LifeWorks アーカイブ

キャンバスとイーゼルが到着。

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 昨日、アマゾンで購入したキャンバス(F10号)3枚と専用のイーゼルが到着。ちょっと価格的にイーゼルは不安でしたが、なかなかしっかりした構造で安心しました。F10号なので人物を描きます。しばらく油絵は描いていなかったので、まずはリハビリで3枚。

 ちょっと、いろいろな描画手順を試してみようと思っています。

ラフスケッチ。

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 あるコンテンツ用のラフスケッチ。歴史上の人物ではあるが、このようにラフスケッチを何枚を描いてイメージと合わせていきます。イメージが細部まで固まれば、あとはどんな画材で描いていくかで完成度が変化します。歴史上の人物イメージだから少しモリモリの油絵タッチがいいかなと思っていますが、シャープなイメージも欲しいのでフォトショップかもしれない。そんなことを考えながら、細部(アクセサリーや着物の柄など)を決めるためにラスケッチを何枚も描いていきます。

新しい練りケシ。

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 数年ぶりに新しい「練りケシ」を買った。

 普段、絵を描く時は必ず鉛筆で下書きをする。普通のプラスチック消しゴムとこの練りケシを併用している。初めて練りケシを使ったのが大阪芸大に入学した一回生の時、最初のデッサン実習の時に初めて「練りケシ」の説明を聞き、そんな描画用のツールがあることを知る。しかし、それまで普通の消しゴムしか使っていなかった私はこの練りケシのメリットが全く実感できなかった。「普通の消しゴムと比べてあまり消えないなぁ~」レベルの実感だった。

 その知識レベルでよく大阪芸術大学の美術学科に入学できたものだと今でもその無知ぶりを考えると冷や汗が出てくるが、この練りケシの万能さは完全に普通のプラスチック消しゴムを凌駕する。ノートに鉛筆で書いた文字を消すだけならプラケシでいいのだが、この練りケシこそが鉛筆で絵を描く際になくてはならないマストツールなのだ。

 その万能さについては非常に多用なのでこのブログでは書けないし紹介は実際難しいが、とにかくペン画でもアクリルでもポスカラーでもカラーインクでも絵を描く場合、必ず鉛筆で下絵を描く。実際、タッチや陰影や立体感は画材で仕上げるが、その前に自分が描こうとしているモチーフを頭の中で再構築・確認するためにも鉛筆の下絵が重要な行程なのです。その際、プラケシではとにかく消え過ぎるのです。そんな万能マストツールの練りケシだから長年使っていると黒くなる。ちょっと薄い鉛筆ぐらい黒くなる。その濃さをグレイトーンで例えるとBL75%ぐらい。すると、鉛筆の炭素がしっかり練りケシの中に染み込み、消しているのか描いているのか分からなくなる。逆にそれぐらいが実はちょうど良い消し加減なので、練りケシのコンデションとしては良い状態なのだが、さすがに消そうとしている調子よりも黒くなるのはNG。だから、昨日、新しい練りケシを買いました。

大好きなシーン。

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 「無限の住人全30巻」、全てのシーンが好きです。沙村さんのペン筋一本一本に物語への熱く深い気持ちが込められているのだろうと、ディープなファンのひとりとして妄想しています。

 中でも好きなシーンを描いてみました。登場人物全て大好きですが、やはり一番は「吉乃瞳阿(よしの どうあ)ちゃん」。強く可愛過ぎるそのふるまいに、ああ、実写映画に登場しなくて良かった・・・と不思議な安堵を感じていました。

 しかし、ページを模写するといろいろなことに気づきます。ただ物語を見ているだけ読んでいるだけでは実感できないことが多いです。手紙の筆文字も鉛筆の下書きだけで細い習字用の筆で描き(書き)ましたが、当然、原本の忠実な複写はできませんでした。ゆえに、この原画を沙村さんが描いた時の筆を持つ手の感覚の「鋭さ」「巧さ」「軽快さ」「集中力の高さ」を実感するわけです。現在、安価な画用紙に描いていますが、本番の原稿用紙に描くとまた仕上がりもよりシビアになりますから、少しずつ手の感覚を高めて本番に臨みたいと思っています。頭で考えているイメージと実際、自分の手の動きはなかなか連携してくれません。日頃のコンディションづくりがとても大切だと思います。まして、素人の仕事ですから、準備だけは十二分にしたいです。

「筆ペン」と「Gペン」の違い

 まず、鉛筆で下絵

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 普段、描画にはあまり使わないが、今回は筆ペン(ベタ用)で描き始める。

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 そして、筆ペン一本でタッチも描いていく。

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 ひさびさのイラストなので気持ちが入り過ぎて真っ黒け。やり過ぎ。
 なぜ、筆ペンで描こうかと思い立ったのかと言えば、映画でAIが筆ペンような筆記道具で風景を描写するシーンがあり、筆ペンだけで描いたらどうなるのか試してみたかったから。

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 同様に鉛筆で下書き。

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 これがGペンだと。

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 こうなる。

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 やはり、筆ペンはベタ用に使うべきなのだ。

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墨汁

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 いろいろな黒系インクを試しているのですが、やはり、基本中の基本、墨汁がベスト。黒が美しく強い。しかも、ペンと紙との相性が良く、なめらかにのびます。しかし、画材の中ではこんなに安価な画材はありません。「古き良きモノ」の価値はいつの時代も変わりません。

ペンと水彩。

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 こちらはGペンでタッチを描いてから、水彩(耐水性)の黒インクで着色した習作です。鉛筆(4B)である程度のフォルムを決めてからペンで描き込む手順です。

 ペンでアウトラインを描画してから、水彩(筆)でしっかりタッチと立体感を出す方法もありますが、この習作の場合は水彩で面を描いています。ほぼ1時間の作業なので、あと1時間ほどかければ立体感は増しますが、これはイメージラフとして描いているので、これで仕上がりです。

 頭の中のイメージだけでは曖昧な部分が多く、期待値(完成形)とテクニックがずれる場合あるので、その部分の確認用です。

表情を描く。

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 芸大の頃、たくさんの魅力的な人に出会った。美術学部だったので、当然、自分の絵に対してプライドを持っている人が多かった。たかだか18歳では技術や知識は充分ではないが、とにかくプライドのある人が多かった。ある男が講義中に私がノートに描いていた絵を見てこんな言葉をくれた。

 「表情を描くのが上手いな」と。

 大した経験もない、ただ、好きな絵だけを描いてきただけなのに、リスペクトしている男からのこの言葉は胸に染み込み、心の中に響いた。その時から、私は「人間の表情?」について改めて考えるようになった。

 と同時に、この大学を選んだことに無類の喜びを感じていた。

 さて、人間の表情を描くというテクニック。自然や生物やオブストラクトのようなスタイルや奥義がない。昨今、「生き生きした主人公を描くテクニック」などという類のマンガテクニックの指南書を見かけたりするが、人間の喜怒哀楽は千差万別であり、怖い顔をしていても心情は悲哀であったり、爆笑していても怒り心頭という状況もある。表情を描くということは、表面的なテクニックではなく、モチーフと誠実に向き合い、ダイレクトに同期しなければならない。

 リスペクトしていた男の描く絵はとにかく「存在感のある上手さ」があった。しっかり油絵と向き合い、多くの時間を費やしてきたことが一目瞭然で、よく、彼が描く後ろにタチ、眺めていた。私など、芸大に入学して油絵セットを初めて購入し、ピカピカの道具で油絵の実習にのぞんでいるレベル。一方、彼の道具箱には見たこともないような種類の絵の具やオイルが無造作に入っていて、パレットなど、油絵の具が何層にも重なり硬化し、不思議な一枚の絵のようだった。彼から見れば私など、ヒヨコにもなれない卵ちゃんだったころだろう。

 しかし、そんな彼からの改めての言葉だったため、ただただ、嬉しかった。

 改めて「表情を描く」とは?

 「あなたも絵画を始めよう!」「あなたもイラストを!」「あなたもマンガを!」という類のテクニック本には一様、スタイルや形式が手順として掲載されいる。画面を十字に四分割してアウトラインを引き、モチーフを中心に置いて、水平垂直に注意しながらという一連のパターンである。一般的な美術品と呼ばれている絵画の登場人物にはあまり実は表情がない。かのモナリザだって、「微笑み」というタイトルを知らなければ、微笑んでいるように私は見えなかったし、ゴッホの自画像(包帯を巻いた作品)だって、苦悩しているようには見えない。絵画の中にある心情とは、実は鑑賞者の心の中にあるモノだから、見る人のコンディションで変化するのだ。本当の心情など作者しか分からないし、作者とて、絵筆を持ちながら、どういう心情だったかを整理して、「ああ、この喜びの心情をこのタッチで、この配色で!」などとは描いてなかったはずである。

 つまり、「表情を描く」ためにはセオリーやスタイルがないのである。あるのはただ、モチーフと同期させて、手を動かすのみ。モチーフがなければ、自分の心情と手を同期させるだけなのである。これが自然体であり、「笑った表情を描くぞ!」と、目の大きさや口のサイズや角度を考えても、それは、生きた表情にはならない。「ぎこちない笑顔」になるだけだ。技術的に上手い下手だけが絵の評価基準ではないのは当然のこととしても、私が描いたノートの落描きを見て、彼にそれが伝わったということが、本来の絵の価値(役割り)なのだと思います。

 30年以上前のことなのに、そして、すでに彼は他界しているのに、絵をイラストを描くたびに、必ず彼の言葉が「始まりの半鐘」のように心に響く。

ウッドレース。

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 名称も知らず闇雲に検索するとこれがヒット。そうそう、欲しいのはこれ「ウッドレース」!

 こんなもの買って何をするのか? それは、チェスのコマを作りたいのです。チェスの腕前など大して強くないくせに、「チェス」というゲームを愛する気持ちが高い(無駄に過剰に)。強くなりたいという気持ちはあるものの、それよりも、とにかく自分で木を削ってコマを全部作りたい。そして、そのコマで誰かと勝負をしたいのです。勝っても負けてもいいのです。とにかくゲームが楽しいのです。

MARIA CODE#001

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 言葉(言語)が生まれる前にイメージ(画像)が在ったわけですから、言葉の中にすべての正解があるわけではりません。言葉が在るから正解もあるわけですから。イメージと組み合わせてこそ正解に近づくのだと思います。さりとて、その正解が人間にとって有益でないとしても。ダビンチが歴史にその名前を刻んだのはその類まれなる知能があったからではなく、自分が見たモノ(現実)を正確に記述(描写)するテクニックがあったからだという説があります。見えたモノを思考(言葉)と組み合わせて残そうとしたからこそ、偉業として私達が共有できるのです。人間のアウトプットは骨格と筋肉にほぼ依存しています。四肢や口頭や表情の制御でしか人間はアウトプットする術がありませんから、ツールを変化させて代用しているのです。先日、大阪に仕事で行った時、電車の中に18人の乗客がいました。2名は寝ていて、起きている16名の内12名がスマホを操作していました。思考よりも指で何かをアウトプットしている感覚が、よほど心地がいいのでしょう。

ライバル。

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 親友とはライバルである。

 フェイスブックから「友達がいっぱいあなたを待っています。」というメッセージが届くが、日本語もドライになったものです。ちょっとひねって「ライバルがいっぱいあなたを待っています。」とか、「恩師や弟子がいっぱいあなたを待っています。」とかに変更したら、ユーザー数は増えるのだろうか減るのだろうか?

 とにかく、どこかにライバルがいる以上、私も自身の存在を意識・実感できるのです。

この万年筆はいい。

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 最近買った万年筆。これが人生5本目の万年筆。なめらかさ(書き味)といい、文字の太さといい、かなり満足しています。インクも青とか群青とかパープルとかいろいろ持っていますが、黒がいいですね。これが「中太」なので「細字」も欲しいところです。やはり、文字を書くのは万年筆が最強です。と、現在の結論です。

103歳の芸術家。

 昨日、テレビに103歳の芸術家(書道家)の大おばあちゃんが出演しておられた。「こんにちは」と、ご自宅(工房)に芸能人がお邪魔すると玄関に、ガチのおばあちゃんがにこやかに登場。うん?この方が103歳?いやいや、この方は娘さんでした。そして、雰囲気漂う廊下を歩いて主人公のお部屋に入ると、しゃんと着物を着こなして103歳の大おばあちゃんが登場。

 聞けば、20代の頃、単身、ニューヨークに乗り込み書道芸術活動を展開しておられたらしく、その作品は日本国内はもとより海外の著名な美術館に多く所蔵されているらしい。ビートルズが来日した際、3日間宿泊したスペシャルスイートにこの大おばあちゃんの作品が飾ってあったことから、ビートルズの4名がいたくこの作品に感銘を受け、東京で筆を買って帰国したらしい。特にジョンは日本文化の魅力をその一枚の作品からインスピレーションを受けて、帰国しても書動に対する興味を高めていったらしい。

 また、毎日使っている巨大な硯があり、これは1100年代、中国の宋時代のものらしいとのこと。それを東京の画材屋で発見した大おばあちゃんはその硯を買いたい欲しいと店主にお願いされました。しかし、店主は看板アイテムだから売れないと言ったそうです。どうしてもあきらめられなかった大おばあちゃんは、「店主さん、硯というのは飾って鑑賞するものではなく、毎日、水を入れて墨をするモノですよ。このままお店に飾っておくだけではこの硯が可哀想です。大切に使いますから、譲ってください。」とおっしゃったそうです。うん、痺れる言葉です。

 それら一連のお話を普通にソファに座ってしっかりお話をされている103歳の大おばあちゃん。まだ、この時代に仙人と呼ばれる人が現存しているとしたら、恐らく、このような方のことを言うんでしょう。

 そのロケの中、最も印象的な言葉は「作品(書道)など自由でいいのです。伝わればどのような表現でもいいのです。作品を気に入って買って頂き、そのお金で芸術家は生きているのです。だから、芸術家は自由でいいのです。むしろ、自由でなければならないのです。」というニュアンスでした。この理屈も理論もすべて超越した言葉の爽快さ。こういう人生は素敵です。私はちょうどこの大おばあちゃんの半分の年齢です。51歳になり、世の中的には、様々な思考やベクトルが、沈静化・安定化に向かうのが常の年齢ですが、いやはや、51歳などただの折り返し地点だったとは。

8万円!

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 「アマゾン輸出」というテーマの書籍を読み、その仕組みを読んでいるだけなのですが、いろいろなオンラインでの、しかも、海外を相手にビジネスを展開する場合の注意点やノウハウ・テクニックが書かれています。とにかく、以前と比較して海外へのオンラインショップでの販売網の構築のしかたが簡単になり、特にアメリカでは登記も物流倉庫もかなり完備さているらしい。だから、一般の企業よりも個人で得意な販売商品情報をもっている方が有利だとも書いてあった。実際、やってみればそんな簡単にできないだろうという疑心もあるが、こればかりは実際、ガチでやってみなければその実感は得られないし、当然、実績(売上)など絵に描いた餅となります。ただ、やはり、実際登録してランニングコストがかかる以上、少なくとも元は取りたいとケチケチ思考が起動してしまいます。やらなきゃ何も始まらないと頭で理解していても、実際、躊躇してしまう現実。

 恐らく、過去の自身の傾向として「迷っているならやる!」というパターンがあるので、「やる」ことは覚悟できているのですが、さて、そこで何を売る?というステップで迷っています。その書籍には「自分の得意分野」という表現があったので、改めて自分の得意分野を整理しているのですが、一番、具体的な好きな分野となると、いろいろあるのですが、「映画」という分野が最初に浮かびました。でも、「映画に関する商品」を仕入れるとなると元手も必要ですし、チョイスを誤ると出鼻をくじかれる。そこでやはり石橋の音を聞きたくなるという現状です。

 日本のアイテムでフィギアは一世風靡している安定した分野ですが、さて、その市場はいかなものかとリサーチしてみると、このバットマンのキャラである「キャットウーマン」のフィギアが8万円で在庫切れでした。う~ん、これを買うのうか、とその分野の購買意欲の高さを改めて痛感しています。しかし、8万円あればこれは確かに買う。

存在させること。

 「どれだけ小さいビジネスを展開しても、存在していないことよりも圧倒的に有利だ。」という言葉をある書籍で読んだ。

 当然、前後関係があるので、ここだけ抜粋しても意味不明だが、ベンチャービジネスあれ、マスメディアに紐づいた流通ビックビジネスであれ、個人で細々と展開している狭小・ニッチビジネスであれ、存在していないプランや構想やアイディアや理論の段階ではいずれも意味も価値もないということ。その段階で空論に時間を浪費するぐらいなら、まず、何をさておき、存在させることを最優先するべきなのです。まだ、この段階では理論・概念ゾーンを脱していないが、実際、自身、ある成果物を存在させるためにいろいろな準備をしている段階なので、あとひと皮をむくために何をしなければならないかを吟味しています。

 何かを踏み出すために、大切な何かを犠牲にするぐらいの覚悟と本気が必要なんだと思います。むしろ、長年デザインの仕事をして存在させることには長けているつもりでも、いざ、主体的にいい意味で利己的に何かを成そうとする場合は、躊躇したり疑心が生まれたりするもの。これほど自分は警戒心があったのかと驚く始末。慣れない世界、精通していない分野に挑戦することも、結果、本質は変えられないということに気がついた今日この頃です。逆説的に言えば、本質しか存在させられないということです。ここを探るのにいろいろな分野のエキスパートの方の尽力を賜った。ひとりで考える限界点、ひとりで動ける射程範囲もよく実感できたので、あとは、私の本質がどこに狙いをつけて何を存在させるのかというルートのみにしばらく集中したいと思っています。

電動チェンソー

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 私はチェンソーを使った経験がなく、超初心者なので、まず、これから始めようと思っています。さすがに無謀な私も一発目からエンジン仕様はハードルが高いと断念しました。ただ、防具は必須アイテムなので専用のモノを購入する予定です。木は森林組合の方に間伐材のキレハシあたりを安価で譲ってもらえたら嬉しいなぁ~と想定しています(ちょっと甘い考えかな・・・)。

似顔絵。

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 私自身の似顔絵です(いつもこんな感じです)。けっこうこのラフなテイストが気にっているので、いろいろなアクトのツールに展開しています。

一作目はチョップ君

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 カービング用チェンソーを購入したら、まず記念すべき1作目はウチの愛犬「チョップ君」だろう。このような写真サンプルイメージで仕上げたいと思っています。しかし、自分の部屋で自然石を削るようなわけにはいかないので、どこかの工房をお借りするか、作業場を探さねばなりません。木材もどこで入手(購入)すればいいのか分からない状況なのですが、このチェンソーアートは、恐らく私に合っていると思っています。何を指して「合っている」と感じるかという基準は非常に曖昧で、いつものことながら、根拠のない自信があるのみ。実際、削り出したらトラブルもあるでしょうし、当然、ケガもあるでしょう。でも、なんかこれは楽しそうというよりも、完全に完成形が見えています。そもそも、立体作品は平面の仕事をする前から好きな分野ですし、ノコ・ノミ・カンナ・ドリル・電動系のツールあたりは小学生の頃から使っているので、感覚としてチェンソーはその延長かなと捉えています。簡単ではないものの、やったらやっただけのテクニックの証が瞬間的に作品になる感じ、この直感的なアプローチが何よりも素敵です。そして、このアートの醍醐味なのですね。

 さぁ!サクっと準備して仕込みたいです。

大阪デザインフォーラムへ!

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 5月17日は「大阪デザインフォーラム」へ行く予定です。日本の大阪の若者の鮮度の高い、「デザインの空気」が会場に漂っていることを期待しています。母校が主催しているってことで、間違いないでしょうが、全体のテイストが、教育寄りだったりパブリック寄りだったりすると、ちょっと「すいません、ごめんなさい。」になってしまうかもしれない。でも、そこは、なにごとも、フラットにニュートラルに受け取ろうと、当日のテンションづくりを推測・仮定・シュミレしています。

 ので、デザインに興味のある方はぜひこちらからエントリーしてくださいませ。

 吹田のオヤジもこのような、鮮度の高い空気を現場で深呼吸して、思考のぜい肉を活性化させてくださいね。ちょっとは腰(頭)がキレてボール(仕事)のキャリー(売上)が伸びるかもしれませんよ。

http://www.oua-designforum.com/

空間に負けない。

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 「空間に負けない存在感」。これが今回のミーティングのテーマでした。デザインの仕事で意識するのはまず第1にクライアントさんのご要望であり、第2に通年・常識・セオリー・既成概念・メディアの世界。第3に社会の評価と自己評価のバランスです。しかし、造形作家さん達はこれらのことも当然、意識されているのでしょうが、最優先されていることは「空間との勝負」「空間との協調」「空間との融合」なのですね。確かに人もいわば空間に存在しているわけですから、自宅、仕事場、社外ともに空間での存在感をいかに適正に示せるかについて意識しているのです。デザインの仕事でいろいろなプロフェッショナルな方たちとお話する機会が多いのですが、都度、私が意識していることはそれらの空間(状況)で負けない、つまり、自分の存在感を示すということを強く意識しているのです。私は造形作家ではありませんが、こうして生粋の作家さんとの言葉のやりとりは、いやはは、なんとも、心震えるひとときでした。誰かの心を震えさせるためには、まず、自身が誰かから振動・振幅を受け取り、自分の中で増幅して成果物を生み出す。この手順が適正なのでしょう。いろいろな人の振動をいつも受け取れるコンディションづくりも大切だということです。この連休は各部位のネジの緩みを確認しメンテしつつ、振動部分の劣化状態もチェックしつつ、どのように増幅させていくかという手順をしっかり設計したいと思っています。人と人が生み出す振動(共鳴・共感)こそが、真価なのです。

真鍮だろうか?

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 このチェスのコマの素材は何かな?真鍮だろうか?時代によっていろいろなコマのデザインがあり、それぞれに重厚だったり洗練されていたりコミカルだったりする。木の素材や石の素材などもあるのですが、つくり手のこだわりと素材の関係も密接で興味深い。ここまで見事に成形された商品価値の高いコマもあるし、ひとつひとつ手づくり感が漂う木彫のコマもあるのですが、どれも素敵です。チェスの腕前はポンコツですが、黒と白に分かれてお互い16個のコマで戦うというシンプルなゲームに世界中、古今東西の人達が魅了されているわけで、その歴史の末席で私もチェスを楽しんでいます。娘のDSソフトやパソコンのネットゲームでもいろいろなプログラムを活用したチェスゲームがありますが、どれも一様に強い。DSの端末に向かって50歳のおっさんがタッチペン1本で挑み、端末に「あなたの負けです!」と言われ、負けるという屈辱的な現実はなんとも受け入れがたい状況でしたが、それも乗り越えてチェスというゲームをエンジョイしています。なかなか対戦相手が実際に身近にいないので端末に向かってしまうのですが、やはり、上手い相手が身近にいたら、その手のひらの上でチェスの攻防を楽しみたいというのが正直なところです。
 まぁ、あと5年もすれば無料ゲームやオンラインゲームブームも次第に失速し、デジタルゲームユーザーがその知恵熱から覚めた時、モノホンのゲームに回帰していくことも想定されます。やはり、楽しさを追求していくと、顔の見えないプログラマーやSEと対戦しても面白くないし楽しくないという結論に達した人達から順番にチェスのような古典・王道・スタンダードに心を奪われるのが自然な流れのような気がしています。その時、ちょっと自身のチェスのテクが今よりも少しレベルアップしているといいのですが。

大阪モード学園

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 昨日は大阪モード学園で16年講師を展開しておられる方とお会いしてきました。知名度も高い専門学校でもあり、梅田という立地条件といい、この道の専門学校としては重鎮的存在です。「モード」という言葉から連想する個人的なイメージは、ファッション分野の潮流を牽引している独自で奇抜で先鋭的な印象ですが、実際、ファンション分野を牽引するということは独自性や奇抜性とに反して基礎知識や基礎テクニックが重要であり、自身のテクニックやセンスをコントロールするマネージメント力やメンタル面での強化も必須なのです。確かに、技術が進化しビジネスや経済の構造が多様化したから、独自の個性や表現を発揮する場が大きく広くなったとは言い難いわけで、いつの時代にもベーシックな「創り出す基礎能力」と「伝える基本テクニック」のつばぜり合いなのです。最近の若い世代の一般的な印象は一見「弱い」「線が細い」という捉え方を(50歳のおっさん思考)してしまいがちですが、講師の方にお話をいろいろ聞くと、「センス溢れる繊細なタイプ」「探究心旺盛な貪欲なタイプ」「自分で切り開く野心家タイプ」など魅力的な学生さんが多いようです。ただ、いつの時代も学生ゾーンから社会へとフィールドを変える時に伴うエネルギーやノウハウの強化は必要不可欠なようで、これは誰しも通るルートなのだなと、自分自身が社会に出る前の不安な期間のことを思い出していました。
 しかしながら、今こうして自身デザインの仕事をできている体質・脂質の根幹・根底には芸大生だった4年間があったからこそ成立できているわけですから、自分の道を決める、人生を切り開くテクニックとは、高校生から社会に出るまでの大学時代や専門学校時代の期間にしっかり鍛えて蓄えておくことがもとても需要なのだと改めて再認識しました。センスと知識とテクニックとモチベーションがあれば独学でもいい、という捉え方もできなくはないですが、じっくり自分を見つめる期間として、大学・専門学校という期間は大きな意味・価値があるのだと思います。もし、それがなければ何も始まらなかったかもしれないのですから。
 大阪モード学園の建物の前で講師の方が出てこられるまでのひととき、そんなことを回想していました。

固定台到着。

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 本日、工房にすえる作業用固定ツールが到着。さてこれで準備ができましたので、まず、「ナイト」をつくりたいと思います。

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 ハンドメイド工房用のツールを集めています。まずは石と木を削って研磨して加工して作品づくりから始めたいと思っています。

ダイヤの糸ノコ。

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 これはダイヤの糸ノコです。主に石を切る予定です。あとは万力と細工用のヤスリと電気ドリル用のアタッチメントなどを用意して自然石を加工し作品をつくりたいと思っています。また、途中経過や完成品をこのブログで紹介していく予定です。何故、石を加工したくなったのか?ただ好きだからです。

 人(私は)はなんでも鑑賞しているだけでは飽きてきて、どうしても我慢できず、手を入れたくなったりするものなのです。頭で感じているとそれはただの石だが、心で捉えると石の中に「天使」を発見したりする。と、そんなミケランジェロの言葉が残っているそうです。

イラストレーター

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 2014年はいろいろな仕事を頂きましたし、新しい気づきも失敗もたくさんありました。中でも印象的だったことは「自分の絵のスタイル」についてしっかり向き合った1年でもありました。その理由は自分は何者なのかという疑問が生まれたからです。いろいろなデザインの仕事に取り組み、いろいろなアプローチやスキルを習得してきたが、本当は何をやりたいと思っていて、何にやりがいや達成感を感じているのかを確認したいと思ったのです。
 そもそも、大きなデザイン制作会社を30歳で離れ、自立自営のルートを選んだ背景にも同じ要因や根拠があったのだと振り返ることができたからです。一般的に組織や会社の歯車になりたくないレベルのお話ではなく、もっと深い場所に装備していたデザインの仕事に対する向き合い方です。そこには「イラストレーション」があったのです。マンガ家になりたい、イラストレーターになりたいという衝動があった(今でも諦めていない。)からこそデザインの仕事を選択したのです。別段、ラーメン屋でもケーキ職人でも大工でもよかったのですが、私はデザインの仕事を選択したのですから。今更(50歳)になってそんなことどうでもいいことかもしれませんが、2014年はそれをひとつひとつ確認する必要があったのです。そんな気持ちで描いたイラストです。
 何をどう考えてこうなったのかは正確には思い出せませんが、改めてこのイラストを見ていると自分にとってイラストレーション(絵)がいろいろな思いや狙いや希望を閉じ込め刻印する最高の手段だということは自身、一目瞭然なのです。つまり、イラストレーション(絵)とはそういうモノでなければならないと気づいたということなのです。
 一方、論理や理論や法則や情報処理は得意ではありません(改めて痛感)。整理することよりも直感的に意思決定するバイアスが「プロの感」だとこれまで自分自身に言い聞かせてデザイナーの自分を操ってきましたが、それも限界を感じたのでしょう。非言語と言語情報の効果や作用を天秤にかけ自由に操ってきたんだと思い込んでいましたが、私自身はイラストレーション(絵)の人なんだと再確認・再発見した次第でした。アートデレクターとかクリエイティブディレクターとかデザイナーとか名刺には入れていますが、根本はイラストレーターでありたいと願う自分との再会だったのです。すると、いかに無駄な余計な過剰なウエイトを抱えて行動力が鈍化していたことに気づきました。これをただの「老化」で済ますこともできたでしょうが、そうそう簡単に老化で片付けられない自分。鈍化の原因が老化ではないとしたらと無謀で強引で乱暴な仮説を立て、老化による劣化も現実としてありますが、それは便宜上の止まり木だったようです。理由や言い訳を抱えて飛ぶことを諦めそうだったので、私の中のイラストレーターが警笛を発したのでしょう。改めてそんな「絵の力」に無類のエネルギーをもらったという一年でした。だから、2015年はどんどんどんどん絵を描いていこうと思っています。

中国からのご来客

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 日曜日は中国からの来客をお迎えするために長浜を午前7時に出発して関西国際空港に向かいました。ひさしぶりの関西国際空港です。事前の情報から午前11時到着の便だということだけの情報で、あとの情報は空港で確認。第2ターミナルのこの出口から来客が出てこられると知り無事待機完了というタイミングの写真です。ご客人はまず中国から仙台に到着され、2日間の視察後の関空という行程で、初見のご来客なのでスケッチブックにお名前を書いて、「熱烈歓迎」と添えこの白いゲートの前にスタンバイしました。到着予定時間の数分後に無事この場所でランデブー完了。ここから滋賀県で関係者各位との視察がスタートしました。翌日も早めに空港に到着し搭乗ゲートまで無事視察を完了しました。日本語が通じないということでご来客も不安だったことでしょう。通訳さんを2名用意してなんとか対応をしましたが、さて、満足していただけたかどうかは分かりません。「再見!再見!」と言葉を交わし、次は「上海で会いましょう!」とお伝えして視察サポート完了でした。

 初めての機会でしたから、緊張もしましたし、不安もありましたが、一箇所一箇所視察が完了するごとに不安も消えていき、最後のシーンで笑顔の握手は感動的でした。さて、次は上海での再会を期待して関空を後にしました。楽しくも刺激的な試行錯誤の2日間でした。

 2名の通訳の方、視察先のオーナーの皆様、宿泊先のおかみさん、バスプロ2名様、皆様本当にお世話になりました。ご尽力を賜り、謝謝!

