして露呈した結果なのでしょう。その評価が良いのか悪いのか?有益なのか無益なのか、自身は判断できませんが、「日本人なのに日本人らしくない」という評価をどう捉えるべきなのかと、それからよく考えるようになりました。

 脳の思考パターンには「左脳タイプ」と「右脳タイプ」があり、それぞれ別の思考パターンがあるという情報をよく書籍で読みますが、最近読んだ書籍の仮説には「上層」と「下層」があり、上層からは理性の信号が出ていて、下層からは本能の信号が出ていると書かれていました。五感からの情報をこの二つの層からの信号で判断し、有益無益・趣味趣向・正誤に分けて思考を整理しているらしい。デザインの仕事は創造的な思考が主軸だと捉えているので、自身、「右脳・下層連携型」なのだと分析しています。しかし、そう考える反面、自由奔放な衝動・情動・着想でさえ、上層からの理性信号にほどよく抑制され、微妙なバランス感覚を維持しようとする作用があるのです。致命的な判断を下すことなく、安定した仕事を展開できているということは、思考と行動をしっかり二極で捉えることができているのだと捉えています。絵や写真でもシンメトリーな構図に人間は「安定感」を感じるというセオリーがありますが、その傾向も無意識に二極的に捉えた脳からの信号の作用なのでしょう。

 常日頃、「攻撃は最大の防御だ」と自分に命じ貪欲に探求しつつ、実は「防御」前提の「攻撃」となり、自分が思っているほど「思い切った思考や行動」になっていないのかもしれません。「ブレーキ」と「アクセル」の制御で捉えれば、典型的な「安全運転」なのかもしれません。

異能であれ。

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 つくり手である以上、いい仕事がしたい。この想いはデザインの仕事に従事する前から自分の中にありました。それは自己意識であり自我と呼ばれているゾーンの中。言葉にすればそのゾーンを「気質」「気性」「本質」と呼べるのだと思います。

 たとえば、医師ならば「病気の人を健康にしたい」「健康を害している人がいれば知識と技術で問題を解消したい」という本質が仕事に作用して、健康を害している人を治療することが成果。ラーメン屋さんならば、自分の味覚を研ぎ澄まし、素材や調理方法への研究・探求・追求を重ね、お客様から「美味い!」という評価を得るために精進する。これが「いい仕事」を生み出す誠実な動機です。この本質がなんらかの原因で濁ったり低下すれば当然、必然的に「いい仕事」を生み出すことは難しくなる。48歳頃からこんなこを考えるようになりました。特筆するまでもなく、当然のことであり、基本中の基本なのですが、意識を都度改めなければ、自分勝手で安易な手順に陥ることが私の場合、非常に多く、その結果、多くの失敗やトラブルを引き寄せてきた経験もこの再認識への動機になっているのです。真剣に誠実にデザインの仕事に向き合っているつもりでも、どこか違和感がある。「こんなはずではない」「もっと良いデザインができるはずなのに」「衝動・情動に任せた判断による不本意な成果、ダメだダメだ!」など、自分の不甲斐なさや力不足を嘆きながら、やはり、小手先のテクニックや中途半端なマネゴトで仕上げてしまう弱さ。世の中の声、他人の評価に過剰に警戒しなければならない度量の小ささ。慎重さ丁寧さを欠き、浮世の流れ(情報)に忙殺される緩さ。これらを一括払拭し、正しい成果を生み出せるようにと試行錯誤を繰り返しした2015年でした。そんな中、生産的で創造的な光陰が見えたとすれば、それは基本的な本質に立ち返り思考を整理することでした。

 具体的には「自分がどんな人間で、何を本質的に求めているのか?」という自己分析・自己評価です。その分析と評価に対して3つドアがあります。

 ひとつ目は、「日本語を正しく捉え、正しく書き出す」ことです。

 デザインの仕事では、絵的な表現やバランスが優先される傾向にあり、本来、絵的(イメージ)な表現と言葉(文字・文章)の組み合わせで成立させないといけないのがデザインの仕事であるにもかかわらず、絵的な表現に偏向するのです。特に私自身、美術的な素養が強いため、デザインの仕事においても絵的な解釈、絵的な思考、絵的な表現に依存し、言葉を疎かにする傾向がありました。常にどこかでその違和感を感じつつも、自分は絵的なアプローチさえしていれば、絵的な表現に特化していればデザインの仕事を成立させることができるという奢りがあったのです。28年間のデザインの仕事の様々な場面をしっかり振り返ると、その悪癖が成果を低下・鈍化させていたと気づきました。日本語を疎かにしてきた結果、表現としての自分の言葉が淀み濁る以前に、書籍や資料を読み取り、自分の中に入れる場面でもその悪影響があったのです。つまり、その影響はしっかり文章を読んで理解していないという緩さに繋がるのです。長年のデザインの仕事のスタイルやルーティーン(仕事の進め方)にこの中途半端な奢りがあったために、本来、イメージと言葉をバランス良く調和させなければいけないのがデザインの仕事であるにもかかわらず、偏った思考から生まれる偏った行動(制作)の蓄積・連続だったのです。それを強く意識できた機会は中国(上海)の仕事でした。上海のクリエーターと仕事をしながら、改めて自分の日本語力の低さを痛感したのです。しかし、自身の日本語力の弱さに気づき、日本語力を充実させたい高めたいと決意しても、インスタントな小手先の探求ではこれまでのワンパターンの繰り返しです。この年齢(51歳)になってそのことに気がつけたことはとても幸運だったにせよ、日本語に正しく真摯に向き合い、適正な能力レベルに到達するには、諦めず時間を十分にかけてじっくり誠実に正対することしかなかったのです。近道はないのです。そして、自分なりに日本語に正対し3年間、鱗はすべてはげ落ち、ようやく鮮度の高い鉱脈にたどり着き、小さな芽を少しづつ実感できるようになりました。でも、まだ幼体の状態ですから、しっかり育てていく必要があります。

 日本人として生まれた以上、日本語の意味や意義を適正に捉え、仕事に活用できるようにすること。地味でタフな取り組みですが、実は情報化が進化するこの現代だからこそ、最も大切なことなのだと捉えています。

 二つ目は「つくり手」として仕事を展開する以上、「手」が生み出すモノにとことんこだわるということです。デジタルツールの進化は今年もさらに加速するでしょう。より便利により多機能になる反面、私の「手」はどんどん退化しているような気がしています。当然、身体機能や筋肉・感覚の退化・老化は止められないでしょうが、デジタル全盛時代だからこそ、「自分の手」が何を生み出せるのか?を様々な仕事の場面で問いながら、こだわる姿勢を貫くことが重要だと捉えています。

 そして、三つ目は「五感」です。古今東西のあらゆる情報の中に存在している(生きている)一人の人間である以上、情報は2つのゾーンに分かれます。ひとつは「自分の内側」です。それは物理的な身体の内側であり、「脳」「心」「魂」と呼んでいるゾーンです。そしてもうひとつはその外側のすべてのゾーンです。日常生活領域からインターネットを介して世界の領域。過去から蓄積された、あらゆる歴史や文化の万象・万物らがすべて「自分の外側」です。この二つのゾーンを情報が行き来させ交換・変換させる機能は「五感」しかありません。ここの機能・能力・精度次第で、外側からインプットされる情報も、内側からアウトプットされる情報も大きな作用・影響を受けるということです。視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚に意識を集中し、外側から内側へ、内側から外側へより適正な信号を生み出したい。これが三つ目のドアです。

 その上で、それらを包括した上で、「つくり手として、異能であれ。」という言葉を年賀状に記しました。異能とは「異才」です。常に適正な「共鳴と孤立」の振幅を繰り返し、自分の中の「異能」を高めていきたいという狙いを2016年に明記しました。

 さて、今、この時からそのスイッチを入れるわけです。この年末、どんな成果を生み出せているかが非常に楽しみなのです。

2015年。

 2015年を振り返るといろいろな出来事がありました。結果、実感としてあるのは「早かった」という感覚で、年齢を重ねるごとにこの速度が加速していく感覚です。仕事上の致命的なトラブルが無かったことが「加速感」に直接連動しているわけで、そういう視点ではとても満足しています。一部、想定通りに成果を上げられなかった案件もありますが、これはすべて私の「力不足」が原因ですし、年頭にたてた目標も実現できなかったことなどを総括すると、自身の努力量や熱意量も不足ぎみ、足りなかったということになります。ここを2016年はなんとか奮起して変化し進化しなければならないと思っています。そんな「力不足」という観点でいくつか今年、特に印象的だったことを最後にブログに綴ろうを思っています。

 「禁煙」

 芸大生の頃から私の喫煙は始まり、51歳になる現在まで唯一禁煙したのは、4年前の健康診断で肺のレントゲン写真に白い影が写っていた時でした。その後、再検査を受けるまでの1ヶ月間、さすがにタバコは断ちました。しかし、その影がろっ骨の石灰化、つまり、老化現状のひとつで骨が石灰化し、ちょうど肺の裏側のろっ骨の部分が石灰化していたために、レントゲンで白い影になっていたということなのでした。その診断を担当医から頂き、私の短い禁煙が終わりました。しかし、本年、友人と伊吹山に登った時、毎晩マラソンのためにトレーニングをしている友人(同年)が私の「ぜいぜい感(悲壮感)」を見て、「禁煙したらもっと楽に登れるよ」と誠実なアドバイスをくれました。山登りを楽しむため、一年に一回の富士山登山を楽しく達成するために、あと2ヶ月間、禁煙しようとその言葉で決意しました。これまで「禁煙意識」が皆無だった私でしたが、友人の言葉に対して即決でした。

 結果、いわゆる禁煙の禁断症状もなく、その時のタバコの箱はそのまま富士山に持っていき、五合目まで下山した段階で迷わず一服しました。禁煙期間中、いろいろ調べてみると3日間喫煙しなければ、正常な身体ならば100%ニコチンは抜け、禁煙を1週間続ければニコチンによる気管や肺胞の充血は正常値に戻るらしく、確かに禁煙してイライラするのかと思いきや、逆にイライラしなくなった実感があり、たまには禁煙もいいのかなとさえ実感したほどでした。結論、私は禁煙するつもりはないのですが、定期的に2~3ヶ月の禁煙も気分転換にいいかなという新しい発見がありました。若くないのだから健康には繊細にならなければなりませんが、断固として禁煙するつもりもありませんし、健康だから喫煙できるわけで、ひと箱¥1,000ぐらいになるまで喫煙は続くと思っています。そんな意外で貴重な禁煙経験でした。

 「100m」

 私の高校生の時のベストは11.4なのですが、ふと、51歳という年齢になり、何か身近なスポーツでタイムを計測でき、世間一般の平均的タイムと比較してみたいという気持ちになりました。マラソンブームには興味がありませんし、気軽にどこでもでき、タイムを計測できる競技となれば、「100m走」しか思い浮かばず、1週間ほど夜に走り、そのまま近くの競技場で陸上部の娘にタイムを計測してもらいました。カミさんは「その年齢で100m走れるだけで十分だ」などと暖かい言葉をかけてくれましたが、結果、17秒を切ることができませんでした。そこから、自分なりに練習を開始しました。そして、世の中の50歳はどれぐらいのタイムで走るかという興味が湧きました。ある陸上トレーナーのブログを読むと、15秒台で普通(この普通も経験者の中でという意味)で、14秒台なら早い方でしょう。とのことでした。ならば、なんとか14秒台でと今日まで頑張ってきました。で、この正月休みは、その成果を再度、競技場で計測しようと思っています。実際、その後、何回かコースで練習してきたのですが、タイムは計測していません。感覚として足が上がらないことは当然なのですが、それよりも、愕然としたことは、両腕を早く振れないという実感でした。こんなに自分の腕が重いとはショックだったのです。その実感から毎日、仕事の合間に100回全力で両手を振る練習を数回づつしています。身体も絞れて(62kg)きたし、仕事でちょっと駆け足をする時も身体は以前より格段に軽くなっています。14秒台が出せそうな予感があると共に、「100mを走ろう」と思い立ち、これまで毎日やってきたことが多面的に健康にいい影響・作業を及ぼしているという実感があります。来年こそは目標タイム(14秒)をさらに短くして、公式な記録会に参戦したいと思っています。

 「ゴルフ」

 今年(12月)、カミさんと初めて本コースに行った。勿論、行っただけでなくいっしょにラウンドをしました。あまり、スポーツに積極的ではなく、どちらかと言えばネガティブなタイプだけに、かなり強引に誘って、まず、道具を揃えてから練習開始となったのが今年の10月頃です。勿論、全くの0(ゼロ)スタートだったので、クラブの種類・特徴の知識からゴルフコースの説明やマナー、競技上のルール・モラルまで、とりあえず基本の基本からのスタートでした。私は27歳で本コースを経験して25年ほどゴルフをやっています。しかし、「やっています」などと言いながらも一番多かった年で年間4回のラウンドが最高。勿論、腰痛などもあり1回もラウンドしなかった年もある程度の一般ゴルフ人です。スクールにも行った経験もなければ、誰か専門のコーチに短期間でも指導をされた経験もありません。我流で雑誌や書籍、そして、ゴルフ仲間との情報交換レベルで習得した程度。その程度で0(ゼロ)スタートのカミさんに何が教えられるか?と誘ったもののと心配していましたが、そこは改めて何をどのような手順で説明し実践練習に展開していくかを、自分なりの「教え方」を設計してひとつひとつ丁寧に説明していきました。

 この「丁寧さ」というのが、私は苦手中の苦手。合わせて「慎重」「沈着冷静」「大らかさ」とは無縁の気質なので、この気質では絶対にカミさんにゴルフの基本を伝えることができないだろうと、いつもの気質や気性を限りなく低いレベルに抑え、衝動を抑制する努力に取り組みながら、いっしょに練習しショートコースに行き丁寧にレクチャーし本番を迎えました。スコアについては本人の人格を尊重してここでは披露しませんが、結果、本人から「楽しかった」という言葉があり、「次のラウンドまでのドライバーを練習する!」などと前向きの言葉も聞けて、人に何かの基本を教えて実践させるということの難しさと達成感を堪能・満喫しました。とてもこんな事ではありますが、刺激的な経験でした。

 「熱意」

 そもそも、熱意はどこから生まれるのだろうか?という疑問がひらめきました。「熱意」と言っても、「良い熱意」と「悪い熱意」があり、方向性が間違っていたり、誠実・実直さが濁り淀めば、「熱意」は暴走して有益な成果は生まれない。そんなことがひらいめいたのは恐らく「松岡修造さん」の存在をテレビで見て感じたのです。しかも、その書籍は飛ぶように売れている。あの気性、あのポテンシャル、あの個性。今、時代が求めている、国民が求めているのはこのタイプなんだという気持ちが、「正しい熱意」について考えてみる機会になったのだと思います。

 さて、そこでまずは自己分析です。私本人は熱いのか?という捉え方(基準の確認、大前提の確認です。)です。仮に比較的熱いとしてその熱さのタイプは「順回転なのか?」「上昇傾向なのか?」「生産的なのか?」、いや、「めんどくさいのか?」「ウザイのか?」「無粋なのか?」という自己分析です。この解答を求めている人は、この世の中に意外と多くように感じます。いわゆるコンサルタント業の人達は有料でそれらしき解答を売っているわけて生計をたてている。言葉や数値や理論や現実の中から明確な事実だけを精査すれば、それだけで正解にたどり着けると私は考えていないので、当然、コンサルタントも臨床心理医の表面的な言葉は信じません。親しい友人や近しい人でさえ、そこに切り込んでくださるなかなかいません。ただ、あのテレビで見る修造松岡のテンションの裏にある何かを、なんらかの手法で習得できればなどと感じたのです。実際にそれは不可能だとしても、何か自分の手が届くゾーンの中の思考力と行動力で「誠実で順回転の熱意」の生み出し方を体得・習得したいと思って、それから試行錯誤を繰り返しています。そこで、現在、有効だと考えているひとつのアプローチが「熱意を生み出せる人」=「健康な身体機能のある人」という関係性・仕組みです。つまり、酸素であれ、食事(栄養素)であれ、アドバイス(言葉)であれ、ツールであれ、機会であれ、理論・理屈であれ、「健康な身体(心・精神)」がなければ、正しいエネルギーに変換はできないということです。健全で適正な仕組みがあり、原料さえあれば、熱意が行動を生み、「機会→着想→情報収集→設計→創造→完成→評価」の手順やノウハウとなる。このことが意識してさえいれば、正しい「思考」にたどり着けるという結論(仮設)に達しています。そして、最も重要なポイントはその「思考」こそが次の「行動」に円滑に切り替えることができる唯一の入口だと捉えています。この捉え方をさらに2016年はしっかりまとめ、自分なりの結論にたどり着き完成させたいと考えています。そこにこそ「いい仕事」を展開するための正しい熱意が生まれるゾーンがあると捉えています。

 「老化」

 今朝、紅白歌合戦の紅組と白組のエントリーを確認した。「ああ、聞きたいな」と思えるアーティストが「SUPERFLY」さんしかいなかった。勿論、他の歌手も名前だけは知っているし、若い歌手やグループの人達も知っているが、好きなアーティストは唯一「SUPERFLY」さんだけだった。これはもしや「老化」なのかと?世の中の大き流れからずれ始めているのだろうか?と感じた。

 今年、久しぶりに大阪城ホールでライブを楽しんだ。アーティストは「ONE OK ROCK」さんである。当然、若い世代が中心でこれが正に「今、日本一のライブ」だという実感を感じてきたわけです。しかし、人間、老化が始まると、いつも何かとの比較しかしなくなる。また、「こうあるべき」や「昔はこうだった」の連発が始まり、自分の気持ちが不在のまま、自由気ままな雄弁放浪記が始まる。理論や理屈に依存して、美しい言葉の方程式に酩酊してします。私はそんな人よりも、無粋で歪でも、感覚的で直感的な生命力のある言葉が好きです。まして、今、現実を一刀両断する刀も持っていない人にビジネスであれ人生であれ、良縁・好機が巡るはずがない。身体機能は老化・退化していく運命だとしても、人間の中身は常に変化・進化させていきたいです。何歳になっても映画「チャッピー」を見て、涙を流せる人間でありたい。まぁ、だから、「紅白歌合戦」はどうでもいいか。

 と、いろいろいつもの感じで自由に書き出してみましたが、2016年もこんな感じでこのブログ(備忘録)を綴っていきたいと思っています。さぁ、カウントダウンまで「ダウンタウン」を観よう。

イカロスの爪

 昨日、午後7時からの拡大版を経て「下町ロケット2~ガウディ計画~」のテレビドラマが完結した。ラストシーンの椎名社長のカットは必要だったかな?とも感じたが、終始、登場人物の生き生きとした様は書籍にはないディテールで、楽しいテレビドラマだった。特に阿部さんと吉川さんは素敵だった。ヒール役の人達も存分にその演技力で物語を締めており、近年、稀に見る秀逸なテレビドラマだったと思います。

 さて、原作「下町ロケット2」がここまで盛り上がったということは、当然、「下町ロケット3」の企画が進んでいることでしょう。その情報を取り立ててリサーチしていないし、一般人がその情報を知るルートはまずないでしょう。そこで、「auのCM予想」、「映画ボーンシリーズの予想」に続き、「下町ロケット3」の物語予想をしたいと思います。もう、現実的にどこかで「3」の構想は着々と進んでいるはずでしょう。

 テーマとして考えられるのは3つ。ひとつは「介護分野」だろう。しかし、「医療」が第2弾だっただけに、「介護」は近いからなし。二つ目は「東京オリンピック」。しかも、「パラリンピック」に関するテーマかなと推測を構築したが、このテーマもなんとなく違うような気がした。そこで私個人の鉱脈は「エネルギー事業」の分野である。原子力を外し、既製の発電事業を除外していくと、恐らく「シュールガス」あたりが有力なテーマになると推測しています。非常に直感的で曖昧な推測ですが、タイトルは「イカロスの爪」。地表なのか海底なのか設定は分かりませんが、地中に眠るエネルギーの開拓を展開している企業が登場し、掘削作業に関する工業機械の開発に関連する物語だと推測しています。

 そして、舞台はアメリカかカナダから始まり、現場の視察から物語がスタートするようなイメージです。なんの!根拠もない勝手で自由気ままな推測ですが、その掘削機械の名称が「イカロスの爪」。ガラパゴス諸島のイグアナが餌を求めて地表を離れ、海イグアナに進化したように、サボテンの花や崖の上に咲く植物を捕食するためにその爪を長く進化させたように、人間も新しいエネルギーの鉱脈を求めて爪を進化させるという設定です。本来ならばイカロスは「翼」ですが、あえて日本のエネルギー問題を掘る新しい飛躍の進化の技術のシンボルとして「爪」とする。

 さて、現実的にあるのかないのか現状では全く分かりませんが、「下町ロケット3~イカロスの爪~」が本屋にあったら痺れるだろうな。

フォーカスのフォース。

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 優秀な大学生(MIT)を対象にある集中力をテーマにした実験が行われた。彼ら彼女たちでさえ、集中力を維持できない障害に遭遇すると、そのパフォーマンスは40%に下がったらしい。人間が一度に知覚できる情報は、1900年代では約7つだったらしいが、現代では約4つに減っているという論文が発表されたらしい。なぜ3つも減ったのか?その理由のひとつはインターネット。情報満載・情報過多・情報飽和の時代、情報を目の前にして集中力が実は奪われているという状況があり、人間個体としての知覚できる情報が減ったのではないか?という仮説である。しかし、デベロッパー達は同時に私達は「集合知」をこのツールから得たことで、3つ以上の有益な情報を獲得できるようになっているとのこと。集中力と情報の知覚の適正なバランスは今後どう変化するのだろう。

3日間のチーム。

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 自分自身、何かを生み出すプロセスにおいて、「チーム」という意識が欠落していた。その部分を強く意識できた3日間だった。他の3名の皆様には中途半端な参加でご迷惑をおかけした。本当に申し訳なかった。もっと、仕事の段取りを整えてこの3日間に対峙するべきだったと反省しています。つまり、何事も一期一会。一時が万事。時間の使い方とはそういう仕組みなのです。

 帰路、そんなことを考えていると新しい大きな旗が目の前にはためいていた。諸行無常の鐘の音が一瞬聞こえたような気がしました。

少し松本伊代が。

 比較的、お気楽・楽天的な人も身勝手で利己的な人もねちっこい人も気にならない。恐らく自分自身がそういうタイプだから友の類だという捉え方なのでしょう。相反して、理論的で理屈ばかりこねる人も根暗で陰湿チックな人もスーパーネガティブな人も気にならない。気にならないというか気にしないという捉え方で、理屈にしても陰湿にしてもネガティブにしても、「ご自由に」という捉え方なので関わる関わらないに限らず、結局のところそのタイプは結果的に「どうでもいい人」だから、逆にどうすることもできなし、どうするつもりもないからスルーとなる。

 ただ、一番の私の天敵は「天然な人」。このタイプは濡れタオルで頚動脈をねじ上げても、手首を逆関節に締め上げても、応えない。テレビ的にはヒロミさんの奥様である松本伊代さんのようなタイプはどうにもこうにも手に負えない。ヒロミさんの場合、考え方やキャリアが突き抜けているし、達観しておられるから、「笑い」転換できるが、自分のこととして置き換えた身近な状況になると、これが辛い。勿論、人畜無害であることが前提なのですが、ノリとかテンポとか言葉のキャッチボールが成立しないので辛くなる。これが芸能人だから、天下の松本伊代だから、テレビのネタにもなるし、それでお金も稼げるわけだから、建設的であり生産的であり意義がある。しかし、普通の人で「松本伊代」が入っているとかなり辛い。決して、いいおっさんの「のろけ」ではないから、こうして備忘録(ブログ)に冷静に書き出しています。

 例えば、カミさんは低血圧で体温が比較的低い。夏もあまり汗をかないし、もう9月の中旬ぐらいから毛布を引っ張り出してくる。現在、11月ともなれば、毛布の上に羽毛布団2枚で寝ているのに、「寒い」と言う。とにかく低体温ぎみなのである。それに比べ、私は極端に体温が高い。というか新陳代謝が激しく、体温は普通なのですが、いつも身体がホカホカしている。汗もよくかくし、冬もちょっと身体を動かせば身体はすぐに暖かくなる。つまり、新陳代謝が良く運動j効率がいい身体なのです。適当に脂肪もついているから有酸素運動が活発なタイプのようです。

 先日、カミさんがぎっくり腰になり、整骨院に通っている。ようやくまともに普通に歩けるようになって、「やっぱり、整骨院は凄いわ!」と言う。「普通に歩けること、普通に座っていられること、何よりも普通が一番、健康が一番やわ」とやけに「普通」を連呼する。

 カミさんの普通はあくまでも「毛布1枚に羽毛布団2枚」。私の普通は「わた布団1枚」なので、私としては、ちょっとからかう感じで
「普通普通と言ってるけど、僕の体温と比べたら12度ぐらい違うからな」というと、「そうそう、お父さんの体温は高いから羨ましいわ!」と、「体温12度の差」についてはノータッチ。私の体温が仮に36.6度だとしたら、カミさんは24.6度なのだが、その部分はスルーする。私は「体温24.6度」ということは「あなたの「普通」は「死体」に限りなく近いのだから、「普通」が一番やわとか言っているけど、それはゾンビレベルですよ。」という意味で言ったつもりなのですが、そこは軽くスルーする。愛犬のおすわりぐらいスルーする。

 ああ、天然タイプは仕掛ければ仕掛けるほどこちらが締め上げられる。ただスルーすればいいだけのことなのだが、松本伊代タイプは計算・戦略を土返しにして天然モード全開で仕掛けてくる。それがスルーできない上、安易にこちらが仕掛けると、そこにはデカイ地雷がある。松本伊代は取り扱い方が実に難しい。あなたの近くにも「松本伊代」はいませんか?

50代の私でも。

 「50代の私でも本当に稼げますか?」

 「パソコン初心者の私でも稼げますか?」

 「本当に私でも稼げますか?」というキャッチコピーでパソコンのスキルアップ情報の案内がメルマガとして届いた。

 一概に「パソコンで稼ぐ」というニュアンスが具体的にどうなのか?までは、情報として明確ではなかったので、ある程度想像がつきますし、そこから深堀りはしなかったが、そもそも「パソコン」と「稼ぐ」という二つの要素をスキルアップで連動させるコツ・テクニック・ヒントは実際どの程度有効なのだろう?世の中にはデジタルツールも使わず、インターネットも活用せず、充分に稼いでいる人が多い。むしろ、すでに稼ぐ条件や稼ぐ状況、もしくは、たまたま稼ぐタイミング(機会)に出会えた人が、たまたまたパソコンを使えたケースの方が多いような気がします。世の中の仕組みや構造が仮に進化であれ退化であれ、稼ぐ人はパソコンスキルなどなくとも充分に稼いでいる。このキャッチコピーのようにリアルに率直に「50代の私でも」という少し卑下した低い自己評価のスタンスでモノゴトを捉えなければならない状況こそが、重要な問題である。

 最近、ハリウッドの映画を観ていると、どうもヒーロー達の敵が「宇宙人」から「人工頭脳」に切り替わっている傾向にある。ハリウッドの優秀なストーリーメーカー達がそう捉えている以上、世の中の思考は大きな作用・影響を受けるだろうし、影響を受けた人達が「人工頭脳」を敵対視し、いわゆるヒーロー的な存在が美化され敬われるという構図・仕組みが読み取れる。ヒーローは常に人間だからである。この前提は永遠に変化させることができない。市民の敵がショッカーだった時代はとても平和だったということである。毎週登場する悪者怪人がライダーキック一発で吹き飛ぶ単純明快な時代に戻れるなら、と考える50代も多いのではないだろうか。しかし、人間の最大の敵は「神」から「宇宙人」へ、「宇宙人」から「人工頭脳」に変化した。さて、50代の私はwhat do you do?となる。映画「スピード」に登場する犯人、デニス・ホッパーのように起爆スイッチに指をかけた状態で、パソコンが状況判断を迫ってくるかもしれない。さて、ジャックはこの状況をどう回避するべきなのだろう?恐らくこの状況で必要な判断力、パソコンのスキルとは無関係である。

うそ。

 うそは悪いのか良いのか?

 冴えないデトロイトの主人公がある娼婦に恋をした。男としてのけじめをつけるため、恋した女性のため、男は女性を開放するべく元締めに交渉に行く。相手は折り紙つきの暴挙。しかも、その暴挙には巨大なギャングファミリーがバックに付いている、という設定。結果、ファミリーの重要な商品を間違って持ち帰ってしまい、ハリウッドの親友をたずねるべく旅立つことになる。同じくデトロイトで警官を退職し駐車場の管理をしている父親を訪ね、自分が起こした事件の状況を確認するが、父親は破天荒な息子に手を差し伸べることができないまま、息子が恋した女性と共にハリウッドに旅立つ姿を見送る。

 その後、ファミリーの幹部、名うての乱暴者が父親が暮らすトレーラーハウスに現れる。

 当然、父親は息子の安全を思い、二人が訪ねてきたこと、ハリウッドに向かったことを隠す。しかし、その表情を洞察した幹部は拳銃をちらつかせ、「お前は今、うそをついた。俺は男がうそをつく時のパフォーマンスに熟知している。」と脅す。しかし、意を決して父親はその幹部にある物語を話し始める。ファミリーがシシリアの出身であることを知っている父親は、「シシリアンは黒人とのハーフだ」と言い切る。その侮辱を受けて幹部は怒りを超え、しばらくその父親の話しに耳を傾ける。父親はさらに語り始める。その昔、シシリア島にやってきた黒人が島の女性をレイプしその結果、生まれたのがお前達の子孫だという理論である。つまり、お前らのルーツはボケナスどもであり、お前らには黒人の血が流れているという論理だ。そして、父親は改めて幹部を問い詰める。部下達が狭いトレーラーハウスの中、拳銃を構えている状況でこう言う。「さぁ、俺は今、うそをついたか?見抜いてみろ?このボケナス」と。

 このシーンは「うそ」とは何か?何故?人はうそをつくのか?について真理を語っている。

 当然、幹部は父親に数発の弾丸を撃ち込みその場をあとにするが、父親はうそをつき、息子と恋した女性の安全を自分の命とひきかえに守ったのである。

 さて、うそは悪いのか?良いのか?何が真実で何が虚実なのか?常に正直者でありたいと願うが、状況次第で方便の利も有効だと捉えておくことは、必要なことだと思います。

クマノミ!

 クイズ番組が好きでよく観ます。

 芸能人のゴシップネタやグルメネタには飽きてしまい、特にグルメ番組などは、どれだけ巧みな芸能人のグルメトークを聞いて、銀座や渋谷のレストランを紹介されてもそんなところへ食べに行く機会などないからである。だから、テレビの情報を観て「美味しそうだな」などと感じることにさえ飽きてしまった。映像時代、仰天映像やペットの可愛い映像などもMCが巧みに番組として仕上げてはいるが、それにしてもどこかで見たような映像ばかり。ユーチューブの方が勝ち。テレビで配信する以上、ネット以上に制約が多いのだろうし、コメントをしている方の知識やキャラが映像とマッチしていなければ、結果、自分はテレビで何を見せられているのだろう?という疑問が先に立ち、チャンネルを変えることが多い。

 ドラマにしても半期で極端な山と谷がある(予算の関係?)ので、谷の時はほんとに冷え切っている。だから、気合の入っているテレビドラマが際立つという効果につながるのでしょうが、冷え切ったドラマはいつも主演を確認して秒殺となる。この半期クールでは「無痛」と「下町ロケット」は最後まで見ようと思っていますが、「シティーハンター」についてはどん底である。北条さんの作品は集英社で漫画の原版を見せてもらったあたり(大学生の頃)から、自身の中で別格の存在なので、テレビ番組にすることはテレビ局のいろいろな狙いもあってのことだから仕方なしとしても、ああなると辛い。

 さて、そんな一連のテレビ番組についての評価ですが、だから、どうしてもクイズ番組に落ち着く傾向にあります。東大・京大卒業、有名私大卒業の知的芸能人が登場してその知能を披露するクイズ番組も好きですし、東大生・有名私大の現役が登場して、とてつもない問題を秒殺で解答する様はリアルで圧倒されます。テレビ局側の問題を制作する方も1問あたり1万円ぐらいのコストをかけて問題を制作しているらしく、そんな問題をよく着想するなレベルの強烈な問題をひねり出さている。その解答者と製作者のせめぎ合いというか、バトル感がクイズ番組のリアリティーを高くキープしているように感じる。

 家族と一緒にテレビを見ていて、芸能人といっしょに考えるのは楽しいし、極端なバカが登場して、猿のような解答をするのも楽しい。東大・京大バトル的なノリのクイズ番組を見ていて、最終2名に絞り込まれた場面、こんな問題が出た。「火星で一番が高い山の名称は?」って!その知識はどこで何のために得たのか?というレベルの問題だが、決勝の二人は普通に正解していた。お前はグーグルか!また、その流れで、「富士山がすべて純金だったらその価格は?」という問題が出て仮説ではあるが、計算式は浮かんだが、底辺の数値が分からないし、形状も円すいではないからどうして体積を出すのだろうと考えていると、その二人はしっかり富士山の形状と底辺の数値を出して解答を導いていた。頭がいいというよりも、その知識・情報に対する貪欲さは素晴らしいと舌を巻く、という楽しさがクイズ番組にはある。

 先日も知的芸能人、宇治原さんや宮崎美子さんや石原良純さん、作家タレントなどが登場しているクイズ番組で、東大卒業の女子アナなどが排除され、上位7名ぐらいに絞られた段階で、その番組一番の盛り上がる場面があった。その後は順当に宇治原さんが適正な解答をして優勝したが、テレビ番組としてはこの7名に絞られた場面での伊集院さんの解答とそのスピードが会場を盛り上げた。

 その問題は写真問題で、世界遺産関連の問題だった。グレートバリアリーフという情報だけを共有しその問題がスタートした。「次の写真から関連する生物の名称を~」というナレーターの問題文に数秒遅れて、イクラのような卵が白い珊瑚の上に並んでいる写真が表示された。娘といっしょにテレビを観ていて、私は写真を見た瞬間に「クマノミ!」と答えた。その数秒後、伊集院さんが解答ボタンを押して、勢いよく「クマノミ!」と答え正解された。その後、上位のタレントから「ええ!伊集院さん、この写真だけでクマノミってよく分かりましたね!しかも、数秒ですよ!」などと賞賛のあめあられ。世界遺産、グレートバリアリーフ、珊瑚、魚の卵、あたりの連想で私はクマノミだと推測したが、伊集院さんも明確な根拠はなかったが、同じ連想でクマノミを連想されたとコメントしておられた。

 なかなか、娘も高校生になると、父親の威厳ってどう示せばいいのか混迷だ。自分の得意分野だけの知識や社会の通念を曖昧な根拠で示したところで、若い人は無頓だからである。よりも、リアルタイムでクイズの正解者よりも早く答えを出すということは、まさに現実であり、知識が豊富だってことよりも、知的な瞬発力の勝負だとも言える。つまり、ブレインパフォーマンスの勝負なのである。まぁ、たまたまだったということもあるが、人生、この「たままた」を身方にする奴ほど強い奴はいない。

 大人気なくてもいい、いつまでも、思考と行動のパフォーマンスを高く維持していきたいものです。

 街のイベントでどこにでもあるダンボールを使ったオブジェのコンテストがあった。参加作品が少ないと会場が心配され、絵的に盛り上がらないという理由で、関係者の私も作品を作ることになった。子どもや街の人が自由に参加されるイベントだけに、アイディア的にもテクニック的にもホットな作品が想定された。しかし、どうせつくるならイベントを盛り上げようと私はガチで作品を作成した。作品は計40~50ほど集まって、2会場でイベント中アンケートが実施され優秀作品が選ばれる仕組みだった。結果、私の作品が大人気なくたまたま一番になってしまたが、イベントとしては成功したわけで、流れで優勝賞品を、大人気なくいただいた。

 このように、地位や肩書きを抜きにして同じ条件で対戦する他流試合は楽しいし、テレビのクイズ番組で一喜一憂すのも楽しい。人は誰かへの評価を対象と比較することよりも、自分へのダイレクトな評価に興味があるはずなのだから。その部分を、そのゾーンを狙ったコンテンツこそが新しい価値を生み出しやすい構造なのだと思います。

 さて、11月後半に「多文化共生」というテーマの事業イベントにプレイヤーとして参加するが、その会場で自分自身がどのような思考と行動を生み出すか楽しみです。

逆じゃん!

 ことごとく私の直感は逆である。

 例えば知らない道を車で走っていて、恐らく目的地は右だろうと右折すると左だったり、仕事中に目的の作業をするために行程を決める場合、恐らくこの方向で効率的に作業を展開できるだろうと進めていくと、全く反対の方法だったり。つまり、一番の問題点は確証を得ず、すべてを「恐らく」で判断しているからに他ならないだけなのだ。カミさんに言わせれば「ウロウロする前に目的をちゃんと確認して調べてよ!そういう奴にこそカーナビという商品が必要なのに、そんなモノは必要ないとか言って!へそまがりにも程がある!」となる。実際、仕事中、思うように事が運ばすイライラしている100%は私の確認不足だったり、準備不足が原因であるにも関わらず、そこは適当にスルーして、パスワードを無くしたことや、依頼内容を控えるのを忘れ、ちゃんと保管していないことにイライラして、ひとり沸点に達している。こんなことを長年繰り返していながら、「忘れる」「控えない」「保管しない」「整理しない」を繰り返す非常にやっかいな人なのである。

 では、実際、お前(私)は何をしているのか?それは、目の前にぶら下がった人参だけを見ている視界の狭い馬なのである。このいい加減さを「良い加減だ」などと嘯き、その場その場を凌いでいるだけなのです。これは自身でもホトホトなのだが、どうにもこうにも心に気持ちに余裕が生まれないのは何故か?これもただの言い訳に過ぎないのだが、馬だから「人参」が好きなのは仕方ないのである。誰かにムチを入れられるわけでもなく、人参があれば、ただ、つっぱしる馬なのである。轡を引き締める人を振り落とし、フンフンと息だけを荒げ猛進・直進・迷走が得意技なのです。

 その一方で、「バイタリティー」「ポジティブ」「積極的」「貪欲」「探究心」などという類の言葉に過剰に反応・解釈し、根拠のない幻想を抱き、躊躇しているぐらいなら闇雲にでもいいから前へ進もうとする荒馬なのです。「なんでそこまで突き進むことができるのですか?」「そのエネルギーはどこから生まれてくるのですか?」「その前向き(ノーカン)さはどうしたら身につくのですか?」などと言われたら、さらに調子にのって脇のモノが見えなくなるのです。当然、失敗はひと一倍多く、無意味な傷も多い。そんなケースでさえ「骨は一回折れてから太くなるんだ!」などと開き直っているタイプから、さらにタチが悪い。

 すべて一事が万事、逆なのである。この気質、恐らく死ぬまで治らないだろうから、近くに優秀な騎手が必要なのです。「走れ!」とムチを入れれば息絶えるまで疾走する馬なので、轡とムチを握り背に乗っていただく騎手が必要なのです。「そっちじゃないだろ!こっちこっち!!」と方向さえ教えてくれれば目的地までは最速で行けるのだから。

 このタイプ、自分の捉え方だけで何かに挑戦し試行錯誤し探求している場合、うまく事が運べている状態ではそのまま放置しおけばどこまでも走り続けるのですが、ちょっと方向や目的地がズレ始めると止めどがない。ブレーキがないレーシングカーのような、いや、そんな立派なモノではない、ブレーキの壊れたママチャリのようなモノで、勾配に関係なく、とにかくこぎ続ける。登りでも下りでも。石につまずき転倒するまで止まらない。だから、誰かに「逆じゃん!」と言ってもらえることが何よりも嬉しい。

 天高く、馬肥える秋ではあるが、美味しそうな人参が見えたからと言ってすぐに走り出さないこと。でも、逆方向だと気づくということは正しい進路も実感できるわけで、今、現在進んでいる方向が正しいと知るためにも、一回、逆方向に走り出すということも大切なのです。ただ、棒立ち状態にだけはなりたくないのです。

 このタイプ、突き進む疾走力もあるが、撤退する逃げ足も速い。いつも刀と白旗は必需品です。

高度人材。

 海外の優秀な人材が日本の永住権を目的で移住されるケースが増えているらしい。企業も優れた人材を確保しようと、国内での人材育成にコストをかけるよりも、海外の優秀な即戦力のある人材を確保する展開が加速しているらしい。高度経済成長期を振り返っても、海外からの優秀な人材が日本の経済や文化を様々な分野で支えてきたのも事実。特にIT関連で言えば、日本のIT産業が発展途上の頃から海外の優秀なエンジニアやマネージメント関連の人材から多くの手ほどき・指南を受けてきた。特にプログラムやソフトウエアの開発となると、日本は「開発」という名目の「複製」に邁進してきたことは周知の事実である。背景に必ず優秀な海外の人材がいたのです。

 さて、そんな折、海外からの優秀な人材に対して政府や国家機関が公認の査定をしているらしい。海外での実績や技能などを数値化して人材をランク付けし、国内での企業活動へ適正に適用・配置しようとする狙いなのだそうです。しかし、海外の「高度人材」に厳しいランクをつけ、国内の人材育成には無尽蔵の手厚い支援をする体制・仕組みが、いかにも!?ではあるが、こうなった状況には多彩な原因と長期にわたる経緯があるわけで、日本が経済的にも文化的にも萎縮しないように徹底的な擁護をしつつ、海外からの人材補強でつじつまを合わせようという狙いなのでしょう。さて、ゴールはどこか?という問題です。

 では、「高度人材」とはどのような人材なのか、その新聞記事には細かい査定基準が書かれていたが、そもそも、何故、そんなに「高度」を欲しがるのだろう?「高度」って言葉にはいろいろな意味や属性や特質があるのでしょうけれど、今、本当に必要な人材は「高さ」に猛進するタイプではなく、状況を適正に察知・判断して柔軟で強く「変化」できる人だと思います。

 実際、自分より年上で変化した人を3名知っているが、その方達の「変化」は、当然、日本人ばなれしています。凄まじく。

 逆の観点で捉えてみると、自分が海外に移住しようとする場合、さて、どの程度「高度」なのだろう?と。おそらく箸にも棒にも状態だろうから、せめて、いつでもどこでも「変化」できる準備体制・コンデションづくりはしておきたいと思います。

事件は現場で起きている。

 「事件は現場で起きている。会議室で起きているんじゃない!」という内容の有名な映画のセリフがありますが、現場と会議質の関係を自分自身に置き換えてみると、思考が会議室、行動が現場のような関係になります。この年齢(51歳)になっても、デザインの仕事をしていて分からないことが発生します(というか分からないことばかり)。そんな時、専門書を調べる、ネットでエキスパートの意見を調べる、専門家に相談するなどと試行錯誤をして、問題解決のとば口に辿り着く。この連続です。デザインの仕事に限ったことではないのですが(デザインの仕事しかしてこなかったので知識不足)、思考と行動をつなげているのはテクニックです。当然、思考の前段階にもテクニックがあり、行動後、つまり、何か成果物を生み出した後のテクニックもあります。デザインテクニックと言うと、一般的にその中間の思考から行動につなげるための「つくる」テクニックを注目されがちで、前後関係はあまり重要視されない傾向があります。

 例えば、ルアー釣りをはじめたい、ブラックバスを釣りたい、大会で優勝したという狙いを設定した場合、当然、目立つテクニックは道具や釣り方やフィールドの選択です。釣れないフィールドよりもつれるフィールドの情報を得る方がブラックバスが釣れるからです。そして、どのように実際釣れたかという実感を経て自分の道具や釣り方のテクニックをブラッシュアップ・バージョンアップさせる。そういう経験を何回も繰り返しながら自分のテクニックのレベルを上げていく。その結果が「優勝」という成果であり、評価となるのです。しかし、どうしても傾向として道具の吟味や釣り方のテクニック情報が単純で分かりやすいため、そして、入手が容易なため、そればかりを集めて、逆に混乱している人も少なくありません。問題は、その前後にある、ルアー釣りをはじめたいとひらめいたきっかけや、その気持ちを得た機会のことを再確認することで「自分らしい工夫や釣り方のアイディア」に気づきます。また、釣れなかった経験を重ねていると、同様に道具や釣り方ばかりに理由や要因をもとめて、本来の気持ちを曖昧にしたまま道具を変えたり、釣り方を変えたりして、進化・進歩のない思考と行動を繰り返す。これが、スランプです。レベルアップも実現しません。イップスとは自己抑制であり危険を回避するバイアスが過剰に思考や行動を抑制してしまうことですが、スランプは思考パターンや行動パターンを能動的・主体的に変えること、つまり、自分の判断で前後関係に意識を広げることで解決する場合が非常に多いです。

 話をデザインの仕事に戻しますが、当然、バス釣りと同じようなことがデザインの仕事現場でも日々起こっていて、スランプもあればイップスもあればバイアスもある中、自分自身の中の触りたくなようなドロドロベトベトとした部分やトゲトゲツンツンした部分に勇気を出し、タッチすることで痛みは伴いますが、視野が広がり深さや奥行を発見できます。危険ゾーンを避け、会議室のような空間で思考だけを重ねていると、当然、行動力が劣化・退化・低下します。傷つきやすい体質・気質になります。現場は無菌室ではないので、耐久性(タフさと柔軟さと良い加減(適正)さ)が必要なのです。

 養老さんが現代の人間は危険を回避するために都市をつくりその中に退避した。自然の驚異から逃げるために。自然の驚異は予測不可能なことであり、人間の存在を無視するからだと(原文ではありません)。都市空間を象徴する空間とは何か?と自分の経験で振り返ると一番シンボル的な場所は会議室でした。クリーンな会議室で思考を幾重にも重ね合い、引き合わせ、ねんど遊びに興じていれば、まず、危険はありません。ドロドロベトベトトゲトゲツンツンは排除された空間が会議室だからです。よりも、私は現場が大好きです。豪雨の中、ボートの上でレインウエアを着てルアーを投げていると身体的にも精神的にも非常に辛い状況ですが、思考の集中力が高まりメンタルが鋭敏になる実感があります。ロッドにバスのバイトが伝わった瞬間、身体が反応する感覚こそが現場のリアル(実感)だからです。その先にしか実は本当(自分が狙う)の成果はないのです。

コントを採点する。

 昨晩の「キングオブコント2015」で5名の審査員はほんとに難しい条件の審査をされたと思う。コント表現に一定の基準を設定して優劣を決めることは本来、不可能だからです。同様にテレビ番組として成立させるために、アワード的なプログラムは多く存在し、漫才にしてもピン芸にしても、常に権威・公認・通念で然るべき審査員が配置され数値(得点)でジャッジされる。テレビ番組として見ている側は勝ったや負けたで、ただ、一喜一憂していればいいし、審査される側も数千人の頂点に立った実感を優勝という定義で実感できるわけで、一見、相互の関係はWINWINのように見える。というかそういう見方ができなくもない。そこで表現者と観戦者を繋いているのが審査員なのである。審査員が担う作業や労力は想定以上に大きく、テレビ番組の視聴率や好感度を左右することもしかり、表現者の人生さえ左右しかねないからである。その責任を負う立場になってみなければ実感はできないのですが、表現者の立場から言えば、賞金1000万円の価値以上に表現する機会を得た段階で大きな意義があり、誰だって1000万円は欲しいが、実は1000万円で買えないモノがあり、その基準は表現者によるのである。個人的には昨晩のキングは圧倒的に「ロッチ」さんだった。リズムネタはテンポがいいし、メジャーな楽曲に合わせて独自のネタを当てはめればそれで仕上がるが、物語りを設定しその設定の中でコントを成立させる本来のセンスやテクニックは、本来のコント表現から少しずれていると私は考えているからです。「ずらし」も表現だと言えばそれまでですが、本道・王道で言えば、そのゾーンに頼らず、表現者のみが作り上げる空間・時間・間合い・振る舞いから「笑い」を生んでもらいたいという気持ちが強い。そういうコントが好みです。

 デザインの業界にも権威ある協会があり、当然、アワードも多く存在する。グッドデザイン賞などもその最たるモノですが、ここに登録し挑戦し然るべき優劣の基準の中で「優秀」「優良」だとジャッジされたデザインって本当にグッドなのか?と私はずっと捉えている。これらの仕組みにも権威ある審査員が存在していて、彼らのモノサシで優劣が決まる、決められることが、誰にとってグッドなのかという違和感である。SNSでも「いいね!」が多いとホントに「いい」のか?という違和感で、天邪鬼加減もここまでねじれると修復不可能で、何周も回っているうちに、「正回転」「順回転」の方向がわからなり、思考の中で迷子になるのですが、迷子にならないためにも道路標識や知識ある人からの助言やルールにセオリーに準じる努力をしなければならないのも周知の上、そもそも、私は道路標識に違和感を感じている人間なのです。恐らく、間違った道(ルート)の上で本道を進んだ人たちを妬んでいるに過ぎないのですが、それでも、表現者やつくり手としての個性の価値は「自分の変化」に正直であることだと信じているので、追い風にも向かい風にもふらつかない意思、つまり、地に足をつけてこそいれば、自分の中にある羅針こそが真実と信じるしかないのです。ただ、それはとても勇気が必要で、いつ何時、自分を見失わないか、孤立してのけものにならなかと怯えているものなのです。

 つまり、どの分野でも、最強のチャンピオンとは真の臆病者なのである。それをあの短時間で表現したコカドさんと中岡さんこそがキングだと私は思いました。

怪物。

 いろいろな分野に怪物と呼ばれている人が存在する。現在、日本の芸能界では明石家さんまさんもその怪物のひとりだろう。相当、上のクラスの番組でMCを務める人達からも最高のリスペクトをされ、テレビ業界、芸能界をゴジラのように闊歩する怪物である。自分自身、芸能界やテレビ業界とは全く無縁の人間だから、その驚異の本質を知る術はないが、少なくともその他の芸能人、文化人、お笑い芸人の人たちの言葉を総合すると、間違いなく明石家さんまさんの怪物レベルは尋常ではないと捉えています。

 あの「しゃべり」は向かうところ敵なしだろうし、実際、テレビで拝見する部分だけを捉えても、あのライブ感は突き抜けた話術としか言いようがない。それでいて絶対的な好感もある。

 リズムやテンポをつくりながら、大きな流れを生み出す話術。現場の空気を微妙に察知しながら、相手の言葉や表情を瞬間的に判断し、その裏にある真意さえ観察・分析する観察眼。長年の現場経験だけがその高みへとさんまさんを召喚させてきたのでしょう。勿論、素養・才能・気質があってそうなったのでしょうが、その努力も凄まじいらしい。とにかく、仕事の合間にさんまさん自身もテレビを見て芸能人をチェックしておられるそうですし、仕事が終わっても後輩達と飲み歩き、情報収集を怠らないそうです。だから、口々に他のMCの人たちからは、「天才」ではなく、努力の人という意味で「秀才」と呼ばれているそうです。ご本人はそんな努力のことなどは微塵もお話にならないが、ただのよくしゃべる元気なおっさんではないのである。

