作曲への道 アーカイブ

薬指ぃぃぃぃぃぃ!

 どうしても作曲するためには鍵盤を習得する必要がある。取り組みはじめて1週間。簡単に挫折モードになってしまい、何回もレスポール(ギター)でやればいいじゃん!とくじけそうになっています。しかし、今回はどうしても鍵盤を習得する必要がある。それは、和音(コード)をしっかり理解しながら、「弾く」必要がどうしてもあるのです。

 そのための第一関門が、いわゆる「右手左手問題」です。自分ではそこそこ器用な人間だと思っているし、パソコンのキーボードならどの指も的確に動くのですが、鍵盤に10本の指を置いた瞬間に肘とか肩とか二の腕あがりがギュウゥゥゥっとなってしまいます。特にこれは自分の指なのかってぐらい「右手の薬指」が動かない。頭からちゃんと信号は行っているはずなのに、ピクピクっとなるだけ。お、おいっ!こんなに僕の右手の薬指はこんなポンコツだったのか!このイライラ、なんでしょう、初めての感覚です。

 例えばエレキのスケールの運指なら左手だけに集中できるから、何回でも徹底的に動かせばよく、むしろ、ギターの場合は右手のピッキングの方が難易度は高い。ちょっと変わったコードでも慣れれば押さえるだけなので大丈夫、演奏は成立する。しかし、右手のピッキングはニュアンスやフィーリングを出さなければならないし、ということでテクとしては難しい。

 それ以上に、鍵盤の上の右手の薬指が動かない。これは頭で考えている場合じゃなくって、とにかく、徹底的に「弾く」しかないのです。ま、絵でも文章でも話術でもなんでも「慣れろ!」が鉄則。ピアノの道を歩んでいる人は365日弾いているわけですから、デザインの仕事ばかりしている人間が、ピアノ(鍵盤)に挑戦するって無謀さを考えると、薬指が動かないぐらいの壁は仕方なし。ブラインドタッチに挑戦していた頃を思い出しています。

読書のメリット

 読書の特徴は能動的に著者の意図を読み解く経験と訓練を手軽に積むことができる利点だと思います。人と対面する状況やテレビやインターネットなどのメディアと比較し、自分で「読もう」としなければ情報や知識は入ってきません。その上で、文章の背景を推測する視点を持つことによって書籍の内容と著者の意図を推測しながら、自分の解釈と想像力で抽象化させつつ理解・反芻を繰り返すためのツールであると思うのです。なんか、文字ずらにするとややこしい言い方になってしまいましたが、気軽に整理された情報を知ることができる便利な成果物だということです。僕にとって「作曲」の世界は未知の世界で、踏み込みたくとも踏み込めない、踏み込む入口が分からないと、ただ、楽曲を聴くことを楽しんできました。エレキベースやエレキギターを習得して演奏することはそこそこ楽しんできましたが、「作曲」となれば巨大で分厚い壁がそそり立ち、いくら興味があろうとも好奇心を奮い立たせても、その壁の向こうには行けないのだろうと思い込んでいました。ま、それも勝手な思い込みであり、正確にはそれほど自分で習得して独自の楽曲をつくろうという必要性がなかったのです。やろうと思えばいつだったできたことなのに。だからと言って今からこの年齢(55歳)でトライアスロンに挑戦しようとか、役者にタレントになろうなどとは考えない。つまり、どこかで自分に都合の良い壁をつくり言い訳をしてジャッジをしていたわけです。その壁を打破してくださったのが「作りながら覚える3日で作曲入門」の著者「monaca:factoryさん」です。ありがとうございます。

 さて、まだ本格的な「作曲」についての記事は整理できておりませんが、この「作曲への道」というブログのカテゴリーテーマでしばらく記事を書いていこうと思っています。と、断言しながら、今後、作曲の記事が書かれていなければ増えていかなければ、そういうことだと思ってください。ただ、今回の作曲への挑戦は目的が明確で強い必要性を感じていますし、何よりも入口が見えたので、しっかりと掘り下げていこうと思っています。「絵を描く」と「曲をつくる」という行動(行為)はとても似ていると誰かのブログで読みました。まだ、その実感はありませんが、いずれ「絵を描く」ように「自分の曲」がつくれたらこれまで観てきた聴いてきた世界が少しだけ変化するのではないだろうかと期待しています。

 まずは、「C」「F」「G」「Am」「Dm」「Em」をレスポールと鍵盤で鳴らしてコード(和音)の展開を実感していこうと思っています。当然、「C」KEYのスケールをつなげ自分の感覚でメロディーをつくるところから始めてみようと思っています。

人気のYouTuberさん達は

 最近、人気のユーチューバーさん達がテレビに登場する機会が多い。そんな皆様とすでにテレビで登場している人気の著名人・有名人とは何が違うのだろうと考えてみた。これらのユーチューバの皆様は独自のYTチャンネルをつくり、自分で企画を構想して映像を撮影し編集し公開したからテレビに登場するような人気が生まれた。もし、こうしたいああしたいと考えているだけじゃ独自のユーチューブチャンネルも生まれず、ビジネスとしても成立せず、広く多くの認知も生まれなかった。しかし、それはテレビの世界でも同じで、現在、有名になってタレントとか俳優とかアナウンサーとして最前線の仕事をしている人達も「たまたま」「偶然」ではないのだ。そうなるに値する何か「知識」「技能」「経験値」があったのだ。ということは、例えば小学生の将来の夢が、将来なりたい仕事が「ユーチューバー」だったとしても、野球選手や飛行機のパイロットや女優や大企業の社長だったとしても、アプローチは同じことになる。そもそも、「知識」「技能」「経験値」などの特別なポテンシャルがあり、誠実に確実に努力を重ねた人に、何かしらの「幸運」が連鎖し、好機が巡り本人がそれをモノにした結果のひとつが「人気」という「成果」なのだ。ただ、この皆様は何かを始めた頃から「人気」が欲しかったわけではなく、それはあくまでも結果なのだ。そんな皆様がそうでない皆様(自分も含む)と何が違うのだろうか?諦めず努力さえすれば「そんな皆様」と「そうでない皆様」の間の境界腺を越えられるのだろうか?努力が足りない、幸運が足りない、ポテンシャルが足りないなどと、自己弁護している暇があれば、きっと、たぶん、何かをつくるらねばならないのだ。

 ただ、この「ねばらならい」という意識も厄介で、「ねばらならい」でつくったモノに世の中の不特定多数の方が反応はしてくれない。見事に反応してくれはしない。心の底からこみ上げてくる衝動のようなエネルギーに正対し素直に純粋に何かを生み出してこそ、なのだろう。うん、邪念からは何も生まれないのだ。毎日、いろいろなYouTuberさん達のチャンネルを観ながら、そんなことを感じています。勿論、テレビで活躍している皆様も基本姿勢は同じなんだろうけれどYouTuberさん達は独特独自の世界観を感じます。一方、テレビの映像にはどこか「仕込み感」を感じてしまいます。恐らく、それは微妙な違いであり、とても小さな違いなんだろうけれど、実は、とても重要な根本的な違いなのではないだろうかと。