未来都市

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 強いインスピレーションは明確な根拠も正当な理論も無視して創作意欲を刺激する。芸術とはこのインスピレーションからのみ生まれる。ランダムに検索したところ一番近いイメージがこれだった。さて、どうつくるのか?この段階が一番心地いい。

F50号キャンバス

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 本日、F50号の張りキャンバスが到着。ひさびさの大作を描こうと思っています。気まぐれと言えば気まぐれだし、魂を込めてと言えば込めてなのだが、ごくごく自然に今回は50号かなとひらめいた。描こうと思ったのもいろいろ考えることがあったからだし、テーマや設計図は勿論、すでに頭の中に完成している。タイトルは「LALA」だ。そう考えていたからか、丁度、「湖国を描く絵画展」という滋賀県の公募展のチラシを発見した。別に搬入までに納得する仕上がりでなければ出さないが、間に合えば出そうと思っています。私自身、これまで個展をしたことはないが、いずれこのような気持ちとテーマが明確になり、次の作品を自然に描きたくなったら作品は増えるだろうし、一貫性を意識できるテーマが頭に浮かべばその気持に順回転で描けばいい。私は個展をしたいから、無理に作品を描くタイプではないので、テーマやタイミングに対して無条件に反射できてこそ絵だと思っています。
 F50号を描くのは20年ぶりだからとても楽しみです。

いい構図。

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 いい構図ですね。これはフランスの作品かな・・・。

最強のスキル。

 「将来のためにも、「プログラミング」のスキルを今から身に付けておく、ITで勝利する為の武器を備えておく、これは今時の成功者にはみなに共通するスキルです。」
 「世界中の誰もがよく知っている面々、アップルのスティーブ・ジョブスやマイクロソフトのビル・ゲイツ、 Facebookのマーク・ザッカーバーグも、ソフトバンクの孫社長も、mixiの笹原社長も、グリーの田中社長も・・・共通して持っていたスキル、それが「プログラミング」 なのです。世界的な巨大企業を築き、成功を収め、大富豪になった彼ら全員が共通して持っていたスキルというのが「プログラミング」です。」
 「例外はありません。それが、ITの世界で自分のやりたいことを自分自身で実現することのできる 唯一の手段 であるからです。ITの世界で自分のアイデアを具現化する手段というのは「プログラム」の他にはありません!あなたは、ただ単に他人の作ったソフトの言いなりにパソコンの操作ができる人・・・ なだけではありませんか!?」というメルマガが届いた。いやはや、強烈な定義ではり、明確なメッセージではあるが、プログラムの裏にある背景を伝えず、大きな旗を振ることは簡単だ。

 「最強のスキル」とはなんとも耳に心地よい言葉だが、「あなたが日々活用しているパソコンは最強のスキルで天才達の努力の賜物だから、しっかり稼いで私達のコンテンツを買ってくださいね。」的なニュアンスしか伝わってこないほどリアリティーがない。プログラムというブラックボックスを盾に精一杯の矛を突き上げているようだ。もっともっと人間は不完全であることを伝え、傷をなめ合うのではなく、お互いに研磨し合う素地に気づいてからでも、そのスキルが最強か否かを考えればいい。

 つまり、SNSの限界点が具体的に見えてきたのだろう。


色彩がわかれば絵画がわかる!?

 「すべての色は三原色をもとにして作られる。四色でも二色でもだめなのはなぜか?そもそも色とは何なのか。色彩の理論をシンプルに学び、絵画的な知性を養う一冊」という書籍がある。また、同じ著者が「構図がわかれば絵画がわかる」という書籍を出している。どこの誰かは知らないが。でも、「色彩」や「構図」が絵画の何かを語る糸口だったことは読み取れるし、この著者が恐らく絵画に精通しているということも分かる情報だ。三原色についての理解を深めても、芸術やデザインや建築におけるカラーコーディネイトの仕事をしている人以外に何の役に立つ?が一般の心理だろうから、よほどこの著者は「色彩」と「絵画」を連動させたかった衝動がこの書籍には閉じ込められていると期待したい。そして、「絵画が分かる」というニュアンスがこのタイトルだけでは判断できなから、「買ってみようかな?」となるかならないかが問題だ。私は買わないが、いったい「絵画が分かりたい人」とはどういう人だろう?何故、絵画が分かりたいと感じるのか?それが一番のこの情報に対するコアの部分だ。色彩を知り、成果物としての芸術を自分のモノサシで分析・検証する術を会得し、それを別のコンテンツに適用したいと考えた場合、このふるまいにどんな価値があるのだろう。

 勿論、「絵画が分かる」ためには、色彩以外の知識もいるだろうし、自分で得た経験値の中から、絵画の価値や在り方の座標を決めなければならない。そこまで適正に設定できたとしても、確証や根拠はないはずだ。すべて五感から入った、ただの情報でしかないのだから、実態に対して間接的な客観的な情報のディテールでしかない。そもそも自分の中にあった確証と、外部情報として取り込んだ確証。この連鎖のルールをいくつ持っているかで、「分かる」の振幅が異なるのだから。

 まぁ、この著者は「絵画的な知性を養う一冊。」と書いてしまっているので、「分かる」の振幅は震度1ぐらだろう。

楽しみ楽しみマジキャスオープン!

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 楽しみですね。恐らく間違いなく私は9月に大野ダムでバスを釣ったことがないので、この大会に賭ける意気込みは数値的には0が正しい。そりゃプロに勝ちたいとか、単純に優勝したいとは考えているが、これは空想のお話。恐らく大野ダムや他のフィールドでもブイブイ言っているエキスパートが集まることだろうから、優勝の脈は全くない。ただ、全くキレイさっぱりないのだから、不安もない。気負いも正確にはないし、戦略もプランもない。当日、真っ白い状態で開始前のカウントダウンをボートの上で待っている自分自身が120%イメージできる。目の前には猛者達。完璧なエレキ装備と大野ダムを縦横無尽に駆け巡る猛者達のボートの中を、49歳のおっさんがオールを漕ぎ出すイメージ。なんとも滑稽なこのイメージで、逆にそんな状況・条件でよくそんな大会に出場エントリーするな・・・的なところがほぼ、一般的に共通した見解だろう。そう、おっさんはどこまでも無謀で無神経でノープランなのである。そんなそんなこと言いながら、実はもう戦略があるんでしょ?とか、そんなプランやフィールドチョイスについても戦略なしでしかも手漕ぎでエレキの人達に勝てるわけないじゃん!が一般的な見解だろうし、私もそう思う。ただ、バス釣りが好きで、その貧弱なタックルで何ができるの???という視線をビシビシ感じながら、ふらふらとエレキの間をすり抜けて上流に向かう私って、とことん逞しいなと思うのです。

 7月にも昨年優勝した大会に出て、V2宣言はしているが、しているだけ。勝ち負けは誰にも分からないですからね。仮に2年連続優勝できたとしたら、他の皆さんよりもちょっとメンタル的にタフだったという理由ぐらいしか思い浮かばないし、メンタルでバスが釣れるわけじゃないが、最後の最後で厳しい条件下で運を引き込むほどの「本気」があれば、あとは楽しくやればいい。

 と、まぁ、そんなこんなで楽しい夏になりそうです。

イミテーション・ゴールド。

 オハイオ州立大学の教授が「コピーキャット」という書籍を出しているらしい。世界10カ国で翻訳された逆転の戦略編。「真の先駆者は誰も覚えていない。あのイノベーターもコピーキャットだった。」と。それはどの世界にダイブしていても同じことなのだから、取り立てて「模倣こそがイノベイトだ!」みたいな書籍だとしたら買う価値はない。芸術というアプローチに精通していない人ならば、入場料を支払い、しばし自分の中の何かに浸れる存在がアートかもしれないが、それを人生の使命とわずかでも考えているならば、そのチュートリアルはすでに終わっているはずだから。模倣について日本の慣習は否定的なニュアンスがあるから・・・的なことももうどうでもいい。それぐらコピーキャットに対する自らの姿勢というか倫理というかモラルをどの程度保有するかでこの書籍の価値は大きく振幅する。

 革新と模倣が全て。そして、代謝と複製の動的均衡を経て万象は成立している。

 それは何故なのか?答えは一つ。それが脳の最大の機能だからである。単純なことを複雑に分解することも創造だと勘違いすることは誰でもできるが、複雑なことを単純化するこが破壊だと意識するには、それ相当のチャレンジを経て辿りつかなけばならないピーク(山頂)である。

 人間の歴史の中に「金」を一番高い山だとする慣習・歴史・価値感がある。これを代用して物流が進化した結果、工業もデジタル仮想世界も生まれた。ただ、人間の頭がこのスピードに正確に反応できているるのかということが一番重要な問題で、おばばの言葉を借りれば、「大きすぎる火は何も生み出さない。」のだろう。

 アメとムチに翻弄され続けるか、己の「自律性と熟達と目的」で新しいスタイルを受け入れるか。まず、大きな分岐点はそこにあるような気がしますね。

こんなタッチも。

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 これはサンプルイラストとして描いた作品です。ペンとカラーインクです。もっともっとこんな作品をいっぱい描きたいのですが、なかなか仕事に追われているとそういうテンションになれないなれない。でも、自分の作品づくりってそんな中でも時間を作って描かなければならいのだと思います。時間に余裕がある時に・・・ということを期待していたら、そんな時間など永遠に来ない・・・ぐらいの心意気がないとダメなんでしょうね。仕事を忙しくさせもらっているからこそ自分の世界も作品としてコンスタントに描けるというもの。イラストボードもキャンバスもその時をずっと待っているのですが、なかなか、そういう衝動が起こる隙がないのが辛い。でも、辛いから描くみたいなサイクルを今年こそはしっかり自分のスタイルにしていきたいと思っています。昔の作品を見ると「気合いが入っていたなぁ~」とか「安易に描いているなぁ~」とか「これはいい感じいい感じ」という自己評価をしながら、やはり、最近はガチで描いていないなぁ~となります。時間は作らないと・・・。

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 今日は朝から頭が痛くてモニターを見るのが辛いので絵を描きました。銅版画をやりたい。

最高の離婚!?

 さて、前クールはあまりいいドラマがなかった。に比べて今回の2013年のドラマはなかなかいいのが多いような印象です。テレビ局も役者を揃えて企画を捻じ込んで勝負を年末に向けてかけたつもりがカラマワリ。年が明けて力は入っているのだろうか、別のタッチで切り替えて来た感じを勝手に受けています。だから、なんとなく役者さんのルーティーンというか物語の傾向とパターンが「面白い」方向に進んだような・・・。何の脈略もない勝手な一視聴者のつぶやきですが、そんな風にテレビのドラマを鑑賞しています。

 で、そのイチオシは「最高の離婚」ですね。現代の「離婚観」みたいな部分を自然体のタッチで4名のこれまたなかなかいい感じの俳優さんが演じておられる。役者を揃えただけなら、昨年も話題性の部分でいろいろあったが、まぁ、大河ドラマしかり、プライスレスしかり、ハネることはなかった。つまり、企画段階でいくら想定していても、「面白い!」とはある意味無関係のような気がします。それはそれは、然るべきテレビ関係、広告代理店関係、スポンサー関係のキレモノが会議に会議を重ねてコストも賭けたドラマでしょうから、一般素人が何かを語る隙間などないのですが、それでも、ハネたとは思えない。それが視聴率というモノサシで計測すれば予定調和な物理定数がはじき出されて金の出所的には「一定の価値」を生んだのかもしれないが。作品として批評するのは簡単ですが、これは広告宣伝ツールですからね。その視点で言えば、「継続の力」で書類は最後まで行くという仕組みだろう。

 さて、「離婚」について、いろいろな角度で考えてしまうこのドラマ。なかなか楽しい。そもそも「結婚とは?」とか「離婚する条件は?」とか、ロジックで考え過ぎると、結論は意外と近い。しかし、もっとバックグラウンドにある「結婚というシステム」を感覚的というか慣習的にというか哲学的というか、非言語で捉え推察すると、このドラマ「最高の離婚」の結論がどこに向かっているのか楽しみです。しかし、本末転倒、瑛太さんの演技は観ていて単純明快に楽しい。

ブログらしいブログって。

 何事も正解はひとつではない。と言葉にするのは簡単ですが、正解がないから想像力が必要だという論理もメンドクサイ。直感で生きてこそクリエイターだという理論も多面的過ぎてよく掴みどころがないに等しい。ただ言葉遊びだけに戯れたいのなら何でもいいが、言葉にするということは必ず質量を伴う。質量保存の法則ではないが、重力下で人間の細胞分裂が微妙なバランスを均衡しているように、コミュニケーションという地球上に存在する重力下では必然的に言葉が刀だとすると、人それぞれの鞘があるはず。いきなり一刀両断に切りつけるマナーがあれば、お互い鞘から刀を抜かずに間合いを詰めるというルールもあるはず。では、昨今のSNSはどういう構造になりどういう機能性があるのかと分析・洞察してみると、意外と単純だったりする。が、それでも質量はどこに保存されているのか?という疑問と、そもそも、この機能の中に質量は適用できるのか?という乱暴な仮説が頭をよぎる。しかし、ビックなデータは解析され新しいデータに改編され実しやかに質量らしきリアリティーが交錯している。負けるが勝ちなのか、勝者こそが正義なのか?イントロが大変長くなったが、ブログらしいブログって何だろう?

 最近、ある映画の記事を書いたら、「いいかげんなことを書くな!お前にその映画を語る資格はないわ」というコメント頂いた。そもそも、映画関係者でもない私が映画について好き勝手に書いていることに資格があるとは思っていないし、「映画と資格」の関係を確認したい気持ちの側面もあったが、夏でもないのに水を掛け合うことは避けた。確かに根拠のないことを書いたし、私に映画を語る資格はないのが現実である。だから、あながちこのコメントにむやみにテンションは上がらなかった。「まぁ、そう言えばそうかな・・・」と。しかし、最近、「あなたのブログは素晴らしい!」という言葉を頂いた。誰が見てるか分からないという乱数にいろいろなベクトルが浮遊しているものです。人間だから、褒めていただければ嬉しいが、何が素晴らしいのか?明確に書かれていないため、五臓六腑はに落ちない感じ。でも、「お前に資格はない!」と言われるよりも「素晴らしい」と言われると嬉しい。

 さて、この多面的なコミュニケーションのログをどう捉えるべきか。いずれも、たわいもないことですが、いろいろな感情を引き起こされた。ショックだったり嬉しかったり。で、この言葉の質量をこれまた自分勝手な物差し・秤で計測しようとするのですが、いずれも、メモリが0なことに気がついた。これらのコメントの言葉の質量は0gだった。意味がないとか価値がないとかという表現ではなく、あくまでも質量として計測不可能だった。これは何故か?ブログのコメントだから?いずれも会ったことのない人だからか?言葉本体のレイヤーがスキャンできなかったからか?いろいろ考えたが、答は出ていない。

 つまり、「想像力とは正解へ導かない。」という3段論法が成立した。

 さて、このブログという存在、いかなるものなのだろう???では、電話の会話なら質量はあるのか?面と向かって話合えば質量はあるのか?お互い刀を構え対峙すれば質量は交換できるのか?インターネットのことを先日観た映画では、「ライン」と言っていた。なるほど、ただの「ライン」なんだとその時、妙に納得してしまった。さて、点と点の間を何色の何ポンドの何フィートの糸(ライン)で繋げようか・・・。

ガラスのジェネレーション

 年末年始はずっと元春さんを聴いて仕事をしていた。古くならない歌詞とその音楽性の突き抜けている感じが改めて心に響く。クリエティブとはこういうことなんだろうと。一瞬で古くなる言葉がネットの中で乱舞しているが然るべき手法と狙いを込めた作品は時代を越えて新しいフォースになるんだ。だから心に響くという仕組み。次から次へと市場に氾濫するコンテンツの中に存在するサイン。創造するということは古くなること前提でタイムラインに何を載せるか残せるか。この仕事をしている以上、この意識なしでルーティンだけでやっていないかと自問を突き付けられた気さえした。「君の身代わりにその深い悲しみを背負うことはできないけれど、明日のことは誰にも分からない・・・」か。

Let it be...

 「なるようになる・・・。」「そのままに・・・。」で訳はいいだろうが、この真理がビートルズを神格化し、「イマジン」がジョンを引き上げたと仮定すると、なんと、コンテンツのチカラは強いと知る。改めて「なるようになる。」が「明日は明日の風が吹く。」になるためには、普遍のポテンシャルが必要なのだと痛感する。さて、日本語は難しい。海外では政治や教育や文化や哲学・科学・医学・芸術、そして、スピーチの際、教育現場での言語、日常会話(口語)でそれぞれ異なる言語を使い分けているということ。なのに、日本で単一言語なのである。それは、明治維新の教育システムに起因するらしいが、それが全ての発端であり、国語が日本人をどれほど有利にし無効にしたかについて記された書籍を読んだ。ただの書籍の情報でしかないが、思い当たる節はボコボコにある。ページをめくるたびに「なるほど」の連続はとても心地いいリズムだった。疑念がほどける瞬間、次への答を解くカギが手元に落ちてきた感覚。なるようになってきたが成すように成した人の功績を大きな口を開けて飲み込んでいたことに気が付き、一旦、それを出したいとさえ感じた。「やるなら今しか・・・」と思えば思うほど、のどにつかえるその大きな異物を今年は少しづつ出していきたいものです。

 違和感はあとから来るが、時間の経過と共に喉元過ぎれば違和感はなくなる。嘘を虚栄を続けるとそれがいつの日か真実に変わることを消化としたくないし、明治維新を必要以上に美化することをしたくないから、強者が正義とも思いたくない。戦国時代、武力こそが規範のプライオリティーを決めていた頃の精神論を美化し偶像化した紙芝居が好きな人が多いことがこの国の観光振興に多大な功績を与えている悲劇が回り回って文化を老朽化・空洞化させているのだから、ここでリセットする必要があるだろう。慣習上の祭が純化していた時代からライフスタイルは変容している。摩擦も文化だと思えば、浪費も達成感に代用できるかもしれないが、疲労対効果の指標を黙認してまで村文化につきあう気はない。

 フラミンゴが言っている。「勝った者が正義だ!」という真実をワンピースファン達はどう捉えているのだろう?イタチがサスケに伝えたかった真実は言葉の裏にある「愛」だろうが、岸本先生はその裏にある人間の醜さも同時に描いている。三歩さんは本当にエベレストの山頂で炭素に還ってしまったのか?南波兄弟はいっしょに月の上で何を語るのだろう?なるようになる・・・確かに真理かもしれない。

good,good...

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 梅田で発見したイラストレーション作品。とても気になったのでパチリ。なかなかグッド。

メゾチントだろうな・・・。

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 やっぱり、銅版画の作品は心が落ち着く。さらにこの着色はメゾチントだろう。芸大の頃、多くの友人が油絵のゼミに進んだのに銅版画ゼミを専攻したのは2人。芸大でゼミをとるなら「油絵ありき」だったのに対して何故かその時は油絵に心が動かなった。なんでしょう、そんなのいつでも描けるだろう・・・ぐらいの魅力しか感じなかったし、みんながやることなんて・・・という天邪鬼モードも作用したのだろう。しかし、ことある毎に銅版画を見るとやはり心が落ち着く。やはり、ただの天邪鬼モード意外にも何か銅版画の魅力の細い琴線に触れていいたのだろう。細く黒インクのアナログのラインがタッチが幾重にも重なる銅版画は自分自身最高の表現です。なかなか銅版画をするための機材と場所となると条件があるので厳しいのですが、いつか(近いうち)必ず、銅版画の工房は作りたいと思っています。いつでも工房に閉じこもり銅の板にニードル一本で自分の世界にどっぷりダイブするのは自分に合っていると思います。というか、筆よりもニードルで絵を描くというタッチがどこまでも好きなんだろう。

 いやいや、いいですねエッチング。

 薄暗いゼミの実習室で春でも夏でも秋でも冬でも、一日中、銅版にニードル一本で8時間。このテンションをペン画でやった日には、カミさんから「マルキジルシ」というありがたい言葉をいただくことしばしば。でも、絵を描いていることが好きで心地いいから仕方ない。できれば、それで生活ができたら・・・とも若い頃は考えたが、それはまた違うこともリアル。飯を食うための絵なんてやはり正解ではない。絵は絵を描きたいという気持ちの時にだけ紙にキャンバスに銅版に向かうのが正解。

強い絵。

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 強い絵ですね。もう、こうなると手法や戦略や感覚や技法などどうでもいい。それらはあとからどうにでもなることだから、まず、なにがなんでも背負っているものを絵にするということ。これが絵をどこまでも強くする。上手いとか下手とか小学生レベルのお話はこの場合通用しない。よく、「自分の世界観」という言葉を若い人は多用するがそれは幼稚園レベルのお話。また、「アートな街に・・・」とかいうフレーズもフレーズだけ一人で放浪していることがよくあるが、これはヨチヨチ歩きレベル。アートが街に溢れるわけないじゃん!それはアートではなく、shitじゃないかな。

 強い絵が描けるようになることが絵を志した者なら誰もが通りたい一つ目の門だろう。その中に入れた人間だけが「絵」を共有できる。入れない人、入らない人は、門の外でそれらを鑑賞していればいい。余計な批評や蘊蓄は門の外で自由に交換すればいい。だが、一旦その門をくぐれば、想定以上の何かを背負うことなることも現実的な問題。それは簡単に放棄できるが、二度と、門の中へは入れない・・・みたいな。

 のりまき先生、こんな感じでいかがでしょう?

熱いなぁ~。

 いやいや熱い。彼ら彼女達は熱い。この熱さ、なかなかのものです。いやいや逞しい逞しい。この感じこの感じとてもいいっす!お互い学生とクリエーターとかっていう立場ではない、求める人と与える人。さらに、与えながら求める感じがこうも見事にマッチするコミュニケーションは身体も心も熱くなる。やはり、年齢を重ねるたびに確実に蓄積している何かと引き換えに整理しようとするベクトルが本来それらにあった熱を少しづつ冷ましているんだ。気がつかいないうちに結局ルーティーンで物事を考えてセオリーでオブジェクトを見ているんだ。何とかしたいと心の底から願うならやはり新しいフィールドにダイブしなければ今の自分に気づかないまま時間を無駄にすることになっているんだ。気がつかせてくれるのも気がつくのもタイミングひとつかもしれないが、そもそもの部分で臨まないものは触手の方向さえ定まらないのだろう。だから、それが定まればあとは伸ばすか否か。で、伸ばすと決めたなら伸ばすと決めているなら、余計なことは考えない。熱を感じる方向に手をかざそう・・・と。すると、やっぱそこには熱があるんですね。いくつになってもそういう状態でいたいと思うひとときでした。いやいや、結果こちらが「ありがとう」である。楽しい楽しい。

待つな!動け!

 あるテレビ番組である会社の社長が登場して、私の座右の銘です的な感じで大企業なのに質素な社長室にこのような文字が額に入れて飾ってあった。その言葉が「待つな!動け!」だった。なんともストレートで曲がりのないフレーズだこと。Don't think, just do it!ということだろう。この社長さんの笑顔の裏にはしっかりとこの軸が太く存在しているのだろう。その割には穏やかで寛容なその社長さんの表情をテレビで見るにつけ、いやいや、自分が何者か知っている人は笑顔も素敵だなぁ~と思います。ラーソンが愛した人生のパートナーが書いた手記を今読んでいるが、人生のパートナーについて彼女が語るひとつひとつの言葉にリズムがあることに気がつく。「ラーソンはひとりで死んだが、私も同時に死んだと言える。そして、私が生きている以上、ラーソンも生きている。」的な原文があったが、なんとも痺れた。

 ラーソンは、せっかちで心を言葉にするのが上手い男だった。弱い部分も多くあったが、強い部分も多くあったと。自分に正直で他人に寛容でモラル的な部分の芯が揺るがない人だったと。うんうん、そんな生き方に憧れます。

チョットワイルドなロン。

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 ちょっとワイルドなロンのイメージ画です。この物語のシリーズで今年は来年の卓上カレンダーを作成しようと思っています。

 キャラ的には12名は余裕でいるので、それぞれにもう少し仕上げ感を出して、いつもの卓上の12枚モノ+表紙で年末に本年お世話になった皆様に配布・発送しようと思っています。

このデッサンは上手い!

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 いろいろネットで調べ物&リサーチをしていてふと発見した「鉛筆デッサン画」。学生の頃は鉛筆デッサン=課題みたいなニュアンスだったので、あまり、好きなタイプの描画手段ではなかったが、いろいろな画材を使って絵を描く上でやはり、「鉛筆」はテッパンだと40歳を過ぎた頃から感じるようになった。別段、基本に還るみたいなテイの年齢でもないのだが、鉛筆と紙の関係が他の画材よりもしっくりくるような感覚。絵の技術を会得する手法として、水彩画でもアクリルでも油でもテンペラでも木炭でもなく、やはり、鉛筆という画材が一番技術を習得する上で適正な手法なんだと。学生の頃にある程度、デッサンはやりまくったので、社会に出てからしばらくは「鉛筆」という画材に注視することはなかった。シャープペンシルやマーカーなどもっとプロの臭いがする画材を仕事で使うことに浮かれていたのだろう。でも、鉛筆はやはり基本なんだと思います。デッサンが上手いから絵が上手いではないのですが、やはり、上手い強いいい絵を描くための三大要素の一つである画材を使いこなす技術を習得するには「鉛筆」に始まり「鉛筆」に終わるのかな・・・と思います。偉大な画家でも、人生の後半でタブローの原画が美術館の展覧会の後半に展示してあると、この画家も凄まじい大作の数々を描いた人生の後半で、シンプルなタブローも描き残したんだと思うと、画家の一生の凹凸が感じることができ感傷的になる。

 ちょっときなりのキメの細かい水彩用紙にFから2Bぐらいの鉛筆で描く絵はなんとなく心が落ち着く。硬いデッサン、強いデッサン、優しいデッサン、緻密なデッサン、デッサンも十人十色でいいのですが、その中でも、心地いデッサンを見ると心から上手いなぁ~と心が痺れます。うん、これは上手い。

この絵必要ですよね。

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 何かショーと言えば・・・みたいな定番の絵ですが、これってやはり強いな。大きなイベント空間に装ったキレイドコロが整列すると、うん、なんかその気になるのは何故だろう?この組み合わせを最初に考えた人はほんとエライ。車でもバイクでもボートでもウエアは勿論のこと、想定外の商品の展示会でも彼女達の存在感は圧倒的です。このニーズって盛れば盛るほど摩訶不思議感が出るから凄い。あまりイベント会場ってゴミゴミとした情報が多くって精査されているようで意外とパイロットパターンが多い。コミュニケーションをしてみようかとチャンネルを切り替えても思いの他、時間の無駄が多く、現場にいる人達のポテンシャルは低い。わざとが技なのか!?と思えるぐらいに低い。恐らく、イベント担当として前日ぐらいに配置された人が多いんじゃないかな。まして、この女子に何を聞いても徒労に終わること間違いないとなるから、結局、「体感しろ!」という結論が多い。ま、こちらの見る力も試されている空間なだろうけれど、わざわざ、ディテールが欲しくって出向くがさほど・・・という結果が多いから、ほんとにいい情報に出会えるタイミングって演出とは別のベクトルなんだろう。ただただ、メンタル的に目の保養にはなるが、そこから先が見事に断崖マジック。でもでも、少なくとも何かを感じる必要がある場合は、このようなイベント会場で臭いというか感覚的に体感することも大切ですね。何事も頭で考え過ぎはNG。

例えばこういうキャラを・・・。

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 例えばこういうキャラを描いた場合、頭でイメージしていたように描ける場合と、そうでない場合がある。それが跳ねる場合と跳ねない場合がある。この作品の場合、それが微妙で、イメージは描けたが、まだ、跳ねてはいない。解決策としては、しっくりとくるまで描くしかない・・・。

頑張りましょう!

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 とある某日の講義・実習風景。70名の皆様、あと13回、頑張りましょう!