 そういう部分にあこがれている自分もいて、知識や知恵や理論を記憶の中からチョイスして言葉にする能力よりも、自然に現場で習得したテクニックをその場その場で臨機応変に使い分け言葉にする能力の方を高めたいと思っています。同じ言葉だが、圧倒的な鮮度が違うのです。

 さんまさんはよく「生きているだけで丸儲け」という表現をされるが、この言葉がいろいろな仕事や日常生活の場面でふと頭をよぎることがあります。本当の貪欲さとは物資や理論・知識の蓄積に適用するのではなく、気質や心情の中にある本質に装備しなければならないのです。生きているとは、いつか必ずやってくる死の瞬間まで変化し続けるということなんです。ほんとに偉大な怪物である。

 一見、「適当」で「いい加減」で「ちゃらんぽらん」で「おてんば気質」で「世渡り上手風」でありながら、その場その場で最大のライブ感を成立させているわけですから、過去の正論に固執し、予測不可能で曖昧な未来に束縛されないためにも、今(現在)をガチで生きること。そんな理想のスタイルをテレビ中のさんまさんの姿に見出しています。とても素敵な怪物です。表現者、つくり手としてひとつの理想形だと思います。

ハニピー

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 確かに、買い物につきあわず、お土産で何か買ってきてくれた時、文句ばっかり言っていた。

 確かに、ハニーピーナッツは美味しかったし、テンションは上がった。

 今日も朝から買い物に行ってきて、「はい、お土産」って、カミさんがこれを仕事場に持ってきた。

 これで5回連続、ハニピーである。美味しいからこのお土産に関して全く文句はありません。100点です。だからと言って、ちょっと買い物のテイでお土産と言えば「ハニピー」というのはいかなものか。確かに好き嫌いの趣向が私は偏っているので、ストライクゾーンが狭い。だから、「ハニピー」を買ってくれば、間違いないことは事実。しかし、ペットの猿の餌のように、「はい、ハニピーです。」とこの缶を目の前に置かれると妙な気持ちになります。例えば、オリの中で猿を飼っていて、外へ出かけて、「お留守番、ご苦労様、はい、ハニピー」という感じで餌の缶を見つめている猿の気持ちがちょっと分かったような気がする。確かに美味しいから仕事中にちょこちょこと開けて食べているわけだから、オリに入っていない猿みたいなもの。しかも、これが結果100点のお土産なんだから、自分の好みが結論としてハニピーをチョイスしたわけだから、この一連の流れに違和感は全くない。

 だが、いつものハニピーの缶を見ていると、今日は別の新しい違和感がありました。

 さぁ、食べよ。

勤続疲労。

 「勤続疲労」という言葉を、確か、テレビで知った。どういう状況だったのかは覚えていないが、何気にこの言葉が気になった。本来は「金属疲労」なのに、「金属」を「勤続」に置き換えるセンスに良い違和感を感じたのです。

 しかし、「勤続疲労」って痛々しい。長年、人生をかけて会社組織の中で会社を支えてきたが、その疲労が溜まっている感じ、まるでそのイメージがサビで劣化した金属のようで、ちょっと触れただけでボロボロと崩れてしまうような状態をイメージしてしまいました。「勤続」が必ずしも美学ではなくなった時代だけに、さらにその劣化加減が増すのでしょう。「勤続疲労」ならまだしも、その「勤続」さえ予期せぬ想定外の要因で失った場合、疲労・劣化・萎縮のレベルではない。先見の明があるなしに関係なく、企業・自立・自営のルートを歩んだ人の方が結果、疲労度が軽かった。いや、疲労の解釈や順応性が備わっていたと解釈できるのかもしれません。

 私自身、29歳から、雇われてる立場ではなくなったので、「勤続」という意識が薄く、23歳で雇っていただけたデザイン会社でも、どうも「勤めている」という意識が欠落していました。大変生意気な生き方ですが、「常に独立する。いつか起業する。」という意識が強かったからかもしれません。だから、何事にも貪欲になれたのでしょうし、勤続意識が皆無だったのだろうと自己分析しています。

 「勤続疲労」という言葉、世の中的には流行っていませんが、私の中では2015年流行語大賞候補第1位です。

勝負。

 比較的、ビジネス書や思考術の書籍をよく読む。そのテーマといえば国内・海外それぞれ多種多様だが、結局、人間と機械の勝負予測が多いように感じる。それは自分自身がそういう捉え方をしてしまっている、そういう視点・立ち位置にいることが大きく作用しているからなのだが、そういう捉え方で書籍を読むと、いかに優れた機械を組み立てたほうが有利かに終始し、本来、人間の良さについては触れず、人間の愚かさや醜態ばかりにクローズアップしているように思える。特にメディアやインターネットの中では、普通のことが黙認され、愚かさや醜態ばかりにスポットライトをあて、いかに下劣で醜いかについての言葉言葉言葉の百花繚乱である。結果、そこをボトム(基軸)に人間の素晴らしさを際立たせることも怠ってはいないものの、である。
 そもそも、人間に機械はつくれるが、機械に人はつくれない。SFの世界の仮説では可能かもしれないが、機械ができることはつくることではなく組み立てることだけだからだ。そんな人間と機械を強引に同じ土俵にのせ、ただ、競わせているだけの時間つぶしのような気がします。人は人が生み出したことばかりを話題にするのではなく、もっと、「人そのもの」を話題にするべきではないかと。ふるまいや気質や本質について、ただ、いい悪いや有益無益のモノサシではなく、ただ、しっかり捉えることで、どうあるべきかやお互いの適正な関係性が分かる、見えてくるような気がします。

気楽な飲み会。

 よくあるSNSからのメール。クリエイターのコミュニティーに登録しているだけで、「クリエイター同志の楽しい飲み会開催します!」という言葉が届く。私は楽しいだけの飲み会が嫌いなので、クリエイターがお酒軸の飲み会を開催してもあまり得ることがないと捉えている。人と人の出会いの場、コミュニケーションの場を否定的に捉えているのではなく、「お酒きっかけで飲み合う場」というのが好きではない。お酒が嫌いなのでも、飲み会が嫌いなのでもなく、「クリエイター前提」でクリエイターらしくないと自身が捉えてる行動が嫌いなのです。その大前提には自分のクリエイターとはどうあるべきだという気持ちがいくつかあるからこう捉えてしまうのですが、まして、SNSのお気楽なコミュニティーで集まった、楽しいお酒が飲めた程度ならば、ひとりで何かをつくっている時間を優先する。結果、365日仕事人間が完成していまうわけですが、それはそれでいいじゃん。立派な個性だと捉えている。

 貴重で有益な情報は、毎日顔を合わせたり情報交換している人よりも、1年に1回程度会う人から受け取ることが多いというリデータをアメリカの投資家の書籍で読んで知ったが、習慣の中では新しい習慣は生まれないということだろう。まして、お互いの属性について極表面的なつながりしかないSNSから何が生まれよう。何事も出会い・機会がなければ新しい行動は生まれないとしても、お互い素性も属性も人間のひととなりも知らない、文字・画像レベルの繋がりから何か新しいことが生まれたら、人間は素晴らし過ぎる。建設的なことが生まれないからこそSNSが成立しているのだから、仕組みと論理は間違っていないが。

 「同じ釜の飯を食う仲間」という表現があるが、五感でつながってでさえ、すれ違うのが人間。機会の確率を上げることよりも、私は確率が低くとも質をあげる工夫に時間を活用したい。

機会と習慣と備忘録。

何億光年、輝く星にも寿命があると教えてくれたのはあなたでした。

季節ごとに咲く一輪の花に無限の命知らせてくれたのもあなたでした。

有名な阿木さんの作品である。

人が何かを想うとき、行動するとき、常に「あなた」という存在がある。

養老さんが書籍の中で「現実」とはあなたの習慣に影響を及ぼすことに限られると言っておられる。

どれほどの才能があり類まれなる努力・鍛錬を重ねようとも機会がなければ成果は生まれない。
当然、評価も生まれないので、実感にはならない。

人間は1日に約6万項目の思い巡らせ、その中で平均3,000項目が新しいことらしい。たった5%のことなのだから、いかに人間は習慣の中で生きているかという目安になるデータである。

機会と習慣が思考の中に循環を生み、そのパターンの中で比較的頻度の高いものから実感が生まれ、その実感が生きるためのテクニックになる。機会もなく、習慣もなければ、それは有益な情報だとしても、現実ではないので身体は反応できずテクニックにならない。

このブログは自分にとって言わば備忘録のような存在で、忘れる前に備えようと書き出した。とはいえブログだから公開されて第三者の目に触れている。自身の備忘録がわりに書き出して蓄積した記事がこの記事で4,000本目。正直、ここまで続けるつもりはなかったが、私は、よほど、思いついたことを忘れるのが嫌な気質なのだろう。

これも機会であり習慣である。つまり、「あなた」に対して思考している証がこの4,000本の記事なのです。

よく、書籍で冒頭に「~に捧ぐ」という一文を見る。S.キングなどはよく「レイチェルに捧ぐ」などと書いている。そこを掘ったことがないので、キングにとってレイチェルがどのような存在なのかは未だに知らないが、小説の冒頭に指名するぐらいだから、レイチェルはよほどの存在なのだろう。

私自身も少なからず闇雲に暗中模索で書いているわけではなく、思考する行動する以上、必ずその対象となる「あなた」の存在がいます。ここでそれを特定するとこれ以上ブログを続けられない事態になってしまうかもしれないので、特定はしないが、それは絶対に自分の中にいる「あなた」に対して思考しブログを書いています。

FACEBOOKだって、「あなた」が存在しなければ覚醒する機会さえなかっただろうし、かのキリストだって、釈迦だって、かならず「あなた」がいたはず。だから、機会と習慣を経て歴史に刻まれたのだと思います。たかがブログでキリストさんまで登場させるまでもないが、まぁ、4,000本目記念ということで、はじめて引用しました。

AIが世界を網羅し、人間の知能を超えるだろう2050年、私は生きていないだろうからいいが、若い人たちはあと35年後の世界をたくましく生きていられるのだろうか?ムーアの法則にもカオスが宿りフラクタルな機会と習慣が生まれていることを期待したい。

最後にでもないが(まだブログは書き続ける所存)、「スギノさん、やっぱりこれからの時代はブログぐらいは書いておかないと、完全に取り残されますよ!」と言ってくださった沖縄の「あなた」に感謝して4,000本目のブログ記事を終わりたいと思います。

いやいや、便秘状態は辛かった。出た出た。

金太郎の相手は?

 auのCMネタが今後どのように展開するか?非常にどうでもいい疑問だが、すでにauの企画会議では確定しているはずだ。桃太郎にかぐや姫、浦島太郎に乙姫ならば、金太郎の相手は誰?それを推測できたから何がどうなるわけでもありませんが、興味本位とauとその広告代理店の戦略を予測するのは、つくり手として楽しい。auの狙いやCMのコンセプトはトヨタのCM以上によく分からない世界観ではあるが、金太郎の相手を予測してみたいと思います。

 ネットでこの辺をリサーチすると、白雪姫などの海外の「姫路線」やオチとしてお笑い芸人をキャラとして設定するプランなどを予測しているし、実際、有村さん、菜々緒さんとくれば、3人目はそれ相当の女優さんかアイドルでなければならない。仮にも天下のauのCMなのだから、絶対にランクを落とすはずがない。また、相手が金太郎であり浜田さんであることから、両者のバランスも考慮しなければならない。それらをすべてクリアした上で、視聴者・ユーザー・世間を納得させる設定でなければならないとなると、かなりその相手像は絞り込まれてくる。

 クリアする条件は3つ、何か日本の物語に登場する女性キャラで、誰もが頷ける女優さんで、金太郎(浜田さん)キャラとのバランスが考慮されているキャラになる。この条件で、安易にもクマの被り物をした渡辺直美さんが登場するはずもないし、ただの可愛い路線で白ウサギの佐々木希さんが登場するはずもない。

 そこで私の推測は、「真木ようこさんの雪女」である。恐らく、冬に向けてauが打ち出そうとするキャンペーンや商品企画と連携させて、浜田さんの金太郎を翻弄するのだろう。当然、姉御的にかぐや姫や乙姫を一括する路線を推測している。つまり、日本のエルサである雪女を設定して、ミュージカル風にオリジナルソングを捩じ込んでくるかもしれないと推測している。真木ようこさんにミュージカルのイメージが皆無だけに、が逆の狙い。恐らく、それはちょっと涼しくなった秋口に登場するのだろう。

 つくる人ってこんなくだらない推測や想定をしながら情報を集めています。一見、くだらないことの中にも本道・王道に繋がるルートがあるからです。むしろ、くだらないことの方が楽しく有意義で伸びしろが多かったりするものなのです。絶対解のみ共有することに翻弄されていると、自分だけの正解を見失います。それはつくる人にしてみれば、かなりの悲劇だと思います。

美味しいカルピス。

 ブログ記事4,000本まであと10本を切ったあたりから記事を書くことに構えてしまい、ちょっと、いつもより良い内容を書かねばなどと、「4,000本記事達成」に対して自分勝手にプレッシャーをかけている状況です。たかがブログ、されどなのです。いつもの感じで自由にお気楽に書いてきたつもりでも、やはり8年間っていう長さと4,000本という数は自身、それなりに意義として捉えている証なのだと捉えています。

 とはいえ、だから、気の利いたいこと、内容のあることを書きますよという意味ではありません。

 この猛暑の折、カミさんに「今年の夏はまだカルピスを買ってきていなので、そろそろ買ってきて!」と言ったらら、すでに水と混ぜてあるカルピスを買ってきた。いつもの原液は高ったのでという理由で。いやいや、安易なこの凶行に言葉を失う。

 えっと、すでに水で薄めたモノは正確にはカルピスとは言わない。何故、今もカルピスが原液で販売されているのか?人気があるのか?を少しだけ考えれば、カルピスを水で薄めた状態で買ってくることはありえない。メーカーの勝手な水との配分で薄められた原液が、それなりのパッケージに入れて販売されているのです。おかしい。通常、醤油やワインや出汁が同じことをされていればユーザーは怒るはずです。「勝手にパワーユーザーの美味しい配分を無視して水と混ぜないで!」と。カルピスも同じである。時には濃い目で飲みたい時、適量で飲みたい時、薄めで冷たく冷やして飲みたい時、たまには温めてホットカルピスで飲みたい時、牛乳に混ぜて、かき氷に原液をかけてなどなど、いろいろな楽しみ方が、すでに「水で薄めたカルピス」ではできないのです。

 また、カルピスには通常の白色と合わせて、グレープやオレンジなどがあります。これもやはり原液でなければなりません。グラスに大きめの氷を入れて、カルピスの原液を入れて、水を入れる。最初はちょっと濃い目だが氷が溶けて適量になり、最後は氷が溶け切り薄くなる。このグラスの中での微妙な変化こそが原液のカルピスの楽しみ方であり本来の美味しさなのです。グレープ味やオレンジ味などはそのバリエーションとして完璧な布陣なのです。

 つまり、人の味覚とは、他人に「はい、この割合で!」と決められる、決められては困るモノなのです。はい、この割合が美味しいからあとは冷たく氷を入れて飲んでくださいね!と言われても、原液と水の割合いをそっちで勝手に決定して、ユーザーが美味しいか美味しくないかについては考慮せず、あとは、冷たくするために氷を入れてくださいと言う。薄くなることは仕方ないというわけである。何やら、漱石の「硝子戸の中」を読んでいるからか、しょうもないこと、どうでもいいことにイチイチこだわってしまっている。恐らく、もうすぐに入手する又吉さんの「火花」を読むためのコンディションづくりだとも言える。

 と、カミさんに「カルピスの美味しさ」について長々と伝えたら、「分かった分かった!次はちょっと高いけど、原液を買ってくるわ!」とちょっとキレぎみだった。美味しいカルピス、カルピスの美味しさを知っているのと知らなないだけで、これだけの価値観に意思決定に格差が生まれるのです。悲しい現実です。

 早く美味しい本来のカルピスを飲みたい。(ブログ記事4,000本まであと8本)

自分のスピード感。

 10数年前、ある地域のコミュニティーに参加した際、その自己紹介の場で私はこのような言葉を選んだ。「自分のスピード感で精一杯頑張ります。」と。つまり、自分のスピード感に合わなければ精一杯頑張ることが難しいという意味である。かなり高慢な言い方である。今、想い出すと大変失礼な言い回しをしたものだと反省している。それほど緊張し、それほどそのコミュニティーに参画することが刺激的であり期待値が高かったとも言える。結果、時間の配分や思考のタイプが合わず、元来、何かに所属すること、属性を持つことが得手ではないので、3年でそのコミュニティーは離脱してしまった。石の上にも三年だったのである。
 自分のスピード感って、誰に諭されたわけでも、公認基準で明確に捉えているわけでもないのに、社会生活をしていく中で自然と身についているものです。「ああ、この人はテンポがは早くてちょっとついていけないな」とか、「今更、何を言っているのだろう?その程度のことはこの場で取り立てて確認しなければならないレベルの大前提かな?」とか、リズム・テンポ・スピード感は思考に行動に言動にふるまいに露呈・露出する。だから、予防線として冒頭のような宣言をしたのだろう。いわば「石の上にも三年保険」である。その代わり、私自身、その3年間は自分なりに中身のある充実した期間だった。ひとつひとつのシーンが今でも明確に想い出され、仕事で人生で、いろいろな場面でその時の自身の思考パターン・行動パターンと照合し、同コミュニティーで出会い、いろいろな助言を頂いたことを明確に想い出すことができる。スピード感という自己評価と属性の中で相手・他人から頂いた様々な角度の評価はしっかりと私の心に身体にタトゥーのように刻まれているのです。
 属性から離脱すると大きな開放感と共に自己という制約に縛られることが意識され、使命感や責任感が無限に増幅する。組織・コミュニティー・団体の一員であれば、依存できること、共有できることがすべて自分自身で賄う必要があるのです。不安も焦燥も増幅しているのです。時間の余裕など常になく、自分の決めたスピード感を自己管理することで精一杯な状態になります。当然、それを望んだからそうなっているのであるが、苦しさと楽しさが表裏一体になり、理想と現実が交差する座標に自分がふっと立っていたとき、無類のリアリティーがこみ上げてくる。誰にも言い訳できず、自分の中の「精一杯」という言葉の重さ・サイズを直視する瞬間です。これが自分のスピード感なのかと。

記憶と理解。

 学校では記憶力のいい学生が有利だった。しかし、社会に出ると記憶力だけは対処できない。創造力や臨機応変な直感力であったり、思考と行動の組合せのバリエーションを鍛えましょう的なビジネス書は多い。記憶力(演算力)はムーアの法則に任せて、我々人間は・・・という切り口も有象無象にある。そんな折、「記憶ではなく理解を!」というタイプの書籍を入手した。なんとも潔い切り口で厳選された言葉が心地良い書籍だったが、欲を言えば、具体例が乏しかった。当然、このテーマが150ページ程度の書籍で網羅・展開できるわけなはいので、ここは、致し方なしと飲み込んだが、「理解」という言葉をこの著者は新鮮に捉えていた。この時代、情報が氾濫して同時に言葉も溢れているが、私達にとって「理解」するべき価値のある言葉(情報)は何%ぐらいあるのだろう?と。「理解」って「分かった」とは少しニュアンスが違って、「思考の深さ」みたいな条件が伴う。深さだから直線的にその感覚は何かの座標上で比較できるのか?となれば、それは直線的ではないような気がしてきて、言葉の綾の迷路に迷い込んでしまうのですが、「記憶と理解」この二つの言葉をしっかり定義することはとても重要だと理解できた書籍でした。

ある夏の想い出

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 30歳の頃、ちょうどこの時期、ニューヨークの郊外に住んでいた。大学の授業がないときはよくこんな風景の中で英語の勉強をしていたことを、ふと想い出した。乾いた空気、静かな森、不安が次第に薄れ風景に馴染んでいる自分。いろいろなことを考えていた時期だっただけに、記憶の中の風景も鮮烈で印象的なシーンが多いが、決してトゲトゲしていない、とても「良い重さ」「良い厚さ」「良いテイスト」のひとときでした。
 いろいろお世話になったマレーシアのルームメイト、今、母国で元気にしているのだろうか?
 よく、ベンチに座っていると、野良リスや野良うさぎが視界を横切っていった。ある夏の懐かしいシーンです。

縁と相性。

 中島みゆきさんが言っている。「縁のある人は万里を超えてやってくる。縁のない人は顔を見合わせて術もなく行き過ぎる」と。人間同志の相性って不思議なモノで、特定のパターンがあるようでないようで、規則性や方程式が非常にとりとめない。この不安定なモノに一喜一憂していると恐ろしく時間を無駄遣いしてしまうので、私はできるだけ直感で迅速に見切り、「ああ、この人は縁がないな…」と感じてしまうと、踏み込むことも無碍に共感を抱くこともやめている。

 子どもの頃、小学生の頃などはここまで実感がないので、何故こいつはここまで角が立つのか?いちいち、反論するのは何故か?私が嫌いなんだろうけど、私は好きでも嫌いでもないのだから無視したらいいのだが、なんか気になって気になってというふうに思い悩むことで時間を無駄遣いしてきたように思う。例えば、その彼が学級委員長に立候補する。私はクラスから推薦を受けて二人の投票になる。当然、皆から推薦された私が学級委員長になり、彼は落選する。こんなパターンがよくありました。私は学級委員長などどうでもいいのに。それは、中学でも高校でも大学でもあったし、当然、社会に出てからも頻繁に起こっている。どうも苦手なパターンなのです。私自身は決して、嫌いなタイプではないのですが、相手は私を受け付けないというケースです。大学の時にもとにかくすべて(発言に行動に)にぶつかってくる奴がいましたが、私は彼の言葉が耳に入りませんでしたし、彼の存在に対して術もなく離れていました。

 一方、万里を超えてやってくる人もいるわけで、出会うその瞬間まで縁もゆかりもなかった人なのに、ただ「バス釣りが好き」「山登りが好き」「デザインが好き」「映画が好き」ということだけで、瞬間的に親密になるパターン。これはとことん嬉しいケースで、自分の世界観に共感してもらえる瞬間はどんなことよりも嬉しい。デザインの仕事もこのような一期一会の場面が多く、長年お世話になっているクライアント様に対しては、絶対に妥協せず、とにかくいいデザインの成果を生み出すことに365日を費やしている。できれば、1年は730日欲しいぐらいだ。その反面、苦手な人に対しては、申し訳ないぐらい心を閉ざしてしまっています。歩み寄っても脈が0%なのですから仕方ないのです。こればかりは。

 ただ、私が勝手に相性がいい思い込んでいる節も否めないので、私自身の自己分析だけで、縁とか相性を語るのは危険です。あくまでも相関・相対のことですから、思い込みや先入観や既成概念や悪しきバイアスはいつでもリセットできるコンデションを維持したいものです。

 「縁と相性」、不思議な関係性です。

兎に角

 うさぎに角はなく、亀に毛はないが、兎に角ということ。ありえないことではあるが、「とにかく」という当て字であり、「兎角亀毛」は仏教用語らしい。そのテイストを「とにかく」として文章に用いた記録は平安時代の文献で確認されているらしいが、本格的に世間一般に認知が広まったのは夏目漱石が作品で使ったことが要因らしい。言葉(言語)は生き物のように呼吸し変化し進化しているのです。

 とにかく、この夏は「三四郎」を再読してみようと思っています。

ガラケーユーザー。

 未だにスマホユーザーではない私は、このままスマホが進化し続ければいつかガラケーが市場から消えるのでは?という不安がある。しかし、この7年間下降してきたガラケーユーザー数の推移は止まり、2015年年頭からそのユーザー数はわずかだが上昇しているらしい。猫も杓子もスマホ、家族割、切り替えキャンペーンを駆使してもスマホのユーザー数の増加は止まり、近い将来少しづつ下降しはじめるのではないかという危機感が3社にはあるらしい。そこで、ガラケーにスマホの機能を融合させる取り組みがされているようです。一方アップルはウォッチを開発して「スマホありき」の市場を安定させようとしているが、さて、このイタチごっこはどこでどう安定期を迎えるのだろう。

 この先、私は全くスマホを持つ気がないので、傍観しようと思っています。

 私がツールとして使いたいのは、あくまでも携帯する電話が使いたいのであり、別に電話にSNSと連動する必要もないし、心拍数を計測してもらう必要もない。このようないわば押し売り的な便利さをいくら啓蒙されても反応することは実際に難しい。また、腕時計についても腕時計の目的は時間を確認すること。追加の機能でSNSができたり、余計なアプリなど使っている時間はない。携帯電話は携帯電話、ウォッチはウォッチでいい。なんでもかんでも追加すること付加することイコール、「多機能」と捉える視点は持ち合わせていないだけ。つまり、「付加価値マジック」のネタに気づいていない人が多いという現実がスマホが活況な背景にあるでしょう。

 私がツールに求める性能は「多機能」よりも「高機能」です。また、ポテンシャルが低いことを「多機能」で補填・補完しているのだとしたら、結論として、お金でテクニックやポテンシャルは買えないよ!ということだろう。ある意味、実はこの現実はシリアス過ぎるので、黙認している方が楽チンだという大前提がスマホの商品市場像なのでしょう。マイノリティーなガラケーユーザーの意見(独り言)でした。

インターネットの利便性

 そもそもインターネットの利便性を先に考えるのは本末転倒です。誰かが便利だと言ったかもしれないし、テレビや新聞や専門誌などで言葉になり活字になり「便利さ」の事例が飽和していたとしても、本人(自身)が便利さを実感していない状態で「活用しなければ」という捉え方だけで焦っても仕方ない。主体はあくまでも利用者本人なのです。ビックデータは確かにあるのでしょう。SNSは確かに活況なのでしょう。訪日中国人達は確かに多くの買い物をしているのでしょう。シリコンバレーでは火星居住計画が着々と進み世界の投資家達はその目論見に自らの資産の活用を日々考えているのでしょう。これらは誰でも入手可能な情報です。しかし、これらの情報が自分自身にどれだけ影響・作用されている?という効用・効果を見極めなければ、これらは巨大な「絵に描いた餅」なのです。理想や目標をたてるとき、どうしても、他人の成功事例を情報としてのみ、もしくは、イメージと言葉だけ捉えてしまうため(恐らく多くの人がそうだからそれが通例・慣例・習慣になり疑う視点が欠けている)、自らの実感をどこかに放置して、あらゆるビジネスプランが構築され、ただ、会議やプレゼンテーションに多くの時間を使って、大きな餅の絵を描いているだけなのでしょう。

 当然、絵に描かれた餅は食べられません。ただ、みんなで鑑賞して「ほぉ~」とか「へぇ~」とか井戸端会議になるだけなのです。この状態、この時間を繰り返している以上、新しい実感を得ることはできません。いつまでも0の状態で、絵に描いた理想像を追いかけている(いや、正確には追いかけていない)だけになる。

 つまり、インターネットの利便性はひとつ。「自分で使い実感すること」につきるのです。使って実感すれば、自分の五感や経験値・テクニックが刺激され、何か具体的な成果に向かって起動するコンディションが整うのです。あとは、スタートの号砲に反応し一気に駆け出すだけ。当然、スタートの号砲を鳴らすのも自身なのです。

 私がインターネットの利便性をあげるとしたら、基本的な情報収集目的では非常に有効です。専門的な情報ではなく、あくまでもインターネットの中に飽和している基本的・基礎的な誰でも入手可能だけれど、自分自身はたまたまその機会がなく、探究心がなく、入手・確保できていなった情報の検索機能と特定までの時間が非常に短いことが唯一の利便性だと捉えています。それ以外はあまり有効な仕組みだとは思っていません。一見、誰もが「便利だ!」と言っていることや価値観は疑うことを体感・実感できる、という意味に置いて、客観性と主観性のバランスを意識させてくれるとても優秀な指標・モノサシ・天秤だとも言えますが。

物語を書け。

 シリコンバレーの投資家が言っています。「人の心を動かしたければ物語を書け」と。昨今のインターネットに記載されているテキストにはそれがないと。断片的な情報や感想やつぶやきを書くために人生の大切な時間を浪費しているとSNSに警笛を鳴らしています。なぜならSNSの仕組みは本来「伝えるためのテクニック」が集積できない仕組みになっているからです。「つながっている」と誤解させられデバイスを購入させるためだけの仕組みであり、アプリも同様に新しい創造物・テクノロジーにはリンクしていないということ。当然、ブログも同位です。つたない文章力で一時的な目の前に起こったことを心地よく記述させる仕組みこそが本質的に人間が求めているからと、ザッカーバーグは捉えたのでしょう。まんまとそのトラップにがんじがらめになっているネットユーザーに「パワーユーザー意識」をすり込んだのもテクニックですし、それを実現させた技術者も強者です。冷静に捉えれば、SNSの中で何かが生まれるはずがない。人間はそんなに安易な構造の生物ではないのですから。とでも、その投資家は言いたいのでしょう。

 その著書に出会う5年前から私はSNSから離脱しました。その先にある鉱脈の希薄さを枯渇さを感じたからです。根拠も明確な理論もありませんでしが、この先は恐らく行き止まりだろうなと。

 「先人の来た道を歩むのもいいが、もし行き止まりだった時、自分をどのように納得させるかまで用意してい歩む人はいない。どうせ1回限りの人生ですから、根拠がなくとも明確な示唆がなくとも、自分の信じたルートを歩こう。覚悟して使命感を持って歩めば、トラブルの先に必ず未踏の鉱脈がある。」とも何かの書籍の著者が言っていました。手放しで賛同していませんが、恐らく、私も私のルートはそちらだと思います。

 もっともっと、「自分の物語」を大切にしたいです。

好きな映画、好きな本。

 よくある質問ですが、意外とこの質問は的を得ていることが多い。デザインの仕事仲間でも、クライアント様相手のケースでも、この質問をひとつふたつして、その理由や根拠を教えていただくと、大体の人間性や気質や好みなどが分かる場合が多い。しかし、ぶしつけにもコンパじゃないんだから、いきなり、「好きな映画はなんですか?好きな本はなんですか?」とは聞けないが、タイミングさえマッチすれば、この質問は効果的です。

 もし、同じ質問をされたら、今ならなんと答えるだろう。

 「好きな映画は?」に対する答は「インター・ステラー」となり、その理由は「最高の父親と娘の物語だから。」となる。

 「好きな本は?」に対する答は「ピーター・ティールの「ZERO to ONE」」となり、その理由は「著者の気質が気にっているから。」となります。

 この答だけで、「ああ、こいつはSFが好きで娘がいるんだな」とか、「シリコンバレーで何が起こっているか興味があり、創造的な仕事に興味をもっているな」とかが推察できるんでしょうね。「好きな〇〇〇」も時代や気分によって変化するものだから、こうして、ブログに書き出すと、改めて自分のことが実感できますね。

倫太郎。

 昨晩、「Dr.倫太郎」の録画を観た。最終回だったのですが、仕事で観れなかったので録画したのです。堺さんの日野先生キャラはさすが秀逸だったが、テーマが心理学のお話だけに、物語として終わらせるにはこのスタイルになるのかなという印象でした。心理学をテーマにするということは、時代にマッチしているとも言えるし、根幹的なテーマだったとも言えますから、原作をチェックしたいという気持ちもありますが、ドラマの展開を思い返すと「愛」という言葉ですべてを収束する完結の手法で原作もまとめているのだろうと推測できます。心の問題を「愛」で結論づけることは、人間として大前提ではありますが、大前提過ぎて、しっくりコンパクトにまとまり過ぎていたなというドラマの余韻でした。堺さん、優ちゃん、小日向さんの演技力がなければ到底、一定の物語感を維持できなかったでしょう。などと、結局、充分に楽しめたテレビドラマだったということの証です。

 心が病むことについて、どう定義し規定し限定するかは非常に難しい問題ですから、この視点でこのドラマはとても挑戦的だったと言えます。「多重人格」「ギャンブル依存」「恋愛シンドローム」などいろいろなフレーズが登場しましたが、これらの言葉を肯定するのか否定するのか、観た人のポテンシャルが捉え方が試される挑戦的な物語だったと思います。いい余韻です。

ピーター・ティールは言っている。

新しい何かを作るより、
在るものをコピーする方が簡単だ。
おなじみのやり方を繰り返せば、
見慣れたものが増える、つまり1がnになる。
だけど、僕たちが新しい何かを生み出すたびに、
ゼロが1になる。

人間は、天から与えられた分厚いカタログの中から
何を作るかを選ぶわけではない。
むしろ、僕たちは
新しいテクノロジーを生み出すことで、
世界の姿を描き直す。
それは幼稚園で学ぶような当たり前のことなのに、
過去の成果をコピーするばかりの社会の中で、
すっかり忘れられている。

と、ピーター・ティールはその書籍「ZERO to ONE」の序文で語っている。

とにかく、このタイプの書籍に影響を受けやすい私は、
読み始めてから常にこのことが頭を支配し、
思考や行動ごとにこのことを意識しています。
ある印象的で刺激的な書籍に出会うたびに
自分をリセットしている感覚です。
しかし、このタイプはある別の側面では軸の定まらない、
思考や行動の方向性が確立しないという弊害をもたらす。
いや、本質的にふらふらしているタイプだから、
このタイプの書籍に感化されやすいとも捉えられる。

軸はどこか?基準面はどこか?という自問である。

これは正常な状態なのか否かを決めるのさえ、
ピーターなら「それが正常です。」と言いそうだ。

世の中が多様に変化して動的均衡の中で蠢いているのに対して、
人間が何かを確定させる意義はあるだろうか?
変わり続ける世の中に対して、何かアンカーを打ち、
固定させる意味はあるのだろうか?
思考の安定が安定した未来を引き寄せるとは限らない、
そんな保証は何もないのが正しい状況なのです。

それを、ピーターは0から1への意識に置き換えて
語っておられるのだろう。と捉えている。

現在、最後の章を読み始めているが、
最後の論理をどこに定着させているか
今、予測しています。

この1冊の物語が書籍にはそれぞれあって、
まるで、現実社会ではお会いすることのできないような偉人や著名人と、
対面でお話を拝聴できるような物語が書籍にはある。
エンドレスに続くデバイスのデジタル画面に
反応できないのは、恐らく、「終わらせていない論理」に
ロマンを感じられないからだろう。
その点、書籍にはドラマがある。

読み終えて、0のままか、1になるのか、
あと数ページへの期待が有象無象に高まります。

自然な生き方。

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 不自然なことばかりが起こるのは人間が自然さを失っているからでしょうと國明さん。一度、ありが島へ行きたいです。

Be Freak!

 以前(10年以上前)、U2が来日した時、エッジさんがカメラに向かって右手でピースサインをしながら、「Be yourself!」という言葉を放っていた。このイメージが頭に焼き付いて、アクトのサイトにも転用している。「自分らしくあれ!」というこの言葉には心が震えた。さらに、最近あるシリコンバレーの偉人の著書を読むとそこには、「変人であれ!」という言葉が書かれていた。日本では変人は協調性がなく、孤立して阻害されるイメージがあるが、その逆風や空気に依存し、埋もれて生きるか、そこから離脱するかは自分次第、つまり、「自分らしくあれ!」ということだろう。で、最近は「Be yourself!」をワンステップ、レベルアップさせてこう思っている。「Be Freak!」と。当然、こう考える捉える解釈するにはそれなりの自身の気質や経験が功を奏し、作用している証なので、別段、このイメージ、この言葉に違和感はない。逆に「そうでないってどういうことか?」とリミッターをとりたてて外す感覚はない。まるで、古い友人に会ったような感覚です。既視感の極みです。

 だって、「先人が歩んできた道はもしかして行き止まりかもしれない。ならば、自分の信じた道を歩こう!」って、正にです。それ以外に正論はないと思っています。

聞く。

 よく、私の話は長く諄いと言われる。もっとシンプルに伝えてほしいと言われる。下手すると知識や経験値の羅列になり「めんどくさい自慢話」になってしまうのです。私はただ一生懸命伝えたいと考えていろいろ話すことが全く逆効果なのです。さて、このようなケースでどこで折り合いをつければいいのか?これが一番の悩みどころ。ケースによってはシンプルにと努め、要点のみを伝えるがそれでは伝わる人と伝わらない人がいて、説明しようとしている分野に精通している人なら1を言えば、そこからオートマチックに思考を広げて認識していただけるんですが、この1がどうしても伝わらない場合はマイナスから話を始める必要がある。ただ、1とかマイナス1とかというニュアンスで言葉や理屈が数値化できて適正な引用が可能な場合のみで、さらに、1とマイナス1について説明が必要なケースでは、必然的に言葉が複雑になりディテールがモリモリになり、結果、長く諄くなる。この悪循環をどこで見極めてどのように伝えようとするのかに迷う。

 「これこれこうだから、ポイントは3つで~」などと言えばいいのですが、これこれの最中に分からない人は質問してくる。まだポイントまで話していないから~などという思いは一旦保留し、これこれのこれから説明が必要になる。これが恐らく言葉で伝える際の限界点なんでしょう。シンプルに、時に複雑に言葉を想起するとき、必然的に相手のポテンシャルも見極めなければならない。特に、日本語の構造は伝えようとするときに言葉の意味の広がりが少なく、英語のような広がりがない。この構造に悪い意味(悪いケース)で慣れ親しんでいるため(勿論、私も含めて)、言葉(文字)で伝えようとするとき、相当の心情が作用して論理が崩される。最近、ある書籍で「あいまいな楽観主義」というフレーズに出会い、改めて言葉の力の限界点を探っています。

 一方、イメージで伝える、イメージで理解するというケースではこの限界点はどうだろう?感覚やニュアンスやフィーリングの部分です。デザインの仕事ではこのイメージの効用を熟知しておく必要があり、イメージを成果物などで伝えようとするケースでは、つくり手がどこまでイメージをイメージとして理解しているかで伝導率に優劣が生じる。この一見「イメージでイメージを伝える」と言葉にしたが、この伝え方には千差万別新羅万象支離滅裂喜怒哀楽が連動しているため、整理すれば、機能が低下・鈍化し、突き詰めて研ぎ澄ませば曖昧になるというジレンマが生じるので、結果、言葉と同様に、シンプルさと諄さの矛盾ありきで立ち向かわねばならないのです。

 そこで、改めて「聞く」という行為ですが、このブログを読んで(聞いて)どの程度の理解度を得られましたか?また、ここまで書いてどれだけ言葉にできたかな?ということ。つまり、相対的な接点をひとつひとつのケース毎にしっかり習得・会得することでしか「聞く力」は長けないのです。無人島ならこんな苦労はしなくていいのですが。

できるデザイナー。

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 ある印刷会社様の人事を担当しておられる方からのご相談。
 
 「ウチも印刷だけは競争力が弱いのでデザイン力を上げようと、できるデザイナーを補強しようとしているのですが、なかなかできるデザイナーが来ないし、育たないのです。会社負担で人材を育成しても、一人前になったら、できるデザイナーは独立してしまうし・・・。常に会社に高いデザイン力をキープさせる方法って何かあるんですかね?」ということ。率直に私自身、この問題をどう受け止めればいいのかという部分から悩みます。私が「できるデザイナー」だなどとおこがましいことを言っているのではなく、やはり、デザイン力というのは会社組織の問題ではなく、個人レベルのお話になります。「ああ、こいつはできるなぁ~」というデザイナーの条件って何だろう?と改めて考えています。そういう意味、捉え方で言えば、大手の有名広告代理店の手法は理にかなっていて、完全に金看板を背負わせて、アワードへの参加を推進しネームバリューと金看板の磨き方に長けている。これを個人で展開しようとしても、限界点が低いのです。当然、できる人はそれ相当の契約(信頼)と代価を勝ち取っているのですから。まして、デザイン力を補強したいと願う会社であれば、現状と理想の間にはかなり深い谷があると言わざるを得ない。やはり、この谷を埋めるのは人なんですねという結論に達して、結果、このご相談に対して「人の問題は難しいですねぇ~」と結論があいまいになってしまいました。

 ただ、ひとつ原理があるとすれば、「できる人」は必ず「できる人」とつながっている。それも、会社組織とかコミュニティーに属する属さないに関係なく、とてもいい感じでつながっているものです。よく、ボランティア団体や社会を活性しようという方針で集まった団体からの一見、志の高そうな根拠のないお誘いを受けるが、当然、私の心は震えない。震えないというか、その説得力のなさ加減や「責任と覚悟」が感じられない言葉の羅列に、逆に背筋が寒くなり震えます。

 つまり、「できる人」はできる人同士でつながっている。「できない人」は必然的に群れているという普遍の真理に対して、自分自身の座標をどう設定するかで「できる」「できない」が決まってしまうような構造・仕組みなのかなと思っています。これは覚悟のいる決断ですから、依存するならとことん、自立するならとことんいく覚悟が必要です。当然、「できるデザイナー」を育成したいなら、とことんやるしかないのでしょうね。

マンガ人生。

 今、手塚治さんの自伝を読んでいる。手塚さんの子ども時代からマンガ家になることを決意するあたりまで読みすすめているのですが、一貫して手塚さんのマンガのメインテーマは「生命の尊厳」であるという言葉が胸を貫いた。なぜ、今、この段階で手塚さんの本を書店でチョイスしたのか、その理由は明確ではないが、現代の潮流の中で、いろいろな情報が飛び交い、いろいろなビジネスが展開されていく中で、なぜ、改めて手塚さんの自伝に手を伸ばしたのか?という自問です。

 冒頭はチビでメガネで運動音痴という手塚さんの子ども時代を象徴するお話から、いじめらっこだったが、マンガや映画との出会いで学校で特異な存在になったこと。戦争時代、究極の制約を受けた生活があり、貧困で夢も希望もボトムの状態で、手塚さんはどのような経緯・経験を経て「生命の尊厳」というテーマを会得したのか?というお話の渦中です。

 大阪の工場街で空襲を察知するために火の見櫓で空を見ていた時、黒い雲の中に空爆機の連帯を発見し、警報を鳴らすが時すでに遅し。焼夷弾の空爆が始まると、ただ、手塚さんは櫓の上でうずくまり、焼夷弾が櫓に落ちて来ないことを祈るだけ。視界の工場街はすでに火の海。油の焦げる匂い、生物が焦げる匂いの中、どん底の恐怖よりも、まだ、自分が生きているという幸福感があったとのこと。そして、終戦、市街地に出ると空襲を警戒して電灯を消したゴーストタウンが一変し、キラキラした夜の街に立ち、生きている実感を噛み締めておられた経験。これらの凄まじい経験がベースにあるからこそ、「生命の尊厳」というテーマにたどり着かれたのです。

 さて、現代、最先端を突き進む日本の「漫画文化」にこのテーマは流れているのだろうか?どこかで大切なテーマを失い、絵空事の仮想世界に心を奪われていないだろうか?自身の歴史を何回も振り返り、手塚さんの時代と比較して、その幸福な状況に高揚する一方で、本当に大切なテーマを置き去りにして芯を外したポップフライやボテボテのピッチャーゴロばかり打っていなだろうか?と言葉にならない焦燥が押し寄せてきた手塚さんの一冊(自伝)です。

 戦争時代を経て、東京でマンガ家の道を邁進されるあたりから今夜は読み始めることになるだろうが、冒頭の子ども時代からマンガ家を決意するお話は心が凛とした。恐らく、この部分を期待して手塚さんの書籍に手を伸ばしたのだろうと思っています。言葉にならない直感が、大切な意思決定に繋がり、その意思決定が得るモノ。飽和する情報に対してもこのスタンスでいたいものです。

欲しいモノ。

 あるオンランショップから「アンケートに答えて素敵なグッズを当てましょう!」的なメルマガが届いたので、早速、専用フォームでレスを返した。普通ならこの類はスルーなのですが、抽選で当たるかもしれないグッズ商品がデジタルソフトだったり、デザインの仕事に便利そうなPC関連グッズだったりしたので、ちょっと、本気でアンケートに答えた。答えながら、「どうせ当たらないだろう~」とは感じたが、何気に本気になる間合いだった。

 そのアンケートは「あなたの欲しいモノは?」というシンプルなアンケートで、その他、氏名や電話番号やメアドや職業などの一般的なラジオボタン形式のアンケートだった。

 そこで、「欲しいモノ」についてリストアップするだけではなく、その理由もコメントする枠があったので、このような内容を書いた。さて、抽選はどうなることやら。

 私の欲しいモノ、第3位。サイボーグ009の加速装置。漫画やアニメでいろいろなヒーローがいますが、009の加速装置はとても魅力的。過去や未来を自由に行き交うとか、テレポテーションで瞬間移動!なんて能力はちょっと物理的にうさんくさい。しかし、009はサイボーグ。アンドロイドの機能として人間には不可能なことでも機能性として実現可能だと想像を飛躍させる価値のある能力だと思っています。明らかに最強のサイボーグだと思う。
 第2位はウルヴァリンの身体。ダイヤモンドより硬いアダマンチムを高熱で液化させ皮膚の下部に注入させたという設定のウルヴァリン。そもそもの人間離れ(ミュータント)した治癒能力・再生能力の高さからこのようなことが可能になったという設定ですが、骨はアダマンチウムでコーティングされ、生体機能は瞬時に再生するという身体。これは素晴らしい。
 そして、第1位は、ボビー・フィッシャーの頭脳。鬼才で奇才、人格的にはかなり問題があったらしいが、そのチェスの実力は数々の伝説になっている人。最近はスパコンと人間が対戦して勝てる勝てないの話題もあるようですが、スパコン相手なんてどうでもいいこと。たった、64マスに32の駒を並べて対戦するだけのゲームがなぜこれほど人を魅了するのか?その勝負の世界で伝説になった頭脳。それはやはり一番欲しいモノです。

 地球上の「個人資産」「優良不動産」「ブランド商品」「芸術作品」よりも、この3つを私は欲しいですね。というか、今回、最終的に欲しいモノは「素敵なグッズ」なのですが。

野生の亀くん。

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 愛犬チョップの散歩コースで野生の亀2匹を発見。そこで甲羅干しですか?

大阪デザインフォーラム

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 奇しくもこの日、大阪は選挙だった。都構想は不思議な結果になったが、より明確に浮き彫りになった結果だとも言える。それは「世代意識の格差」だろう。保守的な連中と変化・進化を求める連中の世代間の谷がより深くなった、明確になったと私は捉えている。大阪でさえ、大阪ですらそうなのだから、地方に目を向ければこの構造はもっと深刻で明確である。つまり、日本の構造改革、というよりも、確実に新陳代謝が新しい成果を生み出そうとしているエネルギーを感じた。これは非常にいいことだ。何故いいのか?変えようとする世代に明確な「覚悟」が生まれるからだ。選挙では負けたが、この敗北感が確実にエネルギーになるからだ。古き良き大阪を守った人たちは、古き良き大阪と共に朽ちていく覚悟があるということです。

 さて、本論はここではなく、「大阪デザインフォーラム」。母校である大阪芸大のデザイン科の皆様が主体的になり企画・推進・運営を展開しているとても魅力的なフォーラムです。今回が第9回目ということで歴史もある素晴らしい取り組みです。さすが、母校である。

 会場に入ると上下黒の学生スタッフの皆様が各所に配置し一般参加者を手厚く迎えてくださった。私的にはこれで十分なのである。このディテールを五感で感じられただけでこの日、この場所に行く価値があるのです。あとは、いわば、オプションみたいなものです。

 まず、12分間のオープニングがあったが、内容はともかく、音響設備が悪かった。フルート奏者が二人に演者一人。この状況を魅力的に魅せるためにはもっと徹底的にPAとスピーカーの設定を吟味するべきだ。とにかく音が悪かった。

 そして、芸大サイドの挨拶。内容よりも、一発目の挨拶なのだから、もっとそののどをなんとかして、ベストコンディションで話してほしかった。あなた「たん」が絡みすぎ。次はもうひとり芸大の関係者の挨拶。内容は特筆するものはなかったのでスルーするが、とにかく、その身長にマッチしたジャケットを買うべきだ。8cmほどジャケットの丈が長い。

 そのあとで広報の代表者が新鮮なコメントをしていた。初々しい挨拶がとても心地良い。

 次に、福島氏と菅野氏の基調講演である。見事にタイプの違うご両名。お二人とも恐らく講演のプロではないのだろう、ちょっと講演の組立が緩い。前後関係の組立が資料映像やチップスに引っ張られすぎている。逆に結果そのスタイルが「ああ、この二人は最前線のデザイナー、クリエイターなんだ」という実感がありました。講師とはいえプロではないのだから、痺れるような講演構成内容でもドンビキだから。少し前後関係や脈略や論理がずれているところも含めて楽しかったし、語彙のチョイスもぎこちなかったがそれもこの二人のディテール・魅力として楽しかった。以上。

 ただ、ひとつ講演の内容を聞いて思ったことは、ご両名とも「デザイン」で何かムーブメントや新しい価値を生み出そうとしておられることが、私は不自然に感じた。デザイナーなんだから、クリエイターなんだから、当然、デザインで何かを生み出し、デザインありきで何か思考・起案・行動をして生計をたてていることは分かるが、あまりも「デザイン・デザイン」を連呼されるとちょっと疲れる。「デザインデザイン」が「主よ~」「南無阿弥陀仏」に聞こえてくる。デザインとはそうではない。結果、デザインなのである。確かに本を売るために、属している代理店の株を上げるために、アワードでたくさんトロフィーを獲得してます!的なこと、被災地に多くの支援をしてます!的なことを言うのは自由だが、そこに固執するのは「つくり手」としてカッコ悪い。学生の皆様なら、それらは「キラキラしたモノ」かもしれないが、本質は絶対そこにはない。この考え方・捉え方は地方でデザインの仕事しているモノの僻みでもあり妬みなのは明白なのですが、私は逆にそれがモチベーションになると捉えて地方に移転した。都市圏で大手代理店が大企業の予算で何かを作ればそれはキラキラするでしょう。実際、若い頃はキラキラの末席で「その気」になりかけた。しかし、「それは違うな!違うぞ!」と29歳の時に感じたので、今、長浜にいる。その判断を「都を落ちた」と捉えられることが多いが、それを本質が望んだのだから仕方ない。過程(プロセス)は大切だが今がすべて。当然、その先も描いている。
 
 そんなことを感じた「大阪デザインフォーラム」でした。

 しかし、あの芸大の代表者、「たん」がからみすぎ。

天衣無縫

 継ぎ目がない天の衣のように素晴らしいという意味の言葉「天衣無縫」。私は学識・博学ではないし、専門知識が豊富で学歴があるわけではありません。取り立てて誇れるような公認免許も取得していないです。ただ、無類の読書好きだったことと、曖昧だけれどイメージを自分の感覚で捉えようとする努力については自負がある。51歳になって、改めて、言葉が好きなのか?イメージが好きなのか?と自問するが、本質的に「どっちも好き」となります。言葉に対しても、イメージに対しても、好奇・探求の志が収まる気配がない。多くの日本語をこれまでに書籍やメディアの情報から得ているはずなのですが、いつも、手元に国語辞典と英語辞書は欠かせない。インターネットの検索は偏っているのでキライ。また、仕事やライフワークで「英語」「中国語」「韓国語」に関わることが多いのですが、その都度、強く感じることは、日本語って素敵な成果物だと思います。日本人なのだから当然と言えば当然ですが、これほどに豊かなイメージと明察な論理が閉じ込められた成果物はないです。この「天衣無縫」という言葉もどういう状況で知ったのか、その状況さえ覚えていませんが、「天衣無縫」は何故か心に残っています。つまり、本質的な共感がなければ、イメージも言葉も自分に対して無益だということ。この構図・仕組みを発信する側から捉えると、イメージ過多になったり、言葉や論理に偏重することが、いかに違和感や摩擦を生み出しているかという考察になります。

 「天衣無縫」のような成果物を生み出したいものです。誰が生み出した言葉なんだろう?

