つくり手の心得 アーカイブ

つくり手の心得#012「リアクション」

デザインの仕事はひとりでは成立しない。
多くの人にエキスパートの皆さんにサポートされながら、
クライアント様からも専門的なアドバイスを頂きながら、
試行錯誤して生み出すモノ。

自身のテンプレートやセンスだけで仕事が完了はしにくいので、
常にいろいろな情報をリサーチする姿勢を忘れてはいけない。
と言いつつも、つい軽率な姿勢で意識が下がると決まって
トラブルや単純なケアレスミスを起こしてしまいます。
そんなトラブルをしたり壁にぶつかる時は決まって、
自分本位になっていることが多い。
これは言い訳ですがつくり手も人間、常に全力投球は難しいし、
人の評価や意見をしっかり受け止めることができないメンタルの時もある。

しかし、理想はどんな時もニュートラルな状態をキープして
好奇心や探求心を失わない姿勢が理想である。

で、そんな姿勢や意識が鈍くなっている時に限って、
気をつけているのが「リアクションが薄くなること」である。
まず、仕事は電話やメール、打ち合わせ中の会話から始まるケースが多い。
些細な相談のひとことが大きな仕事に繋がるケースも多いし、
最初はクレームだった内容が気がついたら新しい案件の話に
変わっていたということもある。
まして、通常のお問合せやご相談事であれば、
なおさら、薄いリアクションは絶対にご法度。

「お前、やる気あんのか?」とはならないように緊張感をキープしなければならない。

では、「熱いリアクション」とはどんなモノか?
単に声がでかいとか動きが激しいという意味ではない。
勿論、死体のような表情で「ちゃんと聞いてますよ」はありえないが、
ポイントはしっかり聞くこと。
聞けないのにリアクションはストライクゾーンから外れるので、
まず、しっかり落ち着いて聞き取るヒアリングが大切。
その上で、相談内容やお問い合せ内容のルート上で
的確な感想や意見や提案や構想を完結な言葉で伝えるのが
良質なリアクションだと思っています。

ま、文章にすればたかがこれだけのことなのですが、
なかなか、いろいろなポテンシャルが必要。

例えば、相手の相談内容がまったくの知らない内容だったら取り付く島がない。
日常会話程度ならどうにでもなるが、
仕事の依頼・相談を頂いているのに
「申し訳ありません。その知識はないので後日…」なんてことは絶対にありえない。

そんな場合でも無知であることを素直に認め
ご相談内容のディテールをしっかりヒアリングし、
別の事例やどのような構想のゴールを描いておられるかについて
一連の手順を拝聴する必要がある。

若い頃、そうならぬように事前にいろいろな予備知識を準備していても、
まったく話題がそのゾーンで膨らまなかった場合、頭の中は白紙になる。
むしろ、仕込むよりも日頃からのリサーチだとか向学心が自肩を強くする。
このような場面では応用力や柔軟力こそが良質なリアクションを生むのだ。

だから、つくり手らしい「リアクション」ができるようになれば、
仕事は恐らく途切れることはないだろう。

つくり手の心得#011「触覚」

普段、人間は情報認識の約90%を視覚が担っていると言われています。
そして、他、聴覚、触覚、嗅覚、味覚が残りの約10%を認識している。
しかし、割合が低いといっても、どの感覚も非常に大切な感覚で
触覚に関して、もしモノを掴む感覚が無かったら?
痛みを感じれなくなったら?
身体のバランスがとれなかったらと考えると、
生きるために非常に重要な感覚だということがわかります。

逆に普段はなかなか実感しにくいゾーンですが、知れば知るほど興味深い感覚です。
触覚のみならず、もし1つでも感覚を失ったら、
生きている実感は今より極端に低くなるでしょう。

科学的に触覚は、まだ謎多く未解明です。
産業や表現への応用と経験則に基づいている段階といえます。

「触感」というキーワードは、触覚を中心に、諸感覚や記憶、言語などを統合した
主観的な質感をさす単語として触覚と区別しています。

実は触感を想起させる方法は身の回りにありふれていて
小説の巧みな描写など、まっさらな新雪を踏みしめる感じ、
黒板をツメでひっかく感じという言葉で、
多くの人は自分が歩いた時に感触、または教室などの光景を想像します。
また、CMなどの映像表現で冷たさや温かさの様な皮膚感覚を想起させられ
購買欲をそそられのも触覚の作用です。