生きたストローク。

 「いい絵」の条件とは?などという質問をよくされる。そんなこと立ち話でお話できないことだし、いい質問ではあるが、質問者のボトムがどこかまず見極める必要があると同時に、リミッターも瞬時に設定しないと失礼になる。これがコミュニケーションの一番難しい節である。条件として「絵に興味のない人」「絵とは無縁の人」「絵を利用しようとする人」「絵に縛られている人」「絵を誤解している人」に対してはこのような質問は成立しないから、質問者の意図も汲み取る必要があり、よくぞ数多の会話の糸口の中からその質問をチョイスしてくれたという感激の気持ちもあるから、用意はしているものの、精一杯レスを返したい瞬間。だけに、完結にまとめようとするが、これが難しいのガチの部分ですね。

 で、「いい絵」についての、一番表層の部分でその答にしている場合が多い。それは、絵に精通していない人でも共感できるだろうからと、考えているからである。深い話をし出したらエンドレスだし、お互いカウンセラーになって深層心理をお互いに紐解き合いながら意見交換しなければ、この綾は紡げないからである。その表層の部分のひとつは「ストローク」のお話です。

 よくデッサンでも水彩でも油絵でもストロークが「生きている」「死んでいる」と表現するそれである。では、なぜ、絵が上手くなるために練習するのか?から説明をしますが、練習の絵は必然的にストロークは死んでいる。というより、練習のストロークが生きているはずはないからである。いい絵を描くために技術的なこと知識的なことをまずは頭に一定量詰め込めば、準備ができるし、白い紙と鉛筆さえあれば、絵は描ける。しかし、例えば、白い紙に一本だけラインを描いてみるとよく分かるのですが、白い紙を見て鉛筆を握っていた気持ち、紙にラインを走らせる瞬間の気持ち、そして、そのラインを客観的に見つめた時の気持ち。この3段階の気持ちの中に、一瞬でも余計な思惑が入るとラインストロークは死んでいるはず。しかし、いい状態で白い紙に対峙し、さっと鉛筆を走らせると、そのラインは生きた軌跡として白い紙に刻印されているはずである。微妙なお話ですが、鉛筆を持ってラインストロークを走らせなければ、白い紙に鉛筆のラインは残らなかったはずですから、そのラインを引いた人の気持ちがそこにあるという論理。たった一本のラインでさえ、100人100色ですから、描き込んだデッサンや水彩画や油絵などのそんな気持ちを重ね続けた一枚の絵が「生きている」か「死んでいる」かは、描き手の軸次第ということになる。これが、また、絵だけのお話ではなく、あらゆる万物万象に適用できるから、恐ろしい。

 つまり、「生きたストローク」とは、結局、無心である必要がある。だから、無心になれるまで練習する必要ががあり、練習をどれだけすれば無心になれるかは個人差があるということ。練習しないでここのクラスにダイブできる人を、まぁ、一般的に「天才」と呼ぶんでしょうね。羨ましい限りです。

 気持ちは気持ちとして、策略は策略として、感性は感性として刻印されるから、手は抜けるはずがない。生きたストロークでいい絵(いい仕事)をしたいなら、磨くことと感じることの末に自然に手が頭が心が動くことが必要条件。だから、絵筆もロッドもマウスも同じ同じ。

たまには・・・。

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 たまには描いておかないと・・・。とは言え、あまり考える過ぎるのはしない。仕事じゃないんだから描きたいモノだけを描く・・・が一番楽しい。

遊ぶ、食べる、寝る。

 勤勉な日本人のリスクは遊ぶことに不器用で、食べる欲求に対しても摂生ありきで、寝る間も惜しまず勤労勤勉・・・みたいな価値感というか社会規範に支配されてはいないだろうか。よく遊んで、よく食べて、よく寝ることで「やらなければならないモード」にスイッチングがスムースなことをまるで悪行三昧のように捉えてしまうような意識がないだろうか。その規範というかモラルというか倫理がいい意味でいい側面が活性化している時はそれでも経済や精神世界は安定するのだろうが、ひとつ箍が外れるとその弊害が津波のように押し寄せている。それが現代の日本の悲鳴に繋がってはいないだろうか。呑気で気楽な印象のある国民性に対して、日本人の勤勉な特長は優位だぞ・・・みたいな自負が実は痛い側面が同居していたんだろう。政治、メディア、教育、経済、かなり現代の日本は「痛い」状態だが、この「痛み」の末には完全治癒が成し得られるのだろうか。治癒しているつもりがお互いに傷口に塩をすり込んではいないだろうか。まぁまぁ、そんなに神経質にならず、もっともっと、たくさん遊んで、たくさん食べて、いつでも寝れる人間が規範を牽引すれば新しいニーズや新しい才能が開花するしろを創っていくのじゃないだろうか。神経質に教育も政治も経済もIT・クラウド・ロジカルシンキングで何かを創造しているようで、実は隣人と同じことをして満足しているだけ。いや、SNSなど隣人と同じことをしなければ「いいね!」に繋がらないからせっせせっせと餌を巣に持ちかえっているループ。働きアリにはSNSはなんとも心地良いプログラム。その規範から倫理からモラルから飛び出すこともせず、日陰でギターを弾いているキリギリスを黙認してはいないだろうか。実は飛び出したいのに・・・。

 で、遊ぶとは?食べるとは?寝るとは?どういうことなのか。これも設計図を間違えると蟻になるし、独自の世界観や感覚があればキリギリスになれる。「遊び方、食べ方、寝むり方」の書籍でも書こうかな。限りなくネタはありそうだし、エリートには書けないだろうし、意外とのびしろあるかもね・・・。

なんか落ち着きます。

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 卒業してあまり訪れていない大阪芸大。久々にここに座ってみた。なんだろう?この落ち着く感じ。頭の中のいろいろなリミッターが解除されて昇華する感じ。落ち着くというか自分の場所に来た感覚。もう卒業して26年が経つがここの空気は昔のまま・・・みたいな。故郷とはまた違うこの場所の安心感はやっぱいい。

鉛筆デッサン。

 娘が受験のために鉛筆デッサンの教室に通うことになった。ここで基本を学び受験の実技の対策とするべく。さてさて、この「鉛筆デッサン」の極意ですが、古今東西、芸術・デザインを志す全ての人にこの能力・技術は必要不可欠。しかし、そもそもデッサンを教えるということは難しいのがホンマル。しかし、受験というタイミングでデッサン力を上げたいと考える受験生というニーズに対して、果たしてその教室の先生はデッサンをどのように紐解くのか?それが一番興味がある。大阪芸大には大阪芸大のデッサンの方程式があり、東京芸大、多摩、武蔵美、京都・・・それぞれにデッサンのニュアンスが違う。デザインや建築の分野でもデッサン力は必要である。空間認知能力として動的なレスポンスを返す運動に対して、2次元か3次元にその見える情報を複製するのがデッサン。その技術の習得にはいくつかのポイントがある。さてさて、どこまでダイブしてくれるか楽しみである。

 頭のデッサン力が上がれば私はそれでいいと思っているから、技術的なことは何も言うつもりはないが、一人のクリエーター・アーティストとして対峙するならいろいろ言ってしまうかもしれない。まぁ、それはその時考えればいいかな・・・と。そのあたりを理解している先生あることを願うばかり。口だけのヘタクソなら言うべきことを言わねばならないし・・・。ってなんでそんなに臨戦態勢なのかと自分にツッコンでいるが、いやいや、それが「絵を描く」という本質の部分。御曹司の息子で口の達者なヘタクソがいたが彼は今何をしているのだろう?一周回ってヘタクソをエンジョイしていればいいのだが。

「雨」。

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 「日本画モダン」というスタイルなのだそうだが、それはまぁ、どうでもいい。しかし、この絵、最初に見た時からインパクトは小さいが記憶に残っている。日本の慣習というか文化というか生活様式の一部分を見事に切り取っているというスタンスに置いていつも事ある毎にこの絵が頭に浮かぶ。それが何故だか理由は明確ではないが、瓦の上に降り始めた雨というこの切り取り方のセンスが心に残っているフィーリングである。細かく文章化すると画面の校正や彩色の巧みさなどが上げられ批評されているが、その文章化されたこの絵の分析の向こう側にこの絵の真価みたいなものがあるように感じらる。それは何だろう・・・?と。センスとひとことで言ってしまえばそれまでなのですが、つまり、これは、福田平八郎さんの時間とでもいうのだろうか、それがこのシンプルで明確な「モダンさ」に完璧に封印・刻印されている絵なんだろう。これが作家・画家としての究極の至高のような気がする。

 うんうん、こんな1枚の絵を残せたら最高だろう。

生涯学習とは?

 「生涯学習(しょうがいがくしゅう、英語:lifelong learning)とは、人が生涯にわたり学び・学習の活動を続けていくこと。日本においては、人々が自己の充実・啓発や生活の向上のために、自発的意思に基づいて行うことを基本とし、必要に応じて自己に適した手段・方法を自ら選んで、生涯を通じて行う学習だという定義(昭和56年の中央教育審議会答申「生涯教育について」より)が広く用いられている。」とwikiにはなっているが、「生涯学習」かなんとも便宜上の便利極まりない言葉。

 そもそも「学び」をどう捉えているかでこの言葉の質量が変化するのですが、人生って学びであるから、別段、そこにスポットをあてなくてもいいってことを前提に、この言葉の実態はニュアンスやフィーリングやシステムに依存している。というよりも、このバリアの中、よほど心地がいいのかどうもある時期から「生涯学習センター」なるものが乱立している感じ。さてさて、海外ではこの文化というか慣習は、いや、ビジネスモデルはいかなものか?恐らくNPOという価値観が市民権を得たあたり、つまり、世相としての無意識から意識下に突出してきた頃とちょうどシンクロするのかな?世の中の価値観が多様化しましたあたりのニュアンスから人生十人十色それぞれの人生を謳歌するために、アイデンティティをどうのこうのあたりから、一般には「生涯学習モード」になったような印象がある。

 さて、では、その空間では何をしているか?研究か?実験か?総合的な考察か?もしくは、異文化・異慣習・学会との情報交換をしているのか?いやいや、普通のことを志だけ高くしてやっているだけ。肯定も否定もしないが、わざわざ「生涯学習」というテイでやることでもないような。ただ、冠が欲しいだけのための冠。言わば、兜みたいなもので何から頭部や心を保護するため!?

 人生、生きることは戦いだ!みたいなテイが好きな人は多い。だから、いろいろな防具が必要なのは理解できるが、そもそも、「生涯」って「学習」でしょう。日本人はある時期(約60~70年前)から生活の中に「死」を意識しなくなった。ライフスタイルやビジネスの現場でも、「死」を美化し、「死」という価値観を隔離する教育・経済・文化を構築してきたという洞察する人の書籍を読んだが、まさに!と思いますね。「生きていることは美しく、死は暗闇。」と。こんなバランスの崩れた思想をどこかの国からコピーペーストしてくるから、エンジンがフリーズするんですね。常に言語は「0」と「1」。基本何事も2進法でいいのですが、時に10であったり、時に16であったりと・・・。ならば、素数のようなライフスタイルってのも、実はいいかもしれないですね。

Reflection of Dragon Tattoo.

 原作は1300ページのボリュームがあった。それを158分にどのように再編成されているのかという視点があった。小説を完全に映画化されているとは言え、映画の物語的には40%ほどスルーされている部分があった。しかし、この40%を補填し100%にするのが映画。タイトル映像からラストシーンまで突き抜けた感じでした。恐らくどこかの段階でフィンチャーはこの小説の事を知り、何十回と読破しているはず。その中で頭に湧き上がったイマジネーションの結晶がこの158分なのである。と考えると、それだけで興奮がおさまらない。物語は頭に入っているので、あのページがこの映像なのか、この物語の部分がこういう表現なのか・・・と設計図と完成成果物を細かくチェックする右目と、もうひとつ。この音楽にこの映像、このプロットにこの構図。この設定をこのロケで・・・と絵的な部分や音楽的な部分、そして、映像の組み合わせ方などの手法を非言語で捉えようとする左目。この両目に映ったリフレクションが今でも頭の中で反響している。物語を知らずして映画158分だけの情報を得た人ならば、この映画はどのように映ったのかは知る由がないが、それは、まぁ、どうでもいい。

 そうかそうかそれで、そのフレーズが「火と戯れる女」へ繋がるのか。早速、本屋に走ろう。

社会規範の変化。

 あるセレブな都市圏(海外)の幼稚園のお話。子どもたちの入園時間をご父兄の皆様に厳守していただくために最初はその保育園はルールを作成しました。「幼稚園が始まる10分前には入園させてください。」というルール。しかし、10%以下の比率で遅刻者が推移した。そこで、園長先生は、遅刻をなくすために10分遅れると10分間に対してペナルティー(お金)を払って頂きますというルールを新しく設定した。それまでは「遅刻することはよくないこと。」という規範があったためにご父兄は「遅刻しないように」と考えたのだが、10分間分のペナルティーを支払えば遅刻してもいいと解釈するようになってしまったそうです。結果、このペナルティーを支払うというルールを設定してから遅刻者数の割合は30%となるというお話。これは本末転倒であり、園長はこの推移を分析して、10分間の遅刻のペナルティールールを止めたが遅刻者の割合が30%から減ることはなかったと・・・。

 これが社会規範とルールの関係性の顕著な事例だろう。このようなことが特にインターネットの世界では竜巻のように起こっている。一旦、流れやすいルートを見つけると重力の法則に従って水はそこへ流れ込みルートを確保する。この流れはなかなか元にはもどらないのである。人間の心の仕組みの結構根幹の部分をこの事例は表出させている。
 
 「ルールは破るためにある」などいう暴論をこの事例に相関させるつもりはないが、モラルやポリシーに訴えていることがいかに人間の心に大切であり、システムやルールを創ることで人間の心の弱い部分が吐出するというリアルは社会との関係を適正に構築する場合、意識しておかなければいけないというオチ。

 人間はその中に経験値からいくつもルールをもっている。社会にも偏在するルールがあり、家庭にも会社にもルールがある。何のためにそのルールを守るかが具体的なればなるほど、その対極にある価値感が起動しルールの天秤を揺らすのである。インターネットは言わばいろいろな意味でそれまでのルールを揺らした。そして、今も世界を揺らしシェイクし続けている。さてさて、自分の中にルールはあるのだろうか???

心地のいい場所ベスト3(その2)

 心地のいい場所ベスト3についてですが、いろいろな捉え方があり、富士山の頂上だとか、琵琶湖の上だとか、六本木の美術館だとか、N.Y.の地下鉄だとか、上海の路地裏だとかということはいくらでも言えるのですが、それは心地がいいというか、想い出の場所であり、心地が良かった場所でもあるのですが、ベスト3となるとちょっと違う。ならば、あの人と出会った場所だとか、あの人とお酒を飲んだ場所だとか、あの人と盛り上がった場所だとかとなるとこれは心象の場所であるから、これも心地がいいとはちょっと違う。「心地がいい場所」とは、心がリラックスできていい刺激をバランス良く適正に感じるモードに頭が切り替わる場所。それはリラックスと緊張感がちょうどいいバランスで調和される場所となる。

 では、第3位は「ホームセンター」。どのお店でなければならないというこだわりは一切なし。とにかく、あの雑多な道具や植物やネジややすりが売ってあるあのホームセンターにいると、心がいい感じに高揚している。それは、前述のリラックスと緊張感がとてもいいバランスで調和しているとてもニュートラルになれる場所なのである。いいですね、ホームセンター。なんの先入観もプランもないニュートラルな状態でベニヤ板を見ている自分。何かを作りたいわけでもなく、ただただ、ベニヤ板を見ていると気分が落ち着く。ネジのコーナーなど、もう、いろいろなサイズがあるとウキウキワクワクするし、ちょっと、変わった道具のコーナーなど動けない。それに、木の香りとも鉄の香りともペットのエサの香りとも植物の香りともなんとも言えない、自然のナチュラルな香りが漂う店内をぶらぶらしているだけで、とても心が落ち着く場所。だから、第3位。

 では、第2位は「画材屋さん」これは必然ですが、筆や絵具やキャンバスやイラストボードや彫塑や立体模型のパーツにちょっとした書庫には専門の書籍ばかり。う~ん、筆を見ているだけでなんともテンションがあがる。とは言え、買うテイではとことん吟味する。画材に足を運ぶ度に筆を買っている。その時の気分で別に何も買う気がなくともとにかく筆を買う。それ以外の画材を買う時でも、どうしても、筆が気になる。新しい絵の具の色は出ていないか?イラストボートで新しい商品は出ていないか?安いキャンバスはないか?もう、動物園の猿以上。で、吟味して吟味して筆1本で納得してお店を出る。そして、数日後また同じ店に行って別の筆を買う・・・みたいな。画材屋さんは時間があれば何時間でもいることができる素敵な場所。

 で、第1位は、勿論、「本屋さん」しかし、小さい本屋は飽きる。出来るだけ大きな書店がいい。常々慌ただしい時間を過ごしているので、10分とか20分程度しか入れないし、必要な書籍を買ったら、次の仕事となるから、じっくり書籍をチェックできないのが辛い。でも、その辛い感じがまた次の機会に繋がるから、書店は一番心地のいい場所。電子ブックが氾濫・飽和しても、私は絶対に書店に行くでしょう。オンラインでダウンロードして書籍を読んでますみたいなのはキライ。そんなに毎日毎日本屋さんに行って何を探しているの?とよくカミさんに言われるが、「何を探す?」そう、「何を探すか?」を探しているから本屋に行くのですね。だから、私の心地のいい場所ベスト1は「本屋さん」でした。

心地のいい場所ベスト3

 かれこれこのブログを始めたのが2007年の5月。振り返るとここまで続くか、ここまで書くのか・・・と自分自身で驚いている。2007年の段階ですでにブログでビジネスとかブログで情報交換とかブログで販売促進をなどのテイが充分認知されていた。すでに企業はアルファーブロガーという人達に従来の広告戦略を担ってもらい、自社の商品を紹介するという戦略の成功事例が出始めた頃。私自身、その頃、「ブログ」という言葉は知っていたが、正直、全く興味がなかった。沖縄の友人から「スギノさん、ブログしなきゃ!」と言われテンション低めに始めた記憶がある。しかし、なになに、これがこれがで、早5年が経過した。日記を付ける習慣もなかったし、文章を書くのは嫌いではないにしても、仕事でパソコンの前に座っていることや、写真を仕事で撮影したり、映像を撮影したりすること。そして、ソフトや画材でイラストを描くことなどがこのブログという手法にマッチした感覚。私は何かカタチのある商品を販売しているわけではなく、「企画やデザイン」を印刷物やWEBサイトや映像などのコンテンツにしてビジネスをしている人間だから、その考えて、創って、販売するというプロセスとブログを書くということが意外にマッチしたような感覚ですね。

 さて、そんな「スギノのノギス」ももう少しで6年目突入。で、このブログが2,998本目の記事なのです。だから、あとこれを入れて3本の記事で3,000本の記事となる。3,000mと言えば、山で言えばかなりの標高であり歩き始めてそろそろ酸素を意識する発汗状態や鼓動を意識する高さであり、¥3,000と言えば、そこそこのお店でそこそこいいものを食べられる金額。そして、3,000マイルと言えば、ニューヨークからロスまで車で走ればそれぐらいでしょうし、と、この3,000という数字はなかなかな数字なのである。富士山に例えるなら3,775ですし、今、このブログは7合目ぐらいかな?しかし、世界には8,448という山もありますし、あまり行きたくないが、10.911mと言えば現在確認されている一番深い海底地点。そう考えると3,000という数字はまだまだいわゆる「旅の途中」と捉えることができる。さらに、3,000gということなら、バストーナメントで上位に入れる入れる。もしもしもし、3本でこのウエイトを出していたら、どこのトーナメントでも優勝できないまでもそこそこの順位であるはず。だから、この「3,000」という数字はいろいろな意味でそこそこだと捉えています。一年365日を5でかけても1,825ですから、毎月平均50本の記事を書いたことになる。ひとこと「お前は暇か!」とツッコまれたとしても、この3,000は「楽しめた」からこその数字です。「毎日、よくそんなブログを書く時間がありますね?」と呆れられることも多いが、人間、「楽しいこと」は時間を巧みに配分している。これが何かビジネスにプラスになっているか否かなどはまったくリアリティーはありませんが、あくまでも「商品の販売促進」や「自社の紹介やプロモート」目的ならば、ここまでの「楽しさ」はなかっただろう。最初に設定した「スギノのノギス」の制約が緩かったことも続けられた原因・要因のひとつですね。振り返ると確かに仕事のことは20%も書いていない・・・という。

 で、前置きが長くなりましたが、「心地のいい場所ベスト3」を書き出そうと思ったのですが、このネタはちょっと練り直そうと考えておりますので、2,999本目か3,000本目にまとめようかなと思っております。この場合の「心地のいい場所」といのは結構人間性が現れると思うのです。私はこういうテイの人間ですって直球なことをべらべら述べるよりも、「好きな心地のいい場所」を言うだけでその人の人間性が見えてくるような。だから、私の心地のいい場所NO.1は「戦場です。」という人とは友達になりたくなし、「キャバクラ」ですという人間もちょっと勘弁してほしい。逆に「西表の海の中」という人ともやはり最後の最後で友達にはなれないはず。また「どこどこのシェフのいるあの料理を食べられるレストランかな・・・」というメンドクサイ人は「へぇ~」で瞬殺。だから、心地のいい場所を思い描くと自然と笑顔なるような場所はその人の特性が出ると思います。最近で言えば、「バスボートの上」ってのは私の心地いい場所ベスト100の上位50位ぐらいには入ってくるでしょうが、ベスト3となると別格ですね。古い記憶を辿れば、「心地いい場所」はほんとに覚えているだけでそれこそ3,000ぐらいはあるでしょう。覚えていればという条件になるので、忘れていることもあるが、1週間ほど仕事もせずにパソコンの前に座る時間があれば、軽く3,000は出てくるでしょうね。N.Y.のあの美術館のトイレ、良かったなぁ~、セントラルパークも良かった、ホワイトプレーンの駅も良かった、っていう風に。

 のでので、心地のいい場所ベスト3は次のブログにて。

 で、逆に「心地の悪い場所ベスト3(ワースト3)」はどこだろう?と考えると、第3位は「ブランド店」。あのどうでもいいディスプレイと棚にならんだ無意味な装飾とエゴの塊。それに陶酔している人間の価値感が充満しているあのブランド店の雰囲気。あれは心地悪い。時計や服やバック関係のブランド店には入りたくない。そんなお金がないからというひがみ根性が根底にあるのだが、それにしても、あのテイに微塵も価値は感じない。

 そして、第2位は「人の多い場所」。渋谷の交差点というわけでもないが、花火大会とか何かのイベントで人がごちゃごちゃいる場所は嫌い。ほんとに嫌い。空気も悪いし、集中力が落ちる空間です。それに人ごみということではないが、会議の場も嫌い。長時間、結論の出ない議論につきあわされるような無意味な会議が嫌い。能ある鷹が爪を隠すようなピリピリした駆け引きの会議は心地いいが、緩く押したり引いたりの議論は嫌いである。「うどんかぁ!」みたいな。

 第1位はこれは生物の人間として当然の場所。それは「水の中」。これは心地がいい悪いの問題ではない。泳げないということが最大の理由にしても、あんなところが心地いいと感じる人と気持ちを同じに、ベクトルを共有することは難しい。人間の誕生は海です。だから、母のような大きな海に抱かれて・・・みたいなことをよく言うが、えっ!今から君は母のお腹の中に戻りたいと考えているの!?となってしまう。生まれ出て今二本の足で立っているのだから、炭素に還るまで一生懸命筋肉を動かしましょうよ!って感じ。何らかの理由で心臓と脳が停止した時、海でも土でも宇宙でも抱かれればいいこと。

 まぁ、そんなテイで「心地のいい場所」を書き出したいと考えております。

ドラゴン~のご両名。

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 ちょっと、鉛筆にてドランゴ~のご両名を描いてみました。ってほど楽しみにしています。

スチームパンクというジャンル。

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 うんうん、なかなか、良さげですね。

子どもの頃の一心不乱な・・・。

 「子どもの頃、一心不乱になったあの気持ちを想い出しましょう!」というキャッチコピーでペンタブの販売促進メルマガが到着した。このライターは本当に子どもの頃、一心不乱に絵を描いた経験があるのだろうか?時代が変わったので、子どもたちに紙ではなく、タブレットに向かえと言っているのか?なんでタブレットを売るためのキャッチコピーに子どもの頃の大切な想い出を活用・乱用しなければならないのか。その頃の一心不乱の度合いを自分自身の尺度で決めているのはこれ侵害極まりない。あの頃、白い紙(専用のスケッチブックやクロッキー帳などはなかったのでもっぱらオリコミチラシの裏だったが)に向かう時の気持ちって、大人では絶対に理解できなデリケートでフェイバリットな部分である。一心不乱に描いていた・・・だろうぐらいのニュアンスでこのコピーライトを書いていたとしたら、君にこの言葉は重過ぎる。

 例えば、君が何かこれまでに「一心不乱」に何かをしていたというテンションは何だろう?仮に、同じ絵を描くこと(落書きでもいいが)だったとしても、どれぐらい一心不乱に描いていたのか?子どもの頃と学生から大人になって絵を描くということはちょっと背景やニュアンスが異なるので、一心不乱というのは、時間もコストもクライアントの注文などそれらの条件を抜きにして、一心不乱に自分の描きたいモノを描くということである。その密度や時間でその度合いは決して計測することはできないが、もし、「仮面ライダー」に登場する全ての怪人をあなたが描いていないとしたら、「アストロ球団」や「野球狂の詩」や「ドカベン」などの名シーンを一日中描いたりしていないとしたら、「釣キチ三平」や「アキラ」の1ページまるまる模写したりしたことがないとしたら、あまり、「一心不乱」という言葉を使わないでほしいものである。

 まして、タブレットを売るために「子どものころのあの一心不乱な気持ちを・・・」って、安易にイージーに軽率に使わないほうがいい。そんなタブレットでウルトラマンの怪獣のあの迫力なんて描けないと思いますね。だって、道理は簡単。あの頃、チラシや何か印刷物の裏だから一心不乱になれたのです。子どもに真っ白な画用紙が綴られてるまっさらなスケッチブックなどがあった日には、テンション上がり過ぎて、何も描けない描かない。逆に緊張がマックスになり、ガチガチの絵になっていたはず。間違いなく自分ならそうなっている。それが、タブレットって!?他人はどうだか知らないが、私の場合、絵を描くのに、スイッチを入れました。絵を描くペンを持ちました。で、一心不乱に描きましたなどそんなテイは絶対にあり得ない。

 こんなデジタルツールで「上手い絵」は仕事として描くことができるだろうが、自分自身が一心不乱になれるような「自分の絵」は絶対に描けない。だって、何より、本人(心)が集中できませんからね。って、一心不乱って「仕事用の集中」とはニュアンスが違う。45歳を超えて、その言葉の意味がようやく理解できてきた。仕事と自分自身のための「一心不乱」は違うのだと。

 だから、この程度のメルマガの安易なライティングを掘ってみたくなったのだろう。いやいや、ライターの方、失礼いたしました。頑張って、真価を極めた自分自身のリアルなディテールをフィードバックさせたライティングを目指してくださいませ。

コンテンツの鮮度。

 小説や漫画が原作の映画やテレビ番組は何故かどこかテンションが上がらない。いやいや、ほんとんどが何かの原作ですよ・・・みたいなメンドクサイ背景は別として、やはり、すでに存在して一世を風靡した物語と、この映画はこのテレビアニメは、書き下ろしの新鮮な物語。物語はあのあたりに行くらしいが、その真相はまだ誰も知らない。これがメディアに期待する鮮度。テレビがとことんつまらない決定的な理由は「鮮度が低い」から。何を持って鮮度なのかなどって議論もメンドクサイぐらい鮮度が低い。鮮度が何かなど考えるレベルでもう鮮度が低い。いい訳はどうにでもなるが、そのいい訳さえ鮮度が低いから、そりゃそうでしょう!みたいな喜劇と悲劇。感動を捏造しても底が浅いから部ブラックバスも卵を産まないみたいな。

 では、コンテンツの鮮度を上げるにはどうすればいいか?毎日一年365日、7/24、携帯からスマホからPCに貼りついて情報をリアルタイムに更新すればいいのか?違う、それでは人間が単にスマホのインターネットの奴隷になっているだけ。奴隷という言葉に語弊があれば、歯車になっているだけ。コンテンツの鮮度を上げるということは、ちゃんと食べて、ちゃんと噛んで、ちゃんと消化して、きれいなウンコにすることである。そこに実はスピード感などいらないのです。地球が生まれてからずっと流れている時間のサイクルで生物が生物のスピードで排出するSOMETHINGを誰かが知る時、そのSOMETHINGが誰かにとって鮮度があればいい。糞実物に「鮮度」という語感はマッチしないが、これはただの比喩。

 で、人間社会から排出され結果不協和音になるような解答や結論や正義なら、糞実物の方が地球のためになる。なぜなら、鮮度が高いですからね。

あなたはあなたの絵を描け。

 大御所の言葉だけに重い。この時代、絵で生活していくということは具体的どういうことなのか?子どもの頃なら、「僕は絵で飯を食うぞ!」などという考え方に対して肯定的な大人は皆無だった。少なくとも自分自身の生活の中でこのような考え方を共有できる人は誰ひとりしかいなかった。小学・中学の先生レベルではそのポテンシャルの低さは今振り返って考えてもぞっとする。現代、教育現場の人材の空洞化というかシステム化が学生にどのような影響を及ぼしているかと考えると、現場には現場の主張があるだろうし、一番上の人が守り続けている法典を崩さないかぎり、この構造は半永久的に継続されるだろう。それが日本人の幸福論になるかならないかなどと極論を展開することは棚に上げて、「絵で飯を食う」という言葉にフォーカスしたい。

 恐らくの空気感ではあるが、自分の親でさえ、いや、親だから、「そんなことで飯が食えるはずないでしょう!」と言われるだろうありきで、人生について考えてきたので、実際、悲しませることもしたくないとは考えるが、親のために生きているわけではないので、人生、一生とはある意味自分勝手でいいはず。よく「育ててもらった恩」というニュアンスを人は多用するがそれは回り回っている部分で、その恩と引き換えに自分自身の人生に枷をリミッターを設定したくないとは考えてきた。それを「絆」だと勘違いしたくなとでも言うのか。彼が片道燃料でアメリカの軍艦に向かって自爆するから、僕も・・・という国の発想から全ての価値観や人生感が生まれている構築されているとしたら、なかなか「あななはあなたの人生を」とは言える空気じゃなかも。

 で、「私の絵」とは何か?45歳あたりからなんとなく分かってきた気がしますね。

 ただ、自分の娘には口が裂けてもそんな「恩」を規定するつもりはない。

達筆のススメ。

 達筆という美学がOLや主婦層に注目らしい。が、まぁ、新聞のネタだからどこまでの真価かは自己判断としても、ネット時代、達筆フォントっていうのがあるぐらいでパソコンの中に用意されたソフト用のフォントで達筆ですとはならない状況が、いろいろな現場で再浮上しているのだろう。そもそも、達筆というのは技術的なことよりも、どちらかと言うと状況というか気持ち・心の部分が割合として大きい。それを、安易にパソコンで済まそうという心の部分が恐らくプリントアウトに乗り移って伝染しているのだろう。こういう風潮に対して、心を込めたいなら筆で書こうよということ。何でしょう、便利だ便利だと取り入れて、その便利が一般に浸透して飽和するとそれは安易だ軽率だになってしまう人間の心理構造。

 つまり、変化を求めるが変化が蔓延すると飽きてくる生物なんでしょうね。非効率でも心が込められている方法論に最終的に落ち着くか?と言えば、多分そでもないだろう。タブレットが進化して、ドローイング系のソフトで達筆ソフトがでれば、指でタブレット面をなぞって「はい、達筆です。」ということになるのだろう。もう、そんなソフトはあるだろうが、紙vsタブレットの啓蒙はまだまだ続くでしょうね。

知識と感覚のバランス。

 知識や経験値だけで押し切ろうとする人、感性や感覚だけでジャッジする人、これらを世の中ではプロフェッショナルと呼んでいるし、地位や名声を獲得している人もいるだろう。地位や名声がないからこんなことを自由に書けるのだが、それでも、知識と感性のバランスは大切だと思っています。

 まず、知識とは何か?情報化時代に飽和している情報には言語化されたモノと非言語化されたモノが存在している。偉業や金字塔やバイブルが情報の本丸にしても、それらから学ぶためには基礎知識が必要であり、義務教育はそのアプローチとして理に適っている。しかし、なぜ、それだけで飯が食えなくなってしまったのか?情報化時代以前なら、何か情報を得るために誰かに聞いていたことがネットですぐに情報として得られてはいるが、ネットの情報がそれだと正確に判断しているか否かという部分にだけフォーカスしているからそうなっちゃうのである。実は微妙に論点がずれている。情報には本質があることにはある、しかし、それだけが知識であるという誤認識が何かを劣化させているのだろう。
 
 では、感覚的な判断力とは?それは、本能のような脳幹の判断、言わば、DNAの判断とかいかぶることができなくもないが、実は個体として人間の中にある「組み合わせる力」なのである。それをひらめきとも直感とも魔法ともミラクルともどんな呼び名でもいいのだが、組み合わせる力とは論理の外で機能すべき力。損得よりも正誤でもない、好き嫌いレベルの判断力。刑事の勘だとか職人の第六感などと呼ばれているが、これは、人知を超えた摩訶不思議な魔力ではない。手持ちのコマをどのような順番に並べれば、どのように打っていけば、自分の描く形にできるかという設計図に紐解かれた工作技術なのである。「感覚的な人」と聞けば、岡本太郎のようなピカソのような偉人をイメージするが、彼らもたぶん同じことで、自分の設計図を持っていただけ。別に海が割れたわけでもないし、天使を見たわけでもないだろう。本当に怖いのは、海が割れると信じている人であり、天使に依存している人。本当の革命は誰かのエゴが演出している寸劇に過ぎない。乗るか反るかは自分次第。

絵になる条件。

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 人の魅力って何で測れるのでしょう?いや、測れないから魅力なんだろう。存在感ってひとことでかたずけられないし、ましてや、地位や名声や物質的な要素はあまり関係ない。特に「ファンション」というk-ワードでそれらを推量するならば、それらはどこまで細かく分解できるんだろう。いやいや、これについても分解は不可能なんだろうな。では、絵になるならないはどこで判断しているのかというお話。

 これは、デザインの仕事やアートの分野ではとても重要な視点になる。若いころは絵が上手いっていうのは、技術的にきれいだったり正確性やテーマ性の明確さだったりするのかなと感じていたが、どうやら、そんなに簡単に答には導いてくれないことにようやく40歳を超えて50歳近くになって分かりかけているというこの複雑怪奇な世界。答がない世界で答を求めてる感覚が心地いいと思えるこの中毒加減はどうよ!絵になる存在がいつまでも見えている人間でありたいと願うばかり。

 実視力は落ちても心の視力は落としたくないっていう感じですね。歴史に名をのこす画家は共通して視力が悪い。45歳あたりから極端に視力が悪くなり仕事上かなりのストレスだが、視力が落ちてきたことは別段気にならず、逆に心の視力が上がればそれはそれでALL RIGHT.