陽気な1年に。

 昨日、テレビで「陽気な国ランキング」というアンケート結果を紹介していた。ダントツ1位はブラジル。なんかよく分かる。ブラジル人の友人はいないが、印象として陽気のカタマリのようなイメージです。アンケート結果も45%で、このブラジル人に対する陽気な印象は国際的にも確定事項なんだろう。陽気にもいろいろあるから、陽気だからなんだ?というひねくれた捉え方もできるが、私は陰気よりも陽気な方が好きですし、何事にも陽気で楽天的でありたいと思っていますから、ブラジル人の本質的な陽気さ加減が大好きですし羨ましい。

 一方、日本人はといえば、お約束の最下位で4%だった。恐らく下位だろうなとは思っていたが、最下位だとは、ちょっと、ショックでした。恐らく「勤勉」「実直」「まじめ」あたりの印象が日本人の印象なのだろうし、その評価というか捉え方は適正だと思いました。しかし、最下位なのです。この結果を陰気な日本人はテレビで見て、不思議ポジティブ思考に捉えて「陽気=無能」「陰気=有能」などという閉鎖的な断片的な方程式で捉えているから、気質・本質が世界的に「4%」という評価として数値化されているのでしょう。

 奇しくも昨日は私の51歳の誕生日でした。多くの方からSNSを通じて「お誕生日おめでとう」メッセージを頂いた。ほんとに嬉しい。あまりよく存じ上げない方からも頂いたが、やはり、うれしい。あるデータで世界中のサーバに保存されている一番多い言語は日本語だということらしい。ブログやSNSがそれほど活発だということだろう。対面ではないモニターや回線を介したコミュニケーションが本質的に好きだという証拠。私自身、8年ほど前からこのブログを初めて、顔の見えない方とのオンラインのコミュニケーションを実感したのですが、楽しいか?楽しくないか?で言えば楽しい。楽しいのですが、その楽しさは対面で馬鹿言い合う楽しさや、山や湖に出かけて仲間達と騒ぐ楽しさとはちょっと異質で、確かに楽しいのですが、心が震えないという実感があります。「言葉」は感情を適度に刺激はするものの、本質的に「入ってこない」曖昧なモノです。それを感情で捉えるものの、自身の感情も存在していない曖昧なモノなので、感情ゾーンの「楽しい」からレベルが上がらない。嬉しくて感謝しきりなのですが、心が震えないのです。

 逆に私も誰かに同じことをしているということなのですから、デジタル全盛時代のコミュニケーションテクニックは難しい。まぁ、などと独り言を言いながらも、この1年、できるだけ陰気な感情はオフにして、陽気な一年にしたものです。明るく元気で活動的な51歳にしたいと思っています。

 というか、この文面がすでに陰気ですね。陽気テクニックがまだまだ未熟・未開だということです。

 まぁ、「決定を下す必要のない時は、決定を下さない必要がある。」ともいいますから、陽気に捉えていきたいと思います。何事も本質的に。

ロープは押せない。

 もともと、思考を整理することが得意ではない私がたどり着いた思考術のバイブルの中に、「マーフィーの法則」という書籍がある。「理論で対応できることは理論領域だけ」なのである。お互いの曖昧な感情を理解し合うために、互いの理論コンディションを整えても、双方に曖昧な感情は遺留する。伝えられた(受け取った)情報だけをパーツに再構築したモノは歪でいつか分裂する。しかし、イメージで捉えた情報は時間の経過と共に心(頭)の中に刻まれ物語になる。伝えるためには理論とイメージを時間軸の上に並べ、物語にするしかないのです。だから、「ロープは押せない」のです。

自己新。

 陸上をやっている娘が昨日の記録会で100mと200mの自己新を出した。冬の間、厳しいトレーニングを続けてきた成果である。自身も中学の頃は野球をやりながら大会の時だけ陸上(短距離)をしていた。高校時代も冬のトレーニングは厳しいトレーニングだった。私は野球のセンスがなく中学生の時に陸上の練習で太ももを故障したため、中学後半から高校時代はまったく、みじめな想い出しかないので、中学・高校と陸上を頑張っている娘が公式の記録会で自己新を出したことは、自分のこと以上に無類の喜びです。

 社会に出るといつも仕事に追われ「自己新」と無縁になる。当然、年収で一番になれるはずもないし、デザイン力で日本一になれる脈もない。毎日、仕事を頑張っているし、貪欲に知識やテクニックを向上させようと努力しているが、やはり「自己新」とは無縁の生活サイクルです。たまに山に登り体力・気力を曖昧に実感するレベルだから、何か具体的に挑戦したいと考えているが、適正な舞台もそうそうあるわけではない。だから、なんでもいいから「自己新」を意識できる挑戦をしたいものだと常に気持ちだけは虎視眈々なのです。

 年々、視力も知力も低下している中、体力も比例して決してずば抜けたモノでもないし、テクニックを磨こうにもひとつのテーマ・ジャンルに夢中になれる状況でもない。いずれにしても中途半端で曖昧な時間を過ごしていることが、なんとももどかしいです。

 これが一般的には普通なことなのでしょう。しかし、何か自分の好奇と熱意をぶつけられるステージが欲しいと思います。この歳になるとその選択肢も限定されますし、なんでも「ホドホド」「ボチボチ」レベルで終わりがち。突き抜ける感覚をなんでもいいので実感したいです。

 あ~あ、あと10日で51歳です。トホホ。

長浜駅前「グラシアさん」

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 意外にも長浜の駅前に素敵なカフェを発見。ずっと前にオープンした駅に隣接する結婚式場と居酒屋さんだと思っていたが、ふと、別の入口を入ると素敵なカフェでした。なかなか落ち着く空間だったので、また、コーヒーを飲みに伺いたいと思います。意外と!?このタイプの素敵なカフェは長浜にはなく諦めていたので、ちょっと嬉しい発見でした。
 喫煙席もまた素敵。

ぶれる。

 「方向性がぶれる。」「戦略がぶれる。」「スイングの軸がぶれる。」と言いますが、一度、確定したかに思えたことが何故ぶれるのか?ビジネスの現場でも日常生活の些細な場面でも、ゴルフのスイングについてもこれは大きな問題です。大企業が経営方針について各部署で会議をし、そこで決定した案を上層部に持っていく。役員会や株主総会でもその経営方針案について議論・協議し、最後はトップが結論を下すという流れ・構造でも、ワンマンなトップがいる企業と、各派閥が蠢いている企業とでは、当然、議論・協議の密度や速度が異なり、最終的に確定する経営方針の質も異なる。2つのタイプのトップを比較して、どちらがいいのか悪いのかではなく、本来は企業の本質と組織力とトップの資質がマッチしていれば、恐らく企業の経営方針が大きくぶれることはないのだと思います。
 しかし、個人スポーツ競技の世界やクリエイターの世界では、社員も役員も株主もいないので、常に決定は自分一人でしなければならない。特筆して「スイングの軸がぶれる」という引用で言えば、絶好調のプロゴルファーがパットやドライバーや体調管理やメンタル管理を理由に絶不調になることはよく聞く。あんなに綺麗な理想的なスイングをしていたのに、予選を突破できなくなる。いつでも優勝争いをできるような油ののっているような体制に見えて、スコアは見事に浮沈を繰り返す。これは何がぶれているのだろう?プロゴルファーの生活リズムや練習の質など詳細は分からないが、プロとしてスポンサーを背負い、成果を出すべく努力するレベル・クラスのプロでさえ、簡単にぶれるのです。
 私の実感で言えば、もがいて苦悩すればするほど、ぶれてほしくない部分がぶれる。守ろう、確定しようとすればするほど、理論も体感もほつれ、ぶれはじめる。こレが確証だ!とガッツポーズをした瞬間からその確信がぶれるのです。だから、いつの頃かあまりガッツポーズはしなくなった。よほど嬉しいとき感動的な時ぐらいに右の拳を固めるぐらい。このような小さな努力もむなしく、心やテクニックや理論・理屈は常にぶれる準備をしているのです。ひらきなおることもできず、さりとて、固めることもままならないこの心やテクニックのぶれとはどうつきあうべきなのか?永遠の課題、永遠のテーマです。これを解決・解消してくれる本を入手したいです。

 でも、ぶれたくないという一心でリサーチし購入した本って応急処置には有効なのですが、結果、ガッツポーズと同じで読み終えた瞬間から次のぶれが生じる。だから、次へというこのループも止まらない。結局、ぼぉ~としているのが一番よく、情報を遮断して孤立している人が一番ぶれない仕組みなのかなとも考えてしまいますが、心で生きている以上、マシンではないので完璧にぶれを停止することはできません。逆にぶれや摩擦や誤差やバッファを利用して前に進む思考力やテクニックを見つけることができ習得することができれば、それがベストテクニックなんだと思います。自分のニュートラルポジションが実感できればそのテクニックが見えてくるような感覚です。

ポジション。

 例えば、ゴルフの練習場に行くとネットが広がる空間に練習打席が一列に並んでいます。ゴルフを始めた頃、吹田に住んでいたので吹田市の練習場や江坂の練習場に行っていました。クラブも会社の借り物でとにかくボールを打つ練習をする目的でした。初ラウンドを強引に上司に決められてとにかくボールを前に打つ練習。ぶっつけ本番でも仕方ない状況でしたが、一緒にゴルフを始めた仲間と練習場に通い、近くのショートコースでラウンド経験を実感するという準備をしていました。まともにボールは当たりませんし、クラブの知識もスイングの知識もまっさらなビギナー状態。当然、自信のカケラもありませんから、練習場に入るとすでに一列に並んで、ボールを軽快に打っている人達がとてつもなく上級者ぞろいに見える。そんな上手い人の間に挟まれて練習するのははずかしいので隅っこへいき練習をしていました。この状況ってゴルフに限ったことではなく、サラリーマンデザイナーの頃は経験が浅いと会議の席も末席あたりで目立たないポジションを選び、発言も控え気味。経験値のあるディレクターがグイグイと企画会議を進めるのについていくのが関の山。まともな意見も言えず企画主旨や会議の流れを経験することだけで精一杯。これはビギナーのポジションです。
 学生の頃も始めてのアルバイト先では経験者からの指示のまま言われたことを忠実にできるようにとだけ集中して、極力ミスをしないようにと心がけているだけでいっぱいいっぱい。業務の流れやトラブルの回避など気がまわるはずもない状況です。と、経験値が浅かったりスキルが低い時って、人って自然と控えめなポジションに身を置きます。逆に控えめなポジションにいる人を見ると、「あれ、この人は経験があまりないのかな?」とか、「まだこの人は自信がなさそうだから、応援してあげよう」などと勝手に思ったりするものです。
 経験やテクニックが身についてくると自然とそんな外のポジションから中心へ移動していくもので、ゴルフの練習場の場合は、上手い人の間でも、中央部分の打席でも、あまり回りの人達を気にせず打席を選びマイペースに練習するようになりますし、会議の席でも上の席や中心に自然と座るようになり、当然、意見や会議の進行に関するようなことにも配慮できるようになり、企画の流れに対してもいろいろな角度から意見を言えるポジションに座ります。このように趣味の世界でも仕事の現場でも自分のポジションっていうのは自身の経験値やテクニックを自己分析した上で決めてる傾向が強く、自身振り返ると武骨で無神経そうに見えて意外とビギナーの頃は空気を読んでデリケートだったと振り返っています。この「自信」ってあまり年齢に関係なく年配の人でも経験の少ない人は自然と受け手に回ったり、年下の人でも経験値や自信がある人とコミュニケーションしているとグイグイ提案や意見で切り込まれたりするものです。こんな時は空気を読みすぎて自分のポジションが分からなくこともあり、自分のポジションを見極めるってとても難しい。主張もしたいけれど恥じもかきたくない複雑な自我との和解点を見つけるのは非常に難しく、多様なケース・状況に合わせてこうあるべきだなどという処世術の書籍もたくさん読みますが、当然、正解のない世界ですから、自分なりに試行錯誤してアンテナを高くしてそれぞれのケースに合わせた自分の適正なポジションを見つける必要があるようです。
 家庭でも父親のポジションが昭和の時代から落ち気味だとテレビで報じられたり、新聞・雑誌で書かれたりしているのを読むと、「へぇ~世間一般にはそうなんだ。」と妙に関心しながらも違和感を感じたりするものです。自身の「父親像」など明確に持ってはいないし、とにかく自分らしく立ち振る舞いたいとしか考えていません。50歳になりデザイナーとしてクリエイターとして社会人としても、こうあるべきだというテンプレートは世の中にいろいろ存在しているようですが、この部分についてもあまり関心は薄いです。反発するつもりも容認するつもりもなく、常にニュートラルに自己評価をしながら、適正な関係性をそれぞれに築いていければそれがベストなんだ、それがベストポジションなんだと思います。
 いやいや、人間、50歳になるとこんなことばかり考えてしまうのです。ただ、20代30代の頃よりは少しばかり経験もありいろいろなテクニックもあると自負があり、こんなことを考えることが楽しくなっている実感もあります。

 ちょっと今日は長い独り言(心のつぶやき)でした。

春っすね。

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 今年は雪の多い冬でしたが、いよいよ春がやってきました。毎年この時期になると感心するのですが、秋に葉が枯れ落ち、冬には雪を受けながらじっとしていた植物が、少しづつ新芽を出し活性が上がります。この季節は生命感をふとした街の風景の中に発見してしまいます。毎年のことなのですが、植物はそのサイクルを絶対に崩さない。このサイクルを繰り返しながら少しづつ少しづつ幹や根を太く大きくしているのです。そんなことを考えているだけでも、しんみりと春を感じてしまいます。はじまりとか別れの繰り返しに感傷的になる前に、淡々と季節と共に「繰り返す」という単純なことを人間はもっと意識するべきなんじゃないのかなと思います。
 人間の心や身体はちょっと動き過ぎるのかもしれません。

加速装置。

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 元来、何事もそそっかしく、おてんばな気質の私は、思考も行動も落ち着きがない。東京で仕事をしていた頃は会社の同僚に「堪忍袋の緒がない。」と言われたように切れるまでもなく、どうやら、気質的には「堪忍袋」本体のようなところがある。いやいやこんな気質では失敗の連続だし、いつか致命的なミステイクを犯すかもしれないと、慎重に謙虚に優等であることを目指してはいるが、いかんせん、本質はおてんばなもので「折り合い」が難しい。では、この気質が仕事面でどう作用しているのか?という疑問がずっとありました。だから、このタイプの書籍が気になるのでしょう。この書籍は読めば、「そんなつまらないことを考えず、あなたはあなたの気質のままどんどん加速してくださいね。」とでもいう内容を発見できたら嬉しいのですが。さてさて、この書籍は「じゃ!どうする?どうしよう?」ってマイティーロングフォールな気持ちになるのです。

 とは言え、結果、やっぱ買うのですが。

マグネット。

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 カミさん曰く「しょうもないモノ」が私の身の回りには多いと。しょうもないのか否かは価値観の違いとしても、自分自身が心を動かされたモノに対して、しょうもないと評価されるのは自分自身の感覚や判断力に罵声を受けているようで辛い気持ちになる。この商品の価値が分からないのはセンスがないからだなどと気分次第の水かけ論で鎮静することは簡単だが、そうではない、「しょうもないモノ」という評価について、デザインの仕事やアート的な捉え方や解釈論理を適用すると、共感できない表現や機能性はすべて「しょうもないモノ」となる。しょうもないという評価は劣悪なのか?拒絶なのか?無関心の対象として評価されているのか?など、ここをなんとか自分の中で整理したいのですが、ここも実際よく分からない。「価値がある」と「価値がない」の間にはどれだけの深いクラック(氷の亀裂)なのだろう。例えば、私自身は「酸素」はしょもなくないモノだし、「ダイヤモンド」もしょもなくない。しかし、「カーナビ」「ブランドの時計」「高額なフレンチ」はしょうもないモノと解釈してしまう自分のような資質(捉え方)は、やはり、一度、クラックの中へダイブして確認してくる必要があるのだろう。若い頃なら、クラックをジャンプ一番、飛び越えることができたのだろうが、この年齢(50歳)ともなればその跳躍力はない。さらに目視確認できないそのクラックの暗部が無性に気になる年齢でもある。勇気を振り絞りクラックにダイブして虎の子がいればいいのですが、氷層まで戻れず凍死の危険性もあるわけで非常に難しい判断なのです。まだ、凍死はしたくない。

羅生門

 小説「羅生門」を引用した国語のマークシート形式の入試テストについて、ある著者が独自の考察・分析を述べていた。
 薄暗い空間、多くの屍の中で力なく佇む老婆。老婆は女性の死体から髪の毛を一本一本抜いていた。という場面で、その光景を目の当たりにした主人公が老婆に対して何を感じたのか?という入試問題が事例としてあげられていて、解答には4つの選択肢があった。いつの時代からか入試テストの正確性を高め、効率化・システム化する目的で導入されたマークシート方式に対する著者の考察・分析である。
 自身、何をどう振り返っても本確的な大学受験に対する勉強を経ているわけではないので、あまりマークシート形式のテスト問題に対する是非に興味はないのですが、その著者いわく、出題者の傾向として3番目に正解を設定するケースが多く、正解に迷った時は3番目という作法があるらしい。また、国語の問題文に具体的な内容があればそれは不正解への誘導であるという作法もあるらしく、本来の長文読解能力とは無縁のこの「どうでもいい作法」の存在にまず驚いた。
 さて、主人公の感情を明記した4つの解答例があったのですが、それも私自身、これが正解だという決定打に欠けるものばかりで、これかな?というニュアンスの解答を選択したのですが、その答はこの問題では不正解で、広義的で最大公約数的などうにでも捉えられる答が正解となっていた。4つの答をここで抜粋することは割愛するが、この正解文を納得することはできなかった。私の国語力の未熟さがそう判断させていることに他ならないのですが、にしても、しっくりこない正解文だった。
 著者が描く世界観を出題者の捉え方でひとつの正解に導く、しかも、たった4つの文例でという、正解選択型の能力を得て、それを何に応用するのか?という疑問だけがその一節から残り、その後、書籍を読み進めるも釈然としないそのマークシート形式の問題の下りが尾を引き、まったく、その一冊は残念な読後感に終わった。結果、著者は最近の学生の長文読解力の低下を嘆きたかったのだろうし、そういうマークシート形式で能力の優劣を決めている日本の教育システムを否定したかったのだろうが、その前に、「羅生門」という作品の魅力の読解力のイロハについて書いてほしかったという気持ちだけが残った。しかし、この部分は著者の気質なのだから、そういう本を選択したのは私なのだから、何をどうこんなところで愚痴っても仕方がないことなのですが、このタイプの「残念な感じ」は書籍に限ったことではなく、いろいろな事象や出会う人にも適用できることです。言いたいことは分かりますが、の次にある、その裏にある気質が「巧くない」とこうも残念さが誇張され特筆され心に定着するものなのかと、改めて気づいた、気づかされた一冊でした。その書籍と著者名はこのブログには書きませんが、書籍をつくる上で充分に注意しなければならない大切なポイント・テクニックなのですね。深い。

何故?本を読むのか。

 よく「スギノさんは何故?そんなに本を読むのですか?」と聞かれる。理由は明確で本が好きだからである。仕事で学校に行くと、昔(小学校や中学校の頃)の感覚が蘇り、自然に図書館を探してしまう。今日も中学校の広報誌の打ち合わせで中学校に行ってきたのですが、広報の編集会議が図書館で開催された。15分ほど早く事前に担当の先生と軽い打ち合わせをするために行ったのですが、必要な校正を渡したらそのまま編集委員の皆様が到着するまで図書館にいた。ベストセラーから専門書や中学生向けの図書がならんでいる。本棚に整然と収まっている書籍を見ているだけで気持ちが高揚する。知っている著者やまったく知らない著者、日頃から気になっているテーマ・分野の書籍から、興味のないジャンルまで、図書館にいるだけで心地いい。ひとつアフリカの奴隷が主人公のノンフィクションを手にする。嵐の大西洋。船の倉庫に押し込められた47名の黒人奴隷。勇敢な主人公は鉄の手錠を付けられた素手で、船の床のゆるみかけた釘を抜き出すことに集中する。力を込めて釘を捻るために指の先は切れて血が出てもなお、力を込め続ける。血だらけになりながら釘を床から抜きその釘で手錠を外し、他の黒人達の手錠も外す。そして、怒れる黒人達は倉庫のドアをやぶり、白人達を・・・というところで編集会議の時間となり、その本を棚に戻した。
 もし、打ち合わせとか仕事でなければ、そのまま図書館でその物語を最後まで読みたかった。
 本が好きだから、本を読むのです。それが空想でも史実でも記録でも独り言だとしても、本はいい。何故ならすべて完結させている(完結させようとしている)美しさと心地よさがあるのです。と同時に完結できなかった著者の悔いが文中のどこかに必ずあり、その悔いを読者は引き受ける責任がある。それも含めて本の魅力です。
 主人公の黒人はその後、自由を取り戻したのだろうか?

たくさんの友達。

 日本の人口が1.2億人。各県単位、市町村、または会社組織に自治体、各学校の学年単位から、親戚関係など様々な規模(人数)の属性があるが、SNSでよく使われている「たくさんの友達」とはどの程度の規模を指すのだろう。石器時代、ひとつの部族はマックス150人だったらしいし、アフリカなどの原住民の部族の単位は30~100人単位。核家族化が進みひと家族が3~4名、3世代なら4~6名となる。この規模で現代人は仕事をして日常生活を過ごしている。
 さて、この現代の「たくさんの友達」とはどれぐらいの人数だったら一般的に心地いい数値なのだろう?SNSの中の友達の数、ツイッターのフォロアーの数、実際記憶しているリアルな友達の数。「友達」の価値を決める優先事項が「よりたくさん」ではないはず。さらに、インターネット上の「知人」を「友達」と認識するための条件とは何だろう?お互い「いいね!」を一回でもスタンプしたら「友達」なのか?お互いラインのIDを持ち、端末同士つながっていれば「友達」なのか?原始の時代、文明もなく大自然の中で暮らしていた人々のコミュニティーの単位は150人だった。そこから人間の本質は変わっていないのだから、当然、具体的に意識できる人数は現代でも150名ぐらいだろうと思います。進化したの文明なのですから。さらに、その中で自分の「友達とは?」と目をつぶり頭の中に浮かぶ顔は7名ぐらいだ。この数値が多いのか少ないのかは気にしていないし、「友達の数」をそもそも気にしても仕方ないと思っています。さすがに「友達0人」は厳しいかもしれないし、私が「友達」だと思い込んでいるだけで、相手にしていればただの「知人」だということも充分にありえる。だから、結局、「友達のたくさんさ」を気にしても仕方ないのです。
 つまり、「たくさんの友達」というフレーズを突き詰めて考えると、曖昧であり正解はないので、気にしても意味がないという結論に落ち着くのです。
 原始の時代、さて、「友達」という価値観はあったのだろうか?もしかして、「友達」も文明のワンピースかもしれないですね。

感情的になるとは?

 こころの状態を自分のこころが感じている以上、なかなか正確(客観的)に捉えることが難しいです。ただ、客観的という言葉の使い方を知っているだけにとてもさらに複雑です。通勤途中、日常生活、会社での仕事現場、常にこころは何かしらの波風をたてていて、あらゆる情報や状況に敏感にレスを返しています。不満、怒り、不快、いらいらなど絶えることなく常に。これらをすべて拒絶してシャットダウンすればこころは晴れるのでしょうか?そうでもないようです。こころが感じる刺激にはいいことと悪いことがあります。そして、脳(こころ)は常に自己評価において優先順位を瞬時に判断し、本質(好み、損得、正誤)を見極めています。そして、優先順位の下位を忘れていく仕組みです。いつでもニュートラルな状態を維持することができれば、「あんな失敗」や「こんなトラブル」や「もっと追求できた」こともあるでしょう。しかし、こころは自由に情報に対して上下し浮沈を繰り返す。感情的にならないなために、こころのスイッチをオフにすればいいだけだということに対しても当然一喜一憂喜怒哀楽が作用しています。
 ただ、ひとつ確実なことは感情の起伏は時間の経過と共に自然とおさまるということです。イライラもワクワクも時間の経過が解決しフラットなレベルにしてくれるということです。しかし、感情的なスイッチが入り、さらにその感情を増幅させるタイプはこの感情がおさまることなくいつまでも不安定な状態を続け、さらに大きな失敗やトラブルを自分で招いていると言えます。
 「まぁ、いっか!」と気分転換をするテクニックが高い人は状況判断が早く対応力のあるタイプです。いつまでも同じことを根に持ち理屈や道理で世の中に対する遺恨を保持している人は、気づきも有益な実感も快活で軽快な思考も自分で放棄しているとも言えます。こころは時間と共に自分の本来のレベルに沈静化してくモノ。氾濫飽和する表面的な情報の中から本質を見極めるテクニックがあれば、いつでもベストコンディションであらゆる状況に対応できるでしょう。「そんなの理想だ。そんなに簡単に処理できれば苦労はしないよ。」という道理や理屈から一旦距離を置き、自分のこころのニュートラルポジションから情報や先入観を捉え、日常生活を仕事を人生を前向きに送りたいです。

 私自身、どちらかと言えば、「堪忍袋の緒がない。」タイプなので、この努力はひと一倍こころしていますが、なかなか難しいです。ヨーダのように本質のフォースを使いこなすためにも、常にこころとこころのバトルは続くのです。

424回のテクニック。

 納豆を究極に美味しく食べるためには納豆をかき回す回数が424回がベストだとのこと。実験の結果、この回数(定数)が割り出されているとしても、この回数に魯山人を組み合わせるのはいかなものだろう?まぁ、魯山人と言われても個人的にあまり興味はないから424回の信憑性に疑問を抱くのだが、魯山人ありきの人ならば、もしくは、「魯山人です。」というテイがベクトルにマッチしているタイプなら、この424回は究極の数になるという仕掛けなのだろう。納豆は美味しくいただきたいタイプだが、個人的には約30回ほどでいいと思います。

 ただ、424回を納豆を高速でかきませるテクニックとなると美味しい美味しくないに関係なく、確かに優れたテクニックだと思うし、私のように無頓着から約30回ほどかき混ぜて美味しいと感じるタイプと、しっかり424回かき混ぜて「美味しい」と感じたいタイプの間にはテクニックの重要性に明確な温度差がある。テクニックって「狙い」や「目的」に合わせて上下に変化する。それは個人差だから仕方ないのだが、狙いや目的が同じ、もしくは、同じ以上を目指しているのならテクニックも同様に「以上」を同軸で求める必要があるようです。「より早く」「より深く」「より広く」に限らず、テクニックを追求することとは、結果、「狙い」と「目的」次第なのです。

 やはり、より美味しく納豆を食べたいのなら、424回がベストなのだろうか?

失敗作。

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 いくら最新のパン焼き機でもイースト菌を入れるのを忘れるとこうなるというサンプルです。これは誰の作品か?それは絶対に口が裂けても、お伝えすることはできませんできません。

高等遊民

 「高等遊民(こうとうゆうみん)とは、明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由がないため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のこと。閲覧できる範囲では『読売新聞』明治36年(1903年)9月25日の「官吏学校を設立すべし」での論説が、高等遊民に触れられている最も古い資料である。また、一時期は上級学校への入学や上級学校卒業後の就職が叶わなかった者が高等遊民となり、高等知識を持った彼等が自然主義、社会主義、無政府主義などの危険思想に感化され、それらが社会問題に繋がると考えられていた。」ウィキペディアより抜粋。

 最近の杏さんのテレビドラマで初めて知った言葉「高等遊民」。太宰も森鴎外も夏目漱石も康成らのスタンダートな名作はほぼすべて読んでいるが、その主人公たちが「高等遊民」という名称の属性だったとは知らなかった。改めて言葉のニュアンスの多様性に驚きを感じている。

 さて、「ニート」か「引きこもり」か「高等遊民」か?という議論がこのドラマではよく登場するのだが、定職に就かない人を総じて悪いと思ったことはなく、心のどこかで羨ましさを感じてる自分もいる。確かに漱石や太宰の描く物語の主人公は現実離れしていた。行動・能力・思考が独自で浮世離れしていた。その感覚が美辞麗句にまみれ憧れとなっただと理解しているが、否定は全くしていない。一方、主人公の一人杏さんはガチガチの理系女子。明確な根拠と理論で日常生活を送っている。志も高く実力も能力もある。しかし、一般常識には欠け、いわゆる空気の読めないタイプ。この二人が織り成す物語を介しこのドラマの制作者な何を訴えたいのか?ただ、数字狙いの異物と鮮度の高い物語を現代の風潮に照らし比較させたかったというだけではないだろう。

 ここで「仕事」という価値観が明確に浮き彫りになる。「働かざる者食うべからず」なのか、「悠々自適の輝かしき隠匿生活はあえてあり」なのか。現代に大きなメッセージを投げている作品です。誰に師事したわけでもなく自分や家族の生計は己で稼ぐことが当然と捉えてきたが、もし、一生遊んで暮らせる金銭的な余裕があれば自分自身はどう立ち振舞っていたのか?とも自問してしまう。高等遊民のルートを選択したのだろうか?そのような状況でも、仕事の意義に正面から取り組み自分の存在を社会に照らし合わせ、ひとつでも多くの確信や実感を貪欲に引き寄せ、成果を生み出すために試行錯誤したのだろうか?と。

 多様な時代、本質を見極め自己評価を1点に絞り込むことは難しい。ただ、無駄なノイズが多い時代だということも明確だ。瑣末なことも多い。

2015年の僕。

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 ということで今年の年賀状。50歳になり何事も落ち着いて冷静沈着に謙虚に、年令相応にやるべきなのでしょうが、本質の部分では「ちょっと前のめり」のままで行きたいと思います。若い頃の老婆心や蛇足やフライングはしないできないとしても、ちょっとだけ前のめりの前傾姿勢で進んでいきたいです。まぁ、どっちが前か自分で決めるしかないのですから、相棒がいて、パートナーがいて、ライバルがいる以上、どんな些細な勝負もおそろかにすることはできません。じっくり熟考することも大切。しかし、考えすぎは成果物を鈍化させ致命的な敗因になることも知っている年齢なので、「冷静・謙虚」と「前傾姿勢・勇み足」を天秤にかけ、微妙なバランスで2015年というブレードの上を駆け抜けるランナーでありたいです。

2014年12月31日に思うこと。

 いろいろあった2014年もあと数時間です。このいろいろが整理できていればもっとそれぞれの実現率が高められ成果につながったはずなのにという気持ちと、この気持ちをしっかりじっくり継続させて2015年に繋げていこうという決意でこの年末を過ごしています。そういう気持ちで年賀状のイラストも描きましたし、継続している案件は年末年始で気持ちを切らずにしっかり繋げていこうと思っています。本年は50歳の大台にのり、かなり自分の人生を振り返った一年でもありました。現実はそんな余裕があるほど成果をあげているわけではないのですが、50歳という年令は考えることがとても多かったです。また、老眼をはじめ体力的にも確実に低下している現実や記憶力ひとつにしても、驚く程の低下ぶりに愕然としながらも、それならそれなりにと体力の低下や記憶力の衰えを補う工夫に取り組んだ現実もあります。若い頃のように勢いは次第に低下する反面、粘り強くなることや冷静に謙虚になる方法にも努力した一年でした。結果、狙いばかり先行して達成率が低かったこともひとつづつ一歩づつ前へ進めることもできましたし、狙いに沿っていなければ勇気を出して停止させ、妥協せず折衷案で折り合いをつけることもせず、一旦立ち止まりしっかり思考し、適正な前進を再開するという実感もありました。ようするに、確実に身体能力や思考力が低下しているが、世の中の流れは加速しているという焦燥を一旦認め、自分のスタイルや思考術やスキルを案件のために冷静に謙虚に確認するということがどうしても必要になったということなのです。だからと言って狙いをコンパクトにしたくないという葛藤もあり、この50歳の折り合いに対してどんな試行錯誤が適正かについて悩んだ1年でもありました。
 確実に思考力は20代30代40代とは低下しているのですが、いやいや50代には50代のやり方があるだろうと探究心と好奇心をひねり出す感覚です。とは言え、そんな50歳のおっさんの願いとは裏腹に時間は淡々と進んでいきます。ただ、与えられたり自分が触手を伸ばした案件を消化試合と捉えず、都度、新鮮な気持ちで取り組めるようになりたいと願っています。
 このような気持ちで、これから出会える案件毎に「軽快に」「丁寧に」「謙虚に」取り組める2015年にしたいと思っています。そんなことを考える12月31日です。

タバコ

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 気がつけばタバコは「やめられないモノ」になってしまった。私だって肺癌にはなりたくないし、路上に吸殻を捨てることは100%していない。しっかり喫煙場所ですっているし、最近は車の中も禁煙にした。当然、自宅の中でも100%すっていない。なぜなら「やめなくてはならないモノ」だから。逆に富士山に登っても吸うしバス釣りの最中なんかボートの上で1匹釣る間に2~3本は吸う。仕事の最中も、仕事場から階段に出て吸っている。「肩身が狭いでしょう?早く、スギノさんもタバコをやめればいいのに・・・」などと言われること日常茶飯事だが、その程度の助言ではYESとは言えない言えない。では、どの程度の助言ならやめるのだろう?たった一回だけ人生でタバコを吸わなかった空白の90日間がある。それは、健康診断のレントゲンで肺に白い影が映ったから。1回目の検査でガクゼンとして2回目の再検査までの90日間、見事にタバコに火を付けなかった。結果、老化で肋骨が石灰化した影だったので病院を出て一服。
 やめられないモノだからやめないのか、タバコはブレインワークの必需品だなどと適当に自分勝手な理屈で美味しいと誤解しているのか、ニコチンが切れるとイライラするという言い訳に依存しているだけなのか、正直、自分でも正しい軸がわからない。
 あれ?なんで好きなモノをイチイチ「分かる」必要があるのだろう?好きなモノは好き、嫌いなモノは嫌いでいいじゃん。みんなそうでしょ。最低限、吸わない人に故意に煙を吹きかけるなどというモラルが欠如した行動はしていないのだし、「健康を害する可能性があります。」とパッケージに書かれているにも関わらず20本を平均¥430で買っているユーザーなのだから、世間一般のルールに従い、¥430分の楽しみを確保するぐらいいいじゃん。どうやら、私のようなタイプは身体が健康なうちはタバコをやめられそうにもない。

奇跡の虹?虹の奇跡?

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 昨日は湖上でバス釣りをしながらいろいろな着想が生まれ充実したひとときでした。ほぼ1年ぶりの大野ダムだったので、釣果は33センチが1本というシブイいつもの大野ダムでしたが、それでも渾身の1本を与えてくださるあたり大野ダムの神様もなかなかの配慮です。

 ということで仕舞い仕度をしていると終始曇天、時折激しい雨という一日でしたが、突然、青空が見えてこのレインボー!大野ダムの支配人曰く「長年ここで働いているけど、こんな虹は初めてやわ!」とのこと。動いて場所を変えるとこのようなサプライズに出会えるのです。3年前、富士山の5合目で見た観測衛星の夜空を横切る光と同じぐらいドキリとするサプライズ感がありました。

 よくよく見れば、虹の右下(虹の出発点)が一匹釣ったポイントと同じ場所でした。

 解釈次第、捉え方次第でただの虹が奇跡として捉えることができるのです。虹もバス釣りも仕事も同じなのです。

三毛猫

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 ネコ君、来年も同じ場所でまた会いましょう。

W.P.STATION

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 懐かしいホワイト・プレーンズの駅。

絵になる人

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 勿論、美人でキュートで可愛いのですが、しかも、絵になるという。スポーツの世界なら「強い」が条件だし、ビジネスの世界なら「独自性」が条件。ルックスだけで価値を生み出すって奇跡の領域。アナやピクサーの最新技術でも踏み込めない領域。醸し出す人と翻弄される人の関係は理論や方程式が成立しないゾーンなのだろう。そもそも「キュート」という語彙の先にある解釈や感受性を分析できたら、そのソースで世界を変えるコンテンツを生み出すことができるだろう。人口頭脳が猫の顔を認識する幼児レベルから、「キュートさ」を判断できるレベルになったとき、その状態は人類にとって「進化」かもしれないし、「退化」かもしれない。どこかで、技術と本能がすれ違う場面がいずれ来るのでしょうね。ウォズニアックあたりはどう考えているのだろう?

ここが大連か。

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 なるほど、ここが大連か。いろいろ言われているが実はホントはどんな街なのだろう?一回、行ってみたいものです。

匠の技

 100年以上職人が培ってきた匠の技がある。歴史や文化を支え私達の暮らしを支えてきた匠の技だ。ふと、私自身はそれらの匠の技を継承しているのだろうか?という疑問が心に浮かんだ。モノヅクリ、デザイン、アートに関する仕事を続けて来たが、次の世代に伝えるような匠の技があるのだろうか?と。伝統工芸に携わっているわけでもなく、第一次産業に精通しているわけでもなく、デザインの世界でただ試行錯誤し、常に新しいテクノロジーや市場のニーズに呼応・順応することだけを目指してきたが、これらの展開は日本の匠の技と比較したとき、意味や価値があったのだろうかと。芸術の世界は古来の技と精神的な意図や概念を根底に捉え、現代のニーズにマッチした価値を生み出し続けている。さて、デザインの仕事の場合はそれが何に相当するのか?「匠の技」というフレーズを前にして、改めて考えることが多い。恐らく、若い頃ならば「匠の技」の世界について、無関心でいても、目の前の小さな目的をクリアすることで精一杯だったから自分の思考のサイクルも小さいスパイラルでよかった。しかし、年齢を重ねる毎に、いや、年齢を重ねたからこそ、「匠の技」という言葉の芯の部分が、自身の心の芯の部分と呼応している感覚なのだ。過ぎた時間は戻らない。しかし、後悔の念は微塵もない。ただ、自分の中にある技とは?という疑問に対する解答を整理する年齢になったのだと捉えている。ただ貪欲に邁進した20代、僅かな経験を基盤により高みを目指した30代、持ちうる行動力と創造力と思考力で期待に答えてきた40代。そして、50歳になり、改めて自分とは何者なのだ?という疑問を引き寄せている理由。当然、答はまだ何もない。こうしてとりとめのない文章に書き出しながら、その答に少しずつ歩み寄ることができたらいいなと書き出している。
 
 私の最初のデザインの師匠は東北での宮大工のキャリアを捨て、デザインの世界に入られた方だった。私が東京を離れる前後に師匠も茨城に工房を構え陶芸の道に進まれたと聞いた。恐らく、師匠も50歳という年齢で何かを気づかれたのかもしれない。人間が50年という時間を生きると、オートマチックに起動・発動する「匠のスイッチ」があるのだろうか?半年たらずの短い期間だったが、師匠のマンションで実感したいろいろな体験が私の中に「匠のスイッチ」としてインストールされ、時限爆弾の赤いデジタル数字が「匠」へのカウントダウンを始動したような感覚だ。

 今、外は雨。師匠の曙橋のマンションに始めて伺った28年前も雨だった。

示したいこと。

 「リーダー待望論が蔓延して久しいが、日本社会が直面する数々の課題は一向に解決の糸口が見えない。それは、リーダーの定義の問題である。一般的、かつ万能なリーダーはあり得ない。置かれている状況に適した人格と能力を持ったリーダー、すなわち、シチュエーショナル・リーダーが必要だ。日本の次世代リーダーたちは「グローバリゼーションの流れをリードし、日本の未来を切り開くべき主体」として自らの能力や専門性に何を加え吸収し、それらをどのように統合し、活用していけばいいかを自覚するかどうかにかかっている。」

 「【日本企業の経営力低下より深刻な「世界から尊敬される日本人」不足】日本人は、東洋と西洋の良い面も悪い面も受け入れ昇華させる“特技”を持つ。さらに、古くから世界各国に起源を持つものを取り入れ学び、原型とは似ても似つかない多くのイノベーションを生み出してきた。私たちは比類ない強みを持っているのに、世界で存在感を発揮できていない。」

 という記事はよく読む機会があるが、いずれもあまり価値のない表彰状のようなモノだ。私たちはトロフィーや認定証が欲しいために生きているわけではない。全力でトライした断片的な結果が「トロフィーや認定」、「リーダーシップ」、「存在感の発揮」なのだ。最初からそれを求めてては正に本末転倒でしかない思考だ。統合するにも、活用するにも、自覚するにも、自分勝手な基準で推測・予測・査定しているから、対象が曖昧になり、断片的になり、鈍化する。

 それらの全ての原因が経済力の低下を引き寄せているのに、それでも、「絵の中の餅」をまだ食べたいらしい。「ITソリューション」「経済対策」「グルメ志向」はポンコツチームの主軸プレイヤーだ。「勝つ強さ」ではなく、「負けない強さ」を世界に示したい。

磁場や電気が見える。

 人間の脳が60%活性化すると磁場や電気が視覚的に捉えることができるらしい。誰もそれを実感したことはないだろうが、その手のイマジネーションには様々な仮説があるのだろう。100%活性化するとどうなるのか?これがこの映画の狙いなのだ。世界でもっともセクシーな女優とリュック・ベッソンのタッグがどのような世界を描くのか映画「lLUCY」は期待してしまう。

 少し前にもJ.デップの人工知能をテーマにした映画があり原作のみ読んだが、映画のテーマ設定の傾向と流れが、宇宙の旅からアルマゲドンになり、環境汚染やウイルスによる終焉になり、脳に向かっている。この流れにも誰かの意識が作用しているとしたら、「想像したモノは実現可能だ」という逆説もリアリティーを帯びてくる。

 とうもろこしは重力に逆らうために糖分を分泌するらしい。磁場や電気が見えたら人間は何を想像するのだろう?

 などと思考を巡らせながら、映画「LIFE」のショーン・ペンをもう一度楽しみたい。

ロビンの自殺

 生命感溢れる演技が魅力的だったロビンが自殺した。原因はうつだったらしい。アルコールや薬物に依存していたと報道されている。「レナードの朝」で不器用な医師を演じながら生きることの大切さを全身全霊で演じていたロビンが。あれだけの名優なのに、人はかくももろい生き物なのだ。ただ冥福を祈る。

カラスの朝食

今朝も元気にキャットフードを食べています。逞しい。

それも、また、必ず、去る。

逆に、必ず来るということだ。去るモノを追わず、来るモノを拒まず。いろいろ考えを巡らせていると、結局、同じ場所に戻ってくるような感覚がある。いつも同じ場所で高揚し、いつも同じ場所で落胆している。このパターンを無理に変えようとするよりも、環境の変化に連動することの方が意義があるという意味だろう。それは、思い出せないことが妙なタイミングでふと思い出せたり、思い悩んでいた状況が、雲間から日が差すように気持ちが晴れていくような感覚。「今回は耐えたなぁ~」「でも、まだまだ。」と鼓舞しながら、過去の後悔も、未来への不安も、そこそこにして、「今」この時を丁寧に生きましょうよという意味なのだろう。言葉は解釈次第。イライラしていても、消沈していても、それもまた必ず去るモノなのだから。

シクミシクミ。

 自分のクリエイティブスタイルを精査しようと体感や論理の法則を探究していると、いろいろなことを発見することが多い。まず、なぜ、探究しようとしているのか?という根拠が生まれたのか?ここが出発点なのですが、その奥にもさらに本当の出発点がある。芋づる式のこのループにどこかで適正にナイフを入れなければいけないのだが、「おっ、まだあるぞ」状態でなかなかナイフを入れることができない。掘り起こした芋がいろいろな形やサイズだったりするために、この驚きが楽しい。当然、手はどろだけらけで、不自然な体制で芋を掘っているために筋肉は疲労しているのですが、それでも楽しい。
 バスフィッシングのようにそこにバス君がいると信じてキャストを続けて、確証のない状態でも、釣り続ける、キャストし続ける感覚と似ています。確かにこの状態は「バスを釣っている」「バスを狙っている」状態なのですが、確証は釣れるまでないのです。昨日釣れたポイント、数分前に誰がバイトを取ったフィールドだが、自分にヒットする保証はない。だから楽しいのです。特にルアーフィッシングは餌釣りと比較してここの部位に意義を感じられなければ、ただの成形物を水に投入している行為に他ならない。しかし、魚を狙っているという意義に置き換えられるから、楽しさが得られるのです。
 クリエイティブの意義などと勝手に捉えているが、その意義、誰の意義でもなく私自身に全て収束していることを大前提に、だから、生み出すことが楽しく意義があり、生み出したコンテンツが誰かに評価を受け、リアクションを得られる実感があるからこそ、また、キャストするの循環。このシクミの効率やパフォーマンスを上げるためには、この循環のトルクを惰性でも余力でもいいから、永久機関のように五感でエネルギーを供給し動かしつづけられれば、電気もガスも水蒸気も必要ないはず。エネルギー問題の根源を産業革命まで辿らずとも、現状の問題が机の上の議論の中で削除できるはずはないのだから、絵に描いた餅の焼き方や食べ方を議論するよりも、手ごまとポテンシャルの確認と自分のベクトルの仕組みを実感に意義を見つけたいものです。そこに過剰な仮説は必要なし。
 そのためにも「仕組みづくり」が永久に劣化しないクリエティブ力を生み出すような気がします。自分の意義を適正に創り出す力に変換する「自分のシクミ」をどのように実感できるか?まずは、全てのソースの受け止め方から変えていこうと、変えなければいけないのかなと思っています。

Pros/Cons(賛成/反対)

何事も二者択一の世界は分かりやすい。YESとNOで明確にモノゴトを判断すれば潔い。イザナギとイザナミ神話のように。しかし、社会は常に非合理的で流線的だ。だからこそ明確さをもとめるのだろう。幾何学の整然とした配列に白と黒の明確なコントラストに便宜上の方程式が導く答に爽快感を覚えるのは、あまりにも社会が非合理的で動的だからだろう。細い穴をすり抜けて落ちる砂時計の砂のように、真実は重力の作用を受け、上から下へ落ちる。その様を時間が制御しているように、重力と気圧が思考と行動を制御している。

無量大数から涅槃寂静

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意識可能な幅で言えば、無量大数から涅槃寂静のまでが彼の魅力のレンジだ。「無限大」だとか「未知数」という表現では物足りない。有限を明確に無量大数から涅槃寂静と刻んで捉えるべきだ。

女性社会進出の起爆剤

 甚だしいことこの上無い。女性の社会進出の起爆剤がなどというポジションで何が語れることか。男性と女性の社会的地位がなどいう教育認識レベルであることが根本的に経済・文化・教育を失速・失墜させていていることに何故ポジショニングしないのか?男性だから女性だからと「後付け文化」「たられば理論」が論理のベースではどんな起爆剤も無効だろう。改めてラーソンのポジションこそが本来のニュートラルポジションなのだと痛感する。

滋賀生まれ

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 滋賀生まれ、高橋ユウさんでした。

三枚の葉

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 午後5時伊吹山の登山口から登り始める。昨日のプランは登り1時間、下り30分。すでに朝から山頂を目指した人達が次々に降りてくる。1時間でどこまで登れるか体調をいつものルーティーンで整えながら、全力で登っていく。四肢のすみずみまで心臓が血を送る感覚。アドレナリンの分泌に鼓動が呼応する。いつもの調子で10分程度で全身から汗が噴き出す。少し呼吸を整えて登り出す。このサイクルを繰り返していると、ふっと身体が軽くなり、呼吸が安定するポイントがある。両足はバンプしているが、軽い。そのまま快調に登る。気道を確保するために目線は少し上を向き、踏み出した足に力を入れる一瞬だけ力を抜きながら、両足の疲労を軽減させる。当然、足首に負担をかけないように、つま先にもかかとにも重心を偏らせず足の裏全体で加重していく。土の斜面に対して両足にかける体重の角度も慎重に捉えながら。そして、右手の登山スティックも両足と3点目でバランスをとりながら地面を突いていく。この動作の繰り返しに集中していると呼吸も安定してくるし、ダイレクトに飛び込む鳥や風の音が動作のリズムにシンクロする。ときおり交わす下山者とのあいさつも心地いい。
 そのまま3合目まで一気に登り休憩。ふと、目線の下に三つ葉のクローバーを発見。呼吸を整えながら、美しい3枚の葉に見入る。そして、下山。
 私の下山は早い。登るよりも下山が得意だ。重力を適度に感じながら、身体の力を抜き、踏み出すポイントを瞬時に判断して重心を移動しながら体重を両足で受け止めるリズム。少し前体重のリズムが心地いい。走るという感覚よりも、重力に逆らわず傾斜を流れていく感覚だ。
 予定通り2時間のプランを完了して山麓の神社で一服。これがたまらない。

真実

 テレビドラマ「MOZU」の1シーズンが終わった。続きはWOWWOWでということ。それにしても、他のテレビドラマを圧倒的に威圧するような物語だった。その「圧倒」のタイプは3つ存在してるように思えた。ひとつは予算の大きさ。ふたつめは映像力。三つ目はテーマの複雑さ。特に「真実とは何か?」が冒頭の爆破シーンから最後まで一本の太い軸で物語を牽引し、主人公の中にある「真実」の探求がスケール感と映像美と見事に融合していた。他のテレビドラマがおままごとのようにさえ思えた。フィクションとファンクションが引き合い調和するとこんなケミカルリアクションが起こるのだと。真実とはなにか?イールなら知っているのだろうか?