ふわっとした湯気やみずみずしい水滴が滴る様子などは
まさに触感的表現といえるでしょう。
このように触感は非接触でも有効なのです。

このように触覚を用いた表現を行なう時に、
実際に触る指先の感覚のみ意識するのではなく、
頭の中に立ち現れる「触感」を意識することが大切です。

つまり、体験は諸感覚の統合的な知覚であるという視点で解釈することで、
豊かな広がりを持った触感的表現(アウトプット)が可能になるのです。

この感覚、もし、視覚と聴覚情報だけしか蓄積できていなければ、
連想・想起・イマジネーションは非常に小さく細く弱くなるでしょう。

つくり手の心得#010「頼る」

 クリエイターやアーティストってどうしても「独自性」とか「個性」が先に立つ印象があると思うのですが、僕が知っている超有名な日本の重鎮と呼ばれているクリエイターさんとかアーティストさんって意外と普通なキャラです。学生時代にデザインや美術の専門書に登場していたような方でも、機会があり少しだけ対面でお話しすると、意外と印象は普通でした。作品はとても個性的で強い表現を試みている方でも。テレビで観たり書籍で読んだりした印象とは対極にあるキャラだったことが多いです。そうそう簡単に人間の本質が表に出るはずはないし、そういう方のエネルギーって分散しているんじゃなくて、一点にフォーカスしているからこそ強く優れていいるんだとその時は解釈していましたが、むしろ、独自性のある作品とつくったり個性的な発言や行動をアウトプットするために人間の本質は普通(ニュートラル)であることが理想なんじゃないかなと捉えています。

 で、「独自性」や「個性」という印象からか、常にひとりで考えて一人で行動して強い作品をつくっているような連想をしがちなんですが、実際はその方の相方というか影でサポートしているパートナーがとてもつなく優れている場合が多いです。それは、会社でいうところの社長と副社長とか専務という関係ではなく、漫才コンビのような関係です。で、自分のキャラをその相方がとことんまで引き出してくれているわけです。お互いがお互いのキャラを理解していてい理想的な化学反応の結果、成果として世の中に優れた作品をアウトプットしているような手順じゃないかと思います。

 昨今、インターネットや一般的なマーケットではマスを最優先します。とにかく分母を多めに獲得した上で、分子であるコンバージョン(成約・実益)の数量を上げていこうというシクミ。過去の成功事例から割合を算出して、これだけ稼ぐためにはこれだけの顧客層を確保して、これだけの顧客層を確保するためにはこれぐらいの予算でこのクラスのアウトプット(作品・成果)をつくる必要があるという理屈です。また、予算から逆引きして、過去のテンプレート(理論・方程式)から新規顧客数を算出して事業の成功の基準にするシクミ。これられは一見、的を得ているように思えますが、何かをアウトプットする時、本質的な賛同者、強い信頼関係にある存在って、実は一人で充分なんです。

 つまり、つくり手が必要な存在は「相方」と「理解者」のみで充分なのです。「相方」と「理解者」が同一人物でも複数でも必ずどこかの段階でストレスや必然性(プレッシャー)などの違和感が発生するので、つくり手を中心にそのエネルギーや思考が伝達する経路は2本でいいと思います。SNSの友達も同じで、10万人フォローがいても理解者が0だと確率は0/100,000=0%ですが、本質的な理解者がいれば伝導の確率は100%なんです。

 だから、自分を曝け出せる「相方」と「理解者」を必ずそれぞれひとりずつと出会うことを意識していると、本来、自分がやらなければならない行動や考えなければならない思考のルートが自然に見えてくると思います。

 その相方や理解者を見つけるコツは、思い切って相手の胸の中に顎の下に飛び込むこと。つまり、とことん頼ってみることじゃないかと思います。自分の弱さを露呈できる存在を見つけることこそが実は大切なことなのではないでしょうか。「独自性」「個性」だけを自分の内側に抱え込み駆け出しても、数歩で地雷を踏む場合が多いです。

つくり手の心得#009「苦手意識」

 つくり手は比較的主張が強い。個性的でなければならないが、仕事として取り組む以上、協調性も必要です。そんなこと誰でも知っていること、分かっていることなのですが、実際、仕事上の人間関係のトラブルはほぼこのつくり手特有の苦手意識が作用しているような気がします。無個性なクリエイターってありえなし、協調性ばかり重視してイエスマンでもデザインの仕事は成立しない。その割合いとか配分が非常に難しいと思います。