記憶する技術。

 「記憶する技術@伊藤真著(¥1,365)」はサンマーク出版から出版されている書籍。「なぜ、あの人は大事なことを忘れてしまうのか?」「記憶力は一生、鍛えることができる。」と。その詳細は「60歳を過ぎても司法試験に合格できる理由」「記憶量の増え方は足し算ではなく掛け算」「毎年300人、15年分の塾生の顔を覚えらえるわけ」「なぜ、色鉛筆を使ったほうが覚えやすいのか」「B6カードを使う論点ブロック法という記憶法」「全盲の受験生が教えてくれた耳の記憶力の鍛え方」「年をとればとるほど記憶力が増える方法とは?」「復習のゴールデンタイムは一時間以内と寝る前の5分」「マイナスの記憶をプラスに変換する方法」「人生でうまくいくのは、記憶力に自信のない人」「いい記憶をつくればいい未来がやってくる」などなどという素敵なフレーズがこの書籍の広告面にはちりばめられてる。なるほどなるほど。記憶術とはおそらく記憶するということだけにフォーカスしな俯瞰の意識なのかもれいないが、上記のような魅力的なフレーズの真理が読める、情報として得られるならば¥1,365は安い。

 仮に「記憶力」を脳生理学や医学の立場で紐解く書籍も多いが、これはどうやら、ガチの現場でその重要性と汎用性を考察している著者発信のノウハウ本のようですね。逆に「記憶力がいい」と自負している人の仕事や人生の過ごし方なども、おそらく理にかなっているのだろう。普遍の法則みたいなことがあり、それを何らかの理由や要因で失っているとしたら、それはなんとか取り込みたい気がする。自分自身にとって都合の悪い出来ごとを適正に忘れ、有益な価値のある事象を記憶の中に取り込み、それらを材料に次の指針を再構築できる能力があれば、この情報が飽和したと言われている時代の一つの大きな頼りになる羅針盤になるかもしれない。ただ、記憶力だけが重要なのではなく、全体を見て取り入れて次の行動への指針に変えるということをいかに「いい感じ」にできるか・・・なのだろう。

 記憶する能力とは主観と客観のフィルターもあるだろうから、言わば、自分自身を知るというアプローチに深くリンクしているような気もしますね。

銅版画の魅力。

 何故か芸大2回生の後半でゼミを選択する時、自分は美術表現の中で何をやりたいか少し迷った時期があった。今思うとそれはとても必然であり、一本の太いレールの上にあったのだと回想することができるが、それは、47歳になりあしあとをただ辿っているだけで、どれだけ太いレールかなど便宜上のことなのだが・・・。でも、その時、3回生と4回生のゼミの選択で自分は油絵や日本画や彫刻や造形ではなく、何故か「銅版画」をやりたいと感じた。特に芸術大学にいると選択肢が広いようで狭い。狭いようで広いと自分の方向性やいろいろな要素に「これだ!」という結論が出ない場合が多いように振り返る。それは、ゼミの選択だけに限らず、卒業して社会人になる時、働き出して自分の進むべきなんていうテイで改めて自分の将来を考える場合など特に一般的に「迷う」という壁にぶち当たるのが常。しかし、今思うとその部分で迷ったことは一度もない。小さいサイクルでは無数に弱気になって怖気づいたりテンションを下げたりというループはあるものの、マイペースが基本スタイル。誰だって今現在を振り返るとそうかもしれないし、自分のスタイルに疑問を感じては決して自分の進むべきルートに集中できない。しかし、自分の中からも外因的な要素でもそれを阻む要素は無数に存在しているので、そんな中、自分自身の基本スタイルをキープしながら、今後もそのルートで行こう!と考えられているということは、これ何よりも幸福者(しあわせもの)だと感じます。

 で、銅版画からのグラフィックデザインの世界というのがこれまた自分の中で密接にリンクしているし、銅板にニードルで絵を描くということが、描く行為と版を作成するという微妙な関係がドローイングであり設計者であるというバランスの中で、ただ画面に絵具で描くという感覚の他に、版を設計するというフィーリングに魅かれたのかなと思っています。つまり、自分自身の中の「描く人」と銅板を「制作する人」とのバランスに魅かれたとでも言うのか・・・。

 結果、ニードルのラインが用紙に転写された瞬間がたまらない。まるで、心の中のイメージや言葉にならない感覚が一枚の用紙に一気に飛び出す感覚がある。プレス機から滑り出てくる銅板と用紙を確認しがら、版と用紙を剥がす瞬間。これがやめられない。シンナーの臭いや硝酸の臭いが充満する教室で朝から夜まで一日中、ニードル一本で描画しているような、ちょっと非健康的な空間もパラダイスだった。

 芸大を卒業して銅版画は作成していないが、あれから25年、また、銅版画をやりたくなっている。これは非常にいい状態だと捉えながらも、これが自分のルート上だと思える満足感。はやり、エッチングは皮膚感覚的にも自分自身にマッチしているのだろう。プレス機や腐食装備がないから、ペン画を描くが、やはり気持ち的には銅板にニードルがベスト。その方法論こそが銅版画の魅力ですね。

セザンヌ展3月28日~@国立新美術館

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 過去最大のセザンヌ展が3月東京にやってくる。何かのタイミングで行きたい。若い頃はあまりセザンヌについては「その他の大御所のひとり」だった。しかし、年齢を重ねるごとにセザンヌが気になってくる不思議。風景画にあまり思い入れがなかったが、実は風景画や静物画が気になる感じもありなのかなと。人間の気持ちは時間の経過と共に人間の向こうにある背景にある根底にある「自然」を、もしくは目に見えるモノに対するリスペクト感というかリアリティーにしだいに連動していくのだろうか、などと、このような気持ちがその場所に行けばより明確に感じられるのかなと思っております。

 で、この静物画、観れば観るほど心が引き込まれるぞ。絵画は何故にこうも永遠なのだろうか・・・と。

何がある?

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 さてさて、ここには何がある?行けばそれが分かるのか?ならば・・・。

透明水彩の基本編。

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 で、これが透明水彩(アクリル絵具)の基本編。基本編と言ってもこれは下絵を鉛筆で入れている。鉛筆をわざと残しているのは透明水彩で重ねてディテールを出したい部分と鉛筆の素描っぽいタッチをマッチさせたいからであり、狙いは鉛筆のタッチと透明水彩の重ね方みたいな部分での試作品ですね。透明水彩でも水性と耐水性がある。耐水性は乾燥すると上から何回重ねても元の色は混色しない。混色ありきで表現したいなら水性でいいし、水性は水性で独特の表現ができるが、薄い配色で顔のディテールや表情を出したい場合は耐水性の重ねが一番。何より、不透明水彩とは異なる透明感が出せるし、紙(ボード)の表面のマテリアルともマッチさせることができる。デジタルソフトで描くドローイングにはこれがないから嫌い。絵とはただソフトの白いシートに色を重ねるだけ。紙と筆の摩擦感や水に溶けた絵の具が乾燥するスピードや筆のタッチが残らない。突き詰めればそれらを疑似で残すことは可能なんだろうけど、そんなメンドクサイことは嫌い。紙と筆と絵の具と時間の中で絵を描くことが自然のような気がしますし、五感はそれらをしっかりと認知しているから「絵画」として成立するような気がするので、パソコンの絵は嫌いです。っても、仕事だから描きますが・・・。

不透明水彩の応用。

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 で、これも不透明水彩の応用ですね。これは下絵はなしでいきなり絵具で描いているパターン。普通の流れなら下絵を描き、デッサンを確保してから、着色となるのがスタンダードですが、これはいきなりボードに写真から転写しています。不透明水彩のマットな調子と顔の表情などを表現したい場合、どうしても、配色やデッサンが狂っているとそこには行けません。何事も基本が大切。よく学生さんやイラストレーターで自由にモチーフを決めて自由に絵具を使って、「これが私の世界観です。」というイラストレーションを拝見するが、それはそれで勿論、その人のスタイルなのでいいのですが、そこの世界だけで完結しているのと、基本や応用を会得した上で展開している絵とでは、明らかに伝えようとする力の点で前者は弱くなる。特に商業イラストを志す人ならば、いろいろなタッチでいろいろな画材が必要な場合がありますから、私の絵はこれだけです!ってのも「売り」として必要ですが、私はそれではつまらないと考えている。精密緻密な昆虫や植物も描くし、キャラ優先のイラストや抽象的な表現も描く。だから、「絵が好き」と「絵の仕事」の違いはそこにある。「絵」が好きな人はたくさんいるが、何かを伝える非言語手法としての「絵」をチョイスする場合に、画材や描画方法やタッチや世界観に固執するべきではないと考えている。

 で、基本はやはりデッサンなのだろう。デッサンのお話はとても長くなるのでまたいつか。

こんな絵も描くんだ!?

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 これはちょっと娘に色の塗り方を伝えるために引っ張り出してきた過去の私の作品です。不透明水彩には独特のマット感がある。しかし、下の色彩を消してしまうことが陰影やタッチを出す際にネックになる場合がある。重ねて質感を出したい場合は不透明水彩の色の調整が難しい。透明水彩なら重ねてタッチや質感を出せるのが一発で決めてしまわなければならない。これも試行錯誤の末ですが、不透明水彩は色を作っている行程とボードに描き乾燥した際の彩度や明度が異なるのでこの部分も想定して描く必要がある。しかし、時には想定外の配色やコントラストが出せる効果もあるから面白い。そのあたりが楽しめてくると不透明水彩絵具は楽しい。かなりデフォルメもしているのでこの絵はかなり楽しんだ形跡があり。恐らく20年以上前に描いた作品なんですね。へぇ、改めて、こんな絵も描くんだ!?みたいな。

ひとあしお先におめでとうございます!

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 2012年はこんな年賀状です。一足お先にブログで明けましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくお願いいたします。龍からのトリケラトプスということで、2012年は「ガオッ!」という一年にしたいと思っております。スギノヨシカズ

FRINGEの3人。

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 2012年もいろいろDVDを観たが「フリンジ・セカンドシーズン」は秀逸でした。まぁ、テレビドラマとか日本の映画がアホアホ過ぎるからここが光るのでしょうが、それにしても、練り込まれている作品でした。気が付けばサードシーズンからすでにフォースシーズンに突入しているらしい。ちょっと漬け過ぎたセカンドシーズンだっただけに一気に全11巻は見ごたえがありました。

 結局、この3人が物語の中心なのだが、もし、仮にこのテイの物語を日本でリメイクしようとしたら(かなり年末なので緩い仮説ですが・・・)って考えても、この3名に値する俳優・女優は浮かばない。浮かばない上にこの物語の設定をやればやるほどボロボロになるでしょう。つまり、俳優・女優がこれほど魅力的なのは、製作母体がそれ相当だってこと。子タレや漫画のドラマ化やつまらない設定が視聴率を集めているわけだから、結果、「フリンジ」のような物語が創れなくなるのでしょうね。だって、この時代、莫大なコストをかけてそれを観て楽しむ人(ユーザー)が想定・設定できなければそんな作品は創りません。つまり、最悪の負のループがグルグル回っているのでしょうね。

10チームの皆様へ。

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 先週の金曜日は「絵コンテとラフスケッチ」段階へ。講義の冒頭に「絵コンテ」と「ラフスケッチ」とは?という部分から実際、各10チームで考察・分析・論化していただいたコンセプトをどう表現するかの部分の設計図制作。それぞれに「30秒映像」と「B1ポスター」が成果物ですから、そこに創意工夫やアイディアをフォーカスしていただくための入口部分ですね。各チーム多様なポテンシャルをお持ちなことがようやく第5回目で少しづつ把握できてきましたから、楽しい感じです。それぞれのチーム名称がホワイトボードに書き出されると、改めて視覚化されたリアリティーが最終の作品づくりまで本格的な段階に入った感が漂いますね。10チームの皆様、頑張ってください。「30秒映像」「B1ポスター」って初めてのご経験だと思いますが、これが、皆様の今後の学業や社会に出られた時のひとつの重要なファクターになればこのプロジェクトの意義・価値はあるはずです。取り組むベクトルさえ的をはずしていなければ、それは、全て自分自身にフィードバックしてきます。この相対性が全てです。愚痴っている人は結果、自分に愚痴ることになり、人を非難する人は結果、自分を非難していることになります。脳は主語を理解していません。それをこのプロジェクトで体感してほしいと思います。頑張ってください。長浜バイオ大学の1回生のこのプロジェクトに参加された皆さん!

DANリーディングというアプローチ。

 あまり本の読み方はこれだ!みたいなセオリー通りに何かをすることは好きではないが、あらためてそういうタッチの文脈を知った時、同じような思考で書籍や情報をインプットしているんだなぁと感じる時、ひねくれた捉え方ばかりしているわりには、素直に「ああこれってひとつの正攻法なんだ。」と安心することがある。書籍はこう読むべきだなどと他人に言われて天の邪鬼にその反対ばかりしていても結果、それは一周回って同じことみたいなことだから仕方ない。結局、何かひとつのモノゴトに精通して突き詰めようとしている人は回っているということなのかもしれない。それが、ある瞬間は対極にいても時間の経過と共に同じ場所に戻ってくる感じ。アナログ時計の針のように、短針と長針が重なったり離れたりのように。

 そんななか「DNAリーディング」という手法があることを最近知った。それは、好きな作家や著者を読んで、その著者が自分自信のルーツと捉えている人の書籍にアプローチするという手法。そして、そのルーツの書籍のまたルーツ、そのまたルーツと一つのDNAチェーンをひも解くという書籍の選び方である。これは、ネット社会の情報構造にも同じことが言えるだろうし、書籍とは違うが、人との出会いも同じことが言えるように思えた。結局、何かを求めた時、そのルーツを知ることで、自分が得た情報の深さや広さや相関性がより鮮明に理解できるというアプローチだろう。

 ちょっと、タッチが違うかなと思えたのは、そんなDNAリーディングをしていると、人は必ず、「孔子」に辿り着くらしい。私自身、あまり「孔子」に興味はないのだが、そう言われると、「論語」とは、あらゆる分野においてのバイブルだとその構造・仕組みは理解できるような気がする。ただ、だからと言って、今から「孔子」に精通したいとは思えない。確かにそれほどの存在であり不動の価値があるのだろうけれど。それに似た感覚で「聖書」という書籍がある。これは恐らくこれまでの人類の歴史で最高の発行部数を誇る書籍だろう。だから、人間と聖書の関係をあらためてゴタクを並べる必要はないが、書という存在はこうして人間に過大なる影響を与えているということになり、そのアプローチとしての王道が「DNAリーディング」ということなりそうである。DNAが繋いできたことって個人的にああだこうだと深く分析することは不可能だとしても、自分自身が精通してきた分野に限ってのみ少しづつそのルーツをたどることで何か意味のある「ひらめき」や「核心」に辿りつけたらいいなぁという感じで正解。

 で、改めて、その分野って何だろうということで個人のIDが形成されるんでしょうね。

いい額ですね。

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 長浜市内のイベントで発見した額。こんな額があれば逆に油絵本体はどんなイメージがマッチするんだろう・・・などとしばし立ち止まってしまいました。古いということが素敵だというベクトルに変わる分岐点ってどこなのだろう。これは非常に微妙な世界だ。

似顔絵サービス。

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 これは私の作品ではありませんが、例えば、これぐらいの似顔絵・肖像画・ポートレートを1枚描いたとして、幾らぐらいだったら「買いたい!」と思うのでしょうか?ちょっとその感覚をちゃんと体系化していきたいと考えております。

 でも、昨今はデジタルツールが進化して水彩画とか鉛筆タッチもソフトウエアでできる時代ではありますが、だからこそ、「鉛筆画」とか「ペン画」とか「水彩画」の価値が改めみたいなことになっているような気がします。いくらデータの複製からの加工とレタッチで仕上げてもこの一枚とは似て異なるモノ。大きくその存在感として一線を画していますね。どれだけいろいろな手法や手段が氾濫しても、この存在感は唯一無二。紙と画材と手のタイミングで生まれる一枚にはそもそもの部分で価値があるのですね。

 これって、ビジネスの世界でもインターネットの世界でもマルチメディアの世界でも同じことが言えるんじゃないかな・・・。

Father and daughter


 そうかそうか、こういう手法やジャンルがあるのか・・・。ダムったりゲリったりしてる場合じゃないぞ。

IN THE BOX


 で、これもスゲェ。

Balance


 なんだなんだなんだこれは!こんな作品が世の中にはいっぱいあるんだろうなぁ~。発見できたこと出会えたことにまず感激である。そして、今も、誰かがどこかでこのような作品を考え作成しているんだろう。想像と創作こそが情報を操るタテ糸なのだろう。いやいや、スゲェスゲェ。

フィンランドか・・・。

 教育への取り組みの質が世界的に高いのはフィンランドらしい。そこには、日本と正反対の教育がおこなわれている。教育とはなんであるかを追求している高い次元での取り組みが蓄積されているらしい。だから、日本の教育システムのようにフラフラしていない。担当者や政治家の思いつきで指針がぶれない。過去の自国の歴史や文化を国民にひとりひとりが辛辣に受け止めて浄化しながら継承していると言われている。実際、そこで教育を受けた経験がないから、こんな表面的な情報でたぶんおそらくそうなんだろ程度の深さしか感じ取れないのですが、もし、その教育を受けていたら・・・ということは仮想でもいいからシミュレーションしてしまう。点数や上位の学校へのアプローチの勉強など一切しないし、企業にしっぽをふる大学生もいない。学生であれ社会人でれ人間の最少単位である個人の能力を磨くことが教育の本質であり、それを、学校のプログラムや企業のシステムに依存して、自分のポテンシャルのなさを自分以外の理由に置き換えて不平不満を口にすることは絶対にないらしい。

 ガチで日本の正反対である。たぶん、日本は大きなモノも小さなモノも見えていないのだろう。見えていないモノがそれを教育だと誤認して教壇に立っているのだから、何をどう変えようなどとの議論が成立しない。まず、何をの何が捻じれて微弱なのだから。必然的に学生がそうなるのであり、それが永年蓄積していれば、そりゃ、こうなって然るべきなのである。

 フィンランドか・・・と妄想する前に、不思議なことや不条理なこと疑問に思うこと不具合に感じることには素直に純粋にNOと反応したい。情報化時代への期待値は、そんなNOをしっかり繰り返していれば、YESな人に出会える確率も高いということ。まぁ、それは今も昔も同じかもしれませんが。

 「ゆとり」とか「脱ゆとり」とか、教育は言葉遊びではない。

セガンティーニ

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 この絵の前に何分いただろう。都合よくこの絵画の前にはベンチがあった。誰も座っていなかったので、ずっとずっと見ていた。ずっとずっと見ていたかった。そんな一枚でしたね。

アルプスの画家「セガンティーニ」。

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 7月16日から滋賀県の佐川美術館(守山)で開催されている「セガンティーニ展」をチェックしていた。やっと、ラストウィーク前に何とかい時間が作れたので行ってきました。なかなか、滋賀県には陶器とか立体の美術館はあるのですが(と言っても少ないのですが・・・)、絵画となるとなかなかモホノンが来ない。佐川美術館は今回初めてだったのですが、この展示会も30年間熱望されたそうで、主催者側も相当の苦労をされたとメッセージボードに記載されていた。

 そりゃそうでしょう、センガンティーニはなかなか滋賀県に、もしくは、日本には来ないでしょうから。という意味で彼の41年間の奇跡の軌跡をその場所で対面してきました。やはり、モホノンはいい。よく、「会場は混雑しているから私は図録を買って自宅でじっくり絵を鑑賞するのです。」とか「インターネットのデジタル画面でオフィシャルサイトで鑑賞するから展示会はいかないの・・・。」とか言う人は、モホノンが持つ存在感を一回も感じたことのない残念な人。印刷物やポスターやパソコンの画面でどれだけの美術印刷技術で再現されようが、どれだけ高解像度の画面で再現されようが、そこには絵画の持つ魅力はない。配色や構図やバックボーンに一喜一憂したいなら、それで充分であり、蘊蓄だけ並べたいのなら、それすら必要ないはず。絵画は絶対に美術館で出会う必要がある。そして、その絵の前に立ち、自分自身の中からどんな声が聞こえてくるかを聞く場所なのである。

 最近は携帯端末で「音声ガイド」なるものが入口に置いてあり¥500とかで会場内をそれを持って歩き、絵画の説明が聞けるシステムなっているようだが、そんなの聞いて何がどうなる?そこにいるのは、自分の中から聞こえてくる声、絵が語りかけてくる声、この絵画をコレクションしている人の声を聞くためにここに入ってきているのではないのか?誠に残念。

 その存在感とひと筆ひと筆を感じて心に刻んできました。セガンティーニ20歳の自画像ですら、すでに140年前の絵画です。それは小さい絵でしたが、間違いなく、彼の20歳がそこにあったような気がしました。モノホンの絵画からはそれを描いた画家の鼓動が聞こえてくる。

「下町ロケット」という物語。

 今年の直木賞の作品のタイトルである。先日発表だったからまだこのキーワードは新鮮なはず。このタイトルからどのような物語かを今の段階では想像しているが、実際、書店でこの書籍を発見しても、さて買って読むのかとなるといつも躊躇してしまう。結果、買わない場合がほとんどで、何故、気になっているのに買わないのか?について考えてみた。

 「下町ロケット」なんとなく日本の技術力を誇示するようなタイトル。下町のエキスパートが宇宙開発のどこか重要な部分を担っています的な部分をベースに展開される人間模様みたいなテイだと想像する。この段階で人間模様と宇宙開発が適正であれば間違いなく手にとりチラミして購入しているんですが、この切り口ありきの作品はどうもこれまでの傾向として「ハズレ」が多い。何も書籍の評論を生業にしているわけではないのだから、そこを敏感になっても仕方ないのだが・・・。でも、何故か、興味があるが、直木賞も芥川賞も受賞作品から出会うことはない。逆に、その後、作家デビューされた著者が温めて温めて書き下ろされた作品をたまたま書店で発見して、芥川賞作家や直木賞作家であることを知らず、へぇ~オモロイ物語だなぁ~ってなり、結果、あとがきとか著者のプロフィールを読んだ時に、「ああ、だったんだ!」となるパターンが多い。ので、最初から直木賞受賞作品ですというテイで読み始めることで、無駄にハードルを上げているからかもしれない。審査の批評を読んでもピントが合っているようにも思えず、時代性とか描写のテクニックとか言われても微妙な癖が気になる。フェイバリットな作家さんなら、この文書の癖やキャラの人格の魅力で引きつけられる訳で、審査員や批評家の意見は全然あてにならない。

 で、これも、書籍としての情報のディテールが自分とマッチしているか否かは読むしかないのである。だから、小説家の人は大変だろうなぁ~と思う。こんな我がままな素人が相手なわけですから、自分がオモロイと思っている世界観を書き下ろすだけでは成立しないのですから。つまり、小説も映画もデザインの仕事も社会(ターゲット)との整合性の上にその特異性や品質や鑑賞性や機能性が求められていると言う構図。

 まぁ、「下町ロケット」、とにかく書店で発見したらチラミしよう。

目に見えないモノ。

 ある番組でのネタ。ある女優が高校の時に美術部だった。デッサンの苦手な彼女はこっそり石膏像をカメラで撮影してそれを拡大コピーしてトレスしてその上に木炭でタッチを入れたらしい。それを見た担当の美術の先生が「この絵は美しすぎますね。」と。自分で見て描いたデッサンではないことを正直に先生に打ち明けると先生が言ったそうです。「このアイディアは素晴らしいですね。しかし、この方法ですと、目に見えるものしか描けないですね。」と。ふぅ~ん、なかなかええこと言うね。いい言葉ですねとなる。この出来事は一見、深いように思える側面があるが、そもそも、絵に対峙する時にデッサンが苦手だからカメラでモチーフを撮影するような感覚の余地を与えた先生にそもそもの原因がある。もし、このような生徒がいたとしたら、トレスダウンした下書きにタッチを入れる時にどう感じたとか?なぜ、カメラは正確に物事を捉えられ、貴方は何故正確にフォルムを描くことができなかったを確認してあげるべきのような気がする。そこに、絵の深さがある。そして、さらに、何故、この美術部の時間に石膏を描くことが絵の訓練になるのか?そして、そもそも、絵の訓練とは何のためか?この部分が疎かにしてきたから、先生の生徒は石膏像をカメラで撮影したのではないかと思う。この先生は「目に見えないモノ」が見える時、それをどうするべきかをこのあとしっかりこの女優に伝えのだろうか。この断片的な言葉だけでその後、この女優さんがどうなったかはどうでもいいが、「見えないモノ」を描くことは、「目に見えるモノを描くこと」と比較してどれほど重要なのかと言うお話。目に見えるモノさえ描けない人間が、目に見えないモノだから、たぶん、心や魂や感覚の中にあるフォルムや色彩のことだろうが、それを絵にすることの意義や意味を優先するばかりに、目に見える美しい景色やフォルムや表情を見るチカラが養われないことになった時、それは、絵を志す人間として不完全だと思う。が、そもそも、完全な絵など描く必要もないのだから、一周まわってこの先生の提言は真理の断片として有効であることは確かではあるが。

 で、目に見えないモノを描くことに注視すると、目に見えているモノ画描けなくなるから注意が必要である。空想や想像の世界をいくら絵にしても他人と共有する前に自分自身に対して共有できているかという部分がどうも懐疑である。絵と対話するならまずしっかりと見ることである。そして、しっかりと見えていることである。が、それも正確にはそれを計測するモノサシはない。だから、絵は素晴らしいのである。

適正と天職の不思議な関係。

 少なくとも私が大学生の頃にはキャリア教育などはなかったし、適正チェックなどという便宜的な仕組みはなかった。大学のスタンスは大学。企業と連携はするが、さほど、学生の人生には割り込んでこないが普通でした。連携と言っても企業の採用試験予定日がインフォメーションボードに紙でピラリと貼ってあるぐらいしか記憶がない。でも、インターネットの無い時代に自分でリサーチして電話して就職活動をしていたみたい。(って、お前はしなかったのか!?)

 それに比べ現在はどうか?用意周到の極みで、適正と天職について体系化されているらしい。そんな、人の適正を分類するなんて本当にできるのだろうか?そして、天職の定義についても実しやかに書かれている。この関係をそりゃ学生諸子は信じるだろうなぁ~。行政の方針だからフレームだけこなしてホンマルの部分は現場のディテール優先でいいだろうが、それでも、いまどきのゴタクはこんなところだろう。「仕事が私の適正に合っていない。」「私の能力や個性がここでは発揮できない。」「私の努力が正当に評価されない。」ベラベラベラ・・・と。全て私が中心。

 でも、「社会人」になるんでしょう?社会って何でしょう?パブリックですよ、偏在している経済のフォルム、慣習のディーテル、文化の空気、情勢の臭い、そして、会社の価値・意義と自分がどう対峙するかでしょう。これらのゴタクはポテンシャルの低い、知性が劣化している人の言葉。そもそも、何かの問題に対して機能するポテンシャルがあなたの存在価値であるならば、一人で並べるゴタクを別の自分に転写してみてください。自分が何を言っているのか客観的に捉えることができるんじゃないでしょうか。適正と天職なんて、その道で数十年試行錯誤して自己研鑽して紆余曲折右往左往した人間だけがつぶやけるフレーズですよ。自分自身、学校で会得できた適正って例えば何だったんだろう???・・・・・・・・・・・・・・・、ないんかい!?

美大生とゴッホの作品は同じ!?

 ちょっと乱暴な意見ですが頭に浮かんだので書き出してみます。何故ゴッホのひまわりは数十億の価値があり、美大生や油絵教室の皆様の作品に貨幣価値がないのか?「何を言っているのかい!お前は、そんなことその歳になっても分からんのかいな?」と言われても、正確にはその差は何かを言及することが限定することが本当に可能なのだろうか?私は同じだと思う。中途半端な例えで言うなら、ある洋画か日本画か知らないが然るべき協会がありその名誉会員の絵と公募展で上位入賞するために自分を削っている画家との違いは何だろう?これも答は同じである。

 でも、どこかでその価値が変異することが間違いなく起こり、現状の格差が生じている。双方の作品も作者が筆を置いた時は同じ一枚の絵なはずが、時間の経過なのか思念の作用なのか文化の方程式なのか何かの影響を受け化ける。ということはもしや絵画が世の中に何かしらの価値として浸透するためには化学変化が必要なのかもれいない。まぁ、生まれて死ぬまで脳の中で起こっていることが言わば分子レベルの化学変化反応だから、それで紐解くことがセオリー。でも、化学変化だとして、美大生の絵は何らかの原因で化学変化が起こらず、ゴッホのひまわりにはどんな化学変化があったのだろうか?それは人の歴史や芸術の歴史、もしくは、経済や貨幣価値の歴史と深くリンクしているかもしれないぞ。そう考えると絵画や芸術が非常に冷たい触感を帯びるが、でも、この疑問に対してこの仮説はあながち・・・ではないだろうか。

 で、逆説的に言えば、ゴッホだったから数十億円になったという仮説はどうだろう?これは相対性のお話になる。時間軸の中で必然と偶然をどのように体系化し分解するかでしか、この経緯を認識する術はないだろう。しかし、不思議と文化レベルや教育レベルの高い人は「ゴッホの絵」に対してそれそうとうの評価をするのが常。「いいものはいい。」という脈略のない価値観で生きられる逞しさ。余談になるが、組織におけるモゴトトを論理化する人達の集まりではよくこの逞しさに触れることができる。まぁ、逞しさというか鈍感具合というか無責任感の形骸化とでも言うか・・・。逞しくロジックを並べたブースでフリーマーケット状態はいいのですが、そのロジックは薄く質量がないことが多い。そして、必然的に継続力と波及力が弱い。

 う~ん、同じことなのに、何故も覚醒することをビジョン化すると覚醒しないのか。創造しているつもりが、実は破壊していることになってしまう有機物の神秘。この紙一重の綱の上を渡りたいなら、その表裏を天秤に掲げ簡単に答を出さないことが最も有効なアプローチなのかもしれないですね。と、スタンフォードのあの方は考えいるような気がします。

芸術家はお金を求めてはいけない!?