感情を認識するロボット

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 「認識」するのはそんなに簡単じゃないだろうに、そこは「感情を認識する」テイでいきたいのだろう。ロボットの機能が高まるのはいいが、なぜ、人間型にしなければならないのだろう。人間にはできない機能を持ってこそロボットだろうという感覚はもうナンセンスなのだろうか。私の老後はこいつの進化形に毎日語りかけてもらう日々なのだろうか。それは、まっぴらゴメンだ。何かどこか最も大切な部分が欠落しているようなこの白い塊にそうそう安易に感情移入はできない。

UFO

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 なかなか痺れる(いろいろな捉え方で)CMだ。すみれさん、高橋ユウさんは素敵だ。

同調圧力

あらゆる場面で作用する共有の思考・感情がある。世の中の賛成派と反対派が導く結論がそれを増幅しているのだが、そもそもの根源は脳幹にあるホルモンらしい。社会構造における多数派と少数派にもこの作用が常に適用されて我々はこの同調圧力を重力のように無意識で感じ思考を繰り返している。例えば、この「我々」という意識。1人称と2人称ではこの意識は生まれない。3人称で問題をとらえようとする時、記憶や情報に同調圧力がかかる。それが例え偉人の言葉であれ、井戸端会議のお隣の奥さまの言葉であれ。さらにこの同調圧力の表面的な部分、つまり、言葉でコミュニケーション可能なツールでは特に強く作用している。ネットの炎上がその典型的な事例だ。0と1の2進法で記述されたアルゴリズムがそれを活用する人間の思考のバイアスを受け見事に3人称に変容するのだ。そこで生まれる同調圧力が優劣をランキングし言葉で判断できる倫理の限界ギリギリまで鍔迫り合いを繰り返す。このエネルギーを電力に変換することができたら原子力も地球の有機資源も枯渇しないだろう説もあり、決して空想のSFの中の仮説ではないそうだ。米国のベンチャー企業が、糖尿病患者の家族の症状をネットワークでモニターする装置を自作し医療現場で活用されるようになったのがスマホなのだから。同様にiPodのホイール機能もアップルが開発した機能ではない。当初は別の目的で採用された技術なのだ。
 同調圧力を有効に活用するアイディアはすでにハードのテクノロジーに転用される事例があるらしいが、感情のベクトルが生み出す「摩擦」や「誤差」や「歪み」に大量生産型のシステムには存在しない物理定数では測定できないレベルのエネルギー融合比率があるとしたら、もっと人は「中立的な視点」で多様性の潮流を見極めなければならないはずだ。すべては「白と黒」ではなく、「YES OR NO」でもない、グレイゾーンに無限の可能性が埋蔵されているのだ。「分かりやすさ」は同調圧力を抑制すると捉えがちだが、実は「分かりにくさ」を克服しなければ心が生み出す同調圧力を次の価値へ転用できない仕組みなのだ。

不思議な語感

「新規事業開発のためのマーケティング戦略立案セミナー」というタイトルについて。さらりと読み流せば別段ごく普通のセミナータイトルだが、じっくり向き合うと不思議な語感を受ける。

まず、「新規事業開発」とは具体的に何を指しているのだろう?飛躍し過ぎかもしれないが、「新規事業開発」ということは、既存の第1次~第3次のどの分野も包括しているのだうか?第6次産業的なノリの語彙も創造されて久しいがそれは概念的なニュアンスが強く本質は1~3に分類されるはずだ。マルチにグローバルにを合言葉に商材やコンテンツを融合させたとしても、この取り組みは根幹になるソースを多面的に捉えているだけだから、結局、ソース本体が変容しているわけではない。発信する経路が多様になっただけで本質・真価は変わらない。逆にノイズを含有する余地が増え、スピード感に悪い影響を及ぼすことを危惧したい。その「新規事業開発」のためのからの、マーケティング戦略立案となると、コスタリカの原生林の中で文明を避け密かに生息していた太古の恐竜を上野動物園に持って来たような感覚になる。仮に新規事業が「医療・薬剤」の分野だとすると、新規と銘打つならば、新医療なり新薬を期待する上、事業への展開となるとすでに天文学的な予算が費やされているはず。ミニマムに捉えたとしても、既存ではない事業を開発しているのが個人であれ企業であれ、設計図をなしに開発が完結したわけではないだろうし、関わった人も新細胞の開発みたいに偏っていなければ、設計図通りに然るべき発表の場があるはずだ。その上で、マーケティング戦略を立案するということにどのようなアドバイスや適正情報があり、何をどのように誘導してくれるか?というビックQだ。言葉遊びが目的なら大きな机を囲み結論の出ない時間を過ごせばいいが、その空間で生まれるモノは恐竜でもなく、なんとか細胞でもなく、適度な疲労感とわずかな高揚だけだろう。

海外のプレゼンテーションの番組で、「新しいビジネスの創造とは必ず個人の中から生まれ、最も近くにいた2人目に伝染し、3人目の共有が生まれ評価されれば、その創造に価値があれば適正な速度で細胞が分裂するように増殖する。」とプレゼンテイターが言っていた。つまり、最初から方程式を引き出して適用しようとしても、伝染も増殖もしないのだ。不思議な語感は有効なサインなのだ。

不思議な写真。

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 創り手と受け手の間で起こる化学反応。この写真が何を伝えたいのか?感じさせたいのか?そして、想起の触手が何を掴むのか。

消滅する自治体

 2040年、人口減少に伴い全国の自治体の50%近くが消滅するらしい。人口減少だけがその理由ではないだろうし、あと20数年で消滅するという予測の背景にある現状の分析結果がとても興味深い。テレビの中のコメントに、「地方活性という名目で浪費されている予算枠がいかに多いかが露呈している。」と言っていた。机の上では「活性」なのに結果は「浪費」となる仕組み。もしもこの構造がこの国の経済の劣化・老朽化を促進しているとしたら、どのように組み替えて、現状あるエネルギーを創造へ変換できのかを国レベルで取り組まなければならないはず。原因があるから結果だろうが、原因が明確だとしても、違う結果をひねり出すために新しい構造や手法を創造しなければならないということだろう。本当の日本沈没はSF映画のような地殻変動が原因では、どうやらなさそうだ。

KS対決。

 休みの日ぐらいはと、愛犬チョップ君の散歩を平日よりじっくり目に時間をかけています。平日なら約15分程度なのですが、休みの日の朝は早起しきてじっくり40~50分かけて、歩いたり走ったり変化を楽しみながらの散歩です。当然、愛犬の散歩だからその時がやってくるわけですが、人間も毎日その時がやってきます。それは体調を確認するもっとも適正なモノサシであり、それが出なければどこか体調が微妙に狂っていると判断すべき。今日も散歩中にその時が2回ほどありました。非常に硬いハードでつやつやした健康的なアウトプット。チョップ君はうちにやって来て12年目。人間の年齢なら60歳あたりなのですが、私が今年で50歳ですから、60歳と50歳のコンビが早朝からセットでウロウロしている構図。チョップ君の2回分のそれは見事な健康KSでした。「おお!やるなチョップ君、あなたもまだまだ体調は盤石ですな。」などとつぶやきながらそれをビニール袋へ。当然、私も早朝の散歩で身体が目覚めるので胃腸も動き出す。朝飯はしっかりオレンジジュース、ヨーグルト、パン、リンゴを身体に入れましたから、当然の反応が散歩後にやってくる。いわゆる「自然が呼ぶ」という状態。チョップ君のそれを見てるだけに、50歳のオヤジも負けじとふんばる。結果、今朝はGWに普段よりちょっといい食事をしたことや、ビールを入れていることなどが影響してか、ちょっと粘度があったようだ。ハードだから、ソフトだからと一喜一憂するわけではないが、色や硬さや粘度は体調を正直に確実に反映している。その日の気分でのどから出て来る曖昧な言葉や、心が発信する感情よりも、胃腸が適正な処理をして出たそれを確認することが一番の健康指標となるのだ。
 結果、今朝の軍配はチョップ君の勝ちのようだ。Shit!

思考意識

 「只今、考え中!」という意識のオンとオフを制御するためのスイッチは身体(心)のどこにあるのだろう?有益無益、正誤、趣向など人は日常生活においてさまざまな思考を繰り返している。「人生は思考の単純化で成立している」という言葉にリアリティーを感じるのだが、単純化するための主な目的は「優位性」が大きな基準値になるだろう。基準をどこにどのようにどのタイミングで設定するかという「前提」があり「仮説」がうまれ、意思決定がくだされ信号の発信部である脳が部位(身体)へパルスを送る、この繰り返しにおいて、「考える」という行為を自己の中でどのように再認識し客観性と注視力を作用させればいいのだろう。スイッチは何個あれば適正なのか?トルクはどのようにキープするのか、エネルギーはどこから調達すればいいのか、そして、その思考はどこが源流なのかということが、「考え」の大まかな構造だろう。構造が理解できたらあとはディテールだ。数多の情報から適正なソースとパーツをプレパラートに置き、レンズを覗く時、そこに見える世界からサインとノイズを分ける単純作業。あらゆる行動へのパルスはこの単純作業後のアウトプットである。私のメンタルとスキルを縫合・包括するtemperamentは何をインプットしどこへ向けてアウトプットするのだろう。たかが思考力、されど思考力。

50歳

 明日50歳になる。何をどう考えても50年間生きてきたことになる。紆余曲折、試行錯誤、七転八起、この実感を自分自身でどう捉えたものか?この感情を言葉にして実感するにはしばらく心を整理しなければならない感覚だ。でも、50歳ともなれば、ひと通り振り返ることもしなければならないのだろうし、いやいや、まだまだと自分自身を鼓舞することもしなければならない。上の娘が大学に通いはじめ、下の娘はすでに私と同じぐらいの身長だ。恐らく(間違いなく)100mを走れば負けるだろうという現実がまず一番のリアリティーだ。20代の頃、お世話になったデザインの世界の諸先輩方が50代だったが、ちょうどあの感覚が自分の身に起きているのだ。名が残るような偉業を達成したわけでもなく、ただただ一歩づつ歩を進めてきて、気がつけば50歳という実感もある。このままこのまま明日も明後日も同じように一歩つづしかできないのだから、50歳で無理な飛躍を目論むこともしないつもりだが、どうせ何かを目論むならば50歳なりのプランがあるのだろうとも貪欲に考えている49歳の自分もいる。限りなく現実的に限りなく夢見心地にしばらく50歳を体感してみたいと思っています。メンタルもスキルも恐らくピークは過ぎているだろうが、人間性の部分でポテンシャルはまだまだ進行形で進化し覚醒したいものだ。間違いなく視力や体力や思考力は老化し劣化しているが、「人間力」は最後の最後のその瞬間まで覚醒し続けるという言葉を何かの書籍で読んだ。この言葉を信じて明日からも「らしく」あろうと思っている。

パレイドリア

 上海で蝶が羽ばたくからニューヨークの株価に影響が出るわけではないのだが、人は人の便宜上そう考えることが多い。関係性を見いだせない人と見出した人との間に、想像以上の深い谷が存在するのもよくあるケースだ。見下ろして美しい渓谷が広がるぐらいならいいが、氷河のクラックレベルの裂け目なら命さえ失う可能性がある。相関性に見る感情の均衡はとても興味深い。だから、常にフレーミングを意識しながら条件や状況を適正に見極めることが大切なのである。自分自身が変化を否定しても世の中は常に変化しているため、必死で辿り着いたその居心地のいいポジションが、立ち止まっているだけで一変するからだ。晴れた空を見たいのなら、その場所でいつか訪れる晴れを待つか、晴れた空を探して行動するしかない。相関性の錯誤は常に変化を受け入れるための準備体操だと捉えるべきである。何に対する準備か?それは準備のための準備であり、準備しなければならない状況は永遠に終わることはないのである。

傾向

 どんな状況でも傾向がある。カオスという言葉があるが「混沌」もひとつの傾向だ。また、歴史上の金字塔を列挙にも傾向がある。原理や原則に真理があると頭で理解していても、日常生活レベルのディテールにそれらがどこまで影響しているか認識レベルでは割合的に非常に少ない。相対的にも絶対的にも「少ない」と収束することは危険だが、実感として私は少ないタイプなのだ。しかし、原理や原則は確かにあり、万象に密接につながっている。ならば、つながっていることを意識するのかしないのかを何に対してどのように影響させるか、関連させるかで生活面や仕事面で生み出される成果物の精度が決まるのだ。つまり、個人差の「傾向」こそがもうひとつの真理だと僕は捉えてる。強い意思と意識が全てにリンクしていることを踏まえて、傾向をコントロールできれば、成果物を自由に操れる、操りたいという意識だ。
 いや、傾向に対して、確率や分布や属性を適用し精査することも大切な半面、その裏(表)にある個から生まれる傾向もコントロールしなければ、的を得ることができないのだ。的とはつまり「人生」である。
 例えば、「好きな仕事をしたいが好きな仕事では生活がままならない。」という人がいる。この場合の「好きな仕事」とはどんなフレームや属性で規定し、自分の座標のどこに配置すればいいのだろう?と考えみる。「好き」に関連する世の中の傾向と、自分の中に蓄積してきた「好き」の傾向の間になんらかの誤差や摩擦が生まれ、好きな仕事への情熱や思考や技術が成立しなくなったのだとしたら、その誤差や摩擦を適正に解消すれば自分の正しい傾向が生まれるのではないだろうか。そして、その裏にある「好きな仕事で生活する」というタイプの人は「好き」に対する意識が「ままならない人」と比較して真逆の捉え方をしている傾向がある。つまり、表が裏であり、裏が表なのだ。誤差と摩擦から生まれる葛藤やジレンマを孤立させることなく、表裏一体と捉え、自分の中で自由に融合させ操ってこそ、表と裏が同期する。このバイアスは万人の万象に強く影響を及ぼしているはずだ。だから、今まで探究してきたし、これからも探究していく。傾向とはエネルギーが通るルートなのだから。

#1 石

冬の琵琶湖。越冬の鴨達が湖面にたくさん浮いている。
岸の近くで湖底にある藻をついばんでいたり、岸から離れた沖でさざなみに身を任せている。
湖畔にたたずむひとりの男。
「くそっ!俺はいったい何をしてるんだ!」小さな石を握りたたずんでいる。

「おいおい、黒井君、何やっての?またエラー出ているよ!同じことなんども言わせないでよ」
製造工場のライン現場で金型から吐き出される金属部品の最終検品ライン。
隣には若い女性や年配の女性が同じ検品作業をしている。
「隣のはるかちゃんの方が仕事の精度が高いよ。これは高価な検査機械なんだから、ちゃんと作業ポイントを理解して検品作業してくれれば、検査精度は機械が上げてくれるの。余計なことばかり考えて、集中力が足りないんじゃないの?給料だけの能率は上げてね」
「はい。」検査機器のモニターを見ながら小さくうなずく。
「じゃ、俺は行くから、引き続きよろしく!」検査ラインを離れていく上司。
「黒井君、気にすることないよ。流れてくる部品が悪いんだから、
検査精度を上げるのなら、もっと、前段階の精度をあげないとね。」
隣のはるかが黒井に優しく声をかける。
「ありがとう、はるかさん。」
作業を続ける黒井。

男が握っていた石を琵琶湖に向かって力いっぱい投げる。
すぐに振り返り湖畔から離れていく。

「ボチャン!」石が沖に浮いている鴨の間に大きな音をたてて落ちてくる。
一斉に飛び立つ鴨。

湖畔から120mの沖に大きな波紋が広がる。

オレンジ色の湖面に広がる波紋に浮かび上がる文字。

BLACK DOGS

コーヒーを飲む理由

 コーヒーが好きな理由、もしくは、飲む理由が3つある。記憶が定かではないが愛飲し始めたのはひとり暮らしを始めた芸大生の頃(18歳)だった。お茶かコーヒーかという選択肢で、お茶が飽きたからコーヒーを飲み始めたのだが、インスタントの割には美味しかったことと費用的に安価であった理由から学生時代に愛飲できたのだ。芸大での課題を構想している時や実習中もコーヒーを飲むことが多かった。社会人になり少し自由になるお金が増え喫茶店に行くようになる。仕事中に喫茶店にいく理由は、学生の頃と同じで何かを思考したい時だった。自宅でも会社でもコーヒーは飲んだが、思考したいという精神状態をオートマチックに作るために、喫茶店に行きコーヒーを飲むというパターンがとても心地良く、実際、仕事のアイディアや準備をしたり資料をまとめたりする時にいい効果が得られた。と、ここまでは思考の援助がコーヒーの役割だったが、さらに最近では、年齢(49歳)と共に体質が変化している。腹筋や背筋や脚力、そして、肩の柔軟性や腕力、首の柔軟性など腰痛(ヘルニア)からくる諸症状に敏感になっている。また、五感に対しても敏感になっている。視覚は老眼のレベル1(5段階の一番軽いレベル)だし、聴覚も触覚もまぁ大丈夫、嗅覚も粘液の質が変化しているだろうが日常生活や仕事レベルでは問題ない。しかし、味覚は体調をかなり反映している。胃腸が弱ったり、水分補給が必要な状況だったり、疲労が蓄積していたりすると、必ず味覚に変化が現れ、結果、大便や小便にその影響が出る。医者ではないので、相関関係を専門的な医学的知識として充分に確認したいとは考えていないが、朝、仕事の準備をしながら、思考のためにコーヒーを飲む、水分とカフェインを補給するために飲む、それ以外に体調を確かめるためにコーヒーを飲んでいる。これが、私がコーヒーを飲む3つの理由だ。

 缶コーヒーも飲むし、喫茶店でも飲む、打ち合わせでコーヒーを出して頂ける時は大歓迎で飲む。それは、思考に心地良く、身体にも水分とカフェインを入れてくれる効果と合わせ、味覚でその瞬間瞬間の自分自身の体調を微妙にスキャンしているのだ。

 一番美味しかったコーヒーは東京時代、アルバイトをさせて頂いていたO先生の四谷のオフィスで飲んだエスプレッソだ。ドイツ製のエスプレッソマシンでエスプレッソを作るのも私の仕事だっだ。先生が外で打ち合わせをされている時は自由に何杯も飲むことができたし、自分自身の仕事の評価を頂いている時も慢心の緊張と共にエスプレッソが傍らに在った。今でもよくエスプレッソを好きで飲むが、その度にO先生の笑顔と仕事中の真剣な表情が頭に浮かんでくる。今でも先生はエスプレッソを飲んでおられるのだろうか。懐かしい。

認証行動療法

 「認知療法・認知行動療法というのは、認知に働きかけて気持ちを楽にする精神療法(心理療法)の一種です。認知というのは、ものの受け取り方や考え方という意味です。ストレスを感じると私たちは悲観的に考えがちになって、問題を解決できない心の状態に追い込んでいくのですが、認知療法では、そうした考え方のバランスを取ってストレスに上手に対応できる心の状態をつくっていきます。私たちは、自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。これは、通常は適応的に行われているのですが、強いストレスを受けているときやうつ状態に陥っているときなど、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。その結果、抑うつ感や不安感が強まり、非適応的な行動が強まり、さらに認知の歪みが引き起こされるようになります。悲観的になりすぎず、かといって楽観的にもなりすぎず、地に足のついた現実的でしなやかな考え方をして、いま現在の問題に対処していけるように手助けします。認知療法・認知行動療法は欧米ではうつ病や不安障害(パニック障害、社交不安障害、心的外傷後ストレス障害、強迫性障害など)、不眠症、摂食障害、統合失調症などの多くの精神疾患に効果があることが実証されて広く使われるようになってきました。認知行動療法では、自動思考と呼ばれる、気持ちが大きく動揺したりつらくなったりしたときに患者の頭に浮かんでいた考えに目を向けて、それがどの程度現実と食い違っているかを検証し、思考のバランスをとっていきます。それによって問題解決を助けるようにしていくのであるが、こうした作業が効果を上げるためには、面接場面はもちろん、ホームワークを用いて日常生活のなかで行うことが不可欠です。」という医学療法があることを、昨日テレビで知った。「主観と客観のバランス」と一言では簡単に紐解けない複雑なバランス感覚です。心と身体のバランスを整えるというアドバイスもそのテレビ番組では登場した先生が具体的に語っておられた。

 「地に足のついた現実的でしなやかな考え方」と言葉にするのは簡単だが、できそうでできないのが人間の心。ただ、ストレスを全て取り除けばいいわけでもないだろうし、過剰・過敏な認知が適正な行動を妨げているとしたら、どの軸で思考し行動するかを自分自身の中に設定する必要がありそうだ。

 逆の捉え方をすると、自分自身のポテンシャルをさらに高めたい場合は、この療法は有効なのだろうか?と考えてみる。なんでもかんでもストレス視し排除するのではなく、ストレスに強い心と身体にビルドアップするために、心的ストレスも身体的ストレスへも自ら踏み込んで有効化していけるような、分析力と消化力と再生能力を欲しいものだ。

覚醒する瞬間。

 書店に行けば様々な「元気」に出会える。直接、人と出会う時でも、インターネットの中の元気をデジタルデバイスを介して引き寄せるケースでもそうだが、自分の欲しいエネルギーを発見した時は最高に嬉しい。恐らく「共感」や「絆」や「偉業」など全ての語彙にはそれぞれ発信した人のエネルギーの量があり、「後悔」や「焦燥」や「葛藤」という語彙にも、「戦争」や「破壊」や「無関心」という語彙にもその推量が適用できる。結局、その意味や表現のツールとしての記号の存在感と合わせて、エネルギー量を人は感じ取り言葉のベクトルを心や頭でディテールとして受けっ取っているから、結果、「伝わる」という結果になるのだろう。外因と内因の関係を意識する全ての軸はそこに存在している。土の中の種が発芽し地表に芽を出すような感覚を私は「覚醒」としたい。覚醒するために小さな種子の中にあるエネルギーの核が、酸素や水分やアミノ酸を得て鮮やかな緑色の芽を出すように、人の中にもこの物理的な原理の核がある。

 肥沃な土が大樹を創るのか、大樹が種子の頃、内なるエネルギーの核と設計図が自然のエネルギーを受取り大樹として大地に立つのか、相互のシンパシーの間に在る関係性の仕組みは生命の生命たるふるまいなのである。決して精神世界を大樹に見立て重力以外のベクトルに幹や枝葉を捻りたいという狙いではない。ふるまいとリアリティーの関係性にフォーカスすればするほど覚醒の機会が増えるのだと言いたいだけだ。

 年頭から質量のない概念のお話になったが、結局、その真理を得られているか否かでエネルギーの吸収力や放出力に大きな影響・作用があるのだから、素直にその仕組みを自分の中の設計図に記しておきたいと思った。言葉にしなければ伝わらないことや、立ち位置を変えなければ見ることができない景色を、もっともっと貪欲に今年も獲得したいから、わざわざブログにこのことを刻んでいる。ただそれだけなのだ。

 さて、2014年、この手法で何を覚醒さようかという気分だ。手法が目的になり、目的が手法になる関係性を覚醒へのトリガーだとするなら、ハングリーな状態がベスコンだし、愚かで恥知らずなスキルであるからこそ得られる覚醒の賜物に対して常にstand by me.でありたい。

雪の長浜。

 朝から本格的な雪の長浜。いよいよ年末の感じになってきました。2013年も残すところあと3日間です。明日から3日間、仕事をしながらじっくり今年を振り返りたいと思います。まだまだ外は雪。今夜はかなり積りそうです。

優しい日本人。

 「参拝」を巡り混沌がまた表出してきた。意識の下層に封印していたことが赤く高熱に噴き出す時、当然のように多くの混沌が火山灰のように舞い上がる。風化させないこと、国際情勢を鑑みること、いずれも日本にとって重要なことだ。不完全な人間の歴史、不完全な世界情勢、不完全な日本の軌跡、そして、不完全な人間。正解を求め続けているからこそ表出する混沌が、時間の経過と共に黒い岩になるように、心の傷が次の傷を生まないことを祈るばかり。優しい日本人像は決して政治の世界だけではないが、日本の「優しさ」は世界に誇れる心の機微であり類稀なる美学だと思う。流動的に風化させ曲解するのではなく、素直に固形化・形骸化させフラットに淀みなく捉えたい。誇張も卑下もなくニュートラルなレベルを生み出すことができたら、「優しい日本人」は恒久に存在感を失わないだろう。

何人も。

 「六法書」の文頭によく「何人(なんびと)も」という表現がある。日本国籍を持っている、法律(憲法)の対象となる人全てを指して「何人も」と規定しているのだ。例えば日本国籍のお話。日本国民である条件についていろいろ六法書には書いてある。非常に丁寧で誤解をまねかないような表現がされているのだが、それぞれの規定が細かいために、前後の設定値を踏んでいる上でのお話や、他の法律を踏まえてという記述が多い。確かにこれで商売をしようとする人、かなり記憶力が達者なでなければ、法律を扱えないだろう。全てこの全書からの組み合わせでひとつの真実に向かっていく経緯たるや、凄まじく精密で綿密な論理と規定の網の目が幾重にも折り重なり、違反・逸脱・虚言に対して鉄槌を落とすのだろう。法律家の人達の頭の中はどんな構造なのだろうと改めて想像しまう。自分の中のモラルと真理を徹頭徹尾ゆるがせることなく、外因的なあらゆる状況を法律で裁くのだから法律は素晴らしい。言わば、人の英知の賜物なのだ。気分や感情や一時の誘惑にも負けない鉄の心が法律家にはあるのだろう。そんな法律にしっかりと守られている日本人は実はとても幸福な国民なんだと改めて感じた。

 一方、アートやデザインの世界はどうか?ルールもあるし原理もあるが、法律のように共有できそうでできないブラックボックスがある。何が出てくるのかと、期待したり警戒したり、アートやデザインのCUBEには何を装備・用意・準備しておくべきか?と考える。いや、何かを用意したところで状況は変化し環境は進化し続けているのだから、その中に方程式らしいものを持っていたとしても、それが通用する期間は短いし、正確には次に通用する方程式などない。それぐらいめまぐるしい変化がアートやデザインの仕事には求められているから、逆にその方程式を規定している法律があれば、どんなに楽だろうとさえ考えながら六法を読み、楽しんでいる。

 何人も、自分自身の正義のため、利益のため、未来のために生きているのだが、法律では導けないルートもあり、その状況ごとに羅針盤の針の方向を変えながら、答の出し方の多くをアートやデザインは担っている。政治や経済が法律の上に成立しているのなら、人間の思考や技術はアートやデザインの上に成立している。びっしりと記された法律の文字間や行間や文字の裏側にある原理をアートやデザインは受け持っているのだ。ただ、「六法全書」のような法典が存在しないため、それは座標を規定できないのだ。座標も属性も数値化できなからこそアートやデザインなのだが。

 もう少し、六法を読み進めてみよう。

ひと味違う!?

 よく商品のキャッチコピーや売り文句に「ひと味違う!」というフレーズが使われる。「ひと味違ったデザインフォント」「ひと味違った写真素材」など。ゆるく捉えれば「個性的だ」とか、「オリジナリティーがある」というニュアンスで捉えることができるが、じっくり考えてみると「ひと味違う」は摩訶不思議な表現である。まず、何に対してどの程度の違いがあるのかについては全く不明だし、ひと味違うからどうなのか?についても「投げっぱなし」である。しかし、好意的に捉えるモードになれば、プラス要素として捉えられなくもないが、疑心が渦巻き始めるとマイナス要素にしか捉えることができなくなる。

 このような広告キャッチフレーズはとても多い。コピーライターが市民権を得てから、特にこのような現状が起こり、広告業界もメディアの世界もこのテイが百花繚乱だ。しかし、今一度、この「だろう路線」と「希望的肥大過剰好感度解釈」の落とし穴を、探究する時代なのではないだろうかと考えている。その理由は、その希望的肥大過剰好感度解釈の落とし穴にはまり、抜け出せず骨になる人が多いからである。その穴が結構深いのである。墓穴を掘るという言葉があるが、人の掘った誰かの穴に落ちたなら、
それは墓穴ではなく落とし穴だ。そりゃ、シカマルが掘った穴に落ちていったヒダンは当然の報いだが、一般的にあの仕打ちはできるだけ回避したい。

 落とし穴にはまり、思考を閉ざし、心を閉ざすことにならぬよう、穴が見える眼力を鍛えましょう。

本当の変化。

 先生、ほんとにお若いのに、数々のお言葉が芯を喰っておられました。街が健康になる、地域が健康になる、国が健康になるために、まず、人が健康にならなければならないのですね。メディアが煽る健康ブームは別次元のこと。本当の人間の健康とはなんでもかんでも盛る(足す)ことではなく、削る(引く)ことだと。本当の変化はあわてず、ゆっくりとコツコツと歩を進め、じっくりと待つ体制が大切なのですね。

不可能。

 「不可能を可能にするためには何が必要か?」才能か?努力か?幸運か?全て必要だったと不可能を可能にした人達は口を揃えて言っている。「不可能だと自分で決めて行動をしないだけ。あらゆることが不可能だと決めた瞬間に本当に不可能になる。」とも言っている。「不可能」と「可能」の間にある谷は実際どれぐらい深いのだろうと最近よく考える。捉え方として「不可能」ではなく「無謀」と捉えれば「不可能」のニュアンスは少し和らぐような気がする。「可能」という言葉選びも「伸び代がない」「期待値がない」「無難な想定内」と捉えてしまうと、現実的過ぎて「可能性は私には必要ありません。」と保守モード全開、置きに行く感じ満載の微弱なニュアンスに陥る。

 あれ、これはもしかして「不可能なのかな?」レベルがちょうどいい。しかし、想定内から抜け出す思考術は長年の悪癖に引っ張られて至難である。至難であるが故に「不可能」に向かうのだが。さて、自分にとって「不可能」な事柄を整理するといろいろ出てきた。荒唐無稽な破天荒なモノもあれば、実現したいがアウェイエリアになりそうで警戒してしまうレベルのことなどなど。全て今現在は「不可能」なことかもしれないが、常に世の中は変化し状況も変化している。私とて世の中の変化に対して追い風の時もあればアゲンストの時もあったが、変化と相性はいいと思い込んでいる。変化が大好物とは言わないまでも、変化こそが全ての原理だと捉えているので、今こうしてそのことをブログに書き出していられるのだ。

 さて、この私に「6キロのブラックバスは釣れるのか?」レベルのことから、ライフプランのメインビジョンまで、不可能とは捉えずに、緩くしなやかにトラップをクリアしていこう。

成功事例。

 「成功体験」「成功事例」「成功ノウハウ」「成功実例」を紹介している書籍は若い頃(20歳~30歳)はよく読んだ。勿論、成功したいから読んでいた。成功という状況が何かを知りたかったということが80%で、成功した人はどんな性分なのかを知りたいが20%ぐらいの割合だっただろうか。若い頃は比較的、日本の景気が良かったので「成功像」を読者に描かせる書籍の企画が的を得ていたのだろう。実際、メディアでも成功した人達が贅沢な家に住み贅沢な振る舞いに対して注目されていた時代。一方、最近のテレビを壮観すると、「グルメ関連」か「自給自足関連」が中心で、どうやら「セレブ」という人達を紹介する企画の価値は降下したようだ。私個人の私見だが、高級なバックや時計や車が成功のシンボルというよりも価値感の狂いのように捉えられている、「捻じれ」のような象徴として画面に映っているのだろう。「グルメ映像」なら、企業広告として充分成立しているし、テレビがインターネット化している事例として最適の内容だし、いろいろな企画を分析していると、実際インターネットに転用できそうな企画が多い。ただ、タレントだけはテレビが抱えているからそこをなんとか民間で用意しなければならないが、そこさえなんとかできれば「グルメ番組」は簡単に制作できるだろう。一方、「自給自足番組」もテレビ電波に流れやすい企画構造である。つまり、「ブランド高級志向」「セレブライフ」の発信率が低下し、「グルメ」「自給自足」路線が上昇したのは景気の構造を反映しているからだとして、では、世の中の「成功者」はどこで葉巻を燻らせワイングラスを回しているのだろう?世間に投影して自らのIDを映し出せるスクリーンがなくったら、比較されなくなる。優劣や順位こそが「成功者」のモチベーションだったのだろうから、「ただの金持ち」では、「自給自足」と同じである。「自給自足」の方が心がいい感じに満ち足りているようなので、資産のあるなしは関係なく何事も「そこそこ」が「成功」となるような状況だ。

 「成功」が変化したようにテレビからインターネットへスクリーンの設置条件が変化した。しかし、昔と今と人の「ふるまい」は変化したのだろうか?「HOW TO 本」もいまだに百花繚乱だが、この変化に順応しているのだろうか?これからの時代には、どのような目的でどのような立場の人が、どのような「成功」を選択するのだろうか?国の引力が乱れた時、糸の切れた凧のように彷徨うことにならぬよう、自分だけの「赤い糸」だけは確保したいものだ。それは、数多の成功事例ではなく、自分の中にある「relationship」だ。あとは野となれ山となれからの、Let it be!(なんとかする能力)だろう。

方針。

 勝海舟がこんな言葉を残しているそうだ。「人はよく方針方針といふが、方針を定めてどうするのだ」と。つまり現代はそういう時代なのだ。温故知新、どんなにインターネットが浸透し、各種デジタルデバイスが進化しようが、変えてはいけないことがある。いや、変える変えないではなく、変わらないものがあるのだ。それを変えるためにどれだけ高い大義名分を装備してもこの山は動かない。つまり、方針とはそういう存在でなければならない。と、勝海舟は言いたかったのかもしれない。

落ち葉

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 秋ですね・・・(柏原の神社にて)。

Are you hungry?

 昨晩、テレビでサッカーの長友選手が言っていた。「日本の選手は勝つことに対する闘志が少ない」と。技術レベルでも戦略プランについても世界レベルだが、勝つことに対する気合いが少ないというニュアンスだった。闘志以外の全て準備ができているが世界で勝つためにはもっと闘志が必要なのだ。全員で勝ちにいく姿勢というフレーズも言っていた。世界トップレベルのチームで活躍する長友選手ならではの貴重で鋭いコメントだ。

 私はサッカーの経験がなくテレビで試合を観戦していても、選手の能力や技術や戦略が世界の他のチームと比較した時、その優劣が全く分からない。結果だけを見て「勝った」「負けた」を楽しんでいる程度。それでも解説者のコメントや過去のメジャーな選手の話を聞いていると、けっこうな割合で日本チームの「闘志が足りない」という類のコメントが多い。日本のトップレベルの選手たちが日本を代表して戦っているのだから、まさか闘志がないわけではないだろうが、それでも「闘志」の重要性の話をされていることが多い。「もっとがむしゃらに!」とか「しゃにむに前へ!」という気合いの入った、コメントを聞くにつけ、やはり、日本のチームは世界と比べるとおとなしいのかなと。

 では、ハングリー精神に火をつけるのはどんな理由や状況なのだろうか?

 自分の仕事に置き換えて客観的に考えてみると、確かにいろいろな面でハングリー精神には程遠い。リアルにハングリーになれば火がつくのかという状況にも、できればなりたくないし、そこそこ余裕があるタイミングで貪欲にレベルアップするために、日々試行錯誤し貪欲に対峙しているつもりでも、安定感のある状況を選択した状態で、「出来る限り限界まで」ではなく、「想定内で頑張ろう」になっているのだ。仕事はサッカーの試合とは違い、決して勝ち負けだけが優劣を決めるモノサシではないが、闘志を意識しながら仕事でも思考し行動し挑戦していたい。

 瞬間風速を上げることだけが商売ではないし、継続こそが力なりと自分に言い聞かせながら、その対極にいつも落ち着きなく闘志を煮えたぎらせている、もうひとりの自分もいてほしい。

バズワード。

 一見説得力があり魅力的なニュアンスを含みつつも具体性にかけ実は説得力がないフレーズのことをバズワードという。ご多分にもれず「まちづくり」もその対象だ。同様に「活性化」という言葉が独り歩きし過ぎて方向が定まらず惰性で動き続けることを、「活性化」と曲解するほど本質と呼称のずれがある。しかし、まちづくりに取り組めば取り組むほど、打つ手のなさ加減を鮮明に明確にしていることに気がつかなくなってしまう、黙視的な思考パターンは何故だ?気がつかないというよりも黙認できるほどに、まだその枯渇加減に実際は余裕があるのだろう。致命的にはまだ少し距離のあるイエローゾーンならまだ自転車で登れる程度の坂道の角度なのだ。反比例してその手のエリアには狭い視野と古き良き歴史の継承者達が時間の流れを無視して淀んで生息できるエリア条件だから、これまた致命的な結果へ滑落する可能性も少ない。比較する対象が圧倒的な過去の事例だったとしてもだ。しかし、世の中の坂の角度は段々加速度的に傾斜を帯びてきている。歩いてさえ登れないほどの傾斜になった時、その足だけでは登れななくなった時、何も鍛えずしてクライミングのツールも準備できていなければ、ただ、大きな壁の前でレッドゾーンへの変化を待つだけなのか?小さなポイントや数ミリのクラックにハーケンを打ち、その壁に自らの四肢でしがみつき登り始めるスキルを準備しなくていいのか。みんなでいっしょに!だけが合い言葉では、結果、みんなでその壁の前に沈黙することしかできなくなる。壁が自分の四面を囲まぬうちに自分の踏破ルートをクリアしておきたいものだ。できないまでも壁を登れる筋力と観察力とツールだけは準備しておこうと思っています。最後の一言がバズワードに飲み込まれないうちに。

ワイルド&ビューティー

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 どちらかの球根を外側に植え、どちらかを中心にまとめて植えた。すると、外側から芽が出てきた。さて、花が咲くまでどちらの花だったかは分からない楽しみ。

 この季節なら、チューリップかヒヤシンスなのだが、この球根が入っているラベルの「ワイルド&ビューティー」という文字に魅かれた。どの花も私の記憶にはない花。植えっぱなしで何回も咲くらしい。チューリップや冬を彩る大輪のメジャーな種類ではないだろうが、その素朴さと逞しさに手が出た。

 球根も直径1cmほどの小さい球根がそれぞれのパッケージに確か5~6個入っていた。全てここに植えたので冬の温かい日に素朴で小さな花をつけるだろう。

「うつ」は確かに・・・。

 「とにかくうつがひどくて毎日が辛い。」「夜は眠れないし、朝起きるのも辛くてたまらない。」「毎日不安に押しつぶされそうになる。」「いつ治るのか、いつ働けるようになるのか不安でたまらない。」「もうこのまま治らないのでは・・と不安になる。」「実は、うつから抜け出すことは、あなたが思っているよりもずっと簡単なことです。」というメルマガが到着した。いつもの感覚ならそのまま削除するのだが、改めて「うつ」について考えてみた。よくよくその突然のメルマガを最後まで読んでみると、自分自身がいくつか同じ気持ちになったこともなくはない。そういうことは他人のお話だと自然に見切れている時はなんとも感じないのだが、これも何かのタイミングで、ふとひかっかったようだ。不安で夜眠れないということが自分の人生で1日もなかったとは言い切れないし、不安で押しつぶされるような気持ちなったことが1回もないとは言えない。そんなひっかかりと「あなたが思っているよりもずっと簡単なことです。」と言われてしまうと、というか、このライターはあなたがどこまで考えているのかを知っているような大前提がある上、その大前提で「うつ」をどう抜け出させてくれるのかという期待さえ抱いてしまった。「うつ」で体調を崩したりモチベーションを失ったりする話も聞くし、現実問題、「うつ」で仕事を失う人もおられるはず。相対的に比較すれば私の不安など軽傷なのかとも捉えるが、絶対的には何と相関させるか?だから、健康・健全に過ごしていても、恐らく「うつ」とは表裏一体のような気もしなくはない。

 逆に私が怖いのは「躁状態」だ。これは意外と厄介である。心の特性上、躁鬱は自然の摂理だろうが、心は柔軟だから心なのだと捉えても、辛い時は辛いし、嬉しい時は嬉しい。というのは、この感情の感性のコントロールがデザインの仕事にはとても深く関連しているからだ。デザインの仕事に限らず、他の仕事でも同じなのだろうが、心の在り方、心の状態がデザインの着想や企画のイマジネーションに結構深く関連していると最近気がついた。今更!?みたいな感覚なのだが、改めて整理していると、ほんとに気づくことが多いし、今までそれに何故気がつかなったのかとさえ思えるような驚きの連続なのだ。実際に「うつ」や「躁」と思わなければなんでもない些細なことが、意識すると深部が見えてくるみたいな。つまり、そういうスピード感覚で日々の仕事に取り組んでいたということなのだが、気がつくということは嬉しい反面辛い面も露呈するのだ。向き合うか向き合わないかは自分次第だが、結果、性分として、「明日は明日の風が吹く」と捉えてしまうタイプなので、なんとか自分の心と上手くつきあえてこれたのかなと感じている。逆にこの性分を崩すのに苦労している結果が実は「うつ」なのかなとも考えている。

団塊経営者の大量引退が始まった!

 なるほど、世の中はそういうことになっているのか。団塊経営者の引退ラッシュということは、次の世代が継承モードになっているというこだから、時代が大きく変わる可能性が大きくなったということだろう。いわゆる次世代という立場の人間がどれだけのポテンシャルかということで、一代で会社を牽引してきたトップが新しい頭に変わり今後の未来像をどう描くかということを、いろいろな属性の人間が強く意識化し始めているという見地で間違いなさそうです。

 「劣化国家」という書籍が注目されるのも、「限界集落株式会社」という書籍がヒットするのも、どうやら中心だと思い込んでいた先入観はほぐれてほつれていると見て間違いなさそうですね。パブリックの人間が公的な予算を懐に入れている事件が多発しているが、結局、この国のシステムは外側からは強固に見えて内側では緩かったという証明だ。辞任しても罪を逃れられない民間企業の経営者は外側は柔軟に変容を受け入れつつ、内側では鋼の精神で頑張っている。システムが人間を変えたのか、本質的にそういうポテンシャルがシステムに集合したのか、GOD KNOWSだが、それも中和させることができそうな時代ということ。

サボテン。

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 珍しくサボテンが気になったの購入。自分の頭を見ているようで親しみを感じた。サボテンにしてみれば迷惑な話だが・・・。

パラレルな知性

 「知の条件」とは?などと大きなテーマがどう展開されているのだろう?とても興味がある書籍です。「専門的知」と「市民的知」をつなぐ鍵はどこにある?危機の時代における知性のあり方を問う哲学エッセイ。というこのフレーズには興味をそそられる部分が多々ある。「パラレル」というフレーズに一番強く反応していることを自覚しつつ、それが哲学的にどう組み立てられてるのか?読みたい満載の書籍だが、今はやめておこうと思っています。理由はいくつかあり、私自身には今整理しなけれいけないパラレルな要素があるからだ。恐らくこれが「つなぐ鍵だ」と言及されてもそれを素直に受け入れたくない体制にある。まして「哲学的エッセイ」というニュアンスには正解がないだろうから、今はとにかくいろいろな思考を明確にしたい体制なので自分自身の思考をぶれさせたくないという保護の本能か、一旦その興味は置いておいてとりくむべきことを優先しようとするリミッターか、それはどうとでも捉えることができる自分のさじ加減なので、とにかく今はNOが適正な判断。パラレルに哲学的にエッセイ的にどんな正解に向かっているの知りたい読みたい気持ちは抑えようと思っている。この気持ち(判断)にも意味があるのだから。

デザインハイ。

 地方にいるからなのか、どうも「アート」や「デザイン」に対する誤解に免疫ができてしまっているような今日この頃。正確には免疫というニュアンスではないのかもしれないし、年齢と共に何かが乾燥して潤いが枯渇しはじめているのかもしれない。このあたりの危機感からか、誤解をポジティブに自分のエネルギー源に変換できものかとコンバーターを探している。そんなマジックマシンはどこにも存在しないことぐらいは毎日ネットを見ていれば頭では理解している。ただ、頭と心のバイパスが必要以上に太いので、右脳と左脳の間の脳幹のように太くなればなるほど軸で考えてしまう結果だろう。A色とB色を混ぜて鮮やかになれば、輝けばいいなとは考えつつも、見事に濁ったC色を見て頭はそれを現実と認識しつつ、彩度や明度が上がることを心は期待している。

 デザインの仕事にはアドレナリンが必要だ。ただ出し過ぎると放ち過ぎたモノを回収しなければならないリスクがあり、的を定めて放出するベクトルをコントロールできなければ、アドレナリンの浪費になってしまう。どこかで落ち込んでもどこかのタイミングで上げていかなければ、長いサイクルで振幅が0になる。心拍数のパルスのように血圧のように上限と下限のバランスを良好に維持しながらのデザインハイを自分のモノできるかできないか。

 プロだからモードに入るのは簡単だ。自分の入口をたくさん知っているし、スイッチもたくさん持っている。ただ、適正なエネルギーの放出を見定め出口に向かうタイミングやスイッチをOFFにするのが難しい。燃費は良くなったと思っているし、意外とハイブリッドにハイをキープすることも得意だが、エンジンを止めキーを抜くことも会得しなければただの消耗だ。生み出さなければ壊せないこともデザインの使命。

成人力。

 いろいろな「力」が現代には必要ですが、なんでもかんでも「力」を付ければ新しい切り口になるというセンスはさじ加減を間違えるとナンセンスになる。つまりリテラシーというニュアンスなんだとしたら、この「成人」という力は「大人感」のように捉えられるのかな。「大人な判断」「大人のコメント」「大人の雰囲気」いずれもどこか何かが表裏一体のような語感が感じられ、裏があって初めて大人だみたいな包括力も感じられなくもない。思考力の部分と行動力の部分のバランスを指してバランスのいい状態を「成人力」と捉えているらしいが、つまり、心と身体という関係性が大人力にもグローバル化にも仕事の現場にも求められている。一見、社会性かなとも思えるがもっと主観でいいようだ。さて、心と身体、メンタルとスキルの関係性がどうやら今の時代を反映したフレーズのようだ。心を仮想、身体を現実と捉えるもよし、心を思考、心を行動と捉えるもよし、心を闇、身体を光と捉えるもよしなのかな。

モノホンの逞しさ。

 最近、矢継ぎ早に逞しい若者に出会った。人の心を動かす人は大地にその足で立っている。農業に従事しているかとか森の知識が豊富だからという意味ではない。人の心を動かす人は自然の仕組みやリズムや意義や価値を知っている。というよりも見事に共生しているのだ。何かのきっかけで明日から農業をしろ林業をしろと言われたら状況から適正ならばパソコンをチョエンソーに変える覚悟はできているものの、しばらく躊躇の猶予が必要だろう。つまり、覚悟の問題が本気の度合いと比例しているという意味で、大地に立っているということはモノホンだということ。当然、相手が自然だったり動植物だったりするのだから逞しくなる。相手がパソコンだったりソフトだったりインターネットだったりするとそうなるように。結局、生活というのはこのどちらかだったりするから、不器用な人は逞しい。

 どこにでもあるような目標を持ち、どこにでもあるような達成感で満足できる器に問題があるのか、器など最初からどこにもないということ前提で起こる全ての事象を目的だとも満足感だとも捉えずにただ行動の軸をぶらさないということがいかに現代に欠落しているかを知るともでも言おうか。年収1億を目指すことは悪いことではないし、高級車に乗っていることは否定する対象でもない。しかし、最初から最後まで価値感に縛られて終わる人生なのか、価値感を自分のモノにして日々を暮らせるのかで人生の豊かさに根本的な違いが生まれる。誰かと比べて何かが優れているかではなく、自分の中の声に素直に正直に行動できる逞しさがあればいい。

 ご多分に漏れず、そんな若者と出会ってしまうと、49歳とおっさんは元気になれるのだ。挑戦しているひと、観察している人、淀んでいない人は逞しい。

意外性について

 昔、硬式野球をやっていた時、2年生で試合に出ていた頃があった。新人戦か何かだったのだが、たまたまいい結果が出た。それを福井県の新聞が「意外性のある選手だ。」という評価をしてくださった。中心選手でもなく、大きな活躍もしていないのだが、その頃、この「意外性」という評価がとても嬉しかった。勿論、新聞会社が評価をしてくれたということも嬉しい要因だったが、「意外性」という見方をどう捉えるかは別として、とても心に響いた。その時のことがどこか現在に至るまで人間形成にかなりの影響を及ぼしているような気が最近する。活躍しそうにないのに、意外な場面で好打を打ったということを「意外性」と評してくださったのだろうが、私はそんなふうに多面的にはとらえることはしないまま、「意外」であることに何か自分の立ち位置を発見したような気持ちだった。

 意外にも、硬式野球をやっていた高校生は大阪芸大に行った。美術学部なのに、意外にも東京でデザインの仕事をやりたくなった。意外にもあこがれていた東京に飽きてしまい大阪に行く。意外にも大手の広告代理店の制作会社で働くことになり、意外にも認めてもらえた。なのに、意外にもその会社を辞めてNEW TORKに行く。そして、意外にも帰国して滋賀県でデザイン会社の設立に参加した。かなりの変化だが私の中では違和感がない。つまり、そう評価された嬉しさがいつの頃からか自分の中にその体質・気質が取り込まれ私は「非意外」では満足できない性分になったということ。

 この小さな心の摩擦ようなチリのような熱量が、意外と私自身のエネルギー源だったりするのだ。人生は不思議だ。

イモリ

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 水源の湿地から流れ出す水流の中にイモリを発見。黒く柔らかそうな身体をくねらせながら淵に消えていった。

いい風景。

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 いい環境ですね。ここに来ると無性に落ち着きます。何事も無性って大切ですね。いいタイミングでした。

ゲーム、ゲーム、ゲーム。

 ゲーム産業、スマホ・タブレット産業、アニメ産業が熱い。というよりも暑苦しい。一回、冷静になってみるとここまで熱くなる必要はないのではないかという考えが頭の中に充満する。クラウドがこれらを加速させた根底にはデジタルコンテンツへの期待値が適正値を超えたあたりから底なし・青天井化現象になっているような気配がする。直感で経済の振興が実現するのであれば藁をも縋るで生産性の法則は成立しているように見えるが猛進と盲進の進撃はどこかで止まるはず。みんで渡っているのが、さて、青信号なのか赤信号なのか?来る2020年あたりにはその結果が一部具体的になるだろう。ボノはデジタル機器が世界に公平を齎したと言っていたが、この場合、「公平」とはなんだろう?貧富の格差だけではない微妙なバランスがこのフラット化で崩れているとしたら、社会構造としての貧富の格差は変わらないとさえ疑心暗鬼になる。では、何が公平になったのか?冷静に捉える五感をフル活用して、捉えたモノだけで揃えたパーツで何かを再構築してみよう。放つために一旦、循環を止めたい。

情景描写。

 そもそも心象を描写することと情景を描写することを比べたら、明らかに情景を描写することが得意だったはずがいざ文章で何かを伝える、イコール、心象を語るべきみたいな先入観に捉われていた。ブログも匿名性と抽象性であえてフォーカスを緩くすることに終始し過ぎ、本来言い切り型の人間が微妙な文脈のテクニックを得たかのように曲解しつらつらと書いては満足していた。仕事で広告用のコピーライトをチェックしている時もそう、伝えるべき内容を心象で捉え過ぎ、結果、結論はどこかへということで、コピーライトの真髄を極めたような錯覚に陥っていた。一番伝えなければならないこなどどこかに丁寧にしまい込んで伝えたいことを隠しながら語るテイに泥酔していた。これが意外と気持ちいのだ。ええっ!ここまで言って感じられないのなら何を言っても伝わらんぜ!と隠し捻じ曲げフォーカスを緩めることがテクニックだと。でも、言い切り型の人間だからそれが心地いいみたいな感覚。

 いい例がこの文脈と論理。何を言いたいのかは避けている。間違いなく避けている。これは、恐らく世の中のブログ論理やSNS論理に引っ張られているのだろう。言い切れば痛い目に会う世界だからだ。この論理が世界中をハリケーンのように全ての真理をなぎ倒しているとしたら厄介だ。たかがデジタル信号が形作るこの画面に何がある?何もないことありきでただのデジタル信号に真理は転写できない。まだ、そこまで人間はデジタル信号を信じる能力を得ていないのだから。

 目の前で末尾のカーソルが点滅している。CPUのリズムに同期するように、キーを叩く。打ちこまれるテキストが変換キーでネガからポジに変わるリズム。どこで終わるのか?まだ、何も始まっていないのに。

にぎわいの本質。

 「にぎわい」を検索したら、「中心市街地ににぎわいを創出する、お客が回遊すれば商店街が活性化する。よく聞かれる文言ですが、ぶっちゃけ、何が言いたいのかよく分かりません。商店街活性化の原動力らしい「にぎわい」とはいったい何か?どうすれば生まれるのか?「商店街活性化」のような人の人生や財産を左右する仕事を仕掛けていくにあたっては、使用するコトバの定義はしっかりしておきたいもの。ぼんやりした理解をもとにあれこれ取り組んでいると、賑わい~回遊~活性化が実現する、ということなら別ですが。にぎわいをこういう意味で使いますと、「にぎわい創出」・通りが賑わえば、商店街・個店が繁昌するようになる、繁昌を実現するための「手段」では無いことが分かります。お客の消費購買ニーズへの対応をテーマに売り場・店づくりに取り組み、それがお客に評価された結果として「店がにぎわうようになる」というのが「賑わう」ということです。「賑わい」に限らず、商店街にはだれもが当たり前のように使っているが、あらためて考えてみると“どうも意味がいまいちはっきりしない”というコトバがいろいろとあります。」という分析を発見した。

 逆を言えば、「人が集まれば表面的ににぎわっているから、納得しています。商売の本質や未来への展望はもう諦めたから、予算を消化して来場数だけの瞬間風速を上げて、にぎわっている風景だけを目に焼き付けたい。これ以上は私達の頭で考えてもアイディアも工夫点も企画も出てこないのですから。仕方がないでしょう・・・。」というひらきなおりとも受け取れる。これではお祭りの屋台感覚レベルだ。仕事も商売もその本質は、瞬間風速も欲しいが、追い風も向かい風もあることを知り、自分の足で経済やビジネスのルートを歩くことでしか築けないはず。目の前に人参をぶら下げられて猛進している馬のような仕組みはにぎわいではない。それは、ただの短命的な「興奮」だ。運営している携わっている人達だけがアドレナリンを欲しいためだけに予算が消化されているとしたらこの行為は「興奮」でもなく「消耗」だ。「にぎわい」の看板を掲げ「消耗」の道を歩いている人達に恐らく幸はないだろう。消化試合に集まった少ない観客だけでフィールドでのプレイが楽しいのか?本質的なにぎわいとは天下分け目の頂上決戦の演出から生まれる。もう、予定調和の「勝ち」と「価値」が見え透いているゲームに本当のアドレナリンは出てこない。絵空事が大衆の総意にドン引きされないように。小手先の壊れかけたロジックでお茶を濁すぐらいなら、「にぎわい」よりも「沈黙」の方が気高く至高である。

本気の対話。

 この1ヶ月ほど本を読んでいない。すると日々の思考がいかに読んでいる書籍の内容に引っ張られていたのかということに気がつく。恐らくテレビや音楽など気がつかないうちに相当ひっぱられていたのだと気がついた。頭の中を何かで満たしていたいからという本能だろうか習慣だろうか、とにかく、いっぱいにしておきたかったというのが真理だろう。よほどのことがなければこのようなトライはしないのだが、よほどのことが起こったのだ。少しづつ少しづつ有益無益に関わらずノイズが減ると心の中が澄んでいく感覚になり、それまで雑音でごまかしていた自分の気持ちやうそぶいて開き直っていた気持ちが見事に沈殿していく。その代償にそれまで沈殿していた不安や後悔や焦燥が一気に舞い上がった。つまりこれらを黙殺するためにノイズを満たしていたということなのだ。ようやくその状態になったのだろうと自覚している。すると、それまで黙殺していた不安や後悔や焦燥が実は棚に上げておくべきモノではなかったことに気が付いた。不安や後悔や焦燥こそが自分の本体であり本質なのだから、「お前はいつまで雑音で体裁だけ整えてごまかし続けるんだ!」ということになる。その声をイマドキのスピリチュアルの世界観で捉えようが、自己啓発と安易に言語化しようが、体裁はもうどうでもいい。情報の中のノイズを有益な生産的なパルスに変換するためにまだまだ本気の対話をしていこうと考えている。自分と本気の対話ができない人間に誰かの心を動かせるはずもないと。若い頃ならばノイズを次から次へと引き込んで刺激を楽しむのも生産的だと誤解できただろう。それが過渡期であるならば、足し算に掛け算を繰り返していれば正解を導き出せただろう。しかし、裏から表にベクトルを向けたいのなら、このタイミングで自分自身を再構築しなければならない。

西洋文化と東洋文化。

 海外の人達の日本への評価は様々だ。ブエノスアイレスの人だったかパリの人だったかが、日本という国は西洋文化と東洋文化が見事に融合した素晴らしい国だという評価をしていた。この評価を実際どう受けて止めればいいのか少し迷ったが、なるほど海外の方の視点はそうなのかと心にその言葉が馴染みながらいい感じで素直に納得できた。西洋文化が具体的に何を指し、東洋文化が具体的に何を指し、さらにその融合が実際の日常生活や仕事をする上でどのような作用・影響・恩恵を受けているかは漠然としつつも、思い浮かぶいい面だけを捉えて「融合」を組み立ててみると、確かに、希有な国の見事な融合だと感じた。

 さて、その融合加減が経済面ではどうなのだろう?まぁ、西洋と東洋と言っても広いですから、グローバルなビジネスモデルに携わっているグローバルな人材の人達はその辺りを上手く機能させているのでしょう。ジャパンエキスポもハリウッド映画の日本描写も微妙に日本人の一般意識とは距離があるようにも感じるが、感じようが感じまいが海外での評価は海外の評価として素直に受け止めなければいけない。例え、それが古傷を舐める結果になろうとも。ま、島国だから海洋の存在が緩和している時代は良かったがネットでクラウドが地球を覆っている以上、電子レベルでは地球はひとつ。リアリティーとの微妙な時差と違和感を何かの手法で緩和しなければならいのだから、融合は必然かもしれないですね。

 未だに戦国時代の武勇伝や明治維新の狂気を回顧して微熱をエンジョイするテイがリセットされないが、これも言わば「融合」のケミカルリアクションかもしれないですし。熱量を出し切った汚染物質の処理に感けながら一方ではグローバルな熱量に変換しているあたりも「融合」が生み出したノウハウかもしれないし・・・。

時代が求めるスキルとは?