 この苦手意識は個人のいろいろな経験値や独自の知識が大きく作用しているはずなので、やはり、普遍的な解決策はないような気がします。だからと言って放置していても問題は解決しませんし。で、僕なりのこの苦手意識を克服するコツとしては、すべて受け入れるようにしています。無理難題や乱暴な理屈についても感情論を抜くと意外とシンプルな要望だったり要件定義だったりする場合が多く、こちらがただただ苦手意識が強めに作用し過ぎて過剰に反応しているだけというケースも多く、とにかくすべて一回飲み込むように胃袋を鍛えようと努力してきました。

 結果、大概のタイプ・ケースを飲み込めるようになった分、少しセンサーが麻痺しているような状況でもあります。本来、敏感に危険信号を察知しなければならないセンサーが馬鹿になっているので、肝心な重要なポイントも一緒に消化(忘却)してしまう場合です。

 つまり、メンタルなお話ではありますが、結局、心の健康管理に尽きるような、良い意味で気楽に呑気に良い加減なテンションで乗り切れるように、逆にスキルやテクニックだけは常に磐石のコンディションにしておくことに留意しています。確固たるレベルのテクニックは絶対に誰も裏切らないのです。

つくり手の心得#007「背伸び」

 いろいろな捉え方があり、結果、ネガティブな蛮行になってしまっては無価値なのですが、つくり手として少しだけ「背伸びする」「偽る」「傲慢になる」「わがまま」「乱れる」「出る杭になる」「利己的になる」という意識は大切です。

 ただ、仕事を展開する以上、円滑な人間関係を崩してしまっては本末転倒ですから、「少しだけ(良い加減)」がポイントです。良い意味で「非常識」「反セオリー」「ルール否定」は必要だと思います。これも解釈を変え、観点を変えると、「チャレンジ」や「探求」などの意識に置き換えることができますし、自分の枠を超えてみるという自己啓発・自己探求にも通じると捉え、僕は人間関係が炎上しなように注意・配慮しながらも、スレスレ、この「背伸び」に取り組んでいます。だって、「お前に相談しても当たり前のことばかり言うじゃん!」とか、「そんなこと誰でも提案するぜ!もっと斬新で奇抜なアイディアが出ないの!」なんて言われるの悔しいじゃないですか。「なんだ、クリエイターだからとか偉そうなこと言いながら、その程度なんですね!」って思われたくない、という妙な過剰な危機感があるのも、つくり手としては必要な素質なんではないでしょうか。

 ま、これはこれでプレッシャーでストレスになりますが、この程度ならいつくり手として意識しててもいいのかなと思っています。ただ、くれぐれも悪意のある蛮行サイド(ゾーン)へ傾いてはいけません。ちょっと頑固で偏屈だけど誰かにとって気さくな変人!?そんな「便利な人間」を僕は目指しています。

つくり手の心得#006「水平と直角」

 私達は日頃から水平・垂直・直角を重んじる世界に生きているので、少しでも、例え僅か1度でも傾いたり、歪んでいると違和感を感じる。感覚的に不安定さを感じるのだ。しかし、この作用を利用して意図的に際立てたい場合は少しだけ紙面の上のパーツを傾けるという手法がある。必ずしも安定した構図や画画が良質なデザイン表現とは限らないのである。

 例えば、ポスターのロゴ。大抵、吟味するのは位置とサイズ感であり、時計廻りに15度傾けることはよほどの意図や狙いがなければしない。水平と垂直を徹底的にキープすることをセオリーと捉え、傾けることはある意味、タブーなのだ。

 以前、伊勢志摩にある観光ホテルのパンフレットを制作した時、その頃はまだ制作会社にMACが導入され、アナログ作業で版下を制作していた時代。文字の印画紙を台紙に水平・垂直に貼る技術はグラフィックデザイナーが仕事の完成度を上げるためにマスト(真骨頂)だった。少しでも狂っていれば徹底的に水平・垂直を出していた。パンフレットのデザインに限らず、新聞広告でもポスターでも同じ。この基本ルールについて東京でグラフィックデザインを始めた頃にもディレクターの上司から徹底的に注意され叩き込まれたので、僕は完全に水平・垂直があたまりまえで、傾いていることはデザインの仕事において最大の蛮行だと神経質になり過ぎていた。むしろ、水平・垂直さえキープできれば、文字のサイズと配置については感覚的な部分の吟味になるので、簡単と言えば簡単で安易に捉え始めていた頃だった。