 映画監督 山下敦弘さんという方の記事がある。山下さん高校3年生の春、進路相談をする友人についていくと美術の先生から「映画が好きなら日本大芸術学部か大阪芸術大学で学べるよ」と言われたそうです。そして、大阪芸術大学の映像学科へ進学されたそうです。山下監督は芸大では、今につながる出会いやたくさんの刺激的な仲間と触れあうのが楽しく、音楽や演劇や様々な交流をしていたそうです。そんな4年間の最後の卒業式で映像学科長が言った言葉がこれ。「君たちは芸術の道を志したのだから、お金を追い求めてはいけない。面白いものさえ作れば後からお金はついてくる。」だそうです。う~ん、この記事を読み、ひさびさに自分自身の大阪芸術大学での4年間が思い出されてしまった。

 そして、この監督は映像計画、私は美術学科。まぁ、芸術である以上、映像も美術も工芸も舞台も同じなのですが、この記事にあるとおり、ほんとに刺激的な仲間が圧倒されるほどいた。そんな4年間だったから、社会に出て同様の出会いを期待するが、まぁ、何度も思い返しても、大阪芸大で出会った刺激的な連中と比べたら一般社会の刺激のなさ加減に慣れるに結構リハビリ期間が必要だったように思う。

 大阪芸大での出会いや仲間達の事を標準と考えると、一般社会での刺激の度合いは、凍えそうな感じでした。でも、東京で1年間リハビリ(イラストレーションの専門学校にバイトしながら通った。)を経て新宿で働き始めた頃は立派な!?社会人モードで頑張れたのも、この山下監督が言われたようなスピリッツが流れている大学だったから、自分の軸をしっかり維持できたような気がします。で、今でもその軸がぶれないのも、この4年間があったからこそ。ほんとに人生の宝以上の4年間でしたね。

 「お金がついてくる」の部分はまだ全然ついてきませんが、面白いことをするために、おっさんになってもこのままずっとオモロイ人間でいたいという心を失わずに、というか、4年で会得・覚醒したアウトロー感覚を一般社会用にシフトダウンする感じで、このまま、最後までオモロイ人間でありたいという想いを軸に歩を進めれたらいいなぁ~と思っています。

 芸術はお金ではないがお金は大切。ただ、お金のために芸術にリミッターを付けることは本末転倒。まさに、あとからついてくるが理想ですが、そのあたりも、あまり、深く考えずにナチュラルに自分らしく何事も・・・という感じでいいんじゃないかなと思っております。

 芸術を別の目的で乱用するイベントが多い。芸術家になれるのは最低限、自分自身ととことん向き合える人でなければなりません。習い事のように木を削りました土を練りましたキャンバスに筆で絵具をぬりました楽器をひいています歌を歌っていますで芸術家になれた思うのは自由だが、恐らく、私が芸大の4年間で出会った仲間なら、失笑で言葉もないだろう。街にアーティストが集まってくるのはいいことだが、似非やダミーやフェイクを集めても絶対にアートにはならないことも、僕たちは頭で理解しているのではなく、心で感じています。そんな連中をアーティストと呼ぶのです。芸大を出たからアーティストではなく、どこかの公募展で優勝したからアーティストでもない。頭で考えず心で感じる感性を共有できないと言語中枢で何を理論化しようが結局「いたちごっこ」です。突き抜ける衝動を一度でも感じたなら、その感覚を持ち続けたいと願うのがアーティスト。自分の存在が無意味に感じ生きていることの意味とか価値を一度でも突き詰めようとしたことがあるならそれがアーティスト。言葉や文字ではなく、何かどこか気なる人がいたらその人も気になった人もアーティスト。確かにこの関係に「お金」の介入する余地はない。

お仕事で似顔絵!

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 まぁ、こちらがどこのどなたかは個人情報保護方針として、どこかでビンゴしてください。ブログやSNSの中に存在するアバター。もともとどこかの国の神と言う意味が捻じれて映画になりプロフ用のキャラクター画像の名称になっている。でも、なかなか、特長を捉えたキャラの表現がけっこうイケていた。それに表現方法もいろいろあるんだなぁ~と、「アバター制作サービス」業務のサイトをチェック・リサーチしていた時の感想。

 昔から人の顔を描くのが一番大好きで、何回もこのブログでつぶやいているのですが、静物や風景画はニーズがなければ描かない。動物もあまり・・・。そこに人がいれば描くのですが。しかし、仕事となるともうなんでも描く。リアルでもキャラクター化でもアートアートさせたり3DCGソフトを使ったり・・・。

 で、これは写真を見て下書きをしてカラーインクでフォルムを決めて不透明水彩を重ねていく方法です。最後に調子を整えるのにもう一回カラーインクで整えています。似顔絵って目じりとか鼻の向きとか髪の毛の表情で印象がガラリと変わるので完成形はイメージしながら描くのですが、描いている途中でも一旦冷静に描画中の絵を確認してアレンジを加えながら、写真と合わせてその方のイメージを頭の中で覚醒して仕上げているイラストレーションです。

 この作業が、どうも私の場合、ドローイング系のソフトウエアではできない。タッチとかちょっとした滲みなども計算しているようでしていない、言わば、感のようなモノが最終的に似顔絵の完成度を上げていくように感じるからです。あとひと筆入れるか入れないかでどうにでもなるのですが、その判断をソフトでは作業的に簡単過ぎて気持ちが入らないみたいな・・・。

Nagahama Jazz Walk...

 「JAZZ」とは一体何だ!ググるとこうなっている。「ジャズ(jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に発展した音楽形式。アフリカ系アメリカ人の音楽形式と西洋音楽の技術と理論が融合して生まれた。演奏の中にブルー・ノート、シンコペーション、スウィング、バラード、コール・アンド・レスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーション、ポリリズムなどの要素を組み込むことが特徴的とされている。 その自由な表現形式は黒人音楽家のみならず白人音楽家にも注目され、技法や理論など急速に発展した。20世紀半ばには人種の枠を越えた音楽のジャンルとして認識され、現代音楽理論をも内包する高度な体系をつくりあげた。その結果、人種、国籍や狭義のジャンルを越えた音楽芸術の現代的様式の一つとなり、様々な方向性に発展を見せる現代の音楽の源流を形作った存在であると考えられている。」となる。ここの説明文の中で特筆できるフレーズは「アフリカ系アメリカ人と西洋音楽の融合」と「ジャンルを越えた」と「現代音楽の源流」あたりだろう。しかし、ここまで明確に記述される側面から「JAZZは難しい音楽」という印象を受ける人も多い。実際、フリーダムな印象を自分自身も抱いてはいるが、どこか、「難しい」という印象がある。ただの先入観だと思うが、この先入観が意外と音楽に対する数多の障害になる場合が多い。人は万象に対峙するとき、まず、感じていることを否定し考えることで受け入れが実感を得たいと判断する。しかし、一旦、身体にそれが入って反芻され消化されると「感じる」という側面で捉えようとスイッチを切り替える癖がある。それは、野菜嫌いの子どもにも似ていて、トマトが嫌い、ピーマンが嫌いのあれ。でも、この症状は人間の生物としての本能だそうです。古来、自然に生息する数多の植物を食する時、現代では普通に食べられる植物と食べられない植物を分類し体系化されているが、昔の原野でそうではなかった。空腹を満たすために口にした植物の猛毒で死に至るケースも多かったことだろう。それをどこかのDNAに記述されていているのだろう、警戒が「トマト嫌い・・・」になっているとかいないとか。

 で、「JAZZ」に対する先入観も実は「禅」のアプローチが正しいのかもしれない。色即是空天上天下唯我独尊我思う故に我が在るようにJAZZも在るみたいな。

6つの帽子の発想力か・・・。

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 最近見るテレビ番組、「仁」「世界遺産」「イッテQ」「しゃべくり~」「はねとび」「ロンハー」「した!」「ぐるナイ」「金曜ロードショー」「ダッシュ村」「めちゃいけ」・・・ぐらい。他のプログラムはライブ感がなく画面に登場する人のポテンシャルが緩い、そして、編集意図が緩いってことで全て却下・スルー。しかし、日曜日に観たこの番組はいいぞ。なんと何回かのシリーズモノだったらしい・・・見逃した!と、この最近のテレビ事情で「見逃した!」と評価できるようなテレビプログラムはほんとに珍しい。

 で、「スタンフォードの6つの帽子発想法」というテイ。なかなかでしたねぇ~。GOODGOOD!

 どんな感じだったかというと・・・、これが、非常に非常に魅力的だったので、何回に分けてここにライトダウンしたいと思います。いやいや、いいっすねぇ~スタンフォード大学。

JAZZのある街。

 以前、「どのようにJAZZを楽しむのか?」という書籍を読んだことがある。ある著名な作家の「JAZZ」とはこういうものですね的な啓蒙書を読んだことがある。JAZZのビックネームプレイヤーについての書籍を読んだことがある。いつの頃からか日本人とJAZZは付かず離れずでいい距離感を保ちながら生活の中に心地のいい場所を見つけたように思います。自分自身スタイル的にカッコイイからJAZZを聴くようにはなったが、他の音楽のジャンルよりも何が何でもJAZZが好きだということでもないし、スタンダードなナンバーを聴けば普通に心がスイングする感覚はあるが、だからと言ってディープにJAZZが命ですというタイプではない。

 そもそもJAZZとは何だろう?そのルーツをわざわざここで紐解くつもりはないが、自分にとってのJAZZとは何だろうと考えたが、これも同じ。適当な距離があるだけで付かず離れずの関係。気が向けば聴くし気が向かなければ聴かない。聴けば楽しいしが、聴きたくない時もある。そして、このアルバムのこの曲は~とか誰誰が開催したあのライブのあの楽曲こそがJAZZの真骨頂でこれを聴かないとJAZZは始まらないぞ!というメンドクサイ感じもない。つまり、JAZZとはそいういうモノでいいのかもしれない。音楽は音楽家の主張であり表現でありマイルストーンである。と同時にJAZZは空気のようなニュアンスが強いように感じる。かっこいいからJAZZをお店で流しているのも正解だろうし、一人部屋でゆったりとスイングすることも正解。いろいろな人それぞれのJAZZがあっていい~がJAZZのJAZZたる所以でいいのではないだろうか。

 これを絶対に聴いてくださいよぉ~!という強制はなんとなくJAZZっぽくない。こんな有名なプレイヤーが来て一夜限りのライブをするんです!だから、JAZZを聴きながらお洒落なひとときを過ごしてみませんか?って、いつJAZZとお洒落がマッチ(連動)したのか???それはお前のさじ加減でしょう。JAZZをお洒落だと思ってどこかに聴きに行くということは、ある意味、JAZZを利用しているだけで、JAZZの威を借りてはいないかい?と言いたい。

 もっと、自然にもっと気楽にもっと楽しげにが「JAZZスタイル」の自分自身の正解ような気がしますね。

世の中の達人。

 たぶん「達人」にはいろいろな条件がある。どこにでもある食材で誰にも創れない料理を創る達人。ユーモアとセンスでどんなタイプの人ともコミュニケーションを潤滑にできる達人。誰もが発想できないようなアイディアを次々と発信する達人。緩みのない綿密な仕組みと機能を施したシステムを構築できる達人。決して真似できない努力量とそれに費やす時間を苦にせず前人未到の偉業を達成するポテンシャルを持っている達人。モノゴトノの真理を見極め自分自身の基準値を明確に持ち決して志しがぶれない達人。空間を知り快適を知り時間の概念を知るアーキテクトの達人。深いメッセージを衒いも憂いも濁りもなく純粋に発信できる心理の達人などなど。世の中の「達人」達は今何を考えてそれぞれのジャンルで自己研磨し我が道をどんな歩き方でどんな心持ちで生きているのだろう。

 しかし、そういうエキスパートな人って「私はマルマルの達人です。」と自分で自分のことを達人だとは考えていない人だろう。仮に自分の温めている世界や研ぎ澄ましている世界が特殊で至高のフィールドでもそれが誰に対してどの程度の「達人」なのかなどその人の頭の中には微塵もないだろう。だから、その人は「達人」なのである。これも言わば「達人」の条件。

 そして、「達人」には必ずその方を強烈にリスペクトしている人の存在が不可欠である。社会とはそういう構造をしていることが最低最大の条件だから、広くなのか深くなのかは別として、必ず「達人」の一番近い存在の人は「達人の達人たるや」を心から認めている人であるはず。その弟子なのか伴侶なのかマブダチなのか相方なのか右腕なのかは様々だろうが、だから、「達人」は今日も元気でその道を闊歩している。

 また、「達人」が生み出す価値について言えば、知ってしまえばそれまでのようなことでも、情報として知る前からその達人が生み出した価値とは「達人ゆえの価値」なのだから、感違いしてはいけないことは、誰かがその価値を知った段階でその価値は共有しなければいけない前提で世の中に流れ出したモノだという認識である。エゴに操られそれを独り占めして優越に浸る人もいるだろうが、そんな構図は本当の達人は求めていないし、不幸にもそうなってしまったとしたらそれは、真価として「達人の価値」とは呼びにくい。

 で、そんなことを書きながら自分自身は何の達人か?そう考えてみる。しかし、自分の中から生まれる言葉の中にフレーズの中に、適切なココイチのテッパンの言葉もフレーズも実は浮かばないが正しい。つまり、これは「作用と反作用の関係」でしか成立しないこと。だから、近い人にそのテイで「あなたはマルマルのの達人ですなぁ~」とか「君のこの仕事は達人技ですね」とか「そんな捉え方をできるのはまさに達人!」みたいなことばを投げかけられて、初めてそれを認知して完結する。つまり、何かをしている、何かをしてきたことに対して、誰かから言っていただけた批評や驚嘆や激励が「もしかして、自分はマルマルの達人なのかな?」などと思わせる一番適正なルートなのである。まぁ、そういう意味では大した達人技もなく、偉業も達成せずに、のらりくらりと浮世を流してきただけだから、改めて思うことは、「自分自身もできたらマルマルの達人と呼ばれたいなぁ~」とか「どうせ達人と呼ばれるならこの分野がいいなぁ~」と考えてしまう。しかし、言ったもん勝ちではないだろうが、言ったもん勝ちの部分もある。

 テレビタレントはそれ(言ったもん勝ち)で少なくとも成立して生業としているはず。それがメディアのチカラ。でも、そのハリボテも崩壊しつつある。メディアが崩壊して人の価値観がネット社会の構造上、拡散したからである。だから、価値判断やニーズは人の数だけあると知るべきであり、スタイルやシステムやフレームを価値をまだ価値と捉えている人はこのまま失速するだろう。飛翔したいなら「達人(龍人)」にならねば、自分の足で歩きたいならその場にしゃがみこんでいないで「達人(立つ人)」にならねば・・・と最近特に考えてしまう。

 日本にそもそも元気がないのは偉人も名人も企業人も職人も多いのに「達人」が少ないからなのだろうか・・・!?

これこれ。

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 ふと発見した油絵作品。これこれ、こんな感じがいいですね。この感じで早速描いてみよう。

強烈な100歳!

 あるローカルテレビに100歳の男性が登場した。その方は書道の先生で御歳なんと100歳。朝早く起きて自分で自分の朝食を作る。30歳年下の奥様がおられるのですが、それがその方の一日の始まり。料理人であったご経験もあるということで、自分の朝食なのに皿にキレイに朝食を並べる。バランスのいい栄養価の高い食事で一日を始める。次に書道教室の生徒さん達(年配から若い人などいろいろ)に対しての本日のテーマというか課題となる筆文字をそれぞれの生徒さん達に対してしたためる。決してコピー機など使わずに一枚一枚。そして、自分で背広に着替えて課題の詰まったバックを抱え家を出発。元気にいつものコースを歩きバス停へ。教室にはすでに多くの生徒さんが待っている。「おはようございます!」元気に声をかけて前の席に着く。課題を説明してそれぞれの席で皆様の作品(筆文字)に対してコメントをする先生。熱意のある人に対してはマンツーマンでのアドバイスがヒートアップする。

 授業の終わりにひとりひとりの作品に対して丁寧に添削を入れられる。美しい作品については称賛し、バランスの悪い部分については的確に添削を入れる。添削が終わると生徒の皆さまから大きな声で「本日もありがとうございました!」ニコリと先生。

 そして、昼食はとなると、いつものごいひきの食堂&カフェがある。そこまでまたバスで移動。ランチタイムでにぎわうその食堂の個室に入られる先生。すでに奥様が到着していて席につく。「いつものを。」と一言先生。出てきたメニューはガッツリのハンバーグ定食。これはメニュー的にちょっと多いのではと思いきや、それを全て残さずにペロリ。食後のコーヒーまでガチのランチタイム。素晴らしい!なんと素敵な100歳だろうか。

 食後もずっとニコニコしながら、コーヒーを一口一口味わいながら楽しい会話が続く。う~ん、100歳かぁ~。まだ、自分は半分もいっていないのかぁ・・・。いいなぁ~こんな100歳になりたいと素直に感じてしまいます。

 ねっ!これがテレビで観たい感じたい物語なんですね。ローカルなのに素晴らしい取り組みである。情報過多になり飽和した価値観の中、テレビの人達も大変でしょう。大手のスポンサーにしっぽを振ってのびしろの少ないテレビプログラムを作成するのもビジネスモデルでしょうけれど、テレビを観ている人はだいたいそんな感じをもう本能で分類しているんじゃないでしょうか。テレビにチカラが無くなってしまたことでメディアのパラダイムがシフトしたと言われているが、それは、そのことでしょうね。しかし、テレビというメディアのそもそもの部分を理解しているテレビの達人ならこの100歳の書道の先生をチョイスするみたいなことじゃないのでしょうか。素晴らしい先生でした。マイリマシタ。

 テレビの達人と100歳の書の達人が出会うイチゴイチエイがなんとも素敵。

Superfly Live 2011

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 こんな時だから、心を奮い立たせるのは人のエネルギー。人は人に心を動かさせる。起こったこと、漏れてしまったこと、失ったモノはあまりにも大きいが、もう、それは過去のこと。今そこにここにある命がこの状況とどう対峙するのか・・・ということが最も重要なことだと誰しも考えているのではないだろうか。自粛すること、できることで支援すること、心でいっしょにふんばることはとても重要だが、ひとつになる意義の世界の中に確実に存在する個の意義。それを繋げることにもっとも人間は長けているはず。歌えるなら歌おう、描けるなら描こう、語れるなら語ろう・・・みたいなエネルギーが徐々に加速していけば、この大惨事が過去にないほどの礎になるはず。礎にしなければいけない。

 再度、自分自身の「らしさ」の部分でもある、ポテンシャルを再確認したい。結局、ひとりひとりはそれしかできないのだから。

絵は嘘をつかない。

 今更ながら思うことは、絵を描くと自分の中身が出てしまうということ。言葉でどれだけいいこと言っても、絵にすると嘘偽りは露呈する。悲しいかな露呈する。口でどれだけ雄弁に語っても一枚の絵にはかなわない。たぶん、音楽もデザインも映像も同じだろう。最近そんなことがよく気になる。実は絵を描くということはとても凄いことなのかもしれないぞ・・・と。気持ちがのっていないとき、モチベーションが下がっていると、やはり、絵はそうなる。気持ちが高まってピュアになっているとやはり絵はそうなる。だまし絵とかというテイの絵でさえ、実は騙すということに純粋に対峙していないと、緩いことしか刻印できない。文字を記すとは、精一杯純粋に文脈を練ろうが、その側面は多面であることから、どう伝わるかが受け手サイドのポテンシャルにかなり影響を受け、時に、反意なニュアンスに転換されて伝わることもしばしば。しかし、絵は違う・・・というか、絵は正直でありガチでありピュアであるから、描き手と絵の関係はピュアであることを前提に、そこに自分自身の中にある嘘を挿入する余地がない。それが絵の最大の特長だと考えるように感じるようになった。表面的な技術や画材やテーマの重い軽いでは決して絵は判断できない。誰がどのような気持ちで描き出したかが間違いなくそこに刻印されているのだから。これが、ドローイング系のソフトウエアやベクトル系のデータとなると、また、純度が異なり、混ざり物が混入する。

 で、デザインも同じ。「デザイン」が見えている人のデザインはやはり、上手い!しかし、緩い経験値と幼いアプローチと洞察のコンビネーションではやはり成果物が緩くなる。とはいえ、自分自身常にテンションの高いデザインをできるということではない。やはり、気分や同調のレベルが多様であり、そこは人間のやっていることだから濁りや絞り込みがあまくなる場合もある。時間に追われると、コンセントレーションがマッチせず、流してしまうこともある。しかし、時間があるからテンションが充実しているとも限らないこの不思議な相関性をどこまでセルフコントロールできるか・・・もこの仕事の醍醐味。

 言わば、成果物でコミュニケーションできないスキルでは作用も反作用も緩いということ。絵を描くこと、デザインを創ること、人と人のコミュニケーションにIDを示すこと。なかなか、これだ!という正解がないだけに試行錯誤が続く。でも、それも楽しいから「もっともっと!次へ次へ!」と続けられてきたとも言えなくない。

 ジンセイでもっとも大切なことは、やはり、「継続」なのである(by スリムクラブ)。

全ては伝言ゲーム。

 子どものころ横一列に並び、右はしから左はしに並び、一番右から一番左の人へ伝言を伝えるあれ。最初の人が説明したことを次の人が理解して次の隣の人に伝える伝言ゲーム。これはあらゆる世界の縮図である。家でも会社でも地域でも国でも世界でもそれの一番ホットな仕組みがたぶんfacebookなんだろう。まぁ、アンダーな世界の伝言ゲームについては一般人の知るよしもなし。

 朝起きて「おはよう!今日は天気がいいね。」から「おやすみ」までの間にどれだけの伝言を人は受信して発信している。些細な日常会話も重要な仕事上のコミュニケーションも。しかし、想いはなかなかまっすぐ走らない。どこかで屈折する沈滞する、もしくは、反射されてくる。あまりにもこのジレンマ感が辛い状況だと人は発信しなくなり受信もしなくなる。孤立して小さなモニターの仮想世界に憩いの場所を見つける。それがすべてゲームの世界だとは言及しないが、そこのエンジョイ感にはのびしろがないことも間違いのない現実である。無限のリスク=無限ののびしろなのである。

 しかし、ボールを相手の胸にめがけてコントロールに注意して投げているのに、相手が無神経にショートバウンドを投げたりジャンプしても捕球できないボールを投げられると、ちょっと、「おい!」となってしまう。でも、取り損ねても、てんてんと後方遠くにボールが転がってしまっても、また、ボールを追いかければいいだけ。相手も故意に悪いボールを投げたわけではないはず、胸に向かって投げようとしたのに、つい、緊張してや手先が滑りボールがコントロールできなかっただけかもしれない。それに、自分自身もいつもいつも相手の胸にボールを投げられるとは限らない。それが、キャッチボールの真理。

 真夏の炎天下、3時間延々とキャッチボールをした。練習として。大きな声を出して、相手の胸にボールを投げ続ける。汗はもう出ない。身体中の筋肉が悲鳴を上げる。しかし、相手の胸に目がけてボールを投げ続けた。真夏の炎天下、野球のユニホームをびっちりと着こみである。疲労の末、相手の受けられないようなボールを投げてしまう。相手はボールを追いかける。お互いもうピークな状態で。ボールを追いかける相手を気遣い自分自身も相手と一緒にボールを追いかける。「ごめんごめん。」これがコミュニケーションの真理である。

 しかし、いろいろな仕事をしているといろいろな人がいる。キャッチボールをするための準備ができていない人もいる。疲れて途中で怒るりだす幼い人もいる。馬頭を吐き捨て離脱してしまう人もいる。明らかに皆さんのポテンシャルが低いことが原因だと思う自分と、自分の投げていたボールが悪かったからこの人は怒ってしまった離脱してしまったと感じてしまったと捉える自分。二人とも間違いない自分なのである。でも、そんなことになっても、もう一度、キャッチボールをするために、これまで以上に神経を使って相手の胸に目がけてボールを投げようとする自分が自分の正解でいいと思う。ボールは一つ。

 また、これが試合になれば、空振りさせようとボールを投げるピッチャーとそれを打ち返そうとするバッターの勝負がキャッチボールと相反するようで、これが同位なのである。そして、勝敗がついた後、何故打たれたのか?なぜ、打ちとれなかったのかを考える。

 つまり、ボールは言葉。しっかり投げて、しっかり受けなければ、キャッチボールは成立しない。

ちょっとオフレコで作品紹介。

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 ブログに掲載している段階でオフレコではないが、まぁ、私のブログを訪れた数少ない人に対してのみのオフレコということで、メビウスの画集の中身です。しかし、まぁ、これだけのイマジネーションと描画力とは、舌を巻くどころのさわぎではない。昨今、どうもデジタルテイストの3DCGから3D映像などなど、リアリティー技術の進化は止まらない。しかし、デジタルコンテンツのサガとでも言いましょうか、視覚的なリアリティーはあるのですが、心に響く質量が軽い。視覚的には確かに・・・なんですが、で?って感じ。やっぱ、絵は作者が何かを伝えたい伝達方法であることを基本としたら、目に伝わっても心に響かなきゃ・・・みたいなことで質量が軽い。に対してこの作品集の絵は・・・。重く広く深くいにしえの未来永劫の時間軸さえばっさり切り取り、そして、含有させている。う~ん、人の手の技術、アナログテイストののびしろは果てしない果てしない。これをどのように継承するかがこれを観た絵描き屋への責任でもある。それほど強い絵の重さががこの作品集には詰まっていますね。

 さぁ、このテイで「ガラパゴス」を一枚一枚アウトプットしていこうと思います。

Rene Magritteの世界。

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 う~ん、尊敬するマグリット。絵画が永遠の命を受けた瞬間、画家は何を思う。頭の中に存在するイメージが絵画という形態で存在を帯びるリアル。あまり言葉にはしたくない部分だがこうしてブログに切り取ることで何か新しい意味へ価値へ意義へ変異するならその何かの部分を少しでも共有できないだろうか・・・と。

32歳からの人脈使いこなし術!?