 「今の時代、スキルアップに何を身につければいいか考える際には、ビジネスや企業で需要の高いものから選ぶのがコツです。ビジネスで基本となるのはやはり情報処理の技術になります。数字を集計して今後を予測したり、視覚的にわかりやすい説明や表示をおこなうスキルが重要になります。この情報処理ですが、ビジネスで広く使用されているソフトがマイクロソフト社のオフィスシリーズになります。表計算のエクセル、文書作成のワード、プレゼンテーション作成のパワーポイント、データ管理のアクセスです。さらに自動化して便利にするにはプログラミングのスキルです。またこのプログラミング業界は平均給与が高いのも特徴です。これらの主要なスキルですが、効率よく身につけるにはとにかくわかりやすく、ビジネスでよく使われる内容の入った講座を使うのが大切です。」このスキルこそがビジネスの現場が最も求めているのだということか。私は上記のソフトウエアについては明るくないし、情報の視覚化というスキルのアウトラインや入口ぐらいはスキルとして持っているつもりだが、ビジネスの現場で通用するかは実戦経験やリアリティーがない。

 合わせて、一般的に「ビジネスや企業で需要が高いモノ」に対してもあまりピンと来ていない。どういう需要に対してどういうスキルが必須なのかという構造も理解していないからだろうし、マイクロソフトのオフィスシリーズのスキルアップに自分自身が興味を持ったことがないのも畑が違うと安直に見切っているだけなのだろう。と考えると、時代が最も求めているスキルを見切りデザインの仕事の仕事のスキルを追求・探究してきたことは時代の流れに少し逸れているのかとも考えられる。この捉え方について、このタイプの記事を読む度に考えてしまうのですが、情報技術が生み出している価値っていつかはキーボードのキーを1回叩いた単価やマウスでボタンをクリックした単価で算出されスキルというよりも、オペレイトと評価しなければいけなくなるのではないだろうか。すると、1時間に何回キーを効率よく叩けるかやマウスをいかに的確に操作してクリックする数を増やすかという能力だけが人間に求められ、スキルという概念が消えてしまわぬか・・・と。ほんとうにそんなスキルを時代(世の中)は求めているのだろうか?と。

芸術思考は建設的。

 アメリカと日本の戦争の歴史に翻弄された人生を経て、現在、N.Y.でアーティストとして活躍している90歳の女性がテレビに登場しておられた。その方の人生経験のどの部分を切り取っても強烈なインパクトを受けたし、カメラの前で描いた「無題」というタイトルの水墨画にもその人生の凄まじさが一瞬で転写された作品だった。その方の師がアメリカの収容所でおっしゃた言葉が私の人生の支えだったと、そのお婆様はエネルギッシュで大きな笑顔と共に語っておられた。

 「どんな状況でも芸術は建設的で平和を呼ぶ~」的な言葉がその方の師匠の言葉だった。なるほどなるほど。戦争を知らない私はこの言葉の意味を充分に理解して共鳴することができないが、この言葉の裏にある芸術と人間の関係の密度を理解したいと強く感じた。平和と芸術の歴史のどこか一部に自分が今存在できていることを少しだけ実感しながら、建設的思考でこれからも在り続けたいと思います。

龍攘虎摶

 空想の動物と現実の動物が争う様を力の均衡した争いと例えた人のイマジネーションは気高く自由である。変わらない(変えてはいけないもの)と変わるもの(変えなくてはいけないもの)が今、私の中で、つまりこういう状態なのかなとふと頭をこの四文字がよぎった。さてさて、どちらが龍でどちらが虎なのか?イマジネーションの座標軸、タテ軸が龍でヨコ軸が虎か?

暑いはず・・・。

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 仕事場は28℃だが、会社の入口を登った踊り場ではなんと44℃!これは暑いはず。この暑さだったら車の精密機器も誤動作を起こすだろうし、タイヤが融解してもおかしくはない。お盆休みを経て少しは涼しくなっていくのかと思っていたが、さらに暑さは厳しくなるばかり。どこまで続くのかこの猛暑。一週間予報を見ても嵩のマークはない。日本の夏はいつ頃終わるのだろう。体力勝負の夏です。まぁ、体力も気力も大丈夫ですが、健康管理にはより神経質になってしまいます。

 暑さでか酷使でか知らないが最新のパソコンとモニターがそれぞれ救急病院に搬送された。モニターはどうやら他界されたようだが、最新マシンは治療を受けて戻ってきた。自分の身体以外にもパソコンとモニターの健康管理までしなければいけないとは・・・。ま、これもデザインの仕事術のひとつになるのかな。

仮面の告白。

 今更ながら「仮面の告白」を読んでいる。この夏はなんとも変容に浸る夏だ。何故、三島に辿り着いたのか?その理由は明確なのだが、三島という存在が知識として自分の中に存在していなかったわけではないので、三島を読めるようになったことへの変容が心地いい。足りないモノが多すぎて人生は短いと感じてしまう年齢になったからなのだろう。三島由紀夫か・・・、この夏はなんとも密度が高い。

40歳を過ぎたら、三日坊主でいい。

 「仕事では芽が出なくとも、人生のどこかで芽が出ればいい。」という新ミドルエイジ論を書いている著者がいる。成毛眞さんというこの著者は「とにかく何でもやってみて、それから考えよ」と言っている。「日本の40代以上のビジネスマンの9割は、仕事に全力を注ぐ必要はない。私はそう思っている。」と。いくつか腑に落ちない部分があるのですが、この考えに共感を抱くということはどこか禁断の果実に手を出すような気もするし、脱力感やニュートラル感覚で見えて来る新しい世界があるのかもしれないという期待感もある。しかし、どこか捻じれているこの捉え方と切り方が現代風だと言えばそれまでのような気もする。三日坊主というニュアンスに感情移入してしまうということは芽を諦めたということになってしまうのだろうか。ちょっとどこか気になる書籍ではあるが今は他にもっと大切なことがあるので購入はスルーしておくことにする。

スマホ難民。

 現在スマホユーザー数は国民の約30%らしい。で、スマホ難民という人達が増えているらしい。それは、スマホは買ったけど電話をかけるだけでメールもSNSもアプリも活用できていない人達のことをそう呼ぶらしい。私はスマホユーザーではないのでその難民感が分からない。分からないがそもそも便利だろう、便利かもしれないから買ったのか?みんなが買っているから買ったのか?で活用に対する本気度が推量できるはず。逆に持っているけど使えない難民感が実は欲しかったとか。持っているけど活用はできていないけど安心みたいな気持ちがどこかにあるのではないだろうか。それに活用するって、SNSやアプリを使うことが「活用」だとは思えない私はまだスマホに手が伸びない。

選挙演説のロジック。

 暑いのに選挙演説者の皆様は御苦労様なことです。決して心地いとは感じられない非日常的なこの違和感を整理してみよう。選挙演説で頑張っていますからという大前提の無神経なその音量が気になるの原因か、選挙運動ということは昔からこういうスタイルだから市民の皆様にご迷惑をおかけしていますという体裁を無理やり押しとおしたベースに私達はこうして炎天下の中頑張っていますという表現で運動中は精一杯頑張っているというアピール姿勢が原因なのか、叫び続けることがだけが至誠だという主張しかなさげなのが原因なのか、さっぱり分からない。やったことがないから勝手な無神経な考えに至っていることは事実なのですが、やらないことにも理由のだから仕方ない。これらを全て日常の一場面だと無理やり大人の理解をしたとしてもそれでも違和感がある。それは恐らくその行為の中に適正なロジックが存在していないからなのかもしれない。言葉の羅列が本気の度合いと反比例しているならまだいいが、その相関性さえ充分に考えていなさそうな人達に見てしまうことと、連呼している主張が非現実的なテーマであり、比較的抽象的なことに終始して結論を避けていることも違和感を感じてしまう理由だろう。

 今日から宮崎監督の映画「風立ちぬ」が公開されている。関東大震災から世界恐慌を経ての戦争の時代に生きた一人の男の物語。宮崎監督はそういう時代だったからシンクロするように「ナウシカ」を創ったとおっしゃっていた。今回の映画「風立ちぬ」も同じ気持ちですとのこと。歳を取ると自分の映画で泣いてしまうという宮崎監督の言葉の重さと選挙演説の中の言葉の重さ。どちらが重いのか軽いのかというモノサシではなく、それを聞いている自分自身にとってどちらが価値があるのかというチョイスをした時、激動の時代なのだから自分の中に何が「強さ」なのかという基準をしっかり見極めることで適正な判断ができるのだと思います。

新しいこと。

 一般的に年々新しいことへのチャレンジするエネルギーが減少していくと思う。経済的に余裕ができてくれば年齢を重ねるごとに新しいことへのチャレンジできる可能性は大きくなると捉えたいが、チャレンジできる数は増えるだろうが、その質量というかサイズは確実に制限を受けている。手短にオリコミチラシを見て資料を購入して始めるあれは正確にはチャレンジではない。そういう商売にシンクロしているだけでチャレンジというのはもっと刺激的なことである。刺激的なことであると言いながらもずる賢くなった分だけリスクが見えてしまうから、リスクを覚悟で想定内のチャレンジしかしなくなることも制限のひとつ。ではなぜ制限を設定してしまうのか、現実的に不可能なことをチャレンジだと言っても絵に描いた餅だからか、そもそも、チャレンジに対する固定観念から脱却できないからか。仕事のルーティーンでさえ、50歳が近くなると挑戦は控え引き出しの中の貯金を切り崩すことでバランスを低く整えている。この状態もどうひいき目に見ても「新しいこと」とは遠い。

 子どもの頃、プロ野球選手になりたいと考えていた子どもたちの中で何%がその夢を実現したのだろう。プロ野球選手になる夢というのも今考えるとあまり魅力的ではないが、子ども頃はモノゴトの一部分しか見えないので夢のための夢が設定できたのだろう。

 では、「新しいこと」とはそれを設定することでどういう利点があり効果があり自分の仕事や人生にどんないい作用があるのだろう?「新しいこと」にはそんな魅力やエネルギーの源泉が潜んでいるように考えています。しかし、思考も筋肉も確実にその機能が低下しているから慎重に。でも、慎重にしているだけでは挑戦が楽しくなくなるし・・・。と、このモヤモヤした感覚が実はいいのかもしれない。

そして。

 小学生の頃、私の作文の中には「そして」が非常に多く入っていたらしい。その時は別に先生にそんな注意をされても、先生が「自由な気持ちで書け」と言ったから、僕は「そして」の連発になったのに、なぜ、先生は注意するのか?と悲しい気持ちになった記憶がある。

 そんなことよく覚えていますねレベルの想い出なのだが、だから!?文章を書く時に「そして」を使うのを躊躇するようになってしまった。

 小中学校の国語で正しい日本語を学習した記憶もないし、高校ではどんな国語の授業だったさえも記憶にない。まして、大阪芸大の4年間で文章を何文字書いたことだろうか・・・という人間だから、社会に出てもデザインの仕事でも文章表現について深く探究することはなかった。

 そして、読むことは楽しく、書くことは苦しいことだと最近気がついた。そして、それが幸福でもある。

時を越えて・・・。

 「時を越えて君を愛せるか?」というフレーズが多用されている。愛の物語の誕生から死別までをつなぐための優しいフレーズだ。時を越えるとはどういうフィーリングか?それを皆自分自身のモノサシや経験値で捉えて自分なりのディテールに消化しているのだろう。

 自分自身の物語はどこから始まってどこで終わるのかを考えていると、いつ始まったのか?もう終わってはいなだろうか?という不安に支配されてしまう。これを整えるためにいろいろな欲望や価値感が用意されてきた。それが人間の歴史。愛を追求・探究することでその均整を整えるもよし、戦いの中で自分自身のアイデンティティを実感するのもよし。つまり、人は完成された成果物や方程式や分かりやすい教科書を最初の段階では求めるが、一回、それを知った瞬間次の不安と探究心向けてのリセット準備を行ってる。つまり、全ては現在進行形の中で、どう立ちまわるのかということに尽きる。

 「時を越えて君を愛せるか?」と聞かれても誰も明確な答はもっていない。それは永遠に誰の手にも落ちてこないモノだから。

 などと、頭の中がゴニョゴニョしているのは、今、相方とある挑戦をしているから。この挑戦は自分で始めた挑戦だが、一番近くにいた相方がそれを完全にサポートしてくれている。美しい方程式は要らない。本当に欲しいのは時を越えて君を愛せるかという感覚。

 心に沁み込む言葉はある意味「投げっぱし」でいいと思うし、現代は「投げたあと」のことを気にし過ぎだ。投げることもせずに魚を疑似体験で仮想空間で釣り上げて何が楽しい?ただ、ルアーを投げなければブラックバスはバイトしてくれないのが自然の法則。

 ゲームプログラムの中でランカーを釣っても私は楽しくない。釣りの楽しさはリアルな1匹目から始まる。どのような条件と状況でその1匹目に出会えたかが全ての始まりである。釣りなら最初の1匹目が物語のはじまりだとして、これが仕事なら、人生なら何に置き換えることができるのか?それを考えるための1本目を私は今ひねり出そうとしているということなのだろう。

至誠、天に通ずる。

 「天地が天地たるゆえんのの本体、本質、これを誠という。別の用語で言えば真実である。この誠という文字も非常に考えられて造られている。偏の「言」は「事」という文字で、その言(こと)(事)の端(は)が言葉だ。要するにこれは事実ということである。創造、クリエーション自体を言という。創造の営みによって創り出されるものが言である。その端、先端が言葉である。だから人間が成長する始まりは言葉だ。モノを言い出すというのが成長の始まりです。」と言われても・・・という人には関係がないのだが、そのニュアンスに心が少しでも動いたのなら、その至誠は必ず天に通じるのだろう。この場合の天とは何を指すのかが問題である。

 天文学と占星術の違いは軸がどこなのか?と同様に、言葉を信じるということが具体的にどのような作用があり効果があるのかを知覚してこそ・・・なのである。

 有言実行という言葉がよく学校の廊下や教室に貼ってたが、その深い意味を理解しないまま、誰もが学校を卒業して社会にでる。そういえば学校の廊下にそんな言葉が貼ってあったなぁ~と勤め始めた会社の社長が会議で引用して想い出すみたいなあれ。最初に何故言葉ありきなのかは突き詰めらとしたら相当深いはず。脳が発信する信号で神経から筋肉に何かが伝わっている仕組みである以上、それが通じる通じないではなく、一体であることを知る。

 ゴッホの原子を吸いこんでゴッホになれるという仮説があるらしいが、だから、ゴッホになりたいかと聞かれれば、返答はNOだ。ドバイの億万長者になりたいかと聞かれても返答はNOだ。原子論を茶化せばキリがないが、最初は言葉ありきだとしても朽ちれば皆同じ。

3人の魔女か・・・。

 なるほどなるほど、近代には3名の魔女がいたのか・・・。

 書籍「137億年の物語」を昨晩読み終えた。なんとも量感のある読後感である。

 ビックバンから3.11まで、137億年の歴史が何を意味しているのだろうか。

 非常に壮大な物語だった。

 やはり、いろいろな世界観が少し変わったような気がしています。

 その後に読み出した「青い象~」にスムースに繋がっていく感じがなんとも痺れた。

自殺した、しなかった。

 林先生は日本の作家を「自殺した作家」と「自殺しなかった作家」に分けて作品のスタイルを分けることがあるらしい。なんとまぁ、素敵な独自のアプローチでしょう。そんな属性があるんですね。文学をどう捉えてこられたか、文学を何基準で探究してこられたのかというその懐というか度量の器の大きさがチラリと見えたような気がしました。

 ダザイとヤスナリは自殺するほど自分自身の世界を追求したと捉え、ソウセキはそんな時代にも関わらず最後まで逞しく生きたと捉えていると、私は考えています、と言い切る潔さ。あのキレ味はさすが時代を牽引できている人ならでは。そこまでテレビで言い切るって凄まじく分厚い鉈のような鋼の神経かカミソリのように繊細な神経なのか、いやいや、いずれの二刀も持っておられるのでしょうね。文学をそういう風に考えたことはなかったし、書籍と漫画を比較して「レンジ」と「手料理」と比較したことも私自身の人生には一度もなかったので、その言い切り方がカッコイイと感じた。言い切る勇気、大切なんですね。

 この時代だから、「~かもしれませんね。」とか「~だったらいいのかなと思います。」とか「~ったらいいのになと考えています。」とかって語尾のフェードアウト方式は時代対策なのかと思いきや、実はそうではなく、この時代だからこそとか考えずに、いつどんな時代でも、語尾を濁す人と濁さない人がいて、濁す人はやはりどこかで何かが濁っているんだろう。曇りなき眼で見定めたんだという自負があるならば、伝える時にはやはりグレイゾーンはタブーなんだ。

 言い切るためにも、本当の本気信号を発動せねば・・・なんですね。

 「今でしょ!」って、やっぱ、いい言葉ですね。

おかしな話。

 まぁ、そういう現代なのだろうが、おかしな話が身の回りで起こる。個人情報への認識や企業のサービスの本質やコミュニケーションの変容などなど。おかしい話が日々連続である。

 例えば、「血液型」について、アンケートすることは最近タブーらしい。えっ!血液型は何ですか?という質問が個人情報的にはデリケートなんだということ。血液型をお教えすると人間関係における非常に大切なポイントで、血液型ひとつでぎくしゃくする場合や、関係性が悪くなる可能性があるのだそうだ。そんなに微妙な時代なんだと改めて驚く。この程度で驚いていては現代の人間関係事情は適正に築けないのだろうが、血液型O型の私はあまり関係ない。

 また、逆クレーム対応とでも言おうか、初めての営業さんが来社される、お仕事の案件が進む、契約する、とここまでは普通の流れで、こちらもご提案内容が納得できて有益と感じたから契約したのに、さらに、別のリサーチ会社から、営業の対応に気になるところはありませんでしたか?という内容のリサーチが入る。うん?これは、転ばぬ先のなんとかか?私としては非常にご提案の内容も理にかなっていたし、実際に提示された数値的な資料も充実していたし、人間的にもしっかりとコミュニケーションされていたとてもタッチのいい男性だったので、結果、契約まで進んだのだが、こうして、クレームになる前から、どうでした?的なリサーチ会社への解答はいる?適当にお応えはしたが、後味は悪い。うん?彼は何か他の案件で問題の多い方だったのか?もしかして、それ以上に法律に触れるようなことに関連している可能性があるのか?と猜疑が深まる深まる・・・と、イマジネーションが止まらない。その電話の意味や価値が分からない。でも、まぁ、そういう時代なのかなと感じつつ電話を切った。

 メールでの情報交換についても、メール送信やFAX送信後の確認の電話は必要か必要ではないか?という細かいお話も不思議な感覚です。企業ではホウレンソウを徹底して!とスローガンに掲げていると思いきや、経費コスト削減で必要のない長電話は企業悪という価値観。これってかなり出たとこ勝負のさじ加減のような。で!どっちなんだい!ということで、余計な心配が蓄積される結果になっているような、そんなメンドクサイ構図の社会って、やっぱ、おかしい話に属する。

 49歳って、もう時代的には古い人間の部類なのだろうか?言葉ひとつひねり出すにも慎重になれという掲示・警鐘なのだろうか。どちらかと言えば・・・というよりも、間違いなく、そそっかしいタイプなので、思ったら言葉にしてしまうので失敗も多いが、そこまで慎重になって何を守っているのか?とさえ考えてしまう。これが現代社会に潜む「ストレス」の源泉だとしたら、かなりやっかいな社会だ。

 ネット文法的な、WEBサイト内やブログやメルマガにおける効果的な文章表現のセミナーや講習会のご案内がよく届くがあまり興味がない。仕事だから適正な文章表現の成功事例や失敗例を情報として蓄積することは必要だと考え、以前はよく参加していたが、どれもポテンシャルは低かった。小学生レベル(小学生の皆様には失礼)の作文のお話を大の大人が雁首揃えてメモを取るって、カンボジアの青空教室ではない(カンボジアの子どもたちごめんなさい)のだから、もっと、ギリギリの話を聞きたいのが正直なところだった。

 と、おかしな話をすればキリがないが、それほど文章表現というのは振幅があるということ。伝えたい内容やTPOで表現アレンジや語感やフィーリングを使い分けてこそ、FACE TO FACEに近い背景にある気持ちやニュアンスが伝えられる文節・文脈になるのだろう。いやはや、日本語は難しい。

動くこと。

 「身体が動くと心が動く。」同じ場所で思考を巡らせることも大切。同じ場所でじっくり情報を収集して整理することも大切。戦略を構想するために同じ場所で自分の中の集中力を高めることも大切。恐らくこれらの先入観は義務教育や日本の均一的な教育の場がベースになって人格形成に影響を及ぼしている不思議な価値感のような気がします。ただ、それをいい悪いで安易にジャッジできないことなので、ここでは何も言えないが正解。言ったところで何がどうなるわけでもないし生産的な考察にはならない。昨今のブログの炎上やコミュニケーション上のトラブルはすべてこれらに起因しているような気がするが、そのトラブルでさえ誰もいい悪いの判断の対象にするのはちょっと違う。デバイスを介するコミュニケーションの利点は一定の距離感があり対人に対して必ず途中にデバイスを介するためにそこで一旦熱量や論理のディテールがフィルタリングされるということ。お互いにそれを理解しているのがルールだから、細かい文脈・文節にフッカーをあてるのも自由だし、例えスカイプのリアルタイム映像でさえ、2次元の情報に脳はさほど反応はしていない。

 だから、自分自身が動く必要がある。動けば視界が変わる筋肉が動き情報のスクリーンが変化する。つまり、心が動き出すから、体温のある情報が得られ体温のある信号を発信できるのだ。「動くこと。」で想定外の事象にどう対峙するかという部分から自己を守り過ぎると、悪い意味で、適正な筋肉が退化あする。退化すれば食べる・寝る・考えるバランスが何か別の機能で補填しようとするから、血管や腱に疲労が蓄積し内蔵の消化吸収のリズムが変化しあそこが痛いここが痛いという「痛い身体」を創ることになる。ここまで来たらそれを「ストレス」と呼ぶのか「悪腫瘍」と呼ぶのか「悪習慣」と呼ぶのかは個人の自由。

 とにかく、動くこと。

個性の時代!?

 「個性」とは先天的だとも後天的だとも言えるというレベルの知識はあるが、さて、この「個性」とはなんだろう。アートやデザインについて考えれば考えるほどその軸の存在がどんどんグレイゾーンに迷い込む。言葉で何かを伝えようとしても、常に結論が出ないダブルバインド。これも「個性」なのか?「アート」について自分なりの世界観を語る・・・これは一見とても簡単そうに思えたのですが、常に細かい振動の磁気を帯びて大きな重力にふわふわ。どこを軸にすればいいのだろうか。そもそも「個性」などというものは存在しないのか・・・などという迷宮に陥っている。自分の個性はこれだと何パターンも引き出しから頭のデスクトップに配置してもどれもこれも実は決め手に欠けていることになっているような気分。

 ほんとに言語でアウトプットするのは難しい。これが絵(非言語)ならなんとでもするのだが、これがデザインならば、形や色やバランス感覚でバランスを決めることができるのですが、言語化することはほんとに難しい。もう、くさび型文字あたりまで遡って見極めようとしているが、そこでさえ表裏一体のジレンマがあったとさえ記述されている。よくもまぁあの世界で最も複製されている書籍の完成度たるや、実はあれこそが究極の表裏一体の具現化かもしれない。そこに踏み込むこともできず、偏った自分の世界観を文字にするだけで、表とか裏とか混在するような絵でもいいかなとさえ考えています。

 「混沌」と言葉にするのは簡単だが、想像以上にこの言葉でさえ深度は計り知れない。まして「個性」を語ろうなどとは不可能に近いような気がしてきました。では、ビックデータと称されているテキストの集積・蓄積は何を意味するのだろう。

個人情報。

 最近の個人情報のデリケートな部分として「血液型」とか「尊敬する人」とか「今の日本をどう思っているのか?」などという情報がそれに該当するらしい。あれ?今は、帝国主義ジャパンに回帰しているのか?って、一旦進化したみたいな言い方になったら語弊がありますが、結局、刀を捨てたラストサムライ達の散切り頭を叩いても文明開化の音はしたが中身は同じだったとか・・・。

 で、ヒートアップはこれぐらいにして、改めて、公的な場所で私の血液型は何型ですということがタブーになっているってどうなのか?何がどうなのか自体が???なんだろうし、それを問題視しているということではなく、分からない問題が分からない状態。根がどこか?源流はどこか?的な疑問視はもうナンセンスなんだろう。こうだからこうだという仮説も論理も通用しないトップダウンの「個人情報戒厳令」。

 さてさて、このインターネット全盛時代に発言の自由の芳醇な矛先はどこへ?言論が自由になったと言われて何十年が経つのだろう。やはりペンよりも強いものがあったということだろう。そんなKYなことは、公的なスタンスで取り立てて声を上げることでもないから、フォーカスするのはこの程度にして、血液型がO型の私にしてみればどうでもいい。ただ、この「どうでもいい」というニュアンスさえわき腹を刺される世の中になったと仮定すれば、結果、脇が甘かったということだし、尊敬する人は「ワイエスとホックニー」だし、今の日本をどう思うか?と聞かれれば、素直に「33点」と答えるだけ。

 さてさて、この程度の個人情報で何かが崩れるとしたら、どんだけ微妙でデリケートな活断層の上に日本は均衡バランスをキープしているのだろうかと67点分の心配がマイナスかな・・・。

 南海地震が来たら、そりゃ、静岡県よりも死者の数は東京の方が多いと思いますよ、日経新聞さん。ってね・・・、この意味の深度はマントルまで行きそうなので、個人情報論はまた次の機会に。

ON THE 恩。

 いやいや、どんな小さなことでも「恩」というタイミングは一生を左右する。しかし、条件がいくら揃っていたとしても、いくら多くの雄弁を並べて頂いても、いくら武勇伝を拝聴させていただいても、私自身の中の何かがそれを「恩」と識別しなければ、正確には私の人生に関係がない。しかし、どんな些細なことであれそれが行動であれ言葉であれ物質であれ、「恩」と感じたことは忘れない。そして、その「恩」に対する自分自身の反照としての何かを常に探し続ける。いつかいつか、この「恩」を何かの形で生きているうちに返したいと。まぁ、鶴状態なのかもしれないし、機織り途中にピーピングされたとしても別段「約束の破綻」にはならいので、格式ばり奉る必要はないのですが、それに、そう簡単に私の機織り機は盗み見ることはできないだろうし・・・。

 つまり、「恩」とは時間の軸を越えて、言語理解の範疇を越えて、感情の属性を無効化しても、作用する不思議な価値感・感覚・感情だということ。「恩」について、今、新書の原稿を執筆しているわけではないが、もし、私がモノ書きとして生計を成す人間だとしたら、ひとつこのテーマは記してみたいテーマですね。

 分かりやすく貨幣価値のモノサシで「恩」を推量する人がいるが、それは実は正確には「恩」を理解していないステレオタイプな人。だからと言って、「この度はお世話になりました。心ばかりの・・・」と封筒を差し出されればそれを受け取らないほど幼くもないが、逆に「ああ、私のしたことは、この人にとってこれだけの価値だったのか・・・」と少し残念にはなる。だから、「恩」を受けるときも、それを返す時も、非常にデリケートに慎重にならなければならいのが「恩」です。

 すると、全ての社会と関わり、他人と支え合いながら生きているということは全てが「恩」の上に成立しているとも言えなくない。などと、いう書き出しから新書の原稿は書き出すのだろう・・・モノ書きならば。でも、こうして1億人総モノ書き時代でもあるブログ時代が来て、SNSが飽和して、クラウドが過熱して、ビックデータが潮流になってしまった今、デジタル信号では解読できないひとりひとりの心の中にある、人格としてのアルゴリズムの中に結合と分裂を繰り返す「恩」という細胞を無碍にはできない。それを害するようなことをすると、それが悪腫瘍となり転移を繰り返し最終的に脳機能をのっとるとかのっとらないとか・・・。

 で、私達は誰もが誰かの「恩」の上にいるということ。ただ、ただ、それが必ずしも血縁や組織の中あるニューロンであるとは限らないという不思議。それが、DNAの仕事なのだろう。

自己満足。

 プロのこだわりは時と場合により他人から「自己満足」と分析・洞察をされることがある(多い)。果たしてどこから自己満足でどこまでが自己満足ではないのか?これはなかなかディープな問題である。

 昨晩のテレビ番組「ガリレオ」で物語の結論の部分でこの言葉が使われていたが、確かにあの流れだと「自己満足」と称して値するような気がするが、利己的な私欲に駆られた衝動の軸足は自己満足そのものだとしても、自己満足のために他人を殺めたり、自分自身の価値感だけで判断し行動することへの伏線はどこから捻じれ始めたのだろう。

 まぁ、蒼井優さんだったから良かったものの、この役、しょっぱい女優さんならかなり厳しい構造になっただろう。あなたの自己満足には着いていけないわ!的な展開はよくあるが、そもそも、全ての満足は基本「自己満足」から連動しているはずだから、あながち「自己満足」を頭ごなしに否定してしまうと、なんとか主義のなんとか思考のなんとか派というテンプレートに依存することが「満足」に代入されてしまうことになる。なるというかそれが結構な割合で人類の歴史を形成しているから、逆に本能のひとつレイヤーの上あたりで、「自己満足」を嫌悪させるプログラムがインプリントされているとかされていないとか。それも慣習であり文化。科学的であれ非科学的であれ、「自己満足」のレンジと振幅は想像以上に広く大きい。

 「自己満足」のプロセスをスルーさせようとするベクトル・波動にはデリケートに敏感になっておきたいものです。逆に。

検事生活26年。

 「「目を見えて話せ」は逆だった!嘘の見抜き方」という若狭勝氏の書籍がある。たちまち増刷ということで、弁護士であり元検事という方の「嘘」を見抜く方法は!みたいなコンセプトの書籍。例えば、「表情の継続時間に注意せよ。」とか「つま先の方向は正直だ。」とか「嘘を言わずにカマをかける方法」とか「イエス・ノーで答えさせない。」などなどの非常にキャッチーなフレーズが散りばめられている。まぁ、その道のプロなわけでそれぞれにいろいろなプロの技術があることだろう。

 しかし、「嘘」を見抜くとはその言葉の真意を見極めるということだろうが、「嘘」なのか「嘘」ではないのか?という判断は何らかのロジックの食い違いや表情との誤差でパターン化されているだろうから、そこをプロ26年の経験値で見極めるのだろう。が、まず、なぜこのタイプの書籍がヒットするのか?どのような人達がこの書籍を何のために買うのか?という素朴な疑問がある。私の仕事はマーケティングではないので、その割合を知ったところであまり意味はないし、仮に一般的な嘘のルールを知ったところで、まるで、誰もが「嘘つきかもしれない」ありきで対人するのは、できればやめたい。どこかでそのようなニュアンスのフィーリングになったとしても、この法則だからこれは「嘘」だとか、もし、この書籍のテンプレートで対人的なシチュエイションで感じてしまったとしたら、それは、自分にとってメリットなのかな?と疑問。

 よりも、その人の言葉の中にある「真実」の質量を見極める方法が知りたいものです。だから、必ずしも「嘘」はいけないとは思わない。誰もが清廉潔白でありたいと理想をもっているだろうが、人生はケースバイケース。「嘘も方便」ではないが、時には「効果的な嘘」が脚色となり潤滑油となりより対比された真実を強調させるということもあるだろうし、常に正直であることなど人間社会で可能か?と自問自答すれば、そんなことこそ至難の技のような気がする。人の心を傷つけるような嘘や悲しませるような悪意のある嘘はナンセンスとして、「嘘」を見抜けたとして、その「嘘」に対する適正な対処方法までをケアしている検事生活26年ならこの著者は素敵だ。

 検事生活26年というモノサシが一般の私達のようなモノサシとは明らかに異なり、タフなモノサシに仕上がっていることだろうが、人はそんなに根本で悪い生物ではないと思いたいですね。

 デザインの仕事生活26年のモノサシはどの程度なのだろう?自分自身はデザイン生活26年でどんなモノサシがあるのだろう?

自分で自分の首をしめる!?

 昨日優勝した女子ゴルフの森田さんが師匠である岡本綾子さんから頂いた貴重なアドバイスが「自分で自分の首をしめてみなさい」的なことだったらしい。岡本綾子さんならでは素敵なアドバイスである。その真意は他のプレイヤーのこをと気にするよりも、自分のプレイに集中しないさいということであり、自分の目標をしっかり設定したらそれに集中することが大切。優勝は二の次だと言いたいのでしょうね。これも岡本綾子さんだから言えるアドバイスであり、なかなか、昨今の時代の傾向で、自分で自分の首を絞めるという意識にはなりにくい。他人の首は締めても自分の首は守りたいもの。これは女子ゴルフのプロの世界だけではなく、全ての仕事やライフワークに適用できる素晴らしい金言だと思います。

子どもは論理的ではない!?

 人気番組「ガリレオ」で湯川先生が「子どもは非論理的だからジンマシンが出る。」と言っていた。まぁ、湯川先生はそういうキャラだからいいのですが、さて、「子どもは非論理的」という部分がひっかかった。うん?論理的な子どもって何故いないのか?いるのか?という疑問。すると、「論理的」ってなんだろうと検索すると「1 論理に関するさま。「―な問題について書かれた本」 2 論理にかなっているさま。きちんと筋道を立てて考えるさま。「―に説明する」「―な頭脳の持ち主」」となっている。ということは、子どもは論理に長けていない。つまり論理を認識していないから・・・ということなる。きちんと筋道が立てられていれば論理的なんだとしたら、子どもは子どもなりに筋道を立てているとも言えなくないし、大人にも筋道が立たない人がいるだろう。確かにジンマシンは極端だが、この人、人前で話さない方がいいよな・・・、リーダーシップとは無縁だなぁ・・・という人はつまり論理的でないということになる。頭の中で組み立てるという作業はなかなか難しいことだが、組み立てても忘れるという人はどうなる?せっかく組み立てたのに忘れて然るべき場面でそれを披露できずにいる人は論理的ではないとなる。

 逆に子どもの論理もあるだろうし、大人の論理を前に怖気づく人も論理的ではないとなる。電話で特に最初からお話を聞きながら言っていることの論理・筋道を構築し、疑問点を指摘すると、どの部分が指摘しているのか分からない人がいる。分からないようなことは決して言っているつもではないのですが、委縮してしまっているから論理が組み立てられないというだけなのに。委縮がリミッターを越えると何を言っても筒を抜ける。こうなるとコミュニケーションはできなくなるので、結果、非論理的な非言語的文脈を探るしかなくなり、感情に訴えることになる。しかし、一旦委縮した心を軟化させる言葉は見つからない・・・と。

 元気のない人はこの典型で話を盛れば盛るほど引き潮のように引き続ける。潮干狩り状態である。ということは元気のある子どもは論理的か否かは別として子どもなりの筋道を持っているという方程式が成立するような気がする。子ども目線で会話しましょう的なことをよく初等教育の現場の人は語るが、目線?目線じゃないでしょ?あなたが子どもの論理を聞きとれていないだけでしょうとなる。

 なぜ、こんなことをつらつらと書いているのか?文字で何かを伝えるためには、自分自身に対して論理的にならないといけないということを考えていたから、この言葉がトリガーになりこうして非論理的なことを書きながら、頭の中を整理しようとしているのです。文字にするって難しいです、ホント。

脇差し。

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 これを置いた時から日本は何かが大きく変わったのだろう・・・か?その規範が何であれ、それを偲び仮想の空間で主人公達はこれを振り回すのだろうか。その本当の質量や切れ味を度がえししてその魔力だけに取りつかれているとしたら、それは何かが大きく変わったことでの今現在のリアルへのリフレクト。イグアナがサボテンの花を食べるためにその手足の爪を進化させたように、私達の祖先様はこれを置いた。対峙用の本刀に対しての脇差しだから、その時はもう二度とこない時代が来ると願い、武士達は積年を回帰したことだろう。人類の戦いの歴史は地球の137億年の歴史の中でその尺は0.001%以下らしい。ナイルのほとりで争いの歴史が生まれてから、鉄が生まれた。それが日本でこの形状になり、現代はそれが鑑賞物としてコレクターのアイテムになっている。そう考えると鉄と人間の歴史は進化とは呼びにくい。

やって来るのか!

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 福井にやって来るのか、ミケランジェロ。絶対に行く。

ひとこと。

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 エガちゃんじゃないけど、ひとこと物申すと、もし、シホさんがいなかったら、今日の日本の音楽シーンはポンコツだらけだぜ!ほんとにひとり飛び抜けているというか、この存在、唯一無二。

2030年の世界。

 「2030年 世界はこう変わる」という書籍がある。米国情報機関が作成した、アメリカ大統領も参考にする驚愕の未来予測レポート!とは?米国の情報機関が作成しているって部分でちょっと余計なパワーバランスを感じますが、まぁ、日本はいずれにしても蚊帳の外だろう。だから、そんなの関係ない・・・となる。

 立花隆さんはこう言っている。「日本はもはや復活しない。アメリカは2年後、中国も12年後にピークを過ぎる。すさまじい大変化が起こるだろう。」でしょうね。

 1995年に国家としての繁栄期を終えた日本。今後は「世界一の高齢者大国」という枷と共に痺れを切らす国になるだろう。経済は縮小の一途をたどり、さぁ、日本人、これからどうする!みたいなことの連続だろう。もやは誰の救済も受けられない国として空洞化を経てその容積さえ・・・みたいな。

 テレビで「市場をつくる!」って眉間にしわ寄せて、どんな市場かと言えば、高齢者の介護精密機械だって!なんじゃそりゃ。えっ!そこに予算を費やして国を創っていく若者には予算を賭けないの?ますます、逞しい若者ともやしのような若者の格差を広げたいの?結果、短絡的な解決策の向こうにある市場だけに注視して根本的な国としての成長を見切っている。としか思えない市場づくりを目指している。あ~あ、ダメだなこれは・・・って感じ。

 アメリカもヨーロッパも中国も2030年には小さくなっている。そんな中、インドはその比率を増やしているだろうが、それは、目減りしたから割合的に増えたような錯覚になるだけだろう。結果、どこが安定しているか?となると、意外とアメリカ・ヨーロッパ・中国・インド以外ってことになる。さてさて、どこだどこだ?

 2030年、あと17年後、バンクーバーあたりで油絵を描きながらWEBサイトを創って楽しい人生を送っていたいなぁ~。休みの日には車でオーロラ・・・みたいな。

人はチームで磨かれる!?

 という名称の書籍がある。「ただの集団がチームになるためには何が必要なのか?」という提起。「誰もが当事者意識を持ち、創造性を発揮し、助け合うチームはいかにしてできあがるのか?学校や企業でグループワークを実践してきた著者が強いチームづくり術を伝授する。」というメッセージで、さてさて、これで本当に職場は元気になるのか?

 「小学校の活気を覚えていますか?」って、覚えていますが、それがどう社会生活・企業生活に関連しているのか?と思わせたいだけのフレーズのような気がしますが。

 「仕事を教え合っていますか?」って、そもそも「仕事」を教えて欲しいと考えている段階からスタートしなければならないという洞察はいかなものか。「仕事は教えられる承るモノ」なのか?

 「ミッション・パッション・ハイテンションがありますか?」戦略・熱意・やる気ってことでしょうが、そもそもそんなの無かったら何も始まらないでしょう。

 「自然に笑いが起きていますか?」って、チームワークに笑いが必要なのか?どんな笑いを「笑い」と定義しているのか?って食いつかせたいなら、このルアーはポンコツですね。そんなのどこにどの角度に投げてもバスは反応しませんね。

 「アイディアを結合していますか?」それは正確にはアイディアではないのではないでしょうか?と思えるこの安易なフレーズ。「アイディア」と「結合」を繋げるセンスからとてもアイディアが創出してくるとは考えにくい。

 と、この書籍は買わないとなる。ほんと、言葉って難しいですね。

 「チーム」など形骸化した便宜上の烏合の衆です。必然を捻出するためのエネルギーがあるならば、自分の中に蓄えたいですね、然るべき放出するタイミングまで。傷のなめ方だけ上手になってもチームワークとは呼べないし、そもそも、チームワークすら幻術の世界だと思います。あくまでも個人的な独り言として。

 「個人のスキルを上げなきゃ全体の品質は上がらない!」これが本丸。最近、あるクリエイターの方から頂いた頭と心と魂に響く言葉をここで紹介させていただきました。

何故?英語教材が?

 いろいろメンドクサイ感じのメルマガが毎日毎日到着するのですが、まぁ、見事にいろいろなタイプの「一見美味しいそう」が手を変え品を変え。あまりにも見事なその一見無駄にも思えるようなエネルギーを逆に対して関心している自分がいたりする。よくも無作為な相手に対してそこまで自信満々で語れるものだなぁ~とか、そこまでモラルレベルを下げてもクリック率を上げたいのかなぁ~とか、そんな口車に誰が乗るかよっていいながら、最悪の最悪のケースで、気分がダウンしていたらクリックするかもしれないかな???とか、その巧みな倫理観に呆れること呆れること。しかし、中でも特筆するのは「英語教材」のセールスライティング。「まだ遅くない!」とか「最短ビジネス英語の達人」とか「英語がこんなに簡単だったとは!?」とかって、恐らく、君は英語はしゃべれるがガチのお話ができない人!?

 しかし、英語教材か・・・、ビジネス的にはお金にはなるんだろうな。つまり、日本ではニーズがあるんだろうな・・・。そういう国だものなぁ~。ブルペンではビシビシ投げて、マウンドで委縮する国民だから練習は大好き、勉強大好き、でも、本番はガチガチなんだもんな。決して、人ごとじゃないけど、意外といろいろなボトムを知っているから、外人は平気なのかもしれない。英語教材か、欲しいと思ったことがあまりない。そうそう、ゴルフも教材とか教室には興味がない。最初はきっかけを探しますが、ダイブしたらあとは独学が楽しい。壁だらけで傷だらけですが、それが楽しい感じ。

 でも、学校の英語のテストって何のためにあったのだろう???

いい構図。

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 いい構図だなぁ~。

絵を描く。

 絵を描くことがただ楽しかった子ども頃、芸大での絵を描くということに向き合っていた頃の気持ち、仕事としての芸術をどうして自分自身に順応させていったのか、デザインという仕事の現場で起こったこと。これらがすべて今現在の自分自身のデザインの仕事にフィードバックされている。そう考えると全ての失敗やつまづきが自分の経験則になっているという実感。終始いつも「絵」という存在が自分の軸だったことで今この気持ちがある。これからどうなるのか?これはポテンシャルの問題でもあるが、恐らくこのままの性分でデザインの仕事との相性は変わらないだろう。価値感という言葉では到底括れないほどのリアリティーとディテールがある。どこかで整理しなければならないという焦燥というかいい意味での危機感が常にいろいろなクリエイティブの思考を根底から支えてきた。この流れで簡単なゴールを安易に設定して小さい達成感に酔いしれることは簡単だが、決してゴールはない。また、試行錯誤を繰り返せば繰り返すほど正解はないと知る。ではなんのために?と考えるのではなく、あるがままを受け入れただ淡々と自分のスタイルで歩を進めるだけ。新しい紙に鉛筆を走らせるようにただ取り組むことが大切だと思います。50歳までにこれらの気持ちをまとめひとつのコンテンツを創出できれば、また、その次の景色が見えて来るような気がしています。それは絵を描く時の感覚にシンクロする。

象?

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 で、ふとしたお店で発見した使用済みの薬きょう。これは象用?

いい感じ。

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 久々に仕事抜きで京都の街を歩くといろいろ素敵な出会いや発見がありますね。いかに、いかに、日頃は何も見ていないということ。この家、どんな人が暮らしているのやら?