 ある日、制作途中のパンフレットデザインをクライアントに見せたとき、
「う~ん、なんかイマイチですね」と言われた。
 紙面的の中に配置した、キャッチコピー、リードコピー、本文、そして、写真やイラストやロゴなど。僕の中では要望を100%反映できているという自信があったし、どこにもスキはないという確信があったのだが。この「なんかイマイチ」という反応について、僕は極力、強く抵抗しない主義をとっている。いくらつくり手が完璧だと一方的に思い込んでいても、クライアントが「イマイチ」だと評価した場合、そのデザインは「イマイチ」なのだ。アイディア、工夫、オリジナリティー、意図、時代性、テクニックなどなど、何か足りないか何か余計な要素が画面の中に必ずあるのだ。

 で、僕はひらめいた。クライアントを会議室で待たせて、自分のデスクに戻り、制作途中の版下のキャッチコピーを時計廻りに15度程度傾けた。上下左右のスペーシングを吟味した位置にキャッチコピーを貼り込み、その版下をコピーしてクライアントに見せた。そのコピーを見た瞬間、モヤモヤしてたクライアントさんは
「よし!これでいきましょう!」と満足してくださった。

 結果、そのパンフレットは次の年のデザイン年鑑に紹介して頂き、僕の中でひとつの大きなグラフィックデザインの考え方や表現力の幅が少しだけ広くなれた経験になった。この経験が当然、DTP作業、イラストレーターのグラフィックデザイン制作にも有効に作用して、水平・垂直で一旦、レイアウトを完成させてから、自己分析後、イマイチ感が生まれたら、いろいなパーツを意図的に傾けたり、歪ませたり、変形させたりしてチューニングをしています。

つくり手の心得#005「資料探し」について。

 デザインの仕事はつくり手の知識・技能・経験値が売りなのですが、それだけでは多様な仕事を効率良く成立させることはできません。

 それは「資料」です。

 例えば、図鑑のリアルイラストレーションを描くという案件が発生した時はインターネットのなかった時代だったので、図鑑を探す、専門書を探す、そして、実際、描く実物が入手できるなら入手するか、写真撮影をする。実際、図鑑で同じモチーフが探せたとしても、専門家の見方はイラストレーションのクオリティーではなく、モチーフを徹底的に正確に描くことです。色や質感や構図は勿論のこと、どういう構造になっていて、それぞれの描くパーツの比率を指摘されます。思い込みや予備知識は全く参考にならないので、資料通りに描くという手順でした。

 今の時代、ネットで画像検索するば簡単にたくさんの写真が入手できます。20年前とは比較にならないぐらい恵まれた環境です。資料探しの時間効率はネットがなかった時と比較すると1/10ぐらいの感覚です。しかし、案件のモチーフが決まっている状況ならこれで資料探しは成立するのですが、ざっくりした提案型の企画案件の場合、どんな資料が適正なのを自分なりの知識と経験値から想定したアイディアをベースに資料を探す場合はネット時代だとしても苦労します。それは、資料を探す前段階である程度の「予想」「推測」をしなければなりません。この状況でまだ制作するデザインについて正解が見えていない状況ですから、広めの「予想」をしなければなりません。つまり、つくりたいデザインの参考になることが必須条件なのですが、参考になるだけでも足りないのです。

 構想している段階ではかなりイメージが大きいので、どの部分の資料なのか、もしくは新しいアイディアを得るためなのかを広く多めに探す必要があります。ここでポイントになるのが、検索キーワードの選択です。まだ、構想の段階で明確な言葉が選択できていない、曖昧なイメージがある段階ですから、当然、キーワードも手探りになります。その上、どれぐらいの量の資料を集めたら充分なのかも正解はありませんしマニュアルもありません。これはつくり手のテクニックでもあり、ひとつの仕事を完成させるためにとても大切な手順なのです。

 仕事の効率をより上げるために、イメージと言葉を連携・相関する日頃からの意識が大切ですし、時間があれば、どんな仕事に使えるか分からないが、とりあえずこのチラシは何気に良いのでもって帰ろうということの繰り返し、積み重ねが習慣となります。