 そんな僭越な本は気になるが購入したいとはちょっと・・・。その広告面を見れば「ただのお客さんが人脈に変わる瞬間。」とか、「悩みごとは人の知恵を借りて即解決!」とか、「人脈から情報や価値を引きで出す方法」などなど。ほんとうにこんな自分勝手な気持ちで果たしてそれは本当にその人にとっての「人脈」なのか?またまた、32歳からの~の部分も怪しいぞ。あなたのキャリアが高まる効果抜群の具体例がいっぱい!ってもう美味しい分脈の垂れ流し状態である。

 一気に伸びて、大きな結果を出す人は「人の力」を借りるのがたまらなく上手い!ってもうかなりの程度でヒラキナオリが感じられますね。結果、32歳になったらこの取り組みに挑戦してみよう!って思わない思わない。これはかなり両刃なことをおっしゃておられるように感じてしまった。「ただの知り合いで終わらせない」術ということでしょうが、この「ただの知り合い」ってことですが、知り合いに対して「ただ」と付けている段階でこの方の視点がずれているように思います。知り合いを「ただ」で済ませるってどういうこと???細かい部分でこの場合の「ただ」と「ただでない」人の違いは何?これが注目の最新刊だから暴論・奇論が読みたければ気分転換にはなるだろう的な一冊のように思えた。

 32歳からってここも気になるが、さほどのびしろは感じないし・・・。

カラーインク+ペンのドローイング

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 まぁ、たまにはイラスト作品の紹介も。これは、セピアインクとペンで描いたドローイング。普通の画用紙に鉛筆で下描きをしてあとはカリカリとペンで描いた作品です。モチーフは会社にあったチラシの女性。誰ということでなく、ただ、セピアで描きたくなっただけ。下描き後はもうチラシの写真は見ない。で、チラシの写真とは完全に違ったタイプの女性の肖像になるのですが、まぁ、それがドローイングの「味」の部分。デッサンという視点ではもう顔を描く場合、身体を描く場合、風景を描く場合の基本は踏んでいるので、基本ラインの「デッサン」でモチーフを確認してフォルムを決めたらあとは「自分のデッサン」のスタイルでカリカリと仕上げるだけ。注意点は描き過ぎないこと・・・。これが一番難しい。

篠を突くような雨か・・・。

 激しい雨のことを例えた表現。篠竹(しのだけ)を束にして地面に突きおろすように、はげしく降る大雨、豪雨。篠竹は、細く群がり生える竹のことらしい。なるほどなるほど素敵な表現ですね。日本語にはなんとも風情のある情緒あふれる表現が多い。が、最近、これらの語彙や比喩を活用する小説や論説が少ないのは何故だろう?昔ならこんな表現がクイズ番組の最難度にはならなかったろうに。絶対を意識しすぎて相対がおざなりになっていないだろうか、まぁ、なおざりよりいいが。

10の黄金律。

 米グーグルの会長が示した「10の黄金律」というのがあるらしい。下記にそれをコピペします。

◎採用は委員会方式で
グーグルで採用面接を受ける人はすべて、少なくとも6人以上の管理者あるいは将来の同僚との面接を行う。すべての人々の意見が大切であり、このことで、採用のプロセスがより公平になり、採用基準の向上にもつながる。もちろん、それだけ時間がかかることになるが、その価値はあると思っている。すばらしい人材を雇い、その人を次なる採用のプロセスに集中的に組み込むと、さらにすばらしい人材を雇うことにつながる。

◎必要なものはすべてを供給せよ
私たちは、標準的な(有給休暇、健康保険などの)付加給付を提供しているが、それに加えて、ファーストクラスな食事施設、ジム、洗濯室、マッサージ室、床屋、洗車設備、クリーニング、通勤用バスなど、ハードワーカーなエンジニアなら、ほしいであろうものをほとんどすべて提供している。結局、プログラマーはプログラムを書きたいのであって、洗濯物を洗濯したいわけではないのだ。

◎一カ所につめこめ
グーグルにおけるほとんどすべてのプロジェクトは、チームプロジェクトであり、チームというものは、コミュニケーションをとる必要がある。コミュニケーションを円滑にするもっともいい方法は、チームメンバーをお互いに数フィートの間隔においてしまうことだ。結果的に、グーグルのほぼすべての人々がオフィスを共有することになる。

◎協力を容易にする環境を作り出せ
すべてのチームメンバーがお互いの数フィートという近くにいるため、プロジェクトを調整することは比較的容易である。物理的に近くにいることに加え、グーグル社員は、週に一度、先週1週間になにをしたかを説明したメモを自分のワークグループにメールで送ることになっている。これによって、簡単に、誰が何に取り組んでいるかがわかり、進捗管理や、ワークフローをシンクロさせることが容易になる。

◎自社製品を自分でも使え
グーグル社員は、会社のツールを徹底的に使う。ウエブはもちろん、すべてのプロジェクトやタスクについての社内向けウエブを使う。すべては、インデックスされており、必要に応じてプロジェクト参加者が利用できるようになっている。GMailの成功は、ひとつには、社内で何ヶ月もベータテストされていたことにある。社内でのメール使用は、極めてクリティカルな活動であり、GMailは結果的、もっとも厳しい要求を突きつけるグーグル社のナレッジワーカーを満足させるべく、チューンされていったのである。

◎クリエイティビティを奨励せよ
グーグルのエンジニアは、自分の就業時間の20%を自分の好きなプロジェクトに費やすことができる。私たちの秘密というほどではない、もう一つの秘密兵器は、社内のアイディアメーリングリストである。この会社横断的なサジェッション箱には、駐車場の手順から、次のキラーアプリのアイディアまでさまざまなアイディアを投稿できる。

◎コンセンサスに至るように努めよ
グーグルでは、唯一判断を下す者を英雄視するのではなく、「多数は少数より賢い」というスタンスに立つ。どんな判断を下そうとも、その前に、広い視点をつねに求める。グーグルでは、マネージャの役割は、専制的に決断を下すのではなく、さまざまな視点を集めることにある。

◎「悪魔」になることなかれ
このグーグルのスローガンについては、いろいろ書かれてきたが、私たちは、本気でこれを実践しようとしている。特に、マネージメント層ではそうである。どこの組織でもそうだが、人々は自分の物の見方というものに熱狂しがちである。しかし、ほかのよく知られたハイテク企業のマネージメントスタイルとは違って、グーグルでは、誰もイスを投げない。寛容とリスペクトが育まれる環境を作りあげたいのであって、イエスマンだらけにしたいわけではない。

◎データが判断をもたらす
グーグルでは、ほとんどの判断というのは、量的分析に基づいている。私たちは、インターネット上の情報だけでなく、社内の情報をも管理するシステムを作り上げている。私たちは、多くのアナリストを抱えており、彼らが業績を解析し、トレンドを描くことで、会社を可能な限りアップトゥデートに保つことができる。

◎効果的にコミュニケーションを取ること
毎週金曜日、全社員参加の会を設けている。ここでは、発表が行われたり、紹介や、質疑応答なども行われる。こうしたことにより、マネジメントサイドがナレッジワーカーがいま何を考えているかがわかり、逆もまたしかりである。

とある。

 この「悪魔になるな」というニュアンスは、人間は自分の見方に溺れがちだが、異なる意見に耳を傾け他社を尊重する環境こそが大事であり、組織の長は専制的に判断を下す前に、常に様々な視点を集めるべきであると。組織をイエスマンだらけにしてはいけないとしているらしい。

 極々、当然の話のように聞こえるが、なかなか、この黄金律を実践できる企業は少ないだろう。個性を伸ばし、より大きな力(なにも大きな力がすべてではないが・・・)に高めるために必要なのは、経営者の構想力と組織の包容力だろう。決して人気や知名度ではなく、自分自身がいきいきと働ける職場を自分の目で見つけられるか。そんな独自(本来の)の眼力がある人材を企業も求めている時代なのだろう。理想を言えばキリがないが、最低限度モノゴトが時間軸の上で動く以上、それを担う動力源・エネルギーが必要であることは間違いないだろう。

小説という商品。

 衣食住、趣味趣向、様々な商品が市場に氾濫している。代価に見合う商品を日々のルーティーンでユーザーは購入し、デベロッパーは市場をリサーチし流通を動かしメディアを拡販し購買力をコントロールしている。それらをベースに経済や文化や歴史が流動的に時間の経過の中で進化と退化を繰り返す・・・と端的にフレームだけを文字にすれば今起こっていることはこれだけに納まらなくはない。しかし、そこに一喜一憂があり紆余曲折があり試行錯誤があり切磋琢磨があるからドラマチックになる。そんな飽和する商品の中で「一冊の小説という書籍」は非常に特別な商品のように思える。まぁ、単行本で¥3,000まで、文庫本で¥1,000までという単価がそれぞれの発行部数に見合う制作コストをかけて制作され、上記の流れの通り、メディアや流通や販売店の意向、ニーズの是非で、ユーザーの手に渡る。しかし、「いい小説」の条件にはどのような商品でも同じであるがそれを求める「いいユーザー」が必要である。この場合の「いい」は誰が作り何を指しているのだろうか?という部分で、さらにこの「いい」が分解でき分類できるような気がします。ただ、小説を書いている人目線で言えば、頭の中にあるイメージや構想やノウハウを文章化することで小説というカタチは完結し、その次の段階で印刷や製本や販売営業・販売戦略を経て書店に並ぶ。となると「いい小説」は著者が筆を置くまでに確定しているということになり、他の専門書や雑誌のように「多くの手」を「多くの知恵」を「多くの広告主」を結集させなくとも完成する、しているという仕組み。これは、言わば、ひとつの芸術なのである。陶芸家が土を練って作品を創る。それを、欲しい人が代価を支払い購入する。非常にシンプルな仕組みなのである。しかし、時代と共に仕組みもニーズも変化し、作家のスタイルも変化している。それが上記の通り「進化か退化か?」は・・・のみぞ知る的な暴論に任せ、やはり、変化していることは否めないし、「いい小説を作者が創り、いいユーザーが購入する。」という仕組みはいくらアマゾンが便利なろうが、いくら街の書店がクローズしようが同じなのである。まぁ、これらの進化と退化はあらゆるビジネスの現場で起こっていることではあるが、最終的に生産者とユーザーがいればこの仕組みは成立する。進化の過程でその中間で綱渡りをしている人は確実に退化・排除される。というか合理化される対象になるのでしょうね。いい生産者であるためにいいユーザーであるべきなのである。

 「それは、お前が好きな小説を買うためだけの無駄使いの言い訳にしか聞こえない。」と感じる方は、もしや、綱の上の人なのかな???

一人の人間が創れるモノ。

 多くの人が関わる創作物には必然的に軸がぶれる傾向にある。昨今のテレビなどスポンサーの飼い犬状態である。それは体裁を維持するために必要な判断なのだろうが、それを受けてる層に対してはさほどのびしろの少ない体裁となる。これも必然だろう。で、一人の人間が創り出せる創作物が最後の最後でその凄さを発揮している。そして、それが結局時代を創ってきたという視点がある。まぁ、自分自身、会社という組織の中で勉強させていただいていた頃はそのことをあまり強く意識しなかったとは言え、会社として組織としてのメリットを最優先しなければいけないジレンマがとてもストレスだったことは覚えている。

 しかし、本当に何が欲しいのかの声の部分を人を介してヒアリングして何かを創るということがもどかしく、その仕組みから出た。何がしたかったかとなると、お客様の声を自分の耳で聞きたいと思ったから、本当に欲しいモノは資料やサンプルでは分からない。どこに向かってベクトルを向ければいいのか分からないことが消化不良で大きな組織がメンドクサクなった。それはそれでお世話になった会社様には迷惑をかけたとも反省しているが、これも必然だからと、自分の考えを優先して行動させていただいた。それはそれでリスクも多かったが今ではそれが必然だと思っている。多くの手を介して制作させる成果物はどこかエッジがとれる。しかし、一人のクリエイターとしてひとつひとつの案件を自分の手で企画して制作して評価を得て納得を得て代価を頂けることが何よりも淀みがなくて透明度が高い実感がある。つまり、「人は人に感動する。」ということを相対的に捉えられるリアルが環境として得られていなければ、何かを創るという行為は淀み濁り劣化するような。その「信頼感」こそが何かを創るためのもっとも適した素材のように感じております。その上で、それを感じられななくったら適当な組織や仲良しクラブで時間を適当に浪費すればいいと思っております。真剣勝負がしたいなら、やはり、一人で刀を構えたいもの。

Let's play game.

 映画「saw」がファイナル。確かに猟奇殺人をテーマにしたソリッドシチュエイションという切り口はこれまでのただ幻想的な恐怖や摩訶不思議な力への恐怖とは異なる新しい思い切った切り口だった。それがこれほどニーズを獲得するとは制作に関わった人達も意外だったのではないだろうか。確かにこのジャンルはニーズがあったがここまでのシリーズ化を果たすとは、つまり、そういう時代でもあったという側面があったということ。必ずしもこれが人間像の全てではないがこの映画が描いた人間像は時代を完全に映していたと捉えて間違いないだろう。昨日、お茶を濁したような「死刑」に対する各界の著名!?な人達が小学生レベル(小学生にさえ失礼ではあるが)のみんなの会議論を展開していた。どの誰の論点を分解しても陳腐で安易で感情的すぎる。人間の「死」に対してよくもああまで無責任な言葉や文脈を並べられるものである。もうそれを近くに感じている人達だからこそ危機感があったのだろうし、切羽詰まった感じがどうも滑稽だったから、3分で見切ってしまった。「死刑」の是非についてあなた達には何も語る資格がないのだから、何を言っても言葉が軽い。まして、中国人との議論など茶番である。つまり、この番組の制作側の意図がもうテレビのステイタスを据え置き計算が計算でなくなりある証拠。そんなテレビプログラムになってしまう現代のメディアの最後の断末魔のような番組だった。登場人物たちがなにをどう論理的に語ろうが感情的に語ろうが、それはもう悲鳴にしか聞こえなかった。残念。

 で、映画「saw」のファイナルだけはまだ観ていないし、DVDのレンタルを楽しく待っている。たとえ期待した結末でなくともそれはそれでひとつのファイナルだから楽しみであるし、もし、これまでの結論が出ているのなら、それはそれで最高である。ある小説家が明確な結論を出すことは依存だと言っていた。つまり、「xxxx力」とか「人生のxxxx」とかという書籍のニーズは適度なストレスを枠を枷を自分に適用したい人が買う書籍だと言っていた。確かにである。だからそのテイが売れるという出版社と編集者と流通の現場の人達のトラップが巧みなのである。だから、小説が読まれなくなったというわけでもないらしく、小説は小説でヘビーユーザーが今も昔も一定数いるとの分析だった。売れる本の条件は「否定されにくい本」であり、それが小説になると誰が読んでも「同じ結論」になる文脈に対して人は反応して安心するから購買につながりベストセラーになるとのこと。確かに。それぞれの文脈にそれぞれの感想の幅がある場合、相対的にはレスポンスが少ない。あくまでも売るためには絶対的な感想の対象を用意しなければいけないとのこと。では、良書とは何か。つまり、「考えさせる本」であり、「考えさせる物語」なのであるそうです(それが少なくなったと嘆かれているがそうでもないらしい。)。しかし、現代は心のどこかで「繋がりたい気持ち」がふつふつと脈々と湧きあがっているから同じ価値観を共有させようとするトラップに購買が比例するらしい。な~るほど、そういう仕組か・・・みたいな。

 で、映画「saw」のキーワード的なフレーズ「Let's play game.」である。人生はゲームなのか?勝つか負けるかが人生なのか?勝つとは?負けるとは?これがトラップである。そしてそれがシリーズ化の成功要因である。それがなんでもゲームは楽しい。スポーツでも趣味でもビジネスでも人生でも。それを何かに置き換える知恵があったから人間は与えられた時間を有意義に過ごしてこれたと意識できるとこの作者は言いたいのか?死刑の議論についても同義である。だから、昨晩のテレビの中の彼らはとても生き生きしていたことは間違いない。

 そこで今回のブログの本丸について。「チェス」というゲームがある。これを知ったのは中学生の頃、ゲームが好きな友人達は将棋が主流だったのでそんな友達とは将棋をやるが、実はずっとチェスをやりたいと思っていた。シンプルでゲームとしての歴史があり、映画のシーンでよく登場するチェスというゲームにいったいどんな魅力を感じていたのかは忘れてしまったが、何か興味の対象として心に強く残った。時を経て回りにもそうチェスが好きだという人間もいない。私のレベルで競技会に出てもこてんぱんだろうしとずっとずっと気になっていたがチェスを楽しむことはできないでいた。そして、数年前に娘がDSを買った(というか買わされた)。全くこれらのソフトゲーム(マリオを始め~)に興味がない私は「あのソフトが面白い」「このゲームが楽しい」と言われても何ひとつ琴線には触れなかったが、唯一、軽いゲームソフト群の中に「チェス」があった。ここで娘のDSを取り上げて毎晩そのソフトとゲームをした。とにかく強い。100戦ほどやった段階でも1勝もできない。しかし、120戦目ぐらいに始めて勝てた。言わば始めての1勝である。たかがこの小さい端末にこれほどのめり込めたのは私の場合「チェス」がロードしていたから。たががプログラム相手にこれほど楽しかったのはあまり記憶にない。そこから、さらにチェスへのリサーチが始まり。書籍で過去の有名な対戦結果のログや世界チャンプのチェスに対するコメントを読んでさらにヒートアックした。私は全然強くないので、身近な人とボードで対戦しても結構負ける。でも、そのゲームの最中は頭の中で様々なベクトルの駆け引きが始まる。これはソフトゲームではない感覚。それが実は一番楽しい部分だと気がついた。だからゲームをするなら人間がいい。端末やデバイスの向こうにいる開発者も人間。ブラウザの向こうにいる情報の発信者も人間。フェイスtoフェイスでコミュニケーションするのも人間。つまり、脳(人間)は人間でスポイルされるということが全てに精通していることを絶対に忘れてはいけないということ。それを誤解しボタンをかけ間違えると絶対にどこまでもズレ続ける。それをゲームとして捉えるか別の次元で対峙するかは個人差があっていいと思うが、大きいゲーム、小さいゲーム、今年もいろいろな対戦をしたような気がしています。そして、勝ったか負けたかは白黒分からないし、保留の場合も、明確に結果を突き付けられた場合も、それなりに楽しかった。致命的な結果にならないテイで勝負を始めるからそこそこのゲームになり、それを楽しめるスキルや能力も結果、少しは身についているのだろう。しかし、楽しさは慣れる。ただ闇雲に大きな強い刺激だけを求めるジャンキーにならぬよう、いいゲームを2011年もやっていきたいと思います。ということで、ブログ記事2000本まであと1本。このブログもひとつのゲームかもしれないし。

すべて些末である。

 決して間違えてはいけないこと。良い仕事とは、「こうである。」などという方法論で成立していない。まして、インターネットの中にありあまるノウハウやステレオタイプな情報が納められているとしてもそれは決して「創作」ではない。だから、テンプレートをどう活用しようが決して新しい価値は生まない。創作とは元来そういうものだから、個人の感性が作り上げる芸術とは全て同位となる。この感性に多くのユーザーが反応し自分にとって有益なものだと感じれば、それが広く商品として価値を生み出す。そして、それを作って作者がビジネスとして成立し創作を続ける。この循環が正しい。だから、セオリーに腰掛けて机の上で白や黒について協議してもそれは整理であり創作ではない。何かを創っていますって自分自身のIDをどういじくってどうにかしようとしても、そこが間違っている場合、創ることから離れていく。つまり、インプットして消化してアウトプットしたモノでなければすべてが些末なのである。お手本はない。お手本をきれいに写せる段階では創作ではない。つまり、セオリーを壊すことが唯一のスタートラインであるべきなのである。

 仕事とは苦労や労働に見合った報酬を得る行為であるから、無料で何かをしているボランティアには一見崇高な行為に見えて実は無料さに依存しているだけ。ピリピリした感覚がなければ報酬を得る勇気を見送る結果になるだけで、継続できるルーティーンにはなりえない。ここが一番の本丸である。

 なぜ、こんなことを思ったかと言うと、あまりにも「無料ゲーム」とか「無料ソフト」とか「無料」な価値が氾濫し過ぎていることにちょっとかなり危機感を感じたからである。「無料なのにここまで多機能です。」の裏には「無料だからここまでで御免なさい。」という些末さに思えるからである。ここから上位の機能が欲しければ有料になりますって、それは一見手法のように見えるが大きな感違いである。だから、無料ゲームののびしろのなさ加減がナンセンスであり微弱すぎてその手法で企業のIDの認知度を上げようとする仕組みに疑問を感じる。厳しい時代だからこそ多様なニーズに反応できる創造力を鍛えたいと思う。

本棚はその持ち主を写す鏡か・・・。

 ある作家の方が人との出会いをこう表現している。まだ知り合って間もない時、その方の書斎や仕事場にお邪魔する機会があれば、チラリとその方の本棚を見るらしい。すると、そこに収められている書籍を一覧するとなんとなくその方のことが理解できるような気がすると。確かに、その方のパーソナルな情報を直接であり知人から聞くことで人間像が見えるということもあるが、その方のプライベイトな空間に大切に収められている書籍を一覧すると確かに多くを言葉で聞くことよりも、より、人間像に触れられるのでしょう。まぁ、本棚がない・・・という方ならばそれはそれでOK。しかし、「私はあまり書籍には親しんでいないのですが」という人にはあまり自分自身が反応しないので、お会いしてそんな空間にお邪魔する機会があれば、一回、その方の本棚をそんな視点で見てみたいと思います。

 で、私の本棚は?となると、これまた、摩訶不思議なタイトルが並んでいることに改めて気がつく。ジャンルは無作為で系統やパターンがない。¥10,000を超える書籍もあれば、古い図録もあり、古本屋の¥50の本もある。どれも宝物であるが、脈略が全くない。が、そこに不思議なパターンも発見できる。まず、「グルメ」関連の書籍はない。そう思うとさらにパターンが見えてくる。「旅」「車」「アクセサリー」「時計」「ファッション」「水泳」「日本の歴史」「ゲーム」「投資」は全くない。つまり、現代の情報の海の中、その人のIDを確認する場合、「何かをしている、してきた。」ではなく、「何をしていない、してこなかった。」というマイナスの視点で人間像をフォーカスする時代だと誰かが本の中で言っていた。確かにそうなのかもしれない。足し算の思考パターンでは見えないことが、引き算の思考では見えてくるみたいな。

ジンベイザメ・・・。

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 最近、娘達がいろいろ可愛いぬいぐるみを自作しているに刺激を受けたお父さんの作品。私のイメージでは「ジンベイザメ」なのですが、娘達の酷評は「気持ち悪い未知の深海魚」。このギャップは何だぁ~!力作のつもりなのですが、たぶん、子どもの心が足りないのだろう・・・。いやいや、あるいは、もしくは、人形を創るとその創った人の魂が人形に宿るとか宿らないとかというテイのお話がある。その感じでいうなら言わば、このキャラは自分の中の何か摩訶不思議な部分がこのカタチでアウトプットされてここに存在している~みたいなことだったとしたら、このルックスはちょっと問題がある。

師匠のひとこと。

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 これは東京の師匠から毎年いただいているカレンダーの11月分。このひとことは心に突き刺さった。何か物欲が頭を擡げる時、必ず、師匠の声が頭の中でする。「それは本当に必要なものなのか?」と。確かに、それでスルーした買い物は数知れない。で、結局、買わないと決めたらそれは必要のないものだと知る。そして、何故欲しかったのかさえも忘れてしまう。言葉のチカラである。こんな心の師匠というかガチの師が私には7名いる。その方の言葉は何か迷った時、失敗した時、落ち込んでDEEPな時、必ずどこかから声がする7名の師匠。つまり、人間は絶対に一人で生きているわけではないということ。だから人間だとも言えるわけです。自分の自我をエゴ化させる仕組みがデジタルの仕組みの中には非常に多い。限定できないほど多い。が、それを進化だとか進歩で片付けて没頭する。その結果、心や頭が遍在する慣習や文化や価値感から切り離される。それが電子書籍だとは言えない部分もあるが、アナログの良さなど別に特筆する必要はない。デジタルコンテンツの質量のなさにいかにディテールや質量を施す設計ができるかが「デザイン」という仕事に含まれてる。そもそもそれが軸だったことが差別化のアイテムになりつつあることも摩訶不思議。いやいや、それを意識化するために、逆にデジタルデバイスがあると捉えるとこれが納得いく。本末転倒が一周まわってリアルなガチなホンマルに辿り着く。まさに「死亡遊戯」である。

油絵をまったりと・・・。

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 まぁ、特に期限は決めず~といういつもの感じで油絵をひさびさに開始しました。今回はある女性アーティストさんを描くつもりです。気負うと途中で息が切れるので、油絵に関してはまったりとマイペースに始める感じがベスト。描いたり消したり描いたり消したりしながら、ここだ!っていうところで筆を置ければまぁそれが完成という感じです。油絵についてはこの感じで描けるのが油絵の手法として好きな特長。仕上げました的な絵はどこかめんどくさいので、時間を作って集中したりしばらく鑑賞したりしながら、イメージをひと筆ひと筆置いていければ・・・と考えております。特に個展をするわけでも公募に応募するわけでもなく、今回の目的はそのアーティストの方にプレゼントするのが目的ですので、その方から頂いた熱量というかテンションを御返しする意味も込めています。展示会場で多くの人に見せる絵ではないので、自分の世界で自分のスピードで描くのがとても大切なポイントですね。まぁ、完成して送る時にその気になれたら、このブログでも完成作品を紹介したいと思いますが、それも未定。ブログのネタで描くわけじゃないのでテンションがぶれないように自分自身の気持ちを大切にして描きたいと思っております。使いなれたパレットに下描き用に絵の具が2色だけ入った状態です。

蓄光石を探しています。

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 これが例の蓄光石。この他にもリサーチするといろいろな種類があるそうです。なんとも惹かれます。調べていると、電気を使用しないエコなアイテムとして夜間のサインなどに最適であるなどという効果があるらしい。まぁ、そのあたりは別に置いておいて「光を蓄積する石」ってどういう物質なのだろう?とてもとても興味があります。ぜひ、手頃な価格で譲っていただけるサイトを探しているのでよろしくお願いします。はやく手に入れたいアイテム現在ナンバー1ですね。優しい光なんだろうなぁ~。

 結局、太陽光発電やダイオードや液晶などの技術進化のコアにはいつも「鉱石」が存在するわけで、石油が枯渇するってことで改めて石の力が人類を救済するとかしないとか・・・。またまた、これで名実共に公私共に「ストーンコレクター」としての追い風を受け、カミサンの忠告を無視してコレクション作業に猪突猛進できるという感じですね。さて、お幾らぐらいなんだろうか・・・?

長浜バイオ大学の魅力発見発信プロジェクト。

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 「長浜バイオ大学魅力発見発信プロジェクト」ということで1回生の有志11名が教授の元、長浜バイオ大学の魅力発見発信プロジェクトと題して3チームに分かれそれぞれのポテンシャルでこのプロジェクトに取り組んでおられます。私の担当は「発信」の部分のサポート。広告で例えるなら企画会議をチームで行い何をどのような手法でどのように誰に伝えるかという部分の、「手法」と「どのように」の部分で昨日はその第一回目の中間発表で少しヒアリングをさせていただいた。

 大学を経て社会に出る~という部分でも、間違いなく私が大学生だった頃とは状況が悪化していると言われているから、この1回生の皆様の言葉ひとつひとつが明らかに自分のその頃とは違うテンションを感じ各チームの発表を仕事のように集中して聞き入る。ながら、さて、自分自身が大学(大阪芸大)1回生の時、はたして「社会との関係性」などいうベクトルが頭の中に存在しただろうか???という疑問もパラレルで走りはじめとてもドキドキするひとときでした。

 もとより、今回の11名の皆様は理系でバイオ大学というカテゴリーの皆さんですから、私が大阪芸大や東京の専門学校で得た知識やノウハウ、そして、東京・大阪のデザインや広告の現場で得た経験値のディテールをお伝えしてもたぶん理解・会得することはできない。だから、概念や全体的なフレームについて、また、皆さんが考えるテーマやコンセプトをいかにして成果物(CM映像やポスターなど)にするかということについてのヒントやアプローチの手法の部分と具体的に画面構成や絵コンテなどの映像のシナリオを作成する段階からそれぞれのチームにアドバイス的なことをお伝えできればと考えています。

 アウトラインをご説明した段階で、おひとりおひとりにこのプロジェクトに参加した理由・背景をお聞きしたのですが、皆さん素晴らしい!しっかりとした理由と自分自身をどう啓発して覚醒したいかを頭に持っておられる11通りの文脈がありました。これは別に改めて聞く必要もなかったのかもしれないですが、私自身、この11名の皆さんと最後のコンテンツ完成までコミュニケートするに置いて、それぞれの意識とモチベの確認ということでお聞きしたのであり、逆に皆様の言葉を私の中に一旦SAVEして消化して反芻してどんな化学変化が起こるか・・・という部分もしっかりとガチで踏んでおきたかったので、あえて皆様にその部分を言葉にしてもらいました。うん、学生らしい素晴らしい解答ばかりでした。

 まぁ、デザインやアートやメディアに関する専門的な知識やノウハウは道草になってしまうので、いろいろ興味があればなんでもお答えするつもりですが、今回の主旨はそこではないので、教授と11名の皆さんで素敵なコンテンツを作成したいと考えております。11名の皆さんは間違ってもデザイン業界や広告業界、もしくは、アートの世界へ羽ばたく人材ではいい意味でないので、できるだけ本丸から逸脱しないように、ベタにガチにイキに助言ができればと思っております。皆様、最後までよろしくお願いいたします!という感じ。

これもいいっすねぇ~。

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 最近アートに関するいろいろな取り組みが気になっています。勿論、この仕事をしている以上、アートとの距離間は近い方ですから、気にならないということは逆に危険信号なのですが、アートとデザインの関係は永遠のテーマとして、パソコン内でソフトウエアが描くデジタルペインティングの限界点が来ているような。いやいやそんなのは比較検討するまでもなく、デジタル絵画など本来のアートのジャンルにさえ入れないと確信しているのですが、それでも、インターネットで印象的なデジタルコンテンツにはソフトウエアでの合成コラージュや3DCGソフトを駆使した作品が気になる場合もある。しかし、所詮モニターで観ている絵に対して何の感情も高揚も起こらないわけですから、無理に奮い立たせずともデジタルはデジタルで認知しておけばいい。

 最近、ソフトウエアよりも、デッサンとか画面構成などを教えてほしいという方からの依頼がありまして、その場合、どこからお教えすればと悩んでいます(嬉しい悩みです。)。絵を始めたい、水彩画を始めたい、鉛筆デッサンを始めたいという方は、すでに自分の中で描きたい絵が頭の中にある方です。僭越ながらよく申し上げるのは絵を描くということは、3つの能力が必要で、ひとつめは手の技術力、ふたつめはモチーフを見る能力、で、みっつめはイメージする構想力。この3つのバランスが基本だと思っているので、そのことをご理解していただくためにどのような練習を~というテイになります。まぁ、そんな本格的でなくとも白い紙と鉛筆があれば絵は描けるわけですから、あまり、固く考えずに楽しむことの方が基本なのかもしれません。

肖像画っていいですね。

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 やっぱ、このクオリティーのオイルペインティングは落ち着きます。実際ここまで描くのにはどれぐらいの時間と魂を込めればいいのか未知数ですがここまで描くと肖像画としては鉄板ですね。やはり、そのディテールといいますか仕上げ的には油絵以上の表現手法はたぶんないでしょうし、日本画や水彩画などの画材で描かれた絵というのも勿論歴史があり素晴らしい作品が多く存在するのですが、絵画の歴史の長さで言うなら油絵が最高峰だと思います。天文学的な価格価値がついてる作品などもやはり油絵ですし、画商さんの中でも取引されている価格帯もたぶん油絵がクラス的には最高なんじゃないでしょうか。だから、油絵を描くのが好きだということでもないのですが、やはり、この質感や描く人の気持ちや魂を込める手法としては油絵という画材はその長い歴史と共に様々な取組が展開されてきたわけですから、そこに知恵やスタイルは深いモノがあると思います。

ペトロール1本。

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 このオイルは油絵を描く場合の下絵の段階で使用する乾燥系のオイル。乾燥系ではテレピンとこのペトロールが一般的ですが、こちらを購入したのは、やはり、匂いが好きだから。どうもテレピンの匂いがちょっと・・・。速乾性のオイルでデッサンを起してから様々なペインティングオイルに移行して、最終段階でグロス系やマット系で落ち着かせるのが油絵のスタンダードですから、意外と一枚描くのにこのタイプは消耗します。ってことで1本追加。

第3回「日経小説大賞」に。

 日本経済新聞社は日本経済新聞出版社と共催で2011年に第3回「日経小説大賞」の候補作品を募集するらしい。物語性が豊かで時代性、社会性、娯楽性を兼ね備えた優れた作品に大賞を贈るらしい。未発表の自作小説であればジャンルは問いませんとのこと。選考委員は小説家や文芸評論家の皆様各氏で、2011年の日本経済新聞朝刊で選考結果を発表するらしい。大賞受賞者には賞金1千万円と記念品が贈呈され、受賞作は日本経済新聞社出版から出版されるとのこと。400字詰め縦書き原稿用紙に300枚から600枚以下。1200文字の内容要約文と題名などを添えて郵送してくださいらしい。

 う~ん、なんか興味がありますね。勿論、1000万円にも興味はあるが、日本経済新聞社というところになんとなく惹かれます。時代性、社会性、娯楽性という部分でも、過去の2回の受賞作品は知らないが、さぞ~よろしいでしょうね。小説における、時代性や社会性ってどのような表現を指しているのだろうか?そして、娯楽性ということは?A4サイズに400文字を打ち出して600枚となるとかなりの量だし、まして手書きなんてありえない。いや、ありえるのだろうか?そもそもジャンルは問わないとのことですが、小説のジャンルって具体的にどのようなジャンルがあるのだろうか?このあたりがとても気になるので、ちょっとトライしてみようかなと思っております。だいたいいつも書いているブログが600~800文字だから、ブログ記事でイメージすると多くて300本分。毎月50~60の記事を書いているので、文字量的には6ヶ月分か・・・。結構多い。普通、このような公募に作品を出す人って仕事をしながら取り組んでおられるんでしょうか、毎日毎日、書き続けておられるんでしょうね。そう考えるとなかなかハードルが高くなる。でも、テーマを決めて設定を決めて物語を書き出し、ひとつの作品にまとめるって大変だろうけど楽しいそう。達成感もかなりあるだろうなぁ~。そんな気まぐれで書けるような代物でもなさそうですが、ちょっとづつ書き出していけば、400×300枚=120,000文字ぐらいは打てそうな気がする。

 まぁ、今日の気分はそうでも次の日はどうだか分かりませんが、ただ、なんとなく興味があります。

 そもそも、小説の骨子ってどうして決めているのだろう?たくさん小説は読んできたが、自分が小説を書くなどとはこれまで考えたこともなかったので、どうして構成を決めているんだろう?好きな小説家の構成のまねでもいいだろうし、最近、読んだ作品や過去に読んだお気に入りを改めてチェックしてみようと思う。改めてそういう風に考えると、書店に並んでいる小説って凄い。ほんとにガチで1日パソコンに向かったらいったいどれだけの文字が頭の中からアウトプットできるのだろう?それにも興味があるし、仮に10時間キーボードを打ち続けたらどれぐらいの文字数になるのだろう?う~ん、なんか、ふと思いついたことなのに、考えれば考えるほどモチベーションが上がる気分です。これが小説という作品を創る時の醍醐味なのかもしれない。書いたことないのに・・・、1文字も書きだしていないのに・・・。

モナ・リザの謎の謎。

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 「絵画を読み説く」「絵画に隠された暗号を~」とかってホントにメンドクサイ。仮にそれが真実だったとしても、それで?だから?まず、100%それらはフィクションだろうし、捏造に近い仮説を今さら聞かされても書籍でひも解かれても・・・という感じなのに、そこかしこで「絵画の謎」が横行している。古今東西この現象って一律なのでしょうけど、それだけ絵画の謎を知りたいだろうか?謎は謎だから謎。だから、「どうだろう?そうなんじゃないの?」ぐらいのリミッターでいいのでは。絵を描いた本人もびっくりのような絵の謎がひとりで歩き始めている。が、「価値の上がる絵とは多くの人々に語られる絵である。」というホックニーの言葉どおり、それは必然なのかもしれない。では、語られるから価値があるのか?価値があるから語られるのか?どっちだ?技術的な背景や構図や社会性についてベラベラ語ることは容易いができれば、描いた人の描いている時の気持ちが1秒でも0.1秒でも同期できたらシンクロできたら、素晴らしいだろう。いわば、そのためだけに絵は描かれているような気もしなくない。

原三佳恵先生の個展へ。

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 大阪芸大でお世話になった原三佳恵先生の個展へ。年一でご案内を毎年いただくので今回はとてもタイミングがよく、先生も来ておられたのでゆっくりとお話することができました。先生、お元気そうで何よりでございますって、原先生はそんなお歳ではないのでこの表現はちょっと変。先生のスタイルは10代20代の頃はちょっと???でした。それは頭で考えていたからだったこと、46歳になり、少しは感じられるようになったのかこの作品の存在感に惹かれる自分がいます。絵やアートは「狙う」と必ずターゲットが遠くなる。「構える」とターゲットを引き寄せられなくなる。だから、「自然に」が正解。デザインやWEBの仕事をしていると、「狙い」や「構える」がありきになすぎ、策士が策におぼれ、自分自身で仕掛けたトラップに自分でひっかかる・・・みたいな連続。でも、そんな傷が増えるたびに心が「NOTHING」になる感覚。なんでもかんでも「無」で解決はできないが、これはとても重要なこと。それに気がつくためには、それが見えるようになるには、多くの傷が必要だということ。

 学生の頃は生意気なことばかり先生に言葉にしていたような気がします。はずかしい限りである。でも、こうして時を経て先生の作品に囲まれながら、先生をお話をする時間の心地良さと言えば、他に置き換えるモノがないほど心地良い。いろいろお話できてほんとに楽しかったです。

 開催されていたギャラリーさんはこちらです。お近くの方はぜひ!ただ、このWEBサイトはもうちょっといろいろな意味で頑張ってほしい気がしますが・・・。ギャラリー内で創っておられるのかな?担当者様頑張ってくださ~い!また、ちょくちょく拝見します。

ギャラリー・プチフォルムさんの公式WEBサイトです。

よし!今年はカレンダー作るぞ!