混雑の前に。

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 さすがGWということで早めに入場してじっくり鑑賞することができました。ゴッホの作品はとても実直な心地にしてくれますね。日本初公開の作品も30点以上ありましたからとても楽しかったです。やっぱ、油絵はいいです。

明日はゴッホに。

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 明日は京都へ生涯3度目のゴッホに会いに行こう。日本初公開が10点以上あるということ、楽しみ楽しみ。

センスとスキルの関係。

 道具が先でも技術が先でもないと気がつく瞬間に出会えている人の言葉は重い。日本の教育分野を席巻しその勢いを世界まで展開実動しておられる人となればその言葉はメガトン級である。つまり、現代のあらゆる慣習・文化・システムの歪みが見えているからそこにメスを入れることは簡単で、そのメスが時に鉈だったり刀だったりするから強烈です。

 さて、時にツールとは言葉あれ感情であれコンテンツであれ技であったりするのですが、その場合の、センスとスキルの関係性についてセオリーや先入観に凝り固まるとそののびしろにリミッターをかけてしまうという感じ。直感で判断をするという語感を、どちからと言えば軽視するタイプの人間はその重要性を優先しない・・・というか板につかずその手に馴染ませることが難しい。言葉を言葉通りに理解するという国語の授業から読解力を向上させるというアプローチを多面的に展開することは、人間の生物としての思考回路を分析して捉えようとするとき一番適正なアプローチのように思います。

 何がどれぐらいのスピードでどのように伝わり結果どうなる・・・などの部分をあまり戦略戦略と勘違いして自分の枠を小さく見積もらないこと。あるプロが集中力はカメラのファインダーを覗くようなモノだと言っている。全体を空間で捉えて何にフォーカスするか?どこでシャッターを押し切り取るかに似ていると。カメラのスイッチを入れる前に何を撮影しようとかこんな写真を撮影したいと選択肢を想定することは楽しいプロセスだが、ガチの部分では自分自身がファインダーを覗くまでフィールドにあるモチーフは見えない。そこに余計なイマジネーションを働かさず、その場面でファンダーに見えている中からサインやヒントを見抜くセンスとスキルがあれば、思う写真は手元に残るというもの。時にファインダーの中には想定外のモンスターが潜んでいることがあるからこれまた楽しい。しかし、戦略だのスタイルだのと勝手にリミッターで制限している人はそのモンスターを発見する目を失うことが多いように思う。それでそれが楽しいからと誤解していたいなら話をこれ以上進める必要はないが・・・。

余命3ヶ月か・・・。

 もし、それが本当だとしたら、日本の医学は地獄に堕ちますね。なんでそうなってしまったのでしょう。昨晩からガリレオが始まったが「科学」についてのディベートシーンがあったが、恐らくその答は誰にも出せないでしょうね。正解を求め過ぎると正解が分からなくなる。何事もボチボチが適正であり、感覚的に直感的にロジックで考えない方が自分自身の正解には遠くなるが、本当の新しい正解を手に入れることができる可能性を得るサインなのかもしれません。

おはようさん!

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 暖かくなり春の陽気で元気になったのか、相変わらずの野良猫にいじられているのか、ただ単にストレスが溜まっているのか、この頃無駄吠えが多いですね。人間的に言ってしまえば「無駄」なのですが、あなたにしてみれば意味があるのかな?いや、ないだろうなぁ~。では、今日も一日お元気で。

ヒエラルキーか。

 ヒエラルキーか・・・、なるほどなるほど。今読んでいる書籍に頻繁にこの言葉が登場する。これは階級・階層の意味なのですが、社会構造を原始時代から紐解くと常にこれが存在するという論理。部族単位から始まった人類の社会性が現代においてどのように覚醒してきたかを論じているこの著書は非常に面白い。今後、この著書は様々な現代社会の構造を考察していくようですが、とても楽しみです。ダーウィンの進化論からこの著書がひとつの人類のマイルストーンになるとも言われてるわけなので、指標という点で軸が読めるのだろうと期待している。かなり期待している。

 まぁ、なんでこんな書籍を読む必要があるのか?と言われればそれに明確な解答をサクっと用意することは難しいが、現代を生きる上でこの著者の見解を知っていることで新しい側面が見え、それが見えたことにより自分自身のライフワークを自分自身に対してより納得させるためにも、この書籍のタイミングなのかなと感じています。ロジックはこうなるが、単純に興味本位という部分もあるので、興味が生まれてしまったのに逆にそれを否定するのも癪だから・・・が実はのところかもしれない。

 昨日までの世界を多面的に知ることで明日が見えれば、明日の見方が自分自信の中でいい意味で変化できればこのタイミングに価値がある。

君の身代わりに・・・。

君の身代わりにその深い悲しみを背負うことはできないけれど・・・か。

何回聴いても震えるフレーズですね。

明日のことは誰にも分からない・・・。目を閉じないで・・・と。

走り過ぎていくタクシー、西行きのバスステーション。NO MORE PAIN...

車が来るまで闇に包まって・・・。

つかの間の自由にビートに任せて転がりつづけな・・・。

男の人生は?

 なんと心地のいい最終回でしょう。昨今のテレビドラマでこれほどの最終回があったでしょうか?「最高の離婚」とても素晴らしいテレビドラマでした。結婚している人も結婚していない人もいろいろな意味でこのドラマの物語は芯を喰っていたような気がします。テンポ・リズム・ディテール・トラップ・・・すべてにパーフェクト。続編をただただ期待するばかり。

 7月17日にDVD-BOXが発売されるらしい。初めて初めてテレビドラマのDVDをガチで欲しいと思っています。それほどの内容でしたからね。最高最高。

 男の人生は?女の人生は?共に夢見るいばら道なのでしょうし、だから、人はそれだけでドラマチックなんでしょうね。

ゴッホとピカソ。

 「お金の正体を知れば、僕たちはもっと自由に生きられる。」というテーマの書籍がある。

 「なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?」というなんとも面白いアプローチ。これから幸せに生き抜くための新・資本論だそうである。まぁ、ゴッホとピカソと言われて注視しないわけにはいかないし、それ相当のゴッホとピカソに対する知識はあるから、比例して興味が湧いている。が、金のお話をするのに、押し並べてゴッホとピカソを引用してきたことに対する遺憾さは否めない。なんでもっと、安易でインパクト優先のタイトルにしなかったのか?と。なぜ、そんな、わざわざ、金のお話をする「新・資本論」なのに、ゴッホなのか?ピカソなのか?と。明らにその時代と今の時代は交錯していないし、しかも、円でもないし、お互いに画家だったことと、お金のお話がどう相関するのか?絵画に対する価値感みたいなモノを現代の資本主義の貨幣価値と相関させて何か新しい法則でも発見できたのか?それなりの仮説に仮説を重ねて何かこの著者は創出できたのか?と、いろいろこの情報だけで頭を膨らませてみたが、結局、最後のオチの部分で「人は、経験を通して世界を創造する。お金は、その創造の一要素でしかない。」ってこと。あれ、ゴッホとピカソを代用したのはただただ「創造つながり」だけ?

 「ゴッホとピカソ」のこんな利便性があったとは・・・。

経験と勘 もう古い!?

 「勝算は不明だが、社長が言うからやるしかない」「しばらく様子をみて結論は次の会議で」。そんな情緒的で、悠長な意思決定は通用しない時代になりつあるという警告。膨大なビックデータを事業展開に活用しようとするビックデータの存在が人事や組織の在り方を含め、企業の根幹を揺さぶる・・・と。このビックデータを活用するのは個人が先行しているから、自宅で社外で重要な情報を個人が簡単に入手できる時代なんだから、会社という箱の必要性が限りなく0になるということ。では会社とは何か?という大きなテーマにひとりひとりが対峙する時代だと言える。リアルタイムで情報が入手できるわけだから、会議をする必要もないし、有名・著名なコンサルタントの先生に支払うコンサルティングという名前の義援金は必要ない。昨今のSNSの「いいね!システム」がどこまで伸び代があるか今の段階ではわからないし、信憑性をどこまでユーザーが感じ続けるだろうか?と疑問視すると、それは、消えていった「アクセスカウンター」になってしまう。単純なシステムであればるほど短命であり、人間は飽きるということ。

 では、何が「商い(飽きない)」なのか?無料ゲームはやるまえから飽きることを前提で開発されているアイテムだからする必要がないし、データの解析などやったところで、自分のポテンシャルが逸れていれば時間の浪費だろう。すると、個人が元々会得している、経験値やプロの勘という部分は本当にビックデータに代用されるのか?という疑問が浮上する。これは永遠に平行線のようにも思えるし、どこかで交差するようにも思える。もう、交差しているとも言えるし、どこかで交差してそのまま放物線の軌道を描き離れていくとも捉えることができる。

 で、「経験と勘」のディテールの価値は?企業は揺さぶられるだろうが、個人はさほどリスクがないだろう。つまり、企業という箱の形状がその振動に弱いという洞察・考察ができる。なぜ、その程度の震度に弱いのか?基礎が弱い?柱が弱い?ジョイント部分が弱い?維持させるシステムが弱い?恐らくすべて弱いのだろう。では強いのはどういう存在なのか?それが見えている人が、上手にビックデータを活用しているよに思います。

 もしかしたら、活用などしない方がいいのかもしれないし・・・。心地良い隔離とでも言うのか・・・。

どうなる「最高の離婚」。

 面白い面白い、テレビドラマ「最高の離婚」は最高です。物語が安定している上に、心地良いスピード感は秀逸です。ここ10年でピカイチかもしれないですねって、そうそうテレビドラマを見漁っているわけではないですが、逆にその程度のドラマユーザーにして面白いのだから、相当面白いってこといなるんじゃないでしょうか。歴代のテレビドラマと比較しても、数字を持っているタレントや俳優が登場しているから面白いというテイではない。まったく、実力派のドラマのドラマによる心地良さとでも言うのか。最初は4名の旬な俳優・女優さんが登場して・・・と受け止めたし、設定も力が抜けていて楽しい。それに、脚本がいいから全然素敵。しかし、第10話を終えて、次が感動の最終回として、このドラマを確実に牽引しているのは明らかに「瑛太さん」であるとあらためて(当然?)感じる第10話でした。

 で、最終話はどうなる???ここまできてまだ視聴者に「どうなる?」と思わせる脚本家が凄い。すでにチェックしているのですが、書籍があれば買おう・・・。

文体。

 改めて「文体」とは何だろうと考えている。比較的、読みやすい文章を読みたいとは考えているが、必ずしもその視点だけで書籍は選べないから、文体で書籍は選べない。というか文体・ライティングスタイルの部分もいろいろ楽しめてこその読書。だから、内容とかテーマとかネタのディテール・リアリティーと合わせて文体が大切なんだろう。

 ところで、私自身、文章を書く勉強は一切していないし、ソフトウエアを覚えるために専門学校に行った経験もない。でも、全く問題ないと思ってる。これは勘違いなのかもしれないが、すべて独学というテイでは限界があるのも事実。結局、奔放過ぎて実践向きだが、あえて語るということになると、少し緊張してしまう。以前に、グラフィック関連のソフトウエアを教える機会を与えてもらった時に、それを痛感した。結局、ソフトウエアの機能の知識よりも、活用術が大切だと考えて、デザインの概念やデザインのテッパンネタを軽く紐解いて、基本的なチュートリアルをチョイスして、ソフトウエアの機能説明とマッチさせた。結果、ソフトウエアの知識とデザインの概念的な捉え方がデザインを作成するには重要。どちらが欠けても一定レベルをクリアすることは難しい。

 その機会を経て、京都や大阪で頑張っている卒業生からご連絡を頂けると、単純に嬉しい。この感覚は、仕事ではないのだから。貨幣価値で推し量れないsomething.

 で、デザインのお話はどんらライティングスタイルのがいいのだろ?やはり、好きな書籍をもう一度、紐解いて、そのスタイルを改めて構築したいと考えている。楽しい、楽しい、楽しいぞ!!!

3.11か・・・。

  そうか、今日は3.11か・・・。

感謝力とは?

 これは何かの書籍の話題・情報でも、どこかの賢者のネタでもないのですが、最近、「感謝力」という言葉が頭の中で思い浮かび、ちょっと気になっている。気になっているから、ネットで調べるが、そのような論理も仮説も文脈もあまり見つからなかった(私の感覚のニュアンスと)。あるフランスの脳科学の権威とふとした読み物に書かれていた「感謝」という言葉の質量が自分自身の中にある「感謝」という価値観とふとしたことでシンクロしただけのことなのだから。

 まず、脳科学のケースでは、人間の能力と脳からの信号(まだどの信号がどの作用と相関していると特定はできていないが)を研究している研究者がいて、喜怒哀楽と脳からのパルス(信号)の相関性をいろいろな実験を通して整理しておられた。すると、強いパルスと人間の感情や行動の相関性において、怒りと不安は脳からの信号が強いと思いがちだが実はパルスは小さい。パルスが大きい小さいが人間の生産性というか能力(技術力や創造力など)との相関性をひとつの法則で捉えようとしているのですが、喜びや感激している時も同様にパルスは小さいのである。つまり、心臓の鼓動や脈拍が上がるような身体や精神の状態と脳からの信号はあまり関係性が少なく、自分自身で何かの情報やタスクに取り組もうとしている準備段階や誰かの高いスキルを自分自身に取り込もうとしている時に脳からの信号は反応が高くなったらしい。これは、恐らく自己防衛であったり、生命体として種を存続させるために、天変地異や天敵から自分自身を家族を守る時に脳は大きく反応して大きな信号を出力したのではないだろうかという仮説。

 で、その信号の最高のシチュエイションとは、異性あれ、師匠であれ、誰かの言動や行動や存在に対して、「感謝(Thanks)」を感じている時、脳からの信号はMAXになるという。これは陳腐な視点かもしれないが、意外や意外、「感謝(Thanks)」している時の人間の脳の活性率は最高なのだ。

 でこのことが頭の中に知識として情報としてあったので、ある仕事で「感謝」というキーワードがなんとなく気になった。何故気になったのか考えれば考えるほど、このフランスの科学者の実験の事がトリガーになり、さて、今、この「感謝(Thanks)」という言葉を自分の中でどう捉えているのだろうかと?最近感謝するという気持ちはどの程度リアルなのか?と考えてしまった。

 逆に、なんでも感謝という心地で捉えれば、脳は活性化するのか・・・と、普段の感情の構造を完全「感謝モード」にしてみようと思った。が、人間は心で生きているから、何でも感謝に代用できない。が、それほど、実は日常生活の中で意識しなければ、「感謝」とは希薄になっているのかもしれないぞ・・・とも考えた。さて、一体、「感謝(Thanks)」とは何なのか?と。

 ただ、感覚的に「感謝(Thanks)」する気持ちあれば、非生産的な争いは発生しないだろう。「感謝(Thanks)」する気持ちがあれば、ぎこちなかった人間関係も緩和され潤滑になるだろう。とは考えるのは純粋に素直に正解方向だろうから、人間の脳は人間が考えている以上に人間のことを大切に捉えているんだな・・・と至極当然のあたりまえのことながら心が震えた。

 「感謝力」って大切大切。

いい子とは?

 時代と共に「いい子」の定義が変容している。今も昔も変わらず「いい子」はいい子だろうが、社会の構造や経済の仕組み、教育や文化の変化した側面を社会的に捉えると、そこに存在する規範に対しての「いい」が社会構造にリフレクトしてチューニングされている。だから、当然、その影響を受ける「いい子」はいい子でその対応を本能で感じ取り、自分自身が「いい子」であることに努力するから。これが社会が担う大きな責任でもあり、学校教育の在り方と経済の構造を相関させるひとつのラインになっているはず。いつの時代も「いい子」と「いい先生」の関係は存在していただろうし、学校教育の中で、システムや構造から離脱する子どももいた。その場面その場面で適正な判断を先生がしているのだろと考えたいが、先生とて人の子、万能ではないから、自分のテリトリーでキャパはMAXだろう。でも、教育者への社会からの依存はどんどん時代と共に大きくなり、その重圧というかタスクを果たして現場の先生方はどこを受け止めどこをいなしているのだろう。理想的な教育者像はこうであるべきだと、現実、職業としての教師というスタンスの間にどんな深い谷があるのだろう。その谷にかけられた吊り橋の上で子どもたちが右往左往しないように、両方の崖で親は見守るしかないのだろう。

 学校で「いい子」が、家で「いい子」が実は心に深い闇をかかえていたというニュースをよく見るにつけ、そのSOSを何故受け止めることができなかったのか的な結果論が蔓延しているが、そこを掘っても結局骨しか出てこない。私達は真剣に問題に対峙しています・・・ということが伝えたいのなら、もっと、別のボキャブラリーがあってもいいのかなと思う。「いい先生像」「いい教育像」を追いかけ過ぎて、等身大のリアルを黙認してはいないかと・・・。この考え方は教育の現場にいない無責任が親ならではの発言に他ならないが、親は何をすればいいか?という自問自答があり、自ら苦汁の決断をした「いい子」がこの考えを親に伝える術を持たなかったという悲劇だけはなんとしても回避しなければいけない。教育は学校だけでは成立しないのだから。学校に先生に何ができるのか?というテーマは厚い教育委員会の資料には記述できないはずだし、それぞれの子ども気持ちをビックデータにログれるアプリもまだ開発されていないのだから、そこは、それぞれの立場で人間が自分で考えて悪い信号を中和するようなアルゴリズムをアウトプットしなければならないのだろう。

 で、私自身は結局、「いい子」だったのか?と回帰しても、それを推し量る計測機器はない。だから、「いい子」「悪い子」「普通の子」とカテゴライズすることなく、子どもを一人の人間としてリスペクトして、補足・育成・誘導するではなく、いつもONE TO ONEの関係で親も子から学ぶ姿勢でいたいと私は考えている。

 地元の中学に入学した初日、教室の黒板の上に掲示してあった文字を今でも克明に覚えている。この言葉がこの歳になっても目に焼き付いているということが、実は、教育が担える唯一の美学なのかもしれないと思う。あの長期間、あの空間で同年代の子どもと過ごしてきたのに、教科書の中身などさほど社会に出て伸びしろはなかった。学校の頃の友人でさえ、価値感の相違で疎遠になっているケースが多い。結局、どこへ行っても人間はONE TO ONEなのだ。だから、こそ、その教室に貼ってあった言葉が意味を意義を成す。社会に出ると何が始まりで何が終わりかは自分で制御する必要があるが、とある新しい世界にダイブする時の気持ちこそが実は最も大切な重要な軸なのだと。

 「初志貫徹」。なかなか質量のある言葉である。T.K.先生、お元気かな?


存在感。

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 ふと気が付けば、13日からブログを書いていなかった。ネタが思いつかないわけでもなく、ブログがメンドクサイことになった訳でもない。ただ、他にやらなければいけないこと、考えなければならないことがあり、いわゆる、忙しかった。これはいいことなのかもしれないのかな・・・とブログにまつわる不思議なモチベーションに昨晩ふと気がついた。ほとんど純粋にただの「WEB-LOG」なので、誰がどのように何を感じるかはあまり気にせずライトダウンしているのが、ふと3日間ほどブランクになると、逆にブログを意識している自分がいました。それほど「便利」というか「依存」というか「頼り」にしているんだなぁ~と。

 で、「ノルウェーの森 上・下」は発行された時に読んだ。いい小説だっただけに、そこ頃は!?H.M.の小説は素晴らしいと感じていた。だが、その期待が次の作品で残念になり、あまりいい印象がなく、というよりも、あまりにもダメダメだったことや、その原因を探り、いろいろな書評を読んだが、そこに弁護の余地はなかった。だから、H.M.さんからは離れた。恐らく小説をということになると、自分の中で、かなり遠くに置いている。が、「ノルウェーの森 上・下」は良かった。そして、20数年、映画になることを知った。あの頃読んだ「ノルウェーの森」の世界観が映像になる。松山ケンイチさんで。観たいと直感で感じたが、何分、H.M.さんは私の中で遠くに押しやっている存在だから、映画にもDVDも反応しないでいた。しかし、サインは水原希子さんという女優さんの存在です。そうかそうかそうか、緑は水原希子さんだったのか・・・と。変なスイッチが入る。20数年ぶりに屋根裏に仕舞い込んだ「ノルウェーの森」を出してこようかなと感じている。

 恐らく、この小説を遠くに押しやり、ずっと、手を出さなかった理由は、好きだ嫌いだというレベルを超えた、実は芯を「やられていた。」のだろう。そのトリガーが水原希子さんだという不思議な感覚です。

 人にはそれぞれ人生の物語がある。出会った人、別れた人、出会うことのない人、これから出会うであろう人。全て、必然であり偶然である。絵や映画や物語やマテリアル万象につき、全てに何かのサインがあると思う。自分の器量で精一杯否定し続けていたことが実は心が渇望していたことだったみたいな。そのトリガーとなりえるモノはパターン的になんだろうと考えると、「自分自身が考える自分という存在の対極に在るモノ」のような気がする。これ、意外とテンパンな普遍不燃な相対性の法則です。

自主性・熟達・目的か・・・。

 なるほどなるほど、21世紀型の強い動機づけは「自主性」と「熟達」と「目的」らしい。それはなんとなく理解できますね。実際、自分自身が何故デザインの仕事を選んだのか・・・と自問すると、何周か回ってそこに辿り着く。逆に、20世紀は「アメとムチ型」の動機付けが重宝されたらしい。システムの中でゴールが見えている状況では報酬型の動機が有効なんだけど、21世紀は逆にそれが仇になるとかならないとか。つまり、高い給料は目的にならず、莫大な富でさえ、時に争いの原因にしかならない的なアプローチだ。確かにそれらしいことが世界のそこかしこで起こっているからこれは小説より奇なりである。

 で、自主性・熟達・目的をどう噛み砕くか・・・?言葉にすればこれだですが、あなたの「ロウソク問題」はどちらのタイプ?ということらしいですね。

 人が何で動くか?自分はどんな理由でデザインという仕事にアートというジャンルに対峙すべきか?その答がこの三つのキーワードに内在している。システムの中の歯車が軋むのは油が足りないのではなく、中途半端な報酬が悪い作用を及ぼしているとかしていないとかっていうお話。

マイケル・サンデル氏

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 今日買った書籍に「5000人の白熱教室」というタイトルで紹介されていたマイケル・サンデル。恐ろしくいろいろなことを知らないので、こんなことも知らないというテイでひらきなおり、直感で単純でシンプルな興味が湧いた。恐ろくだから、何の情報もない。ハーバード大学の教授であること以外は。情報に対峙する姿勢はこの直感が大切。誰でも入手可能な情報がネットの地層には295エクサバイト蠢いているらしいじゃん。この鉱脈はさて?

根拠のない自信。

 何事もではないかもしれないが、大きな潮流や長年のセオリー上で物事を発想・着想すると複製物のように同じサイズのドングリになる。飛び抜けることも控え過ぎるとそれがスタイルになってしまうから危険信号である。さりとてなかなか飛び出せる勇気は何か大きな根拠や背景や要因がなければ・・・と考えがちだし、熟考することで無駄な肉をそぎ落とすことができれば、それは理想のように思えるが、必要な筋肉をダイエットしてカロリーの計算上のベストコンディションが必すしもモノゴトのベストではないと知る人は少ない。何を言いたいかと言えば、別段、結論を出したいという訳ではないし、結論が継続性を持っているという側面を知れば知るほど結論とは次の結論までのマイルストーンであると知る。

 さて、企画をすることに根拠を求めると、これだけ情報過多になった時代、ビックデータの中には、ありとあらゆる根拠が蠢いている。無作為にどれを引き抜いても恐らくそれは根拠として自立していることである可能性が高い。これを逆算すれば、アタリと適正な根拠の違いこそが情報の質量・品質を左右するという仮説がたつ。なぜ、そのような仮説が必要か、検証するためだけの仮説なら必要ないが、原因と結果の法則、代謝と複製の方程式に何を代入するかが一番のキモ。簡単に根拠というレシピからセオリー通りに創られた創造物に人間のDNAが反応するとは考えにくい。脳幹と感覚との関係は従来無根拠であったはず。求め過ぎた結果、同じベクトルに収束され、労が報われないことだけは回避したい。が、根拠のなかっただけに何がどうなるか不安は常につきまとう。想定内の達成感に美味い酒を飲む人生か、想定外の連鎖に苦汁をなめる人生かと、極論を突き付けらたら、自分自身はどちらをチョイスする?

 で、こんなことを考えている段階で、そっち側ではないことは分かっている。どこが分岐点だったかはもう知る術はないが、このまま根拠のない自信といい関係でいられれば、自分の行きたい場所に行けると信じるしかない。同じところ(例の場所)へ行かないためにも、自分の中にある根拠を疑い続けていきたいものです。

 自信とはそもそも根拠がない・・・という設計図でもいいかもしれない。

どこの国だろう?

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 イメージナビさんからの「著作権フリー写真素材」の販促メルマガが到着した。で、なんとなくこの写真が気になった。いったいこれはどこの国だろう?WEB版サイズで購入したら¥5,250という設定です。この写真ならこれぐらいの値段は適正です。しかし、どこの国だろう?とても気になる。

 というか、正確には「何故?気になるんだろう」普通にスルーできなくない写真のようですが、どこか気になる。これが逆に気にならない写真を見ても「何故?気にならないのか」と考える。でも、この段階で、「気にならない」と感じていても、実際は気になっているということ。「日本を取り戻す!」みたいな安直なポスターを見て残念になる気持ちと、この「気にならない」とは大きく異なる。では、気にならなないと気にしたくない絵が存在することになり、これは肯定?これは否定?あれ、いつどの段階で気にならないが気になるになり、否定になったのか?このプロセスも曖昧模糊なのが実は人間。

 どんなことでも、忘れる対象になり、飽きる対象になり、嫌いになる可能性を秘めつつ、覚えていること、飽きていないことと、好きなことで個性が成立している。個性的とはそういう基準だから、デザインの仕事はこれらを包括しつつ、主観と客観のパラレルな関係をしっかり並走する必要があるように思う。これは比較的どの書籍にもない仮説であり、属性は同じでも系統を変えている仮説です。

 たかが、「どこの国だろう?」程度の一枚の写真から人間は小説(物語)を創造するわけだから、いやいや、大したものである。国境の長いトンネルを抜けると雪国だった・・・なのである、。

絶えずThirsty...

「ないものねだり、それでいいじゃん!」か。

確かに、芯を喰っているメッセージ。

自分の世界を変える。そんなに簡単じゃない。

言語、非言語、
何をどうしようとも、ないものねだりかもしれない。

コミュニケーションの大切さ、コミュニケーションの無効化、
コミュニケーションの構造と性能。

誰も多かれ少なかれこの壁に対峙するエネルギーの大きさに疲れている。

でもここを怠ると弱い孤立に陥ると知っているから、
強い孤立を期待しながら、自己との共有に試行錯誤する。

絶えず枯渇な感じが埃のように払ってもまとわりつくように、
それとつきあう術を持っているかいないか。

深い洞察が浅い見聞が辛い時は自分を確認することが大切なんでしょうね。

どこのレンジが一番心地いいかを。

本当の真実が掴めるまで。

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 本当の真実が掴めるまで、やはり、キャリーオンなんですね。カッコイイ・・・。

大河ドラマ「八重の桜」

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 基本的に大河ドラマは観ない。まず、あまり日本の歴史に興味がないからである。普通に史実としての日本の歴史については高校生レベルぐらいの知識はあるつもりですが、それでも興味の対象になるような出来事が少ない。唯一時代として興味があるのは、夏目漱石の時代である。それも漱石の世界観から見たその頃の日本像だから、かなり偏っている。

 それが、戦国時代や平安時代って言われてもピンとこない以上にその史実は本当か?ということが多すぎる。武将の武勇伝など適正な書物など残っているはずはないし、仮に現存している手記があったとしても、それをどのように解釈するかなど、もう、フィクションゴリゴリなはず。たったひとつの真実のワンピースをその現代の価値感で脚色し再構築したのが歴史小説だろうから、読み物として絵空事として興じればいいだけの話だが、それにしては世の中のヒートアップ加減にはどうも心からシンクロできない。

 へそ曲がりでできないと言っているのでは決してなく、手記と武勇伝だけで再構築された物語に心が震えないというテイ。ならばお前は何に震えるのか?となると、実際に今も存在するリアルなモノと歴史の中で同じく存在していたモノを通じてその存在と人間という関係性を基軸に歴史的な背景や物語や登場人物像を組み立てている物語には心が震える。

 「火縄銃」「砲術」の歴史は戦争の歴史だから、美化することはナンセンスだと頭は理解していても、波乱万丈の歴史に翻弄された人物像の手にある銃のお話となれば、心が反応し、ピントが合ってくる。黒船がいかなものかは知る術はないし、その時代に日本人と外人の間の谷はどれだけ深いなども同様。21世紀、世界は小さくなったと言われているし、2012年の訪日外国時は2011年の比較して28%も増えている事実を推し量ると、この「八重の桜」は多面低にドンピシャなのかもしれない。まして、綾瀬はるかちゃんが凛として砲術に勤しむその絵は大河ドラマのテイなのに心が震えた。

 人類の歴史は戦争の歴史である。領土争いは今も昔も同じだし、文化や慣習や宗教観の違いで人がこうも見事に争うのは何故なんだろう。争いのない世界を描くクリエティブは多い、争いを美化し曲解し真実を隠蔽しようとする美しい創造物も多い。しかし、今も地球のどこかで銃弾に倒れている生命がこと切れようとしている人達がいる。そんな深みの部分を「八重の桜」ではどこまでえぐるのだろう。それが楽しみです。

ポケットティッシュがお土産。

 ある国から日本に来ている人は自国に帰る時のお土産として路上で配布されているポケットティシュを集めて持って帰るらしい。無料で配布されている上にそのコンパクトな仕様はその国では充分にお土産物として喜ばれているらしい。紙の質もとてもよく、そのポケティーは日常雑貨よりも高い値打ちで捉えられているらしい。そんなことがあるのかという感想だった。確かに駅前で無料配布され、コンパクトなサイズに適量がある。紙の質が高いとはあまり考えたことがなかったがお国が変われば価値感も異なるというヤツですね。つまり、それほど実は日本に氾濫しているいろいろなアイテムは良質であるということになる。

 料理にしても同様で、日本に来るといろいろな国の食べ物が食べられると海外の皆様は喜んでいるらしい。日本人が韓国に行ってブランド品が安いとショッピングに興じているが、世界的に見ても日本に流通しているいろいろな商品は世界レベルでは高価なモノが多いのだろう。それを平気で買っている日本人って!?ということ。無理にへりくだり「もったいない根性」むき出して価値感を曲解せずとも、普通にしていることが、ちょっと良質なのだということを抑えておくと、世界観が少し大きくなったような気がした。実際、海外に行ったことはというと、アメリカと中国しかないが、明らかに、日本とは違った。まぁ、限られたエリアでずっと暮らしたわけではないので真髄までは見ることができなかっただろうし、日本についても、すべてを知りつくしているというわけでもない、自分の経験値とテレビやラインの情報を比較して、そんな世界観のことを少し考えた。

 価値感ってなんだろう?とか、生活レベルってなんだろう?とか、貨幣価値と慣習・経済・文化の相関性ってなんだろう?とか。商品を開発して販売に繋げるために広告を制作する仕事をしているが、その商品の価値の比較的表面的な要素やスペックについてパーツ・パーツで捉えてデザインを発想することばかりを繰り返してきたから、本質の価値や慣習や文化との関係性などほぼ考えることなくデザインを構想・創造してきた。これではダメなんだろう。世界に通用するデザインとは?などとかなり意気込んだテンションになった時、自分は何をどう考え、どんな道具でどんなソフトでどんなデザインをするのだろう?もし、他言語の方から「ヘイ!カズ!ボクノカイシャノWEBヲツクッテクレナイカイ?」と突然連絡メールが届いたら、自分自身にその用意はできているのだろか?恐らく、一旦、気持ちが引く自分がいるだろう。そんな時でも、「OK!OK! So, What's kind of your favorite color? 」と間髪いれず反応できるのだろうか?それが今後の大きな課題ですね。

現体制で発展できず~と。

 ちょっと刺激的で芯を喰った記事がある。「習近平総書記をトップとする最高指導部が始動した中国は、胡錦涛前総書記が率いた10年間に成長した一方、政府の施策や不正に異議を唱える住民の抗議活動が相次ぐ。週刊誌の記事改ざんを巡ってもインターネットで当局への不満が渦巻く。民主化の必要性を説く芸術家のアイ・ウェイウェイ氏に中国の今後を聞いた。~胡時代をどう総括しますか?~2000年代初めは北京五輪を通じて中国が国際化し、言論の自由や民主化が進んでいくと期待していた。しかし、五輪は政府の宣伝にすぎず、市民参加型のイベントではなかった。08年の四川大地震では校舎倒壊で学生が5000人以上亡くなった事態などを隠ぺいした。進歩はなく、表現の自由はゼロだ。私の自宅周囲には15個の監視カメラがあり、電子メールなどは当局の監視下にある。こような社会統治のやり方は恐ろしく、文化大革命の時代のようだ。公正さや倫理観など社会を支えるものが崩壊している。~何が原因だと考えますか?~現在の政権は市民が選択したものではなく、密室での決定の結果にすぎないため、市民の支持を得ていない。司法の独立、選挙、言論の自由がすべて許されていない。絶対的な権力は必ず腐敗、堕落するものだ。元重慶市党委書記が起こした権力腐敗の問題は政治体制の構造に起因しており、氷山の一角だ。王立軍らの裁判は非公開で、真相は闇のまま。司法制度は欺瞞に満ち、正義を実現できていない。~習時代にどんな期待を持っていますか?~権力者に幻想や期待を抱いていない。しかし、今後10年で中国社会が自由に向かって走り出すと信じている。中国の現体制では持続可能な発展は実現できない。世界的な競争激化の中で中国が生き残るためには政治体制に変化が起きるはずだ。インターネットによって個人が自由に表現することが可能になり、伝統的な権力や政治構造を覆す可能が出てきた。中国では中流層は現体制から利益を得ており変革を導けない。ネットの広範囲な普及が原動力となって社会全体の変革が起こるのではないか。~反日デモをどう受けて止めている?~領土の争いは昔から多くの国で起きているが、その争いを国家全体の問題に引き上げて民族の感情に訴えることは異常事態で反動的な潮流だ。中国当局は通常デモを許すしておらず、反日デモは当局の暗黙の協力で実施されているのだろう・・・。」という記事を日本人としてどう捉えるか。非常にリアルな記事である。

 特筆するのは、「領土争い」の部分。人間の本質インターネットで変革に向かうとは考えにくいが、逆説的な意味で「突き抜けている人」「以上・以下になりえない人」「総括的に下層域の人」この3層がより明確になっていくだろうと思う。そして、このお話は中国だけではなく、勿論、日本でも起こっていること。その曲線がIQの分布に酷似し突き詰めれば突き詰めるほどその分布の座標軸に変化が起こっていないことに気がつくはず。結果、それらのモラルや倫理観や情報のディテールがインターネットで一定期間の拡販・覚醒を経て、何が創出されるのか?という視点だろう。「土地」を持っている民に貨幣価値制度が依存している以上、偏在する価値が時間軸を越えて心に突き刺さる矢になりえるのだろうか?という軸足で間違いないだろう。結局、地球の資源や表面積の陣取り合戦の歴史が脳幹に擦り込まれている悲劇だろう。

 ある仕事で中国をリサーチして半年が経つが、リサーチすればするほど、日本やアメリカ、ヨーロッパの経済・文化の歴史とシンクロしていることに気がつく。この混沌がどのような意義があるのかを捉えているアイ・ウェイウェイ氏のような人に真価を期待したい。ラーソンのような小説作品こそが、世界の心を震わせるのだから、まだまだ、期待はできるはず。

 新体制と言えば、日本も比類なき現実があるとして、「発展」の語感は「創造」なのか?「破壊」なのか?

「金」という一年。

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 昨年の一文字は「金」だったが、今年はどんな一年になるのだろう?

プロのノイズ。

 特に昨年は例年にも増して様々なプロフェッショナルな人との出会いが多かった。これはとても嬉しい。何よりも嬉しい出来事の連続だったと思っています。これを感謝せずに何を感謝とするかというレベルである。と同時に自分の中にある感覚としての「感謝」についても自覚させていただけた。偶然か必然かと問うよりもすべて感謝で包括したいと。また、それは求めたからか与えられたのかとも問うが、そんなことはどうでもいいことで俯瞰で見ればとてもとても刺激的でした。その瞬間に自分自身の中にある感覚がどのように反応しているのかを認知し刺激は刺激としてインプットできたこと。反芻すればするほど、その価値が覚醒し芳醇にアミノ酸に変換されるという仕組み。

 何基準でプロかと規定するかは気分で変化するのですが、プロとアマのそれぞれの特長と境界の座標についてなどなどいろいろ考えることが多かった。残念なプロもいれば、素敵なアマも存在する素敵さを知ると、自分はデザインのプロだからという軸足が貧弱に思える側面もあるし、クリエイティビティーとしてアマならでは独自性というかふっきれ度合いがなんとも素敵に思えたし、突っ込む感じもダイブしている姿勢も案外アマの方が強いような。プロという保険に保護されていると、アマを軽視してしまう。これが実は危険でそもそもプロとアマなんて関係ないというベクトルに立ちかえることで見えてくる世界のディテールに改めて驚いたという表現が適正かもしれない。

 さらに、プロでありながら、常にアマの純粋な強い目線を失わず、さらにプロとしての精密な論法や手法を駆使できることの有意義さ。すると、プロとはとかアマとかどうでもいいことで、いかに先入観が重く光を屈折させていたかを知らされた。ネット時代、情報はシリアルに手元の端末に到着する。ビックデータが叫ばれて久しいが解析したところでそこに存在するパターンに新しい創造の種はないような気がする。常に生まれてくる何かをパターンに適用・代入することはレッドカードような。

 コミュニケーションにおける、リアリティーとは何か?というテイの書籍を読むと、ノイズこそに人はリアリティーを感じると記されていることが多い。「ノイズ」?雑音や歪んだ本質の澱がなぜ?と感じたが、その文脈を読むと確かにビックデータを解析・精査して出された結論にはノイズが存在しない。それは誤差というか歪みというか傷というか埃というか本来デジタルの信号に存在しなような小さい虫にこそ正解に導くヒントが隠されていて、それを本能で知る人間は精査された正確無比な数値化されたコンテンツに反応しない・・・という仮説。それを隠ぺいする方法は先進の技術がカバーするから、導入時には何事もデフォルトでいいが、応用の段階で、実は、「ノイズ」こそが真価だという結論に達している。数年前、「傷よ翼になれ」と書いたからこそマイクロスリップという言葉に辿りつけたような気がします。

 クラウドのビックデータがいくら肥大化しても「傷」を検索して「マイクロスリップ」に繋げる機能はないはず。あるとすれば、それを数値化したhtml言語の中だろうが、それさえ、実は、精緻化されたつまらない信号に過ぎないことを本能は見極めているとか見極めていないとか。

 プロならトライした数だけ魅力的な「ノイズ」を創れ!ということだろう。

 想定外の出来事をコントロールするチカラを志帆さんは「FORCE」と編んだのかもしれない・・・。

明けましておめでとうございます。

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 年末に2012年の総括をしようとネタを仕込んだがやるべきことが多すぎて結果ブログは書けなかった。年頭、1日~3日も「さぁ、今年の方針をログろう!」とメモるがこれまたやるべきことが多すぎて今日(4日)になってしまった。結果、別にブログを書かなくとも日常のそれには何も影響がないということに気がついた・・・という2013年の始まりです。とは言え、やはり、自分自身に対して頭の中にあることを整理するためにブログはとても有効なので、まぁ、適度に自分自身を追い込みつついい状態でいいメモ(ログ)を残していこうと思っています。新聞を読むと昨年にも増して「IT」というフレーズが多用されているような印象を受ける。そもそも日本における「IT」の存在は何だろう・・・あたりを細かく分析するといろいろな驚愕の答が出てきそうではあるが、政治もしかり、教育もしかり、日本はリセットしようとしているように総論として感じる部分も昨年よりは増えているような印象だから、大きな潮流がそちらにシフトした時に、その流れに敏感にデリケートに反応できるように脚力と眼力を温存しておきたいと思います。

 年末にかけて(というわけでもなく)いろいろ書籍を読む中で、最近のキーワードは「日本語」である。今もそのテーマで書籍をリサーチする場合も多い。日本語しかまともに読めない人間が、改めて日本語をどうするのか?ということだが、翻訳された書籍の裏にある異文化の臭いや慣習の声を聞くためには、さて、どうしたものか?と。で、そのためには、いわゆる文学の神髄にもう一度触れておく必要があるかなと漱石を数冊読んだ。読んだ末、しをんさんの「舟を編む」を読み切った。読み切った!と意気込むような作品ではないのですが、あまりも、他の日本の小説作品(あまり読まないが・・・)と比較して、なんというか文学の香りというか方法論に改めて改めて堪能できた作品でした。

 それに敏感に反応してしまったのが、この年賀状。いつもしっかりリミッターを効かしたデザインをするように習慣化していたのを、ちょっと崩した。デザインなんて「崩しありき」だと思っているので、今年はこんなテイだったということ。デザインについてこの記事では語るつもりではないので、あくまでも、どういう明けまして・・・にしたかという部分。つまり、年賀状を出す相手の顔を想い浮かべて・・・的なことがセオリーだとしたら、今回はそれを止めたということ。つまり、デザインや広告で言うとろの「ターゲットに分かりやすい」というリミッターを少し、少し解除した。例年なら、というか、デザインを仕事としている日本人ならこのリミッターを外すのは結構勇気がいる。というかそれは勇気か!?と思い始めたからこういう年賀状になったみたいな。

 まず、「旧年中はお世話になり、本年もどうぞ・・・」的なことをやめ、日の丸の中にイメージを捻じ込んだ。そして、頭に浮かんだフレーズをそのまま書き出した。すると、とても自分自身が気持ち良かったことに気がつく。つまり、2013年はこの感じかなというニュアンスに心が満ちた。難しい日本語を使っているわけでもないし、義務教育を経ている人なら理解はできる範囲である。ただ、専門用語はいくつか散りばめた。つまり、語彙の語感や意味・背景は1枚目のレイヤーと捉えているので、2枚目より下のレイヤーを感じて欲しいのである。ここを感じられる人は少なくとも心に頭に魂に2枚以上のレイヤーを持っている人だから、自由に作成して1枚目のレイヤーをリミッターと設定した作品だということである。これを暗号だのパズルだのオブストラクトだの感傷的だのと捉えていただくのはもう見た読んだ人のポテンシャルに任せるが、ポイントは2枚目以下の階層のレイヤーがあるのかないのか?なのである。

 日の丸を加工した以上、日の丸の裏に走っているプログラムにも手を入れたいという心意気なのである。それは日本語の成分であり、情報の構造であり、感覚の速度が何の干渉を受けるか・・・?なのである。

 正にマイクロスリップこそが真価であり真理でありホンマルである。

あと3日。

 なんともこの1年は早かった。まだ、総括する気持ちにはなれませんが、なんとか、この1年を・・・と考えるようなモードになってきました。あと3日ってことで、この2012年はどんな一年だったのだろう?世の中の景気のこと、ビジネスの動向、ネットワーク上の展開、自己啓発と探究への取り組みなどなど、振り返ると反省反省反省。ただ後悔は少ない。これは性格上の問題だから毎年のことです。年々、身体的には目が悪くなる、記憶力が低下する、頭が硬くなる、健康管理が神経質に・・・とテメエのこととなると、なんとも歯がゆいことばかり。娘は逞しく成長しているわけだから、親父は年と共に・・・が正常かもしれないが、まだまだ、よっこらしょと落ち着くわけにはいかない。さらにさらに、覚醒させる部分は覚醒させて、熟成させる部分は熟成させなければいけない。また、歳と共に理屈が細かくなる傾向をなんとかしなければと思えば思うほど大切なポイントが見事に欠落して、繋いでいるつもりが、マダラ模様に細かったり太かったり。もっとそこそこの年齢なんだから余裕を持って落ち着いた判断をしたいのが理想。でも、想定以上に程遠い。こうなるともう愚痴しか出てこないので、今晩はこれぐらいにしておこう。

 とにかく2012年もあと3日。平常通りにONE BY ONEで頑張ろう。

 しかし、オビトだったのか・・・。

加茂川の橋の上。

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 いつも電車や車から見ている加茂川。徒歩で見るとこんなに広いのか・・・。

なかなかのリアル。

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 なかかのリアルな質感である。営業マンの対応もしっかりしているし、詳しいお話もいっぱい聞けましたし、やっぱ、この買い物は本店(本社製造元)がいいかな・・・と。競技会で勝ちたくって部品を交換したりチューニングをしたり素人が余計なことをすればするほどモノの精度は下がること間違いなしだそうだ。それはとても理解できる。車にしてもバイクにしても、ど素人様が自分の感覚で余計なパーツや改造をしているのを見る度に残念な気持ちになるあれ。それで機能に損傷がないのならそれは自由だが、この手のギアは素人が簡単に手を入れるべきではない。なんでも道具を使うのは人間。勝負に勝ちたかったら「腕(技術)」と「ハート(精神力)」を鍛えてくださいとのこと。なかなか熱い担当者である。これで買うのはこの本社に決定する。ネットでいくら上手いセリフを並べても、熱い担当者からの電話一本で心は決まるのですね。とても安心しました。

 やはり、なんでもそうですが、「道具」でも「戦略」でも「運」でもないのですね。「技術」と「ハート」なんですね。「この二つが弱いと勝てない・・・」と。これ何事にも適用できる単純な方程式ですね。

ツイッターにつぶやく。

 最近、ツイッターのサーバ調子悪くないか?

楽が楽しくない真理。

 一概に「楽」とは楽しいことのようだが、実は楽しくないが真理ではないかと・・・ふと思った。まぁ、「楽」とは何か?ということから説明をしなければいけないが、「楽をする」とは比較的簡単にモノゴトを捉え安易に手を抜く、労を怠るということ。で、結果はあまり求めていないというテイを言うと自分自身は捉えている。背伸びをせずにそこそこの目標設定でそこそこの努力で何かを手に入れた時、人は、「楽をした」と感じていると思っている。さて、それは改めて「楽しい」のか?と思った。安易に手に入れたモノがなんであれ困難にぶつかって自分のMAXを出し切り額に汗して手に入れたモノの方が心はしびれているはずだが、人は「楽をする」という方法論を何かのスイッチで使い分け、そこそこの結果で得たモノを積み重ねて生きている場合もある。楽しいのか楽しくないのかは別のベクトルで、「楽」をして生きているパターン。人生の価値観が「楽しく」に対してプライオリティーが高く、試行錯誤や切磋琢磨もそこそにライトに何ごとも捉える人。しかし、それが楽しいと感じられない人はどうするか?ストレスの海に舟を出す人とたまに出会うと、なんとなく同じ価値観を共有している、同じタイプの匂いみたいなものを感じる。年齢も男女も仕事の属性も問わず、そんな人はつながりたいと心から願う。そして、その人もどこかで同じことを感じていてくれたらいいなぁ~と思い続けてしまう。そんな人の存在はいつまでも心の中に住み続け、実際に会話やコミュニケーションを取らずともその人の存在が自分の中で芳醇に香り出す場合が多い。これはロジックではない。感覚のお話。どれだけ言葉を重ねてもここに至らない人はたくさん出会ってきたし当然あまり心に残っている人達ではないから、どうでもいい。

 つまり、「楽しい」とは人の心に残ることと、その人の存在が自分自身の心に残っている感覚のような気がする。だから、何かを見たり聞いたり触れたりした時、あの人ならこう考えるだろうな・・・とか、あの人ならこう言うだろうな・・・とかが結果、自分の心の体積になっているような気がする。と同時に目が肥えてくると一瞬で「どうでもいい人」が分かる辛さ。

 例えば、最初にその人の存在を知り、その人の言動を聞き、「辛いなぁー」と感じた、現在の日本の某総理大臣などは、明らかに「楽」をしているように見えたし、そもそも、私の人生に関係のない、接点などあろうはずのない存在の人物だが、そうであってホントに良かったと思う。恐らく、日本人の6千万人ぐらいは同じ気持ちなんじゃないかな。で、最近の選挙運動の車から流れるロジックの数々。あの無駄な弾をもっと別のベクトルに変換したら、電力会社の人達もボーナスを貰えたかもしれないな。しかし、低所得者への国の助成金制度と同じく、「楽」が「楽しい人」に、国の予算を適用して、返済率が30%って!!!この国は何をしているのか?そんな人達と一緒に底なし沼に沈みたくないですね。

 そこに「楽しくない真理」のカケラが沈んでいる以上。

親子の猫。

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 へぇ~、写真を撮影した時は気がつかなったが、目の色が違ってたんだ・・・。警戒モードの親子の猫ちゃん。

弱くても勝てます!?