 知識・技能・経験値と合わせて「資料」はほんとに大切です。

つくり手の心得#004「作業スピード」

 僕は「せっかち」なのでいろいろ仕事がタイトになってくると、すぐに仕事が「雑」になる。どんな仕事も公平に集中することが基本だと頭で分かっていても、いろいろな条件(優先順位など)を勝手に振り分けて、丁寧さや慎重さの割合に格差が生じる。生じるなどと、他人事のような言い草になってしまうが、実際の仕事現場って多かれ少なかれそんな感じで優先順位を決めてしまうことってクリエティブワークの「あるある」だと思うのです。

 なんせ、手は2本、時間は一定の速度で進んでいるので、1時間に仕上げなければならないデザインワークが1本の場合と10本の場合では当然、ひとつにかける時間が1/10になる。で、つくり手(クリエイター)に求められるスキルが「作業スピード」なんです。

 昔、広告代理店の制作会社で仕事をしてた時、代理店のディレクターさんに「遅い仕事は学生でもやりよるで!」と仕事している裏でガミガミ言われながらデザインをつくっていた。
「そんなガミガミ言うならお前がやれよ!」という言葉を飲み込みながら、必死に手を動かしていました。当然、間違いやケアレスミスが多くなるし、デザインの完成度は上がらない。吟味してチューニング(微調整)する時間が貰えないからだ。1年中そんな仕事のペースだったから、同時に鍛えられたとも言えなくないが、僕は「せっかち(雑)」になってしまった。

 この姿勢、一時が万事なので、いつか師匠のように物静かにゆっくりと腕を組み、デザインの熟考に浸るような佇まいが醸し出せないものかと感じつつ56歳になってしまった。

 さて、そんな経験の末、僕は「せっかち」が身体に沁み込んでしまい、「雑」になることが多いと自己分析するようになってから、無理矢理、仕事の作業スピードにブレーキをかけ、シフトダウンするよう努力しています。当然、そうすることでたくさんの発見もあるし、ケアレスミスも激減。そして、デザインのチューニングポイントも良く見えるようになったし、根本が捻れていたり方向性がスタートラインからぶれている場合なども発見できるようになった。

 しかも、「せっかち」なので、そこそこの作業スピードなので、1ギアシフトダウンしても速度は一般的な速度よりも落ちていません。それを自覚した事例としては、以前、テレビ局の映像用ボードの制作をしていたディレクターさんの仕事をさせていただいていた際、毎週、数十分単位のスケジュールでデザイン制作に取り組んでいた。ディレクターさんからのご要望案件には必ず仕上げ時間の目途が記載されていて、それ以上時間が経過していまうと、「もっと早くできないですか?」と警告を受けた。さすが、民放のテレビ局の番組制作の現場で、テレビ画面の制作オペレーションを次から次へと仕上げ、放映するとなれば、「トップスピード」と「完璧完全な仕上げ」を両立しなければならなったそうです。そんなエキスパートの方と長浜にいながら仕事を出来たのはとても幸運だった。最初の数ヶ月はまったくスピードも完成度も上がらず、苦労したが、半年ぐらいから、なんとなくポイントが分かり、警告を受けなくなった。たまに慣れてきてケアレスミスを連発した時は激怒されたが、それでも、良質な経験だったと捉えている。

 つまり、デザインのプロなんだから良質な「知識・技術・経験値・感覚・人格」はあたりまえ。その上で、作業の「スピード&品質」もとことんまで追求しなければならないのです。「これでいいじゃん」ってなってしまったら、そこで「成長」も「進化」も、さらに「デザイン力」も止まります。

つくり手の心得#003「型にはめない。」

 つくり手ならばデザインを構想する時、「型」にはめてはいけないと僕は考えている。

 若い頃、特に固執していた「自分のスタイル」という意識だ。ビギナーだからどうしても早く一人前になりたいと考える。今、56歳になって30年以上もデザインの仕事に従事してきたから一人前だとは当然、考えていないが、アナログ時代からデジタル時代、WEBサイトデザインから映像・動画制作などの仕事に携わってくるとそれぞれの段階で「自分のスタイル」つまり、「型」の有無や効果を意識してしまうことがある。