 ちょっと、なまけていた卓上オリジカレンダー。今年はモチベが上がってきた。よし、頑張って作ろうと思っております。たぶん、ペン画になる予定です。経過報告は少しづつこのブログで報告します(また、途中で放置しないように・・・)。ご希望の方がおられたらご連絡ください。メール(info@act-khuz.com)でもコメントでもいいので気軽に入れてください。まぁ、普通の卓上カレンダーでしょうが・・・。ちょっと、サプライズも構想しています。

アップルの次の展開は?

 さてさて、アップルの次の展開はいかに?iPodをブラッシュアップするのか?iPadのテレビ?それとも、新しいコンセプトのMAC???ワクワクドキドキはいいのですが、あまりにも展開が速すぎてワ!ド!で次から次へですから、もうちょっとゆっくりとあせらずに戦略を展開していってください。そんなに早く展開されても持久力が・・・。って、これもアップルマジックかもしれないから、何もアップルのゴールだけを目指す必要もない。便利だ便利だってことですが、電子ブックがそれほど上だとも思えないし・・・。

楽曲からの映像イメージ。

 やはり、映像を撮影したりPCで創り始めてからの変化ですが、例えばグラフィックデザインでもWEBサイトでも静止画のデザインだけに取り組んでいた時の思考パターンとFLASHやA.E.などで映像を発想・着想して作成するようになってからでは、明らかに絵や写真や音楽や、もちろん、映像作品のを観た時に頭に残る・浮かぶ・記憶しているポイントが異なる。デザインやイラストの仕事をする前の学生の頃もそうですが、美術の時間に絵を描いているレベルと芸大で四六時中絵のことを考えているレベルでは明らかに画面に向かっている時のテンションの密度が異なる。それはそういう環境に条件下に自分自身を置くことで、何かスイッチが入るのでしょう。そして、こればかりは頭で考えてても何も始まらない。空想・夢想はあくまでも幻想である。一本で線を描く、ひと筆でも絵の具をのせてこそ、スイッチが入る。

 で、動画・映像のイメージが頭に浮かぶという感覚についてですが、一番最初に(たぶん、10年前ぐらい?)FLASH3.0を買って動画を作った時、単純に円が左から右に動くチュートリアルをした時、初めて時間の感覚とデザインの感覚が自分の手の中で実感できた。これはある種の出会いだった。すると、気になるイメージや場面転換や映像の切れ目が見えてくる。それまで何気に見ていたモノにそのコンテンツの創り手の顔が見えてくる。絵やデザインも同じで創り手の顔が人が見えてくると、その作品は自分にとって特別の存在になり、記憶の箱に入れられいつでも忘れることなくフラッシュバックしてくれる。これが、いわばデザインやWEBや映像の仕事をする時の最大の最高の武器になる。

 その場合、理論や方法論は非常に重要ではあるが、この引き出しほど目の前の取り組みに対して有効に機能はしない。結果、共有させるのは作品で方法論ではないからである。作品に何かを入れる、入る実感を一度でも体験し、それが、誰かと共鳴でき、そこからのフィードバックが心地いいと感じた人は絶対にクリエティブの仕事はやめられないたまらない状態だろう。ドラッグのように次へ次へとトルクが上がる。しかし、上がることが最終的に注ぐことへ対しての「=」にはならない。これがもどかしくもあり、高揚するクリエティブの魅力ですね。

 そこで、あるアーティストの方の作品から映像イメージが次から次へと浮かぶ感覚があり、ひとつひとつ絵コンテにして書きためています。これがオートマチックに自分のマニュアルが使いこなせた方がたぶん映像分野では多くの共感を得てスタイルとして確立されているのではと思ったりします。

 「24時間迷子になる365日 ごちゃ混ぜになる夢とリアルがわかんない 髪を乱し息を切らしなりふり構わず 夜と昼の隙間から抜け出したい(いいくぼかおり:眠れぬ夜のシンフォニー歌詞より抜粋~)」これをさおりさんの声とピアノで何回も何回も聞いていると、鼓動が高まり、意識の中で時間の軸が乱される。そして、今、目に映っている映像のひとこまひとこまが妙に新鮮に映ってきます。それを加工できたら、映像作品として切り取れたらなどと、楽曲からの映像イメージってこういう感覚なのかなと強く感じております。やっぱ、凄いわ、さおりさん。

楽しい時間・・・。

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 なんとなく、たまに、鉛筆で絵を描きたくなる。デッサンとはちがう自分なりの「鉛筆画」。何かを見て描くがフォルムが確定したらもう見ない。あとはなんとなく・・・。鉛筆と紙の相性はとてもいい。どれぐらいいいかと言うと、何よりも鉛筆が軽いから強弱が自由、そして、欲しい線が得られる。この万能さは鉛筆以上の画材はないですね。しかもモノクロだから白黒も色も表現できる。まぁ、そんな学生の頃みたいな理由はさて置き、やはり、一人で絵を描いている時間が一番楽しい。

ノラ・ジョーンズを聴きながら。

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テレビ情報で「ノラ・ジョーンズ」を知る。

早速CDを3枚レンタル。確かにいい感じ。

ってことでちょっとジャケット写真を見ながらCDを聴きながら鉛筆にてドローイング。

A6サイズのミニノート活用術。

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 人間の素晴らしい能力の一つに「忘れる」という能力があるらしい。身の回りに起こった事件や自然災害や悲惨な事件などマイナス要素がいつまでも心を占領していたら、本来やらなければいけない生きるための思考さえもマイナス傾向になってしまうからだ。かと言って、悲しみの記憶がどこかに完全に消え去ることはない。つまり、記憶には3モードあると言われており、一番大切なモードの中には悲しい記憶も楽しい記憶もいつでも意識下に引き出せるモードになっているわけで、「忘れる」とは意味を感じられなくなってしまうということ=ではない。

 また、どのモードであれ、「忘れる」ことが能力ならば、五感や脳は何を基準に「覚えている」と「忘れる」を振り分けているのだろう?それは生物学的な理由もあるだろうが、いわばその方の様々なポテンシャルに依存しているのだろう。「覚えておこう。」と判断したことを忘れる。「忘れたい。」と判断したことが忘れれらない。この仕組みの背景にはいったいどんな機能が働いているのだろう?

 で、ここ数年、とにかくメモ魔になった。思いつきや仕事のアイディアなどもいつでもどこでも小さいメモを持っていてそれに書き出すということを繰り返してきました。だから仕事場やPCのまわりにはそんなメモだらけ。それがいつの何のメモかも整理できていないが、その1枚の紙きれはいつも目に止まるところに差し込んであったり貼り付けてあったりしてあるので、たったの1枚の紙きれでそれを書いた時の気持ちやそのメモの背景や細かいディテールを一瞬で蘇えさせる効果がある。

 そんなことを繰り返していてもっと機能的で達成感のある方法はないものだろうかと考えていたら、やはり、必然としてこんな方法について書かれている書籍に出会えた。その著者はとにかくいろいろな自分が見たり聞いたり感じたりしたことをいつでもどこでも(枕のそばにでも)A6サイズのミノノートを置いているらしい。それは、外出する時も仕事で打ち合わせする時も仕事用のノートやメモとは別に常に肌身離さずモードのミニノートらしい。その著者と同じモノを早速2冊購入して試しています。このサイズだとどこにでも入るしどこにでも持っていけるので思いついたらすつにライトダウン。これを繰り返すことで「忘れたくないこと」が自分の財産として蓄積できる意外とライトなアプローチなのかもしれないと思います。

 で、余談ですがその著者が言っていました。常に仕事中会社でPCに多く触れている人限定のTIPSなのかもしれませんが、「ノートブックPCは使わない!」が鉄則らしい。その理由や効果はいろいろあるのですが、それよりも、自分の五感や脳を活性化させる時間を1日の中でしっかりと作りなさいというススメ。活性化している状態って、車を運転している時や電車などで移動している時らしい。そこにPCがあれば、常に頭は「やるべきことモード」でニュアンスやフィーリングの思考がストップしてしまうらしいですね。また、携帯電話も心を鬼にして持たない時間も作りましょうということ。どれも自然と自分自身毎日やっていることでちょっとこの著者に親近感を持ってしまった。たぶん、話は合うでしょうね・・・。

アナログとデジタルの大きな違い。

 イラストレーションを学んでいた頃、合言葉ように「自分のスタイル」というキーフレーズが頭にあった。誰かに自分のイラストを見てもらっても、入社試験や面接に自分のイラスト作品を持ち込んでも言われる言葉「自分のスタイル」。モノマネかそうでないかがなぜ必要なのか分からなかった。なんとかこの世界で飯を食わしてもられるようになり、逆の立場で新卒者や中途採用の方の作品を見る立場なる。数年前まであれほどこの言葉が重く自分の心にのしかかっていたのに、その皆様の作品を見ながら「自分のスタイル」というフレーズを多用している自分。なんともしっくりこない。それは、今でもそうである。いったい「自分のスタイル」というのは何なのだろうとずっとずっと思い続けている。

 時は、アナログからデジタルに変わり必然として自分自身もデジタルギアを多用し仕事に取り組んでいる。が、常にアナログな作品に対するアプローチは同じ比率でいつも自分の手の届くところに置いているし、何かをクリエイトするときに、このアプローチはアナログかデジタルかと迷うこともなく、それぞれのベクトルを比較的迷うことなく活用できている。デジタルに入りたての頃はデジタルの魅力が一気に押し寄せてこんなソフトを使っていたらこれまで悩んでいたいろいろなことが一気に解決されて素晴らしいデザインがとても効率よくクオリティーも高いレベルで常に作り続けることができると驚嘆した記憶があるが、それも実は長く続かない。それはある部分は正解なのですが、ある部分は誤解だった。どの部分が正解でどの部分が誤解だったかについてはまたいずれこのブログで書きますが、今回はアナログかデジタルかという部分で少し思いの長けを。

 つまり、誰でも100人が使えば100人とも並行に引けるラインには個性がなくなります。わざとビビらせるならそれはそれでデザイン。しかし、与えられた紙面の中にラインを引く、文字組を正確にレイアウトするという部分では、数値的なデジタルギアと感覚的なアナログ手法とでは、同じゴールでも違うモノになるという現実があります。それは、例えば書籍の装丁において表紙のデザインを考える時によく自覚できること。与えられた表紙の紙面にレイアウトするのはタイトルと著者名と出版社名とビジュアルという4つのエレメントがあるとすると、これをどう並べるということがデザインの目的。さて、あなたならどうしますか?イラストレーターを使う、インデザインを使う、それは何でもいいのですが、タイトルのフォントサイズは?著者名の文字配置は?出版社様のロゴは名称の位置は?そして、ビジュアルは何してどう配置してこれらのエレメントを紙面にどう並べるか???ここだけでもう無限の可能性があるのです。仮にこのレイアウトを決定するまでに10日間費やしてもいい条件と6時間で決定しなければいけないという条件でデザインのクオリティーはどれぐらい変わるのだろうか?これらを意識下に置くともうデザインとは確率や科学のようなアプローチにさえ思えてくる場合がある。しかし、実際はそれほど~という部分と、それでも~という天秤のバランスでひとつに絞り込まなければならない。特に、デザイン系の新卒者さんなら例の「自分のスタイル」で斬新に反ステレオタイプからアプローチする。これがまた「斬新」なのか「シンプル」なのかを判断するにも細かいTPOがある。逆に10年以上の経験者ならば、出発点から2~3周して逆にこれが新しいと「自分のスタイル」を作る場合が多い。これは、何もデザインの仕事にだけ当てはまる方程式ではないような気もします。つまり、人と人がコミュニケーションされる場合に常にテーブルの上に出される「自分のスタイル」が重要なのである。

 で、アナログとデジタルについて最後の最後の瞬間まで「自分」はどう考えているかがデザインとしてカタチになることがそれ自体が「自分のデザイン」であるべきなのである。だから、デザインの仕事は有意義で楽しくそして辛く苦しいのである。挑戦や葛藤や危機感のない自分ではつまりデザインも同位なのである。感激や感動や高揚感がない自分ではつまり・・・なのである。アナログからデジタルへの振幅を意識下に置きながら、いつでも相互を行ったり来たりできないと、テーマをひとつの画面にまとめることはできない。まとめるためのバランス感は唯一無二なのである。何かに所属したり何かの認定公認に依存することは大切なことではあるが、心の感覚の羅針盤がいつでも360度回せる状態にする必要がある。数多の方程式には絶対に導き出せない答が存在する。だからアナログとデジタルの間で苦悩する異議があると思いますね。

「デッサン」で検索。

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 この画像はグーグルで「デッサン」というキーワードで検索して仕事のための資料をリサーチしている際にヒットした画像です。作者は不明でグーグルの画像データベースにアップロードしてあった画像データです。というのも最近仕事にしてもライフワークにしても手で描く絵のリアリティーがなんとなく気になり、ソフトで仕上げるにも下絵は手で描くようにしていることや、そのまま、イラストボードにペンや筆で描く、画材的には透明水彩でもカラーインクの場合でも、手で描く方が早くディテールがしっかりしていて思い描くイメージにダイレクトに辿り着ける感覚がありました。デジタル全盛時代に逆行しているアプローチかもしれないのですが、「手で描く」ということが表現の点で一番無駄なアプローチをしなくてすむような気がしています。結果、画材でもパソコンのソフトでも絵を描くという行為は同じなのですが、逆にパソコンで描く絵には無駄なものがなさ過ぎてしっくりこないような感覚です。

 で、この参考にダウンロードしたドローイングなんかも、ポイントは描画力の高さよりも、リアリティー。デザインの仕事で何かを伝えるための一手法としての絵(イラストレーション)でさえ、氾濫するPC用のクリップアートや3DCGの素材集では表現できないリアリティーとマテリアルが手で描く絵の存在感には含まれているように感じています。やはり、人間の手は素晴らしい。

 改めて、複製時代の一品志向にアートやデザインの価値を感じています。たかがデッサン、されどデッサンなのでしょう。デッサン力って、鉛筆や木炭だけのお話ではなく、グラフィックデザインの中にもWEBデザインの中にもしっかり連携・連動していて、いろいろなグラフィックデザインやWEBデザインの配置や構成を見ていてもその方のデッサン力が見える。インターフェイスなども時にはセオリーや方程式に逃げたい気もしますが、あえて、紙と鉛筆でサムネイルやラフスケッチから構想プランを練ることで、やはり、しっくりくるデザインになるからこれまた不思議です。

 デザインの仕事を始めた頃、デッサンのことなどデザインに無縁だとたかを括っていたが、基本はすべて同じだということですね。何ごとも。

 絵を描くということは3つの能力が必要だと大学の先生に言われた。ひとつは画材を使いこなす手の能力。二つ目は頭の中で完成した絵をイメージする能力。そして、三つめは描こうとする現実のモチーフやコンセプトや概念などを見る能力。この3つの能力がバランスが崩れているとどんなに技術的に優れていても、センスやプランが素晴らしくても「強い(存在感のある)絵」にはならいないと・・・。

東会長、お疲れ。

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 勇粋連会長、東っち、本当に演奏からこのコンサートの様々な準備、貴殿のご苦労は想像できませんが、この笑顔を拝見するにおき、大成功だったと確信しています。本当にお疲れさまでした。とても、素晴らしい映像がたくさん撮影できました。また、送りますね。メンバーの皆様やご関係者各位の皆様にっも今回のお礼ができませんでしたが、皆様によろしくお伝えくださいませ。

赤いイチゴ02

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 このようにたった3株なのですが、いっぱい花をつけました。ある程度白いまま大きくなってから赤く色が変わります。第1号の味がとても満足レベルだったので、これらも期待大です。アルミホイルを引いてより赤くならないかなと・・・。赤くなると甘くなるみたいですね。

いちごよこのままこのまま。

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 このまま赤くなってくれ!たのむ!!

我師への恩。

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 先生ほど穏やかで先生ほど頑固で先生ほど大きい人はいない。「恩」ですべてを表現できるほど小さい存在ではない。現代芸術と教育の現場で先生のご活躍・ご功績を昨日のような場面で数多く聞かされるが、そのリアリティーは限りなく0に近い。私の中で先生はいつまでも高校時代の美術の先生であり、大阪芸大に合格でき、その報告に行った時に見せていただいたあの笑顔と同じ笑顔で昨日も笑っておられた。その存在感は唯一無二である。ご出版おめでとうございます。そして、これからも人に自然に世界に微笑みつづけてくださいとしか、若輩モノの私からは送る言葉が見つからない。あまりにも大きすぎる長谷光城という鏡の前に自信を持って立てるように、又、今日から勝負である。本当におめでとうございます。
 で、何より先生にこの丸坊主頭を撫で回していただけたことが嬉しいひとときでした。先生はニコニコしながらビール瓶を片手に「お前は出家したのか?」と、私は別に出家したわけではありませんので・・・。

Step by step.ですね。

 何事も一歩一歩進まなければいけないですよね。この場合の「何事も」の部分、いろいろあるのですが、お仕事で言えば、デザインとソフトウエアの関係です。ソフトが使えるからデザインが出来るではないのですが、デザインが出来るならソフトもできるでもない。また、ソフトが使えるとデザインが創れるも同位ではない。まずはデザインからということなのですが、自分自身、学校でデザインを学んだ期間はなく、最初(23歳の頃)に新宿の事務所でカレンダーの版下を修正したことが生まれて初めてのデザインの仕事。そこからいろいろな方やお客様にもまれてもまれてもまれてもまれてもまれて、そう、新茶のようにもまれて今日がある。そう思うとStep×928,6881,3362ぐらい。そして、例えばイラストレーターで言うなら小さい12インチぐらいのモニターに英語のマニュアルでモノクロ画面。そして、今ではビックリするようなツールボックの「ペン先」と「円形ツール」で禁煙マークを作成していたとこから、現在(CS4)に至るまで、どれだけの試行錯誤があったことか。しかし、デザインもイラレも何かひとつづづ整理して身についた感覚はない。それこそ、まだ本当に身についているのかさえ不明で未知数なのが実感。だから、正確には目標設定ができないまま、ただ、進んできたとしか表現できない。しかし、デザインもソフトウエアも数知れない失敗を繰り返し、次は失敗せずに効率よく、もっと、希望されているデザインを、もっと、希望されている以上のデザイナー・クリエイター・アーティストなりの仕事をしたいと繰り返してきたことが、小さい石ではあるが、礎に糧に経験値になっているような気がする。
 で、このWEBビジネスの世界からマルチメディア・クロスメディアの世界ででも、たぶん、どこにも最適なテキストなどないだろうから、一歩づつ、自分のスピードでいつもの感じでいろいろ失敗を繰り返し、ノウハウをチップスをギアを増やしていきたいと思っています。
 次は何が何でもRIAである。

その道のふるまい。

 日経新聞より抜粋ですが、「その道に詳しければ当たり前のことなのだろうが、なるほどと感心したことがある。満開の桜の絵は盛りだけを見ても描けない。花も葉もない枝をしっかりと描いておく。それに花をのせていくのだと、日本画を趣味にする友人に教えられた~中略~ものの本質、骨格を骨法ということがある。きょうから3月。移ろいゆく自然界とは裏腹に、人の世はどっぷり冬景色に沈んだままのように思える。しかし、冬にしか見えない骨法がある。花も葉も実もない木の骨法をどれだけ正確にとらえられたか。いざ春や夏を描くとき、ものをいうのはそこなのだそうだ。」となっている。今日から3月。滋賀県長浜の冬は今年雪も少なく非常に過ごしやすい冬でしたが、確かに確か、人の世はしっかりと冷え込む日が続いている。絵を志す方なら必ず通る道として「鉛筆デッサン」がある。見たモノを描くという訓練の初歩のふるまいである。しかし、この道にゴールはない。はじめたから何かを達成したいと考えるのは自然なのかもしれないけれど、始めるとこうことは終わりがないということに気がつけば、春夏秋冬の気持ちになれる。巡る季節の中でその道の上で何かを見つけてこそそれが季節を生きるふるまいのコツに成り得る。しかし、何かを始めずにただ季節を過ごしてきた人も多い。「こんな時代だから新しい技術を身につけるためにその道のプロへトライ!」だとか「転職に有利な免許を取得するために、残業が減った時間で何かを身につけよう!」ってこともあるようですが、それで何が身につくだろう。
 で、「information」と「intelligence」の違いにこそふるまいがあるように思います。情報が氾濫している時代、PCや携帯キィアリから得られる情報は十二分に詰まっているが、「知る」ことと「身についている」ことの間にある感覚の違いがそのふるまいのベクトルを左右するように思います。話題・情報の豊富な人の言葉の中にその方の言葉を見つけるために、自分にその眼力があるをいつも確かめている。言葉は多い、論理が巧み、熱意がある、しかし、ふるまいがない。花が咲き誇るための枝を見ることがこの不透明な時代に一番必要な力だと思います。知識や情報をコントロールでき具現化できる知性を身につけたいと思う3月1日でした。

「強み」とは?

 「自分の「強み」を生かすことは厳しい競争社会を生き抜くうえで欠かせない。しかし「あなたの強みは何か」と問われると、即答できる人は少ないようだ。」と昨日の新聞の記事。なんでもかんでも自分に問いかける時代、それが何の競争社会かについては深く追求せずに、とにかく何がなんでも競争社会って言っておけば、そこそこ、なんとなく社会だろう・・・みたいな記者の緩さが否めないが、このことを突き詰めて仮にこの記事を書いた記者と編集者と話をしたところで、多分、ポカン状態でしょうね。それが義務教育の優等生の視点ですから。あの時から教育が変わり社会が変わり経済が変わって、その状態を「競争社会」と教えられたらそりゃ「カゴの中のねずみ」は車輪の中でグルグル回るでしょうね。それがベースにあるから、この場合の「強み」もさて何を指していることだか・・・。そして、その「強み」を見つけて仕事に生かすって、そんなに「仕事」って存在は都合良くないぞ。逆説で言えば「強み」があるから仕事ができるのか?そうではないだろう。「強み」を他の言葉に置き換えるとすると「アドバンテージ」になるのだろうか?それとも「ポテンシャル」になるのだろうか?それとも、デバイスか?ウエポンか?バックグランドか?横文字しか置き換える言葉に思い浮かばないのは日本語の「弱み」!?
 で、どれぐらいの「強み」だったらいいのですか?という基準のお話にもなるし、10名の組織だったとしてその「強み」は1番がいいのか、5番がいいのか?ということも気になる。この記事の緩さはその側面をきっかけに次から次へ思い浮かび、最後に「自分の強みを生かし、弱みも強みに変えられれば、仕事の成果を上げられるはずだ。」と締めくくっているが、これもついてはもう論外。そいういう意味で新聞のニュース以外の記事は面白い。新聞が基準値だと思って編集されているから、その基準の設定がなんとも緩い文章は喜劇のシナリオに近いほど文脈が崩れている。
 さて、このような新聞記事にツッコミを入れている私自身のこの視点は「強み」なのだろうか?「弱み」なのだろうか?だから、「強み」って何だろうと疑問が疑問を生む新聞記事でした。

ENYA「雪と氷の旋律」

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 3年ぶりのアルバムである。同封されたパンフの中にエンヤさんの作品づくりについて記述してある部分がありました。とにかく作品づくりに時間をかけるエンヤさん。その独特の世界観は「DRIFT」しながら創るとのこと。なるほどなるほど、つまり、プランというか作品づくりのスタートラインを決める際に最後の完成形まで綿密な設計図は描かない。最初のインスピレーションさえあれば、あとは自分の感覚がドリフトしながら作品を作っていくという作り方。長い時は発表するまでにひとつの楽曲を1年以上手つかずで自分だけの世界の中に漂わせて(Drift)おくらしい。素晴らしい作品にはやはり素晴らしい創り方があるものです。時間に追われて追われてじゃダメですね・・・。

強い写真です。

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 いい写真は何も一切語る必要がない。そんな写真ですね。そんなデザインを創りたいものです。

10月の絵。

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 これは映画「クラッシュ」の一場面。お父さんが娘に見えない魔法のマントをつけているワンシーン。この透明のマントを着ていると拳銃の弾も跳ね返すと父が娘に語る。お父さんがこれまで生きてこれたのはこのマントがあったからだと、しかし、この魔法のマントはもうお前も大きくなったからお前に譲る時だと言ってつけてやる。このシーンは忘れることができない映画のワンシーンベスト30に入っている貴重な構図だったので、2008年のカレンダー用に鉛筆で描きました。さてさて、そろそろ2009年のカレンダーの季節。今年は何を描こうかな・・・。

「仕事」の概念。

 よく「手法」か「目的」かという議論になるとまるで「手法」が不適切で「目的」こそが絶対だという結論に流れがちですが、ほんとうにそうだろうか。そもそも、経済の仕組み(そんな巨大な概念や通念を語れるほどの経験も知識もないのですが・・・)とは誰が決めている?というシンプルな疑問があるとするれば、その答は百人が百人の答を持っているはず。その場合目的の数が百なのかひとつなのかという疑問が発生し、そのための手法は百でいいのか二百必要なのかという議論になる。これが、いろいろな場面でいろいろな時代背景と個人の資産や技術力や知識力で経済が成立していると、誠に簡単なフレーミングを行うと、さて、「仕事」とは?何なのかと、その概念はどうであるべきなのかという疑問に辿りつく。これには賛否両論どころではない数多のトライ&エラーがある。
 そこで、「いい仕事」とは何か?ということである。それだけの変数というか乱数をひとつの方程式で回答できないのであれば、それは、「なりゆき」「ふるまい」「偏在」というファジーなアプローチで取り組まざるを得ないのではないだろうか。しかし、理論がそうはさせないジレンマがある。いいと判断するためには、そういう原因を内部か外部に設定して結果を導くための試行錯誤が必要である。「いい仕事」は幻想なのか結果論なのかということである。で、今、この時、自分自身はどこのポジションなのかを知るために、つまり、アイディンティティを確立するために、鏡が必要なわけである。ネットワークの中の個が見えていない状態でお山のなんとかがそれなのか、海の孤島で死ぬまで狼煙を上げ続けることがそれなのか、地球の資源を自分の資源と勘違いして戦争に従事するのか・・・なのである。
 いい仕事はしたいですが、自分を知らないと自分のエネルギーが浪費される。時に浪費と思えることが実は的を得ていて結実し素晴らしい花を咲かせる。それが結果「いい仕事」なのかもしれない。だから、情報交換こそが一番大切であり、ネットワークを広げることは結果、自分自身を知るということなのである。にもかかわらず、微弱な理由でそのチャンスを自ら放棄する人が多い。というか、それには価値はなく、バーチャルな抽象的な信号をリアルのそれと勘違いする時代が現代のインターネット時代のように思える。それはそれで活用すれば真、ふりまわされれば偽なのである。いつかこのことはもっと整理して自分の書籍の中に記述したいと思っています。それが私の現在希望している「いい仕事」のような気がしています。