 「弱くても勝てます」と、なんとも魅力的な書籍のタイトルである。いいところを突いているくるというか、痒くないところが痒くなるとでも言うか。「弱者は、勝者のセオリーを真似てはいけない!」とある。ビジネスの現場でも学校の現場でも話題沸騰となっているが、なかなかの紹介文である。「バントもサインもなし。」「接戦で勝ってはいけない、大量得点が俺たちの目指している試合だ!」「1番から打てそうな選手を並べる。」「グランドでやるのは練習ではなく「実践」と「研究」だ!」「追いかけながら捕るゴロは、ウチでは「例外」として捕らない。」「打つのは球じゃない。物体なんだ。」「打ち勝てばいいから、多少のエラーには動揺しない。」「守備は案外、巧拙に差がない。」などなど。なかなかのものである。

 で、この書籍に対する声が「強者と戦う際に重要なことは「何を捨てるか」だ。」とかっていう評論が心に響いた。ただ、「弱い」と「強い」の関係についてはあまり興味がないので・・・といいつつ、勝負にはとことんまでこだわるからタチが悪い。このような天の邪鬼には意外とこの書籍は一周回って面白いかもしれないかなと思っています。とにかく、「セオリー」と「バンド」と「サイン」まみれの野球をしてきたので、若いころこのような勝負感を養っていたら・・・と思うと悔しい。が、結果、「悔しい」が今の血になり肉になりということでプラマイ0になっていればいい。逆に「悔しい」をエネルギーに変換できる発電所を体内に持っておくと、落ち込めば落ち込むほど、打たれれば打たれるほど、発電力が増すというシステムが会得できる。「落ち込む!?」「鬱!?」「メンタル!?」「セルフコントール!?」なんじゃそりゃ!という人間になれば、もう、弱くても強くてもなんて関係ない。

ランキングの罠。

 という田村秀著の書籍(ちくま文庫740円)がある。世の中なんでも簡単にランキングで評価が決まるもの。学力、国家の競争力、インフラの充実度、なんでもかんでもランキングすると何故か深い根拠もさぐらず上位のモノに気持ちが動く。たぶん人間の本能の部分で少数派より多数派に属したいという能力が作用しているのだろうし、それが本能で「安心・安全」だとDNAに記述してある生き物なんだろう。しかし、ネットやメディアのランキングは調査方法によって様々な結果が出ることが多いらしい。何基準?というお話をスルーして、「第一位なら安心」を鵜呑みさせたい鵜飼いがいるのだろう。つまり、ランキングする場合の調査対象は?どのようなアンケートのディテールだったのか?などなど、そのランキング結果へ導くための情報の信憑性の方が実は重要。まさか、今でも「視聴率」みたいな幼稚園児のホームルームのような、介護施設のお楽しみ会ノリの緩い物理数が幅を利かせているのもその本能がゆえ。でもこの「ランキングデータ」や「なんとか率」で大きな金が動いているのも事実だからこの本能、あなどれない。逆に上位だから安心ではなく、下位でも価値を発見する人は自分のベクトルで生産的な判断をしているだろうし、「ランク外」のような別ベクトルの価値をパラレルに分析・検証・洞察する能力も現代は必要。だから、結婚できない人が多いのだろう。情報過多になり、本能が鈍化しているだけだろう。いやいや、情報時代を仕掛けた人間(ジョブスとか・・・)の狙いは「多様性の推進による進化と進歩への啓蒙」ではなく、「本質の隠ぺいと本能の鈍化」かもしれないな。外典的に言うと・・・。

 ちょっと、気になる書籍ですね。

出ましたねキンドルが。

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 買わないが、キンドルの新しいタブレットが出た。価格もぐっと身近になったし、機能も対抗馬と比較して魅力的と、いわゆるこの市場の目玉であることは間違いないだろう。しかし、買わない。これは決めていることだが、では、誰が何を目的に買うか?と想像してみると自分自身の中では意外とのびしろが小さいことに気がつく。これでデジタルライフがどう変わるのか?をいつも細かく考えている人間ではあるが、どうしてもそっちよりに思考パターンがひずまない。「買ったら買ったで便利だろう」「あの人の便利感覚と同期したいから」「メデァイに啓蒙された便利を手に入れたいから」という理由なら心は動くが財布の紐は緩まない。そもそも価値感の違いだろうし、これらのデジタルデバイスを仕事で活用できるか?というベクトルでしかこれらの電子機器を分析していないので、当然、眼中から逸れる。

 おそらく相対的にこのようなへそ曲がりは市場の20%以下。さらに、仕事というベクトルで分析しているからその中の20%ぐらいの方はそう考えていると物理定数はあるらしい。ということは、4~5%以下の分類に貴方は入っていると言われたところで別段痛くも痒くもない。そもそも「便利」の真髄を見極めなければ感覚が鈍化すると思い込んでいる人間と、赤信号でもみんなが渡るなら私も渡ろう的なタイプが市場で交錯することはないから、私などは電子ブック系タブレットの市場からはこぼれているミルクなんだろう。

 これらの商品が今後引き続きこのルートで進化すれば確実に私のようなタイプは取り残されていくだろうが、モノゴトをパラレルに捉えれば、他のルートで並走できる自身があるから・・・という意地もなくはない。さて、どっちの意地が強いかウォルターならその答を知っているのかな???

常備薬12種類平均!

 最近のお年寄りは常にいつでもどこでも常備薬を平均12種類は携帯しているらしい。なんと!そんなに薬のコレクションが一般的だとは?で、40歳代の人でも平均していろいろな薬を毎日2~3種類は飲んでいるらしい。薬漬けの日本人。これが長寿の秘密か?長生きに秘訣は充実!?した薬の流通にあったようです。しかし、血圧や腰痛などは薬で抑えられても、心の特効薬はないらしい。逆に今の日本は、いい意味で、「解薬剤」が必要なのかも???

恋するホテル・・・か。

 ある旅行会社から世界の「恋するホテル」のメルマガが到着した。またまたエロいアプローチかと思いきや、なかなか、真剣に「恋」について語っているメルマガライターの心意気に少し感動した。そうかそうか、どう考えても私の人生、カリブ海のリゾートホテルに1週間何もしないで滞在するというプランは、1000%ありえないが、「恋するホテル」というフレーズはなんか気になった。この前、カトマンズの山岳ホテルに滞在して世界の屋根ヒマラヤ近辺をウォーキングする旅行プランが紹介されていた。5泊6日で¥298,000だった。ヒマラヤエリアはかなり昔から気になっているエリアなので、標高2,100mから見るエベレスト・・・ってのを想像するだけでちょっと震えた。例のラーソンのパートナー、エヴァの書籍を昨晩読み終えたのですが、なかなかスウェーデンという国は素敵だった。小説に登場するシーンを何回も観ることでいいイメージが頭の中に擦り込まれる感じ。場所の情報に何かプラスアルファなディーテルを追加することでその場面が自分自身にとってとても意味のあることになる。

 で、結婚をしていながら、「恋するホテル」にカミさん以外の女性と行くことは日本人的にはNOだが、それも意外と日本人のこだわりと先入観のようです。「ハゲ産業」が活発な日本はかつらや増毛に価値を見出す見出させる仕組みが蔓延し深い井戸の中で「ゲロゲロ」鳴いている声ばかり。まぁ、何かの理由で「恋する」というフレーズが気になったことは現実なので、それがホテルでなくとも、死ぬまで何かに誰かに「恋」はしていたいものですね。

 バイカル湖の湖畔にも行きたいし、アラスカのオーロラも見たい、アマゾンでピラニアも釣りたいが、一回の人生でできることとできないことは限られている。だから、これらに「恋する」というベクトルはいろいろな意味で正解のような気がして考えさせられたメルマガでした。

 いやいや、カリブ海はジャマイカと同様に行かない行かない。

あえて漱石か・・・。

 何周か回って今「漱石」が新しいらしい。特に「それから」と「吾輩~」あたりだそうだ。なるほどなるほど、やっとそういう時代になってきたのかという感じ。つまり、漱石の世界はまだまだ時代を越えてこれからも覚醒するようです。逞しい作品ですね。全く。

 それに横溝正史さんが執筆していた岡山の年で「金田一探偵」が出没しているらしい。これも街づくりのひとつで偲んでということらしい。今だから、金田一耕介が蘇るのですね。この作品も逞しいです。日本の文豪達がそこかしこでいろいろな形で蘇ること、これは何かのサインなのかな?

 代謝と複製を繰り返し、動的平衡のなせる技かな・・・。

内向き、外向き。

 東京大学で教鞭をとった体験を安藤忠雄がこう語っている。「グローバル時代といわれる中、日本の大学生は内向きすぎるとの批判がある。実際、留学を志す学生数の減少が続き、就職しても海外勤務を望まない新人社員も増えている。」と。さてこの「留学生の減少」という指標が何を意味するのか?一概にどの時代にも「内向き」「外向き」の人間は比類していただろうし、何もこの時代に限定したことではない。しかし、安藤さんは「明治以降の日本が小さな島国で資源やエネルギーもないのに世界有数の経済大国になれたのは、多くの優れた人材がいたからだ。しかし、今の日本の教育制度で、かつてのような豊富な人材が育つのを期待するのは難しい。アジアの国々が猛スピードで進み続けているのに、日本の大学生は国の先行きが全く見えないという不安を抱えたままだ。」と。一方で、大学への責任という指標がある。「大学生の内向き志向を変えるためには、日本の社会全体がもっと世界に目を向けなければならない。国際社会における日本の立ち位置が変わっているのに、日本人は依然として一流大学から一流企業へと進むことが安定した生活を約束されていると信じている。もはやこのような図式は通用しないと覚悟すべきだ。」。また、若い頃に多種多様な経験値を与え考える機会を与えなければいけないよと言っている。これら全てに言えることだが、右脳議論に全て包括されている安堵感が根底にある以上、ここから一皮むけることはないだろう。

 極論を言えば、戦後の貧しい社会になれば、学生は自発的に危機感を感じ取り、独自の貪欲さの図式を探究し始めるのだろうか?ひと言で「戦後」などと言ってしまうにはあまりも大きな時代の分岐点をまさか仮想空間で計画しているとしたら発展途上から先進の次にある「老朽国」の称号のような気配。介護介護で国の予算が高まればそれが「雇用」だと勘違いしている人。ハネることのない文化にセオリー通りのループを重ねる人。回遊魚に餌を与えているのか、与えられているのかが混沌としている地方地方地方。この図式ではまったくハネる余地がない。デジカメがスマホに変わり、いじめが14万件になり、政治家達は椅子取りゲームで裸の王様状態。これは海外の人にしてみれば、「黄金のジパング」の再発かな?だからアニメコンテンツに海外の人達は喰いついているような。灯台の元は暗い。

 まぁ、この際だから、「内向き」とか、「外向き」とか、深く考えず、さりとて、安直に結論を出さず、押すか引くかのバランスを試行錯誤しながら、出る時は出ればいいだけだろう。海外勤務を命じられるような大企業に属したことがないのでそのプレッシャーは知る由もないが、私自身なら、完全に「ガッツポーズもの」だろう。だから、今の学生、今の学生って昔、学生だった人はよく言うが、今の学生諸子はそんなに内向きな印象はない。外向きベクトル過ぎるのも考えモノだと、芸大時代のみんなの顔が頭に浮かぶとか浮かばないとか・・・。

都会の子どもの疲労度。

 子どもが育つ環境づくり。このテーマであらゆる人達があらゆる手法で取り組んでいる。私自身は教育の現場にいる人間ではないが、社会に関わっている以上、そして二人の娘の親として、教育の現場が子ども達にとって適正であってほしいと願うひとりの親父である。まずもって、自分自身が田舎育ちだから自分自身の子どもを都会で育てるということが全くイメージできなかった。「そうであってほしくない。」と願う側面よりも、自分自身が適正と感じられる環境で・・・と願っていた記憶がある。結果、今、そうなっているか否かを判断するモノサシはどこにもないが、少なくとも自分の子どもが学校や塾に行くために、山の手線や環状線や地下鉄の駅で待っている状況だけはNGだったし、刺激が多いと言われている都会に対して、自分自身が特筆するような刺激がなかったことで今の価値感があると思っているから、ここを基準にこれから先も時を重ねたいと考えている。一見刺激的なようで実は無駄なモノが多い場所と都会を規定してしまったのか、大人なら楽しさに変換できるのだろうが、成長過程で都会の密度は子どもの視線では少し煙たい。キレイな空気と精神と肉体が覚醒するスペース・のびしろを想定したら、都会でないほうがいい。そう考えた人間だったから、今が、適正だと思えている。恐らくこの部分で正解はないだろうし、いろいろな比較をしたら後悔になるケースもあるだろうが、ここら辺はちょっと乱暴な言い方がだが、「自分ありき」でいいかなと思います。そこの基準を失うと、底なし沼ですからね。沈まぬよう、無意味に浮かばぬよう・・・、何事も。

僕の好きな先生。

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 全く理由は定かではないが、昨晩の夢に故清志郎さんが登場した。そして、あのテイストで「僕の好きな先生」を歌ってくださった。全く理由や原因は不明。この名曲を自分自身がどう捉えているのかということも明確に論理的に理解できない整理できない状態での「僕の好きな先生」は夢でありながら、なんとも心に染みた。音楽に関わっている人、音楽について蘊蓄や自分が好きな理由などを切々と説く人がいるがその言葉はどれをとっても弱く質量がない。そもそも、音楽を語るなど必要がないからである。さらに、音楽は好みから昇華することがないのに対して、アカデミックに捉えたり、集客やイメージアップに利用する目的で手法と混同することが多いが、これもナンセンス。本来感じる以上に何もできないはずなのに・・・。

 「煙草と絵の具の臭い」のする先生ってもう絶滅しているだろうから、恐らく故清志郎さんのメッセージは法典の中で金字塔の上で化石化するだけなのか。音楽と目的を混ぜないスタイルが好き。音楽は音楽であるべき。機材や技術やコンセプトやスタイルはすべて「後付け」が理想ですね。

 自分自身の好きな先生の顔がいくつも浮かび今朝は目を覚ました。先生は偉大である。

ポジティブ。

 「ポジティブな人」という語感には行動的で発想が豊かで柔軟で豊富で協調性がある・・・という意味合いを強く感じるが、意外とこれはケースバイケース。「いい人」の定義も優しい大きい温和である親切であるということになるが、これも意外とケースバイケースである。人間性を算出するモノサシって人それぞれですし、なんだかよく分からないが信頼できる人もあれば、雄弁で余裕があってもどこか信頼できない人もいる。つまり、人を査定するのは非常に難しいということ。ある側面ではポジティブでもある側面でびっくりするぐらいネガティブな面があったりと・・・。樽にいっぱいの高価なワインも一滴の毒をいれるとそれは樽一杯の毒になるという論法もあれば、その毒を適正に調整して薄めることで薬にもなるという論法が裏に走っている事実。つまり、毒と薬の関係について、毒にもならなない、薬にもならない人ってのにはできればなりたくない。すると、別に他人に「ポジティブだなぁ~!」でも、「ネガティブだなぁ~!」でも、どう思われていようがいいんじゃない!?となる軸足と、できれば、ドンビキされるより、友好的な関係でいたいというジレンマの振幅のサジ加減が非常に難しい。これが常に一定ならばモノゴトは簡単なのだが、そうもいかない。気持ちや心地は常に変化しているから、苦しくもあり楽しくもある。人生、山あれば谷もあると昔懐かしい論理があるが、下手すると、山が苦しく、谷が楽しくなる場合もある。そんなとき、さぁさぁ、どっちなんだい!と言われると、やはり、いろいろなニュアンスを含めて「ポジティブ」でいたいと思う。でも、その答を出した瞬間に、また、一周回りはじめるこの感じ、これって一体何なのでしょうね?歴代の有名な人達がそれぞれの視点で結論めいたことが言葉として残っているものの、さてさて、それはあなたのサジ加減で、そんなに人間は簡単ではないとならないのかな。これは、答が出ない思考の方程式だから、円周率みたいもの。割り切れないが人ならば、公式の数でIDは決められない。でも、ポジティブな人間はそれでも「誤差」や「捻じれ」や「摩擦」や「沁み」や「傷」といい関係を築くんだろうな・・・。偶像の影の部分に真理がありそうですね。

自滅。

 「先延ばしで後悔しないたまの新しい経済学 自滅する選択 池田新介著」という大阪大学社会経済研究所教授(行動経済学会会長)という書籍がある。第55回「日経・経済図書文化賞」を受賞した書籍らしいが、この紹介文には「夏休みの宿題を後回しにする人は、禁煙・ギャンブル・飲酒の習慣があり、借金があって太っている確率が高い!最新の行動経済学と心理学で、目の前の快楽になびいて後悔する、人間の本能ともいえる選択の癖を分析。回避する技術を教えます!」と言っているそうである。さすがなんとか賞を受賞するだけあって、然るべき機関をしっかり意識して文脈を整え、適正なデータを適正な目的に向かって論じていそうである。結論から言うと、この本は買わない。

 まず、軸足が「自滅しない。」という偏りを強く感じるし、そもそも、人間の本能がジャッジする選択に規律や規範を設定してこれはいい、あれは悪いとするのは簡単。自滅しているか否かをチュートリアルに沿って感じたとろこでそれは自滅を回避しているとは言えないような気がする。まぁ、この書籍を読んでもいないのにこんなことを言っていること自体が自滅型なのかもしれないが、これが人間の本能だから仕方ない。強制されれば「自滅を回避したと誤解」するのは簡単だが、その向こうの景色は見えない。そして、絶対的にリアル世界も心理の世界ももっともっともっと広い。どんなデータを列挙しているか知らないが、優等生が書いたどこかの書籍のオマージュレベルだろう。

 逆にリアルでも精神世界でも自滅に向かうベクトルでしか得られない本能の「ひずみ」や「誤差」や「摩擦」や「さび」や「ゆがみ」を知ってこそ人間のなんたるかに近づくような気がしますが、いかがでしょうか?私自身、「夏休みの宿題を後回しにした人間」だし、「喫煙もギャンブルも飲酒」もしている、まぁ、太ってはいない(脂肪率14%)から、何もかも擲って快楽に猛進してはいないが、自分の中の「自滅」がなんたるかを考える暇があれば、手を動かしたいと考えています。

損得勘定。

 「楽しまなきゃ損だ。」という論理がある。また、「損をして得を取る。」という思考パターンのそれらはいったい何をどう推量しているのだろうか?その詳しくを正確に算定する基準はない。恐らくこれらの推察をいろいろな基準で計測しながら、「損」と「得」の相関性を調整しながらあらゆる活動の指針になっているはず。つまり「損得勘定」をしっかりできていれば、思考も心も懐もいい状態をkeepできそう。

 だが、これはなかなか難しい。ある人にしてみれば損な行為が別の人では得だと感じてしまうことがあまりにも複雑に絡み合っているのが世の中であるから。ひとつの基準である貨幣価値にしても、お金をたくさん持っている人とそうでない人では1円の価値が異なるし、心にその価値感の比重を多く置いている人であれば、一般的にそれは損だろうという出来事が「得」に変わる。また、貨幣価値とは別のベクトルで言語という伝達手法がこれをある側面でややこしく複雑にしているとも言える。言葉の質量とでも言うのかここが実は一番社会生活におけるマジックなのである。情報は誰かの言葉の集積であるが、アウトプットされたその情報の質量はサーバに保存された段階で質量を失うに近い。しかし、価値があると誤解しているのが現代社会の根底に流れる、一種のモラル。このモラルを自分の中のモラルと相関させるとひとつの方程式に気がつく。気がつくがその段階ですでに、自分なりの理解力と認知した情報に誤差が生まれる・・・みたいな。

 だから、損得勘定とは自分自身のさじ加減ひとつなのである。つまり、自分の中のモラルと普遍的な概念や哲学や論理をどう捉えているかで変容する、変容の仕方をいくつ持っているか、もしくは、持っているか持っていないか?見えているか聞こえているかのディテールというか、リアリティーでしか、その実態は実は判断できないのである。もっと言うと、判断では正確に判断ではない場合が多く、実は、最後の最後で「五感」しかリアリティーを真実を得る方法がないが正解。ただ、岩盤に描いた牛の時代から「牛」のリアリティーは同じだということも知るべきである。

その表現手法は・・・。

 何かを伝える時、必ず目的があるはず。そのテーマ、コンセプトを伝えるためにクリエイターは数多の表現手法から自分のスタイルをチョイスして何かを誰かに伝えようと試みる。その表現手法について仕事がらとても興味がある。この興味を失った段階でこの仕事の意味は消えると考えているので、非常に自分自身にとってどのように伝えるているか?はデリケートなゾーンである。だから、他の表現者が誰であれこの部分をまず何よりもしっかりと見極めるようにしている。

 他のクリエイターのそれはいつも刺激的で高ければ高いほど震えるし、低くいと感じても、新しさや試行錯誤的に研究・探究する心の密度が高ければ、それを認めて自分自身の糧にと考えている。だから、あらゆるものがその対象なのである。

 しかし、時に、その表現手法を安易に取り込んで「さも・・・」という作品に出会う時がある。しかも、その表現はある層にしっかりと浸透して共有され価値感さえ生み出してているから人の内側というのは本当に分からない。これが、何故、安易だと感じるかは個人差のあることだから、私自身、個人が何をどう思うかなどはさほど関係ないことだから、肯定も否定もしないが、ただ、そんな作品を見ているととことんまでストレスに襲われる。一般的なストレスと呼ばれる対象についてはあまり鈍感な私だが、ただただ、このデリケートゾーンのストレスはいたたまれない。出口のないその独房のような空間にいると、ただ、一秒でも早くその場所から離れたいと感じてしまうことが稀にある。

 その空間を離れ、外の空気を吸い込んで頭がリセットされる感覚。そんな時、必ず雨が降っていることが多いのですが、昨日もそんなストレスを感じた。自分自身がそれを「ストレス」だと認知しているから恐らくそれが「ストレス」になるのだろうが、これは偶然とは言い難い。表現のベースにそれを置くのは安易で捻じれていると心のどこかで私自身が考えているのだろう。肯定も否定もしないし、できるだけ距離を置きたい個人的な異物(違和感)のようです。

ミニが出たが・・・。

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 例のiPadにミニが出た。で、このタブレット戦争はいったいどこでひと段落するのだろう?どこまでも行くのかどこかでまた別のテクノロジーが登場するのか?それとももうそれはいくつかプロトが用意されているのか?そして、市場に開示するタイミングだけを待っている???ノートブックスタイルで、画面が外れタッチパネルとキーボード仕様のPCもあるらしい・・・。さてさて、人間の欲とそれを創る人の探究心・研究心はどこまで変容するのだろう。これらを考察するとやはり売り手の市場なんだと思います。「スマホは便利で多機能」とインプリントされている人達は多いが、そもそも、便利を手にするとはどういうことか?有効に活用できているできていないではなく、コレクションとしてステイタスとして、または、参加チケットのテイでそれを持っているからの「安心」を「便利」と誤解している節があるように感じる。電話は電話でいいじゃん、アプリはあるから使うけど、それは「便利」とはちょっとニュアンスが違う。誰かが使っているから私もというベクトルが「便利」だと勘違いすると、使う人のポテンシャルはどうでもよくなることが恐ろしい。そもそも、便利とは使う人のポテンシャルにマッチすることが最大ののびしろ。簡単に操作できるツールを「使いこなす」「活用」「効果」とは言いにくい。つまり、全てが最新機器でフラット化しているから、いわゆる「頭ひとつ」が出にくい構造になっている。というか、売り手に操作されて、「頭ひとつ」飛びぬないように啓蒙・教育・洗脳されていると言う方が正しいニュアンスになってはいないか。そもそも、ツールを使う時は目的がある。しかし、その目的も用意されて、達成感の共有ありきでは、それを果たしてツールと呼べるのかという疑問のレイヤーが上に来ていると思う。

 ミニが出た。さて、これを買う人はどういう人だ?本当に便利だと感じる人か?仕事や趣味に活用したいとヨコナラビの価値感に浸りたい人か?いやいやガチで活用していると信じて病まない人か?いやいや、そうではないような気がする。それを購入する余裕があり、これを便利だと感じる時間があるコレクターが買うだけのような・・・。だから、デザイン性とアプリはフェイクでもうすでにツールではないのだろう。もしかすると、iPadが何かクリエイティブな作業をするリサーチをするエンタメをエンジョイする道具だと思い込んでいること自体、このスタートラインが先入観なのかもしれない。

日本をダメにした「B層」というのは?

 講談社から「日本をダメにしたB層の研究」という書籍が出ている。B層って何?とチェックしてみると、「グローバリズム、改革、維新といったキーワードに惹きつけられる層。あらゆることに「参加」したがり、「コストパフォーマンス」ということばを愛し、社会の「幼児化」を進めている人々。近代において発生した「大衆」の最終的な姿」と規定している。

 さらに、「なぜ日本人は「参加」したがるのか?」という問いかけをしている著者らしい。

 さてさて、この「参加したがる人々」というくだりがどうも印象的なフレーズだった。何故か?私自身はあまり会議とか集合とか大勢で何かを一緒にするのが根本的に嫌いだから。逆に「参加したがる人々」に対して心から(絶対に馬鹿にしているとかというニュアンスではなく)凄いと思ってきた。これは単に協調性がないだけであり、会議など全員でひとつの結論を出す空気が嫌いなのであるから、仕方ないのですが、とにかく、団体行動が嫌い。二人でも嫌。一人が一番いい。ふたりだけでいて最大限ゆるせる空気感がカミさんと愛犬ぐらいだろう。あとは全て多かれ少なかれメンドクサイ。

 外交的なのか内向的なのか?とも昔は考えていたが、そんなことすらどうでもいいぐらい団体行動が嫌い。よくこの本質で野球などいう競技をしていたものだと、学生の頃の未知数の度合いが振り切れている。

 で、ならば、私は絶対に「B層」ではないのですが、ならば、「A層」か?となると、この書籍を読んでいないので、不明ですが、そんな「A」とか「B」とかすらもメンドクサイ。だから、「なぜ日本人は「参加」したがるのか?」ではなく、「なぜ日本人は「孤立」を嫌うのか?」というアプローチの方がいいな。ダメにしたって、なんで今の日本がダメだって簡単に結論を出すのか?この著者はいい視点を持っているのだろうし、読めば納得できる論法が展開され有益な情報も発見できそうですが、この本は買わない。

さて、プライスレスは・・・。

 昨晩からキムタクの「プライスレス」月9ドラマが始まった。基本テレビ人間なので、恐らく難しいだろうなぁ~と思いつつもチェックする。こんな時代になってテレビドラマづくりも大変だと聞くからどうも養護的な視点でテレビドラマを観てしまうので、それだけでハードルが下がっているのです。しかし、前回の「リッチマン、プアウーマン。」のような意外にも素晴らしい本に出会うとと、やっぱ、週刊のドラマっていいなぁ~と思うが、そのテンションで恐らく「プライスレス」でののびしろは期待できると高は括れない。

 いきなりの設定説明は詰め込み過ぎ走り気味だったが、ドラマやオープニングの冒頭で誰かが死ぬという設定や葬式ではじまるドラマが直感的にあまり好きではないので、そこでまずひとつひっかかり。突然の解雇がグレイなまま進むのはいいが、始まってそこの段階までの説明だけで銀行に30円は無理がある。しかも、マンションが爆発って!ファイトクラブか!?っていうほどダイナミックな爆発でもなければ、フィンチャーアプローチもない、あの爆発映像はかなり安く上がっているはず。だってだって、ワンカットですからね。まぁ、いい。そして、いきなり貧乏根性が芽生えているがあのタイムテーブルでいきなり人間の思考があのように変化するとは思えない。しかも、藤木さんの社長が弱い。さらに、子役の二人も弱い。それは、中井とカリナさんが弱いから。ここはあえてこの二人の存在感は抑えたのだろうが、それでも、全体的に弱い話になっている。さてさて、ここから、どう「プライスレス理論」「プライスレス節」を展開するのか、この脚本家の腕の見せ所・・・ですね。という感想でした。

 恐らく第1話の後半で「腹違い」というネタを言ってしまったので、ここからの展開はおおよそ3パターンぐらいだろう。逆にドラマの進行中にテンションが高くなるようなプロットが1本あれば及第点だろうなぁ~と想定している。このドラマで一番イキイキして印象的だったのが「空き缶を拾っていた人達」だから、第1話としてはギリギリ成立している。さて、第2話は観るか観ないか・・・?

そんなに本を読んでも・・・。

 たまにこういうタッチのアドバイスを頂く。「そんなに本を読んで何が楽しいのですか?」と。しばし思考がフリーズしつつも、まず頭に浮かぶのは「私はそんなに多くの書籍を読んではいませんよ。世の中の読書家の人達と比較したら恐らくその量は10%ぐらいでしょう・・・」と思うのだが、これは一旦思考から割愛して、「読書が楽しい」って誰が言ったのか?と考える。そして、この人の「楽しい」の定義とは一体なんなんだろうか?と推察を始める。恐らく、グルメや健康や一般教養あたりがこの人の「楽しいの基準」であり、たぶん「そつのない、お上手で、キレイな人生観」ベースに私に向かって放たれた言葉が「そんなに本を読んで何が楽しいのですか?」なんだろうとその背景を絞り込む。すると、こういう人に対いて瞬時に頭に並べた言葉の中でもセオリーが通用しない。逆に別に上からも下からもモノを申す必要がないのだから、どこ基準で何を言ってもいいかなと考え「楽しい本っていろいろいっぱいあるじゃないですか!」をチョイスするが、これもこのタイプの人にはヒットしない。改めて、会話のキャッチボールの的が小さいのであるから、もっともっと、絞り込んで・・・「じゃあ、最近何か本読みました?」と切り返すと、「最近は本を読んでないですね、あっ、そうそう、3年前に流行った、あのあの有名な・・・」とタイトルが出てこないし著者も出てこない。これでは本の意味がないなぁ~と思いつつも、「3年前」「流行った」「有名な」あたりのキーワードで私の中のDBに検索をかけて、これとこれとこれ?あたりをチョイスするが、その人の中の一冊にはヒットしない。「ほんまに3年前か?」「ほんまに有名か?」「ほんまに読んだのか???」あたりが渦を巻き、結果、このような質問をしたこの人には、今後、本の話題は一生しないでおこう・・・と結論が出る。つまり、これが一番価値がある結論。

 「本を読んで何が楽しい?」と聞いている段階で、この人の人生の中で「楽しい本」との出会いがあまりなかったのだからこれ以上イジってはダメだと瞬殺するべき話題だったのです。しかし、ネットの情報と書籍の情報の違いに付いて諸説があるが、ネットの中の情報って頭には入るが、心に入って来ません。見事に入ってこないのに何故これほどSNSが流行っているのか?答は単純で、人間の脳が主語をスルーしているからです。言葉には文法があり、世界中に言語は8000あたりで増減しているらしいが、これらに全て法則がある。しかし、恐らく人間の脳は1種類だろうからデフォルトの機能は同じはず。しかし、後天的な理由や教育環境で脳の発達が多様化する結果、宗教間や経済格差の中で、ドラマが起こっている。しかし、仮想空間の中でのジョークで「今晩の夕食は美味しかったというつぶやきが誰かの飼い犬でない証拠はない。」と言われるぐらい、実態が見えていない。写真のリアリティーでさえ、誰も実は信頼していないというデータがあるのだから。結局、人間の脳はパソコンやインターネットというツールの中に真実があるとは思っていないのである。脳幹がそう判断している以上、面と向かって、「楽しい本」についてお互いの分析を対峙しても「ワン」と「ニャン」の議論になるだけ。

 で、逆のお話。読書量が多い人、つまり、見聞が広く既知に富み向学心と探究心を備えている人は同じ言葉でもそのデブスが違う。ひとことふたこと会話するだけでこれは不思議と分かる。また、話が逸れてしまいそうですが、昨今の「絆」「団結」「信頼」の大安売りには思わず目(心)を逸らしてしまう。言葉で「絆」の語感に五感が依存しているから、「絆」がチープに思えるほど。だから、言の葉の使い方は大切です。「僕は信頼できる人間です。」って平気で口にする勇気のある人は逆に幸福な人である。そんな会話をするだけで通じ合える人との「楽しさ」こそが「本を読む楽しさ」なのです。だから、逆の逆でどのような場面でも言葉にする時はしっかり反芻したいものです。「災いの元」とも言われていますから、黒い羽を広げて「カァ~」と鳴くレベルの会話なら、そのまま、どこかへ飛んでいってしまった方が、後が汚れないというもの。

 同様にこれらのことは、「本」に限ったことではないから、そこがまた、楽しい。

内向性と外交性。


 確かに「外交的な能力向けの社会」はそこかしこに用意されているが、一転して「内向的」な人間をどこか下に見るフィーリングはある。それを隠して外交的にふるまうことが善作のような風潮はおかしい。おかしいと捉えるよりも、相互のバランスと相関性が必要だとのこと。本当にその通り。

ポットちゃん良かったですな・・・。

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 凶暴なホットと別れてなんとかしっぽも治って元気になってきましね。良かった良かった。

テレビで拝見するに・・・。

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 なんかのレポート番組のテイで初めて知ったタレント&モデルの鈴木ちなみさん。さすがのモデル経歴ですから、スタイルもグンバツですし、ルックスも魅力的です。モデル業とタレント業と女優業も最近は・・・とご活躍の女性です。そのレポート番組ではどこか天然であまりクレバーな印象は受けなかったのですが、コメントのひとつひとつが生きているように感じた。いやいや、他の女子アナのコメントがリミッターをかけ過ぎて放送作家のオンラインだから、小柄で少しキャラがたちルックスよしという路線を逸脱しないつまらなさと比較すると、テレビの中という枠でいうとこの鈴木ちなみさんはどこか自由な印象を受けた。同じ、テレビの中なのに、女子アナやアイドル出のちょっとしゃべれるタレントさんと比較して、どこか何か違うような印象。まして、48人の刺客達は言語道断ですし、誰ひとりカメラの前で自分の言葉を出すことができない。タメでノリでイキオイでテレビに出れているうちは何もかもアンダーザスポットライトですが、意外と意外とスタジオのスポットライトが照らす面積は小さい。

 で、このちなみさん、スタイルもいいんですが、ロケの映像など動きもいい。「アルピニストイモト」と比較したら誰しも動きは悪いとなるが、それでも、海外のロケ映像の中でちなみさんは個性とキャラを発揮している。このルックスからくる表情なのか、声なのか、なんだろう・・・。

 世の中にはそれぞれの分野での「可愛い」「美しい」「魅力的」のモノサシがある。男性は女性が好きで、女性は男性が好きという基本構図の他にも、最近は男性が男性を女性が女性を、もしくは、男性からの女性が女性からの男性を・・・みたいな構図もあるらしいから、男と女の間には深い谷がある。恐らく、鈴木ちなみさんは一般的に「可愛い」「健康美」「スタイル抜群」「明るくドライ」ぐらいがモノサシに適用されるのでしょうが、それでも、個々にこれらの要因で言えば、他に多くのタレントがいるわけで、そんな中、独特の雰囲気を出せるというのは、見た目意外のポテンシャルが機能しているような気がします。これが最終的に「人間力」となり、人と繋がる時のその繋がり方の綾を織りなすのだろう。

 それに、海外の絵にもよくマッチしているから、中身のベクトルも外を向いておられるのだろう。今後も、引き続き、注目の女性タレントさんです。

エンプロイアビリティとは?

 「個人の“雇用され得る能力”のことで、Employ(雇用する)とAbility(能力)を組み合わせた言葉。一般に転職できるための能力を示すが、現在勤務している企業内において継続的に雇用されうる能力という側面ももつ。つまり企業内外を越えた労働市場におけるビジネスパーソンとしての価値と言い換えることができる。その内容は、知識・技能にとどまらず行動特性や思考特性、価値観といった個人の内面的属性までを含めたものとしてとらえられている。エンプロイアビリティという概念が生まれた背景は1980年代以降のアメリカの社会情勢にある。当時、技術環境や産業構造の変化に適応するために企業のダウンサイジングやリストラクチャリングが進められた。これにより企業は労働者の長期的雇用を保障できなくなった。しかし、企業内の固有業務に長年携わってきた人にとっては別の職務に異動することは難しく、まして他企業に転職することは至難である。そこで、長期雇用に代わる発展的な労使関係を構築するためにエンプロイアビリティという概念が登場した。つまり、企業が長期雇用を保障する代わりに他社でも通用する能力(エンプロイアビリティ)を開発するための機会を提供する、というものである。企業にとって、個人のエンプロイアビリティの向上に努めることは、優秀な人材が流出する可能性を高めることにもなる。しかし労働市場全体の質を高め、人材の適切な流動化をうながすためにも、社会的責任として受け止められてきている。一方、個人の側としては、自らが雇用され続けるためには自己責任においてエンプロイアビリティを高めていく必要があるという認識が高まっている。」という時代だそうである。なんでもかんでもアメリカアメリカもダサイ話だが、一つの時代を創った価値感だから仕方なし。いったいいつまで「フンOF金魚」なのか誰もその未来像は知る由なしだろうが、雇用される能力って!いったい、どんな能力だ?いわゆる「世渡り上手」のこと?マルチなスキルの保有者?個みゅにーケーション能力がずば抜けの人?それとも誰かのご子息?雇用される能力って聞いて何が思い浮かぶだろうか?私自身、正社員だった期間は計8年間。その頃は何をどう考えて「雇用されています!」って考えていたのだろうか。そんなことは考えていなかったに等しい。前と前の社長がこのブログを読んだら、あっ!前の社長はもういないか・・・。前の前の社長さんからパンチが飛んできそうですが、いや、前の社長もあの世からゴツン!と飛んでくるかも・・・、ぐらい「雇用されるためには?」など考えていなかった。常に頭のど真ん中にあったのは、次へのキャリアをどこまで突っ込むか?そして、独立した時に自分自身に何が備わっているか?それをサラリーをもらいながら、実験・経験・体験させてもらった8年だった。雇用される状態では自分の好きなことができないから、早く、自分で・・・という意識の塊だった。だから、今があるし、それを自分自身に誇れるようにするために「今」があると考えている。だから、お金など5の次だし、休みなどいらない。なぜなら、「今」を全力で生きていない人間に自分自身が誇れると思える未来など来るはずがないからである。つまり、全ては自分自身のために決まっている!いないのか!?古今東西、誰が雇用主のために自分自身があると思っているのだろうか?「エンプロイアビリティ」とは全くふざけた造語である。まぁ、そういう時代なんでしょう。

その気はどの気!?

 「これ嫌だなぁ~」「この面子で会議してものびしろはないなぁ~」みたいな予見で心が重い時ってありますよね。これは総じて苦手意識なんだろうけど、これを克服するためにはまず心がその方向を向かねばなりません。でも、どれだけ強引な理論で自分自身をねじ伏せようとしても「嫌なものは嫌!」と行動を司る自分が腰を上げない。挙句の果てに頭が痛くなったりお腹が痛くなったりするから、人間はつくづく心で生きていると思える瞬間。しかし、人生にはノリにノッっている場面ばかりではない。これ嫌だなぁ~と思っても大人な判断をしなければ・・・という場面が多い。しかし、逆に、大人な判断ばかりを繰り返しているともう一人の自分が麻痺してきて、この行動は自分のため?他人のため?が判断不可能になる。よく、ボランティアが好きです!って屈託のない笑顔で汗をかいている人を見かけるが、その場合のボランティアにはかなり自分の都合のテイストと複雑怪奇な先入観が共存している場合が多い。まぁ、ボランティア論をここで話出してもしかたないのですが、「その気」とは具体的にどのような気持ちなのか?というテーマで言うと、「好きか嫌いか?」「損か得か?」「正しいか悪徳か?」という3つの基準に深く関連する自分的な「あり」か?「なし」か?のモノサシになってくる。この気をその気にさせる・・・いや、その気になる背景を用意するという努力が、さてさて、努力なのか配慮なのか工夫なのか?迷い始めると、自分の中のボキャブラリーだけその背景が浮かんでくる。結局、最後の最後で、一番、自分の「いつもやっている判断」に落ち着くから不思議。ただ、それでは、必ず、次のその機会に同じことをしていることについてはあまり深く考えず、同じ失敗をしていることが多いようなパターン。実はこのルーティーンが個性のフレームなんだという学説があり、ここに至る複雑怪奇なルーティーンを分解して言葉でそのパーツを再構築して意識を変えるあたりが恐らく臨床心理のテクだろう。これに、「精神的疾患」としての「鬱」ですって診断された(まぁ、先生の匙加減だが・・・)人は、適当な精神安定剤的な血糖値を抑制か促進する薬を体内に入れて、「ああ、自分は精神的に安定した・・・」などと曲解と誤解の狭間で迷いながら、それを正解と誤認している。これでは、とても「安定」には程遠い。つまり、何か外部的な要因や内因で「安定させよう」とすること自体が全て逆なのである。人間の精神も身体の機能も感覚・感性も一番いい状態とは小さい「破壊と再生」を繰り返している状態である。人間の細胞は1週間から10日で全て再生されているという説があり、ならば記憶とは?となるが、それは、様々な長さの記憶能力が反復しながら信号として次の再生に繋げているから子どもの頃の記憶が色あせず残り、昨日の晩御飯は何を食べたか忘れるのである。これが、「動的平衡」の原理。だから、その気は変容するべきなのが、再生・再構築をしながらも、「教育」されてきたことを楽だと感じる判断力が、本能の声を消すのである。自らの「学ぶ」訓練を怠っているから、中身が再生されないままで、リミッターの奴隷になるのである。それが「その気」になりにくい心の構造だと思いますね。だから、どの気?だと聞かれてもどの気もこの気もなく、1週間から10日間で再生されているのだから、常に再生される準備をしておく必要こそが、実は、その気の構成分子なのでしょうね。だから、その気になるためには、一回、自分のルーティーンを壊す必要があるのです。日本人が一番苦手な思考ですよね・・・。だから、日本という国が成立してきたという慣習もありますが、それは、早く、過去の物語にならないと再生なんてとんでもない・・・という書籍もありますし・・・。さぁさぁ、加古川の次期社長、この意見、どんなアングルでもいいからツッコんでみな!いつでも、どのアングルからでもレスりますから。

答のない答を探しまわるより・・・。

 基本的に義務教育では「答ありき」。しかし、教育というアプローチ自体に実は「答」はない。だから、教育が必要なんだと何かで読むまでもやもやが晴れることはなかった。恐らく、中高生のレベルでこれを言っても仕方ないしまずは学校の中の「答」を確認しましょうとなっていただろう。しかし、社会に出ると別の「答」がある。あるように教えられるからその「答」に歩を進める。しかし、向学の赴くままにベクトルを覚醒してしてくると、ある瞬間からふっとその「答」が実はどうでもいいことだということが分かる。まぁ、これも「分かる」「感じる」レベルだから何の確証もないし、根拠も、パブリックな規定はない。だからこそ「答」なんだと分かる人間は1000人いたら何人いるだろう?恐らく1人ぐらいだろう。しかし、その一人が実は真理を掴み他の999人を牽引しているとしたら、やはり、「答」は偏在する価値観のようなものだと言えるんじゃないだろうか。書籍「ワーク・シフト」を読んでいると、その論説・文節に捉われず、全体像が何かそのベクトルを示唆してくるような感覚にとらわれる。これが錯覚か確証かなどもまったく不明ではあるが、「どこか何かが違う」という違和感は確実にある。

 答のない答を探しまわるより、地球と一緒に回ろう!という歌詞を聞くと、結局、人間は何をすべきかみたいな達観論がいくつか頭をよぎる。このフレーズを聞いてこの気持ちにさてどれぐらいの割合の人間がそこを掘るか?ということが答に一番近い感覚。それほど、音楽という表現手法は芯を喰った時に魂を揺さぶってくれるんだから、他の芸術家が嫉妬するはずである。

独立は自由なのか・・・!?

 書店で「フリーランス」という書籍を発見した。どうやら、独立したい人、脱サラリーマンの人向けに書かれた書籍のようでした。独立するには適齢期があるとか、自由な時間を人生に!とか、人間関係に悩んだらその出口が独立だ!みたいな、まぁ、軽率な言葉が並んでいた。いったい「独立」するということをどこまで軽く考えているんだこの著者は!って静かにツッコんだ。世の中の経営者がこの書籍を手にしたら全員が多分タテに引き裂いただろう。適正な休みを頂き、適正な賃金を頂き、適正なモチベーションを分配しているのはあなたの会社のトップの人ですよ。独立したらそれを全て手放すんですよ。そんな勇気ないでしょう?この著者はある一部の側面を煽っているだけで、この著書が反応する本当のユーザーは独立して自営している人達でしょうね、多分。サラリーもらっている人は恐らく「独立」「フリーランス」に憧れているだろうが、自分自身でそれが手に負えないことを知っているんだろう。その一線は越えないというテイでぶつぶつつぶやいているのが楽しいんだろう。独立・自営・フリーランスの大変さは恐らく寝耳に水以上に目からの鱗以上に天上天下唯我独尊なんですよね。

 まぁ、それも世の中「パレートの法則(2:8の法則)」で上手く回っているのだから、無益なつぶやきはやめよう。自分らしくあればそれでいいじゃん!

この逞しさ・・・。

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 この逞しさ…好きだ。植木鉢の奴らがデスクの上まで繁殖してきたので、のびしろを切ってガラスの器に差しただけなのに、もう、根が出て、新しい葉を用意している。この逞しい感じ、いろいろ観葉植物は育ててきたが、やっぱ、ポトスがチャンピオンである。

誇れる今であれ!

 「いつか来る未来のために 誇れる今であれ!」としほさんは歌っている。まぁ、これもテイによるのですが、すっと頭に入ってくるパターンはとても心地いい。これがどこかの政治家達がじゃんけん大会をしているテイでメディアにこぼそうものなら、失笑で終わる。この違いは言葉の内容ではなく、誰がどのように誰に対して送っている言葉なのかというTPOが重要なのである。つまり、言葉は同じでもディテールが異なるのである。だから、だからこそ、どういうポテンシャルかということが言葉のクオリティーを左右し浮沈させるということ。これがネットの世界に代用されると、豊富な分析と機智に富んだ洞察があったとしても、誰が何のためにが緩いと言葉がふわふわしてしまう。だから、常にリソースフルであるために、誰がの部分が重要なんだろう。ここにワーク・シフトが適用され、毒になるテクノロジーがシンクロしてくると、仮想空間の指針が壊れ、いつか、過去の遺物になる。すでに異物なんだからスルーしている人はアイソレートを楽しんでいる人か「いつか来る未来」が見えている人だろう。一生懸命型の努力を持ってしても、戦略過多な策士の妄想にしても、自分の誇りが本当に蛇なのか縄なのか?という綱渡りをもって「今」を模索・探究・試行錯誤するしかない。原因と結果の相関性のコントール方法のチュートリアルはない。失敗と多くの小さい傷を乗り越えて得たノウハウでしか相関性も均整のバランスも見えてこないような気がしますね。毒にも薬にもならない時間だけは「お疲れさん」したいものです。

ひさびさに月9全11話を制覇。

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 何年ぶりにか月9のTVドラマ「リッチマン、プアウーマン」に集中できた。この前これほど興味を持てたドラマはさて何だったか?と忘れるぐらい今回はドストライクでしたね。まぁ、IT関連のお話だったことや、主役の二人がなんともはまっていたのがその大きな理由です。さらに、脇の皆様も金閣銀閣レベルのいわゆるメンドクサイ脇の人達ではなかったのがモノガタリのスマートさをより強調していたのだろう。メンドクサイ脇の人が一人いるだけで話のテイストが濁りますしね。

 という意味で、第1回目から通して第11話までなかかなのペース配分でした。後半3話ぐらがちょっと巻いていたような気がするが、それでも、それまでのアップダウンがしっかり効いていたように感じています。後味のいい最終回でした。しかし、テレビドラマの最終回を観たっていう記憶もここ5年程は数本だったので、改めて「テレビで毎週チェックする物語」の楽しさを堪能しましたね。

 とてもしっくりする話にテンポと主役の二人のノリがビシっとマッチしていました。良かった良かった。

 しかし、次の月9は、いわゆるメンドクサイ感じ。だから、間違いなく完璧にスルーですね。

なんかカワイイ・・・。

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 あるWEBサイトのプレゼント企画商品。なんかカワイイですね。WEBキャンペーンだったのですが、メンドクサイのでエントリーはしない。3名様の確率に期待するほど暇でもないし・・・。ただ、なんかカワイイ。

三平女子とな・・・。

 未婚の女性の一番人気は「三平」らしい。決して釣りキチ~のことではない。年収もルックスも性格も「平均値」が理想らしい。昔なら、高学歴でルックスイケメンで性格はエトセトラだったのがどういう変化だろう?現実を知ったのか、相対的に物事を捉えるように自嘲しているのか、そういうリミッターが本末の正解だとその経験から学んだのか?まぁ、高学歴で高収入っていってもどこから?となるわけで基準はふわふわしていたのと同様に「平均値」といっても多種多様。「私、三平女子です!」と言い切っている人が未婚の中に50%いるということを世情的にどう捉えればいいのだろう。結婚していない男性にしてみればハードルが下がったと捉えるのか?それでも、高学歴高収入のトラウマを引きずるのかみたいな。いやいや、種の存続の本能を適正にコントロールするのは難しい難しい。っても、これが人間の存在価値としての本丸ですから、人生のパートナーを見つけていない人はいつの時代も同じ。霞を喰って精神世界で昇天したいならそれもいいが、そこにリアルはない。そこに価値を発見しようとコロンブスも頑張ったが、結局、その結果、無意味な血が流れたわけだし、亜種が規定された土地の上で種を存続させるという欲に慣習や文化を混在させて「人生の意味」なる幻想に依存することは簡単。しかし、ネットの世界同様、そこの情報の薄さ軽さが残念!と見えている人は五感を奮い起すべきだろう。戦略も空想・妄想・迷走のうち。自然との関わりにリアリティーを得たいのなら、絶対ではなく相対であるべき。

 世の中の「三平女子」が実は一番本能に忠実なのかもしれない。で、「三平男子」はどこにいる?ミラーニューロンをフル稼働してリアリティーを得たいものです。既婚者でさえ、実は一夫多妻の幻想に本能の矛先を迷っているはずだから。まぁ、慣習が二股三股のリミッターになっているうちは文化も歴史も安泰だろうが、これが崩れると、日本人は新しい変容を受けれなければいけないだろうな。本能に正直にありたいが、郷に従うのもまたオツなものであることも人間は知っている。

補欠の哲学。

 子ども頃、「万年補欠」という言葉でかなり傷ついた記憶があるが、今思えば、それもいい経験だった。誰もベンチで応援はしたくない。選手に選ばれて試合に出たい。しかし、現実には選手と補欠の関係はいろいろな条件やルールがあるから仕方ない。陸上の選手として選ばれる事や野球の試合にレギュラーで出場するということは、実力があったり結果を出している選手なら当然のように選ばれるわけだが、ボーダーラインすれすれの人間にしてみれば、いろいろなプレッシャーがあった。これは中学・高校になるとかなり精神的にキツイ。同じ練習をして同じ苦労をしてもセンスや技術や信頼性のある選手は試合に出て、そうではない人はベンチ。ケガなどするとベンチにさえ入れない。スポーツや競技の世界はタイムとか技術のモノサシで1年生・2年生・3年生は関係ない。もうすぐ引退だから、この試合は出してやろうなどという温情は一切介在しないシビアな世界だった。

 私自身も万年補欠ということではなかったが、試合に出たり、ケガをしたりと、浮き沈みの激しいタイプだったので、かなり精神的には鍛えられた。センスがあり信頼度が高い、キャプテンのような存在にあこがれてはいたが、キャプテンはキャプテンで想像以上のプレッシャーがあったのだろうが。試合に出るために記録を維持する。それには他の選手以上に練習をするしかない。練習が終わって学校から帰ってきても気になるから走ったりトレーニングをする。若い身体だとはいえ過度の練習は筋肉や腱を痛める。練習、ケガ、練習、ケガの記憶しかない。それでも、補欠にもなれず、ベンチにも入れない3年生の頃、「あれ?僕は2年生にも1年生にも抜かれて何をしているのだろう?」と客観的に自分を捉えてなさけなささを一周回って冷静な気持ちなれた。足をひきずりながら、後輩達が練習するグランドに水を巻くことは辛かったが、そこで、自分の実力と現状を理解できたような記憶。一生懸命練習して、ケガをして、ココイチの勝負どころで結果を出さないとこうなると高校生なりに理解した経験。

 さて、社会に出ると誰もその経験を引きずっている。レギュラーもあったし、正選手で100mやリレーに出たりもしたが、思い返すと50%選手、50%補欠以下だった。しかし、学ぶことは補欠以下の時の方が多かった。というより、全体を俯瞰で(自分自身も含めて)見れたのは補欠だったからのような気がしている。社会には正選手も補欠もない。まぁ、正社員とパートさんのような関係は現実にはあるが、これは条件の違いだから、能力の違いではないと思う。

 で、この補欠という能力は実は社会に出ると正選手よりも重要な場合が多い。とういうか活躍するためのモチベーションは正選手以上の場合もあることに気がつく。いやいや、原因と結果だから、能力や結果を残せかなったから「補欠」なんだとシリアルには考えがちだが、もっと、俯瞰でパラレルに捉えると、チームが組織がひとつの方向に向かって動的な活動(経済活動など)をする場合、正選手だけでは戦えない場合が多いような気がする。意外とだが、私の妬みかもしれないが、「正選手のエゴ」や「正選手のプライド」という部分を社会に出ても引きずっている人がいる。これはスポーツに限らず。学生の頃に成績の良かった人はこの傾向がある。スポーツの実力があり、学校の成績が優秀であることは個人のポテンシャルだし努力の賜物であることは理解しているが、たまたま、あるパイの中で上位に属してきた人間独特の視野の狭さと打たれ弱さは社会に出ると露呈することが多いような気がする。まぁ、私はそれらの対極にいたから、かなりの度合いで妬みがあり反骨精神が錠剤のように凝り固まったいるのだが。でも、この錠剤を自分の中で精製できる人間は見事に「ストレスフリー」であり「ストレスジャンキー(中毒)」の傾向がある。SかMかというチョイスもあるが、そんなことはどうでもいい、そのベクトルのタッチではなく、スポーツも勉強も優秀な人は「ストレス」というテンプレートを鵜呑みにする傾向があり、無意味に協調性があるから、他人と調和する能力にも長けている。というか、上だという意識から、下の属性に対して素直に受け入れる能力というかニューロンが発達しているのだろう。だから、チュートリアルどおりに「ストレス」を受け入れる。しかし、ホームワークではないので、社会で発生するストレスは「正解」がない。全てを白紙に戻してリセットする決断力もなく、前述の「エゴ」や「プライド」に固執する。この体質や精神構造だと、かなり辛いことになる。それが現在、日本の経済や文化を空洞化していると洞察するきっかけになるのだろう。しかし、メディアが放出している論理には裏がある。スマホ教団から「便利」と「進化」を啓蒙されれば、購買意欲を掻き立てられる便利な市場となる。原発も同様の仕組みだが、これはもっと根が深い。

 で、「補欠魂」を好むと好まざると会得させられた人間はどうか?当然・必然、対極に存在しようとする至高がまず起動するから、「耐える」「諦めない」「他人と同じことが嫌い」「天の邪鬼」「協調性よりも主体性」「相対よりも絶対」「客観よりも俯瞰」なのある。ここまで成熟するには相当捻じれた生き方とアンフェアな経験がないとなれない(別になりたくない・・・!?)が、そうなってしまえば、また、別の日本が見えて来る。

 私は人生において、最高最強の補欠になりたいと思っているし、優勝者よりも強い銀メダリスト(2番手)になりたいと考えるようになって、いろいろなストレスから解放された。これは解放されたと勘違いしている部分が実は多いのだが、それでも、頭の活性は高いと自覚できているし、何より身体の健康をキープできている。これが最大のリアルでいいと思える根拠がある。ただ、2番もビリも悔しい。が、実はこの「悔しい」を反芻することで、本来の身体に有効なアミノ酸がより多く摂取できるような気がします。

 長~~~い、つぶやきでした。

月9「リッチマン、プアウーマン」の原作。

 この月9の物語はある脚本家のオリジナル書き下ろしだったのですね。素晴らしいなぁ。昨今、小説や漫画からのオマージュが多い中、このお話は秀逸。お話が秀逸だから役者もイキイキ。よって、観ている人がワクワクドキドキしてくるという方程式なんですね。これまでいくつか月9ドラマは伝説があったが、ここ最近は話題性だけで失速している印象がありましたが、この「リッチマン、プアウーマン」はなかなかのモノですね。全11話ってことですから、最終回は9月17日だそうですが、さてさて、どのような展開になるのか楽しみ楽しみ。IT関連がメタファだけにいろいろリアリティーが多く、それも楽しい理由かもしれないですね。それに、小栗君とさとみちゃんがいい。全ていいのですが、やはり、脚本原作が根本的にいいのでしょうね。ディテールも大切だが、やはり、本は大切。

 「今まで誰も見たことのない・・・」というフレーズ。下手こくとドン引きになるところを繊細さと大胆な物語でディテールを起こし感情移入の手法が秀逸。まぁ、基本的に「好き」になるとなんでもよく見えるそれだからこそ、「好き」にさせる理由があるのでしょう。これが意外と言語理解ではなく、空気感や展開の中にそのマジックが潜んでいるので、部分的に「これだ!」と切り取ることはナンセンス。これがモノヅクリの醍醐味であり難しいところ。想定外ののびしろもどこを軸にスパイラルを起こすかにかかっているから、やはり、本が大切なんですね。つうか原作者の中にある何かが一番のハリケーンの目なんでしょうね。いやいや、なかなか。

「読書」とは何か?