 それは、仕事を納品した瞬間に強く意識する。

「もう少し、あそこはこうだったかな?」
「クライアントさんはOKとおっしゃったが…」
「また、同じ失敗をしてしまったが、何とか納品できたぞ!」
 あの手順、この効率、その完成度、一様に仕事が完成して納品した瞬間、自分のスタイルらしき一片が一瞬、チラリと見えた気持ちになる。でも、次の瞬間、「まだまだ、これじゃない!」と気持ちが次の仕事に向け切り替わる。勿論、そこまで全力でデザイン制作に取り組んだからこそ、次のシーケンスが見えてくるのですが。さて、「これでひとつ自分の型ができたかな」とは意識して考えないできた。

 結果、デザインを「型(スタイル)」として捉える意識を消すことができて、現在に至っている。

 ひとつのスタイルで仕事を長年続けている友人やメジャーなクリエイターが「これば僕のスタイルですね」などと雑誌のインタビューなどでおしゃっておられるのを聞く読む度に、僕は思う。
「それはちょっとデザインじゃないのでは?」と。
 同じ思考、同じ手順、同じ行程でデザインを制作していたとしても、最初から「型」に流し込むだけなら、それはオペレーションじゃないかと。どんな状況でも仕事のスタートラインに立った時は新鮮な気持ちでいたいし、過去の失敗をいっぱい悔やみながら、今回こそは「新記録を出すぞ」と短距離走のようにピリピリしたのです。

 確かに満足感や達成感は残るものの、その余韻に浸るより、パチンとスイッチを切り替えて、次の思考にダイブしたいと思っています。過去の、世の中のクリエイターの皆様の「型」を知ることはとても重要なことですが、つくり手ならばコピーマシンになってはいけない。むしろ、変幻自在のアウトプットマシンを目指したい。それが良質なデザインに対する意識だと思っています。

つくり手の心得#002

 つくり手は大きく二つのゾーンに分けられる。それは料理や建設業などの「アナログワーク」とプログラムシステムの構築やWEBサイト制作などの「デジタルワーク」。毎日テレビやインターネットの情報を観ていると比較的、「アナログワーク」はコロナ問題の被害が大きく、「デジタルワーク」は比較的、被害が少ないような印象を受けている(部分的な捉え方だと思いますが)。当然、このような状況でも被害を受けていない仕事があり、医療現場の皆様は過酷な状況を強いられている。例えば芸能人・タレントの皆様などが自宅のカメラで撮影した映像とテレビ放送を連動させたり、スタジオ撮影でもお互いに距離を置いた番組づくりに取り組まれている。人間と人間が一定の距離を置き、孤立しなければならない状況でどんな仕事を選択してきたか、選択するのかが、生計を立てる経営を存続させるための重要な選択になる。「人が動く」ことが景気や経済を一定のレベルに維持するために、これほどまでに必要不可欠な条件なんだと痛感しています。

 そこでつくり手はどのようなことを心得(意識)なければならないのか?

 その一つにアナログワークとデジタルワークを組み合わせることだと捉えています。例えばラーメン店さんなどの場合、コロナ問題がない状況で仕事のルーティーンは朝仕込み、開店時間になればお客様が来る。ラーメンをつくり閉店と同時に一日の売り上げの締めをして終了。この手順を続けながら、より美味しいラーメンを研究し、認知度を広げるために広告やチラシをつくる。顧客満足を高めるために店舗の施設や備品をより良質にしていく。これが一連の流れだったのであろう。私はたまの外食で来店するレベルだからラーメンのつくり手(料理人)さんの苦労や経営者としての満足感は分からないが、コロナ問題で「従業員の給料」「銀行からの借金」「毎月の家賃」「自宅のローン」が滞るという悲痛な店主の声をテレビで聞くと、人間と人間が触れ合う(集まる)ことを規制されただけで、「ラーメン」という商品がここまで売れなくなるとは、人間の衣食住の思考パターンって結構簡単に(現実は簡単ではないが)変えることができるんだと感じました。

 つまり、今までこの経営状況がずっと続くと思っていたことでも、人間は状況が一変すれば(変えざるを得ない状況に限るが)変えることができるんんだと。よく、政治家が「生命」と「経済」のどちらを優先するか?という言葉を吐いているが、「生命とは経済」であり、「経済とは生命」である。