具象と抽象の境界線。

 とにかく小学・中学の頃はお手本どおりの絵がいいと思っていた。習字も見本に近い方がいい書だと思っていた。しかし、今、学校の美術や書道はそうではないらいし。情操教育とかいう奴である。否定も肯定もしませんが、子ども頃から自由に描きなさい、大胆に筆を運びなさいで、ほんとうに子どもたちの絵や書道に対する意識は芽吹くのであろうか。もし、自分自身が子ども頃そのような教育方針で絵に関わっていたら、書に関わっていたら、たぶん、興味が沸かなかったように思うのです。自由とは言葉の裏を返せば無責任なニュアンスを受ける。それをいいも悪いも現場の教師に判断ができないから、とにかく自由に大胆にでその場を凌げばいいじゃん、みたいな空気感を強く感じる。確かに、絵や書道よりも学業において大切なことは山ほどある。そちらを優先して欲しいという親の気持ちも自分自身の中に存在していることは確か。ただ、そちらの切磋琢磨や知識の習得で会得できること、体得できることは以外に少ない。その道を進めば学校の先生レベルならなれるでしょうが、真の教育者になるにはもっと別のベクトルがあるように思います。かなり大雑把な考察ですが、どうも、「自由に大胆に」という表現が好きになれない。絵を描くことは自由でいいのか?書道を知るということは自由だけでいいのか?たぶん、そんなことをひざを突き合わせてface to faceで問えば、「いやいや、それはモノゴトのアウトライであって、もっと深く芸術や書に関わるためには個人レベルでの研鑽や試行錯誤が~」などと雄弁な言葉が用意されているだろう。実際、小学校・中学校・高校で学校の先生は勿論のこと、他の生徒で自分より絵が美味いと感じた人間はいなかったから、そんな考えにたどり着いてしまうのかもしれない。大学に入って驚愕だった。こんな凄い連中がこんなにたくさんいるのかと。感激と感動の連続だった。それでこそ大学ではないだろうか。最近では優良な企業も減ったのか、大学の企業予備校化は衰退していっていると思うが、それでも、塾を介してランクの上を目指そうとする慣習が世の中のほとんどを支配しているように思う。そうではないでしょうと思うのです。
 かなり、具象と抽象のお話からそれたのですが、勉強ひとつをとっても何か物事の考えるアプローチや仕組みを知識とノウハウで紐解くという作業なわけですから、そこに具象的なアプローチと抽象的なアプローチが存在すると思います。何も絵だけの話ではない。であれば、問題を理解する正確な視線と頭脳を鍛えずして、それを消化し正しい答をアウトプットできるわけがない。しかし、答はひとつの問題につき常にひとつではないのが世の中の常。ならば、一番肝心な能力はモノゴトを「見る能力」が最初のアプローチで一番大切な能力なはず。それを、最初から「自由に大胆に」では困る。「自由」や「大胆」とは表現上の手法であり、器が空の状態で「自由に大胆に」アウトプットしてもそれは答ではない。ならば、見る力を養い、複製する力を養い、正確にアウトプットする力が会得した段階で、自分の世界観でモノゴトを観察して、その力でアウトプットできるようになった時、はじめて「自由に大胆に」と伝えるべきだ。もしかして、「自由に」も「大胆に」もできなったコンプレックスからこの手法を導き出したのなら、それは全くの本末転倒である。
 「いやいや本末転倒も試行錯誤ですよ」と思いたいが、暖かく見守りたいが、はたして、教育の現場にそれほどタフな方がいるとは思いにくい。「自由に大胆に」なれなったコンプレックスが新しい価値観を創出するとは思いにくい。そんな方法論の歴史など、壮大な絵画や書の歴史の前では微塵に等しいからである。

PVJapan2008in東京ビックサイト

 「太陽光発電の川上から川下までを広範囲に網羅 環境問題への取り組みが進展する一方で、資源価格高騰を伴うエネルギー問題も深刻化している。そんな中で注目を集めているのが太陽光発電だ。日本初の太陽光発電総合イベント「PVJapan2008」が、東京・有明の東京ビックサイトで開催される。同業界の最新情報をつかむ好機だ。」ということで太陽光発電のボトムアップを狙ってのイベントなのでしょうね。オフィシャルサイトはこちらのようです。と、それを知ったのは昨日の日経新聞なのですが、その広告は日清紡という企業の広告ででした。あまり地球環境をテーマにした世界や日本の取り組みに対して肯定的ではないような印象がある養老猛司さんがその広告に登場しておられたからである。養老さんの書籍はほとんど読んでいるつもりですが、昆虫のお話や脳のお話は勿論のこと、他のいろいろな分野の方との対談はとても刺激的です。そして、環境問題についても数冊出しておられるのですが、そこで、現在日本の国レベルで取り組んでいる諸々にあまり肯定的なコメントを投げておられなかったような記憶があったので、この広告を見て、ああ、養老さんは太陽光発電にはもしかして肯定的なのか・・・と思ってしまいました。この日清紡の広告の担当者かこの企業の広告代理店のデレクターか、それは、誰かが養老さんをチョイスしたのでしょうけれど、う~ん、凄い起用だなぁ~と思ってしまいました。
 いつでも困った時、人間はやはり「太陽だのみ」なんですね。いろいろな意味で。

なぜデザインなのか。

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 そのタイトルが全てを語っているように思えた。そして、手にとりインデックスに目を落とす。そして数秒で購入決定。本との出合いは人との出逢いにとても似ている。つまり、相手は書籍なのに文字の裏に著者の声が聞こえ、こちらも何か声に出して語りたくなってしまう。間違いなくいい書籍だろう。読む前にそれが分かるとは言葉にするとなんとなく傲慢な言い草のようですが、この書籍はそう表現してもおつりがくる内容だろう。

ハプニングハプニング。

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 2008オリジナルカレンダーの7月の原画は映画「レディー・イン・ザ・ウォーター」のワンシーンです。不思議なお話でしたが、シャマランのテイストが随所にちりばめられながら、原作の切り口もグゥ~でしたし、テーマや設定もとても良かった良かったということで印象的な映画作品でした。で、現在公開中の「ハプニング」も「人類は滅びたいのか・・・」みたいな結構大きなテーマに取り組んでおられます。たぶん、日本国内での興行成績は低いでしょうね。

Andrew Wyeth

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 こちらがWEBサイトに公開されているワイエスの代表作品です。最初にワイエスの作品に出会ったのは東京の古本屋で画集を見つけた時だったように記憶していますが、それから、ワイエスの作品にはずっと心を奪われています。20代に見た作品の印象と30代と40代の印象が違う。あまり絵画を観賞するときに「何故?」とか「どうして?」などという印象が浮かぶ時、極力抑えながら感じよう感じようとするのですが、ワイエスの作品については、画集を見ている時は常に「なんでこれだけ心が動くのだろう」と考えてしまいます。考えさせる何かがあるからなのでしょう。ワイエスとヴィルヘルム・ハンマースホイの比較もまたオツなモノです・・・。

Vilhelm_Hammershoi

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 ヴィルヘルム・ハンマースホイという画家の絵が最近気になっています。あれ?ワイエスかな?と思って目に止まった絵だったのでですが、その記事を読むと、彼もワイエスに影響を受けたとか与えたとかというお話があり、あ~あ、なるほどなるほど、同じ思想が感じられた訳だとなんとなくですが、納得してしまいました。これが絵画である。どうですかすごいでしょ!この絵の作者はこれこれあれあれで、彼が幼少の時代の背景がこれこれあれあれで、オークションではこれぐらいの価値があり、すでに世界のコレクターが・・・のような蛇足は必要がない絵である。観ればわかるじゅん!この絵が何故素晴らしいかなんて理由を頭の中に並べる前にとにかく見ることです。とことんまで観るということに集中したら頭の中に自然と浮かんできたことがこの絵と貴方を結びつける一番大切な理由なんですから。新聞のカラーページでこのヴィルヘルム・ハンマースホイの絵を観た以上、どこかで画集を入手して、いつか近いうちにモノホンを観る必要がありそうな画家です。モニターの絵を観て観たつもりでいるなら大きなミステイク。ヴィルヘルム・ハンマースホイについてのかくかくしかじかをブラウザで読んで納得しているならそれも大きなミステイク。絵に画家に一番近づける場所はそれが展示されている美術館なのですから。しかし、それ以上その画家に近づける術はないわけですから、絵とはなんと優れたメディアなんだろうと思うわけです。だから、新聞もインターネットも入口に過ぎないことを忘れてはいけませんいけません。

クラプトン&ジミヘン。

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 F0号/OIL PAINTING/2008.02.09 ある方にキャンバスをお預かりし描き、そして、進呈しました。さて、この絵はどこで観ることができるでしょう?

描画力のお話。

 最近、嬉しいことに描画力のお話をできる方と出会った。その方はまだ若い方なのですが、自分の作品についてどこまでも高みを目指して模索しておられる。ビジネスはビジネスとして自分の描画力について試行錯誤しておられる。その熱意がひしひしと伝わってきて、仕事のことはそこそこに絵のお話で盛り上がらせてもらっている。テンションが上がっているのは自分だけかもしれませんが、楽しい。特にデジタル時代の到来でソフトウエアの活用方法ばかりにフォーカスしている人が多すぎる。デザインもしかりでソフトウエアの機能が自分のデザイン力だと勘違いしている方には、それなりに対応していますが、テンションが下がる。それはソフトウエアの機能であり、その機能をチョイスする感覚的な部分が非常に大切なのにまずその「機能ありき」で、その疑問なら適当に本を読めばいい。また、WEBデザインについても本質は他のサイトと差別化し独自の情報を視覚化することで、自社のビジネスの方針やディテールを試行錯誤しながらパブリックにリレーションしなければいけないのに、まず、エンジン対策、ブログの運営、メルマガの企画とステレオタイプな方はやはり、絵に対する描画力へのこだわりと同じベクトルで視点がずれている。ずれていてもいいのですが、ずれ方に独自性やアイディンティティがあればそれはそれでOKなんですが、ただずれている人は次のステップが存在しない。
 で、描画力のお話。まず、立体感を2次元で表現するという基本的なアプローチについて、絵を本格的に始めたいという方によくこう申し上げている。絵を描くということは大切なポイントが3つありますと。
 1つめは、頭の中でどんな絵を描けるかという能力ですと。頭の中の絵とは記憶であったり、インスピレーションであったり、リアルタイムな視覚的情報です。これらを組み合わせて、絵的にロジックにどのような絵という作品に仕上げたいかを構想する力です。これが貧弱な方は結局頭の中のバリエーションが非常に少ないし浅いと思う。
 2つめは、絵は大抵手で描くのだから、画材や画具の知識と手の技術力が大切ですと申し上げている。マウスで描く絵は私は絵だとは思っていない。それは絵らしきモノですが、正確にはというか個人的に何も感じないし、手で描いた軌跡には手の痕跡が確実に残っている。マウスでそれを残せる方は別格として、ベクトルデータはDTPの枠を超えない。
 そして、3つ目は見る力です。SeeではなくLookでもWatchでもありません。Analysisです。この意識が欠如している方は画材に使われているだけ。結果的に画面に絵の具が塗れていれば絵というわけではない。以上、3つの能力がバランスよく時に観念的に時代背景的に哲学的に独自なバランスレーダーチャートになっていれば間違いなくその方は本物です。
 彼は間違いなくその3つのポイントを理解しておられる。ご本人はまだまだだとおっしゃっておられましたが、間違いなく彼は本物ですね。いずれ、この中でも情報紙S.O.S.でもその方とコラボしていきたいと思ってしまう方なのです。

2008年カレンダー完成です。

 2008年のカレンダーが完成しました。これは印刷版ですが、最終的にはCDケースサイズの卓上カレンダー仕上がりです。今年はペーパースタンドも用意しましたので、ご希望の方はメールください。毎年楽しみにしていただいてる方にお送りしているために非常に数に限りがございますので、お早めに。例年は白い上質紙や特殊用紙に印刷していたのですが、今年はクラフト用紙にしました。無印な感じにしたかったのと、この原画が鉛筆画なので、強めに製版して印刷時のオペーレーションもかなり強くシャープに上げました。ほんとに印刷物って奥が深く、同じ紙で同じ仕様で印刷しても同じものは仕上がりません。大学の際に版画作品を創っていたことと印刷のお仕事という点が妙な共通点があり、最後の最後で作品を仕上げるという感覚と印刷物を仕上げるという管理は同じベクトルだと思います。
 話がそれましたが、今、表紙を作成しているので、これが仕上がれば全13枚モノで発送可能となります。年末に向けて発送準備をしていこうかなと思っております。まぁ、年が明けても作品としてお配りしているケースもありますので、いつでも欲しい方はメールご連絡ください。

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2008年カレンダー

 結局、いろいろ試行錯誤したのですが、2008年卓上カレンダーは2007年のパターンで、好きな映画のワンシーンを鉛筆画で12カット描くことにしました。たまには手描きをやめて3DCGにしようかいな、やはりデザインチック!?なモノにしようかいない、ああ、そう言えば写真を使ったカレンダーを作っていないので、これまでいろいろ撮影してプールしている写真を12枚ピックアップしようかいな・・・などと9月くらいからそれぞれ素材を集め始めたりはしていたのですが、どれもこれも、自分が作りたいモノじゃないような気がしまして、結局、今年(2007年)に引き続き「映画の好きなワンシーン+一言」というパターンに決定しました。
 さて、今から映画をセレクトしてもう一度、DVDを確認してという作業です。今年のパターンとはちょっとタッチは変えようかなと思っておりますが、あまり、作為的に描くと寒い結果になりやすいので、そこは気楽に12カットをチョイスしようかなと思っております。12月中頃あたりには完成予定です。また、原画が完成したらブログでも紹介していく予定です。さてさて、まず、どの映画だろうか・・・、やっぱり「FIGHT CLUB」かな。

絵になる方-part2

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 絵になる方は何をしても絵になる。羨ましい。写真を撮っても何かを作成されてもお話をされても絵になるんですよね。技術とか経歴とか理屈ではない、とにかく絵になる。容姿がどうのとか、地位や名声がどうのとか、学歴がどうのとか資産がどうのとか関係ない、とにかく絵になる。勿論、プロもアマチュアもない。という事で絵になる方-part2はphotographerのK.M.さんでした。これからも不思議な存在の「カントリーエレベーター」を撮り続けてください。

世代のお話。

 確かに、そういう感じはありますよねぇ~。20代の頃は無我夢中、30代でちょっと責任感が生まれ、40代となると責任感の次にもっと大切なモノがあるはずだ!なんて思考回路が暴走・迷走・疾走し始めますよねぇ~。私も同感です。仕事を通じて、人生のいろいろな場面で、いろいろな方と出会うわけですが、縁のある人ない人が走馬灯。で、フレンドシップやパートナーシップを築けた皆様との間に何が存在するかと言うと、価値観が共有できている場合が多いように思います。価値とひところで言いましてもありとあらゆる価値が存在し情報が飽和していると言われている現代において、この価値観という存在もかなり複雑怪奇。共有していると言ってもこれは主観であり、客観的に「ないない」という事も多々あります。でも、世代間の価値観はおぼろげながら「こうじゃないの?ああじゃないの?」というレベルで少しは見えているように思いますね。この部屋の主(あるじ)様もコーヒーカップを持ちながらうなずいておられました。おいおいJR!関西に行くたびに「ふみきり事故」「人身事故」ばっかやん!もっとふみきり付近の監視を徹底してよ。あんな事が発生したら普通の業務も大変でしょうに。おかげでゆっくりお話ができませんでしたよ。全く!でも、楽しい真夜中のドライブになりそうですから、その「次にある大切なモノ」について語り合いましょう!って主(あるじ)様は誰なんだ???
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生物と無生物のあいだ!?

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 講談社現代新書様から出ている書籍です。著者は福岡伸一という現在青山学院大学の教授さんである。仕事や趣味の書籍を探すために書店に行く以外にもよく書店に行きます。目的はいろいろで表紙のデザインを眺めに行ったり、現在売れているトレンドのテーマをリサーチに行ったり、ライフワークの作品づくりを構想している際にヒントになるキーワードやテーマを探しに行ったりします。非常にフラットな状態で書棚をウロウロしていると、無作為な中にもその時の気分やその時のモチベーションで「読んでみたいなぁ~」という書籍や雑誌が見えてきます。そんなある意味衝動で手にしたのがこの書籍です。著者のプロフィールを読み、インデックスを読み、価格をチェックしてから買っています。自分がひいきにしているカテゴリーとは異なる書籍に反応した時は、自分の中で何故この書籍に興味がわいたのかなどなど自分の中で確認する思考もまた楽しい。
 で、現在半分ほど読みましたが、完全にアタリでした。有名人やトレンドな作家の話はそれなりに面白いのですが、読み終えた後、ほっとんど何も残らない。そんな時はハズレだったと素直にあきらめる。でも、この「衝動直感買い」は意外とアタリの確立が高い。そんなことでご満悦になっている場合ではないのですが、ちょっとだけ気分はいい。一日の中でそんなに時間に余裕があるわではありませんので、何時間も書籍に接している時間はなく、やはり、気分的にアタリを引きたいので、かなり衝動とは言えかなり吟味します。こんなアタリ書籍との出会いは人との出会いによく似ていて、書籍を読みながら著者と会話しているような気分になります。そんな衝動が抑えきれず著者に直接連絡をすることもしばしばあるのですが、ひさびさにこの著者にお会いしたいと思えた一冊でした。
 以前に著者がマンハッタンの大学に通っている頃、訪れる観光客を眺めながら、今、自分がこの街に属していると思えた瞬間があり、とても胸が高鳴ったらしい。同じような感覚が私の心の中でも蘇った。N.Y.に英語留学をしていた時、大学の寮からひとりで電車に乗り週末にはマンハッタンを回遊していた。さすがに暗くなる頃には寮に帰っていたのですが、いろいろな場所で出会う人に普通に会話してその人の中身に触れたと思えた瞬間はただそれだけで胸が高鳴った。
 この書籍の中で福岡さんは生物を自らの研究分野から考察しておられます。その視点と言うか心の所在がなんともクールで魅力的でした。ああ、こんな視点で世の中を見れたら素敵だなぁ~と思わず無理矢理な親近感を覚えてしまいました。この著者に会いてぇ~!

気になる2冊。

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 最近購入した書籍の中でGOODな2冊です。右の写真は草思社から出ている「みんなで考えよう世界を見る目が変わる50の事実」(著者:ジェシカ・ウィリアムズ/訳者:酒井泰介/¥1,400+税)です。最近テレビの中でこの話題が取り上げられていて書店で発見して購入しました。テレビで特に気になったのが「世界の5人に一人は1日1ドル以下で暮らしている」という事実。テレビ番組で1ヶ月¥10,000生活とかってやってますが、この事実から換算すると5人に一人は約¥3,000以下で暮らしていることになる。これは衝撃でした。気楽にのどが渇いたからと言って缶ジュースを飲んでいますが、これが一日の生活費の人が20%もいるんだ。かなり頭をガツンとやられた。毎日の金銭感覚をさらに吟味しようと思った。
 左の写真は日経BP社から出ている「IQってホントは何なんだ?~知能をめぐる神話と真実~」(著者:村上宣寛/富山大学教育学部教授/¥1,500+税)です。中学校の頃から「IQ」に興味があり、大阪芸大でも絵の勉強をしながらも、「心理学」や「天文学」や「宗教学」などに興味の頭が膨らみ、手が届く範囲でいろいろな書籍を読みその道の方と機会を作りお会いしてお話をさせていただいたりした。アートやデザインの仕事に携わりながらなぜそれ以外の事が気になってしまうのか・・・。この答はまだ自分の中に明確に出てはいませんが、気になる以上、触手を伸ばし消化しようと口にほりこんでいます。なかなか消化するには難解で高尚なテーマですが、胃液が続く限り消化していきたいと考えております。で、この書籍を地元長浜の書店で探したのですが、大きな書店でも在庫なし。結局、ネットショップ(紀伊国屋さん)で購入しました。「知能に対する正しい理解を促す書籍が極端に少ない」という言葉ではじまるこの書籍にかなり期待している。

人気作家さんの苦悩。

 お盆休みは何かと忙しくて季の雲さんでの「市川孝さん」の個展に顔を出せませんでした。本日夕方にギャラリーさんにお邪魔すると、あれれれれ・・・、市川さんの作品が数えるぐらいしか残っていませんでした。実は個展の前日(10日)にチェックに行っていたのですが、その時はところ狭しと展示される準備の器が搬入された箱にいっぱい詰まっていたのに。オーナーさんに聞けば、初日と二日目でほとんど完売状態だったらしく、今の段階では全体の10%も残っていないとのこと。すっげ!人気作家さんの個展とはこのような展開なのかい!!!ほんとに季の雲さんの展示会はこのパターンが非常に多く、人気作家さんの器を狙っている人々のエネルギーに圧倒される。九州からも東京からも各地から市川孝さんの器を求めてお客様が訪れるらしい。こんなエネルギーは自分の中にはないよなぁ~とまたまた舌を巻いているおっさんひとり。しかし、人気作家さんのご苦労は売れなければ売れないご苦労があるのですが、売れたら売れたで様々なご苦労がおありだとのこと。私には想像できない実感できないその「嬉しいプラスの苦労」が実はとても羨ましいと思いました。どうやらいつもいつも「悲しいマイナスの苦労」をこの歳まで繰り返しているとそんな苦労が世の中にあるのかというほど「苦労観」が麻痺している自分に気がつきますね。しかし、お客様の喜ぶ顔を頭に描きながら魂を注ぎ込む作家さんの活動はたぶん絶対このプラスのループがあるから成立しているのでしょう。誰からも与えてもらうことのできないこのプラスのエネルギーを作品を通じて作家さんは獲得される。そして、それが、人の心に響きその共鳴が自分の心に響きまた作品が生まれる。これでこそモノヅクリの在り方だと思いました。
 さてさて、私はそこで何をしているのだろう。皮算用やセオリーばかり追いかけて本質を追求していますか?マイナスとかプラスとかって頭で考えて机の上で考えて「お前は電池か!」って感じです。仕事柄でもないのですが、たくさんの舌だけ鍛えて肝心の手や目や頭は大丈夫かい、おい!大丈夫なのかい!って「お前はキンニクンかぁ!」。悩んで大きくなれる男になりたいとつくづく思う残暑厳しい今日この頃なのでした。

アナロググッズの魅力。

 最近、妙にアナログなギアが気になります。例えば、どこにでもある「水平水準器」。透明のアクリルの中に黄色の蛍光色の液体が入って気泡が入っている。これは写真や映像を撮影する際にカメラにあてて水平を確認するために購入したのですが、何気に机に置いてどれぐらい傾いているか、ぼぉ~と見ていたりしてしまう今日この頃。もうひとつはこれも撮影の際、特に映像撮影の際、そう撮影の機会に恵まれない季節的な要素や場所などビデオカメラで気軽に撮影してしまって、編集している時にあれこの文字やばい!とかああっ!こんなのが映っている!ってことで、ソフトで削除したりして大変な事になる。それをできる限り回避するために、この「単眼鏡」である程度気になる遠方をしっかりと確認してから、ビデオカメラを回すという現場の方のTipsなのである。あと、気になっているのが「方位磁石」です。
 で、どう気になるかという部分ですが、PCでDTPする前は水平とか垂直を感覚で管理していたのが、PCではその必要がなくなり、画面に対しての水平垂直はソフトが担っている。画面の確認も大きく拡大して確認できる。という状況に安心していると、実は、人間の感覚の中の水平と垂直が鈍くなるように思え、遠くのモノも画面で確認できるから肉眼でそれを見るという刺激にごぶさただった。方位もしかりで、なんとかナビで南はすぐに認識可能である。これはこれでいいのですが、最近、この手のグッズがどうしても気になるのは、人間の感覚の中の本来あった機能が便利なデジタル機器で代用され、その質感みたいな感覚が鈍っていたように思えた。水準器の気泡を眺めているだけで、意外といろんなことを考えてしまった。「あ~この感覚はPCの中ではないなぁ~」と。
 例えば、ゴルフ。練習場でナイスショットを繰り返しても、ゴルフ場ではミスショットの連続。何が条件として異なるか。古いゴルフの本で読んだ記憶ですが、ゴルフのスイングは人間の水平・垂直の感覚を試す競技でもあるらしい。結果、イメージしているショットにつなげるためには、運動のリズムと今ショットしようとしてるライの状況とイメージラインを感覚的に判断できなければ、ロジックな感覚に制御されてしまい負のイメージに支配されるそうです。いわゆるモードに入る入り口とは感覚的な部分がとても重要だと。そうか、オリコミチラシにもゆるいミスショットなデザインをよく見かけるが、これは、PCの中だけでデザインされているからなのか・・・とドキリとした。自分も負のサイクルに支配されぬよう、感覚を常に磨き続けねばと思うわけです。

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銅版画の魅力01

 大阪のギャラリーのオーナー様から兵庫県の銅版画の工房のお話をお聞きした。そちらでは年会費をお支払いしたら自由に銅版画の設備を使用し作品づくりができるとのこと。ずっと、仕事でデジタル表現を追及してきたのですが、ここ最近(2~3年)、画材のオンラインショップを開設してから従来のアナログな画材を使用した作品を創りたいという気持ちが大きくなりました。以前はデザインの仕事もアナログでしたから、それがデジタルに移行した段階で選択の余地もなく、逆にデジタル表現を身につけなければ仕事にならない現実があったのでその方面で右往左往してきた。とてもデジタル表現を突き詰めたというレベルではないのですが、そこそこなデジタルギアは仕事に活用できていると思っているのですが、こればかりはゴールが見えないので、この歳(43歳)になると少しあきてきたりもする。仕事なので完全に放棄することもできないですし、デジタルはデジタルで魅力を感じているので、可能な限りこれまでと同じ体温で追求するつもりなのですが、一方でアナログの作品を創りたくなったのも実感としてあります。それも、情報紙S.O.S.を通じていろいろな、ほんとにいろいろなアーティスト・クリエイターの方たちと交流・情報交換をしていると、アナログの魅力に振れる度に自分でも・・・という気持ちになりました。とりあえず、銅版画は大学の時に2年間みっちりがっつりと取組んだ手法なので、昔の感を思い出しながら、あれから20年が経過して、自分自身がどんな作品を創るのだろうかという期待も膨らんでいます。あの繊細な線画の表現に取り付かれて、朝から晩まで硝酸とシンナーの匂いが充満する実習室でカリカリ描画していた時を思い出し、何か銅版画の作品を創りたいと思っています。また、新作が完成したらこのブログの中でも紹介させて頂きますし、兵庫の工房さんのご案内もさせていただきたいと考えております。

楓GALLERYさん

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 情報紙S.O.S.でお世話になっている映像作家でアートアニメーション作家のウエマリインさん。マリインさんから情報を頂き、7月15日大阪の谷町6丁目の「楓ギャラリー」様にお邪魔し、5名の若手アーティストの皆様の作品を拝見させていただいた。そして、オーナー様と楽しい芸術のお話をさせて頂いた。非常に心地のいい佇まいの空間で、若さあふれる挑戦的で感覚的な映像を見ながら心の不健康なうろこが一枚一枚剥がれる感覚と共に活性化する自分自身の中身が大きな手でかき混ぜられる心地。なんどその空間で作品を観ながら、作家の方とお話をしながら「心地」というキーワードが心を横切ったことだろう。それほどこのひとときは有益とも無益とも言う次元を超越して心奪われたひとときでした。う~ん、どんなに自分のスタイルの中で最初から最後まで完結させる満足が心地いいと思い込んで、わき目もふれず猛進することの視界の狭さを、このような時間と相対すると痛感してしまう。人は淀むと危険ですよね。淀みが不純物を引き寄せ気がつけばそれに手足が生えてうごめきはじめる。そのまま放置しているとそれらが意思を持ち本体に意見を申す。淀んだ国の淀んだ人々にならぬよう、水は常に自分で入れ替えたいものです。深い水脈に根をはる大樹のように。

楓ギャラリー様Webサイトhttp://www7a.biglobe.ne.jp/~kaede-g/

鉛筆と水彩にて

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 情報紙S.O.S.第22号の表紙用に描いたドローイング。モデルは参加メンバーでもあるアニメーション作家さんである。絵を描く事について特に好きな画材で得意な画法というわけでもないのですが、鉛筆と水彩の合わせ技は好きな手法なのでよく描きます。こだわるのは用紙でワトソンが一番相性がいい。鉛筆の微妙なタッチや陰影が表現できる上に水彩絵の具との相性もいい。できれば水を含んだ時に反らないボードがいいのですが、それはそれで逆に変な気合が入ってしまうので、BOOK形態の方がリラックスできるのでベターなのです。鉛筆デッサンは芸大に入ってそれなりに取り組みましたが、デッサンは訓練でありモノの見方のトレーニングでもあり手のトレーニングでもあるので、鉛筆画とはちょっと違う気持ちで描く。結果的にいずれも鉛筆画なので、描き手の心意気ひとつなのですが。ペンや筆となるともっといろいろな画材がありますし画法もあるのでどれがどんな特徴でどんな効果があるなんてことはとてもとても、語りつくせない。ただ、同じ絵でもPCのソフトウエアで描く絵にはよほどのモノでないと心は動かない。自分が使いこなせていないだけなので、しっくりこないだけなのでしょうけれど、PCで描いた絵は好きになれません。結局的に擬似体験に見えるし、心がそれを感じた時に絵としてその作品を見ることができないからです。それを感じさせない絵なら話は別ですが、ただ、ひとりを除いて今までそんな絵に出会ったことはない。その方のお話はいずれ・・・。

どっちなのでしょう?

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 こちらは2007年卓上カレンダー用に作成したイラストなんですが、今年のテーマは「Think or Image.」でした。考えるということ、想像するということの違いについて思うところがありまして、このようなテーマを設定しました。思考力と想像力の違いとでも言いましょうか。人と人のコミュニケーションという視点で最近はいろいろなギアが発達していつでもどこでも誰とでも!?ぐらいに情報を発信し受信することが簡単になりましたが、でも、人と人とのコミュニケーションの構造や軸が根本的に発達したり進化したりしたわけではありませんから、食い違いが発生する時は発生しますし、口コミが真のつながりになる場合もあります。
 不思議だと思うのは、自分自身がどう思って欲しいとかこういう考えだから共感してくださいってどれだけ表現しても伝わらないのに、一枚の名刺を渡すだけで、「ああ、なるほどなるほど!」って事になる。これはどう伝えたいかではなく、どう伝わるかが見えていないと、「伝えたい伝えたい」では絶対に伝わらないと思えてきた。伝わる時は伝わるのだからイライラしても仕方ないと思えてきた。さて、この腹のくくりかたはThink or Image?と、いう感じなのです。ので、「背中の十字架」はそれほど深い意味はありません・・・。

ダイス?

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 中村様(季の雲)のご好意で土を頂きガス窯で焼いていただいた陶芸作品です。CUBEというモチーフがとても気になっているのでいつも仕事場にこんなのがあったらいいなぁ~というイメージで作成しました。四辺が40mmと30mmの2種類を作成し、S.O.S.のメンバー様や知り合いにプレゼントし、残りはこのように自分の仕事場で使っています。仕事の資料や校正紙を押さえるペーパーウエイトであったり、忘れてはいけないメモを目立つところに立てるペーパースタンドであったり。しかし、実は表面に1~6本の傷を入れてありまして実は実はダイスだったりしているのです。ダイスで何をするのか・・・、これは今だに不明。ただ、1~6の数字が毎日仕事場で上になったり横にしたりで、ラッキーナンバーにならないだろう・・・などと、小さい一喜一憂ができたりする。このインスピレーションが以外と頭に効く。そこそこ重さもあるので書籍を立てて飾る時のウエイトにもなります。白い陶器のCUBE。気楽に作ったのでとても歪(いびつ)ではありますが、逆に愛着が湧いてくるから不思議です。まだ数個なら余っています。欲しい方はご連絡ください。