 ショウペンハウエル著の「新訳 読書について」という書籍がある。考える力を養うための知的読書法とは!わかりやすい新訳で読む古典の名著とのこと。「知力と精神力を高める本の読み方」とあるが、さて、どんな感じなのか?書籍、雑誌、新聞、ネット・・・。情報が氾濫する現代社会をどう生きるか。血肉となる書物の付き合い方。というフレーズがどこか新鮮である。特に情報が氾濫していると言われて久しい現代、どう読み解くか紐解くか洞察するか分析するかなど、ありあまる情報に対してどう精査して自分なりの再構築手法が次の一手への相関性を左右すると言われている。どこかの成功事例をコピーするのにも情報の表層だけをすくい取り瞬発力で勝負するのか、じっくり本質を見極め消化してから再構築するのかみたいな、時間軸の意識化が偶然から必然を生み、非言語から有効な言語化へ導けるような気がする。時代は別段、いつもスピードで進んでいるわけで、どれだけ情報が飽和しようが、人間の考え行動する時間軸は今も昔も同じ。しかし、複雑に交錯する有効な情報の蔓が途中で不本意に切れないように仕分けして精査することが大切。それを精査するためのデジタル機器がさらにその交錯を助長することのないように、このような原典を紐解きその基点を明確にすることも大切なのかなと思います。こんがらがってどこに何があるか見失ったが最後、情報の潮流は津波のように大きな大地の震動のまま個体の足元をすくう。そもそも「読書」という行為自体のことを自分自身のそれと比較して時間軸を有効に活用しなければ、クラウドの落雷に打たれることになるでしょうね。気圧の摩擦が落雷を生むように、デジタルの気圧配置図を俯瞰しておきたいものです。

この絵ヂカラ。

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 この絵ヂカラは強いなぁ~。

ケータイ化!?

 「ケータイ化する日本語」という書籍がある。佐藤健二著。その広告文には「本書のタイトルから連想されるような「ケータイのせいで最近の若者の言葉づかいが乱れている」などというお説教を垂れる本ではない。そもそもケータイの話は後半で出ていくるのだが、それまでは「ことばとは何か」「電話で話すとはどういうことか」といった原理的な話題が、生理学や哲学、歴史学の知見を参照しながら述べられている。なぜそのような回りくどい説明をしなければならないか。人によってはもう意識すらしないのかもしれないが、実はメディアを通して人と話すという行為は、非常に不自然なものだ。例えば留守番電話で「メッセージを残してください」と言われても何を話していいかとっさには分からずまごまごした経験が、誰でもあるのではないか。あるいは、親元を離れて一人で暮らしはじめた時、ずっと一緒で暮らしていた親からの電話に、なぜか戸惑いを覚えた経験はないだろうか。著者は「ことば」と「ケータイ」の間のぎこちない関係の先に見出すのは、私達は、そのようなことばを用いて公共的な社会を築くことができるのだろうか、という問いだ。確かに、今では高齢者でもケータイのメール機能を使いこなしている人は珍しくないし、スカイプのビデオチャットで孫の顔を見るのが楽しみという人もいる。だが一方で、ケータイの画面の向こうに広がるネットの「ことば」によって傷つけられたり、デマに踊らされたりする人がいるのも事実だ。ことばの重みは、目の前にいる人の発したものであるかないかということは、無関係のものになりつつある。」と綴っている。

 う~ん、ケータイと言葉の関係か。その前に、もっと、つきつめなければいけない問題点があるように思えるが、ケータイの問題はその葉の部分だろう。幹や根の方が、いや、大地に目を向けると、もっともっと、深刻な問題があるはず。しかし、それを適正に隠ぺいすることも大切。実はそれをメディアと呼んでいるとかいないとか・・・の部分が一番興味がある。

希少価値の価値とは?

 「希少価値」という価値があるが、圧倒的に品数が少ない限定商品やレアでプレミアな商品。高価ではないが原材料や作成する技術の問題で商品の絶対数が少ないモノである。大量生産=ものづくりで活気を帯びていた日本が今人件費や経済の仕組みで大量消費型からニッチへ。そして、狭いストライクゾーンを探す時代に変容している。大量生産能力にかける費用(疲労)対効果のシステムが飽和して人件費が余剰しているのだろう。もう猫の手は要らないということがリストラ問題やニートや就活問題に及んでいるのかもしれない。市場が活性化しないかぎり・・・と言葉にすれば簡単なことのように思えるが、そもそも本当に潤滑な市場だったのか?という疑問がある。高齢化や少子化など適当な傾向と対策でお茶を濁していればメデァイとして成立している時代から、もう一歩も二歩も踏み込んでいかなければいけない時代になったような。もしくは、そんなに無駄無理にテンションを上げずに、2・3歩引いて構え、楽観的に今をエンジョイした方がもしや生産的なのかもしれない。清く正しく美しくを教科書通りに勤労・勤勉が正解だった価値感が薄れ、その裏に隠れていたもっとシンプルでダイナミックでダーティーな動機付けが人間のエネルギーになっていくような逞しい時代。

 で、最後の最後で何が必要か?恐らく、強靭な精神力でも論理的なブレインでも地位でも名声でも資産でもないだろう。「動きのいい健康な身体」があれば、アトムになれるはず。

中国について。

 中国の文化や歴史、生活スタイルについてリサーチしているが、改めて、その大きさに驚いている。それに言語についても生活様式についてもどこか日本のルーツを感じることもあり、ひとつひとつがとても刺激的である。中国史について論文を書くわけではないので、徹底的なリサーチではなく表面的なリサーチになってしまうだろうが、やはり、ひとつの作品を創るために必要なアプローチである。で、まずは、中国語ということになるが、これまた、なかなか刺激的である。いろいろ日本のメディアでは中国に対していろいろな側面を切り取っているが、さてさて、その中のどの部分をチョイスすればいいのか・・・。結局、インターネットでも書籍でもメディアでも誰かの意志を介して得た情報だから、色がついてる。無色透明な中国の色を感じたいと思えば、行って暮らす必要がある。さてさて、この部分をどうするか?ちょっとガチで中国の今や基本的な歴史や経済観念について知りたいと思っているが、どこをどうリサーチしていいものか?いいアプローチの方法を知っている人がいたら教えてください。って、これではダメなんだろう。自分で動くということが大切なのでしょう。集中して中国のディテールを集めよう。

商店街が何故滅びるのか?

 という若手社会学者が商店街の誕生から繁栄、衰退に至る経緯を豊富なデータとともに解説している書籍がある。商店街が20世紀初頭から始まった都市化の流れの中で誕生したという見方は新鮮。零細な商店街の集積である商店街が「よき地域づくり」のために発明された近代的な人工物であるという視点で紐解かれているらしい。それがなぜ今日のような姿になったのか。戦後の社会の工業化から都市部での自営形態の増加、そして、小規模であったことが家族経営であったがための経営力の近代化を遅らせたとしている。一般的に商店街が衰退したのは出店規制が緩和され郊外に大手のスーパーなどが進出したからだとされる分析が多いが、実は、商店街が既得損益を追求して政治団体化し、一般市民に理解されなくなったことが原因であると指摘している。う~ん、なるほどなるほど。

 で、再生の道はあるのか?となるが、高齢化が進む中で地域の拠点となる消費空間は必要だとしても地域社会が土地を管理する新規参入を促すことを提案する流れになっている。やる気や才覚が商売の原点であることを回帰すれば何が必要かフォーカスできる。結局、村文化のいい面と悪い面が走馬灯のように駆け抜けたということだろう。社会のニーズが捉えられなくなった場所で昔ながらの取り組みを高齢化したブレーンが何をどうしても前に進むはずがない。それで前に進めるほど現代は単純ではないということだろう。結局のところ、大手も商店街もそれに携わる運営者のポテンシャル。小さい国の小さい文化を尊重するか再構築するかという分岐点があったはず。それを黙認したことが現状に繋がっている。つまり、原因があるから結果がとなって表出しているのだろう。

 理想論を語り過ぎ、古き良き時代の清く正しく美し過ぎる達成感や成功体験に依存しているからそうなるのである。変容を受け入れ、ポテンシャルを見極めろ!とこの著者は言っているような気がする。

ロンドンオリンピック。

 私自身、最も注目し期待してた福島千里選手が11.41で予選5位になった瞬間、なんとなく、今回のロンドンオリンピックが終わったような気した。悔しそうな福島選手のインタビューを見て、ちょっと、目じりに溜まった涙をみてもろくも涙してしまった。いつもほんわかしている明るい福島選手のその表情はなんとも感傷的になってしまった。次に控える200とリレーを頑張って欲しい。

 しかし、今回のロンドンオリンピックはいろいろな競技で、本来、お家芸とかなんとかメディアが勝手にいって盛り上がっている競技意外でもメダルラッシュが連発しているような中盤戦の印象である。特に女子のバトミントンやアーチェリーなど意外なと言ったら失礼千万ですが、いずれもメダルを獲得された。そして、男子サッカーのベスト4はなんだ!やるじゃんJPN!!! この4年間を振り返ると、日本はいろいろなことがあった。それをひとりひとりの選手が自分のことと受け止め、この華やかな世界の舞台で自分達がメダルを獲得することでこの失速している日本に元気を!という気持ちが少なからずあったから・・・かもしれないと思うだけで、勝ったシーン、負けたシーン、どのシーンを見ていても涙が出てくる。あれ?これはおっさんになり涙腺が緩くなったのか!?いやいや、スポーツという純粋な競技の美しさと裏表のない純度の高い世界レベルの人達の躍動が心を動かしているのだと感じたからだろう。

 坂本龍一さんが言った「言葉巧みな人達」は何をしている?内村君が華麗な演技を見せることで、国民の心が揺れ動き、永井選手のゴールを見て子ども達がこぶしを突き上げている。もしかして、言葉巧みな人達はこの国に必要ないんじゃないか!意義のあることなのか、悪いことなのか、定義は言葉巧みに自己完結すればいいが、それで国には本当に前に進むのか?というお話。そのバッチを全員福島の海に捨てて、その頭脳明晰な頭でどこか別の国でSNSでもでもつぶやいていればいい。国をどうにかするなどと言語道断。貴方達にはちょっと現在の日本の問題は荷が重すぎる。モノヅクリモノヅクリと言いたいのなら、貴方達がいなくても国の予算が適正に機能するソフトを作って貴方達の会議や活動費用を削減すれば、別の意義のあるのびしろのある予算の使い方ができるんじゃない。わざと閉塞感を演出しているとしたらそりゃ八百万の神から鉄槌が下るぞ。管理している人、会議で日本の未来を決めている人、もっともっと、現場で汗を出している人の声を聞く能力も開花してほしいですね。って、それが無理だからこうなっている訳で、やっぱ、要らないですね、貴方たちは。余計な鎧をまとい過ぎなんでしょうね。論理の武装がタテホコになり、新しい価値感の創出に対して慢性的なアレルギーが出てるんですね。早く、治癒して動ける考えられる身体になってください。言語ではなく、行動で示してほしいものですね。内村君のように・・・。

 さらに、終盤に向け、私は、福島選手の200とリレーを応援したい。

OMG!

 なるほどね、「OH! MY GOD!」ね・・・。PLSでPLEASE, BTWでBY THE WAYと・・・。で、これらは中国語でなんと表記してどう発音するんだろ?小琴さん、教えて教えて・・・。

ものづくりからその先へ。

 「戦争から帰ってきた男たちが鉄鋼や自動車などの工場で働き、家、車、家電を持ち中流生活を送る。そんな古き良き日々が過ぎ、新興勢力の追い上げでは難しくなってきた現代。まじめに働けば報われる、いわゆる「清く、正しく、美しく」だけでは成立しなくなった社会構造。教師は教育の現場に一定のマニュアルとチュートリアルを用意しそれを予習・復習していればよかった時代が変化している。それでも僕らはこの町でステレオタイプに生きるのか・・・」とよく古い歌のテーマになっていた。

 雇用の担い手として期待されているのは、ものづくり職人よりも、発想とセンスに頼る知識労働や、会話と気遣いがキモの接客・サービスといった分野。身だしなみに気を遣い、若者がお笑い番組を手本に場を和ませる技術を磨くのも変化の一片だろう。寡黙でまじめだが気配りや人づきあいが苦手な人には何とも馴染みにくい時代なのかもしれない。そうした雇用の側面が今後の日本経済や文化・教育の現場をどう変えていくのだろう。そして、ビジネスの形態は現実社会から仮想社会を交錯しながら、多様な価値が一進一退で加速し失速する。そのストレスを受け止めながら、逆にそれらを振り回すような室伏レベルの筋力と瞬発力が必要になってくるのだろう。知力という筋肉を持っているのか?と問われているような気がする。

 「ブレインワーク」という言葉もその構造を変えざるを得ないだろう。知識労働という言葉が闊歩し「考える」や「感じる」や「思う」ことがビジネスの鉱脈になる時代。ハード・ソフト論の究極の摩擦の末、最後に残るフォルムはどんなカタチだろう。そして、研磨された破片はどこに集まるのだろう。結局、人間は地球上のあらゆる鉱石を掘りだし、利用した後、それらが全て炭素に変えっているだけなのだ。炭素に戻らない化合物はどうするのか?という議論に帰着するような気がする。歴史から学ばない人間が枯れ木に花を咲かせることを夢見てただけ。さてさて、次、ポチはどこを掘れとワンと鳴く・・・みたいな。

 ものづくりからその先へ人間は進化しているのか退化しているのか?このテーマなら「宇宙兄弟」以上の「ナルト」以上の「ワンピース」以上の「銀魂」以上!?の物語が創れるかもしれないぞ。

批判的思考。

 批判的思考を「クリティカルシンキング」というらしい。この言葉が現代、教育現場で注目を集めている。この取り組みを授業に取り入れている学校では、これまでと違う学力、これからの社会で生きていく力を育てようという意気込みが伝わってくる。日本の子どもは論理的に考え、根拠を示して伝えるのが苦手だそうで、以前からこの指摘はあったそうですが、社会のグローバル化が進むなかで教育関係者の危機感は高まっているらしい。つまり、「そう考えた根拠は何か?」的な思考能力が大切ですよという警告。ということは根拠はスルーしていたのかな???

 正解を暗記してきた先生達がどの面を下げて「批判的思考」を子どもに伝えるというのか?伝えられる人なら危機感だとは思っていないから、そんな空気が教育の現場で盛り上がれば盛り上がるほど、子ども達は迷惑!?そもそも教育がステレオタイプな規範とルールをごり押ししてきた側面があるから、そうなっていて、それが現在の先生方の規範でありモラルであり方手式でしょうし、それを覆すことが、リセットすることは至難の業ですよね。そもそも・・・なんだから。またまた、教育の変革だなどと無意味なハチマキを皆でしめて、「団結」「絆」ってやりたいだけの人間には無理。教育の現場とは関係のない人がその責務を担う仕組みを作らないとたぶんダメ。

 極論として子どもから「先生は何故先生になったの?」という質問が来たらさてどうする?その場面で批判的思考を紐解けるのか?それともいくつか答のパターンを用意する?その人生観でひとりひとりの子どもに適正なシンクロを得ることができるのか?100人いれば100人無理でしょうね。つまり、それが戦後の教育現場の実態だから。自分で考えて生徒ひとりひとりに対峙できるポテンシャルを持っている人がひとりでもいたら大津のようなことにはなってないだろう。そもそも、いじめっこもいじめられっこもどちらの経験のない人間が「いじめ問題」に対峙できるわけがない。そんなの頭で理解できても、心で感じられるはずがない。教え育む人がガチになれば、必然的に批判的になるはずだから、何もとりたててこのことで盛り上がる必要もないはずなのに・・・。

本気の失敗には価値がある。

 確かにそのニュアンスは芯を喰っていると思う。「本気の失敗」ということになると、実際、心理的にはかなり辛い状態ではあるが、何を持って「失敗」と感じるか判断するかは高い目標設定があり、相当の技術や感覚があるからであり、その上で、ぶつかった失敗にはいろいろな意味で価値があると思いますね。高い目標設定をする際に必ず想定されるmaxの失敗をイメージして臨んでいるにもかかわらず失敗をする場合が多い。それも比較的単純で客観的にはお粗末な失敗である。何故こんなことに配慮できなかったのか?そんな失敗をいつまでしているんだ!と情けなくなるような失敗を繰り返す。しかし、それを踏み台にして次はその失敗をしないための対策と能力がそこで確実に手に入れることができた感覚・実感もあるわけで、その瞬間はどん底な気分だが、一見俯瞰でそれを見れていれば、次の瞬間、その失望感は期待値に変化させることができる。つまり、落ち込むのは一瞬でいい。しかし、失敗に慣れていない人はその失敗を頭で考え過ぎていつまでも反省し検討し対策を列挙する。まるで日本の政治の世界の縮図。だから、次の問題に臨む時にその失敗を悪い意味で引きずり動きや着想や動機づけが鈍化する。そのループを繰り返していると、その鈍化が慢性化して動きの鈍い人間になる。そんな連中が集まっている日本の政治が「本当の意味で動くはずがない。」のである。陳謝と根回しだけが上手になり、本当の確実な堅実な純粋な最初の一歩が踏み出せないのである。「失敗は成功の・・・」的なことを頭で理解し資料化して視覚化しているだけでリアリティーとして会得・体得できていない構図。

 そして、本気については十人十色でいいが、それがどんなテイであれ「本気」とは「本気」であり、それ以上それ以下の何モノでもない。が、鈍化している人は自分自身の「本気」を疑問視する。そして、絆とか団結とかいいながらみんなで赤信号を渡る準備を始める。が、適正な準備ができないことも心で知っているから青信号でも渡らない。いつまでたっても目の前の歩道橋が渡れない。しかも、横断歩道が無理で歩道橋を作るがその階段を上る体力もない。地下道も降りれるが登れないみたいな。そんな、横断歩道など赤信号でも車が横行していなければ渡ればいい。そんな状況でも対面に人が赤信号で待っていたら渡らない社会規範や硬すぎるモラルが実は挑戦するエネルギーを浪費させているのだろう。自分で判断するということは失敗もリスクも危惧も全部背負って一歩を踏み出さねばならい。

 想定外の失敗は心の芯に大きなダメージを受けるが、それを一瞬でエネルギーに変換する炉があれば、原子力発電所は必要ないのである。かなり論理が光速でワープしが、時間の軸も時計に合わせるに必要も実はあまりない。人生は短い、余裕のある生き方をしたいとほざいているうちに矢のごとく飛び去っていく。失敗の数だけ自分の本気が確認できたと気持ちが整理できていれば、失敗は時に中毒になり心地良くなるケースもあるが、それはただのジャンキーだから、紙一重でその場所からワープできるような脚力と地頭が必要なのです。立ち止まり考えている人のIQは意外と低い。

身体が壊れる人、心が壊れる人。

 いやいや暑くなってきました。しかし、大雨からの猛暑と日本もなかなか激しい激しい。すでに熱中症で一人死んでいるし、病院に搬送された人もうなぎのぼりだそうである。私も日差しの中、汗をかくことは嫌いではないし、汗が噴き出る肝心はどちらかと言えば好き。体力的にも、クライミングや富士山登山の練習をしているので、この程度の暑さで心は折れない。

 しかし、心が強い人は恐らく何事も身体が壊れるまで突き進んでしまうタイプだろうし、心が壊れやすい人は身体が強いと言える。しかし、どちらも弱い人やどちらも強い人は何がどう違うのか?精神を病んでいる人は結局心に余裕があるのだろう。身体にサインが出ているが、言わば、そんなのサイン程度。そりゃ生きていればいろいろなサインが出る。それに一喜一憂して精神の病だと言及できるほど、実は、心には余裕があり、自分で考えるよりも身体が弱い人なんだろう。何事もバランスだから何を基準に壊れやすい丈夫だとは出来ないが、どちらかが弱いと認識できるなら、どちらかが強いとなる。

 私自身の場合、どちらかと言うと心は簡単に壊れない。それほど能天気で無神経だと言われればそれまでだが、簡単に外部的な要因で心は壊れない。しかし、それだけに身体がいろいろ壊れてきた。両足も爆弾があり、首も腰もヘルニアがある。喉も扁桃腺が弱いし最近老眼も激しい。さらに、いぼ痔があるし、雨の降る前は1日中、偏頭痛が止まらない。しかし、昨日の一年に一回の健康診断で視力は両目とも1.5以上と計測不可能だったし、ウエストは69cmで、心臓も血液も五感も理想的な数値だった。これはどう受けて止めればいいのかと・・・さほど真剣に考えていない。なるようにしかならないと。ヘルニアもいぼ痔もたまたま。小さいことを悩んで精神が壊れている人が、語弊のある乱暴な言い方だが、うらやましい。そんなこと気にしているぐらいなら身体を動かして頭を動かして汗をかけってこと。

 自分自身が身体が壊れやすいのか、心が壊れやすいのか、どちらのタイプなのかをしっかり認識して、壊れないようにトレーニングすることが、言わば生きているということでいい。「私、心が壊れて、辛いんです。」という人、それを聞いてるこっちが辛いわ!そんなこと自分の中で解決すればいい。他言する段階で、先生に治療というテイで依存している段階で、適当な薬を飲んで心を治癒できていると誤解している段階で、その心、かなり微弱ですね。そのつぶやきは棺桶まで持っていくべきである。

 もっともっと、日本人は「反骨」であるべきだ。ビニールハウスの外は暑く寒いんです。

「やらない」が「できない」になる恐ろしさ。

 何事も変革の時代、何事も挑戦の時代と言うがそれは今も昔も同じだろう。個人が企業が国が進化するためには諦めず貪欲に挑戦し続けることが必須条件だと頭で理解していても常にどんな場合でもリスクに対する警戒心を振りほどくことはできない。その代表例が日本のプレゼンテーションシステム。企業は新しい挑戦をするために自社にはない取り組みを他社に依頼する場合、その分野に特化したビジネスモデルを営業アイテムにしている個人・企業に自社の販売促進方法を依頼する。公的な機関でもこれらのことは杓子定規に行われる通例があるが、まず、まともな審査がそこで行われることはない。つまり、大前提が緩いことを棚に上げ、なんでもいいからプレゼンテーションのテイをなせば適正な結論がお茶を濁さず結論づけられると思い込んでいるからである。しかし、企画や戦略を提案するサイドの内容とそれを厳正に審査するサイドの関係が成立しにくい側面がある。というか本質的にプレゼンテーションを誤解している場合が多く、そのほとんどが形式的に提案に対して議論する協議するというスタイルにそもそも問題の核が存在する。企業としての意思決定をするプロセスが「協議」や「会議」で適正に確定することがそもそもナンセンスなのである。それを時間だけ費やして到達した結論が最適だと思い込んでいる自分自身の判断に自身のない審査員は予定調和で結論を出す。そして、結果、挑戦しない。つまり、プレゼンテーションが「挑戦をしない」という結論に導きたいたいためだけの時間の浪費になっている場合が否めない。これにつきあわされる提案側はたまったものではない。しかし、これが経済の仕組みだから否定しても始まらないという構造パターン。これに長年携わっているといろいろな審査側の特長が見えて来る。つまり、結論、企業の組織の内部におぼろげでも結論があるとそれに呼応する提案を方向性とすることでマッチングは行われるが、いい企画があれば挑戦したいが・・・という勇気も元気も判断力もポテンシャルもない企業は辛い。それは何が辛いのか?審査を担当する人は全力で提案を吟味して展開をイメージして挑戦する価値のある内容を危機感を持って判断すしている。また、それを受ける現場の社員レベルでも実際に自分自身の取り組みとしてそのプランが「あり」なのか「なし」なのかを判断しているはず。しかし、もっともダメパターンはトップの人間に挑戦する意欲が欠落してることである。こんな状態を繰り返していると、いつしか、自信を持って会議で「やらない」と決めていることが、企業として「できない」に変わることになる。これが実は一番恐ろしい。

 これを自分自身に置き換えて考えると、「挑戦するために必要な視野」を常に持ち続け、いろいろな意味で常に「見える人間」でありたいと鼓舞している。無意味な破天荒な挑戦は無謀だが、勇気ある挑戦は必ず芽が出る。というか、そういう挑戦でしか芽は出ないことをいろいろなプレゼンテーションをしてきて逆に強く感じる。反面なんとかである。便宜上、「やらない」というのは簡単ですが、「できない」と人はなかなか口にしない。Yes, We can! と言葉にできる国民性がどこか羨ましくもある。

素敵なアイコン。

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 なんて素敵なアイコンでしょう。最近、特に思うことは、「デザイン」=「イメージ」みたいな構図で抽象的な概念でふわふわした空想と仮想だと間違っている感じを結構なところで信頼してきた。さらに、「デザインを良くしたい。」とか「もっとイメージアップを!」って言葉にする人、特に「高感度」とか「センスあふれる」とか「感性豊かな表現を」などと分かったような分かっていない言葉を口にする人、これが非常に多いのは自然だし、分からない人が多いほどこの仕事はやりやすいからいいのですが、この人達は思うに「デザイン」に飲み込まれている人達。で、逆に強く感じるのは「デザイン」=「どこまでも現実的なリアリティーの追求」ぐらいの感じでちょうどいいのかなと思っている。きれいな絵本がきれいだと感じる前にもっと実証的な見方・捉え方をしなければいけないのかなと。一般人なら飲み込まれ方だけを気にすればいいが、それを仕事にしている以上、たまに飲みこまれてもいいが、すぐに外に出てこれる破壊力というかチャンネルの切替が必要だと思いますね。飲み込まれる瞬間って気持ちいいですしね・・・。市場心理に操られやすく、社会規範やパブリックなモラルに無抵抗な正義感はまさにこのタイプ。何かを購入する時に自分の趣味趣向だと脳が本体を騙しているのに気がつかず日本の経済活動の活性化だけをしている人。パチンコに興じている人などまさにそういう意味では総理大臣より偉い。

 まぁ、そんなことはどうでもいいのですが、しかし、このイマジネーションって、とことんアカデミック。

7月4日。

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 18年前の写真。ちょうど、18年前の昨日(7月4日)にアメリカに着いた(奇しくも独立記念日)。その3ヶ月の滞在期間中のどこかで撮影してもらった一枚。場所はN.Y.からバスで1時間ぐらい走った海浜地区。この日は留学していた大学の課外授業でローカルのテーマパークと歴史博物館へのミニツアーだった。その休憩時間にルームメイトが撮影てくれた一枚。うん、若い。30歳だったのかぁ・・・。この時の心象は今でもかなりリアルに蘇る。懐かしいという感覚よりも、ここに立ち、いろいろ考えていたことが、今現在の考えと軸が同じであることがなんとも心地いい。しかし、写真(印画紙)っていいですね(これは向こうで焼いてもった一枚。ちょっとサイズが大きい。)。デジタルフォトフレームではこうはならないな。WEBのフォトギャラリーでもこの心の動きはない。何故だろう?

 また、行きたいな、N.Y. 絶対に行くぞ、N.Y. 冬のN.Y.に行くぞ!

栄光の架け橋論。

 確かにある側面では「栄光の架け橋」は素晴らしい完成度がある。それは、創造物としてではなく、コンテンツビジネスとしての戦略性の非常に高い作品と言う意味での完成度である。まず、「栄光」と「架け橋」をタイトルとして組み合わせた段階でこの作品の完成度というかひらめきレベルは60%完成している。恐らく恐らく、ただの二人の歌い手がどんな心境からかは未定として、この歌詞を自分自身の心や魂の中から純粋に創出してきたとは考えにくいし、この歌の壮大なスケール感はどちらかがイマジネーションをMAXにしたとしても見える世界観ではないように感じる。しかも、あらゆるこの時代のこの市場のニーズに対しベストマッチさせてしまった不思議な磁力は大きな戦略が背景にあったと考えてほぼ間違いないだろう。全ての世の中に出ている楽曲や作品がこの戦略のひと槍だとは考えたくないが、明らかに狙いが明確過ぎて「日本帝国万歳!」モードのようで、疑心暗鬼の賜物として捉えてしまう。

 さて、今、この時代、そもそも「栄光」とは何だ?「架け橋」という語感から何を連想する?パブリックの人達ならば、教科書通りの答をいっぱい持っているだろうが、この時代冷静に考えて、これほど「栄光」という言葉のニュアンスから遠い文化もないだろうし、「架け橋」については、理想郷・桃源郷・パラダイスの域である。それを組み合わせ、これまた得意の2人組のデュオスタイルでアナログテイストで熱唱するみたいなテイ。これは、ある意味オウムもビックリ。韓国のCGタレントのステレオタイプな演出も、胡散臭さを通り越して、芸術の域である。う~ん、モノホンはどこへ行った。恐らく、どこかの片田舎か地方都市で次のタイミングを虎視眈々を待っているような気がします。この不思議な不思議な「津波」が「竜巻」が「氷河時代」が、元の地球に変わるまで・・・。

何でリアリティーを。

 オンラインゲームが楽しそうだとは思ったことがないので、非常に残念な人間なのかもしれないが、その仮想空間にリアリティーが感じられない。逆にあらゆるリアリティーな万象よりも心地がいいから仮想空間へとなるのか。さてさてもうこうなってしまっては分からない。ここまでネット社会になり、何がリアルで何がバーチャルかなどという議論やすみ分けが意味を成さないほど混在してしまっては。って、実際は混在はしていないし、明確に定義することも分解することも考察することもできるのだがしないみたいな。モノゴトは忘れるんじゃなくて覚えていないだけ・・・と同じ。

 痛みとか後悔とか失望の方が現実的なのか、それとも、達成感とか希望とか高揚感などの方がリアリティーがあるのだろうか?このあたり、人それぞれだろうから、何でリアリティーを感じるかは個性的でいいんだろう。私の場合、それがゲームのアルゴリズムではないんだろう・・・。

大飯原発再稼働ね・・・。

 賛否両論、思考錯誤の七転八倒。紆余曲折で四面楚歌、色即是空に南無阿弥陀仏。覆水盆に還らずとも徹頭徹尾の本末転倒。温故知新と需要供給に動的平衡の雨霰。歴史から学ばない人達の多数決と企業のパワーバランスが止まらない。so many country, so many custom... 郷に行っては郷に従う心地よさ、そこのけそこのけ一茶が通る。大飯原発再稼働ね・・・。これが民主主義の真骨頂、資本主義のパラノイア。

自由の制限について。

 日本の教育が日本国憲法をベースに、引いてはある国の主義や思考パターンを取り入れた時、その編成チームがどうやら「義務」と「権利」のバランスを間違えたらしい。何に対するバランスの崩れ方かと言うと「平和」や「自由」に対する価値観のとてもベーシックな部分。最初のボタンがこのかけ方だったことで現代のこれらの価値感が捻じれているというメッセージが書かれている書籍がある。どこに軸足を置くかは十人十色でいいが、このメッセージ、10年15年前ならば、ひとつの意見で済まされたとしても、そのことはその時の「平和」や「自由」の価値感に包括されてもいいぐらい平和で自由だった。つまり、最初のボタンが間違っていたとしても、経済的にという指針が実しやかに成立している体裁であれば、この問題点はリアリティーがないと黙殺もできただろう。しかし、時代は変わっている。経済も変わっている。つまり、人間が変わっているのであることは、戦後のボタンの掛け間違いが起因であると考えるとすべてのつじつまがあうという仮説。

 まぁ、こうして文字にしている段階で全てが仮説だから、取り立てて「平和」や「自由」のいろいろな側面にスポットを当てたところで何がどう変わるという訳ではないが、全体が器がシステムが変わらないのなら、もう、立っている場所を変えるしかない。場所が変われば見える風景も変わるし、流れている空気の成分も変わってくるはず。変えられないのか変えないのかはさて置き、感じているのに見えないケイジがあるのだろう。それを温室ビーニルハウス栽培と捉えるか、集中治療室と捉えるか、カウンセリングルームだと捉えるかは自由。

 で、この「自由」について。自由とは決して無法地帯のことでも放置されたスラムのことでもない。自由とは自由を維持するためのルールが徹底している空間・エリアのこと。しかし、ルールの定義でさえ、ボタンの掛け違いが起因しているからたちが悪い。本当の自由は法律でも条例でもない正しい規範とモラルの上に成立するもっとも人間的な場所であるべき。つまり、自由を維持するための規範を会得している必要がある。本当のFREEDOMはどこにある。本当のFREEDOMはひとりひとりの人間の心の中、頭の中にあるべき。それが統治や法治で実は捻じれている。だから、教育が捻じれ、人間が捻じれ、不思議な社会が成立する。「教育こそが自由を手に入れる唯一の方法」だとは思わないが、そのベクトルに向かっている海外の国では、何よりも教育に注視していることは間違いない。さて、「教育」と「平和」と「自由」の関係性について、自分自身のライフワークや仕事を通じて何か貢献できることはあるのだろうか?なんとなく、最近はそういうことをよく考えている。

父の日プレゼントランキング2012

 いろいろなところからメルマガが届く。特にこの時期はなんと言っても「父の日ギフト」が激しい。いろいろなサイトを見てみるが総括すると、いろいろなショップが売りたいプレゼントランキングとしては、第1位が「お酒関連」で、日本酒や焼酎などが中心で、どこどこの銘酒だったり、有名なブランドのお酒。で、第2位が普段着のシャツや仕事用のシャツとネクタイのセット。第3位はタブレット端末や電子機器関係となる。そうかそうか世の中のお父さんはそのテイが平均してニーズとしてあるんだ。父の日のプレゼントだからカミさんや家族からのプレゼントとなるのだろうが、改めて毎年の恒例行事にワンパターンのプレゼントで父の日販売戦略の恩恵に授かろう肖ろうという仕組み。

 で、私が欲しいプレゼントと家族が上げたいプレゼントとは必然的に異なるのだろうけれど、実際、母の日に何をプレゼントとしてチョイスするかとなると???な私は花かスイーツかレベル。そんな親父(おやじ)が実は欲しいものは何だろうと考えると、別段、父の日だからください的なプレゼントではないのですが、世の中一般とあくまでも比較して、お酒をくれるなら美味しいスーツでいいし、シャツやネクタイをくれるなら、登山用のウエアが欲しい。で、タブレット端末をくれるぐらいならアウトドアギアが欲しいですね。そんなの自分で買えば・・・と言われないギリギリのすれすれにネゴシエイトしながら、このあたりを今年は捻じ込んでみよう・・・。

論点のズレ。

 英語のプレゼンテーションは構成がストレートでストロングである。何故だろう?言語として完成度が高いのか無駄な要素と骨子の部分が明確になる言語なのだろか?英語のプレゼンテーションを聞いていいると体温が自然と上がる。に比べ、日本語の構成はどこかもどかしい。無駄な言葉が多いのか根本的に伝えるための言語ではないような。感じてください的なニュアンスが言葉に組み込まれ過ぎ、本来の伝えたいことがボケる。つまり、論点のズレが発生しやすい言語なのだろうか。ノンバーバルコミュニケーションが叫ばれてさらに日本語の論理的な構成力が現代のような事態を招き寄せているとも考察できる。が、これは根本の部分だから、そうなるべくして・・・みたいなことも否めない。

 で、論点がズレた時、修復微調整するのか放置するかで迷う時があるが、日本語ではそれも適正に切り込むことが難しいコミュニケーションを呈している。会話の途中でそれに気が付いているのに、最後の最後まで修復できない言語とでもいうのか。論点が定まっていない人はよく文法がよじれる。明確に伝えることをどこかわざと控えているのか?とさえ思えるぐらい。なぜこうもよじれるのかと考えながら話を最後まで聴くがあきらかに二転三転している。その上、会話の流れがよどむ。しかし、論点がぶれずにこちらの言葉の理解力もウイットの部分も的確にレスを返してこられる人との会話はなんとも心地いい。尊敬してしまうし、頭がクリアになっていく実感がある。私もなかなか、会話の中に「神」の存在を引用することは稀であるが、クレバーな方との話の流れでは、「神」の存在さえもしっかり規定できているから、論点が見事にぶれない。マッチし合致するこのコミュニケーションはホントに心地いい。

 が、そうでないことが多いので、いちいちそれらを悪いストレスに保存するほど私の頭の容量は大きくないので、すぐに忘れるようにしている。忘れるという能力(能力なのか?)が板についてくると、会話している途中でこのルートはないなとゴミ箱に入れてしまう。しかし、意外な展開になったとき、どれが今捨てたものか不明になる。強いては事をし損ずるなぁ~という瞬間。

 でもでも、論点のズレが自分自身の中でも起きないように注意するのもまた大変。でも、これは最低限のマナーですしね。

量か質か?

 記念すべき3000本目の「スギノのノギス」ブログ記事は何にしようかなと考えていて、あまり、捻じ込む感じよりも・・・とか、仕事仕事するよりも・・・とか、プライベイト過ぎるのもどうか・・・とか、いろいろ考えたのですが、まぁ、3000ということなので、ずっと5年間続けてきたテイで楽な感じで気負わずに書いてみたいと思っております。

 で、よく「量より質」という言葉がありますが、この大前提は中途半端な商品や人や組織がただ数の多さを推し進めるよりも、少数精鋭で絶対数が少なくとも質の高い商品や人や組織の方が重宝だという論理が根底にあるだろう。それは日本という国のパイを考えた時の価値感で大量消費時代の到来から多種多様時代に変容し価値感が解されたこの時代にこの価値感を改めて考えると、全てに置いてこの「量よりも質だ。」という大前提で押しきれない場合が増えているように感じます。

 ただ、この場合の「量」って非常にざっくりした量であり、漠然とした「大量」という価値に対して、これまた、「質」という漠然としたクオリティーを比較しているが、そういう価値感も成立するケースはあっただろうし、今後もそのテイで考察できるケースもあるだろが、どうも本来の部分では「量」でも「質」でもどちらでもいいんじゃない?という考察もできなくない。

 つまり、「量」が必要な場合は、相対的な「量」で攻めればいいし、このケースは「質」で攻める必要があると判断した場合は、それがどの程度の「質」で目的を達成できるのかをクリアしていれば、「質」で押し切ればいい。だから、この時代、「量」でも、「質」でも、どちらがどうだとは言えない時代のような気がします。5年で3000個のブログ記事が多いか少ないか、質的に高いか低いかではなく、一人のクリエイターが仕事の合間に楽しく書き綴ったウエブログなんだから、何か別のブログと比較する必要もないし、比較されても・・・みたいな気持ち。誰かれよりも中身を練り上げようとか、誰の意見よりも深い考察をしようかとか、誰のブログの写真よりもキレイな感動的な写真を掲載しようとは全く考えていない。

 しかるに、ツイッターやFACEBOOKってどうなんだろうか?ということで言うと、世の中でもてはやされているほどこれらの機能や特長に対してあまり魅力は感じていないし、そもそも、これらのシステムというか機能というかサービスは無料なんだから、無料ツールをどう活用するかであまり無理苦理に伸び代を期待しない方がいい。無料アプリ合戦もまだまだ続くだろうし、課金システムも今後ますます規制されれば、ネットの中に存在する価値感もまだまだ多角的にそのベクトルをそれぞれの方向性で極めることだろう。で、当のそれらを活用している人間が表面的な飽和した氾濫している情報に依存して右往左往するよりも、しっかりと軸足を決めて本来のスタンスと体重の配分を確認しながら、このインターネットというモンスター(もはやモンスターでもないが、言わば、窒素みたいなもの!?)を自分に使いやすいツールにチューニングしたいものですね。肺呼吸のように。

 今朝の新聞で、某総理が「大飯原発の再稼働」に対して「私の責任で判断する。」と言っていたそうだが、誰かの責任で判断できるという問題では既にないことは日本人も世界の誰もが理解している。なのに、「私の」のこの「私」とは誰のことか?これがいつもの便宜上の比喩の引用なら新聞の活字の力はもう地に落ちているし、このフレーズの旗の元、さらに日本人が経済の活性化や将来的に安全な国を創るための必要なリスクだというメッセージだと仮にしても、それで何が現状のこの沈滞感が払拭され覚醒のベクトルが目覚めるのか?と疑問視の向こうを予感させるにしても、しても、この言葉は無力以下。

 大飯原発は私の故郷。高浜原発の恩恵も受けてきた。無碍に再稼働を否定も肯定もできないだけに、この某総理のあまりにもチープでナンセンスな言葉のチョイスに茫然である。

 エネルギー問題について本当に日本の変革を唱えるならば、本社の社員の削減数だけの「量」で偏在する価値感に訴えるより、コンビニや高速道路を走るトラックの「量と質」を日本サイズに調整してエネルギー問題と連動させることが可能な立場の人に適正にチューニングしてほしいと思います。某総理のハリボテ感はまぁ仕方ないとしても、「量」でも「質」でもどちらでもいいので、「日本」を再確認できる人にリーダーシップを発揮してほしいし、そんな自肩の強い人はすでに考え動き創造しているはず。だから、ネットワーク時代にこれらの「見えている人」に対してしっかりコミュニケーションできる「視力」を鍛えておきたいものです。その場合、「量」でも、「質」でも、どちらでもいいのかな・・・と。

長浜駅はどこへ行く!?

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 数年前に古風な外観でリニューアルした長浜駅。そして、この増築というかテナント構想。どんな外観になってどんな設備になるかは不明ですが、リニューアルされて意外にいい感じだっただけに、また異なるコンセプトの建造物が出来ることで変な感じにならねばいいが・・・。東京も京都も大阪も、日本の駅って風情がない・・・というか奇をてらい過ぎ。その時その時の有名・著名な建築家を採用するのはいいことだが、統一感がない。歴史や文化を連呼していながら、やっていることは支離滅裂に近い。それがいいか悪いかは誰にもわからないが。エゴを出し過ぎ。迷いながら建てているから建造物に時間が刻まれない。だから、同様に街に時間が刻まれない。ただただ老朽化を待つだけのハリボテになる。日本の建築技術は凄いと聞いているが、それが、現代に生かし切れていないのだろう。恐らく、本来の建造物としての真価とは別のベクトルで建てられてる可能性が高い。それが、街の日本の景観・風景を混沌とさせているとかいないとか。長浜駅はどこへ向かっているのか?そして、長浜市はどこへ向かっているのか?きっと、たぶん、手の鳴る方へだろう。

金環食とスカイツリー。

 しばし「金環食」と「東京スカイツリーオープン」ネタで活気づいている感じがする。これらは何かの象徴として人の心を捕まえるのだろう。天体を意識することや、日本で一番高い建造物という存在感が日常の価値感からいい意味でその箍を外してくれるから注目度に比例するのだろう。確かにこれらの出来ごとは印象的ではあるが、公転・自転をしている惑星なんだからそういう確率もあるだろうし、高いタワーが経済や技術のシンボル化することも別段、さほどテンションを上げることではない。つまり、古代の頃から人の「感じる構造」って変化していないのだろう。「稀な出来事」「高い建造物」をどこか古代から崇拝するという感じ方を共鳴させることで波風が立たないだろうという本能のような機能。

美人の多い石川県!?

 「実は石川県には“美人”が多い!石川県は、昔から“加賀美人”という言葉が代名詞として使われているように、美人が多い県だと言われています。特に“素肌美人”が多いことで知られています。その理由は、雨や雪の日が多く、湿気でお肌を守ってくれているから。雨や雪のおかげで、色白のキメ細かなしっとり肌を作ってくれるのですね。そして、これは周囲に聞いた話ですが、美容業界では、“石川県 の女性は基礎化粧品に支出する金額が少ない”とも言われているそうです。それだけ、 何もしなくても素肌が綺麗な人が多い、というわけですね。」というメルマガが到着したが、なるほどなるほど、根拠はありそうですが、湿気と美人と基礎化粧品の使用頻度の関係は想像以上に遠い距離感にあるだろう。しかし、漠然と「メディアにコントロールされてもいいよ」的なモードになれば、そこそこ信憑性もあるような気がする文脈。実はこの「そこそこ」が情報をテキストにする時のコツのような気がします。「美人が多いからどうなのか?」「石川県の雨量と美人の関係はそういうことか!」レベルで情報の真価へのアプローチにリミッターをかけられることに慣れている世の中の人はそのエリアに対して、否定もしないし突っ込みもしない。「へぇ~そうなの!」レベルでほどよく止めている感覚に慣れ過ぎ、否定することも突っ込む感じも実は麻痺している状態とも言える。逆寸止め状態。

 だから、メディアやインターネットの文章は相対的に「浅い」のである。ただ、紙媒体のように紙面に限界がありません!が売りだから、その絶対量は限りなく無限に多い。それを人間のあるワンカットの記憶力とか認知能力の限界をはるかに超えているから、人は「おお!氾濫する莫大な情報から自分だけの価値ある情報を得ることができた。」と誤解する。この誤解が久しく蔓延すると、「石川県は雨量が日本一だから美人が多い。」という情報程度で人は何にか素晴らしい知識というか蘊蓄を得られたと認知してしまうのである。だから、科学的な根拠も論証も、権威からのメッセージも必要ないのである。そもそも「美人」ってどこで定義するのか?「多い」って何%なのかは関係なく、ふわふわと「石川県」「雨量が多い」「美人が多い」「加賀美人」「加賀に行こう」となるのである。まるで蟻である。しかしこれが勤労意欲が頗る逞しい蟻なのです。

 これと同じ類で「戦国浪漫」や「歴史文化」という便利なフレーズがある。これも、誰も本当のことは知らないはずの史実をフィクション化して動機付けに変換する能力に長けている多くの人達が日本の観光産業はなんとか成立させている・・・みたいな構図があるような気がします。このタイプのユーザー達が全て歴史の真価を紐解き始めたら、このふわふわした価値感は確実に崩壊していくだろうし、つまり、イマジネーション豊かな人(真価を問わない解釈能力が広く浅い人)が世の中的に多くてメディアの人達がそのツボをしっかり押さえて情報をコントロールできてきたから水が清く魚が元気だというわけ。その水が強すぎたり淀んだり支流が増えると魚も散るということ。

 で、どんなルアーを投げれて、どんな魚に出会いたいのか?投げるポイントとタイミングとモチベーション。言わば自然相手に戦略を練っても自然はそんなに簡単ではないから、想定以上に苦労することを大前提にしておきたい。しかし、時にいきなり視界の外からサプライズが飛び込むこともまれにある。つまり、人間もリアクションバイトがあるということかな。たかが、「美人の多い石川県」。されど、「美人の多い石川県」なのである。

病気は人を選ばない・・・。

 ある病院・医学の分野の