 これまでのある意味安定した平和な普通の状況ならば意識しなくてもいいことが、この過酷な状況では露呈するわけです。それは人間の「弱さ」かもしれないし、「強さ」なのかもしれません。このGWは仕事場でカミさんと二人、孤立した状況で何が足りて何が足りないのかをしっかり整理したいと思っています。この規制の状況はここ長浜でも5月6日から5月31日まで延長されました。さらに夏休み、年末、翌年とこの状況が続く可能性もあります。

 つくり手としての「弱さ」と「強さ」をしっかり意識して立ち向かおうと思っています。

つくり手の心得#001

 一言で「つくり手」と言ってもこの世の中にはいろいろな仕事がある。

 パテシエや料理人さんもつくり手だし、建築物や家具や伝統工芸品などの職人さんもつくり手。精密機械や電子機器の製造業務も経営コンサルティングや教育現場の方も人づくりという観点ではつくり手である。勿論、農業に従事しておられる方も野菜や果物をつくっているつくり手さんである。また、アーティストさんも独自の世界観で作品をつくってビジネスを展開している。絵画や彫刻、小説や映画や舞台などもすべてつくり手である。

 これらの皆様に共通していることは商品(作品)を創造していること。

 自身の感覚と技術と知識で創造した作品が誰かに評価され、評価に見合った代価を得ることで生計をたてている人がプロのつくり手である。その皆様はプロとして代価を得るまでにいろいろな方法で誰かに評価していただくための感覚と技術と知識を取得してプロになっている。先天的な才能や後天的な努力や鍛錬が自分の中に蓄積しプロとして成立するのです。

 例えば、デザインの仕事場合、プロとして制作会社で仕事案件に取り組む前の準備段階として専門の技術や知識を学校で学び習得するケースが多く、いきなり独学でグラフィックデザインを仕事として取り組むのは難しい。当然、制作会社に採用され雇用契約できるまでにはいろいろな壁を乗り越えなければならない。ただ、学生時代にいくら優秀で与えられた課題に対して高い評価を得ていても、制作会社に勤務して同じ高い評価を得ることは別次元だし、むしろ、学生時代に優良でなくとも、現場でポテンシャルを発揮して成果を生み出し伸びていく人も多い。

 ただ、つくり手としての素養は専門学校での実技実習の前段階として、いくつか特定の分野に進学する決意や覚悟を決める機会が必要だ。それは何か学校時代で絵画や書道などの作品で高い評価を受けたとか、専門家から高い評価を得て進路を決意したというケースもあるだろう。単に絵を描くこと、立体作品をつくること、自己表現について特定の高揚感や達成感を得たから将来の仕事として選択したという流れではなく、どこかの段階で他人から高い評価を得るというプロセスがなければ、直感的にプロのつくり手として一人前になろうという感情は生まれない。しかし、つくり手になるためには具体的な専門的な知識や技術や経験値を習得する前段階でどうしてもクリアしておかなければならない局面がいくつかあるようだ。僕の場合、それはかなり幼い頃で些細な出来事だったが、その些細な出来事がなければ、デザインの仕事以外の仕事を選択していた可能性が高い。

 それは「他人から否定された場合の免疫力」である。

 例え些細な高評価であれ、その評価以外は無視か否定的な評価が多い。特に子どもの頃ならば、同級の友人全員から称賛されることはない。一生懸命描いた写生画に対して無反応だったり、技術的に足らない部分のみを激しく指摘されて落ち込むという局面の方が多いからだ。
でも、つくり手になる人というはある意味、視野が狭く、多くの否定を無視して唯一の高い評価で自分自身を評価できるという能力に長けている。根拠のない勘違い野郎の極みである(僕の場合)。自分の匙加減ひとつで勝手に高揚興奮し、次の作品をつくれるタイプである。その他のタイプは一言でも否定的な言葉で低い評価をされてつくる気持ちや衝動を自分自身の中で閉じてしまう。大人になって振り返ると、ただの子どもレベルの否定的な評価を一生背負うことになるのだ。

 この部分、理論理屈が介入する余地はなく、無邪気で些細な瞬間に一生分の決意をしてしまうのだ。逆接的に考えると、一言でも高い評価の言葉をその瞬間に獲得できていたら、別の人生があったかもしれないのだ。

 そんなお話をこのブログで「つくり手の心得」というテーマタイトルで少しずつ綴っていきたいと思っています。ま、このブログで書いてきたことの多くは「つくり手」としてのこだわりやメンタル術・テクニックがテーマだったのでどこかでリンクしているとは思っています。